2005年6月30日木曜日

ムーディー・ブルース

 なんと、私にも人並みにボーナスが出たので、ぱあっと使おうと楽器店にいったのでした。まあ、買ったのはギターの弦なんですけどね。ダダリオの、あんまり高くないやつ。

その帰りに、ウッドストックのDVDを買おうとレコード店によったのですが、残念ながらウッドストックは見つからず、代わりに見つけたのがこの『ムーディー・ブルース』DVD。ムーディー・ブルースといえば、私が以前に素晴らしいと絶賛していた『サテンの夜』で知られたバンドです。曲目を見れば、あるよ、Nights In White Satin! こりゃ買わなくっちゃだわと思った。即座に確保しましたね、しましたよ。

私は、何度もいっていますように、遅れてきたロックファンです。その音楽が作られた時代の背景やなんかは、それこそ思い出話や解説に頼るのが関の山で、仕方ありませんよ。生まれる前、物心のつく前のことなんて、いったいどうやって知ればいいってんだ。

ひとつの手は映像でしょう。映像はその作成された時々の雰囲気を非常によく反映して、それは実際『ムーディー・ブルース』もそんな感じであったのでした。

PVが面白いです。なんだか青春懐古調のドラマめいているかと思ったら、やたらと暴力的な映像を使ってみたり(しかもそれがよく聴いていた『クエッション』で驚き!)、けれどそうした作りもまた映像の風合いも、その時代の空気を感じさせてくれるようで、いやもちろん懐かしいなんて思いは私にはないですよ。けれど、そうか、こういう文脈の中に彼らはあったんだというのを、追想するくらいは可能なんですね。

さて、お目当ての『サテンの夜』。これはライブ映像の収録で、フルオーケストラをバックに演奏されるロックの恰好いいことったら! この曲を待っていたのでしょう、喝采をおくる観客をカメラがなめ、弦のトレモロ、ホルンの重奏による神秘的な序奏から白いサテンの夜がはじまります。もう、これだけでも恰好いい。オケを背負ってちっとも負けていないボーカルの力強さは本当に最高で、フルートのソロ、そして再びボーカルに戻って、場は大盛り上がりを見せる! オーケストラによる後奏がドラマティックに曲を閉じ、大観衆の熱狂が演奏者を讚えて — 、屈指の名演です。

2005年6月29日水曜日

ぱにぽに

    こいつは実に一筋縄ではいかない漫画で、まずシニカル、そしてナンセンス。パロディもなんかいたるところにあるし、小ネタはもうそれ以上にあるしで、けどこの漫画の面白さはそういうのとは違うところにあるんだと思います。この漫画の面白さってのは、投げっぱなしの面白さで、やたら個性の強いキャラクターに絡めたネタをドーンと投げて、その後放りっぱなしみたいなそういうところが魅力なんだと思います。

けど、その投げっぱなしの面白さがわかるまでには、ちょっと時間がかかるかも知れません。というのは、登場人物が半端じゃなく多いんですね。公式サイトに人物紹介というのがあるのですが、もうあんなのじゃ全然足りない。というか、ベホイミが違いすぎジャン! きっと更新してないんでしょうね、一巻あたりから……。現在第七巻の時点では、レギュラーキャラだけでもあの三倍以上くらいいます。

その膨大なキャラクターの見分けがついて、それぞれの関係がわかってはじめて面白さがわかってくるのが『ぱにぽに』なんだと、自分の読んできた歴史を振り返ってみて思います。最初は、いったい誰が誰だかわからない、ベッキーと橘玲、片桐姫子あたりはさすがにすぐ覚えましたが、上原都あたりがあいまいで、宮田晶や綿貫響とよくごっちゃにしていました。ほんと今では考えられないような低レベルな話です。

今? もちろんちゃんと区別つきますよ。宮田、綿貫は当然、柏木姉妹だってどんとこいですよ。

この漫画は投げっぱなしだとはいいましたが、投げっぱなしのようでもちゃんと考えて投げてあるみたいなんですね。だから、無意味にギャグやなんかを連発するようなのとは一味も二味も違って、意味不明だったネタが伏線として利いてきたりなんてのはざらにあるし、単発ネタだと思っていたのがシリーズ化されるようなのもあります。定型や類型を利用してその裏をかくというのもうまくて、ほら、よくお約束だなんてよくいったりしますが、そういうのを期待させるようなのりで進んでいたというのに、最後の最後でしっかりはずしてみるとか、むしろ台無しなネタを持ってくるとか、このあたりの翻弄ぶりが気持ちいいんです。これが駄目だというようなまっすぐな人には楽しめない漫画かも知れませんが、読んでいるうちにじわじわと効いてくる中毒性があって、だから私なんかはもう完璧な中毒者といっていいくらいです。

そういえば、身も蓋もないネタというのも多いですね。なんだかんだいったところで、『ぱにぽに』の面白さは、身も蓋もないネタ、言動、落ちにあるんじゃないかと思います。

蛇足:

好きなキャラクターいってみよー。一口にはいえませんが、強いて三人挙げるなら、秋山、芹沢、ベホってとこでしょうか。育ちがよさそうなのに口の悪い女の子っていいですよね! ダメカナ?

  • 氷川へきる『ぱにぽに』第1巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2001年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第2巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2002年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第3巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2002年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第3巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2002年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第4巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2003年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第4巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2003年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第5巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第5巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第6巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第6巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第7巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第7巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 以下続刊
  • 氷川へきる『ぱにぽに — 桃月学園絶対入学マニュアル』(ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 氷川へきる『まろまゆ』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2004年。
  • 以下続刊

今回の記事はにゃんげつ雑記帳との共同企画でお送りいたしました。

2005年6月28日火曜日

最後の制服

 マリア様がみてる』が大ヒットしたのがきっかけで、微温的な少女同士の恋愛風物語は巷にあふれましたが、我らが漫画の殿堂芳文社も遅まきながら参入して、これが実にいい感じ。むやみにでている『マリア様がみてる』は、今から読みはじめるにはあまりに大変そうでありますが(でも実はすごく読みたかったりする、きっとはまりそうな感じ)、『最後の制服』ならまだはじまってすぐだから、気軽に読みはじめてもよさそうな感じです。装幀といい、カバーの紙質といい、いつもの芳文社らしさは薄らいで、実際漫画にしても芳文社らしくない。連載されている芳文社の萌え志向四コマ誌『まんがタイムきらら』系列誌中でも、一種異彩を放っているといってよいと思います。

そもそもですね、私にはこの手の漫画を受け入れる素地がありまして、昔『Lの季節』というゲームがありましたが、その後出版されたアンソロジーコミックに掲載されていた漫画、みとこんどりあ港という人の漫画にそういった要素があったのです。もちろん私は大好きで、弓倉亜希子を自分一人のものにしたいと願う東由利鼓のゆれる感情にくらくらときて、作者はやりすぎてしまったかにゃなんていってますが、私はもっともっとやれーみたいに思っていました。公式設定よりもこっちの方がいいだなんて思ってました。

そんな私ですから、『まんがタイムきららキャラット』に『最後の制服』を見つけたときは狂喜乱舞して、まさかまんがタイム系列誌でこんな漫画が読める日がくるとは思いもしなかったと、くらくらしたのでした。そうして悔やみました。私は一月遅れの読者だったのです。買いはじめるのが遅かったせいで、第一話を見ることができなかった。四コマ誌の常識では、読み逃したらもう二度と読めないのが普通なので、だから私は自分の決断の遅さを呪いました。ええ、呪いましたさ。

けれど、『最後の制服』は人気があって、もしかしたら単行本化されるかもという期待が膨らんだのでした。きらら系列では、本誌系列とは違って単行本化率が高く、そうした要素も期待を後押しして、そしてでましたよ、でましたね。私はこれがでると決まったときに、やったと思った。そうして、ようやく自分にかけた呪いをとくことができたのでありました。

出た、買った、読んだ! そしてその感想はというと、連載で読んでいたときほどにどきどきというかわくわくというかはしなかったです。それは果たして、四コマの世界に突然現れて異質に輝く鮮烈さが失われたからなのか、それともあまりに読み返しすぎてせりふを覚えそうになるくらいまで読み込んでいたせいなのか。けれど、この漫画はちょっと大事に確保されそうな気がします。いや、きっとそうするように思います。

蛇足:

紅子×紡。私の中では、加瀬紡を中心に回っております。

蛇足2:

ベニーのこれ頂戴なのシーンは、最高だと思っとります。

蛇足3:

単行本の効果は、後からじわじわ効いてきますな。

  • 袴田めら『最後の制服』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。

引用

2005年6月27日月曜日

ちょこパフェ

  今日で『ちょこパフェ』が終わり。

全2巻で完結のこの漫画、私はこの漫画が好きでした。より正確にいうと、この漫画を描いているいずみという人の描く絵が好きで、例えばそれは、『ちょこパフェ』のように頭身の比率の小さいものだけでなく、サイトで見ることのできるような絵、 — これが本当に素敵。一枚の絵の中に実によく雰囲気が込められていて、空気の色合いや温度、広がり、そしてにおいまでが届きそうに思うのです。

私がみたはじめての絵は『くろいろ』の表紙イラストであったのですが、これがすごく素敵で、一目で心奪われたのでした。— どこかで見たことのある絵。記憶をたどってみたら、『ちょこパフェ』に出てくる三井あずきというキャラクターに行き当たって(2巻表紙の左側の女の子です)、調べてみたらドンピシャ。ああ、やっぱりいずみさんの絵だったんだ。今まで思ってきた画風とはまた違った印象に驚きながらも、イラストによりそうやわらかさ、暖かさに、それまで以上に好きになっていくことを自覚したのでした。

日常を描いたものから、ファンタジー色の濃いものまでいろいろあって、私が好きなのといっても一口にはいいきれないのですが、例えば日本のバレンタインの風景を切り取ったもの(「近くて、遠くて。」)とかはしっとりとしていて良いなと思ったものでした。けど、私にとってのベストは、『寄り道ドロップ』(「買い食い...」)だったのではないかと思うのです。ほんの日常の一コマを切り取ったような、それもちょっと気の緩んだ瞬間をとらえられたような、そうした雰囲気が本当に素敵です。

残念ながら『ちょこパフェ』は終わってしまいましたが、サンデーGXという雑誌で連載されている『貧乏姉妹物語』の第1巻が今度8月12日に刊行されるとのことで、私はまたその日を楽しみに待つのではないかと思います。私はサンデーGXは購読していないのですが、いつぞやジュンク堂書店に行ったときに見たサンデーGXの表紙が、まさにかずといずみさんの絵で、やっぱりいい絵だなあと思ったのでした(あの日の同行者、私があの人の絵が好きだといったことを覚えていますか?)。

そんなわけで、好きだった漫画が終わってしまったことは悲しいながらも、またきっと好きになれる漫画の発売が控えていることを仕合せに思います。すごく楽しみに思います。

蛇足:

あぶねえ、思わず忘れてしまうところだったぜ。

『ちょこパフェ』で一番好きなのは、断然三井あずきでしたね。ほら、私は黒ベタが好きで、設定シートにもあるようにちょっと地味なところとか最高で、なんかひどい目に遭わされることの多い不遇な役どころでしたが、でもいい子だったんです。

そういや、不遇といえば先生も不遇で、二巻表紙折り返しにようやく!のハッピーエンドがあるかと思ったら……。不憫すぎます……。

  • いずみ『ちょこパフェ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • いずみ『ちょこパフェ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。

引用

  • いずみ『ちょこパフェ』第2巻 (東京:芳文社,2005年),132頁。

2005年6月26日日曜日

カフカ短篇集

  カフカといえば『変身』がとりわけ有名で、ある朝、不安な夢から目を覚ましたら虫に変わってしまっていたザムザが主人公の小説です。こんなふうにカフカの小説は、理屈とか論理性をまったく無視したかのような突拍子のなさに満ちあふれていて、それはさながら悪夢にうなされているときの焦りがそのままかたちになったようです。

今自分の置かれた悪い状況を抜け出したいとあがくのに、足取りはのろのろとおぼつかず、状況は好転するどころか悪くなる一方。圧迫された重々しい気持ちに打ちひしがれるような夢。カフカの小説には、こうした陰鬱とした空気が漂っています。

カフカに悪夢の典型を見る私にとって、最もカフカらしさを感じるのは『田舎医者』で、あの、すべて世界が自分の敵に回ったかのような圧迫感はひたすらすごいものがあります。自分の意思に逆らうように起こる出来事の数々。目の前で起こっている事態は決して解決することがなく、自分のなしたいと思うこと、ゆきたいと願う場所からは、どんどん遠ざかっていく。絶望的な状況に置かれた医者の心のうちを思うと、まるで自分がそうした逆境にたたされたかのように胸苦しくなります。

カフカの面白さというのは、この胸苦しさをいかに味わうかというところに生ずるのではないかと思っています。例えば他にも『断食芸人』とか『流刑地』。これら作品に限るわけでもないのですが、なぜ今現状がこのようになっているのかがわからない状況下で、なぜ事態がそういう方向に向かうのかがわからないままに流され、なぜそうするのかわからないことをさせられるといった、曰く不可解に翻弄されるのがカフカの小説であるのです。

曰く不可解、藤村操によればそれは万有の真相に他ならず、すなわち私たちを取り巻くこの世界について、私たちがいうことのできるすべてでしょう。ならば、不可解に始まり、不可解の中を進み、不可解に終止するカフカとは、世界そのものを描いた作家であるといってよいのではないかと思います。

  • カフカ,フランツ『カフカ短篇集』池内紀訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1987年。
  • カフカ,フランツ『カフカ寓話集』池内紀訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1998年。
  • カフカ,フランツ『失踪者』池内紀訳 (カフカ小説全集;第1巻) 東京:白水社,2000年。
  • カフカ,フランツ『審判』池内紀訳 (カフカ小説全集;第2巻) 東京:白水社,2001年。
  • カフカ,フランツ『』池内紀訳 (カフカ小説全集;第3巻) 東京:白水社,2001年。
  • カフカ,フランツ『変身ほか』池内紀訳 (カフカ小説全集;第4巻) 東京:白水社,2001年。
  • カフカ,フランツ『万里の長城ほか』池内紀訳 (カフカ小説全集;第5巻) 東京:白水社,2001年。
  • カフカ,フランツ『掟の問題ほか』池内紀訳 (カフカ小説全集;第6巻) 東京:白水社,2002年。

2005年6月25日土曜日

悲劇の誕生

  音楽美学なんてのをやっていると、アポロ的とかディオニュソス的とかいう言葉が結構出てきます。この用語というのはニーチェが『悲劇の誕生』の中で用いたものなのですが、あまりに便利で使いやすいものだから、もう本当にいろんなところに出てきます。といっても、さすがに使われすぎたからか、それとも単にはやりが過ぎたからか、この頃はあんまり目にすることもないように思います。ちょっと前の流行といった感じでしょうか。でも便利だから、ついつい使ってしまうという人も多いようです。

アポロ的とディオニソス的というのはどういうものかというと、アポロ的は調和とか秩序を重んじる態度、対してディオニソス的というのは激情とか衝動に突き動かされる陶酔的態度。こんな具合に、ふたつの言葉は対をなしています。

この用語はどういうときに便利かというと、例えば、形式を重視した古典派の音楽はアポロ的であるとか、じゃあバロックやロマン派はディオニュソス的だとか、そういう様式の説明を楽にできるんですよ。あるいは批評の際にも、見通しのよいアポロ的演奏だとか、ディオニュソス的なんたらに身を任せてうんぬんだとか、とにかく便利に使いやすい言葉です。

アポロ的・ディオニュソス的に似たような言葉は他にもあります。古典的にはコスモス・カオス、フロイトなんかだとエロス・タナトスというような用語を使います。最近じゃホメオスタシス・トランジスタシスのほうが通じるんでしょうか。これらの用語は、本当は違うんですが、だいたいおんなじことをいっていると思っていいんじゃないかと思います。特に、一般に使われる範疇においては、違いはないと考えて間違いないでしょう。そもそもトランジスタシスなんて言葉はないわけですし(ホメオスタシスというのは恒常性と訳される生理学の用語です)。

閑話休題。こうした言葉はあんまりに便利だから、誰もが使いたがって、もちろん私も散々使いまして、けれど最近ではあんまり使いすぎるのもどうだろうと思い、自制するようになりました。だって、あんまりに物事の傾向を決めつけすぎてしまうというのもなんですから。

そもそも人間にせよなんにせよは、こうした両極端を丸抱えしているもんでありますし、そこをディオニュソス的とかアポロ的とかと決めてしまうと、次が進みにくくなります。けど、やっぱり人間は物事を弁別したいもんですから、こうした用語があると便利なんですね。特に、こういう対をなす言葉を使うと、あたかももう一方の傾向についても検討したように見えてしまう! そんなこんなで、便利に負けてしまう。悪い傾向です。

ついでにいえば、今私がいっているみたいな、物事は相反する傾向 — 矛盾を抱えているどうこうという話にしても、みんな使いたがる便利な説明でありまして、こいつの亜流も散々あちこちで見ることができます。なんか嫌だなあと思いながらも、便利だから使ってしまう。悪い傾向 — ま、つまるところは何事もほどほどが肝心ってことなんでしょう。

『悲劇の誕生』を読んでみると、あんまり簡単にアポロ的だディオニュソス的だと区別するのはどうだろうというのがわかってくるのではないかと思います。けど、この本はどうにも熱病に浮かされたような妙な高揚があって、私は何度読んでも途中でいやんなって投げてしまいます。だからなおさら、私はアポロ的・ディオニュソス的という用語は簡単に使わんほうがいいと、自分に言い聞かせています。

  • ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1966年。
  • ニーチェ『悲劇の誕生』西尾幹二訳 (中公クラシックス) 東京:中央公論新社,2004年。

2005年6月24日金曜日

私の岩波物語

 私にとって山本夏彦は特別です。雑誌『室内』を出している工作社の社長でありながら、自らもコラムをはじめ文章をよくした人で、その生き生きと紡がれる独特の筆致、他に類を見ることなしという形容がピタリとはまります。自身をダメの人とうそぶいて、世間社会から一歩引いたかのような醒めた視線が魅力でした。私は山本夏彦翁を人生の師のように思っています。

その夏彦翁が、出版広告といったメディアについての持論を広く展開して見せたのが『私の岩波物語』で、私はこの本を読んで、戦前戦中戦後の日本と、言葉言論出版についてのいろいろを知ることができました。いや、ただ知っただけではありません。山本夏彦の視点を通し、あたかも立ち会ったかのように観察して、私は自分のものを知らないことを知りました。本好きといいながら、その本についてなにも知っていないことを知ったのでした。

本のタイトルに岩波とあることからわかるように、岩波書店についての記述が冒頭を飾ります。しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、学生時分に読んでずいぶんためになった岩波文庫への恩うんぬんみたいな賛辞を期待してはいけません。そんなものは一語たりともないのですから。あるのは、日本語のリズムを破壊し、日本語の日本語らしさを壊滅させた、岩波の難渋文についての批判です。それこそ、凡百の岩波賛辞を真っ向から否定して岩波の罪を断じていくさまは、岩波の権威に憧れていた少年青年時代の私からすれば一種の価値崩壊であり、しかし私はこの価値崩壊を諸手を挙げて歓迎した。なぜか? 簡単な話です。権威に憧れながらも疑問に感じていた岩波の理解しがたい文章。真っ当な日本人にはよもや理解可能とは思われない、言葉の体を成さない難渋文 — ほとんど寝言 — に悩まされたことのある人なら、夏彦翁の批判は納得いくものであるはずです。

だってさ、翻訳よりも解説の方がわかりにくいようなもあるんですよ。日本人が日本人のために日本語で書いたはずの解説だというのに、ほとんど寝言で支離滅裂一歩手前なのです。しかも、それは戦中戦後なんてもんじゃなく、つい数年前に出たような話で、私は我慢して解説も読んだのですが、はっきりいってあきれました。我々はもうすっかり反省して、わかりにくい日本語をありがたがるような風潮はやめにしようと確認し合ったのではなかったのか。通常の日本人には理解不能といわれたヘーゲルの哲学は、翻訳がまずかったから理解されなかっただけと、皆で納得し合ったのではなかったのか。

いずれ、こうした反省を経て、未だにこの出版社はこんな難渋文を平気で出すのかと、私はあきれました。

これは『私の岩波物語』に出会う三年前の感想でした。こんな私ですから、山本夏彦翁の本が面白いのは当然です。

おおっと、岩波書店以外についても書きたかったのですが、あんまりに長くなりすぎてもなんなので、続きはぜひ本を買って読んでくださいましよ。

引用

2005年6月23日木曜日

タロット — 未来を告げる聖なるカード

 私はかつてタロット占い師をしていたことがありました。もちろんそれは本業ではありませんでしたが、でも固定客もついたりして、やっていたのは三年だったか四年だったかという短い期間でしたが、結構充実していたなあと振り返ってみて思います。最初の年は本当にもう無我夢中で、とりあえず占いの実績を得るために、身の回りの人間を片っ端からつかまえて占って、結局当てようと思っちゃいかんということに気付くまでは大変でした。タロット占いとは、ただカードを混ぜて並べてめくって、出た目だけが勝負なのです。

当時はパソコン通信の時代でしたから、パソコン通信の占い会議室でのディスカッションで多くを学び、結局こうしたテキスト中心のコミュニケーションに助けられて学ぶ、半自習のような状況でした。けれど、やっぱりしっかりとしたテキストが手もとにあった方がいいというわけで、当時評判のよかった本から自分に合っていると思うものを買いました。それが、A・T・マンの『タロット』でした。

オカルトに傾斜することも少なくないタロット本の中で、この本は実にクールでした。カードによる占いをシンボルの読み解きと捉え、この読み解きがクライアントの心理状態を反映すると見る。こうした見方は現在では決して珍しいものではないのですが、ですが駆け出しの神秘主義者であった私には、このクールな視点というのは、占いという行為へのうさんくささを払拭させ、タロットが真っ向から向き合うに足るものであると意識させる、大切なきっかけであったのでした。

この本はシンボルの読み解きを中心として、数の象徴や四元素、カバラ思想を紹介しますが、実はこれらはそれほど深く解説されるのではなく、むしろダイジェストのようにあっさりと過ぎていきます。また、図像に隠されたシンボリズムについても言及されますが、これもやはりさわりだけで、事細かな検討がされるわけではありません。

ですが、本当ならこうしたシンボルの読み解きは、解釈者が個々におこなうものであるのですから、この本がしたように、その方法の手引きが紹介されるだけで充分なのではないかとも思います。私は大学で同志を募って、シンボルを読み解く占いの会を開こうとして失敗したのですが、その頃に図書館にこもってシンボル事典と格闘したのはきっと力になったと思います。少なくとも自分の読み解きに根拠を与えることにおいて、そしてクライアントに解釈の理由を説明するための、大きな助けとなってくれました。

この本では、タロットを占いの道具としてみるよりも、むしろ瞑想と自己に向き合うための機会としてとらえていて、私はこの考え方に抜き難く影響されています。

私は、結局タロットを通し、現れた出目をクライアントとともに読み解こうという行為でもって、クライアントの心の奥に鬱屈していた思いやなにかを再確認していただけなのだと思います。そして、私はこうした行為こそが正しいのだと信じています。

自分の心の中の重荷や暗さ、あるいは希望を見つめることができたクライアントは、決まって陰鬱な表情をぬぐって、また頑張ろうという気持ちになって去っていきます。私はそうしたお客さんを見るのが本当に好きで、だから本当はもっと深く占いにつきあいたかったのかも知れません。いい顧客に恵まれると、占いというのは本当に仕合せな気持ちになれるものなのです。

2005年6月22日水曜日

『フルハウス』ファースト・シーズン

 私は、大学に通っていた頃、NHK教育で放送されていた海外ドラマにはまっていまして、友人が好きだったのは『ALF』、私が好きだったのは『フルハウス』。きれいに棲み分けができているではないですか。

『フルハウス』は実にアメリカ的なホームコメディでした。男三人が女の子三人を育てるという、その設定も面白かったのですが、けれど一番よかったのは、恥じるでなくおもねるでもなく、まっすぐに家族の愛や絆を確かめようという思いが各回の基底に響いていたところであろうかと思うのですね。家族一人一人は対等に向かい合って、そして事件の後は、愛しているよという言葉で終わる。そういう話が多くて、なんか憧れのアメリカは『フルハウス』にこそあったと思えてきます。

実をいいますと、私は『フルハウス』においても、遅れてきた視聴者でした。私が見始めたのはいったい第何シーズンからだったのか。ミシェルはジャケットに見るほど赤ん坊ではなかったし、ステフもエレメンタリー・スクールに上がるか上がらないかくらいだったような覚えがあります。多分第3シーズンか第4シーズンくらいだったんじゃないかなあ。

なんで今『フルハウス』を取り上げたのかといいますと、たのみこむからファースト・シーズンの日本語版が発売だというメールをいただきまして、うわあ『フルハウス』がでるんだ! とちょっと色めき立ってしまったからなのです。けど、驚いたのは、DVDでも出ていて当然みたいに思っていたこのタイトルが、未だリリースされていなかったということのほうでした。

さて、この日本語版DVD-BOXですが、4枚組でありながら定価8,400円という低価格にも驚きました。一枚あたり二千円ですからね。一般的な日本のDVDの価格からしたら半額くらいなもんで、さすがと思っていたら、本国では3,429円なんですね。さらに半額じゃんか!

でもいくら本国版が安いといっても、リージョンの問題もありますし(リージョン1ディスクは、日本のDVDプレイヤーでは再生できない)、日本語吹き替えもありませんしで、やっぱり私は買うなら日本版が欲しいです。リージョン2で、あのNHK教育で見て、覚えのあるキャストでの『フルハウス』を見たいじゃありませんか。

しかし、それにしても思うのですが、『フルハウス』の日本版キャストはすごかったです。副音声のオリジナルの英語を聞いても、ほとんど違和感がないのです。私は、英語を耳に覚えさせるために、ビデオに入れた『フルハウス』を、最初は日本語で見て、次いで英語で見て、また日本語で見るというということをしていましたが、この切り替えが本当に違和感なくて、すごいやと舌を巻いていました。

とまあ、そんな思い出深い『フルハウス』を再び、落ち着いて、ビデオに録り逃すんじゃないかというプレッシャーからも自由になって見られるというのは、すごく贅沢なことであると思います。すごく嬉しいことだと、心の底から思います。

ちなみに、私は大人ではジョーイ、子供たちの中ではステフのファンでした。ああ、懐かしいやらわくわくするやらで、私の心は十年前のあの頃に戻ってしまいそうなくらいですよ。

2005年6月21日火曜日

さようなら、ドラえもん

 最近なんだか疲れ気味というか、睡眠不足といいますか、ギターの練習をしていると途中で寝ちゃうんですね、弾きながら。目をつむって、半分ほど寝ながら、起きてるもう半分で練習を続けるのですが、実はこの状態は危ない。途中で完全に眠りに入って、ギターをバーン!! とかやっちゃったら、わあわあ!! どころではすみません。きっとギターも私も壊れてしまうことでしょう。

こんなときに思い出すのは、かの感動名作「さようなら、ドラえもん」でして、というのはですね、ドラえもんが未来に帰ろうとする最後の夜、ゆっくり語らおうと二人がねむらなくてもつかれないくすりを飲むのを覚えているからでありまして、眠らなくても疲れない薬、なんかすごそうではないですか!

似たような薬なら現在でも、アメリカ村あたりで売ってそうな気もするのですが、きっとドラえもんのものは依存性とかのないものなのでしょう。なんせ未来の世界のすばらしい道具であるわけですから、そうに違いありません。

ドラえもんを読んで育った人、とりわけドラえもんの世界を愛している人に、ひとつマスターピースをと問えば、返ってくる可能性の非常に高いのが「さようなら、ドラえもん」です。実際、名作といえる小品は数ありますが、ドラえもんが未来に帰ってしまうという、作品の根底をひっくり返す要素はあまりに大きすぎ、そして帰ろうとするドラえもんに贈られたのび太からのはなむけ。あまりに純粋で、あまりに結びつきの強い、二人の関係というのがあらわになって、私はこの文章を書きながらでも泣いてしまうほどです。

私がはじめて読んだドラえもんは第16巻でしたが、ドラえもんの世界にずいぶん親しんでから後に触れた第6巻は、それゆえにショックでした。「さようなら、ドラえもん」を読んで、いったいこれはどういうことなんだと、なぜ6巻でドラえもんは終わろうとしているのかとやにわに混乱を来して、私は後に知ったのですが、この混乱は連載時にもやはりあって、ドラえもんが帰ってしまうという話にショックを受けた子供たちが、作者にドラえもんを返してとたくさん手紙を送ったのだそうです。そうしてドラえもんは未来から私たちのいまに戻ってくることになって、あの頃私たち子供らは、本当にドラえもんやのび太のいる世界を愛し、まるで自分たちの身近に遊んだ友達のように感じていたんだと思えるエピソードではありませんか。

私はつい最近、またちょっとドラえもんを読み出して、ドラえもんは初期から中期にかけてが非常に素晴らしいと思うものの、後期に関しても決して悪くいうようなものではないなと思うようになりました。いやこれはもちろん当然のことで、私が子供時代を過ごしたあの時を、一緒に通過してきたドラえもんをなぜ悪くいういわれがあるものか。

けれど、それでも私にとってのドラえもんマスターピースには、初期作である「さようなら、ドラえもん」が常にあり続けるのですね。これは永劫変わらないことであると思います。

  • 藤子不二雄『ドラえもん』(てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1975年。

引用

  • 氷川へきる『ぱにぽに』第7巻 (東京:スクウェア・エニックス,2005年),49頁。
  • 藤子不二雄『ドラえもん』(東京:小学館,1975年),171頁。

参考

2005年6月20日月曜日

ポーの一族

   SHINOすけさんがオススメの少女漫画家なんてのを書いてらっしゃったので、ほいじゃ私もと、早速占ってみました

私は田渕由美子、市川ジュン、川原泉をピックアップしてみて、投げる瞬間に谷川史子はどうしようと思ったのは秘密です。結果は、次のとおり:萩尾望都がお勧め度29で群を抜いて一位! ううむ、当たってるなあ。私は遅れてきた萩尾望都の読者ですが、確かにこの人の漫画は好きです。何度もうなりました。だから、非常に満足行く結果でありましたね。

そんなわけで気を良くして、『ポーの一族』なんぞを思い出してみました。いや、『ポーの一族』が一番といいたいわけではないのです。私のはじめての萩尾体験である『トーマの心臓』もとても素晴らしいですし、『11人いる!』もそうです。他にも、小品、長編問わず萩尾作品は深くて、甘くて、苦くて、美しくて美しくて、どれかひとつ選べといわれても選べないよ、とそんな名作の森であります。

で、なんで『ポーの一族』をピックアップしたのかというと、決め手はわかりやすさとそのロマン性であろうと思うのですね。不死のバンパネラがその心の奥に秘めた悲しみは細やかで獰猛で、しづくがしたたるように妖艶で美しい。この漫画は私の生まれる前にスタートしているのですが、その時点で日本の漫画表現は極まっていたのだと実感できる手応えです。

その後の三十年で、いったいどれだけの作品が『ポーの一族』に比肩したか考えると、途方もない思いがします。手塚治虫の仕事が漫画に映画に負けじと張り合えるまでの力を注いだというなら、萩尾望都で漫画は文学に肩を並べるほどの洗練を見た。異論はあろうかと思いますが、それでも萩尾望都が漫画に新たな力を注いだことは間違いないといいきることに、私はわずかの躊躇もありません。

蛇足:

実は私が萩尾望都的なものに触れたのは、川原泉の『笑う大天使』に出てきた、パロディが最初なんですよね。あの和音さんと沈丁花のくだりですよ。

あのシーンが『ポーの一族』のものだということは、なにしろちゃんと解説付きだもんだからさすがにわかったのですが、けど『ポーの一族』については知らなかったんですね。なんか触れちゃならない伝説みたいなものだと思っていたんですね。

けど、結局本を手にして読んでみて、ああもっと早く読んどけばよかったと思いましたよ。そういう本はたくさんありますが、萩尾望都については本当にそう思いました。

  • 萩尾望都『ポーの一族』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第1巻 (小学館叢書) 東京:小学館,1988年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第2巻 (小学館叢書) 東京:小学館,1988年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第3巻 (小学館叢書) 東京:小学館,1988年。
  • 萩尾望都『萩尾望都作品集』第6巻 (プチコミックス) 東京:小学館,1977年。
  • 萩尾望都『萩尾望都作品集』第7巻 (プチコミックス) 東京:小学館,1977年。
  • 萩尾望都『萩尾望都作品集』第8巻 (プチコミックス) 東京:小学館,1978年。
  • 萩尾望都『萩尾望都作品集』第9巻 (プチコミックス) 東京:小学館,1978年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第1巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1974年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第2巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1974年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第3巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1974年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第4巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1976年。
  • 萩尾望都『ポーの一族』第5巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1976年。

おまけ:

占いの結果も載せときましょう:

この3人の漫画家が好きなあなたには、次の漫画家がおすすめです。
漫画家おすすめ度
萩尾望都29
大島弓子23
太刀掛秀子22
清原なつの22
川原由美子21
佐々木倫子21
三原順21
吉田秋生21
陸奥A子20
坂田靖子17
大和和紀15
和田慎二15
槇村さとる14
ひかわきょうこ14
深見じゅん14
清水玲子13
わかつきめぐみ13
岩館真理子13
一条ゆかり13
西村しのぶ13
遠藤淑子12
くらもちふさこ11
吉野朔実11

なんか、説得力のあるリストができましたよ。

2005年6月19日日曜日

SWISSMEMORY USB Victorinox

 スイス特集は続きます。

ビクトリノックスのナイフは、ちょっと品揃えのよい日本の雑貨店でも普通に扱われているくらいになじみ深いものですが、その割にどういうものがあるのか知られていないような気がします。マルチツール — 十徳ナイフが特に有名で、これについてもスイス陸軍採用のものから、日常生活向けのものまで、さまざまなラインナップがあって、ちょっと買おうかというむきには迷ってしまうくらいの充実ぶり。正直、把握しきれないのもしかたないなあという気がします。

昔、バイト先にて、めでたく年季の明けようとするやつになにか記念品をということになりまして、そのうちの一人にビアトリノックスを贈ろうと決めたのでした。でも、決めたはいいけどなににしたものか迷います。で、その時は標準的なものが無難だろうということで、スタンダードタイプを選びました。

絶対喜ぶに違いないという選定で、かなり自信はあったのですが、その喜びようは私の想像していた以上だったのだそうです。このナイフはなにしろよく切れる質実剛健なやつですから、その切れ味を試そうといろんなものを切ったり削ったりして、あんなのあげちゃ駄目ですよと苦情が出たくらいに喜ばれたのです。私としては、ナイフを贈るということはおまえはもう一人前じゃからね、という意図もあったんですが、けどまだ大人にはなり切っていなかったようですね。でも、まあ、人に危害を加えるようなやつではないし、それにあんなに喜んでくれたんだからよしとしましょう。

コンピュータ用のストレージデバイスなんかを扱っているスイスビットが、ビアトリノックスのマルチツールに目をつけたんでしょう、USBメモリを搭載したマルチツールというのもリリースされています。こういうのを見ると、もはやUSBメモリストレージなんてのは必携ツールになりつつあるんだろうなと、ひしひし思い知らされますね。実際USBメモリは便利ですし、便利なツールをひとまとめにするというマルチツールの思想からすれば、USBメモリがつくのもさしておかしくないと思えます。

USBメモリ以外のツールはというと、ナイフにハサミ、爪やすり、ライト、ボールペンと、爪やすりはどうかわかりませんが、その他のものは実際身近にあって便利なものです。だから、PCを使用するような場所 — 例えばオフィスとか — にこのツールがあったとしたら、確かに便利と思える局面もありそうに思います。

でも、自分が自分用に買うなら、多分トラベラースモールオフィサーのツーリストだな。

ええ、私の日常必要としたいツールには、ちょっとUSBメモリは入っていないものですから。けど、つまり日常にUSBメモリを使ってるような人であるなら、USBメモリ付きマルチツールは便利でしょう。スイスメモリにドライバーやワイヤストリッパといった工具がセットされてるモデルがあったらもっと便利かも知れません。サイバーツールなんて見るからにすごそうで、これにUSBメモリを加えるとちょっと巨大になりすぎるやも知れませんが、けどUSBメモリはこうした工具類にこそ似合うような気がするんです。

PC補修時にさっとUSBメモリでデータを救出みたいな、そんなツールセットが出たら受けそうな気がするんですがどうでしょう。って、ここでどうでしょうって聞いてもなんにもならないんですけどね。

2005年6月18日土曜日

おひっこし — 竹易てあし漫画全集

 スイス特集は続きます。

『おひっこし』は、新感覚サムライコミック『無限の住人』で人気の沙村広明が別名義でお送りする、恋と友情のほの悲しくゆれる青春の群像がまぶしい小品です。登場人物一人一人がその個性を主張しつつ、かつ自分勝手に好きなことをいったりやったりするという無軌道さが魅力で、けれど不思議と感情はうまくからみあって、読み終えたときにはなんだか懐かしいような、そんな気分になれる佳作です。

で、なんでこれがスイスなんだ。出てくる外人もイタリア人じゃんかと、実は私はこの漫画があんまり気に入ったから何冊も買って人にあげたりしてたのですが、ちょうど日本に留学中のスイス人学生にこの本を贈ったと、そうしたことがあったのです。

私がスイス人にこの漫画を贈ったというのは、そりゃもちろん『おひっこし』とその世界が好きだからということもありますが、それよりも、日本の大学生であるとかを知るのにうってつけなんじゃないだろうかと思ったからなんです。仲間でつるんでの緩いんだかなんだかわからん毎日の情景。恋し恋されて、傷ついたり傷つけたり、けど朗らかで、けどうら悲しくて、そうした日本の学生のぶっきらぼうな現在を、この漫画は雄弁に表していると思います。

それともう一点。この漫画には、先ほどもいったとおりイタリア人が出てきます。はっきりいいまして、変なイタリア人です。女性を口説き、落とすことを自分の生きる理由に決めたバローネは、ある意味間違ったイタリア人観に基づいているのですが、けどスイス人も、バローネのドンファン的な振る舞いについては、とてもイタリア的だと笑っていたなあ。ともあれ、イタリア人バローネに向けられる日本人の常識(そしてそれはコンプレックスだ)を伝えることができれば、日本人と西洋の関係というのも理解されるのではないかなあと、そんな思いもあったのでした。

けど、そういったごちゃごちゃしたこといってないで、読めば面白いんですから、それがすべてでしょう。結局、私がこの漫画を好きなのは、日本の常識を意にも介さないような彼らの傍若無人さであるとか、歯に衣着せぬ物言いであるとか、そういうコミュニケーションの面白さがあるからなんです。そして、あちこちにちりばめられたパロディ、サブカル的要素。多分、作者は私と同じくらいの年代なんじゃないでしょうか。ともあれ、ある一時に表れては去った風俗流行を捉え、それを小ネタとしてちりばめるというところにしびれましたね。

同時収録の『少女漫画家無宿 涙のランチョン日記』は、どんどんと境遇の変わるヒロインのそのアップダウンぶりが魅力で、私は『おひっこし』だけでなくこの漫画もかなり好きなのですが、それは沙村の無茶無理矢理を違和感なく見せてしまう力と、そして描かれる人の心の自由さがたまらないからなのでしょう。だから『無限の住人』ももちろん好き。私は沙村広明の漫画は好きになるようにできているようです。

さてさて、それで『ランチョン日記』にも小ネタはちりばめられていて、しかもそれがフレンチポップス周辺ときているもんだから、私には極めて面白かった。ええ、本筋で面白く、小ネタでも面白く、その両者が付かず離れずの距離で展開されるというのはすごいことであると思います。

2005年6月17日金曜日

チーズ図鑑

 スイスに行ってた姉が帰ってきまして、お土産はなんだろうと期待していたら、ビクトリノックス小さなナイフでした。てっきりアルプホルンを買ってきてくれるものとばかり思っていたものだから、そのあまりのサイズの違いように拍子抜けしてしまいました。けど、ちゃんとZermattという地名と私の名前が入っていましてね、やっぱりこういうのは嬉しいものです。

さて、スイスの名産品といえばチーズです。というわけでお土産にはチーズもあって、いったいどんなのかと思って見れば、ブリーが二種類、そしてグリュイエール。うーん、ブリーはフランスのチーズだなあ。昔、もったいながってちびちびやっているうちに、半分傷めてしまったっけか。懐かしいことを思い出してしまいました。

ブリーはイル・ド・フランスのチーズでありまして、カマンベールを扁平のまま大きくしたような外観です。当然ながら白カビ系のチーズでありまして、よく熟成したブリーのおいしいことといったら。もともと白カビのチーズだから癖もそれほど強くなく、食べやすいのですが、その風味や濃厚な味の広がりは、一度口にしたらもう病みつきになりますな。

と、このようにブリーというのは、チーズそのものを食べるタイプのもので、あまり料理の材料にするみたいな話は聞きません。対してグリュイエールはあまりそのまま食べるチーズという印象はなく、というのもちょっと酸っぱかったりしますもんね。これは調理に使うことが多いです。加熱すると溶けるタイプで、そう、スイスといえばチーズフォンデュなんて料理が思い出されますが、まさにフォンデュをするには欠かせないチーズでしょう。

とかいってるけど、うちでフォンデュなんてしたことったら一回しかないよ。とまあ、そんなわけでこのグリュイエールはどうなるんだろう。意外とそのままかじったりしそうな気がしたりなんかします。悪い予感ですね。

私は学生の頃、ワインの立ち飲みでワインとチーズをいただいて、店の人にいろいろ教えていただいて、もうすっかりといっていいくらい忘れてしまったんですが、今いったことくらいはなんとか覚えていました。けれど、より詳細な情報やあるいはあまり身近でないチーズなんかについて知りたいときには、『チーズ図鑑』が便利です。

国別に、代表的なチーズが写真入りで紹介されているのはもちろんとして、原産地や原料をはじめとするデータが結構しっかりと載っているのがいいじゃないですか。そして一番ありがたいというのは、そのチーズにあった飲み物がちゃんと書かれているということ。例えば、先ほどのブリーなら赤ワイン — それもブルゴーニュだとかローヌだとかがあうんだそうで、グリュイエールなら白ワイン、それもFendantだそうです。Fendantというのはスイスワインですが、残念ながら飲むどころか見たこともないなあ。

という感じで、チーズだけでなくワインにも興味が広がったりする本であります。

この本にはおなじみのものから見たこともないようなものまで、本当にいろいろなチーズが載っていまして、けど写真を見て、説明を読むだけじゃ満足しないんですよね。つまり、どんなもんか味を見てみたいもんだと思うわけでして、ああでも、今の自分を振り返ったら夢のまた夢みたいに思います。

あの時あんだけ通ったワインカウンターも、知らない間に店じまいしていて、なおさら駄目っぽい。どこかに気の利いた店でも開拓したもんでしょうか。

  • 文芸春秋編『チーズ図鑑』丸山洋平写真 (文春新書) 東京:文芸春秋,2001年。
  • 文芸春秋編『チーズ図鑑』丸山洋平写真 東京:文芸春秋,1993年。

2005年6月16日木曜日

エレーン

 むかし、なんだか生きるのが悲しかった時期があって、そんときによく聴いたのが中島みゆきでした。中でも白眉はアルバム『生きていてもいいですか』。しょっぱなの『うらみ・ます』の印象も強烈ですが、このアルバムの価値はそれだけじゃありません。私は『キツネ狩りの歌』を愛し、『蕎麦屋』を愛し、『船を出すのなら九月』を愛し、『エレーン』を愛して。特に『エレーン』の、生きていてもいいですかと誰も問いたいその答を誰もが知ってるから誰も問えないというくだりには、誰もが心になにか兆すものを感じるのではないでしょうか。

このアルバムは、とにかく鮮烈でした。中島みゆきを好んで聴く人なら同意してくださると思うのですが、この人は私のことを歌っているのではないかという瞬間が折々に訪れます。こうした共感を得るごとに、中島みゆきの世界に深くのめり込んでいくことになるのですが、私にとっての決定的一撃が『生きていてもいいですか』でした。

中島みゆきは私のことを歌っているだなんて思い込みも甚だしいのですが、けれどそのように感じられてやまないというのは、中島みゆきの歌う世界というのが、私たちの生活する世界をよく捉えて、深くうがっているからだと思います。私たちが日々漠然と感じている世界が、あらわに歌われる。そこには喜びや悲しみや、切なさや怒りや嫉妬があって、仕合せもわびしさも、私たちがこの世で経験するあらゆる感情が濾過されたように純粋な滴になって結晶しているかのようで、それはもう宝石のようだなあと思うのです。

私の悲しかった時代といいましたが、人間というのは勝手なものだから、自分の悲しさなんて誰もわかってくれちゃいないなんて独りよがりに浸って、ひねてすねてしまうことがよくよくあります。私の場合もそんな感じでありました。けどさ、そんなときにたまたまこのアルバムをテープに吹き込んだのを聴くことができて、私は自分の馬鹿なことに本当に気付かされて、ええ、悲しさや苦しさ空しさなんてのは、誰もが同じく抱えて、その空虚に砂を噛む思いで耐えてるんだ。

私はこの歌を知って、なにかがあったとしても、つらいのは自分一人ではないと思えるようになりました。自分ばかりがつらいと思って、自暴自棄な生き方をするなんてことは、ただの甘えなんだと知ったのでありました。

人生には寂しさも悲しさもあって、その向こう側は誰にもわからないのだけれど、それでも誰もが知っていることがあるというなら、私は寂しさにも悲しさにも耐えていけると思います。

引用

2005年6月15日水曜日

センチメントの季節

  この漫画で扱われる主題がセックスであることから、今まで避けて避けて避けて通ってきたのですが、ちょっと書いてみようかなあと思うところがあって引っ張り出してきました。

ちょっと前に援助交際とかいって体のいい売買春が横行していましたが(そして今もなくなっちゃいないのでしょうが)、ちょうどそんな時分にこの漫画は連載されていました。普通の女高生やなんかが援助交際をするということは、良識ある大人たちにはあまりにショックだったと見えて、さまざまな分析やなんかがおこなわれましたが、この漫画を知るにはそういった当時の背景なんかも知っておいたほうがいいのかなあと。というのは、そうした時代の空気を抜きにすると、男にとって都合のよい女の子の出てくるエロ漫画でしかないかなあと思うからで、いや、けれどそうした評価はあながち間違っていないのではないかと思います。

そもそも、援助交際なんてものからが、買い手にとって極めて都合のよいシステムでありました。低リスクで低廉に、年端もいかない女の子をおもちゃにできるわけでして、あれは社会全体でおこなう性的搾取でしかないなあと、私なんかは思うわけです。

けれど、お小遣い欲しさに一部の女の子はウリをおこなって、ほんと、思うつぼというか鴨がねぎというか、あたかもおじさんたちを手玉に取っているかのように思わせてだまして、やっぱりうまいシステムであったなあと私なんかは思うわけです。

さて、そんな援助交際というシステムを分析しようとした時代があったわけですが、そうしたものの多くは、結局援助交際を後押しするものでしかなかったのかもなあと、今振り返って思います。少女たちは自分の価値の希薄さにどうだこうだとか、空虚さを埋めたいという気持ちがどうだこうだとか、思潮の問題にしてしまった。いや、そうじゃないだろうと。問題はそこじゃないだろうと、私は思うわけでして、でもまあ結局は個人の問題ですからどうでもいいといえばどうでもいいのです。

『センチメントの季節』は、まさにそうした時代の空気を体現しています。空白を抱えた少女たちが、その隙間を埋めようとするかのようにセックスをする。いや、セックスしちゃいかん、けしからんとはいいません。ですが、結局そうした行為に走ることを、空しさだとか寂しさだとか、そういうせいにしちゃいかんのじゃないのかなあと思います。

私は、セックスするしないにせよ、なんにせよ、個人の決断はその個人が責を負うものだと考えるのですが、ですがこれをそうした空しさとか寂しさとか、ちょうどこの漫画のタイトルがいうような感傷的な理由に求めるのは、ただの逃げであると思うのです。それも、ファンタジーに逃げるのは一番あかんのじゃないかなあと。この漫画に立ちこめる性を取り巻く幻想は、確かによくできていてそうなんだと思わせるに充分でありますが、けれどそれはそうした幻想を共有しているからそう思えるだけであって、ちょっと身を引き離してみれば、体のいい理由を自分の外 — 例えばそれは時代だったり社会だったり — に求めたいだけなんだと気付きます。

だから、やっぱりこの漫画は、男にとって都合のよいファンタジーでしかないなというのです。

けれど、多分作者はこうした幻想とそれを支えようとする仕組みに無自覚ではなかったと思います。体がおいてきぼりにされたような、感傷ばかりが目立つ漫画ですが、最終巻における心だけにも体だけにもなれないというあたりまえの結論は、ある種実感の希薄である現在 — 肥大した心を支えられない身体感覚の弱さに誰もが気付いているといいたいからこその駄目押しではなかったのかなと思えます。

ともあれ、この漫画や、この漫画を取り巻く状況といったものは、ちょうど、ほら千葉の浦安辺りで、主催者も参加者も一緒になって守っているファンタジーがありますが、そんな具合に、それが幻想に過ぎないとわかっていながらも守られていたファンタジーなのかも知れません。そうしたファンタジーの向こう側にあったものというのは、結局たいしたことのない、あたりまえのものに過ぎないというのが相場でありますが、これにしてもみんなで買い被っていただけなんじゃないかと思ったりしています。

それでは、本題。

私は字を習ったり音楽をやったり、またこうして文章を書いたりしていますが、そういうときに一番大切だと思うものは実感だったりします。その字や音、いいたいことに対して、実感が伴っていないとよいものはできないばかりか、もうそれ以前の問題で、まったく筆も進まなければ、身動きさえもできない。そういえば私は、子供のころ、読書感想文が嫌いでした。作文の書かされるという感じが嫌で嫌でたまりませんでした。実感もないのになにも書けるはずはないのです。

『センチメントの季節』に話を戻せば、そうした実感が一番強く出ていたのは、おそらくは最初の二巻までだったんではないかと思うんですね。ひとりの人間の内部に広がる性に関する幻想は有限で、さしてバラエティに富んだものではないのです。けれど同じことは描けない。この漫画を見ていて、そうしたジレンマを感じることがあったのは事実です。

ですが、そうしたかぎりのあるファンタジーを縦横に駆使して、エロを描き続けている人というのは確かにいるわけでして、そういう人って偉大だなあと、私はいつも思います。これって揶揄や皮肉じゃなくて、素直な感想ですよ。

引用

2005年6月14日火曜日

あたりまえのこと

  昨日の夜のニュースで倉橋由美子さんが亡くなられたという報に接し、ちょっとがっくりときてしまいました。六十九、— まだ六十九か、早いなあと思って、前にもちょっといったことがあるかと思いますが、人が死ぬということはひとつの可能性が消えるということです。それで世界が豊かになるか貧しくなるかはわからないとはいえ、けれど私にとって、倉橋さんが亡くなられたということは、世界の一部が欠けてしまったのと同じようなことであるから、だからやはりショックでした。

けれど、残念ながら私は倉橋さんについて思うには、あまりにその著作を読んでいないのです。読んだといえば、話題作が数冊といったところ。ふくむところは多いのにもったいぶるようなところはまったくなく、あっさりと素直な文章。なのにたっぷりと描かれる世界のよく落ち着いて、力動的であること。不思議な、力感を感じさせない力強さのある小説を書く人でした。

そんな倉橋由美子が小説について書いたというから、早速書店に出向いて購入したら、出版後ひと月にして第二刷でした。やっぱり売れてるんだなあ。この本というのが『あたりまえのこと』でした。

内容は「小説論ノート」と「小説を楽しむための小説読本」のふたつにわけられます。

読んで見ればわかるのですが、非常にやさしくていねいに書かれているから、すうっと胸に通る気持ちよさがあります。引っ掛かりがなく、特段重々しく書かれている感じもなく、だからといって軽いのかといえばそんなことはありません。読んでいる自分自身に響くような文章からはしっかりとした手応えが感じられ、だから私はこんなふうに思った:よい文章というのはさらりと読めて、それでただ流れ去るばかりのものではないんだ。

こういったわかりやすさ、読ませる文章を重視するというのは倉橋さんの基本姿勢だったのでしょう。「小説を楽しむための小説読本」にも、こうした傾向がはっきりと表れていて面白いです。なんでか日本では難渋な文章を好むところがありますが、そういうのを指して倉橋さんはほとんど寝言と手厳しい。この本は万事この調子で、よいものはどこがよいのか、悪いものはなにが悪いのかと、すっぱりすっぱりと割り切った筆致で整理していくものだから、読んでいるこちらもなんだか嬉しくなっていく。簡単なことだったんだとわかる。簡単なこと、すなわちこれがあたりまえのことであるのでしょう。

私のような気を抜けばすぐに難渋文にむかいがちの寝言型人間には、そのあたりまえが難しく、ふと気がついたら、誰にも相手にされないような独りよがりをやっていることしばしばです。だから、こういうあたりまえのことを指摘してくれる本や人というのは本当に貴重であるのです。

倉橋由美子の真っ当さは、その小説からも感じ取れるほどに一本芯の通ったものでしたが、この本ではその健全が健全のまま一体をなしています。とまあ、私はすぐものごとをややこしく表現する。倉橋由美子のらしさがありのままだといったほうがずっと通じるというのに、ですよ。

引用

2005年6月13日月曜日

倫敦! 倫敦?

 私は高校に通っていた時分に、手当たり次第、触れたもの目に留まったものをなんでも読むという乱読期を経験したのですが、ところがその反動が出でもしたのか、その後数年は、もうまったくといってもよいほど本を読まなくなりました。それこそ、字ばっかりの本を読まなくなった。当時はあんまり金銭的に余裕がなく、本が買えなかったという事情もあるのでしょうが、それにしても読まなかったですね。再び本を読むようになったのは、学部の三回に上がってから。このときは、とにかく興味を引いたタイトルをとにかく買って手もとに置くというやり方で、特にジャンルを決めるでなく、西洋東洋の区別もなく、哲学文学戯曲エッセイなんでも読むという、— こういう乱読が私の基本的な傾向のようですね。

長谷川如是閑の『倫敦! 倫敦?』を見つけたのは、まさにこの再びの乱読期においてでした。このときはまだ如是閑の名前も知らず、だからとにかくこのタイトルにひかれて買ったのです。そして読んで見て驚くことといったら、その文章に表れる意思の明晰さ、そして表現の鮮烈さ。ほれぼれと読んだものでした。

長谷川如是閑、倫敦の道路を評してコンクリートで堅めた上に木口を並べてその上をアスハルトで鏡のように砥ぎ上げてあると記し、そして聖ポール大聖堂の地下墓所について書かれた一文の際立ちようといったら! 竜巻のような柱が林立している薄暗い地下室のつめたい重い空気が洋服の上から肌に沁み込んでくるようで、覚えず身慄いしながら入ったが、 — 如是閑の見たおどろおどろしくも荘厳なるクリプトの様相を、自らもまた追って眼前に見る思いでありました。

私はこの本を読んで、紀行の面白さに目覚めたのです。紀行がただ旅先の情緒を伝えるだけでなく、批評する視点が異文化を捉え、旅先の地も自らもあらわにするものであると知ったのです。なんとスリリングな体験だろうか、旅というのは! 私が旅を愛するのは、如是閑翁の視点から見た旅の姿があまりに魅力的であったからだと思うのです。もしこの本に出会えていなかったら、私がイタリア紀行を書くことは決してなかったでしょう。それくらい、旅と紀行への見方がひっくり返ってしまうくらいに、私にとっては大きな本だったのです。

さて、なんで今日長谷川如是閑を取り上げたのかといいますと、如是閑翁は体が決して強いほうではなかったんだという話を聞いたことがあるからなんですね。私は、如是閑の仕事を垣間見て、こういう大きなことをする人はきっと頑健な疲れ知らずに違いあるまいと思っていたのですが、ところが事実はそうではなく、弱い体をいたわりながらの人生であったというではありませんか。

私は、自分自身が決して丈夫なほうではないので、こうした話を知って、それまで以上に翁を好きになったのでした。そうか、体の弱さは関係ないのだと、自分ももっとがんばれるという気にもなって、— いや私と如是閑翁では、その基礎となる教養も出来も違うんですけどね。

引用

  • 長谷川如是閑『倫敦! 倫敦?』(東京:岩波書店,1996年),158頁。
  • 同前,194頁。

2005年6月12日日曜日

春宵情歌

 今日は二胡との伴奏合わせで、でもってなんだか気分が中国風になってしまったので、『春宵情歌』なんぞを思い出して見ました。『春宵情歌』というのはなにかといいますと、『カードキャプターさくら』というアニメが昔ありましたが、それの劇場版で使われていた歌です。丹下桜の歌う日本語版とウヨンタナの歌う中国語版の二種類ありました。

この『カードキャプターさくら』というアニメですが、今から思っても音楽、特に主題歌に力を入れていたところがあって、非常に高品質の曲が多かったです。この劇場版のもうひとつの主題歌『遠いこの街で』も非常によい曲で、この香港活劇のサントラは私にとって、本当に当たりのディスクであったと思っています。

『春宵情歌』は、作りとしては非常にうまくて、日本人の考える中国歌謡のイメージを上手に捉えているところが憎いですよ。ピアノで奏される、イントロの下降アルペジオのフレーズは実に印象的で、そしてメロディや歌唱における節回し。こうした細部から、中国っぽさを感じさせるところはなかなかのものです。けれど全編を聞けば、中国的フレーバーを利かせているものの、やっぱりその当時の日本のポップスの、作り込まれた感じがひしひしとする。そうしたちょっと無国籍風を装っているところはとても面白く、そしてもちろんメロディが非常に美しいものだから、これはアニメだなんだというバックグラウンドを抜きにして、もっと聴かれてよい音楽じゃあるまいかと、私などは思うわけです。

さて、こっからどうでもいい話。

今日、『春宵情歌』で調べてみてはじめて知ったのですが、「コンプリート・ボーカル・コレクション」なんてのが出てたんですね。私、『カードキャプターさくら』の絡みのCD類は全部集めていたと思っていたのですが、おっとどっこい、一個大きいのを逃していた模様です。しかし、なんでなんだろう。というか、あの時期、どうやって新盤の発売とかの情報をつかんでいたのか覚えていないのですが、こうした強烈に宣伝を打ちそうな類いのものに気付いていなかったというのは、大きなポカであるといわざるを得ないでしょう。

限定二千部で、もはや美麗な新品の入手は困難と思われますが、こういうときに役立つのはオークションであります。で、私は、オークションに参加してはならない類いの人間で、というのはですね、買うと決めたら絶対買ってしまうからなんですね。どう考えてもその値段は高いというのに、そこまでの価値があるかどうかは疑問だと自分でも思っているのに、ええいままよと他の追随を許さんような高値を張って、しかも落札したら祝儀じゃといって周りの関連品をばんばか落札したりする。— あほですね。祝儀はいいとして、おんなじものふたつ落札することはないじゃないか。とまあ、こんな感じに、私にとってオークションは大変危険なのです。

で、さて、「コンプリート・ボーカル・コレクション」ですが、どうも私はその直前に発売された『主題歌コレクション』の時点で脱落していたようで、私、どうもこのジャケットには見覚えがあって、だからもしかしたら買ったのかも知れませんが、でも今うちのCDラックには見当たらなくて、だからやはりここで買うのをやめたのでしょう。いくらなんでもおまえら人の足下みすぎじゃと、頭に来たか切れたかはわかりませんが、もうつきあわんとばかりに買うのをやめたのかも知れません(ほんとかなあ、戸棚にしまい込んでるだけじゃないのか?)。

とまあ、そんな感じなので、私は「コンプリート・ボーカル・コレクション」も順当に見送ることでしょう。ええ、もう過去は振り返らんです。今までもなくて困らなかったんだから、これからも困りゃしないさ。

追記

遠いこの街で』のエントリを見て、あまりのさっぱりとした内容に驚きました。

『遠いこの街で』は、まさにこのBlogを書き始めて四日目の記事だったわけですが、当初はあんなにあっさりとしていたのか……。今の状況を見れば、まったくの落差に驚きを隠せません。というか、あの分量だから一日三十分程度ですんでたわけで — 、初心にかえろうかしら。

2005年6月11日土曜日

機動戦士ガンダム

   今日、ひょんなことから『機動戦士ガンダムSEED』を見まして、といっても全編見たわけではなく、後半のさらに一部だけだったのですが、なんか戦艦が追い込みを掛けられている中、モビルスーツ戦が白熱しているという場面でした。私はガンダムSEEDは、キャラクターの名前をごく一部知ってるだけとか、そういう本当になんもわからん人間なんですが、そんなでもあのモビルスーツ戦というのは白熱しますね。空中換装もあれば、横薙ぎに払われたビームサーベルをBパーツを切り離して避けてみせるなど、いやあ見せますね。あんまりの恰好よさに、しばし釘付けになってしまいました。

ただ、惜しむらくは、私がこの人たちがいったいなんで戦ってるかを全然知らんことです。だって、私が全編を通して見て、その戦った理由であるとかをきちんと把握してるガンダムは、初代ガンダムしかありません。だから今日見たSEEDには、はっと心を動かされながらも、その奥にあるものを知ることはできないという、一抹の寂しさを感じたのでありました。

『機動戦士ガンダム』。私がこのアニメを始めてみたのは、近所に住む悪ガキ仲間(そう、ルービックキューブの裏技の彼です)に教えてもらったのがはじめでして、おそらくそれは何度目かの再放送だったのではないでしょうか。はじめて見た回は忘れもしない第36話「恐怖!機動ビグ・ザム」であります。ひとつ年長の坊主たちは、スレッガー中尉とミライ・ヤシマのキスシーンに色めき立っていましたが、私にはそれよりも、ビグ・ザムの異様な姿と、強力なビーム砲にやられたジムの姿が強烈に印象的で、実はちょっとトラウマになった。

ともあれ、この印象的な出会いをはじめとして、私は同年の友人らと一緒にガンダムの世界に潜り込んでは没頭して、再放送があれば何度でも見、ガンプラも作り(はじめてのガンプラは、従姉妹のうちに遊びに行った夏休み、商店街の抽選で当てたリアルタイプ・ザクでした!)、もうガンダム大好きで、こうしてガンダムを好きになった人間にとって、第一作目のガンダムというのは、一種聖典といってよいほどのバリューを持っているのであります。

最初に好きになったのはモビルスーツ。それから登場人物と深みのある人間ドラマ。私は、多分こういう子供は少なかったと思うのですが、カイ・シデンがとにかく好きでして、好きな人はカイさん。好きなモビルスーツはガンキャノン、そしてジム。おいおい、アムロとガンダムはどうやねんといったら、そりゃもちろん嫌いじゃないですが、でも自分にはカイがよかったんです。斜に構えてニヒルなカイさんは、もう理想というか憧れというか、だから私はベルファストの海に消えたミハルと、その死を悔やみ悲しみを隠さないカイさんの姿には、涙が止まらなくなるのです。

もちろん、それだけではなくって、ランバ・ラルの壮絶な戦いにも心奪われましたし、黒い三連星、シャアとララァ、思い出せば懐かしくもいとしい名前ばかりです。登場人物はどうにもこうにも人間臭さがあって、だから彼らの中に死者が出たときには、見ている子供らは一緒に胸を痛めました。リュウ・ホセイもそうです。マチルダ・アジャンもそうです。スレッガー・ロウもそうです。ララァ・スンもそうです。

以前、ガンダムの劇場版を京都放送が一挙にノーカットで放送したことがありました。なぜか家族一同で鑑賞をするはめになって、父も母も姉も、そして私も、ガンダムの骨太なドラマに見入ってしまって、あの時代からすでにアニメは、アニメ=子供向けという偏見を払拭するに足る質を持っていたことをあらためて確認したのでした。私はそれをビデオに記録して手元に置いています。またいつ見るかはわかりませんが、そばにおいて、いつかまたみたいと思ったときに再び彼らと会えるようにしたいと思ったのかも知れません。

今DVDで手に入るのはリメイクされているらしいですが、私は結局感傷的に昔を思い出してその時代の空気とともにガンダムを見たいと思う人間のようですから、きっとリメイクには難色を示すでしょう。だから私は、あの時の放送を自分のマスターピースにしておきたいと思います。

BANDAI CHANNEL / バンダイチャンネル

2005年6月10日金曜日

ことばのパズル もじぴったん

  私はもともとゲームは嫌いなたちではなくて、それこそRPGなら初代『ドラゴンクエスト』の洗礼を受けた世代でありまして、その後はあの偉大なる『Wizardry』に没頭するといった入れ込みよう。もちろんアクションゲームもやったし、シューティングもシミュレーションもアドベンチャーもレースゲームも、スポーツものまでも遊びました。

けれど、この数年はどうもゲームに遊び疲れたのか、さすがに新鮮な感覚を得られず遠ざかり気味でありました。こういうのを食傷というのでしょうか。本当に、もうおなかいっぱいという感じであったのです。

そこへあらわれたのが『ことばのパズル もじぴったん』。久々に出会った革新的タイトルに、私の衝撃はいかばかりであったか一口にいうことはできません。

『もじぴったん』のすごいところ!

  1. シンプルなルール
  2. 深いゲーム性

升目に、用意された文字のピースをはめ込んで、クリア条件を満たすのが目的です。ルールは、つながった文字がことばになってないといけないというだけ。こうしたわかりやすさに絶妙のバランスのよさが手伝って、もう何時間でも遊んでしまうような魅力があります。いや、魔力といってもいい。これはもうことばの魔法でありますよ。

『もじぴったん』の面白さが際立つのは、迫ってくるタイムリミットに焦りはじめるあの瞬間でしょう。偶然ことばができあがるのを狙って、手当たり次第にピースをおいて、まったく知らなかったようなことばが出てきて、うわあ、こんなのあるんだ! と驚く。驚きながら、次の置き場所を探して、また驚く。

私たちを取り巻くことばの世界は、本当にアメージングな面白さに満ちていると感じる、濃密な時間であります。

『もじぴったん』のよさは、まだまだありますよ。

子供と大人が対等に遊べる、実に貴重な数少ないゲームであると思います。子供の有利は、大人よりもはるかに柔らかな頭と発想力でしょう。対して大人は、生きてきた時間の長さ、— これまでに培ってきた語彙力と経験を武器とするのです。

けど、多分私はこのゲームは子供の方が強いと思う。だって、彼らのことばの世界は発展途上であり、どんどんと新しいことばを吸収していこうという最中なんですから。それこそ『もじぴったん』からも語彙を獲得して、次のチャンスに生かすことができる。ところが、私なんかは、こんな言葉あるんだあって驚くだけ驚いて、次の瞬間には忘れてるんですよ。正直なところを打ち明けますと、私は語彙数には自信を持っていたのです。ところが、そいつはただのうぬぼれに過ぎないと思い知らされました。だって、知らないことばなんて山ほど出てくるし、今まさに要求されていることばがちっとも思い浮かばず、タイムオーバー! きゃー、だめだめじゃん!

私の頭は、どうにもこうにも柔軟さを欠いているという話でありました。

私がこのゲームの存在を意識するようになったきっかけは、海藍さんの漫画『トリコロ』の扉でした。このゲームに興じる娘さんたちが描かれてて、そういえば『もじぴったん』って名前、聞いたことあるなあ。どんなゲームなんだろうとおぼろげに思って、その印象はしっかり意識のどこかにとどめ置かれたのでした。

そして決定打となったのは、野々原さんのサイトで見たもじくんのイラスト。もう、なんていったらいいの? めちゃくちゃ可愛いんだ。野々原さんの絵はもじくんにかぎらず可愛いんですが、死ぬほど可愛いんですが、その絵のコメントにこのゲームの『体験版』のURIが紹介されていまして、これでダブルノックアウト。休みの日にはうちから一歩もでない私が、町のゲーム屋さんまでいきましたものね。どれほどの衝撃であったかわかろうというものです。

加えていうと、『もじぴったん』の魅力はあのポップでキュートな音楽にもあると思います。もじぴったんうぇぶでは音楽のダウンロードも可能で、私はあの音楽を聴いて、これは買わないとと思い、ゲームを買った上にさんとらまで買ってしまうという入れ込みよう。ムックやノベルやOVAがでてなくて本当によかった……。

ともあれ、『もじぴったん』は最高のゲームであるといっていいと思います。最高です。

参考リンク

2005年6月9日木曜日

サイダースファンクラブ

 6月9日はロックの日! というわけで、こないだ買った『サイダースファンクラブ』の紹介だ。

ってこんなふうに書くと、なんだか熱いロック魂のこもった意欲作みたいな風に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、いえいえそうじゃないんです。『サイダースファンクラブ』は竹書房の四コマ誌に連載されている、女子スリーピースバンドが主役の四コマ漫画なんですが、なにしろ著者が小坂俊史ですから、音楽に真っ向に取り組んでいるというよりも、バンド活動からナンセンスな笑いを引きだしているという方がしっくりきます。けど、ナンセンス一色かといえば、そうじゃないというところもほのかに感じられて、だから、もしかしたら、ちょっと異色作なのかも知れません。

サイダースというのが主役三人のバンド名でして、ギター、ベース、ドラムというミニマム構成はそれぞれの果たすべき役割がおのずと大きくなるから、どうしても個性的にならざるを得なくて、小編成ならではという難しさと面白さが入り交じるのだと思います。そんな、ただでさえ個性的になりやすいスリーピースバンドを小坂俊史が扱うもんだから、もうどうしようもなく個性的になって、小坂俊史の味というのは、本気だかなんだかわからないナンセンスさにあふれたキャラクターの暴走っぷりだと思うんですが、そうした面白さはこの漫画にも生きています。

けど、それでも他の漫画とはちょっと感触が違うんですよね。なんというんでしょう。単発のネタをバンバン打ち出してくるようないつもの漫画とは違って、なにか長いスパンをかけて描こうとしているものがあるような気がする。いや、ストーリーをやろうというわけじゃないんです。なんというんでしょう。雰囲気なんです。サイダースのキャラクターは、ナンセンスな笑いを引きだすための機能というよりも、もっとなにか感情に触れる質感が感じられて、特にサイダースとライバル関係にあるウォルナッツとバニーズの三バンドがからんだときにその感触は強いと思えるんです。

『サイダースファンクラブ』の帯には応募券がついてまして、七百円の為替と送料を合わせて送ると、The ClicksによるCDがもらえるというキャンペーンが開催されています(七月末日締め切り)。なんかこういうキャンペーンも異色で、なんかいつもと違う感じがするというのは、漫画を取り巻くこうした状況も手伝っているのかも知れません。

けれど、多分漫画そのものに違いがあるのだと思っています。作者は、なにかこうしたバンドというものに、振り捨てられない感情みたいなのを持ってるんじゃないかなあと感じたのです、勝手な想像ですが。もしそれが本当なら、なにか絡みつく情が残ってしまっているような、あるいは思い切った振り回し方ができないといった感じは、あながちあってもおかしくないのかも知れません。

でも、これはきっと私のうがち過ぎ、考えすぎでしょう。私は私の音楽に対する屈折した感情を、勝手にサイダースに投影して、勝手に感傷的になっているんです。けれど私はこうした感傷は結構嫌いでなくて、だから私は、『サイダースファンクラブ』は小坂俊史の漫画の中で、特別に好きな感じがすると思うみたいです。

2005年6月8日水曜日

少林サッカー

 まさに今現在、異国の地タイはバンコクにて行われている、ワールドカップアジア地区最終予選日本北朝鮮戦。前半は今まさに終わろうとしていて、今だ0-0という状況です。

とまあ、こんな感じに、普段はスポーツ中継なんて見ない私も、なんとはなしにテレビをつけて、動向を見守ってしまうという不思議。なかなかゴールが決められないことにやきもきしてみたり、ピンチになればはらはらしてみたり、けれどそんな最中に『少林サッカー』のことを思い出していたりするんですから、やっぱり私は不真面目なんです。

しかも、その『少林サッカー』で文章を書こうとしてるし。なんというベタな展開かと、われながらあきれっちゃいますわ。

ベタといえば、『少林サッカー』という映画も実にベタな映画であったと思います。かつての修業仲間を集めてサッカーチームを結成。拳法の技を駆使して、スーパープレイを連発するというそのアイデアは、特に真新しいものではないと思います。けれど、このベタなネタに本気で取り組んで、かたちにしてしまったというそこが素晴らしい。渾身のシュートが次々選手を吹き飛ばしてみたり、さらにそれを受けたキーパーを再起不能に追い込んでみたりと、まさに殺人シュートですね。実際、プロの選手のシュートって、下手に受けたら内臓破裂したりするような威力らしいですが、そんなどころではないアメージングなプレイに、見ているこちらは笑いが止まりません。

あまりのやり過ぎ感が人気の『少林サッカー』ですが、けれど映画としては弱いといわざるを得ないんですね。なんというんでしょう、前半後半のバランスの悪さは誰もが指摘するところであるし、きわめて重要なキーパーソンであるにも関わらずヒロインの扱いはどうにも中途半端で、私たち観客は、ヒロインとはヒーローに恋するもんだみたいな感じで見るもんだから成立しているという感じがする — つまり、ちょっとヒロインの動機が弱い。もうちょっと丁寧に描けば、もっと効果的に働いたんじゃないかと思うのに、全体のごちゃごちゃとした印象のせいで、話の軸がどこにあるのかはぼやけしまっている感じです。

けど、『少林サッカー』に関しては、こうした評価軸というのはどうでもいいよなあ、っていうのが私の感想です。あの、なんでもかんでも思いついたものを全部入れてみました感、雑然とした雰囲気こそが『少林サッカー』の味で、だから私はもっともっとやれってな感じで、応援したくなってしまうんです。それこそ、インド映画みたいに目茶苦茶長くなってしまってもいいから、とにかく山盛りに詰め込んで欲しいなと、そんな感じなのです。

実際、私の身の回りの『少林サッカー』を見た人の感想を集約すれば、あの爽快で壮観なハイパーサッカーシーンを見たりないというところに尽きると思うんです。私もそう思います。それで、できればもう少しヒロインのシーンも増えれば、弱いなと感じるところも補強される(?)。そもそもこの映画の雑駁さは伸びようとする勢いのあらわれで、けれどそうした力が後半に来て少し弱められたと感じたのが、私たちの残念の正体なのではないかと思います。そう、私たちは、この映画の勢いをもっと感じていたかった、もっと彼らのサッカーを見ていたかっただけなのです。

ところで、ヒロインであるヴィッキー・チャオをブスに仕立ててうんぬんとみんながいうのですが、あの肌の荒れたメイクは別にしても、全体には可愛かったと思うのは私だけでしょうか。それこそ、普段の今風のヴィッキー・チャオよりも、映画の地味でブスに描かれた(と人のいう)ヴィッキーの方がいいと思うのは、私だけなんでしょうか。

そんなわけで、私に関していえば、もっとたくさん地味なヒロインを見られれば嬉しかったなとそんなわけで、その上、もっともっとサッカーの場面があればいうことなかったなあ。と、そんなふうに見たりないから、何遍でもこの映画を見たくなるんです。— だから、あれはあれでいいバランスだったのかも知れません。

2005年6月7日火曜日

漢字と日本人

 君は主義者かねと薮から棒に聞かれてたまげたことがあります。私に対してのことですから、きっとアカかといわれてるのだと思ったら、それが大間違いでして、右翼かというんですね。なんでですかと聞き返したらば、私の以前に渡しておいた書き置きに正字が含まれていたからというわけで、ああ、そうじゃそうじゃ、確かに私は正字正假名をつかうことが頻繁です。

けれど、別にこれは右翼だからとか保守主義者だからというわけではなくて、習字をやっているから、— 手と目に字を習わせるためであるからと説明申し上げて、主義者というほど上等なもんではないとお断りしました。けれど右翼というのを本来の保守傾向の意味でいうならば、私は、こういった文化的な方面においては、まごうことなく右であるなと自己分析するものであります。

けれど、文化伝統主義者と自らもいう私のだらしなさったらありませんで、そもそも私の目にも手にも正しい字や仮名遣いというのはありません。私が日頃書いているのは、皆さんと同じく戦後略字の数々です。戦後の、どちらかといえばリベラルな環境で育って、私はあんまりにも素直でしたね、文部省とやらのいうことを疑わなかった。国語の授業において、漢字や仮名遣い、送り仮名、文体を、教科書や教師のいうままに習って、それでいいと思っていた。けれど、そうした文部省やらのいうことが、こと日本語においては絶対ではないと知ったのは、高校の時分の社会科の教師の一言がはじめでした。

板書の送り仮名に駄目を出された教師は、間違いではないといったのですね。これら仮名は読みやすくするために送るのであって、いわゆる本則が絶対ではないのだうんぬん。すわ開き直りかあるいは言い逃れかと思って調べたら、実に教師のいうことは正しくて、私はそれ以来、仮名の送りに関しては本則を絶対視しません。

大学にて学んでいた頃。『〈藝術〉の終焉』という本を講読したことがありました。この本では藝術は藝術と一貫して記されていて、国安先生は芸と藝の意味の違いを知っておいでだから、どうしても藝術を芸術と書くことはできずにいらっしゃるのだと教員から知らされて、けれど私はその意味をよくわからず、けれどきっと意味があるのだろうと藝の字は空で書けるようにしました。

日本語における漢字の重要性を理解しない日本人はいないことでしょう。ですが、ご存知でしょうか。世の中には仮名書き論者というのがおりまして、最近でこそその勢力を弱めていますが、日本語から漢字を放逐して、かなだけでかくようにしようというひとたちがあるのです。ついでにいうとローマ字論者というのもあって、その人たちは、日本語から漢字や仮名を放逐して、ro-ma ji dake de kakou to iimasu。

今からすれば、なんと無理矢理という感もあるのですが、けれど戦前戦中あたりにはこうした派閥は結構幅を利かせていました。実際私は、図書館の蔵書にローマ字論に則って書かれたものを見つけたことがありますが、しかしそれにしても読みにくかった。ちっとも内容が頭に落ちてこないのです。今、こうしたローマ字ばっかりの和書だとか、あるいは仮名のみで書かれた大人向けの本というのを目にすることはちょっとありませんが、けれどこれら仮名書き論やローマ字論が今の私たちにまったく影響していないわけではないのです。

私たちが不断使っている漢字ですが、常用漢字という枠組みがあることはご存知であると思います。例えば、ここ数年、よくよくメディアに現れる拉致という言葉ですが、ちょっと前まではと表記されていました。これはなんでかといいますと、拉致の拉の字が常用漢字でないためでして、新聞は常用漢字表外の文字を使わないようにしていましたから、こうした交ぜ書きというのがたくさんあったわけです。例えば破綻(破たん)なんかもそうですね。補填(補てん)なんかもそうでしたね。

この交ぜ書きという醜悪がまかり通っていたのは、常用漢字というものがあったからなのですが、この常用漢字の正体とはいったいなんであったのか。常用漢字はかつて当用漢字と呼ばれていましたが、そもそも当用というのは当座の用という意味で、つまりさしあたって使用される漢字という変な呼び名であった。なぜか?

高島先生の『漢字と日本人』には、この奇妙な漢字に関する事実が、わかりやすく説明されています。国安先生が藝術を芸術と書かれないわけについても書かれています。こと重要なのは最終章でありますが、ここにいたって、私はことのあまりの悔しさに泣いてしまったほどです。

ですが、お恥ずかしいことですが、私はこの本を読んで、自分のものを知らないことをあらためて思い知って、自らを呪わないではおれませんでした。戦後の日本語の誤りの中に学んだ私は、自分の使う言葉のおろそかであることを表向きには嘆いて見せるくせに、実際には、結局言葉というのはコードでもあるわけですから、私だけが意固地に逆らっても仕方がないと、半ばあきらめてしまっています。日常の用には、それこそ常用だか当用だかの表中にある、略字使ってればいいじゃんかと、そんなやけっぱちな気持ちであって、恥知らずにも中途半端のどっちつかずをやっているのが私という人間の浅ましいところで、— けれど私はわたくしの用には、なるたけ正しいものを使いたいと思っています。

しかし、これはまた思っていた以上のセンチメンタルぶりですね。自分でもちょっと笑っちゃいますわ。

  • 高島俊男『漢字と日本人』(文春新書) 東京:文芸春秋,2001年。

2005年6月6日月曜日

ルービックキューブ

  先達てスネークキューブなるものが子供の頃はやっていたうんぬんと、懐かしのおもちゃ思い出話なんぞしましたが、世間一般においては、断然ルービックキューブのほうが人気でありまして、各面3×3のブロックで構成された立方体のおもちゃを、子供も大人も、お兄さんもお姉さんも、みんな暇さえあればがちゃがちゃいわせて、なんとか六面体を完成させようと必死であった時代があるのです。どこのうちにいってもこの六面体は転がっていて、従姉妹のうちにも友達ん家にも、ピアノの先生のお家にもあって、そしてもちろん私のうちにもあったのでした。

ルービックキューブ、いま口にしてもなお甘味なる言葉。あの八十年代という素晴らしき時代を語るに、ルービックキューブを欠かすことはできないでしょう。スタジャンでオシャレにキメたヤングたちは、ウォークマンのヘッドホンもりりしくさっそうと街を闊歩し、手持ちぶさたにルービックキューブをかちゃかちゃやっているのというのがナウかったんですよ。この頃の風俗というのは、当時のヤング向けコミックなんかで今も懐かしく振り返ることができますが、ブリッ子と揶揄された女の子たちは、リボンやフリルをあしらった服に身を包んで、男の子はといえば、そうそう、あれだ。全盛期のマッチとかトシちゃんを思い出してくれればいい。柄のシャツにサスペンダーなんかをして、なんか変な感じでしたよね。でも、今になってみれば、懐かしさも手伝うからか、なんだかもういっぺんくらいああいうファッションがはやっても面白そうなのになあと思ったりします。

私は死んでもあんなの着ないと思いますが。

さて、ルービックキューブの話に戻りましょうか。実をいうと、私の周辺ではそれほどルービックキューブははやっていなかったんです。というのもですね、これで遊ぶには私らはまだ小さすぎて、なんせ結構込み入ったパズルでありますから、だいたいハイティーンから二十歳過ぎのヤングまでくらいがブームの中心で、後はその最先端の流行に巻き込まれて引き込まれたみたいなおじさん、おばさん、そして私ら子供が続いたといった感じで、だからうちにもルービックキューブはあったとはいえ、六面を完成させられる人間は一人もおりませんでした。

でも、今うちに残されているルービックキューブは、きれいに六面ともに色がそろっているんですね。なんでなんでしょう? 誰かに頼んでそろえてもらったのでしょうか。

と、ここに裏技というのがあるのですよ。この技を開拓したのは近所の悪ガキ仲間でありまして、まあこの手の技を操るものは日本中あちらこちらに山といたかと思われます。その手順は実に簡単で、どれかひとつ頂点のブロックに力をうんと加えて、外しちゃうんですね。ひとつブロックが外れれば、キューブはばらばらに解体することができます。そう。一旦解体したキューブを、再度組み合わせてきれいな六面体を復元するという技があったんです。

そりゃ反則だという声も聞こえてきそうですが、でもこうした反則を駆使しないことには私らにはどうにも完成なんて無理だったのです。聞いた話では、反則技を編み出したとこの兄貴は自力で六面を完成させたという話で、なのでやっぱりそういう話を聞くと、カッコイーなーなんて思ったものですよ。

あの当時は、ルービックキューブの早揃えを競い合ったりするコンテストやらテレビ番組やらがあって、ある種時代の熱狂を感じますね。今、あんなに日本中で熱狂するなんてことってどうもないような気がします。大人も子供も、お兄さんもお姉さんも、みんなこぞって打ち込むようなものというのは、分衆の時代を経た今には存在し得ないもんなんだろうなと思います。

いや、そんなことないか。あの当時はパンダがブームでしたが、最近ではパンダはパンダでもレッサーパンダが国民的人気を勝ち取りそうな勢いでした。日本人の根は、案外あんまり変わってなさそうです。

2005年6月5日日曜日

つうかあ

 ツーさん(妻)とカーさん(夫)の、ラブラブだけどどことなく肩の力が抜けたところが嬉しい漫画で、この表紙のお姉さんがツーさん。いったいなにをしてるのかというと、じゃんけんでなにを出そうかと決めあぐねてるところで、裏表紙には同じくこれをやっているカーさんの後ろ姿が描かれております。

のんびり系夫婦漫画『つうかあ』を読んでいいなと思うのは、二人がいい感じに対等で、それも別に同権だとか同等だとか、そういったイデオロギーとかから抜けたところに暮らしているところであろうかと思っています。私は、どちらかといえば、思想色の強い男女同権論者ですが、本当はそんなのはつまらないと思っています。男がどうとか女がどうとか、どちらが偉いとかなにが甲斐性だとか、そんなの考えないでも暮らしていける、— お互いがお互いを必要として、お互いを頼みにして暮らしていけるような関係であるのがいいなあと思うんであります。

そういう点において、この漫画に出てくる主人公夫婦は理想的ですよ。一時期友達夫婦とかいう言葉が流行ったけれど(いや、友達親子だったっけ?)、ちょうどそんな感じに恋愛というよりも友達関係みたいな雰囲気が漂っていて、いや、もちろんそれでも夫婦であるので夫婦らしさもあるのですが、友達のようで恋人のようで、それでいてもちろん夫婦という、どこにも定まらない穏やかな自分たちらしさがあるのがいいなあ、と。

ま、このへんは私がいつもいってることの繰り返しでございますな。

思うにツーさんカーさん夫妻は、中性的カップルの行き着いた先なんではないかというような感じがありまして、旦那であるカーさんについては、作品中でも言及されてるように男っぽさには欠けるという表現が実にしっかりくる。妻ツーさんに関しても、その少年っぽい風貌も手伝ってか、女臭さというのがなくって、すごく清冽な印象。私、いっつも思うんですが、少年っぽさの感じられる風貌の女性ってよいですよね。飾り気なく、質素あるいは地味で、さばさばした女性というのはすごく魅力的だと思います。

私は、自分自身がユニセクシャルだとよくいわれるからというわけでもないのでしょうが、どうにも濃い恋愛というのは好きませんで、もっと、こう、なんていうのかな、性やなんかはちょっとタンスにでもしまっておいて、普段はそういったことなしにいたい。隣同士に寄り添って、その人の温度と重さが感じられるというのが理想だと思っていて、もちろん他の花に寄り道してなんてのはなしで、そうさなあ、ただ穏やかに一緒にいたいだけなのですよ。

私がこんなだから、そうした理想をよくよく表現している『つうかあ』は、すごく気持ちよく読めて、このほのぼの夫婦のやくたいもない日常には、ついつい笑みを浮かべてしまいます。

事件らしい事件が起こっても、事件というにはささやかな出来事にも、もちろんなにも起こらなくたって、いつもと同じように夫婦向き合って、一緒に寄り添っていられたりしたらきっと素敵だろうと思います。

  • 入江紀子『つうかあ』(YOUコミックス) 東京:集英社,1997年。

引用

  • 入江紀子『つうかあ』(東京:集英社,1997年),160頁。

2005年6月4日土曜日

懐古的洋食事情

     市川ジュンの漫画はとてもセンシティブだもんだから、私はどうしても心引かれてやまないのです。心の機微に触れる細やかさと最後の一歩を踏み込む大胆さ、鋭さを合わせ持っていて、その上しなやかであるところが気に入っています。このしなやかであるというのは大変なことで、市川ジュンは女性の自立であるとか権利であるとかの固く重いテーマを扱って、しかしそれが萌える芽吹きの息づきを常に忘れないものだから、すごく心にしみてきます。類いまれな才能と表現力だと思うのですが、あんまりメジャーなところに躍り出てこられないのがひたすら残念です。

さて、市川さんの漫画の人気テーマはなにかといいますと、どうやら料理と明治大正昭和であるようで、こういった事情を反映してか、先達てYOUで始まった連載『ひまわり』も、第二次大戦後の東京を舞台に屋台を開く女性の物語でありました。ああ、そうだ。市川さんの重要なテーマとしては、女性の生き方というのがありますね。

『懐古的洋食事情』は、以前紹介しました『陽の末裔』のサイドストーリーで、『陽の末裔』の登場人物がいろいろに登場しては、洋食事情と絡み合うという構成がすごく面白いと思ったものでした。庶民も華族も皆一様に料理、食事のことごとに興じて、ともすればシリアスに過ぎた『陽の末裔』をうまく朗らかに補っていたのでした。私はこれら小エピソードが持つ暖かさがすごく好きで、具体的にどれが好きかとはいちいち書きませんが(だって、そんなことしたら連載になるほど長くなりますぜ)、本編ではあまり光の当たらなかった人や不遇であった人が、ここでは仕合せに包まれている。

私は、たとえそれがかりそめであったとしても、人生に暖かな優しい光が当たっている様を見て、すごく穏やかな気持ちになれます。苦闘の連続であった人生に、それでも慰め、喜びはあったのだと、願わくば闘いの終わったそれからは、こうした仕合せが長く続いて欲しいものだと、思わないではいられなくなるのです。

私は、はじめて買った『YOU』本誌で「ライスカレーの永遠」を読み、その後、行きつけの書店に並んでいたこのシリーズを少しずつ買い集めて、けれどその時はまだ『陽の末裔』は知りませんでした。シリーズを読み進んでいくうちに、だんだん見えてきたのは、この小エピソード群を貫くひとつの流れがあるということ。あちこちに現れる名前がある。何度も出てきては、その存在感を見せつける人たちがいる。このシリーズが『陽の末裔』に関わっているということを知って、私は本編を買い求めました。

だから、私は『陽の末裔』に関しては、裏道から入ったのです。読み始める前には、あの仕合せな物語たちの夢を壊しやしないかとはらはらしていて、けれど本編を読み終えて、本当によかったと思ったものでした。確かに、『陽の末裔』は仕合せ一辺倒の話ではなくて、苦しみや悲しさ、つらさがいたるところに顔を出して、仕合せが華やかに色づいた『懐古的洋食事情』とはずいぶん違っています。けれど、それでも『陽の末裔』の根底には『懐古的洋食事情』と同じ流れがあって、私はこれらの素晴らしい物語を、どちらかしか知らないというのは非常にもったいないことであると思います(どちらも知らないというのは論外ですけどね)。

『懐古的洋食事情』を読んで、私はあの明治大正という時代の躍動を見た思いがします。確かに、差別や偏見、不公正、不公平は今よりもたくさんあって、決して生きやすい時代ではなかったと思います。ですが、それでも、新たな風を取り入れようと大きく開かれた窓の気持ちよさはきっと例えようもなく素晴らしかったはずで、市川さんの筆によって描かれた食卓厨房の輝きは、そうした当時の情景を、— 未来を信じ、模索し、努力を惜しまなかった私たちの先人の生を、いきいきと伝えています。

参考

2005年6月3日金曜日

Prelude and Sonata

 『ラプソディ・イン・ブルー』がクラシックの世界にジャズのエッセンスを持ち込んだようなものであるとすれば、マッコイ・タイナーの『プレリュードとソナタ』はまったくその逆。クラシックの曲をジャズの語法で演奏していて、そのモチーフとなったのはショパンの『前奏曲』とベートーヴェンの『ソナタ』。どちらもれっきとしたクラシックの名曲で、まさにスタンダード中のスタンダードといえます。けれど、スタンダードナンバーを取り上げて、自分の色で演奏するというのはジャズのジャズ足る所以ではないですか。しかして、ショパンもベートーヴェンも、クラシックではちょっとないような新味が加わって、馴染みの曲がまったく思い掛けない装い。私にはショパンがすごく魅力的です。

しかし、魅力的なのはクラシック曲だけではないですぞ。このアルバムには、『ひまわり』だとか『シェルブールの雨傘』だとか、それからチャップリンの名作『モダンタイムス』の主題曲であった『スマイル』など、耳になじんだ映画音楽も収録されていて、それらもとてもよいんですから。特に私は『スマイル』がお気に入りで、本当ならちょっぴりメロウに感傷的に演奏されるこの曲が、シャッフルのリズムで小気味よくやられるもんだから、もともとの曲調とのコントラストが際立っていて素晴らしい。コントラストをいうなら、表題曲であるショパン『前奏曲』やベートーヴェンにしても同様で、本当なら双方しっとりとした静かな曲であるのに、がらりと印象を変えて楽しくも沸き立つ名演奏に仕上がっています。

とまあ、こんなふうに書いたら、元気がいいのが取り柄みたいに読めちゃうかも知れませんが、もちろんそんなことはなくて、『ソウル・アイズ』や『グッド・モーニング・ハートエイク』のように、スロウな中に陰りが映える曲もあって、こういった表現の幅の広さは、そりゃもうマッコイ・タイナーですから。キャリアも長い人ですし、いろいろな表現のための言葉を知っている人だと、明るい曲も沈んだ曲も、どれを聴いてもそれぞれのよさというのがでているのだからさすがであるなあと思います。

2005年6月2日木曜日

Rhapsody in Blue

複数のスタイルを組み合わせて新しいものを模索しようという動きは、今も昔も盛んでありますが、もちろんこれは音楽も例外ではありません。古くをいえば、モーツァルトやベートーヴェンといった古典派の音楽家は、トルコ軍楽隊の響きを自作に取り入れていますし、印象派ドビュッシーに影響を与えたのはガムラン音楽であったというのも有名な話で、こんなふうに、新しい響きを求めようという意欲はジャンルの壁を越えるのであります。

ブルックリン生まれの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが取り組んだのは、クラシック音楽とジャズの融合でありました。そもそもこれはポール・ホワイトマンにそそのかされたのが最初であったんですが、ガーシュウィンが曲を書き、『大峡谷』で有名なファーディ・グローフェが編曲。こうやって誕生した『ラプソディ・イン・ブルー』は大成功を収めたのだそうです。

『ラプソディ・イン・ブルー』は、冒頭のなまめかしくも特徴的なクラリネットのグリッサンドがきわめてよく知られていますが、中間部の美しさもまたよく愛されて(昔、車のCMで使われていました)、若々しくはつらつとしたメロディの親しみやすさのためかも知れません。とにかく聴いていて嬉しくなるような音楽であると思います。

私の持っている『ラプソディ・イン・ブルー』は、レオナード・バーンスタインが指揮と独奏ピアノを受け持っている盤と、ガーシュウィン演奏のピアノロールを独奏に迎えたマイケル・ティルソン・トーマスの盤なのですが、人に勧めるのなら、私はやっぱりバーンスタインの方がいいんじゃないかなと思うんです。

なぜ、トーマスを勧めないのかというと、アイデアはいいと思うんですが、やっぱり音楽としては下手物一歩手前なんじゃないかという思いがあるからで、だってピアノロールですよ。ピアノロールというのはパンチ穴が空けられた紙ロールでもって制御される自動ピアノでありまして、ガーシュウィンの演奏による二台ピアノ版の『ラプソディ・イン・ブルー』のロールから、ピアノ独奏部分を取り出して復元して、それをオーケストラ(厳密にはジャズ・バンドですね)とあわせてみたという、— うん、確かにアイデアとしては面白いと思います。

けど、このピアノロールの再現性というのも馬鹿にできなくてですね、二十世紀当初のアメリカでは自動ピアノメーカーがしのぎを削って、どれだけ本物の演奏らしさを再現できるかというのに躍起になっていたから、この演奏がまさか機械仕掛けとは思われません。でも、やっぱり問題はあって、二台ピアノ版のロールが元になっているわけですから、他の演奏者のことなんて考えられてないわけです。ピアノの運動性、機能性でもって音楽が進行していくから、いくらなんでもおかしいというところが散見されて、けどアイデアとしては面白いんですね。

今演奏される『ラプソディ・イン・ブルー』は、本式のオーケストラでもって、とても豊かに、ゴージャスに、重厚に、という風なもんであるんですが、トーマスのものはといえば、1924年当時を再現するかのようなジャズ・バンドでの演奏ですから、ゴージャス・シンフォニック・オーケストラでは感じられないような独特の軽快さやのりがあって、やはり独特の面白さがあるのです。ほら、バロックの音楽を、当時の楽器や演奏慣習でもって演奏するという話がありますが、ちょうどそんな感じの新鮮さがあって面白い。だから、演奏に疑問があると思うのはモダン(?)の『ラプソディ・イン・ブルー』に親しんでいるからかも知れなくて、あながちトーマスの盤は悪くないかもなあと思うのですね。

でも、やっぱり最初に聴くなら今風の演奏をお勧めします。私が持っているのはたまたまバーンスタインの盤だったからこれを引き合いに出していますが、『ラプソディ・イン・ブルー』はさまざまな指揮者、オケ、ピアニストによって録音されています。なのでお勧めは本当に人それぞれ、さまざま。自分向きの演奏を探せると、それがきっと楽しいんじゃないかと思います。

2005年6月1日水曜日

A Night with Strings Vol. 2

 日本にもよいジャズプレイヤーはたくさんいるのですが、中でも私が好きな人といえば、サクソフォンプレイヤーの渡辺貞夫氏。艶のあるトーン、演奏は実に軽やかであるというのに、その土台はどっしりとして揺るぎがありません。聴いていて不安に感じることなんてまったくないから、リラックスしてゆったり聴いていられるのです。

『A Night with Strings』は、そんな氏のクリスマスライブアルバム、Vol. 3まででています。私が持っているのはVol. 2なのですが、弦楽が加わった豪華でシックなステージは、すごく大人びてリッチ。ライブアルバムとは思えない完成度の高さにも驚かされます。

(画像は『A Night with Strings』)

1993年の『A Night with Strings』は、ブラジルのナンバーを中心に構成されていて、楽曲のクレジットを見ればアントニオ・カルロス・ジョビンやジルベルト・ジルといった、ラテンミュージックのビッグネームがぞろぞろと並んでいて壮観です。しかし、ラテンミュージックというのは、そのリズムの多彩さ、独特の高揚を見せながらも、すごくおしゃれな響きがあって素敵ですね。こうしたラテンナンバーの軽やかであだっぽいという特性はもちろんこのアルバムにおいても発揮されていて、けれどどこまでも洒脱でゴージャスというのは編曲の妙もあるのでしょう。やっぱり弦が加わると、特別な感じがします。あの静かに湧き上がってくるような響き、ハーモニーの広がりは、他では得られない弦独自の世界であります。

ですが、やはりこのアルバムは渡辺貞夫率いるプレイヤーの世界でしょう。皆、素晴らしくうまい。本当にこれがライブ盤なのかと思ってしまうほどに完成された演奏で、音楽の求めるところを知った人間が、そのなすべきことをきっちりと果たしています。そして、完成度が高いということは、膠着しているということとはまったく違うということがわかる。アルバムからはライブらしい高まりも感じられて、なんと豊かなんだろうかと嘆息します。技量の高さ、音楽性の高さを頼みに、弦楽を背負ってともに舞い上がる確かさと強さ。

— 私が、音楽ってよいよなあと思うのは、こんな瞬間です。