2006年10月31日火曜日

JavaScript

 今日、人に説明しながらプログラム書いていたときに、なんとなく思いついて、こんなの書いたのでした。

if ('俺' == 'ヒーロー') {

}

これ、もし 俺がヒーローだったらを表してるつもりなんですが、今日、帰り道、やっぱりはオブジェクトにすべきだったかなあと思ったりなんかしまして、だって、('俺' == 'ヒーロー')なら結果は常にfalseにならざるを得ないわけです。だから、まずはHumanオブジェクトを定義して、それをvar = new Human();みたいにしてインスタンスを作成した後に、が英雄であるかどうかを判定すべきでしょう。で、人が英雄であるかどうかというのは、つまりその人の性質を判断するということになると思うので、Natureプロパティあたりを判定すればいいというわけで、つまり、こんな風に書くべきなのかなと思い直したのでした:

if (.getNature() == 'ヒーロー') {

}

なにあほなことゆってんの、てなものですが、人間疲れてくるとこんなもんです。とりわけ、プログラムなんて理屈やらなんやらで書くもんですから、途中で疲れてきて、どんどん頭が悪くなっていると自分でもわかって、言語支離滅裂になるし、しまいにはろれつもまわらなくなるし(やばい?)、そんなときにはこんなくだらないことでもしないとやってられません。

というわけで、さっきのプログラミング例を見ていただいておわかりのように、私は最近JavaScriptに取り組んでいます。JavaScriptというのはWebブラウザ上で利用できる言語でありまして、Webサイトの使い勝手をよくしたり、また最近ではAjaxと呼ばれる手法が花盛りで、過去には考えられなかったようなユーザーインターフェイスを実現したりと、まさしくJavaScript返り咲きといった具合なのです。だって、昔はJavaScriptといったら、ウィンドウをばんばか開いてうざがられたり、ステータスバーに文字列流してうざがられたり、Web上の嫌われ者という印象が強かったのです。ですが、Googleマップが火をつけたんでしょうかね、便利な例が人目につくところに現れて、それにAjaxなんて名前が付けられて、一気に広まって、それで気がつけば私もJavaScript書いてたりします。

Ajaxがばーっと広がったからか、Web上で参照することのできるJavaScriptリファレンスも充実してきて、実にありがたい限りだと思います。それこそ、ちょっと前までとなれば、文字を流す方法とか、ウィンドウ開く方法とか、便利なものだったらフォームの入力チェックでしょうかね、とにかくそういうことをやりたい人のためのサンプルコード集みたいなのしかなかったから、それを考えると格段の変化だと思います。けど、それでもまだ私には不満があって、というのは、ひとつのプログラミング言語としてJavaScriptを知りたいと思っても、そうした視点にたってJavaScriptを学べる環境というのが見当たらないというところです。

Web上の情報だけで済ませようという考えには限界があるなと思って、けれど巷のJavaScript本はといえば、結局サンプルコード集みたいなのばかりという印象で、だから私はオライリーの本に手を出すべきなのかなと迷っているところです。オライリーの本は、GISだったか、地図関連のコードブックをちょっと見たことがあって、けど本格的な本は読んだことがありません。DreamweaverにオライリーによるHTML/CSSとJavaScriptのリファレンスがついていて、それを読んだくらいでしょうか。

言語としてのJavaScriptを学びたいならオライリー本を読め、他には類書はないからという意見は何度か目にしていて、なのでオライリー本を買うべきなのかも知れません。その際には、やっぱりJavaScript 1.2中心の日本語訳第3版ではなく、JavaScript 1.5にまで言及している原書第5版を読むべきなんでしょうか。英語かあ。嫌だなあ。でも、コンピュータ絡みの新しい情報は英語ができないとどうしようもないからなあ、てな感じで迷っていたりします。

ところでHumanクラスで思ったのですが、JavaScriptはプロパティ(インスタンス変数)の隠蔽ができない言語なので、外からなんぼでも中をのぞけるんですよね。つまり、さっきHuman.getNature()みたいに、ゲッターを使ってNatureプロパティを参照していましたが、そんなことせずとも、Human.NatureでNatureプロパティにアクセス可能なのです。けど、これは便利な反面、危険もあって、それ以前に自分がインスタンスなら嫌だなあみたいな話でしてね、だって、内心の秘匿ができないわけです。つまり『サトラレ』みたいな状況ですよ。

そんなわけで、私はちょっとJavaScriptの国には住みたいとは思いません。

  • フラナガン,デイビッド『JavaScript』村上列,垰井正雄,安藤進訳 東京:オライリー・ジャパン,第3版,2000年。
  • Flanagan, David. Javascript: The Definitive Guide. 5th rev. ed. Sebastopol: Oreilly and Associates, 2006.

引用

  • 高橋研『翼の折れたエンジェル

2006年10月30日月曜日

ナツノクモ

 全姉連の皆さん、ご覧になってますか? 私の一押しの漫画『ナツノクモ』の第7巻表紙は、皆さん方のお好きなですよ。アーネフェルト盗賊団のリーダー、アーネフェルトとその弟カツトシが表紙を飾って、そう彼らが帰ってきたのですよ! 気っぷがよくて豪快で、話せるかっこいい姉とちょっとみっともない弟……。つうか、作者は弟なんでしょうか? しかも、嗜虐性のある姉をお持ちなのでしょうか? アーネフェルトの姉さんの強烈なキャラクター性とその説得力は、すなわち作者篠房六郎が弟であると物語っているとしか思えない。そう、やけにリアルなのですよ、あの物言いが、あの振舞いが、あのカツトシのおびえっぷりが!

でも、私は別にシスコでもシスコンでもなんでもないから、別にアーネフェルトが戻ってきたからってなんとも思わない(嘘)。けど、いよいよ役者が揃ったという感じがしてわくわくする第7巻は、実際に戦闘てんこ盛りの大盛り上がりを見せて、『ナツノクモ』の陽の部分が絢爛に輝いているという感じです。そうなんですね。『ナツノクモ』には光の部分、影の部分というのがあって、非常に陰鬱で圧迫されるような心理描写があったと思えば、その揺り返しかと思えるようなダイナミックな戦闘も見せてくれて、この7巻の見せ場はまさしく陰から陽への切り替え。これまで保たれてきた静があのあまりにも感動的な台詞でもって動に転ずるべく舵を切る、その鮮やかさにうなります。

そしてまたうならされるのは、クランクの作戦の鮮やかさでしょう。これが本当に出来すぎている。大魔道士と騎士団の同士打ち作戦にも心を震わせたものでしたが、第7巻はそれ以上。確かにあまりにもクランクの策がはまりすぎていて、ハッターならずともちょっと退屈かも知れないけれど、けど実をいうと私はクランクでもなくトルクでもなく、ハッターでもなく、それこそミツキに似た精神構造を持っているものですから、ああいう一方的な大殺戮は大好きで、面白かった!

面白かった — 、けれど本当に面白いのは爽快な一方的勝利ではなく、随所にちりばめられたギャグでもなく、それらを縫い取る糸のように紆余曲折しながら語られる、登場人物の心理描写であると思うのです。確かに、戦闘の描写やギャグが増えれば、その分心理描写は弱くならざるを得ないのですが、ですが第7巻は要所要所に大きな山が設定されているから、それら描写が胸にずしんと響いて、涙がにじんだこと一度や二度ではありません。とにかく『ナツノクモ』は振り回してくれるなと思うのですす。

第7巻では主要人物の抱えていることの大きさ重さがはじめてはっきりと語られて、それがきっかけとなって物語の奥底にあるテーマが動き出したと実感できる重要な話を含んでいます。これまでに積み重ねられたことが、いよいよかたちを成そうとしていると感じられて、だから私はこの章をもって『ナツノクモ』は終わりに向かうかも知れないと思い、寂しさを思ったのです。それは、漫画の登場人物であり、またMMORPGのPCであるという意味で二重に架空の人格である彼らの表現形の向こうに、確かにあると感じられる心が、その心が変化し動きを見せる様に、私の心も引きずられるように動き、どうしようもなく揺れるからなのです。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月29日日曜日

○本の住人

 はじめてみたときからなんだかよくわからない漫画でした。なにしろ、タイトルの正しい読み方もわからなかったくらいで、最近になってまるほんのじゅうにんでいいということが確認されたのですが、このいろいろとよくわからない、ナンセンス色の強い漫画がとにかく面白いのですから、私の趣味というのも微妙によくわからないなと思います。主人公は兄ひとり妹ひとりでけなげに日々を暮らす気苦労の絶えない小学生のりこ。彼女のまわりにいる人でまともなのといえば、友人のみかちゃんくらい。後はみんなどこか変で、そんな中で一二を争う変が兄と友人ちーちゃんなんじゃないかなと思います。

けど、ちーちゃんはすごいよ。話す内容支離滅裂、行動にしても限度知らずの乱暴狼藉系で、ナチュラルに普通じゃないちーちゃんの行動言動を毎回毎回ハイテンションに打ち出してくる作者の発想が本当にすごいと思います。このすごさはちーちゃんだけではなく、兄の言動行動にも現れていて、この兄というのが絵本作家なんですが、極めて内容意味不明な絵本を書いている、その意味不明絵本を本編にもちらほらと出してきて、いやあ、本当に意味不明。けど、その意味不明がただ意味不明なんじゃなくて、読んでいて面白いのがすごいのです。この意味不明さというのはもしかしたら『あずまんが大王』に見られたシュール系ネタの延長線上に位置する意味不明さなのかも知れません。だから、『あずまんが大王』のシュールが面白いと思った人(「脳が!」とかですね)には手放しでお勧めできるんじゃないかと思います。ああいう起承転結がはっきりしてないのは嫌いという人は読まないほうがいいと思います。

さっきから意味不明、意味不明と連呼していますが、頭から最後まで意味不明の連続なのかといえば、決してそういうわけではないのです。毎回、緩いストーリーが作られていて、そこにちーちゃんや兄の意味不明なネタがちりばめられるという、そういう構成です。もちろん、意味のわかるネタというのもありまして、それは兄やクラスメイト男子を中心としたおたくの生態、行動原則を扱ったものが多く、萌え追求主義とでもいうのかなあ、傍目には迷惑で、あるいは理解しにくいようなもの。そうしたものと日常とのギャップでもって面白がらせるようなパターンができあがってるのですが、だからそういうおたくっぽいもの、 — 行動や言動に嫌悪を抱くような人にはちょっとお薦めできない漫画じゃないかと思います。

でも、そうした要因がマイナスにならないというような人には、きっと面白い漫画であると思います。とりわけナンセンスなものが苦にならない、むしろ好きというような人には、それは私自身にほかならないんですが、絶対読んで損しないタイプの漫画であると思っています。ストーリーもいい、ナンセンスネタもよければ、コマの端々に見えるサブカル系小ネタも面白くて、ただこうした小ネタはちょっと対象年齢層高目なんじゃないかなという気もするので、そうした層にすっぽりと含まれてる私はなおさら面白い。いい循環にはまっていると思います。

  • kashmir『○本の住人』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月28日土曜日

RICOH GR DIGITAL手拭い

 先日いっていたGR DIGITAL一周年記念の手拭いプレゼント企画ですが、これ、プレゼントに応募するトラックバックが三百に満たなかったから、うまくすればあたるかもなあ。倍率にして二倍弱くらい? みたいに思っていたのですが、開けてびっくりですよ。トラックバックは確かに130件と少なかったのですが、フォームからの応募1,077件だとか! わお。約四倍ってとこですか? というわけで、正直あたらないと思っていたのです。で、期待せず手拭い当選Blogを見ていたら、*おおっと*、こととねお試しBlog発見。しかし、こうして他のBlogに並べてみると、うちのBlog、変な名前だなあ。

これ、例えば応募総数350件みたいな、落ちる人間の方が遥かに少ないような抽選だったら、私、落ちてたと思うんです。ええー、こんな倍率で落ちるのー!? というのが私の常なので、しかしそれにしても今回は幸運でした。粋な手拭いいただけるということで、Ricoh様には厚く御礼申し上げます。

と、これだけで終わるのもなんですから、写真を紹介しておきましょう。

一枚目は、神社の狛犬です。なんか、独特の顔が面白いので寄ってみたら、秋空がなんだか良い感じ。これ、ちょっとアンダーに補正しても面白かったかもと思っています。

Stone guardian dog

もう一枚、同日午後です。空のグラデーションが思っていた以上に効果的でした。もうちょっと右にフレーミングしたらよかったと思いますが、案外これくらいでいいのかも知れません。なお、狙った被写体は月です。ちいさっ!

Twilight, streetlight, crescent moon

最後に、ちょっとした面白写真を。

Gold Mask of Tutankhamun

これ、あちこちから引き合いがあった写真なのですが、実はこんなのなのです。

Tutankhamun's mask on my hand

普段は冷蔵庫に貼り付いております。

2006年10月27日金曜日

HR — ほーむ・るーむ

 長月みそかを読むときは、彼彼女らの関係を、にまにましながら見守るのがいいのだと思います。中学生の多感な時期を、友達と一緒に迷ってみたりふざけてみたり、道草しながら歩くみたいにしてゆっくりと、けれど着実に過ごしていく、その日常の風景に垣間見せる表情やしぐさがドキッとするほど魅力的で、ああこんな季節がはたして私にもあったろうかってなんだかふつふつと疑念がわいてくる。ああ、私にはなかったかも知れないね。でも、似たような季節を通過してきたような気もします。少なくとも彼ら彼女らのような青春ではなかったけれど、けれどもし来し方を振り返ったときに、こんな一コマのひとつやふたつくらい見つけることができるのだったら、きっとそれが私と長月みそかを繋ぎ止めるものの正体なのではないかと思います。

この本には、夢がつまっているのです。こんなだったらいいなと、毎年の春、新学期、新しいクラスに不安をともに思った期待が描かれているかのような気がします。あるいはクラブ活動で、新入生の獲得、新しいメンバー、新しい友達、広がっていく人間関係にわくわくして、また戸惑って、そうした微妙な心の揺れ動きを思い出させてくれるみたいで、だから私がにまにましてしまうのは、私のかつての期待やなにかがめくったページの一コマ一コマに見透かされているみたいな気がするから。この期待の入り交じった落ち着かなさを思春期のそれというのなら、やっぱりあの季節は青春であったんだと思います。なら、この漫画は間違いなく青春の真っ直中を、照れもてらいもなく実直に、夢に思い描いた理想をそのままに描き出して見せていると、そういっても言い過ぎではないと思います。

けれど、ここに描かれているのは、本当に夢のような理想だけなんだろうかとも思うんですよね。これがただの夢で、理想だけをもって組み上げられたものだとしたら、このしっとりと肌に残るような実感はなんなのだろう。私の通っていた中学は、給食ではなかったし、プールもなかったし、こうしたものが私の過去の実感を呼び起こすことは決してないはずなのに、体育館の壁際に、印刷室の暗がりに、文具店の陳列に、夜店の屋台の灯に、私の実感はうずくのです。それらの記憶は、きっと私のものではないというのに、デジャビュを感じたときのように、私はこれを知っているという鮮烈な感触が肌の表面をなでていく。 — 共有している感覚がそこかしこにちりばめられているためなのでしょう。違う時間、違う場所で経験した、細部は違っていてもおおまかに同じような体験が、コマの端々、できごとのそこここにほのめかされているものだから、知らず知らずに私の記憶は呼び覚まされて、実感は再構成されて、

そして私は山葉第二中学校に迷い込むのです。そこで出会うのがあの子たちであるとしたら、私が彼ら彼女らのあれこれにどうしようもない親近感を得るというのもしかたがないのかも知れません。

長月みそかの漫画は、理想が、夢が、実感が、どれも不可分に結びついていて、そしてそれらを絡めてとめる媒体はきっと対象への愛なのだろうと思います。愛が世界を包み、あたたかなまなざしが惜しみなく注がれている。そんな感じがするから私はこの漫画を好きになり、同じく愛を注ぐものとして参加したいと思ったのです。

蛇足

梶井素子が大好きです。大歩危小歩危、鉄分豊富、機械に強くてちょっと地味。最高です!

  • 長月みそか『HR — ほーむ・るーむ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月26日木曜日

ふたりめの事情

 私は本の病にかかっているような人間です。本屋を見れば寄らずにはおられず、例えば仕事帰り、駅にたどり着くまでに書店三軒をはしごします。書店はそれぞれに得手不得手があって、日によれば三軒が四軒になって、途中、乗換駅で改札でたところの書店により、しかも最寄り駅前でも寄ってと、一日に五軒六軒はやり過ぎだろうと自分でも思うのですが、寄らずにはおられないのだからしかたがない。それぞれの書店で新刊見つけては買い、面白そうな本を見つけても買い、そして今日買ったのは、きづきあきらの『メイド諸君!』第1巻、久世番子『ふたりめの事情』、そして同じく久世番子『暴れん坊本屋さん』第3巻、でした。

これらの本を見つけたのは三軒目、けれど三軒目で買ったのは久世番子の二冊、きづきあきらは途中下車して買いました。なぜか? それはちょっと美しさに問題があると思われたから。美しさ? そう、美しさ。ほら、よく本屋にいくといるでしょう? 神経質そうな客が、おんなじ本をためつすがめつ眺めて、一番綺麗なの選んでるみたいな風景。そう、それが私です。どれ買っても同じじゃん、とも思うのですが、だって明らかに違うじゃん! との理由で、どうしても選んでしまいます(疲れているときほど神経質です)。

けれど、久世番子の二冊は問題ない感じでしてね、だから三軒目で買ったのですが、いやあ、油断しましたね。まさかレジでシュリンクを外されるとは思いませんでした。カバーいりますか? いえ、そのままで。袋だけでいいですよ。と答えたそのままの解釈が違ったんですね。私はシュリンクもつけてそのままでといったつもりだったのに、店員さんはカバーなし本のみでそのままでと思って、シュリンクを外してくださった。けど、けどさ、その外し方はカバーが、カバーが傷むんです!

番子さん、傷物になっちゃった……。しかも被害としては、『ふたりめの事情』の方がひどくて、っていっても一般人なら気付かない程度の瑕疵ですな! と思って今みなおしたら、カバーにボールペンの線がはいってるじゃないかあ。うう、しくじったなあ。もういいや、明日、明日買い直そう……。

というネタでもって『暴れん坊本屋さん』で書こうと思っていたのですが、けど車内で読んだ『ふたりめの事情』が割合に面白かったので、今日は『ふたりめの事情』です。

軽いのりとタッチで書店の内幕を暴露する『暴れん坊本屋さん』を読んだ直後に『ふたりめの事情』に移行して、正直重くてしんどそうかなというのが最初の印象でした。細やかな絵、吹き出し内の台詞も多く、疲れている体にはきついかもしれない。読むのやめようかな — 。やっぱり同じ読むならベストコンディションで読みたいと思いながらも、けれど物語は動き始めて、そして静かに私は物語世界に引き込まれていったのでした。

久世番子は、繊細なタッチで、時にはギャグも交えつつ、けれど割合に重い内容を書くことが多くて、そうした傾向は『ふたりめの事情』においても同様であったと感じています。知らなかった双子の兄弟に出会うという物語。主人公の少年は双子の弟に出会ったことをきっかけに、コンプレックスに足を取られながらも、自分自身を見つめ直し、成長していく。しかしこの伸びゆく少年の物語が、みずみずしさよりも切なさを強く感じさせるというのは、一体どうしたことでしょう。物語のそこかしこに死や忘却というテーマが顔を出して — 、そういえばこの感覚は久世番子の既刊においても同様だったということをふと思い出しました。そうなんです。久世番子の漫画には通底するテーマがあって、それは自分を見つけて欲しいという思いなのではないかと思ってます。自信を持てない主人公が、あるいは素直に気持ちを表現できない主人公が、心の奥に隠してしまった本当の私を見つけて欲しいと思っている。そのような、分かたれてしまった私をめぐる物語が、久世番子のテーマであると思うのです。

だから切ない。

久世番子の切なさは、この私を見つけてくれるはずの誰かもまた、自分自身を見つけて欲しいと願っているというところにあるのではないかとも思っています。この構図は『ふたりめの事情』には特に色濃く、例外はありますが、登場人物のほぼすべてがそうした分かたれた自分自身を心の奥に隠していています。見つけ出して欲しい、そして受け入れて欲しいと思いながら、けれど、それを表には出せずに苦しんでいる様が切なくて、しかも、望みのうらにきっと駄目なんじゃないかという不安を寄り添わせているからなおさら。けれど、久世番子はこうした不安を放りっぱなしにすることなく、希望も切なさもすべてをクライマックスの一点に凝縮してくれるものだから、私は胸がいっぱいになったのです。

どちらかが優位な立場に立っていたらば、こうはならなかったでしょう。お互いが、お互いに不安と切なさを抱えて、けれど両者がそうした迷いを乗り越え、歩み寄ろうとするからこの物語は成った。甘くけれど煮え切らないラストは拒否して、決然と終わりを、切なく悲しい終わりを選び取りながら、それがこれほどまでにあたたかで幸福で美しい印象に包まれたのは、なされるべきことをまっすぐに見つめて、ひるまず一歩を踏み出したからだと思うのです。誰もが — 、登場人物が、作者が、そして読者が、切なくけれど仕合せなこのラストを選ぼうと決めた。その決断がこの読後感を支えていると、そんな風に私は感じています。

2006年10月25日水曜日

ありのままに

  私は子供時分、暇があれば本を読んでいるような子供で、もしファミコンという新しい娯楽がこの世に存在していなかったら、きっともっと一杯、たくさんの本を読んで、今よりももっと豊かな読書体験をしていたことかと思います。そんな子供の頃に好きだった本が『クレヨン王国の十二か月』でした。どれくらい好きだったかというと、高校の夏休みの宿題、読書感想文の題材にこれを取り上げたくらい。そう、私は高校の読書感想文を全部児童文学でやっつけたのでした。こんな私ですから、クレヨン王国シリーズがアニメになるというのを知って、『夢のクレヨン王国』もしっかり押さえてみたのですが、残念ながら日曜朝というのは私にとっては深夜と同じですから、最初のひと月くらいしか見られなくて、けどその主題歌のシングルだけは買ってあって、 — したらそれがいい歌なんです。

といっても、もちろん買ってはじめて気付いたとかそんな話じゃないですよ。アニメを見て、主題歌、オープニングとエンディングを聴いて、これだ、これはいい、と思ったから買ったんですが、その後アニメ本編を見られなくなってからも、この歌はやっぱりずっと好きであり続けています。その後、iTunes / iPodに取り込んだので、今でもたまに聴く機会を持つのですが、もともとのアニメや物語という文脈を離れてもやっぱりいい歌なんですね。

『ン・パカ マーチ』も好きなのですが、それ以上に好きなのが、エンディングテーマの『ありのままに』です。ゆったりとしたテンポに清浄な雰囲気の漂う佳曲で、女性の歌うメロディに児童合唱団がかぶさってくるところなんかは、涙が出るかと思うくらいに美しい。空へ、天へと志向するかのような旋律の上昇感は、私たちがもっとも美しいものを見たときに心に兆すような、一種敬虔な思いを呼び起こしてくれます。そしてその詩の持つ豊かな世界、暖かく深いメッセージがメロディ、ハーモニーに渾然として、私を包み込むようにしてあたりいっぱいにあふれ返って、ああいい歌だ。すごくいい歌なのです。

このアニメの本来の対象である子供たちがこの歌を聴いて、この歌、福永令三の詩に触れて、そのあたたかさ、この地上には命がありそのすべてが生きているということの素晴らしさを称揚しようというその思いを感じ取ってくれるとしたら、それはどんなにかよいことだろうと思います。

2006年10月24日火曜日

RICOH GR DIGITAL

 GR DIGITALが発売されて一周年ということで、いろいろな企画目白押しです(でした?)。この間いっていたのは手ぬぐいのプレゼント企画でありましたが、それとは別にGR DIGITAL一周年記念カレンダーコンテストというのもありまして、これなにかといいますと、GR DIGITALで撮られた写真を募って優秀作を選び、それでもってカレンダーを作ろうという企画でした。ひとり三点まで応募できて、選ばれるのは十三点。無理だろうなあと思いながら、私はその締め切り直前に中国は四川省にいっていた。これだ! と思いましたね、まさしくナイスタイミングってやつです。

さて、ここでちょっと引用をしましょう。書いたのは私。別のところで書いている日記で、書かれたのは2006年10月8日22時52分。タイトルはカレンダーでした:

私の愛用しているカメラGR DIGITAL。このカメラが発売されて一周年ということで、Ricohがカレンダー企画というのをおこないました。GRで撮影した写真を応募してもらい、優れた写真でもってカレンダーを作っちゃおうという、そういう企画です。

選ばれるのは各月の十二枚と表紙の一枚、計十三枚。私は、私の普段撮っているような写真ではまったく勝ち目がないとわかっているから、こういう企画は参加すれど対岸のできごとみたいに思っているのですが、けれど今回は違いました。中国での写真があるからです。自然世界遺産に登録されている九寨溝にいって、三百枚ほど撮ってきました。そんだけ撮れば、1%くらいはいい写真があるはずだ。今回の企画ではひとり三枚までと決められていて、しかも締め切りは九月三十日。タイミングばっちり、まさしくうってつけの企画であったのです。

[中略]

さて、カレンダー企画の選考はすでにおこなわれておりまして、以下がその風景です:
http://blog.ricoh.co.jp/GR/archives/2006/10/post_197.html

で、出る幕がない……。壁に貼り付けられた写真の数々、そのどれもが小さくはっきりとは見えないですが、けれどそれでもかなりの力作とわかります。比べて私の写真のインパクトのなさよ。出る幕がない。それが私の素直な感想です。

私も気付いているのです。私の写真にはなにかが足りない。後一歩がないというべきか、何歩も足りないというべきか、とにかくなにかが足りていないことには気付いているのですが、それを埋めるにはどうしたらいいかがわからない。わからなくてもしかたがないから、わからないなりに撮り続けてはいるのですが、いつかその足りないなにかが埋まることはあるのかなあと、そんな気持ちになりことはままあります。

とまあ、そんなわけで、予想したとおりというべきか、私の写真は入賞どころか佳作にもかすりもせず、見事落選したのでありました。世界遺産まで投入しといて!? いやほんとすまないねえ、中国……。

でも、誰にもかえりみられないままというのも寂しいので、ここで紹介しておこうと思います。上から、黄龍、九寨溝、九寨溝です。

Huanglong valley

Jiuzhaigou valley

Jiuzhaigou valley


でも、私は縦位置の方が好きみたい。

Huanglong valley

Jiuzhaigou valley

Jiuzhaigou valley

2006年10月23日月曜日

コンプレックス

  まんだ林檎といえば私の中では、『セーラームーン』の二次創作をしていた人という印象がいやに強かったりするのですが、でもある日本屋で出会ったその人は、すっかりBL作家でいらしゃった。その本というのは『コンプレックス』(ソノラマ文庫版)。やんちゃな少年二人がジャングルジムにのぼってという表紙イラストに私の目は釘付けになって……、といったら正直いいすぎですが、この表紙イラストが妙に気になったというのは本当です。なので、中身をぱら見して、よし買うかと決意して、電車で読んで、ちょっとドキドキした。特に一巻最後の話、あまりにべたといわれればそうかも知れないのですが、けどちょっとああいうの好き。そこに至るまでの過程が、それこそ十年分しっかりと書かれているから、すごくいいなと思って、だからこの続きはどうなるんだろうとずっと楽しみにしていたのです。

そして二巻を読んで、感想はやっぱりべたな展開だなあの一言。だって、これまでの展開があって、今これだけの要素が用意されたら、ああならないほうがおかしいよなというくらいにべた。ある意味期待通りで、すなわちこれ王道であります。でも、こういう王道って効くんですよね。それは、どうせこれからきっとこうなるんだぜと、意地悪な気持ちもある裏腹、期待もおんなじくらいしてるわけですよ。それこそ、き、きたー、思惑通り! ってなもんで、悔しいけどちょっと泣いた。

いや、問題はたくさんあると思うんですよ。結局主人公二人は状況に流されてるばかりじゃないかとか、問題の解決は物分かりの良い第三者にゆだねられてばかりだとか。それこそ重要なポジションに着けながらも最初から最後まで使い捨てのように扱われたような人さえいて、だからこそ余計に泣けたのかも知れませんが、でもそれでもこの漫画においてはそういった部分はしかたがないのかも知れないなとも思うんです。だって、こうした漫画の読みどころというのは、事件や物語の推移、展開よりもむしろ、主人公二人の心の揺れ動き、内面の感情の機微であると思うのです。時に迷い、弱気になりながらも、少しずつ気持ちを確かめあっていく達也と淳一の、その時々の心模様がこそ見どころであれば、物語の起伏はあまりに大きすぎないほうがいい。物語が一歩引いて脇に退いていることで、ふたりの思いのさざめきは一歩ずつ舞台の中央に歩みを進めることができるのです。

そんなわけで、これから先の展開もあるという『コンプレックス』。息子の代の物語もほのめかされ、そして主人公ふたりの行く末も気になる。それこそ、ラストでは必ず泣きますという栗本薫のあおりもあらば、余計に気になってしまうというもの。来月が、来月が楽しみです。

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1996年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1998年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2000年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第4巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2002年。

引用

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (東京:朝日ソノラマ,2006年),帯。

2006年10月22日日曜日

ザナック

 シューティングゲームの話題が続いているので、今日もシューティングゲームでいってみよう。べ、別にネタが尽きたからじゃないんだからね!

私はどちらかといえばシューティングゲームはあまり好まない質で、だからそれほど遊んではいなかったりします。実は、あんまりうまくないのですよ。最終面までいけるようなゲームというのは、やっぱりどこかクリアしやすく作ってある。ところが、本物のシューターを相手にして一歩も引かないようなゲームとなると、もう手も足も出ないって感じでしてね、クリア? は、なにそれ? って感じでクリアできない。以前私は、昔のゲームはクリアできないのが普通だったみたいなことをいっていましたが、いやあ本当にクリアできないゲームの多かったこと。そんなわけで、最終面さえ拝んだことのないシューティングゲームを紹介します。かの『ぷよぷよ』で一世を風靡したコンパイルが、ファミコン・ディスクシステム向けにリリースした硬派高速スクロールシューティング、『ザナック』であります。

シューティングゲームにたいしてアンテナを張っていなかった私ですが、当時購読していた『ファミコン必勝本』にちょろっと『ザナック』特集がなされたのを見て、このゲームの存在を知ったのでした。曰く、ファミコン・シューティング最高峰! 『ファミコン必勝本』はライターの趣味嗜好が強く反映される傾向のある雑誌で、だからこの雑誌が推すゲームはまずはずれがないというのが私の印象で、だから、『ザナック』、覚えたぞ! という感じで、いつか遊びたいなあと思っていたのでした。

この『ザナック』ですが、なにがすごいといってもディスク片面のゲームなのですよ。容量としては448kb(キロバイトではなくキロビットであることに注意)になるのかな? とにかく小容量で、なのにゲームとしてはめちゃくちゃ面白いというのがすごい。面白いイコール=大容量じゃないといけない、みたいな間違った認識がありますが、そういう人には『ザナック』遊ばせてみたい。ゲームの面白さは容量じゃない。まさにそこに繰り広げられるゲーム内空間の広さであるのだということがわかるのではないかと思います。

しかし、この『ザナック』は難しかったです。私は書き換えに必要な余分なディスクを持たなかったため、残念ながらこのゲームは借りてしか遊んでいないのですが、しかしそれでも遊んだ遊んだ。連日連日飛んで撃っての繰り返しで、けど飽きない。毎回新鮮にプレイできる、というのはこのゲームがただのパターン学習ではクリアできないタイプのゲームであるからなんです。

AIとかいっていたのですが、プレイヤーの動向がゲームの展開に影響するのです。だから、初心者にはやさしく、上級者には厳しく、とかいうけど、それでも初心者には難しかったよなあ。でも、初心者がだんだんと技量を上げてくるにしたがい、敵の攻撃も苛烈になりはじめ、効率よく敵を始末できるくらいに慣れてしまうと、そこでまた攻撃パターンが変わってしまう。ある一定の目安こそはあるんですが、けど必勝パターンが確立したと思った時点で違うパターンに移行してくれるから、結局パターン反復ではなく、目の前に現れるものに臨機応変で対処する必要があるのです。

でも、私は往生際が悪いから、最初の数面はわざと初心者を装うみたいなせこい手を使ってました。とはいっても、どうしても取りたいパワーアップアイテムや1upなんかには本気が出るから、どれだけビギナーのふりが成功していたものか。しかも悪いことに、ある程度敵の攻撃が熾烈になってくると、私もふりしている余裕がなくなりますから、撃ちまくりの避けまくりの、そいでもって死にまくりの、てな感じで作戦はここに失敗という感じであったんでした。

『ザナック』はパワーアップが豊富でした。全部で八種類あるんですが、私はデフォルト装備の0番愛用者でした。これは、先ほどの『ひっぽん』の人気ライター、バラモス中野氏が0番愛用だったというのも影響しているかと思われますが、とにかく0番は強かった。最初こそぱっとしないショットですが、最強にまで育てると(アイアイで一気にパワーアップできる!)敵の弾をかき消せるようになって、しかも八方向に撃てるから、敵一掃も夢じゃない! そんなわけで私は0番。これ一点張りでした。

だもんだもんだから、間違えて違う番号取った瞬間に弱体化。あるいは死んでしまってショットが初期レベルに落ちればもうきついといった有り様で、でもそれでもがんばったものでしたよ。

Wikipediaのザナックの項目によれば、エリアは全部で12あったそうなのですが、エリアの特徴を見ると、私がどうしても越えられなかったのはエリア8であったことがわかります。この面にはショットでは倒せない敵が出てきまして、それらは自機で体当たりすることで消せるのですが、そいつらがショットを貫通させず、他の敵及び弾を守ってしまうため、これまでの0番で敵及び弾を掃討するという手が通用せずきつかったんでした。8面のボスには会えたんだっけかなあ。とにかくあの赤いぶよぶよに阻止されて前に進めないというのが、私の『ザナック』の限界でありました。

PlayStationで『ザナック』が出たとき、私は買いましたね。予約してまで買いました。で、リメイク版はまったく遊ばず旧版でばっかりで遊んで、けど今となってはエリア8など夢のまた夢。全然先に進めず、やっぱりゲームは子供の頃の方がうまかった。いや、時間があったんだ。今も、あの頃と同じくらいの時間をかけて打ち込めば……、クリアできるかなあ。多分無理だと思うなあ。

引用

2006年10月21日土曜日

沙羅曼蛇

 昨日の記事に対してコメントいただきました。全方向シューだと、ナムコ「ボスコニアン」、コナミ「タイムパイロット」も面白いですよね。ああ、申し訳ないのですが、両方遊んだことがないのです。名作として名前だけは聞き及んでいるのですが、残念、遊ぶにいたりませんでした。私のゲームプレイにおいて重要なのはなにであるかといいますと、そのゲームがコンシューマ機に移植されたかどうかの一点なのであります。というのも、幼い時分、真面目だった私はゲームセンターに寄りつかず(うそ、小遣いが少なかったから遊べなかったのだ!)、そのためファミコン版が出て、それを買った友達があってはじめて遊ぶことができたのです。ああ、でも今こうしたレトロゲームを遊べるのなら遊びたいなあ。ただの懐古趣味かも知れないとはわかりながらも、けど昔のゲームも面白いんだもの。Wiiもそうですが、EGGなんかにも期待したいところであります。

そんな私が生涯でもっとも遊んだシューティングといえば、おそらくは『沙羅曼蛇』ではないかと。もちろんファミコン版。中学時代にとにかく毎日のように遊んだ牧野が持っていまして、やることがなくなんとなく手持ち無沙汰を持て余しているようなときには、『沙羅曼蛇』でもやるか、ってなのりで遊んで、遊び過ぎたものだから一面二面は楽勝になっちゃった。

どれくらい楽勝かというと、ノーミスで最終面にたどり着くのは基本。だから私たちはクリア時にパワーアップゲージをリップル以外消してしまうというのを決まりにして、最終面についたらカプセル取ってはスピードアップの繰り返し、スピードは15段階でしたっけ? とにかくスピード1でもゲームになりませんが、スピード15だと余計にゲームにならないというか、ちょっと油断すると激突死を招くスリル展開。けど、これでも死んではならないというのが決まりですからね。でも、当時はこれでクリアしたんだもんなあ。今なら絶対無理です。スピード15どころか、ノーミスで最終面にたどり着くことすら不可能でしょう。

でも、こんなに遊んだというのに、もうずいぶん忘れてしまっているのが悔しいですね。一面は横スクロール、内臓面。二面はなんだっけ? 三面がかの有名なプロミネンスの美しい太陽面。四面なんだっけ? 五面はどうだっけ? 六面が最終面で、最後に左右からシャッターが押し寄せるんでしたが、しかしそれにしても覚えてないですね。多分、『グラディウス』の方が覚えています(1. 火山、2. ?、3. モアイ、4. 逆火山、5. 触手、6. 敵基地)

ちょっと気になって調べてみたら、i-revoで配信されているのが判明。しかもファミコン版が出ていて、『沙羅曼蛇』も『グラディウス』もあるというのは嬉しいなあ。でも『グラディウス』は持ってたりして(中古で買ったのじゃ)、だから遊ぶとしたらファミコン引っ張り出してということになりそう。『沙羅曼蛇』は……、買ってくるか。多分、そんなに高くないでしょう。

ということで、『グラディウス』の各面が判明しました。二面はストーンヘンジ(だったのかあれ)、六面には細胞ステージがあった! あったっけ? 覚えてないなあ。

CD

2006年10月20日金曜日

バンゲリングベイ

子供の頃の思い出のゲームといえば、それはそれはたくさんあるのですが、なかでも印象深いのは『バンゲリングベイ』でした。発売はハドソン。でっででででっでっ、でっででででっでっ、という地味なBGMが印象的なゲーム。ヘリコプターを駆り、敵地にて工場破壊を遂行する、という非常にシンプルなシューティングゲームなのですが、けど一般にシューティングといって思い浮かべるようなスタイル、縦シューとも横シューとも違う、全方位に移動可能という斬新さが光っていたゲームでした。

私は残念ながらこのゲームは所有していなかったのですが、友人が持っていましてね、彼のうちにいくとなんでかむやみにこれを遊びたくなって、その場でプレイしたりまた借りてきたりと、散々遊んだものでした。だいたい三面くらいまでクリアできたかな、というとなんだかちょっとしか遊んでいないようですが、このゲームにおける面の概念は他のシューティングゲームとは違うので注意が必要です。そうですね、他のシューティングでいう一周がバンゲリングベイの一面に相当するかと思われます。複数ある工場を完全に駆逐、すなわち目標を達成すれば一面クリア。しかし、一面のクリアはそれほど難しくないんですよね。問題は二面からなのですよ。

一面は正直小手調べです。ウォーミングアップといってもいいかも。すなわち本番は二面からなんですが、二面以降からは敵の攻撃がいやに苛烈になって、落ち着いて工場爆撃もできなければ、自分の本拠地である空母の危機も頻繁で、空母が撃沈されればもう後がないですから助けにいくのはいいとして、敵攻撃機とドッグファイトしているうちにせっかく追いつめた工場が修復されていたりして、しかたないまたちまちま爆撃するかと、ミサイルよけながら工場周辺の敵を掃討して、いよいよ爆撃しようとしたら敵戦艦の建造が開始されて、正直私は戦艦を撃沈できるほどの手だれではありませんでしたから、工場ほっといてでも敵ドックに駆けつけ大急ぎで爆撃、破壊、やれやれさっき片づけそこねた工場を始末しにいくかと思ったら、また空母が攻撃を受けている! ああ、もう、護衛機くらい用意しとこうよ!

と、こんな感じのゲームなのです。

このゲームの印象を特に強めているのは、2コントローラで敵軍を操作できるというところじゃないかと思うのですがどうでしょう。テレビコマーシャルでやっていた、マイクに向かってハドソーンと叫ぶと戦闘機がやってくるというフィーチャー。そして誘導ミサイルをばんばか撃ちまくって嫌がらせという、あんまりやり過ぎるとけんかになるので、そのへんの塩梅をうまく調整するのが腕の見せ所、ってそりゃあんた八百長じゃんか。

このゲーム攻略のコツというのは、いかに素早く作戦を展開できるかであると思うのです。私の常は、ゲーム開始直後に敵空港近くの工場に駆けつけ始末、敵空港を利用して補給、もうひとつふたつ始末という、いわば電撃戦。というか、とにかくこのゲームはどれだけ迅速に工場を減らせるかが肝で、工場がある限り敵兵機は生産され続け、敵が増えればそれだけ作戦妨害も熾烈になるから、最初にどれだけ工場を減らせるか。工場の耐久力が上がる前にどれだけ動き回れるか、それが重要なポイントになるのです。

Amazonで検索しても見つからなかったのが割りとショックです。中古ファミコンショップに行くと、大抵置かれているマストアイテムなんですけどね。もうじき発売されるWiiで遊べたりするときっと嬉しいなあ、なんて思います。いや、多分Wiiは買わないですが、けど気になる気持ちはとめられません。

  • バンゲリングベイ

2006年10月19日木曜日

積極 — 愛のうた

 書店によったら並んでいた谷川史子の新刊。私はこれまでも何度もいってきたように、谷川史子の大いなるファンです。本が出ているとあらばなにがなんでも買い、なにをおいても読み、そして心に兆すなにかに大きく揺さぶられる — 。こうした揺さぶられ体験をもたらしてくれる谷川史子は私にとってかけがえのない作家であり、その人の生み出す漫画もまたかけがえのないものに他なりません。そして、この『積極 — 愛のうた』もやっぱり私の大切な一冊となりました。まだ一度読んだだけです。けれど一度読めばそれで充分なのです。しんと胸に染みる悲しさや切なさ、それらを越えて人を愛したいという気持ち、愛するということの実感、そして愛したということそのもの。多様な感情が押し寄せる感覚。ああ私はこの人に、この人の漫画に出会えてよかったと思う瞬間です。

『積極 — 愛のうた』には、表題作である『積極』に『スパイラル ホリディ』、『風の道』が収録されて、先にのべたとおりのしんと胸に染みる切なさの光る作品があるかと思えば、どたばたと楽しく幸いのふるようなものもあり、またギミックに富んだ小品あり。それぞれは印象を違え、風合いを違え、けれどそのどれもから谷川史子らしさの感じられる、多彩にして嬉しい一冊となっています。

でも私には表題作『積極』がよかったのでした。シンプルな構図。繊細な描写。物語は淡々と進みながらも起伏にうねりを見せて、しかしそれらは決して爆発的ではなく、ナイーブに内面で揺れ動きながらひとつの終わりに向かって集束していく。寂しさや悲しさはあるけれど、けれどそれらを遥かに上回って大きな感情が包み込んで洗い流してくれるから、私の心は充足しつつ開け放たれて空っぽでもあるといったような不思議な感覚に満たされるのです。

私は思うのですが、谷川史子という人は日常を取り上げてそこに新しい意味を与えていく、そんな詩人に似た人ではないかと。だから、たとえそこに大掛かりなギミックなんてなくても、本当に日常の切り取りみたいな話であっても、そこに人があって、心があって、感情の動き出すきっかけが生まれれば、心動かされる愛らしく素敵な物語になるのだと思います。そして、その時には日常はただの日常ではなく、すべてがかけがえのない一瞬に変わっている。そんな作家であると思います。

まあ、ただの日常と言い切るにはあんまりに不思議で変わった人たち、できごともあるのですが、けれどこの人の本質というのはそういうエキセントリックではなく、誰しもが持っている普通の感情に芽吹くものではないかとそのように思っているわけです。だから、ぱっと見には派手さはなくとも、不意に心に触れ、涙を流させたり微笑ませたりする、そういう効用があるのだと思います。

  • 谷川史子『積極 — 愛のうた』(クイーンズコミックス・コーラス) 東京:集英社,2006年。

2006年10月18日水曜日

ガルフォース

   最近、なんだかアニメづいております。しかも新作じゃなくて昔のアニメ。ほら、『ダーティペア』と『ドリームハンター麗夢』がDVDで出るというでしょう。でもって買うと決めたらこれが呼び水となって、あれも見たいこれも見たいなあなんて感じでどんどん欲求が膨らんでいってるの。というわけで、目下最高潮に盛り上がってるのが(もちろん私だけの盛り上がりだけど)『ガルフォース』。なんだ、また女の子ものかよという無粋な突っ込みはなしにしていただくとして、いや、懐かしいですね。これ、以前もいいましたけど、『アニメ大好き』で放送されまして、これがもう大人気でリバイバル放映もされて、多分録画したビデオがどこかに残ってますよ。『エターナル・ストーリー』、『ディストラクション』、『スターダスト・ウォー』が一度に放送された時があったはずで、これを録画してるはず。でも、例によって例のごとくビデオが見つからないから容易に見られない。なんで私ってこうなんだろう。つくづく情けなく思います。

しかし、今、なんでまた私は『ガルフォース』にこんなに興味津々なんでしょう。多分私が見たのは『レア・ガルフォース』まで、あるいは地球章の第一話くらいは見てたかも知れないですね。でも、宇宙章(最初の三作)があんまりにも印象が強かったせいで、私にとって『ガルフォース』とは最初の三作なのです。

女性七人で構成されるチームが乗り込む宇宙船内で発生した奇怪な事件。外部からの侵入者によってチームは分断され、しかも犠牲者まで出るという結構ハードなストーリーに、ただの美少女ものではないという感じを得たものですが、でも当時のアニメって結構そんな感じだったよなあという気もします。

私がこのアニメの描写で好きだったのは、艦船が打ち合うレーザーの描写で、あの一旦後方に射出されたレーザーが屈曲して前方に向かうという描写がことのほか気に入っていて、そしてキャティの存在でした。物語のキーパーソンですよね。第一話で非業の死(?)をとげ、しかしその確かに死んだはずのキャティが生きていた!? 第一話では語られなかった謎が、第二話、第三話にて徐々に明らかにされていき、そして物語は佳境へ。あの殲滅戦の描写は実に悲しかった。なんか、業みたいなものを感じたというか、大きな流れに翻弄されて消えていく命の悲しさみたいなのが残った、といえば大げさな感じに思われるかも知れませんが、本当にそんな風に思ったものなのです。

ただ、この感想というのはもうずいぶん前のものだから、今見直すと幻滅したりもあるかも知れません。でも見たい。でも、ちょっと見ようにもなかなかにそろえるのが大変そうで、しかも『テンリトル・ガルフォース』ってDVDになってない? ああもう、ああいうのも見たいんじゃないかあ。

でも、これだけラインナップが揃っていて、いずれそうした番外編も併せて再リリース、みたいな盛り上がりはないでしょうね。よっぽど『ガルフォース』が人気があるとか(それこそ『ガンダム』なみにね)、そういうことでもない限り、今あるものの中から探して、幸い中古市場に溢れているっぽいVHS『テンリトル・ガルフォース』でも買って、みたいなそういうやり方しかないかなあ、なんて思います。でも、そこまでして揃えたいか? うう、ちょっと揃えたいかも。だって、結構好きだったアニメなわけで、こういう若い頃に思うように入手できなかったものを揃えられるだけの経済力を得た今、迷いは踏み出すか踏み出さないかの一点になるんですよね。いやあ、本当に迷います。

DVD

VHS

CD

2006年10月17日火曜日

奏(騒)楽都市OSAKA

これまでずっとやりたいと思ってできなかったことをやっと実現するにいたりました。それはなにかというと、お試しBlog[旧お試しBlog]にweb拍手のボタンを付けて、それから一部の要素にCSSを適用させるということ。実をいいますと、このお試しBlog[旧お試しBlog]というのは極めてレイアウトの自由度が少なく、テンプレートをいじるなんてことは不可、他のBlogのようにBlogアクセサリーを付けるというようなこともできないのです。と、このような状況下でなんとかweb拍手ボタンだけでもつけたいと思ってきて、そしてようやくそれを実現することができました。決め手はJavaScriptです。この便利で、けれど妙に扱いづらい言語でもって、CSSとweb拍手ボタンの送信に成功したのでした。

JavaScriptの扱いづらさ。Netscapeが実装し、後を追うかたちでInternet Explorerも実装。しかし両者独自の実装であったため、その仕様というのはまちまち。こちらを立てればあちらが立たずということは普通に起こります。こういう厄介な状況は今もなお残っていて、今回のチャレンジにおいてもずいぶんと悩まされました。けれどなんとか逃げ道はあるもので、とりあえずIEとFirefox(Mozilla)、そしてSafariで期待通りの結果が得られることを確認することができました。しかし、このうまくいった時の嬉しさったらないですね。それまではまさしく暗中模索、こんがらがった意味不明状況の中、解決を求めてWWWをさまよい、情報を拾っては試し、その結果をもってまた情報を求めの繰り返し。けれどこうしているうちにだんだんと光が見えてきて、ついにブレイクスルー。ああ、やった、できたよ。もう、ぐったりです。でも、長らくの懸案が解決してよかった — 。

私のやみくもなプログラムへの取り組みをみていると、ちょっと昔遊んだゲームを思い出します。それは『奏(騒)楽都市OSAKA』。川上稔の都市シリーズ第四作、『奏(騒)楽都市OSAKA』と世界観を同じとする世界においてのアナザーストーリー。メディア競争に勝ち抜くため、情報を探し、組み合わせ、発表し、前へ前へと進んでいくというゲームなのですが、このゲームの混沌さ具合というのが、なんだか私とJavaScriptの関係に似ていると思うのですね。

なにが混沌かといいますと、まずは情報の多さでしょう。このゲームは、原作者である川上稔の要請を受けて、とにかく長大にできています。原作者曰く、自分は同じゲームを二度遊べないタイプの人間だから、一度遊んだらお腹一杯になるくらいにしてくれだそうで、そのためイベント数が強烈。千を越えてるんだそうで、はっきりいって全部みるのは無理。一度エンディングをみたくらいでは達成率は半分にも満たず、かといって何度もクリアできるようなゲームではないです。とにかく長い。途中で嫌になる。しかもゲーム途中で情報が錯綜するから、中抜きでイベントが発生したりして全然訳がわからない。え? なに? なにがどうなってるの? という意味不明さにあっぷあっぷするのがファーストプレイで、セカンドプレイなら多分もうちょっと状況を整理して眺められるだろうと思うんですが、しんどいから二度目を遊ぼうという気にはちょっとなれない。ここですね。私がさっきJavaScriptに似ているとかいったの。情報膨大にして大いに錯綜し、意味不明五里霧中、だから最後には力技で解決。ええ、まさしくそんな感じなんですよ。

けど、それでもひとつの結果を得られると、ぐったりしながらも嬉しいんですよね。そういうところも似ていると思います。で、人間というのはのど元過ぎれば熱さ忘れるから、なんかまたやってみようだなんていう気になったりして、でもよほどのことがないと手を付ける気にならないというのも似ていて、なんか困ったやつだよなあなんて思いつつ、心底憎めないというようなそんな感じなのだと思います。

そういえば、ゲーム『奏(騒)楽都市OSAKA』は、複数のプレイデータをマージして、達成率を上げることができるという他に類を見ない機能を持っています。これ、イベントクリアを達成するのはひとりじゃまず不可能だから、友達同士でがんばってなんとかしてね、ってことなんだと思うのですが、私はついぞこのゲームで100%を達成した人のいるという話を聞いたことがありません。もしかしたらどこかにはいるのかも知れませんが、けど多分いないじゃないかなあ。だって、攻略本みながらでも投げそうなゲームなんですよ。というわけで、私ははなから100%をあきらめて、けどそれでも全然悔しくない。

こういうあきらめが肝心って感じも、JavaScriptに似てるかなあ。

2006年10月16日月曜日

祝!GR DIGITAL一周年

 Ricohのデジタルカメラ、GR DIGITALが一周年。そんなわけで、RocohGR Blogにて一周年企画が開始されました。やあ、こういうのは嬉しいね。ってのは別にこれがプレゼント企画だからっていうわけではなくて、自分が気に入って使っているものが発売後一年を経てなお多くの人に愛されているということが実感できる企画が開かれるという、そのことが嬉しいんです。実際、私はGRのデジタル版が出ると聞いたときには、28mmは自分には広角過ぎるんだよなあなんて思って手を出すつもりなんてなかったのに、tara-exさんが買ったと知るや急に欲求が高まって、買った。アダプターもファインダーも買ったさ!

そして、全然後悔していません。いや、むしろ感謝しているくらい。私がこのカメラを買ったのは、行く春を見過ごしにしてしまったという後悔のあったからで、過ぎゆく季節に心をまったくとどめることのなかった自分を省みて、せめてカメラを持てばそうした季節の移ろいに心を配るのではないだろうかと、そうした思いあってだったのです。そうして選んだのがGR DIGITALで、なぜGRかというとレンズが単焦点だから。購入以来私は毎日携帯して、少なくとも一枚はなにがなくとも撮影することにしています。それは私の日常の記憶であり、変わりゆく日々の記録であり、写真上達の祈念であり、そして見知らぬ人へのメッセージであります。

そんなわけで、せっかくカメラの話をしたのですから、最近の写真から数枚をピックアップしておきたいと思います。

Reflection

ビルに反射した青空。ぱっと見て、ああいいなあと思ったらすぐにシャッターを切れるという、この感覚がすごくいいと思います。しかも、この写真を褒めてくれた人もいて、嬉しかったので選びました。

Prayer Mani wheel

こないだいってきた中国でお土産に買ってきたマニ車です。かなり寄って撮ってるので中央がなんか膨らんだ感じになってるけど、別に嫌な風じゃない。日が山に落ちた直後の自然光で撮ったのですが、割りとうまく撮れたと思って気に入っている写真です。

Construction

日が落ちてからの帰り道、工事現場の雰囲気がなんかいいと感じたので撮影しました。ISOは200。1/10秒という低速シャッターですが、手ぶれもそれほど気にならず、ノイズもそんなにひどい感じじゃない。明るいレンズはやっぱりいいなあと思います。

Festival

休みの日にうちにいたら、どっからか太鼓の音が聞こえてくるので、祭か! 写真撮らないと、と飛び出して撮影した一枚。すでに祭は一段落って様子ですが、GRはこういうなんでもない一コマを撮るにはうってつけのカメラだと思います。

Tree

本日の一枚です。大きな木を発見したので撮りました。これ、広角だからこそ撮れた絵で、標準レンズだったらかなり下がらないといけないから状況的に無理だったんじゃないかと思います。木は私の好きな主題です。あんまり花はなくて地味ですが、あの空に向かう感じが好きなのだと思います。

2006年10月15日日曜日

中国いかがですか?

 京都・祇園で唯一新刊を扱う町家の本屋「祇園書房」(京都市東山区祇園町南側)が14日、閉店する。観光ガイドや着物、茶道の本など「京都本」を中心に扱い、「祇園の情報源」として板前さんから舞妓(まいこ)さんまで幅広い人々に愛されてきた。店じまいを惜しむ声が上がるが、町家は取り壊され、跡地はコンビニになる。

asahi.com:祇園唯一の書店が閉業 「京都本」並び常連に舞妓さんも - 暮らし

かくして、私の思い出の場所がだんだんとなくなっていきます。祇園書房、実は私はこのBlogにおいてもこの書店に言及しているのですが、それは過去『中国いかがですか?』について書いたときの記述におけるたまたま寄った書店、そしてある日ふらりと立ち寄った本屋のことに他なりません。私は高校生の時分、この近所にピアノを習いにいっておりまして、その行き帰りに祇園書房にはよく寄ったものでした。今でも間取り覚えてます。入った左手にレジ、右に京都関連大型本が平で積んであって、左手奥は漫画、右手には小説の類い。この書店がなくなりましたか。個性的な店がなくなって、全国判で押したようなコンビニに代わっていく。ああ、嘆いてもはじまらない。これが時代の流れというやつです!

私がここではじめて買った本はなぜかいまだに覚えていて、それは天野祐吉の『広告みたいな話』。この本は1990年の出版だから、ざっと十年弱ほど祇園書房には足を運んでたんじゃないでしょうか。大学に入るまでの二年、編入試験対策に院試、それから伴奏合わせ等々。私が『中国いかがですか?』に出会ったのは伴奏合わせにいったそのいきしなでしたね。Office Youをみて、これは面白いと思って、でもその時には買わず、次の伴奏合わせに訪れたその時に買った。この他にはなにを買ったろう。記憶に色濃く残るものがあれば、何気なく買って、何気なく忘れたものもあったはず。

新聞の記事にはかっぽう着姿で料理の本に目を通す板前さんがいれば、けいこ帰りに待ち合わせをする舞妓さんの姿もとありますが、これは実際本当なのです。私は白い仕事着をさっぱりと着た板前も、あでやかな着物召した舞妓も、どちらもみたことがある。ああ祇園らしいなと思う光景でした。彼ら彼女らは私にとってはちょっと敷居の高い世界の住人でしたが、そうした彼らと私の住む普通の世界を繋いでくれる、ちょっとしたクロスロードでもあった書店でした。

でも、私がこの書店にいくことはもうなくなったというわけで、しかたがない、だってここ数年ここにはきていなかった。生活が変わった。ついでがなくなって足も運ばなくなった。けれど記憶に残る風景が消えるというのはただならぬ寂しさです。

引用

2006年10月14日土曜日

花の湯へようこそ

  『花の湯へようこそ』で書こうと思ったら、もう書いてしまってた。けど、また書く。だって好きだから。というわけで、今日は二度目の『花の湯へようこそ』。銭湯とオフィスを舞台として繰り広げられる、OLよっちゃんの心温まる人情四コマです。

以前、この漫画の一巻が出たときに、こちらではなく『ごちゃまぜMY Sister』の方が先に出ると思っていたから正直意外と感じたのですが、でもこうして順調に巻を重ねたということは、広範な支持を集めているということなんでしょうね。派手さのない、どちらかといえば淡々と季節や時事を扱いながら日常を描くといった趣のこの漫画が支持されるというのは、地味ものが好きな私としては本当にありがたいことだと思っています。

『花の湯へようこそ』のいいところというのは、どこから読んでも楽しめるということなんじゃないかと思います。人間関係もシンプル、キャラクター性も薄いから、あれ、この人誰だっけと戸惑うようなこともありません。とにかく一見さんへの敷居の低さという点においては特筆すべきものがあって、けどじゃあ毎回楽しみに読んでるような私みたいなものにとってはどうかというと、こういう常連にとっても楽しめる要素があるのが嬉しいのです。そう、面白いのは常連です。名前があるのかさえさだかでない人たちですが、職場での同僚たち、銭湯マニアの青年(この人も同僚)、おませな娘とそのお母さん、娘大好きお父さん、金髪のお嬢さん、受験生とその受験生に片思いするお嬢さん等々、もう馴染みになっちゃってて、その人たちの毎度のやり取りというのが楽しみになっていて、この繰り返しの面白さというのは渡辺志保梨の漫画の根幹ではないかと思います。

この漫画の需要層というのは、ある程度年嵩のいった、昭和を懐かしく思い出せるような人たちなんじゃないかと私は思っているのですが、内風呂の普及によって打撃を受けた銭湯という施設が持っていた寄り合いどころとしての機能を取り上げて、そこに生まれる顔見知りコミュニケーション、この独特な人間関係がなんか心地よいと思わせるのです。私が最後に銭湯にいったのはまさしく昭和、五十年代末期かね、その頃はまだ結構銭湯も繁盛していたようですが、今はどうなんでしょう。一時期の打撃を乗り越えて、健康志向あるいはリラクゼーション・レクリエーション施設としての生き残りが図られたりしていると聞いていますが、でも花の湯の位置づけはちょっと違いますね。毎日通っている人がいて、そんな暮らしのなかで出会い、知りあい、言葉を交わすようになってというコミュニケーションが確実に存在していて、こんな感覚、私はもうすっかりなくしてしまった。 — なくしてしまったからこそ、懐かしさをともに、こんな関係もよいなあなんて思ったりするのでしょう。

その中にすっぽりとはまりこんでいたときは、うっとうしくて嫌だったけれど、離れて希薄になれば、またああいうのもよかったかも知れないと思う。けど、私がそういう空間に戻ることはなさそうだから、そのちょっとの思慕を渡辺志保梨で埋め合わせているのかも知れない、だなんていったら言い過ぎかも知れませんが、けどそんな感じがするのは本当です。どことなく懐かしさが感じられ、その上面白くほほ笑ましい、良質な漫画だと思います。

  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月13日金曜日

DEATH NOTE HOW TO READ 13

 DEATH NOTE』が完結して三ヶ月、真相編が刊行されました。といっても、これってファンブックですね。『ヒカルの碁』でも『キャラクターズガイド』というのが出ていましたが、そういったものを思い浮かべてくださればいいんじゃないかと思います。主要キャラクター一覧があって、物語(事件といったほうがいい?)の推移があり、その他細かな解説があって、でも私にはそれらはあんまり必要じゃありませんでした(興味が持てなかったって意味ね)。そもそも私はこの本を買おうかどうか微妙に迷ったのです。それは以前にもいっていたとおり、これまでこんだけつきあってきたんだから買うんじゃないかなとは思いますが、正直これは蛇足のようにも感じますという感想に集約されていると思います。

でも買った。で、よかったのといわれれば、割りとよかったよと答えましょう。なんのかんのいってもキャラクター表はざっとでも見たし、事件の経緯はさすがに飛ばしたけど、インタビューは面白かった。基本的に私は字ばっかりのものって面倒くさくて読んでられないんですが、こういう制作の裏話みたいのってのはやっぱり面白いものですから、ついつい読んでしまいまして、面白かったのは、未見の人には悪いけど書いちゃおう、ニアのさいころタワーのくだりとか、そういう本筋には関係ないけどなんか妙に気になるところとそのこだわりですね。どんどんスケールアップする、エスカレートする。それはこの漫画の本筋にしても同じなんですが、あり得る? あり得ない? ってぎりぎりをついて、もう一歩つっこむと悪ふざけになっちゃうって感じのきわどさが面白かったのかもなあ。でも本筋についてはちょっとやり過ぎたよね。物語の推進感やビジュアルの説得力で押さえ込んでるけど、ディテールを見れば微妙なところはあったと思うんです。けど、そういうところもこの漫画の味だと思えば受け入れられないこともないわけで、いろいろあったけど、良質な、本当に面白いと思えるエンターテイメントであったのは間違いなかったと思います。

『HOW TO READ』で私が嬉しかったところは漫画ですね。ラクガキ四コマと『DEATH NOTE』読み切り版。落書き四コマは、本編が死ぬの殺すのとやり切れない話でしたから、そのギャップでね、なんかすごく貴重な感じがするの。月とエルが馬鹿なこといいあってたりね、そういうの本編ではないじゃないですか。表向きには日常会話なんだけど、その奥に息詰まる攻防戦が!! みたいなのが本編。けど四コマは本当に馬鹿。その馬鹿馬鹿しさが貴重で、なんか本当にこんな馬鹿な漫画だったらなあ。あんな殺伐とした話じゃなくて、なんかこんな平和さがいいよなあと思った。この気持ちというのは本編のシビアさがあってのものだから、そもそも私の望むその前提が間違ってるんですけどね。

読み切り版はすごく意外でした。ストーリーがすごくストレート。割合チープ。なんか本当に少年誌に載る怪奇漫画って感じでした。けど、ラストに連載を彷彿とさせる匂いがします。そして、読みきりでも連載でも、その行き着く先は一点であったのだと思えるところがあって、そうですね、それは死というものの嫌さかげんさだと思います。死ぬってのはどういうことなんだろう、多分こういうことなんだと私は思っているんだけど — 、『DEATH NOTE』っていうのはそういう漫画だったのかもなあなんて思って、だから私には『HOW TO READ』を買った意味がありました。もしそれがテーマであるなら、物語の起伏が凄まじかった連載よりも、シンプルな読み切りの方がより伝わってきたと思います。

最後にちょっと感想。私にとって『DEATH NOTE』は、月とLが手錠で繋がれていちゃいちゃしてた頃が一番面白かった。だからLが死んだ時点で、私にとっての『DEATH NOTE』は終わり。後は全部後日談だったのかも知れないなあなんて思っています。この感想は『HOW TO READ』を読んで、より深まったと思います。

  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第1巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第2巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第3巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第4巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第5巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第6巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第7巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第8巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第9巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第10巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第11巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第12巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。

引用

2006年10月12日木曜日

エンジェルお悩み相談所

 なんかこれがはじまったとき、妙な雰囲気の漫画だなあと思って、けど割合嫌いな感じじゃなかったので本式の連載が決まったときにはちょっと嬉しく思ったのを覚えています。なんてことはない漫画かも知れません。悩みのある人が公園のベンチにやってきて、天使に助けを請うというお話。この漫画の肝はといえば、その天使が筋肉質のおっさんということで、ほら天使といえば美形のなんて印象がありますよね。その先入観を逆手にとった出落ち系の笑いが変に気取ってなくて面白くて、そのきどらなさは全編漂ってるから、ほんまにこの人はやる気あるんだかないんだか、って感じでなんか苦笑系。楽屋落ちも多いし、しかも自分で楽屋落ちっていってるし。でもそういう真面目なんだか不真面目なんだかわからない脱力感の傍らで、内容は結構しっかりと真面目だったりするから、そのギャップが私には受けたのかも知れません。ええ、こういうつかみどころのないように見せてる漫画、割りと好きなんです。

それでも最初の方はずいぶんぎらぎらしてたんですね。はじめて読んだときにはそんな風になんてちっとも思わなかったのに、単行本で読み返してみると、最初はやけに力入ってたんだなあって感じて、つまり後期はもうずいぶんと枯れてしまってたということなんかも知れません。でも私はこの変に枯れたっぽい感じが好きで、渋面したじいさんがぼそぼそとおかしなこといってるような味わいがあって、それこそ本気なんだか嘘なんだかわからない面白さ。そうかと思えばいいこといってたりという、ほんま、作者はじいさんかというような枯淡の味わいがそこはかとしているのがおかしいんです。でも、表現のあちこちには若さがあるし、漫画の表現としても若いし、ネタもそんな感じだから、この作者は決してじいさんなんかじゃないし枯れてなんかもいない。なのに味わいは変にすすけた感じなの。そうやね。年齢不詳っぽいんだ。あと、バックグラウンドも不詳っぽい。こういう正体不明な感じが実にいいなと思います。

ただ物語性とか意外性を求めたりしたらあかんと思います。物語はあってなきが如しだし、展開もよくあるパターンを踏襲しているという感じで、こういうところにも覇気のなさが感じられるんじゃないかと思うのですが、だからこういう感じの漫画を読んで、なんじゃこりゃ、やる気あんのか! と怒るような人には絶対お薦めできない漫画です。けど、盛り上がらん感じ、落ちてるんだか落ちてないんだかわからん感じ、こういうローテンションが好きという人にはきっといい漫画だと思うんです。山なし落ちなしで、けどなんか意味みたいのはあるっぽいよねー、でもあんまり考えてもしかたないよねー。そんな感じ。気を張らないで読める。気を張らないから、なんか伝わってくるものもあるように思う。その妙な、一種馴れ合いじみた共感性みたいなものが私には向いていた。だから好き。人には積極的には勧めないけど、好き。そんな感じなのです。

2006年10月11日水曜日

八つ墓村

 当時は娯楽が少なかった、というわけでもないのだと思うのですが、ひとつ映画があたるとものすごい影響力を持って人口に膾炙して、しかも数年にわたり語り継がれることもあったようなのですね。というのはなにかというと、横溝正史の『八つ墓村』であります。小学生時分のことなのですが、誰も映画なんて見ていないというのに、あのたたりじゃあというフレーズが生き残っていたのですから、その浸透度合のほどが知れると思います。で、実際に私がこの映画を見たのは小学校の高学年くらいだったはずで、テレビでやってたのを見て、多分途中で寝てると思うんですが、だから私には『八つ墓村』の映画といえばたたりじゃの婆さん(ここを見れば、もう満足だったといえる)とそしてあの凄惨な殺人のシーン。この事件というのは実際に起こった事件(津山三十三人殺傷事件)をモデルにしていて、とにかく尋常でない。実際の犯行では頭に懐中電灯を二本、丑の刻参りするようにさしていたといいまして、このあたりは小説の方でも詳述されているのですが、映画ではどうだったでしょうか。

私がこの本をはじめて読んだのは中学二年の春でした。なんでこんなにはっきり覚えているかというと、一個上の先輩が持ってきたこの本に後輩がチョークでいたずら書きしたのを張り倒して、謝らせにいった際についでに借りたからでして、こういう状況が成立するのは春から夏にかけてくらいだから、まあ春だったのでしょう。春のうららかに晴れた日々に、私は『八つ墓村』を読んだと、そういうわけなのですね。

このときに、ようやく物語の全容を知ることができたのでした。過去の事件とその因縁が色濃く残る村で再び起こった事件。果たしてその犯人は誰なのか。過去の事件との関連は!? というような、本当によくできた話だと思って読んで、その後私は機会があればこの本を読んだのですが(機会というのは借りる機会ということ)、毎度毎度怪奇と謎とそしてロマンスが程よく塩梅されたエンタテイメント性の高さに参って、やっぱ流行るだけのことはあるのだと納得したのでした。とにかく読ませる文章です。細かいこと抜きにぐいぐい先に進みたくなるのはさすがの一言だと思います。

で、なんとはなしに調べてみたら、なんと漫画も出ているんですね。しかも二種類も出ていて、確かにあのエンタテイメントは小説という形式にとどまるものではないでしょう。映画だって二種類ありますし、ドラマにもなって(しかも私はこのドラマ見たんだ)、その度に、あの『八つ墓村』をどう扱うんだろうという興味で皆見るわけですから、作り手としても気合いが入るでしょうね。

でも私は、原作が面白かったです。原作至上主義とかじゃなくて、とにかくあの筋を把握するには、本という媒体が一番適しているんではないかと思うからです。

  • 横溝正史『八つ墓村』(角川文庫;金田一耕助ファイル1) 東京:角川書店,1971年。
  • 横溝正史『八つ墓村』東京:角川書店,1996年。
  • 横溝正史『八つ墓村』前 東京:講談社,2000年。
  • 横溝正史『八つ墓村』後 東京:講談社,2000年。

映画

ドラマ

漫画

  • 影丸譲也『八つ墓村』横溝正史原著 (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1996年。
  • JET『八つ墓村』横溝正史原著 (あすかコミックス) 東京:角川書店,1996年。
  • JET『八つ墓村』横溝正史原著 (あすかコミックスDX) 東京:角川書店,2002年。
  • 影丸譲也『八つ墓村』横溝正史原著 (プラチナコミックス) 東京:講談社,2003年。
  • JET『金田一耕助犬神家の一族・八つ墓村』横溝正史原著 (名探偵ドラマコミック) 東京:角川書店,2005年。

2006年10月10日火曜日

ダーティペア【劇場版】

 ダーティペア』については、これまでも散々いってきたので、今更なにをいうことがあるんだろうかと、私自身も思います。ただ、ここでちょっと近況報告をば。『ダーティペア』のDVD-BOXがこの度発売されますが、思い切って購入してみることにしました。今この時期に見直して、がっかりするのかあるいは買ってよかったと思うのかはわかりませんが、けど、昔好きだったものをこうして再び視聴できる機会が得られるというのは本当にありがたいことだと思います。『ダーティペア』をみたいものだと思っても、CSなどが出始めてからは地上波で再放送されるものがずいぶんと減ってしまいましてね、だからきっともうみられないものだと思っておりました。それがDVDで、しかも比較的安価に出るというのは、本当にありがたいことですよ。

でもって、今回は『ダーティペア』でも劇場版について。私は『ダーティペア』が映画になっていたというのは知らなかったのですが、これはテレビで何度も放映されたので、私はその度に見て、多分テレビシリーズ以上にみてるんじゃないかな。テレビシリーズは三周くらいみてると思うのですが、映画版もそれくらいは見てると思います。はじめてみたと思ったら筋を知っていて、そしてその後にもう一度みてるから少なくとも三回はみてますね。

劇場版はワッツマン教授という悪役が、なかなかにいかれてていい味を出していたのでした。こめかみと手の甲にプラグがついてまして、ケーブル(光ファイバー?)をつなげることができるという、いわゆるサイボーグでありますね。このサイバネティックの権化みたいなワッツマン教授ですが、私も仕事で大量のパンチなんかをやってるときなんかには、USBでじかにつなげられるときっと便利だろうなあなんて馬鹿なこと思うものでして、こう思うときには常にワッツマン教授を思い浮かべているわけです。けど、USBでつなげるネタを持ち出すと、一般の人が思い浮かべるのは『GHOST IN THE SHELL — 攻殻機動隊』なんですよね。私は『攻殻機動隊』はみたことがないので、機会があったら一度みたいななんて思っているのですが、それにしても悔しい。『ダーティペア』は知名度において劣るのかな。

私がUSBで接続できたらなんて夢想していたときに、イギリスには実際にコンピュータと接続を試みていた人がいたんだそうですよ。Kevin Warwickという人なのですが、自分の体にチップを埋め込み、義手や車いすを操作するという試みをしたそうなのですが、これに加えて自分の妻にもチップを埋め込むなど、もうものすごいのですよ。私の脳裏にはマッド・サイエンティストという語がよぎり、そしてかたちを成したその姿はまさしくワッツマン教授だった。いや、Warwick教授は結構ちゃんとした感じの人であんまりマッドには見えないのですが、でもやってることはかなりのものだよ。いやでも実際、子供の頃に見たり聞いたりしたSFの世界が、今現実に私たちの生活に繋がろうとしているのだろうなと思ったのです。自分の体にチップを埋め込みたいですかといわれれば、ちょっと躊躇するというのが私という人間なのですが、けど確実に私たちのサイエンスフィクションの世界は、ノンフィクションの領域に引き込まれようとしていると感じます。

2006年10月9日月曜日

カレーライス

 前にもいっていましたが、私は今、デアゴスティーニの隔週誌『青春の歌』を購読しているのですが、こうしたもののいいところはというと、さしたる努力もなしにざっとその時代の空気を知ることができるということだろうかと思います。だってね、一口にフォークソングといってもその広がりは半端ではなく、有名どころのごく一部を聴くだけだったらまだしも、もうちょっと詳しく知りたいなあなんて思ったら大変なことになります。まずどこから手を付けていいかわからない。とにかく買って聴いて買って聴いての繰り返しになるのかと思われますが、こういうのはかなり余裕がないと難しいのではないかと思います。思い返せば私は、クラシック音楽をこういう風なやりかたで聴いてきて、けどそれでも全然網羅的なんかじゃない。ごく一部にとどまっているのですから、やっぱり入門用に有名どころをチョイスしてくれるシリーズというのは大切だなと思ったりなんかいたします。

そんな具合に出会ったのが遠藤賢司の『カレーライス』でありまして、実際これは、私が自力でフォークを開拓していったとしたら、まずもって出会うことのなかった曲なのではないかと思います。まったくもって私の基本的嗜好と違っていて、でも聴いてみたらびっくり。すごいよね。なんかすごく独特の世界にできあがっていて、何風? 私にはそのへんまったくわからんのですが、けど一二度聴けば癖になる。そういう中毒性に満ちた歌だと思います。

基本的にはシンプルな繰り返し。ちょっと民族音楽風。歌われているのは日本の普通の暮らしの風景で、そこに三島由紀夫割腹のニュースなんてのが飛び込んでくるのですが、けど大仰に捉えることなく、本当に日常の一コマに紛れさせていくような自然さ、なんかすごいなあ。こんな歌は私には作れないし、こんな風に歌うのもちょっと無理そう。まったくもって私とはかけ離れたセンスでできていて、それでもってちょっと憧れたりなんかして、今後余裕が出来たらこの遠藤賢司という人を聴いていってみようだなんて思っている次第です。

こういう歌を聴くと、日本の歌の世界というのは豊かであるなと実感します。特にこの曲の紹介された『青春の歌』第14号を聴いた時にはそう思いました。率直なメッセージソングがあれば、ちょっと屈折したような独特の世界も提示され、そしてもちろんフォークらしいまっすぐな叙情もあって、こうした音楽が同時代に同ジャンルに溢れていたというのは、ちょっとうらやましいことだなと思うんです。いや、今が悪いといいたいわけではないんです。今も、将来振り返ることがあれば、同様に豊かな層が見いだされるかも知れません。けど、現時点においては私は旧きを知りたい。いや、旧きじゃないですね。これら音楽は今なお死んではいないと思います。

2006年10月8日日曜日

ロリータ

  この間、新聞の書評で読んだのですが、『テヘランでロリータを読む』という本があるのだそうです。イスラム原理主義下において否定される個人の尊厳、思想の弾圧、差別、 — そしてそれらは特に女性に対して顕著であった — 、と隣り合わせの暮らしの中でおこなわれた、西欧の小説を読み解こうという試み。かくして読まれた本の一冊がタイトルにもある『ロリータ』なのですが、果たしてこの試みにおける主役であった女子学生たちにとって、『ロリータ』とはどのような物語であったのか。それは、あるひとりの人間の欲望によって奪われたひとりの少女の人生の物語であった — 。物語は読むものに引き寄せられ再創造されるたびに、新たな姿とテーマを得て、その深みを増していくのだと実感させられるエピソードであるかと思います。

そんな私にとって『ロリータ』というのは一体どういう物語だったのか。テヘランの女子学生たちはロリータに感情移入して読んだといいますが、私にとっての感情移入の対象は、ひとりの人生を奪った主体であるこの物語の主役、ハンバート・ハンバートに他なりませんでした。少年期青年期のやり残しが後を引いたがために引き起こされた少女への偏愛。ハンバートはこれをニンフェットへの愛であるとして、さまざまに分析的なことをいいますが、こうしたことのどれもが自己弁護のようである。自分のゆがんだ執着を絢爛たる言葉によってごまかして、あたかも崇高なものであるかのように見せかけて、現実の残酷や欺瞞を直視しないようにしている、とそのように感じたのでした。

ハンバート・ハンバートの手記という体裁ととったこの物語は、それゆえに一種独特の感触を持っていて、私にとってはまるで夢のような感覚でした。鮮烈でありながらどこかつかみ所がなく、現実味もあるようでないようで、そしてやっぱり自分にとって都合が良い、 — よいことも悪いことも双方において — 、そんな感触が残ります。自分の罪を自覚していたハンバートは、罪悪感を理屈で屈服させることで自分の欲望の開放に成功し、けれど最後には惨めな末路に — 。あのラストへ向かっての転換は、欲望のために無軌道に膨張しすぎた夢を閉じたいと思う、そういう意識であるかのように私は感じて、とかいっていますが、結局はみんな悪いやつだ! ってな感じの話なのがあれですね。

成長したロリータとの再会の場面というのがすごく印象的だと思うのです。夢の少女であったロリータへの幻滅。今まで夢のうちに見られていたすべてが、結局は現実の地上のものであると突きつけられるかのようなシーンに、やっぱり結局はハンバートの妄動が引き起こした虚飾の世界のできごとだったんだろうなあという気持ちになって、けれどハンバートの妄想と執着の王国においては常に犠牲がともなっていたということを考えると、人間は自己の欲望を決して開放すべきではないと、そういうように感じたものでした。

しかし、それにしても『ロリータ』というのは多層的、重層的な物語であると思います。まずストーリーがあって、しかしそのストーリーを紡ぐ文体というのが非常に重要で、パロディや引用の宝庫ときているから、私なんかはこれはあれじゃないかみたいな感じで目移りしてしまって、そしてそこにもなんらかの意味がきっとあるのだと思います。残念ながら、私にはそこまでは読み解きはできません。だから、引用のつまみ食いをしながら、ハンバート・ハンバートの手記をただただ読む。だいたいそんな感じで読んでいます。

  • ナボコフ,ウラジミール『ロリータ』大久保康雄訳 (新潮文庫) 東京:新潮社,1984年。
  • ナボコフ.ウラジーミル『ロリータ』若島正訳 東京:新潮社,2005年。

2006年10月7日土曜日

ドリームハンター麗夢

実をいいますと、もうひとつ、別の懐かしアニメのDVD-BOXが出るという話も聞いていまして、それも11月に出るんだそうで、なんでこんなに一時にまとめて出るのー。

以前、私はこんなことをいっていました。さて、そのもうひとつの懐かしアニメとうのはなにかといいますと……、それは『ドリームハンター麗夢』というアニメでありまして、でも一般にはあんまり知られていないんじゃないかと思います。OVA展開されたアニメです。初期シリーズでは三作制作され、その後もう一作二作出たらしいのですが、残念ながら私はそれを見た覚えがなくて、というのも私は高価なOVAを買うだけの余裕がなかったものですから、テレビ放送されるのを待つしかなかったからなのです。OVAがテレビ放送? そうなのです。関西には『アニメ大好き』という伝説的番組(特番)があって、夏冬春休みに一週間くらいかけてOVAを放送してくれたのです。ノーカット、ステレオ放送が売りでして、関西アニメファンにはかなり支持された番組であったと思っています。というか、自分の知りあい、みんな見てましたし。

 私と『ドリームハンター麗夢』の出会いも、まさしく『アニメ大好き』だったんです。探偵事務所に持ち込まれた奇怪な事件にヒロイン麗夢が挑む、という内容なのですが、タイトルに夢というワードを入れてあるように、相手は夢魔と呼ばれる怪異の存在であったりします。それら敵と戦うために麗夢は夢の中に入っては剣を振るい、現実世界に戻ってはコルト44マグナムで銀の弾丸をぶっ放すという、極めてアクション色の強い作品に仕上がっていました。

けど、アクション色が強いといってもやっぱりアニメファンに向けて作られたアニメ作品というわけで、マニア好みの要素が散見されます。ヒロイン麗夢からがまさしくそうで、見た目美少女(けど年齢不詳)の麗夢は夢の中ではビキニとしか見えない鎧を着込み(ビキニアーマーは当時のアニメのお約束です。レダ以降の伝統だとか?)、現実世界ではレオタードで戦う(今から見るとちょっとフラッシュダンスっぽい?)。なんか聞いた話では、ビキニアーマーOVAとレオタードOVAのふたつ派閥が対立概念的に存在するらしいのですが、麗夢にはどちらの要素もあるから、どちらの支持者であっても安心ですね! ちなみにレオタードOVAの代表格は『戦え!!イクサー1』らしいのですが、わっはっは、私これ持ってるよ。けど、私、別にレオタードOVA派というわけではありませんので。だからといってビキニアーマー派ってわけでもないんですけど。

むやみやたらと話がそれた……。

私が『ドリームハンター麗夢』にこんなにもひかれてしまうのは一体なんなんだろうって思います。だって、見たのは多分中学生の頃だと思うのですが、ストーリーだってもうずいぶんおぼろげにしか思い出せないというのに、銀の弾丸が実はダムダム弾だとか、愛車がシティ・カブリオレだったとか、なんかそんなことは覚えていて(調べてみたら正しかった……)、私の少年期の記憶力はこういう方面に向いていたのだなあと嬉しくなったり悲しくなったり。けど、そんな昔のことを未だに思い出せるということが、それだけこのアニメのインパクトの強さであると思うのです。だから、今一度きっちりと見直したいと、そういう思いが残り続けて今に至る。そういうことなのだと思っています。

というわけで、『ドリームハンター麗夢 DVD-BOX1』を予約してみました。予約先は、商品が確保できませんでしたので、お客様のご注文よりキャンセルさせていただきましたのフレーズで有名なAmazon.co.jpです。果たして届くのかどうか請うご期待! って、確実に届きそうなところに再予約するべきかなあ……。生産数が少なく(1000本だとか?)、けれどファンはそれなりにいる(だって同人誌即売会にいくと未だにサークルがある、本買っちゃったよ)から、買い逃すと高騰間違いなしというこのアイテム。ちょっと迷います。一方的キャンセルを喰らうと、きっと私は悔しさに歯がみするに違いないのですから!

VHS

CD

書籍

引用

2006年10月6日金曜日

コックリさんが通る

 なんか、いつもは読まないタイプの漫画を読みたくなりまして、その時たまたま目にしたのが『コックリさんが通る』。作者も知らなければもちろん漫画についても知らなかったのですが、なんかひかれるところがありまして、タイトルかな? あるいは表紙の娘さんが気になったのかも知れません。とりあえず手に取ってみて、シュリンクされてなかったので中身を拝見、ぱらぱらと読み進んでみて、わりと悪くないかもと思って購入したのでした。

実をいいますと、私は結構オカルトものの漫画が好きなんです。『地獄先生ぬーべー』も最初の方は読んでたし、『霊感商法株式会社』なんかも読んでいまして、だからこの漫画にひかれたというのもそれほど不思議ではなかったのかも知れません。

1巻を読んでみての感想。意外とこの漫画、古いんですね。読みはじめた当初は気付かずにいたのですが、途中、緊急の連絡をとるために使われたのが携帯電話ではなくてポケベル。あ、と思いました。そういえば、全体にちょっとずつ一昔前の世相をうかがわせるなにかがあったっけ。テレクラブルセラショップ。携帯電話も出てこないわけじゃないんだけど、誰もが持ってるわけでないというのがあちこちに読み取れて、十年ほども前の漫画じゃないだろうかと思ったらドンピシャでした。もともとの漫画は1996年の出版。たった十年ですが、その間に通信をめぐる状況は激変したのだとわかります。

この漫画、いうなれば一昔前の漫画であるというわけですが、読んでみれば意外に古さを感じないというのがたいしたものだと思います。半妖が跋扈するという、ある種現実味の薄い内容のためかも知れませんが、でも多分それだけではないでしょう。要因はいくつか挙げることができると思います。この十年、表層こそは目まぐるしく変わったけれど、実質はたいして変わっていなかったからかも知れませんし、この十年、漫画表現が沈滞して、見せかたやらなにやらにいうほどの変化がなかったからかも知れません — 。おそらくそうした要因もあるのかと思いますが、けどこの作者の世界の描き方というのも、古さを感じさせない理由であるのだと思います。独特の癖があり、ちょっとおたくっぽい趣味もあって、割合無理矢理なところもあるのだけど、それをとにかく自分の世界の内に囲い込んでしまっている。その囲い込みかたが嫌いでなければよし、嫌悪感があれば駄目と、そういうタイプの漫画と感じました。

MF文庫の嫌いなところは、初出掲載誌や年が示されないところです。だから、私は最初この漫画は、ハイティーン向けの少女誌あたりに載っていたものだと思って読んでいて、そうしたら掲載誌は『ヤングサンデー』。道理でパンチラや裸が多いわけだ。けれどそれほど青年向けという印象はなくて、私には読みやすかったです。でも、ちょっと不幸になる人 — 、死んだりなんだとか、 — が多いというのはきついかな。それと、作者の自分設定が独りよがり一歩手前という感じなのも人によってはきついかも知れません。丁寧さにも欠けるし。と、欠点がないわけではありませんが、読んでいて面白いし、なによりヒロイン大森狸花子が非常にいい感じだったから、私は非常に満足しています。そんなわけで、来月出るだろう下巻を楽しみにしています。

  • 奥瀬サキ『コックリさんが通る』上 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2006年。
  • 奥瀬サキ『コックリさんが通る』下 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2006年。

2006年10月5日木曜日

子育てクイズ マイエンジェル

 ふと偶然目を留めた広告で『右脳の達人 ひらめき子育てマイエンジェル』というのが出るらしいというのを知りまして、『マイエンジェル』とは懐かしいですね。これ、もともとはクイズゲームでして、アーケードで展開された後にPlayStationに移植されたそうです。残念ながら私PlayStation版はやったことがないんですが、アーケード版はちょくちょくやって、それでまあなんというか、はまるんですよね。友人と一緒に、千円ずつ両替して、協力プレイ、なんとしても最後までいくんだとがんばってがんばってがんばって、そうしたら娘がおたくに育っちゃった……。いや、私おたく娘は好きだからいいんですが、けど、実際自分の娘がバリおたくに育ったらそれはそれでショックかも知れないなあ。そんなことを思った夕暮れでした。

『子育てクイズ マイエンジェル』のよかったのは、やっぱり遊びやすいってところなんじゃないかと思うのです。ちょっとした合間にクイズでもやる? みたいなのりではじめることができまして、けど、子供が育っていく様を見てなんか一生懸命になってしまうというのは相手の思うつぼって感じで悔しいよね。『ゆうゆのクイズでGO! GO!』とかだったら1コインでどこまでいけるかが重要だから、コンティニューしてまで続けようだなんて思いもしなかったのですが、『マイエンジェル』はちょっと違うんですね。せっかくここまで育ったこの子の行く末を見たい。その一心でコンティニュー、コンティニュー、千円両替両替の罠にはまるのです。これ、私だけかなあ。正直、プレステ版が出るなら、ゲーセンでやるんじゃなかった。といっても、この当時私はプレステ持ってなかったものなあ。

その、変に中毒性の高い『マイエンジェル』が脳を鍛える系のゲームで出たというんですが、公式サイトに用意されている体験版で遊んでみて、や、これはちょっといいかも知れないぞ。というのは、えりか7歳がどえらいかわいいんです。いや待て、そういえば『子育てクイズ』にのめり込んだのも、結局子供がかわいかったからじゃなかったか? ああ、そうなんですよ、男の子でも女の子でも、とにかくかわいい子供が私をママあるいはお母さんなんて呼んでくれて、なついてくれて、こりゃはまるというものです。脳を鍛えるなんてもうどうだっていいって感じです。

冗談はさておいて、アマゾンのレビューを読めば、脳を鍛えるパズルの成績が子供の性格に反映されるわけではないみたいですね。そういうのはちょっと残念かなあって思ったりして、というのは、やっぱり『マイエンジェル』っていうのは、親(つまりプレイヤー)の思惑関係なしに子供が育ってしまうというのが面白かったと思うものですから。それがさっきもいっていた、なぜだかおたくに育ってしまうという話でして、本当はまじめ一辺倒に育てたかったのに、それなのに、どうしても親のカラーというのが反映してしまうのはやむないことで、まあ蛙の子は蛙、おたくの子はおたく、そういうのが出てしまうというのが『マイエンジェル』の魅力であり、もっとも楽しかったところだったと思っています。

CD

2006年10月4日水曜日

Quartett!

  旅行の写真を保存しようとDVD-Rを買いにいった電器店のゲーム売り場で『Quartett!』を発見。ああ、ついにPlayStation 2版が出たんですね。てなわけでちょっと欲しくなったのでした。けどまだ買ってません。それに、これから先も買うかどうかはわかりません。というのはなんでかというと、オリジナルを持っているからなのです。ええと、オリジナルはPC用ゲームでして、ええと、18歳未満は買えない呪いがかかってる? そんなタイプのゲームなんですが、なぜか持っています。忘れもしませんね。Amazonのおすすめに『Quartett!』が現れて、ええーっ、なんで? その手のゲームをブラウズした覚えもないのに? けど、お勧めされてしまったのですから仕方がありません。最初こそ黙殺したのですが、どうにもあの絵が気になりましてね、『北へ。』の大槍葦人さんですね。あのやわらかな感じの絵が好きでしてね、だもんだから結局は買ってしまったのでした。Windowsマシンと一緒に!

  『北へ。』はバイト先の友人が持っていたんでした。彼は筋金入りのセガファンだったからもちろんDreamcastユーザーで、Dreamcast用アドベンチャーゲームとして鳴り物入りで登場した『北へ。』も買っていました。このゲームは恋愛アドベンチャーのなのですが、やってみればバーチャル北海道観光ツアーといったおもむき、名所解説よりも愛をささやいて欲しいとかいう突っ込みを聞いて大いに笑ったものですが、でも本心をいうと遊んでみたかった。絵が好みだから、キャラクターが好みだから。だって、自分が遊べないプラットフォームのゲームだというのに、しっかり絵柄もタイトルも覚えているくらいですからね。だから『Quartett!』がお勧めされたときに、これはっ! と思った。で、買っちゃった。悩んだ末ですよ。でも買っちゃったんですね。原画集まで買っちゃったんですね。もちろんビジュアルファンブックも買っちゃってるんですね。

で、そんなにも入れ揚げている『Quartett!』ですが、ゲームとしてはどうかといいますと、正直ちょっと人には勧めにくいという感じです。アダルトゲームだからじゃないですよ。アダルト要素が問題なら、PS2版をお勧めすればいいという話になるじゃないですか。私が問題にしているのは、ゲームとしてはどうだろう、ということです。基本的に物語を追うばかりのゲームです。選択肢は少なく、またどれを選べばいいか非常にわかりやすくできているから、攻略でつまるということはまずあり得ないと言い切っていいくらいです。だから、このストーリーそして絵にどれだけのお金を払えるかが評価の分かれ目であると思います。私は買って後悔していませんが、いやむしろ気に入っていますが、けど人によってはこの価格は受け入れられないかも知れません。私がお勧めできないという理由はまさしくこの一点なのです。

でも、遊んでみた感想はというと、まずインターフェイスがすごい。今まで見てきたゲームやその他アプリケーションのどれよりも洗練されているんじゃないかな。すごくおしゃれで、文字による説明なんかは極力廃されているのに、アイコンが適切だから迷うことがない。正直感動しました。あの対価が、このインターフェイスを見るためだけに支払われたものだったとしても、実際私は納得したでしょう。それくらい感動したのでした。

そうしたインターフェイスまでも含めた見せかた、演出がうまいゲームです。このゲームの売りはフローティング・フレーム・ディレクター(略称FFD)なのですが、物語の進行にしたがい画面にキャラクターが漫画のコマ割りをするがごとく描画され、そしてそのキャラクターたちがあたかもしゃべっているかのように吹き出しが現れるという見せかた。これまでこういうのを見たということがなかったから、すごく面白かった、ひとつの試みとして成功していると思ったのでした。

恋愛系アドベンチャーゲームといえば、決まった形式みたいなのがあって、それは情景を説明する背景にキャラクターの立ち絵、画面下部にはテキストの表示されるフレームがあるというパターン、まれにイベントに応じた一枚絵が出てくる — 、このへんがお定まりだと思います。それこそPC98時代から(あるいはもっと以前?)綿々と受け継がれてきているスタイルですが、『Quartett!』はこうしたやり方から脱して、ひとつの解答を提示したなと実感しました。だから私には、ゲーム性の薄さは気になりませんでした。ストーリーにしても、実際にはありえないよななんてところも多分にあったりしますが、おおむねオッケーという感じ。それよりも、インターフェイスまでも含めた全体の印象をよくまとめて表現した、— ちょっと古いいい方をすれば — 、良質のマルチメディアタイトルであると、そういう印象で受け止めています。

そういえば、PS2版では声がついたみたいですね。これ、私にとってはどう転ぶかわからない危険な要素ですが、でもよりマルチメディア感は強くなりました。そして多分遊べば、割合いいじゃんなんて思うんじゃないかと思います。それに、このゲームに関してはエロシーンが全体の構成を著しく破綻させていた(ここはFFDではなく、旧弊のスタイルが顔を出します)と感じている私ですから、そういった要素が排除されているだろうPS2版の方がむしろ好ましいできなんじゃないかと、そんな風に予想しているのです。

だから、後は買うかどうかだけです。正直ちょっと迷いますね。PS版独自のフィーチャーとかがあったらかなり揺れ動いたと思うのですが、そのへんどうも微妙みたいです。迷いますね。

PS2

PC

書籍

CD