2006年10月26日木曜日

ふたりめの事情

 私は本の病にかかっているような人間です。本屋を見れば寄らずにはおられず、例えば仕事帰り、駅にたどり着くまでに書店三軒をはしごします。書店はそれぞれに得手不得手があって、日によれば三軒が四軒になって、途中、乗換駅で改札でたところの書店により、しかも最寄り駅前でも寄ってと、一日に五軒六軒はやり過ぎだろうと自分でも思うのですが、寄らずにはおられないのだからしかたがない。それぞれの書店で新刊見つけては買い、面白そうな本を見つけても買い、そして今日買ったのは、きづきあきらの『メイド諸君!』第1巻、久世番子『ふたりめの事情』、そして同じく久世番子『暴れん坊本屋さん』第3巻、でした。

これらの本を見つけたのは三軒目、けれど三軒目で買ったのは久世番子の二冊、きづきあきらは途中下車して買いました。なぜか? それはちょっと美しさに問題があると思われたから。美しさ? そう、美しさ。ほら、よく本屋にいくといるでしょう? 神経質そうな客が、おんなじ本をためつすがめつ眺めて、一番綺麗なの選んでるみたいな風景。そう、それが私です。どれ買っても同じじゃん、とも思うのですが、だって明らかに違うじゃん! との理由で、どうしても選んでしまいます(疲れているときほど神経質です)。

けれど、久世番子の二冊は問題ない感じでしてね、だから三軒目で買ったのですが、いやあ、油断しましたね。まさかレジでシュリンクを外されるとは思いませんでした。カバーいりますか? いえ、そのままで。袋だけでいいですよ。と答えたそのままの解釈が違ったんですね。私はシュリンクもつけてそのままでといったつもりだったのに、店員さんはカバーなし本のみでそのままでと思って、シュリンクを外してくださった。けど、けどさ、その外し方はカバーが、カバーが傷むんです!

番子さん、傷物になっちゃった……。しかも被害としては、『ふたりめの事情』の方がひどくて、っていっても一般人なら気付かない程度の瑕疵ですな! と思って今みなおしたら、カバーにボールペンの線がはいってるじゃないかあ。うう、しくじったなあ。もういいや、明日、明日買い直そう……。

というネタでもって『暴れん坊本屋さん』で書こうと思っていたのですが、けど車内で読んだ『ふたりめの事情』が割合に面白かったので、今日は『ふたりめの事情』です。

軽いのりとタッチで書店の内幕を暴露する『暴れん坊本屋さん』を読んだ直後に『ふたりめの事情』に移行して、正直重くてしんどそうかなというのが最初の印象でした。細やかな絵、吹き出し内の台詞も多く、疲れている体にはきついかもしれない。読むのやめようかな — 。やっぱり同じ読むならベストコンディションで読みたいと思いながらも、けれど物語は動き始めて、そして静かに私は物語世界に引き込まれていったのでした。

久世番子は、繊細なタッチで、時にはギャグも交えつつ、けれど割合に重い内容を書くことが多くて、そうした傾向は『ふたりめの事情』においても同様であったと感じています。知らなかった双子の兄弟に出会うという物語。主人公の少年は双子の弟に出会ったことをきっかけに、コンプレックスに足を取られながらも、自分自身を見つめ直し、成長していく。しかしこの伸びゆく少年の物語が、みずみずしさよりも切なさを強く感じさせるというのは、一体どうしたことでしょう。物語のそこかしこに死や忘却というテーマが顔を出して — 、そういえばこの感覚は久世番子の既刊においても同様だったということをふと思い出しました。そうなんです。久世番子の漫画には通底するテーマがあって、それは自分を見つけて欲しいという思いなのではないかと思ってます。自信を持てない主人公が、あるいは素直に気持ちを表現できない主人公が、心の奥に隠してしまった本当の私を見つけて欲しいと思っている。そのような、分かたれてしまった私をめぐる物語が、久世番子のテーマであると思うのです。

だから切ない。

久世番子の切なさは、この私を見つけてくれるはずの誰かもまた、自分自身を見つけて欲しいと願っているというところにあるのではないかとも思っています。この構図は『ふたりめの事情』には特に色濃く、例外はありますが、登場人物のほぼすべてがそうした分かたれた自分自身を心の奥に隠していています。見つけ出して欲しい、そして受け入れて欲しいと思いながら、けれど、それを表には出せずに苦しんでいる様が切なくて、しかも、望みのうらにきっと駄目なんじゃないかという不安を寄り添わせているからなおさら。けれど、久世番子はこうした不安を放りっぱなしにすることなく、希望も切なさもすべてをクライマックスの一点に凝縮してくれるものだから、私は胸がいっぱいになったのです。

どちらかが優位な立場に立っていたらば、こうはならなかったでしょう。お互いが、お互いに不安と切なさを抱えて、けれど両者がそうした迷いを乗り越え、歩み寄ろうとするからこの物語は成った。甘くけれど煮え切らないラストは拒否して、決然と終わりを、切なく悲しい終わりを選び取りながら、それがこれほどまでにあたたかで幸福で美しい印象に包まれたのは、なされるべきことをまっすぐに見つめて、ひるまず一歩を踏み出したからだと思うのです。誰もが — 、登場人物が、作者が、そして読者が、切なくけれど仕合せなこのラストを選ぼうと決めた。その決断がこの読後感を支えていると、そんな風に私は感じています。

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