2005年6月25日土曜日

悲劇の誕生

  音楽美学なんてのをやっていると、アポロ的とかディオニュソス的とかいう言葉が結構出てきます。この用語というのはニーチェが『悲劇の誕生』の中で用いたものなのですが、あまりに便利で使いやすいものだから、もう本当にいろんなところに出てきます。といっても、さすがに使われすぎたからか、それとも単にはやりが過ぎたからか、この頃はあんまり目にすることもないように思います。ちょっと前の流行といった感じでしょうか。でも便利だから、ついつい使ってしまうという人も多いようです。

アポロ的とディオニソス的というのはどういうものかというと、アポロ的は調和とか秩序を重んじる態度、対してディオニソス的というのは激情とか衝動に突き動かされる陶酔的態度。こんな具合に、ふたつの言葉は対をなしています。

この用語はどういうときに便利かというと、例えば、形式を重視した古典派の音楽はアポロ的であるとか、じゃあバロックやロマン派はディオニュソス的だとか、そういう様式の説明を楽にできるんですよ。あるいは批評の際にも、見通しのよいアポロ的演奏だとか、ディオニュソス的なんたらに身を任せてうんぬんだとか、とにかく便利に使いやすい言葉です。

アポロ的・ディオニュソス的に似たような言葉は他にもあります。古典的にはコスモス・カオス、フロイトなんかだとエロス・タナトスというような用語を使います。最近じゃホメオスタシス・トランジスタシスのほうが通じるんでしょうか。これらの用語は、本当は違うんですが、だいたいおんなじことをいっていると思っていいんじゃないかと思います。特に、一般に使われる範疇においては、違いはないと考えて間違いないでしょう。そもそもトランジスタシスなんて言葉はないわけですし(ホメオスタシスというのは恒常性と訳される生理学の用語です)。

閑話休題。こうした言葉はあんまりに便利だから、誰もが使いたがって、もちろん私も散々使いまして、けれど最近ではあんまり使いすぎるのもどうだろうと思い、自制するようになりました。だって、あんまりに物事の傾向を決めつけすぎてしまうというのもなんですから。

そもそも人間にせよなんにせよは、こうした両極端を丸抱えしているもんでありますし、そこをディオニュソス的とかアポロ的とかと決めてしまうと、次が進みにくくなります。けど、やっぱり人間は物事を弁別したいもんですから、こうした用語があると便利なんですね。特に、こういう対をなす言葉を使うと、あたかももう一方の傾向についても検討したように見えてしまう! そんなこんなで、便利に負けてしまう。悪い傾向です。

ついでにいえば、今私がいっているみたいな、物事は相反する傾向 — 矛盾を抱えているどうこうという話にしても、みんな使いたがる便利な説明でありまして、こいつの亜流も散々あちこちで見ることができます。なんか嫌だなあと思いながらも、便利だから使ってしまう。悪い傾向 — ま、つまるところは何事もほどほどが肝心ってことなんでしょう。

『悲劇の誕生』を読んでみると、あんまり簡単にアポロ的だディオニュソス的だと区別するのはどうだろうというのがわかってくるのではないかと思います。けど、この本はどうにも熱病に浮かされたような妙な高揚があって、私は何度読んでも途中でいやんなって投げてしまいます。だからなおさら、私はアポロ的・ディオニュソス的という用語は簡単に使わんほうがいいと、自分に言い聞かせています。

  • ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1966年。
  • ニーチェ『悲劇の誕生』西尾幹二訳 (中公クラシックス) 東京:中央公論新社,2004年。

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