2006年12月31日日曜日

青い花

  過ぎてゆく年を振り返るという意味からもなんだか重要な気もする一年最後の日、大晦日の更新は志村貴子の『青い花』です。ええと、特に深い意味はありません。第1巻を書店で見かけて以来、ずっとずっと気になり続けていた漫画なのですが、それをついこの間まとめて買ったものですから。正直なところをいいますと、この漫画に関しては出遅れたという感じが強くて、だからなんだか買いにくかったんです。ところが、先達て第2巻が出ましたでしょう。そんときにですね、多分第1巻2巻そろいで入荷して新刊だけ売れたんでしょうね、いつも立ち寄る書店で第1巻が平で置かれていたんです。あれ? 1巻新発売? とすると、これまで見てたのって雑誌の表紙だったのかなと思って、新刊気分で第1巻を買ってしまった。その後、地上三十階の書店で第2巻が大々的に売られてるのを見て、ああそういうことかと理解、一日で1巻2巻を買ってしまうことになってしまったのでした。

でも、なんか日常の些事に追われて、今日まで読めなかったのです。今日、つまり一年の最終日、大晦日の日中、なんだかなにをするにもやる気の出ない昼下がり、そうだ『青い花』読もう。そして読みはじめて、この繊細に作り上げられた世界の細やかなディテール、鮮やかでけれどメロウな少女たちの感情の機微にとらわれて、ああいいね、なんとなくレトロでありながら、間違いなく現代的でもある、この端境に現れる混雑が淡くグラデーションを描くような感覚。素敵だと思いました。これはきっとはまる人にとっては堪え難くあらがえない魅力とうつるでしょう。

キャラクターの味付けも良い感じだと思うのです。みんな、なんだか一生懸命でかわいいよね。素直でまっすぐでそれが強さに繋がってるようなあーちゃんとナイーブで引っ込み思案でそれゆえに思いが胸中に醸成するような乙女ふみちゃんがヒロインなのかな、そして彼女らを取り巻く舞台装置が相まって、現代でありながらレトロモダンの空気を感じさせる。もしかしたらこういう空気を保った世界も、この世のどこかには残ってるのかも知れませんけどね、でも私には、ひたすらに美しい夢がかたちになったもののように感じられて、そう、私の思い描いた夢はこんな感じだったのかも知れないなあと思うのです。

で、ここでやれ美しい女として生まれたかっただとかなんとかいう与太話が続くのだけど、こんなの一年の最後に読まされてもどうしようもないし、なにより申し訳がないから割愛。けど、そうなのです。私はもう、女性同士の恋愛、特に少女期に見られるようなものを特段に美しいものとは思わないようになっているのですが、けどなんだか夢に描く少女期の恋愛は美しいもののように思える。まあいうたらロマンチストなんでしょう。潔癖に純粋培養するかのように閉鎖された空間で起こる、心と心が純潔性を手がかりに引きあい、求めあうような恋愛だなんて夢想したいのか、とにかくどろどろの愛憎劇なんて見たくない、けど心と心が絡み合い引き合い、別れもあらば傷ついて心千々に乱るるようなそんな恋模様なら別だと思っている。そういう恋愛のかたちというものをこうした漫画に投影して読んでいるのではないか、きっとそうなのだろうと思います。

それだけに、この漫画の中に投げ込まれたあの男性、井汲京子の許婚が怖ろしゅうて怖ろしゅうてたまらんのだよ。もう、兄貴の気持ちがよくわかるってやつさ。おそらくは、こうした異質な存在、 — この作り上げられた甘い夢をぶち壊しうる欲望 — がこの漫画の、特にあーちゃんを取り巻く物語の動因になっていくんだろうなと思って、楽しみでありながら心配です。けど、心配だからこそ読み進まないわけにはいかないと、果たしてどういった方向に進むのか、そうしたいろいろ全部含めて、この先に起こるだろう展開を心待ちにしてしまっています。

  • 志村貴子『青い花』第1巻 (fx comics) 東京:太田出版,2005年。
  • 志村貴子『青い花』第2巻 (fx comics) 東京:太田出版,2006年。
  • 以下続刊

2006年12月30日土曜日

嵐ヶ丘

iTunes Storeフリーダウンロードコード話、第六回。今回はALI PROJECTの『嵐ヶ丘』です。ALI PROJECTについては今回の選曲で知ったので、まったくどういったグループであるかわからないでいます。じゃあなぜそんな知らない人たちの知らない曲をダウンロードすることになったかというと、それはつまりお勧めをいただいたからとそういう理由です。アリプロがお勧めですよといわれまして、ほー、アリプロっていうのがいいのねと検索したら見つからない。残念、iTunes Storeには入ってないみたいだったよといったら、略称でなくちゃんとお教えしたほうがよかったですねと、すなわちここで初めてALI PROJECTという名前を知ったのです。では、なぜここで『嵐ヶ丘』を選んだのか!?

単純な理由です。ジッタリン・ジン『一人きりのクリスマス』を選んだのと同じやり方ですよ。そう、オーディエンスです! 多くの人に支持されたものを選んでおけばまあ間違いはないだろうと、おお、なんという主体性のなさでしょう。でも、わからないジャンルに飛び込むときは、このやり方が一番失敗しないと経験的に学んでいるものですから、これでいいんです。

さて、それでどうだったか。私はこの『嵐ヶ丘』という曲を聴いて、日本一ソフトウェアの『マール王国の人形姫』を思い出しました。なんでかというと、この『マール王国』シリーズはミュージカル演出があるというのが売りの極めて特異なゲームで、そこで歌われるちょっと大時代がかった豪華絢爛ナンバーに通底するものが『嵐ヶ丘』から感じられたからなのです。そして、私は『マール王国』のシリーズは大好きで、ということはこの『嵐ヶ丘』に関しても、割りといいじゃんかなんて思っているわけです。

どこがいいかというと、ちょっと神経質さを感じさせる女性ボーカルの声の伸びでしょうか。ポルタメント一歩手前といったうねうね具合が気持ちいい導入に、さわりが過ぎたかと思ったところに現れる最終パート、器楽的な跳躍に翻弄されるあのファルセットがとにかくいいんですよ。それぞれの部分に違ったよさというのを持たせて、それが一曲にしっくりとまとめられている、実に良い感じに仕上がっています。くるくると回りながら踊り続ける夜の興奮が漂って、もし他の曲も『嵐ヶ丘』同等のクオリティを持っているというのなら、アルバムで持っても悪かなさそうだと、そう思うくらいの気に入りようです。

けどさ、そう思ったら『嵐ヶ丘』が収録されているアルバム『Dali』の価格高騰ぶりったらすごいね。Amazon.co.jpしか見てないから余計にそう感じるのかも知れないけれど、いくらプレミア価格といっても31,800円ってのはどうなのよ。でも、こうした簡単に入手できなくなったアルバムがダウンロードで買えるっていうのは嬉しいことだと思います。ジッタリン・ジンの『一人きりのクリスマス』を収録する『Moonlit Lane』も廃盤ですが、ダウンロードで手に入る。ここにダウンロード販売の真価が発揮されているぞと、CDというメディアに縛られるオールド・タイプ・リスナーである私にしても、なんだか嬉しくなってくるようなそんな出会いでありました。

2006年12月29日金曜日

普通の人々

 まんがタイムKRコミックス買いに書店に行ったらば、松山花子の新刊を発見。タイトルこそは『普通の人々』とあるけれど、表紙を見るかぎりあんまり普通とは思えません。こりゃ、きっとこの人特有の皮肉やなんかが満載された漫画なんだろうなと思って、即購入を決定。私、この人独特のシニカルなギャグが好きなのですよ。男尊女卑、マッチョに対するからかいがあったかと思えば、返す刀でフェミニズムにも一太刀浴びせるというような、どちらの価値にも足をとらわれない絶妙の立ち位置。理屈としておかしい事物、傍から見てこっけいなプライドやなんかを片っ端から笑っていく、そんな松山花子の漫画を面白いと思うようなのが私です。

で、実際に読んでみた『普通の人々』、マイナーな人ばかりで構成される社会に投げ込まれた普通標準大衆迎合的主人公一家が、その普通であるということをもって責められ追われ苦しめられるという漫画、なのですが、まあ基本ギャグ漫画ですから、そんなに責め方が苛酷というようなことはありません。

この漫画読んで、私は、そう、そうなんだよ、って思った。なんで普通の連中は、自分が多数派に属しているということだけを理由に、少数派を等閑視できるんだろうって、いつも思っている疑問に対するひとつの答えがここにあると思ったのです。まあ、マイナー同士が身を寄せあえば、そこに生まれるのはメジャーへの怨みつらみ鬱憤であって、そういう意味では私はこの漫画でもって少しばかり溜飲を下げたといってもいい。そう、この漫画を読んで面白いと思えるのは、これまで少数派に属してきた人なんじゃないかと思います。逆に、多数派から見たら一体なにがこんなにまでいわれなければならないのか、わからないんじゃないかと思います。

でも、このマイナー集団である地方都市において多数派少数派が逆転したことが、また問題を面白くしているんじゃないかなと思うのです。一般社会における多数派が少数派に追いやられて、そうなれば今度は結託した少数者による多数派疎外がはじまって、しかもその少数者のマイナー志向があんまりに極端なもんだから、ほのかに少数者の自分のこだわりに引っ込みたがるような頑なさなんかも揶揄されているようで、面白いなと。結局は多数だ少数だじゃなくて、人それぞれの違いを認識してやっていくのがいいんですね、とそんな感じだったのが松山花子の良心みたいでいい落とし所だったと思ったのでした。

けど、この漫画、ちょっと理詰めに走りすぎているようなところがあって、そこが残念なところだと思います。いつも読んでる四コマなんかでもそういう嫌いはあるのですが、四コマではそんなに理屈をがっつり展開するだけの余地がないから、いい具合にとどまっていたのかなとそんな感想も持ちました。ちょっと台詞がね、読んでて素直に流れないんです。これがいつもの四コマの程度ならアクセントとして効果的なんでしょうが、ちょっと多すぎてくだくだしかった。だから、この漫画、松山花子を知らない人には勧めにくい漫画だと思います。松山花子が好きな人でも、受け付けにくいと感じる人も多いんじゃないかと思うくらいでしたから。

  • 松山花子『普通の人々』(バーズコミックス) 東京:幻冬舎,2006年。

2006年12月28日木曜日

タイガー&ドラゴン (完全版)

 iTunes Storeフリーダウンロードコードにてダウンロードした五曲目は、クレイジーケンバンドの『タイガー&ドラゴン』でありました。この曲、確かドラマの主題歌だったんですよね。でも、私はドラマとか全然見ないからまったくそれがどういったものかもわからないでいるのですが、けどこの曲は結構耳にして、ああいいじゃんと思っていたのでした。ええと、どこで聴いたのかというと、主にコンビニですね。コンビニのBGM、あれは有線かなんかだと思うのですが、人気の曲が次々ローテーションしながらかかるんでしょうか、とにかくコンビニでこの曲をよく聴いたのでした。

で、私はこの曲が『タイガー&ドラゴン』というやつだとはまったく認識してなくて、てっきり『俺の話を聞け』とかそういうのだと思ってた。なんか、いいかげんだな! そう、私はいいかげんなんですよ。意外とタイトルとかどうでもいいと思っているから、好きな曲なのにタイトルは不明とかそういうことはよくあります。しかも悪いことに、アルバム持っていてもそうなんですから手がつけられない。こうなるとですね、カラオケで選曲できないんですよ。仕方がないから歌詞で探すのですが、私が覚えているのはさわりの歌詞であって、歌い出しなんか覚えてるわけない。だから探すに探せず断念する。こういうことはよくあります。

今回この曲を選んだのは、実に単純な話で、ちょっと流行った曲の一曲二曲くらいは知っておきたいなと、そういう動機です。それでCKB。私は実際結構こういう感じの歌は嫌いでなくてですね、CKB以外でいうと大西ユカリと新世界とかもそうでしょうかね。べたな昭和歌謡を濃厚大げさに再現してみましたみたいな、ちょっとイロモノ色漂わせ、けれどその実際は結構の実力派で、笑いもとるよ、歌もキテるよ、けどよかったらじっくり聴いていってよ、ほら意外といいと思わない? みたいなノリといったらいいのでしょうか。大好き。思わずにやにやしながら聴いてしまいたい。けどふざけてるわけじゃないから、にやにやしながらもいいねと思ってしまう。このバランスはなまなかに出せるものではないと思いますよ。

『タイガー&ドラゴン』をダウンロードするにあたり、無印と完全版、iTunes Originals Version、いろんな版があって迷ったのですが、レア感からiTunes Originalを選びそうになるところを結局完全版にしてしまう、ここに私という人間の本性が見え隠れしているのではないかと思います。そうなんですよ。完全版とかに弱いのです、あとディレクターズカット。今までカットしてた部分も全部収録してみましたよ、これこそが本物なんですよというささやきに弱いのです。だから完全版をダウンロードしてみて、そしたらこれが最初に台詞入りで、実に怪しい昭和歌謡というかなんというか、微妙なナレーションを作り上げていて、そのうさんくささが最高で、そこにいやらしさ満点の歌い方で『タイガー&ドラゴン』が四分少々。この塩梅がやっぱりええのですよ。完成度高いわあ、とやっぱりにやにやしながら聴いてしまうのです。

2006年12月27日水曜日

天上の弦

 ずっと新刊が出るたびに楽しみに読んで、読み終われば読み終わったで、この続きはどうなるんだろうと楽しみにしてきた漫画『天上の弦』がついに完結しました。最終巻は十巻、なんか一気に老けられたなと思って、これで終わりかなと思っていたら本当にそうで、ちょっと残念に思うところもあり、けれど円満な終わりを余韻ふくよかに迎えることができて、読者としては非常に満足でありました。というか、すごいよね、この漫画。実際に動乱の時代を生き抜きついにマスターメーカーにまで達した陳昌鉉その人もすごいのですが、その波乱の半生を漫画という表現を縦横に駆使し表現する山本おさむもすごい。踏み込みの深い人であると思うのです。物語に、事実に、そして読者の内面に踏み込んでくる。私はうっとたじろぎながらも、踏み込まれるままに心を動かされている。本当にすごい漫画だったと思います。

私と山本おさむの出会いはですね、『わが指のオーケストラ』だったのですよ。この漫画を知らないのか、絶対に読んでおくべき漫画だと押し貸しするように文庫四冊渡されて、私はなんだか乗り気でなかったから長く置いたままにしていたのですが、ある日なんとはなしに読みはじめて、そのすごさに圧倒されたのです。一体これはなんなんだろう。漫画の向こうにある実感の深さ、情感の豊かさが、そこには確かに人間が息づいているのだと物語っていて、そうこれは語る言葉の強さだ。絵が、言葉が、すべてが一体となって、私の中にだくだくと流れ込んでくる。あらがいがたい強烈な体験といっていいかと思います。漫画というものはこれほどに力を持つものなのだと、思わされずにはおられない迫力です。

だから『天上の弦』を、一体どういう漫画かもわからず買いはじめたあの日、私にはいささかの不安もありませんでした。山本おさむが描いているんだから。好き好みでいえば実は山本おさむの漫画は私の趣味から離れているのですが、しかしそんなつまらない好き嫌いを越えた力のある人であることはもうわかっているから、まったく全幅の信頼を置くことのできる、まさしく希代の名作家であります。

そして『天上の弦』読み終えて、これはヴァイオリンづくりに一生を賭けた男の話なのですが、しかしただただ楽器づくりに没入するばかりでないというところに物語の深みがあったのだと思うのです。そこには人と人との繋がりがあって、ヴァイオリンこそを軸としながら、その周辺にあった人間の息吹が生々しく伝わってきて、ああ確かにこの人たちはいたんだ、この地上に生きていたのだとそうした実感をもって読み進むことができるのです。友情があり、愛情があり、喜びも楽しみもあったのだけれども、その裏に裏切りや憎しみ、悲しみ、不幸も描かれていて、人間の心の光と闇が交錯しながら、深い。そしてその流れの中心に基調低音のごとく奏されていたのが、母の息子に対する愛、息子の母に対する思慕であったのではないでしょうか。深く篤く時に激しく、呼び合い、引き合い続ける母と息子の魂の物語であったと、そして私はその情の確かさに感情を揺さぶられ、心から涙しました。一体、この物語を読んで心を動かされないものがいるものだろうかと、そう思うほどに確かな物語であったのです。

私は今年に完結した漫画、いろいろ読んできたと思いますが、その中で一番を選べといわれれば間違いなく『天上の弦』をあげます。今年一年と区切らなくとも、私はこの漫画を人生におけるベストの数作にリストするでしょう。この漫画に出会えてよかった。心からそう思い、感謝の気持ちを惜しみません。

  • 山本おさむ『天上の弦』第1巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第2巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2004年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第3巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2004年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第4巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2004年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第5巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2005年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第6巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2005年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第7巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2005年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第8巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第9巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 山本おさむ『天上の弦』第10巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,2006年。

2006年12月26日火曜日

一人きりのクリスマス

iTunes Storeのフリーダウンロードコードを入手して、はてそれでなんの曲をダウンロードしたものか。悩んだすえにダウンロードした九曲、今日はその四曲目、ジッタリン・ジンの『一人きりのクリスマス』で書いてみようと思うのですが、実をいうと最初はこの曲をダウンロードするつもりではなかったのです。ええと、職場でねいろいろ相談したんですよ。ダウンロードコードをもらったが、なんかお勧めはありますか。私はオールド・タイプ・リスナーだからアルバムで聴くことにこだわって、だからできたらアルバムを買うかどうかは微妙だけれど、とにかくこの曲だけは聴いとけみたいなのでお願い。こうした無理難題ともいえる注文に、ジッタリン・ジンあたりはどうだろうというありがたい返事をいただいたのでした。

私が最初に思いついたのは『プレゼント』でした。今までもらったプレゼントを枚挙していって、最後に恋の終わりが明らかにされるというどんでん返しが印象的な曲ですが、でもこれを一から聴くというのもなんだかつらいななんていったらば、むしろお勧めは『打ち上げ花火』ですよ、あ、そうですね、あの曲、確かにいい曲ですもんね。で、帰ってから調べたら見つかんないんですよ。そりゃそうだよっていう声が聞こえてきそうですね。だって、その曲、タイトルは『打ち上げ花火』じゃないぜ、『夏祭り』だよ!

いや、だから、『夏祭り』もないんですよ……。

ジッタリン・ジンで検索して見つけられたのは、ただ一枚のアルバム、『Moonlit Lane』だけでした。ありゃ、ちょっと残念。せっかくダウンロードするなら、やっぱりよく知られてる曲がよかったなあなんて思いながらも、もうジッタリン・ジンを聴きたくて仕方がなくなってしまっていた私は、ダウンロードを敢行するのでした。でも、どの曲を選ぼうか。うーん、と少し迷って、オーディエンス! そう、多くの支持を集めたものを選ぼうと思ったのです。こうして『一人きりのクリスマス』に決まったのでした。しかし、なんと主体性のない話だろう。

『一人きりのクリスマス』は私の知らない歌だったんですが、聴いてみて、やっぱ多くの人がダウンロードしてるだけはあるわと思いました。のっけからハローと高らかに、空向いて呼びかけるようにはじまる歌。出だしこそスローだけれども、すぐにテンポは軽快なものに、そしてメリークリスマス、メリークリスマスという連呼、再びハロー。この明るい曲調で恋の終わり、寂しさ苦さが歌われているというのはしみますね。やっぱいいですわ、ジッタリン・ジン。このあっけらかんとしたような明るさ、さっぱりとしてまとわりつかない気持ちよさ、けどそこにはいろんな感情があって、そのマッチングがいいですね。こりゃ、ジッタリン・ジン再ブームの兆しか? なんて思ったりして、つまりアルバムが欲しいなと思っています。

実は私、ジッタリン・ジン、好きなんです。あの、帰りにラムネを買ってきてって歌、『にちようび』でしたっけ、ああいうのも好きなら、もちろん『夏祭り』も好きで、こりゃいつか買いたいね。余裕があったらWhiteberryのアルバムも欲しいななんて、すっかりそんな気になってしまって、実際余裕があんまりないからいろいろ手を出せないというのが悲しいところです。

  • Moonlit Lane

2006年12月25日月曜日

Candlelight, taken with GR DIGITAL

Candlelight株式会社リコーが運営するGR BLOG恒例のイベント、トラックバック企画第15弾「冬の贈りもの」が開催中です。といいますか、本日が締め切り、私すっかり忘れておりました。けど、今回のお題、冬の贈りものというのはなんだか難しいなあと思いまして、だって冬になれば、外は寒いは日暮れるのは早いはで、写真撮るには厳しい季節だなあなんて思いながら被写体探しているものですから。実をいいますとよさそうな写真がないんです。でも、せっかくだからと慌てて撮った写真を漁ってみれば、まあこれならなんとかこじつけられなくもないなというのを見つけまして、やれやれこれでなんとかトラックバック企画「冬の贈りもの」に参加できます。

それはどんな写真かといいますと、クリスマスを目前に喫茶店店頭にともされたロウソクの明かりです。喫茶店の入り口脇に、竹が幾本か立てられていたのは気付いていたのです。これ、きっと門松の準備なんだろうななんて思っていたのですが、どうも門松にする前にひとつ役目があるらしく、それが次の写真:

Candlelight

水を張り、ロウソクを浮かべて灯をともしているようで、遠目に見れば斜めに切り落とされた竹の切り口がぼうっと明るくなっていて、近づいてのぞき込んでみれば、ロウソクの丸や花(星?)のかたちが見えて、そういうのが面白いなとそんな風に感じて撮った写真です。

竹はここいらの名産で、特に筍が全国的に有名です。その地元の名産品である竹を店先にあしらって、その時々に時々の装いをさせる、それが粋だなと思います。おそらくこの竹は、クリスマスを過ぎれば正月飾りになるのでしょう。その時にはきっとまた撮影するんじゃないかと思います。

2006年12月24日日曜日

悲しい色やね

 『悲しい色やね』では実は二回目。以前これで書いたときは、たしか人に会って、カラオケにいったその日だったんじゃなかったか。割りと受けたんですね。もともと好きな曲で、楽譜を前にピアノで練習し、ギターに持ち替えてからもまた練習してきた、その練習の成果が出たようです。けど、レコードは持っていないといっていました。欲しいと思ったことは何度もあったんだけど、その度にたくさんあるバージョンのどれを買ったらよいものかわからず断念してきた。そう、私の人生において『悲しい色やね』は断念の歴史を持っているのです。だから、iTunes Storeでのフリーダウンロードコードを手にして、なにをダウンロードしたものか大いに迷ったときに、これをと思った。いつかアルバムで手にしたいと思う日がくるかも知れないと思いながらも、それでも今もっておきたいと思ったのです。

これをダウンロードしたのは果たして正解だったのかどうなのか。アレンジはジャズの色がかかった派手なもの。コーラスなんかも入ってる。正直なところいいますと、こういうアレンジはあんまり好きじゃありません。もっと素朴なほうがいいと思った。特に、この曲に関しては。ブルースまでとはいわないけれど、声がそのまま届くような、そんな距離で歌われていると思えるような、そういう感じで聴きたい歌だと思っています。

けど、駄目だとはもちろん思わない。やっぱりいい曲だと思います。上田正樹は一体どれだけこの曲を歌ってきたんでしょう。最近テレビで聞いたものとはまったく違って、だからといって昔聴いたものとも違うと思うんです。その時々の、経てきた時間や歌われる機会の違いによって、まったく違ったように歌われる、そんな曲になっているのだと思います。上田正樹といえばこれだと思う。だけど、そのひとつのイメージにとらわれることなく、自由闊達に変容しながら歌い継がれていく、そういう歌のひとつの着地地点が私の聴いたそれぞれ異なる『悲しい色やね』なのかも知れないですね。

私は、この歌はもうスタンダードの域に達していると思います。歌う人、それぞれの背負った背景の違いによっていくらでも姿を変えて歌われる歌。姿は違えども、大本に流れる歌の本質は変わらない、そういうベースになるような広がりを持った歌であると思っています。だから、私もいつかしっかりとこれを歌えるようになりたいものだと思うのです。歌に負けないだけの背景を持ちたいものだと思うのです。

2006年12月23日土曜日

ダーティペアFLASH3

  2006年11月22日に届けられた『ダーティペア』のDVD-BOXを見始めて早一ヶ月。ようやく本日、すべてのディスクを見終えることができました。今回の集中視聴においては、TVシリーズの時点でテンションはもう天井に達するかのごとく高潮し、『ノーランディアの謎』、『劇場版』と徐々に登っていったのを『OVAシリーズ』でたたき落とされ、その後『謀略の005便』で盛り返したと、そういう慌ただしいアップダウンでありました。心配していた『ダーティペアFLASH』も、最初の一話こそは、なんじゃこりゃー、と叫びたくなるほどの思いにとらわれたものの、見続けるうちにこれもありかもと思えるようになり、『FLASH2』になるともうなんの問題もなく楽しめて、だからこのBOXの印象は最後の最後『FLASH3』によって決まろうというものです。けれど『FLASH3』は一話三十分完結ものの短編集、正直私にとっては一度けちのついたスタイルであります。だから、ことのほか期待することないよう、努めて冷静に見ようじゃないかとそういう予防線が張られていたことをここに告白しておきます。

そしてすべてを見終えた今、ああよかったという思いに満ちております。正直、もう一度TVシリーズから見直してもいいかななんて思っていたりするくらいでして、これどういうことかといいますと、『FLASH3』がよかったといっています。

シンプルな一話完結型のスタイル、TVシリーズに準ずるかたちといってもいいかと思いますが、これが意外と悪くないスタートを見せて、途中、なんでダーティペアFLASHでこれをやる? と疑問に思うような話もあって多少の中だるみ感を感じたりしたのも事実なのですが、なんの、最終回がよかったんですよ。おいおい、これはこの有終の美を飾るために力をためていたのかいといいたくなるほどに力が入っているとわかる出来で、いや、面白かった。はじめて『ダーティペア』を見たときに感じた、チームが機能しているという実感がありましたよ。困難なトラブルに直面するも、与えられた条件の中、持てる最大火力を十全最善に振り回して屈服させるとでもいったらいいでしょうか。わくわくさせられた。本当に面白かったですよ。

そして私は、この余韻をもって、『ダーティペア』TVシリーズの第一話を思い出していたのです。叛乱したコンピュータを鎮圧しようという話。あれもまた持てる最大火力でもってトラブルを始末するという話の典型で、FLASHの最終話はあたかもここに繋がろうとするかのよう。かくして私の『ダーティペア』に対する感興は、さながら円を描くように流転して、永遠に終わりを見ることなく、アップダウンしながらぐるぐるとまわり続けるのかも知れません。

『FLASH3』の他の話についても少し。わざわざこれでやらんでも、みたいな感想を持ったとはいいましたが、これは別に、なんでこれでこんな話をやるんだとまではいかず、まあこういうのがあってもいいかもね、みたいな感じ。「ピンクの狙撃手」はもっとやり過ぎなくらいにやってくれてもよかったと思うし(やり過ぎの方向が違ってるって感じかな)、「薔薇色の美少年」は、ええーっ、結局コメディだけで終わりなの!? って感じで肩透かし。やっぱり、事件性のあるトラブルに取り組んで、銃器振り回して大立ち回りというのをみたかったなあと思うんです。でも、全体に見るものを楽しませようという意図みたいなのは感じられるし、致命的と感じられるほどの空回り感もなかったから、まあいいかななんていうのは、やっぱり最終話の盛り上がりのためであろうかと思います。

最終話についても文句がないわけでもないんですが、あの娘はいない方が話が締まったんじゃないか、とか、そもそも有色人種の主任の娘がなぜ白人種? とか、もしかしてこの人別居しちゃったの? それとも単身赴任? とか、まあなんのかんのいいながらでも、楽しんでいます。

ま、つまり、終わりよければすべてよしってことでしょうか。ともあれ、よい買い物であったと思いながら見終えることができたわけで、本当によかった、また見よう、そんな感じのいい気分であります。

関連

小説

2006年12月22日金曜日

最初から今まで

 思いがけずiTunes Storeで九曲もダウンロードできることになって、それでダウンロードした一曲目がBUMP OF CHICKEN『天体観測』、そして二曲目が『最初から今まで』でした。タイトルをいってもわからないという人もいそうですね。『冬のソナタ』の主題歌だっていったらわかってもらえますでしょうか。あの一世を風靡した韓流ドラマ。お嬢さん方におそろしい勢いで浸透し、それまでカセットテープやビデオテープの文化に暮らしていた彼女らを一気にCD、DVDにまで引き上げた立役者。いや、冗談抜きでそうらしいのですよ。『冬のソナタ』いただける? あら、これCDなの? ビデオじゃないのね、え? DVD? CDじゃ見られないの……。じゃあ、これ見る機械もいただけるかしら? みたいなやり取りがあったとかどうとかきいています。

なぜ『冬のソナタ』の主題曲をダウンロードしたのかといいますと、別にこの曲がとりわけ好きだとか、『冬のソナタ』を楽しみで見てたとか、そういうわけじゃないのです。実をいうとドラマは一度も見たことがなくて、世間に韓流吹き荒れようとも、うちばかりはエアポケットのように凪いでいた。だから、正直あの熱気というのは理解できないんですよね。でも、これがまあなんというか、営業ともなると別なのです。以前人に頼まれて演奏のサポートをしたことがあったのですが、その時にやったのがこの曲『最初から今まで』でした。それで目の当たりにしたのです。やっぱり受けるんですよ。そうかあ、本当に人気あったんだと思って、練習してみて割りと悪い曲でもない感じだから、ちょっと歌えるようにしようかなー、なんて思ったのが昨年のこと。楽譜はきちんと取ってあります。

楽譜があって歌詞もあって、けれどそれだけでは足りないのが歌あるいは言葉というものです。発音やイントネーションは楽譜及び歌詞ではわからない。そもそもこの歌詞というのが私の読めない文字ハングルで記されているわけです。カナで読みがふってあるとはいえ、それでは足りないこと必至。やっぱり音で聴かねばいかんのです。

というわけで、機会があったらちゃんと聴きたいねと思ってきて、その機会がついぞ今までなかったと、そういうわけなのです。けど、九曲のフリーダウンロード、その一曲を韓流ドラマの主題歌に費やしていいのか? 自問自答したうえで決定しました。このときを逃したら、この先一生入手することはないだろう、いっとけ!

かくして『最初から今まで』はダウンロードされたのです。改めて聴いてみると割りといい歌ね。それで楽譜出してきて歌詞確認しようと思ったら、楽譜をどこにやったのか思い出せないときた。あー、なんで私はいつもこうなんだろう。というわけで、私が『最初から今まで』を歌う日は、まだまだ先になりそうです。

2006年12月21日木曜日

鬼切丸

  私は一体どこで読んだものやら、楠桂の『鬼切丸』、ずいぶん細かいところまで覚えていて、一体どうしてなんだろう。うちにはない、買ったことは一度もなく、借りようにも友人でこれを持っているものはいないはずで、じゃあ書店で立ち読みかといえば、そういう記憶もないのです。そういえば、以前文庫で出たときに読んだことがあったのかも……、いや文庫で出るのは今回がはじめてだ。じゃあ、一体なんで知ってるんだろう……。多分、多分、増刊号を読んだんだ。私がはっきりと覚えている話は「半獣鬼の章」。子供の頃のみどりが母親に手を引かれているあのコマは、はっきりと覚えている。書店で読んだんだと思う。けどどこの書店でだろう。これらは平成に入ってからの漫画だから、私はもう引っ越している。引っ越してからは書店で立ち読みするようなことはなかった……。それに私は「半獣鬼の章」のみならず他の話も読んでいて、けど一体どこで読んだか思い出せない。記憶が混濁しています……。

アニメは見ました。これははっきり覚えています。『アニメ大好き』でやったはず。私の世代、関西に育ったアニメファンは大抵読売テレビ『アニメ大好き』の洗礼を受けていて、この番組は春夏冬の休みに一週間ほどかけてOVAをテレビ放送してくれる。『鬼切丸』もやっていたんです。でも覚えてない。本当に「小角の章」だったろうか。「大嶽丸の章」、「般若の章」、「怨鬼哀歌の章」だったろうか。「般若の章」は見たことがあるような気がする。けれどこれは本当に『アニメ大好き』でやったんだろうか。見れば思い出すようにも思うんですが、はっきりしません。こんなに記憶がはっきりしないことは私にとっては珍しいことです。

私が楠桂をはじめて知ったのはおおかたの例に漏れず『八神くんの家庭の事情』がきっかけで、あのどう見ても同い年にしか見えないというお母さんと息子の繰り広げるラブコメディ(いや、ちょっと違う)、結構好きだったことを覚えています。だって、『八神くんの家庭の事情』というタイトルをはっきりと今になるまで忘れていないのがその証拠。はじめて会った場所も覚えてる。国鉄アパートを越えたところのファミリーマートだ。その後、友人牧野がサンデーを買っていると知って、学校帰りに寄って読ませてもらうようになったんです。普通私はここまで覚えている。けど、『鬼切丸』については驚くほど覚えていません。

多分、それだけショックだったんだと思うのです。楠桂といったら、かわいい絵でちょっとナンセンスなどたばたを描くギャグの人という印象が強かったところへ、あ、楠桂の漫画だと親しみもって読み進めた『鬼切丸』のシビアさ。オカルト色の強い短編仕立てで、そこでは日常に鬼が跋扈して、人を虫けらのように殺してしまう。死ぬやつは死ぬ、いいやつだろうと悪いやつだろうと、次々と死んでいく、その描写があまりにもショックだったんだろうと思うんですが、けれどそれがために楠桂を嫌いになるということはなく、むしろ私は『八神くんの家庭の事情』よりもこちらの方がより好ましく感じたのです。甘さや手ぬるさが排除された、きりきりと引き絞った弦のように張りつめたテンションの厳しさ。けれど、厳しいばかりでは駄目、残酷ばかりでも駄目といわんばかりに優しさ、悲しさの差すことがあって、その塩梅の確かなこと、楠桂という人は勘所を良く心得ていると今読み返してもなおひざを打つ思いがあります。

私が『鬼切丸』を読んでいたのは、一体どこで読んだかさえさだかではないのですが、おそらくは中盤に差しかかるまででしょう。だから私はこの鬼切丸を携えた少年がその後どうなったか知らないのです。すなわち、この文庫が私のはじめて知る結末となるでしょう。ひと月に一冊、全八巻、最終巻の刊行は来年六月でしょうか。ああもう、一度に三冊ずつ出そうよ。と私は妙に落ち着きなくして、それほどまでに私は物語のラストを早く知りたくてたまらないのです。

  • 楠桂『鬼切丸』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 楠桂『鬼切丸』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 楠桂『鬼切丸』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第4巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第5巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第6巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第7巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第8巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 楠桂『鬼切丸』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 楠桂『鬼切丸』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 楠桂『鬼切丸』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 楠桂『鬼切丸』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 楠桂『鬼切丸』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 楠桂『鬼切丸』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第10巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第11巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第12巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第13巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第14巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • 楠桂『鬼切丸』第15巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • 楠桂『鬼切丸』第16巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1999年。
  • 楠桂『鬼切丸』第17巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1999年。
  • 楠桂『鬼切丸』第18巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2000年。
  • 楠桂『鬼切丸』第19巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2000年。
  • 楠桂『鬼切丸』第20巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2001年。

DVD

VHS

2006年12月20日水曜日

天体観測

  私がBUMP OF CHICKENを知ったのは、おそらくおおかたの人と同様、『天体観測』という曲がきっかけです。一体この曲をどこで聴いたのか、知ったのかは正直今やさだかではないのですが、でもこの曲があたった頃は、テレビでも街中でも、とにかく耳にする機会が多く、その聴くたびにいい歌じゃないかと思っていました。若々しさがあるというか、まっすぐにかけだそうとするかのような溌溂とした躍動があって、階段駆け登り、夜空にばんと躍り出るような興奮めいた感覚を覚えることもしばしば。だから、私の友人がこの曲のPVを録画してくれたときは嬉しかった。今ではもうビデオの時代は終わってしまったけれど、あれらの映像をまた見たいと思う日はまた来るんじゃないかと、そんな風な気もします。

けど、アルバム買うまでにはいたらなかったんですね。他の曲を知らなかったというのも大きかったんだろうけど、次に聴いた曲が『天体観測』ほどのインパクトを持たなかったというのが大きかったのかも知れません。むしろ『天体観測』の印象から逃げ切れてなかったというべきか、とにかく私にとってBUMP OF CHICKENというと『天体観測』がイコールで出てくる、そんな風になっています(ファンの人ごめんね)。

しかし、久しぶりに聴いてみると、ほんと、いい歌だと思います。まっすぐな、ちょっと若さや青さなんてのも感じられる歌詞に、前へ前へ進もうとする力に溢れたメロディ、アレンジ。走りだす若さっていう感じで、その若さにちょっと辟易する部分もないわけじゃないんだけど、けどその辟易で立ち止まらせない勢いがあって、いい感じに引っ張ってくれるのが嬉しく思う、そんな曲であります。しかし、いいね。歌詞がいいわ、メロディがいいわ。聴くたびに、自分はもうおじさんだなあって思わされるんだけど、けどそうした世代性なんてのがはっきりしているまっすぐさというのは嫌いじゃない。そしてこの世代性が受けたんでしょうね。本当、あれだけの人気をもって迎えられたのも、至極当然であると今まさに再確認する思いです。

2006年12月19日火曜日

よつばとしろとくろのどうぶつ

 よつばと!』6巻と一緒に『よつばとしろとくろのどうぶつ』も出るというから、これはぜひ買わねば! と意気込んで、意気込みすぎて買い忘れ。あれー??? でも、この本、どこの本屋にいっても売ってなかったんですよ。でもきっと梅田の地上三十階の書店だったらあったはずなんだけど、ここでは『観用少女』を探すのに一生懸命で、さらには他にもいろいろ『レモネードBOOKS』とか『殺し屋さん』とか買ってしまったりしたので、絵本についてはすっかり忘れてしまったんですね。ああ、駄目だわ。この自分の物忘れのひどさは駄目だわ。

『よつばとしろとくろのどうぶつ』は、漫画『よつばと!』の主人公よつばがいろんな動物と出会う絵本です。なんで白と黒の動物なんだろうと思ったら、「よつばとあめ」で父ちゃんがいってた、白と黒なのがかわいいがかかってるんですね。うん、白と黒なのはかわいいかも知れないねえ。実際、この絵本、ページをぺらりぺらりとめくりながら、なんだかすごく嬉しいような気分になってきて、知らず知らず口元に笑み浮かべていて、いや本当にいい絵本だと思います。見開きに動物、そばにはよつば。台詞やト書きは一切なし。あるのは絵と動物の名前、和名と英名それから学名。図鑑みたい。けど図鑑じゃない。絵本。図鑑みたいで絵本。面白い。よつばが動物たちに感じてることみたいなのが伝わってくるようなそんな楽しさがあるのだと思います。

あれだよ。子供と一緒に動物園にいったりするとわかるんだけど、面白いんだ。大人だけでいくよりもきっと面白いと思う。これ、多分、子供のもつセンス・オブ・ワンダーが伝染するんですよ。自分一人でいったらば、わあ動物だ、でかいね、くさいね、てな感じにとどまるのが、子供がいると、あんなことをしてる、こんなこともしてると、動物の生命がはっきりと彩られる、そんな思いがします。

『よつばとしろとくろのどうぶつ』の動物はあくまでも線画、白と黒の二色だけで影なんてのも描いてない平面的な表現で、それ自体は実に静止した落ち着いたものであるのですが、そこに子供が加わるだけでダイナミズムが生まれます。このダイナミズムには、よつばというキャラクターの力もあるように思いますが、けどおそらくは『よつばと!』本編を知らずとも伝わるものはあるだろうと思います。

あずまきよひこはなんだかいい作家だなあと改めて思いましたよ。もっと、もっと絵本を出してください。冗談やなんかでなく、本当にこれがシリーズになったら嬉しいです。

  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第6巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 以下続刊
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (東京:メディアワークス,2006年),132頁。

2006年12月18日月曜日

The Songs I Downloaded from iTMS

先日いっておりました、iTunes Music Storeのフリーソングコードですが、本日がダウンロードの締め切りでした。なので慌ててなにをダウンロードするか決めて、かくして無事九曲ダウンロードすることができました。選曲にあたりいろいろ相談に乗ってくださった皆様にお礼申し上げます。ありがとうございました。さて、今回の選曲にあたって少々条件を設けておりました。ひとつは、自分の聴きたい曲、好きそうな曲を選ぶということ、まあこれは当然として、二つ目は、アルバムで購入するのはためらわれるがその曲は欲しいというようなものを選ぼうと、つまりこの曲欲しいなと思いながらも、どうせならアルバムで買いたいと考えたためにダウンロードを見送られたものが存在します。では、栄えある今回のダウンロード曲目を公開します。

ダウンロードした曲のリスト:

  1. BUMP OF CHICKEN「天体観測」,『jupiter』(J-Pop)
  2. ユ・ヘジュン「最初から今まで」,『冬のソナタ〜最初から今まで〜(韓国ドラマ) - Single』(サウンドトラック)
  3. 上田正樹「悲しい色やね」,『Best Selection: 上田正樹』(J-Pop)
  4. ジッタリン・ジン「一人きりのクリスマス」,『Moonlit Lane』(ポップ)
  5. クレイジーケンバンド「タイガー&ドラゴン (完全版)」,『Soul Punch』(J-Pop)
  6. ALI PROJECT「嵐ヶ丘」,『Dali』(ポップ)
  7. 坂本美雨「THE NEVER ENDING STORY (フルバージョン)」,『THE NEVER ENDING STORY (フルバージョン) - Single』(ヴォーカル)
  8. 坂本美雨「Never Ending Story (CM Version)」,『Never Ending Story (CM Version) - Single』(ポップ)
  9. 庄野真代「飛んでイスタンブール」,『庄野真代ゴールデン☆ベスト: シングル・コレクション & 筒美京平作品集』(歌謡曲)

以上の九曲、並びはダウンロード順です。

今回の経験は、私にはちょっと刺戟になったようで、このところ遠ざかっていた音楽を選ぶという楽しみを再び思い出すことができたように思います。今回の選曲では、『天体観測』を思い出せたというのが大きかったと思っています。あ、そうだ、あの曲好きだったというようなのを思い出そうとすることで、その時々に聴いていた音楽を思い出して、買ったものも買いそびれたものも、また聴きたいものも、いろいろ浮かんできたというのは実に楽しい経験でした。

で、なんで一体二曲目が『最初から今まで』? ってな感じですが、これはまあほら営業に使えそうな曲でかつこういう機会を逃すと絶対買うことはなさそうというわけで選ばれたのですが、あとはいろいろ相談しながらですかね。ジッタリン・ジンとALI PROJECTは相談の結果選ばれて、本当は『打ち上げ花火』を欲しかったのですが、なかったので『一人きりのクリスマス』。アリプロは今回教えてもらうまでまったく知らなかったのですが、とりあえず皆がダウンロードしているみたいなので『嵐ヶ丘』を選びました。坂本美雨は友人が少し前にこの曲を買ったといってたのを思い出して。確かに綺麗な曲だもんな。実際私もあのコマーシャルは結構好きなんです。

とそのような選ばれ方をした曲です。それぞれの曲については、書くかも知れませんし書かないかも知れません。思うところがあったら書かれるでしょうという、そんな感じで今回は曲目の紹介までにとどめたいと思います。

2006年12月17日日曜日

ONE KNIGHT STANDS on films

 やしきたかじんのDVDを買いにレコード店にいってみたらば、山崎まさよしの『ONE KNIGHT STANDS on films』を発見。おおっ、あの今やレアになってプレミアもついているとかいう『ONE KNIGHT STANDS on films』が再版されていたのか。その日は他に買うと決めたDVDもCDもあったので、正直どうしようかと迷ったのですが、いや思い切って買おう。ギターを弾く人には示唆に富むDVDであると誰かいってた気もするし、それにおそらくギター弾く弾かない関係なしに楽しめること請け合いでしょう。ということで購入決定。なに、ボーナスも出たんだ、少ないけど。そんなこんなで、気が大きくなっていたのも幸いしたようですね。

実をいうと、CD版の『ONE KNIGHT STANDS』は持っているのですよ。たまたまよったCD店でこのアルバムがかかっていたのを聞いて、これは一体誰のなんというアルバムですかとレジで聞いたら、これですと差し出された『ONE KNIGHT STANDS』、買います、即決の衝動買いでありました。だから、内容に関してはもう頭にすっかりはいっているような勢い。何度聞いたかわからないくらい聞いて、一時期などはまさしくヘビーローテーション。毎日毎日聞いていましたからね。けど、それほどCDを聞いてきた私でも、DVDとなると新鮮。というのは、別テイク、テイクというのは変か、ツアーの別日の収録なんですね。

『ONE KNIGHT STANDS』はCDで聞いても素晴らしい臨場感、山崎まさよしのツアーの熱気や興奮が伝わってくるかのような思いがしたものでしたが、これがDVDともなるとやっぱり格別です。音楽を目を閉じて聴くものは愚か者であるって誰が言った言葉だっけかなあ。確かシェーンベルクあたりだったと思うんですが、でも実際これ至言だと思う。私は以前、音楽に映像がついている必要なんてそれほどないなあなんて思っていたのですが、 — いや、そりゃついているものなら見たいよ。けれど、ライブのビデオとか、余計に金を払ってまで見たいようなもんだとは思わない、なんて思っていたのです。このことが誤りだと心の底から思ったのは、BAHOの『BAD HOT SHOW』のDVDに出会ってでしたね。いやあ、ライブビデオ面白いですよ。それから私はちょこちょこライブビデオの類いを買ったりするようになったのですが、もし、もしもですよ、『ONE KNIGHT STANDS』が出た当時に私がDVDの再生環境を持っていたらずいぶん違ったかも知れません。もしかしたら買っていた、そうしたら私のライブビデオ観を塗り替えたタイトルは『ONE KNIGHT STANDS』だったかも知れない。考え方を変えてしまうくらいの衝撃を与えてしまうほどに面白い。迫力が違っている。視覚に聴覚に迫ってくる音楽の躍動。それは本当に面白く、楽しく、そして感動的な素晴らしい体験であると思います。

さて、このDVDにはおまけがついてまして、ライブが終わったあと、なんか音楽室みたいな場所でまさやんがギターもって、伴奏だけを淡々と弾いてくれるトラックがあるんですよ。曲目は『セロリ』、そして『Fat Mama』。わあ、これは嬉しいわ。ギター弾いてる人間には、特に上達半ばの連中には、なかなかに嬉しい贈り物であると思います。ラッキーでした!

おまけ

初のマルチアングルDVDです。こういうところもなんだかちょっと嬉しいね。

DVD

VHS

CD

楽譜

2006年12月16日土曜日

Yashiki Takajin — 50 Years Old Anniversary Special Concert

 やしきたかじんというと、指し棒もってパネルをばんばん叩く、司会者なんだか芸人なんだかよくわからない人という印象がとにかく強いわけですが、その本質はというと歌手です。私は、残念ながら歌手としてのたかじんをそれほど知るわけではなく、けどそんな程度であるというのに、私は歌手としてのたかじんが好きなんです。いくつくらいの時だったろう。『やっぱ好きやねん』が流行りましたけど(もしかして関西だけ?)、私はこの歌が好きで好きで、だから私にとってやしきたかじんという人は、なにをおいてもまず歌手であります。そんなたかじんの歌手としての節目、五十歳の誕生日にもよおされたコンサートのDVDが出ています。私はずっと前からこれを欲しいと思っていて、そしてようやっと手にして、見て、やっぱりこの人は歌手だわと思ったんです。

歌手としてのたかじんを知らない人がこれを見たら、面食らってしまうかも知れません。とにかく落ち着きがない。マイクを持つ手は震えているかのごとく上下左右に動かされ、そのため歌詞がよく聴き取れないこともあります。屈みこむような姿勢で、頭を振り、唇をとがらせて歌うその姿は、日頃見慣れたたかじんとも、それに普通の歌手とも明らかに異なっています。けど、見始めた頃の違和感なんてものは、一曲二曲と聞いている間にすっかり吹っ飛んでしまって、そうなればもう歌手たかじんの世界に引き込まれてしまっていて、やっぱりこの人はいいですよ。力いっぱい、ありったけの気力と気持ちを込めて歌っているというのがわかります。額に汗をいっぱいにかいて、声張り上げて、その声がとにかくいいんです。いい歌を歌う。人によっては好き嫌いがわかれるのかも知れませんが、私はどうにもあらがうことさえできずに、引き込まれるまま。素晴らしい。私にとってやしきたかじんという人は、どこまでいってもやっぱり歌手であるのです。

幕が開いたとき、身を縮み込ませるようにしてお辞儀をするこの人の姿をみて、私ははっとするかのようでした。これはポーズなんかじゃありません。コンサートが終わろうとするとき、観客に向かってお辞儀をするやしきたかじん。最敬礼といっていい。私はこんなにも真摯に礼をする人をついぞ見たことがありません。スタッフに、バンドメンバーに、そして観客に礼を述べていくその姿をみて、その言葉を聞いて、胸が熱くなりました。この人が普段見せない姿に、この人の真実の一面をかいま見たように思い、本当、こんなに人間くさい人っていないんじゃないかと思います。破天荒で、無茶で、乱暴で、けど繊細で、ナイーブで、多極多面の魅力がこの人にはあります。おまけ映像のMCも面白かった。声を出して笑った。おまけ映像に見るたかじんはテレビで観るたかじんにより近くて、もちろんそれも一面です。ただ、世間一般の人はこの一面しか知らない。私にはそれがひたすら残念と思われてなりません。

2006年12月15日金曜日

Quartett!

  落ち着きません! というのは、実は明日久しぶりに人前で演奏するからなんですが、ええとステージです。仕事というほど大層なもんじゃない、アマチュア枠みたいなもんではあるのですが、ええと、舞台には私一人、相棒はギター一本。昔、サックスを吹いていたときなんかは別にこんな落ち着かないなんてことなかったんだけどなあ。やっぱり経験の量というのは馬鹿にできないです。サックスは十年吹いて、短大とはいえ専攻もして、どういうときにどういうトラブルが起こったらどうごまかしてしまうかというくらいのことは普通に飲み込んでいたんですが、やっぱりギターはまだ苦手にしている模様です。だって、まだLv. 1 ギタリストだものなあ。

と、こんなこと書くために『Quartett!』を引き合いに出したわけじゃありません。いや、確かにコンクールを目前とした状況におけるフィル君たちの描写、あの高ぶりみたいなものはわかるなあ、なんて思ったりもしたのは事実なんですよ。けど、今回は違います。今日はコンピュータで読む漫画についてです。

先日、まんがタイムきららWebというドキドキ★ビジュアルなWebサイトがオープンしたのですよ。ここでの売りはなにかというと、やっぱりここでしか読むことのできない連載であると思うのです。Flashで作られた動く四コマ『うぃずりず』(しかしFlash作ってるのが作者とは恐れ入りました)を筆頭に、『だめ×スパイラル』、『Webクリ!』、そして『みちかアクセス!』とそうそうたる顔ぶれ。諸君私は『みちかアクセス!』が好きだ! というのは置いておいて、いや、楽しみに読んだのですよ。

でも、正直コンピュータのディスプレイで読むには少々つらかったのです。なにがつらいかというと、やはり漫画のフォーマットでしょう。紙媒体で読まれることを前提とする縦型のフォーマット。拡大するも、拡大範囲が全面までには広がらないという仕様がつらかった。一コマを読んで左にスクロールさせ、次のコマを読むには右にスクロール後に下にスクロール。読みにくかった。Webという媒体で読ませるのなら、ページ単位でひらくのではなく、コマ単位でひらかせて欲しかった。クリックごとに次のコマに進むというようなやり方でないと読みにくい。結局これらのWeb連載は単行本として出版されるか、あるいは本編単行本に一緒にまとめられるか、そういう展開なんだろうなと思います。だったら最初っから紙で出そうよ。ディスプレイ上で読むことの不便が想定されていないような連載、Webで展開するのは勘弁してくださいよ。

その点、『30girl』はわかっていると思う。1クリックで四コマ読ませる、四コマの連なりで読ませていく。最適なウィンドウサイズ、四コマ目が見えず、ドキドキしながらスクロール。で、どうなるの!? とクリックしたら新たな展開! これはうまいやりかたです。反面、紙媒体では余白が多かったりしてあれなんですが、けど決して読みにくいとは感じない。そう。紙とWebとふたつの環境を対象に展開しようというのなら、融通きくほうを不便なほうに合わせなくっちゃあ駄目なんです。ってことですよ。

もし紙媒体をまったく意に介さないというのなら、『Quartett!』にひとつの解答を求めることができるのではないかと思っています。フローティング・フレーム・ディレクター(略称FFD)の強みです。画面一枚にコマを展開していく。そこにはもう紙の足枷はありません。コンピュータディスプレイの規格にそったアスペクト比、動的に表示されるコマ、吹き出し。時にはアニメーションも加えられますが、それはあくまでも漫画としての形式を逸脱しない範囲にとどまって、漫画という表現をコンピュータ上に実現するならやっぱりこうなるんじゃないかという説得力を持っています。

私はFFDを用いて作られたものは『Quartett!』しか知りませんが、もしかしたら後のものになればなるほど、そのできはよくなっているかも知れない。いや、きっとよくなっていることでしょう。そういう予感がするから、Littlewitchにはちょっと興味津々で、完全にはけちまう前に『白詰草話』も買っとくべきかと迷っています。つうか、サントラも欲しいな。ああ、危ない危ない。

PC

書籍

CD

2006年12月14日木曜日

まゆかのダーリン

   こうして1から3巻の表紙が居並ぶと、なかなかに壮観でありますね。『まゆかのダーリン』は、今や渡辺純子という作家の代表作になったといっても過言ではありません。小さな姪っ子まゆかちゃんのラブラブ攻勢に翻弄される高校生の嬉し恥ずかし右往左往を見て楽しむ漫画だったはずが、いつしかまゆかとりょうおにいちゃんのラブラブ生活ぶりを生暖かく見守る漫画になってしまって久しく、そのラブラブっぷりはというとクラスメイトの谷本くんをしてわかっててやってるだろ…と突っ込まずにおられないほど。そういえば、クラスメイトといえば新田さんという人がいましたね。新田さん、当初わりと普通だったのに、今やずいぶん変わっちまったなあ……。

新田さんの変貌は、まゆかとりょうの関係の変化に伴ってのものなんでしょうね。第1巻時点では、ふたりのことを面白がりはしてもそんなに過激なチャレンジはしていなかった彼女です。ですが第3巻ともなると、あなたいったいどうしたの!? っていうくらいにアグレッシブです。攻める攻める。りょうの母(まゆかの祖母)と結託し、多角的に情報を入手しカメラ片手に二人に迫る! その勢い、その情熱はもはやストーカーあるいは怪人の域に達しているのではないかというほどです。

これ、まゆかに対しりょうが戸惑ってみせるという当初の図式が崩れたための措置なんでしょうね。初期こそは、新田さんも普通にりょうの戸惑いを面白がっている風であっただけなのに、ふたりの仲が落ち着き、ラブラブ状態に安定していくに従って過激さを増した。放っておけばそのまま落ち着いていしまいかねない状況に果敢に飛び込み、かき回し、拡大し、確定し、あからさまにしてしまうことで面白みを出す、そういう機能を担うキャラクターに育ってしまったということなんでしょう(そう考えると不敏な娘だな)。

おそらく2巻あたりでそうした状況を動かす役割を担ったのは、まゆかに恋慕するせのお様であったのでしょう。ですがせのお様は『ことはの王子様』にお移りあそばして『まゆかのダーリン』からは姿を消してしまわれた。そのため新たな動因となる人が求められて、結果的にその任についたのが新田さんだった。そういえば、『ことはの王子様』にも似たような役割を持った人がいましたね。そう、ちとせさんですな。そのかき回し方こそ違いますが、方や新田さんがまゆか・りょうのマニアであらば、ちとせさんはメイド分百合分というマニア向けネタの実践者というべきで、ですがこの二人はともすれば落ち着いてしまいかねない主役ふたりを取り巻く状況に波乱を投げ込み、弾みをつけさせる台風の目のような重要な位置にあるのです。

というわけで、『まゆかのダーリン』で一番好きなのは新田さんだったりします。いやあ、あのアグレッシブぶりは最高です。あるいは大人になれば大きくなると思ったら大間違いと力説する、そういうところがよいのかも知れません。

蛇足

上述↑。

  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

引用

2006年12月13日水曜日

シザーハンズ

  正義警察モンジュ』を読みながら、ふと思い出していたのがこの映画『シザーハンズ』です。手にハサミを取り付けられた人造人間エドワードが主人公。ひとりぽっちでいたところを、親切なのかおせっかいなのかわからないおばさんに見つけられて、引っ張っていかれるまま町で暮らすことになったのですが、このエドワードに対する町の人の視線というのが実によかったなと思うのです。まったくの異邦人であるエドワードを警戒し、遠巻きに見守っていた町の人が、次第に彼を受け入れていくというその流れは、まさしく仕合せな関係を気付いていくプロセスであって、見ていて嬉しくなってくる。 — だからこそ、エドワードに訪れるその後の変化がより以上につらく感じられるのだと思います。

ちょっとの誤解がすべてをだいなしにしてしまうんですね。まったくもっての誤解、いや陥れられたんです、彼は。私はあの場面を見て、そのあまりの仕打ちに悔しくってしかたがなくって、あんまりにつらいもんだからこの映画を見れば必ず嫌な気持ちになってしまう。嫌な気持ちになるのは、この誤解を解く鍵を握っている人間が、なすべきことをなさずにいるから。そのように思っています。

ヒロインですよ。出会った当初こそはエドワードに過敏に反応した彼女ですが、次第に打ち解けて、わかりあっていくというそこはいい。けど、エドワードと彼女の仲に嫉妬したボーイフレンドがエドワードに対して為した罠とそのからくりに加担はするは、そればかりか、評判を落とし悪意の視線にさらされるエドワードに憐れみや共感を示すそぶりをしながら、最後まで真実を告げない。なんだそれは! それを裏切りっていうんだよ。裏切りを働いておいて、なにひとりだけすべてを美しい思い出みたいにしてやがるんだ。ふざけんじゃないよ。

といった具合に、私は過剰にエキサイトしてしまうので、この映画見られないのです。まあ、これほどに反応するのは、エドワードにそれだけの深い共感を持ってしまうからなんでしょうけどね。

『シザーハンズ』は人造人間というSFちっくな存在を持ち込みながら、その語法はファンタジーに似ていると思います。そして私は『正義警察モンジュ』を読んで、やはり『モンジュ』もファンタジーであると、そのように思ったのです。ファンタジーとは決して非現実的な夢物語ではないことに気をつけてください。想像の力によって生み出された世界は、時によく現実をあらわに描いて、だから私は『シザーハンズ』も『モンジュ』も同じくよいファンタジー作品であると思います。

2006年12月12日火曜日

正義警官モンジュ

   なんかポップな感じの表紙に興味を引かれた第3巻。その店ではたまたま中身を確認できたので、ちょろっと読んでみたら割りと面白そうな感じ。ちょっと揃えて読んでみよっかなあと思ったら、1巻から揃えておいてる店がなくって — 、なかなか買えませんでした。『百合星人ナオコサン』買いにいった日、その本屋ならきっとある、揃ってると踏んだのですが、ドンピシャ、しっかり既刊揃えていましたね。なので一緒に買ってきて、その日は『ナオコサン』読んで『モンジュ』読んで、そういうだらっとしてなんだか仕合せな感じの午後を過ごしたのでした。

寝っ転がって、暗くなりゆく夕刻でした。私は気がついたら涙を流していて、驚きましたよ。必要以上に涙もろくなってるなあ。慟哭するとか嗚咽を漏らすとか、そういうことはまったくなく、本当に普通どおりに漫画を読んでいるつもりだったんですが、涙が次から次に出てきて、いったいこりゃあなんなんでしょう。実際この漫画には驚かされます。ロボット警官もの、ギャグの要素も多い漫画で、泣かそう泣かそうとするようなあざとさは感じられないんだけど、ここというポイントを突いて情に働き掛けるコマを台詞を投げ込んでくる。これがもうストライクですよ。読んでいる私は、少なくとも頭は筋を台詞を追っていて、感動に意識を振り向ける気なんてないというのに、心がしっかり反応している。気付いたら涙が流れている。いや、いい漫画だなと思います。

ロボがいいよ。変に人間くさくって、もうそれはあり得ないほどに人間くさくって、けどそれがいいんです。同僚の山岸巡査とモンジュ、なんか変な友情というか、あるいは兄弟みたいというか、そういう不思議な繋がりというのが感じられて、欠陥もいっぱいあるんだけど、ここというときに退かない。真っ向からおまえを受け止めてやるというその姿勢がいい。青春漫画かすわ浪花節か、ぐぐっと堪えますね。気がついたら蛙だか兎だかわからんような顔つきしてるモンジュがかわいくってしかたがなくなっている。ああ、もうしょうがねえなあ、ほらほら、なんて感じでほっとけないようなそんなロボなんです。

そんな、そんなかわいいロボットが自分自身でも制御できないような部分を抱え持て余しているという設定が、むやみに切なくていやですね。本当に人間くさいじゃありませんか。だって私たち人もですよ、平時には理性やなんかで抑えているけれど、時に暴発して抑えの利かなくなるようなことってあるでしょう。モンジュのそれは私ら人間の感情とは違うのだけれども、けど彼のああした部分は人間の不完全さ、脆さ、あやうさを彷彿とさせて、すごく胸に迫る。モンジュは自分自身を悩み、迷い、まわりの人間たちはそんなモンジュを支え、力になろうとする。ここにモンジュはロボットと描かれているけれども、この根本にある心情というのは人間同士のそれとなんら変わるところがありません。けど、もしこれを人間同士のドラマとして描けば、ここまで鮮烈に現れ出たでしょうか。私は、こうした要素をあえてロボットに担わせることで、しかもあまりにも危険すぎるかたちでもって背負わせることで、より深く、より強く打ち出すことに成功していると思うのです。

この漫画、モンジュの設定はあまりに不自然で、正直あり得ない、突っ込みどころいっぱいで、そもそも警察の所属であるモンジュが兵器とされているのはいくらなんでもいけません(だって日本には兵器は存在しないのよ、軍隊ないから)。けど、そんなところ、私にはまったく気になりません。ギャグの要素が強いから? 考証を必要とするようなリアルな話じゃないから? そうかも知れません。けど、きっとそうではないのです。私はこの話を読んで、なによりモンジュとモンジュを取り巻く人たちの間に流れる感情に解け落ちてしまって、その途端、設定やらなんやらいう瑣末なことはどうでもよくなったのです。よく練られた話、充分な説得力を備えた漫画表現、そしてリアルを超えてアクチュアルな情動。この漫画はいい漫画です。出会えてよかった。これだから漫画はやめられないと思った。ええ、本当にいい漫画です。

蛇足

神谷さんについて一言も触れることができませんでした。だって、モンジュの方がずっとかわいいんだから仕方ありません。

  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2005年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第3巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

2006年12月11日月曜日

Willie O' Winsbury

  私にとってのクリスマスは後数日で一段落、ってなんだかずいぶん早いな! まあ蝉が鳴いてる頃からクリスマス気分でしたからね、という個人的な事情はどうでもいいとして、クリスマスソングから開放されたらなにを歌おうかななんて思っていたんです。そうしたら、iTunesのパーティシャッフルが答を教えてくれました。Willie O' Winsbury。スコットランドの民謡です。おそろしく美しいメロディが心地よく響く歌、形式としてはバラッドです。私はこの歌を、ペンタングルのSolomon's Sealで知り、そしてその後English and Scottish Folk Balladsでも聞いて、これがもう本当に美しい歌なのです。なので、ちょいとこいつを練習しましょうかねと思って調べはじめて、そして驚いたのです。

なにに驚いたかって、歌詞にですよ。歌詞はというと、王様がスペインに捕らわれの身であったときのこと、王の娘がウィンズバリーのウィリーとできてしまっていた! わお、とんでもない歌だよ。でも、こんなの序の口、スペインから帰ってきた王が娘の様子を見て、どうも変だと感づきましてね、体でも悪いのかあるいは男と寝たのか、おまえが生娘かどうか確かめるから服をすべて脱げ、と命令したりする! オー・モーレツ!

けど、私が驚いたのってこれだけじゃないんですよ。ちょいとWikipediaの項目を見てくださいよ。Willie O Winsbury is Child Ballad #100.なんて書いてある。そうなんですよ。これ、子供の歌なんだそうですぜ! すごいなイギリス、すごいなスコットランド。この歌、子供が歌ってるんだ!

私は感動しました。

まあ、実際のところこれ私の誤解なんですけどね。このChild Balladsっていうの、子供の歌集っていう意味じゃなくて、Childにより編纂された歌集ってわけで、ええと編者はFrancis James Childです。The English and Scottish Popular Balladsという名前で、結構な数が出ているようです。欲しいけど、揃えるのはちょっときついな……。

以前、Cruel Sisterなんかを紹介していましたが、イギリスの民謡にはジャンルとして殺人バラッド(murder ballad)なんてのがあったり、はたまたそうかと思えばWillie O' Winsburyみたいな男女の性的な関係を描いたものもあり(Jack Orionなんかもそうだし、見方によってはCruel Sisterもそうだといえる)、そうしたバリエーションの広がり、日本人からするとぎょっとするような内容を持った歌があるのがすごいと思います。しかもこれが今なお伝承されており、民謡を得意とする歌手によって歌い継がれているだけでなく、民間に保存されているらしいという話も聞くのです。それこそ子供も愛唱しているっていうんですよ。これは本当にすごいなあと感嘆します。

以上のようなわけで、私もWillie O' Winsburyをちょっと愛唱してみようと思います。お手本はAnne Briggsとペンタングルはジャッキー・マクシーの歌唱です。前者はよく民謡っぽさを残しており、後者はよりソフィスティケートされています。こうした違いをもった版を聞き比べられるというのは実に幸運であると思います。また、この歌は民謡であるわけですから、ネットを調べてみればフリーの音源も見つけられるのではないかと期待しています(どうぞこれを無料のとは訳さないでください)。

うまくいけば、レパートリに加えられるんじゃないかな。こういうときって、ちょっとわくわくしてしまいます。学ぶ喜び、知る喜びってやつですね。

2006年12月10日日曜日

ダーティペアFLASH2

心配していた『ダーティペアFLASH』の洗礼を無事通過することができて、気持ちはというと『FLASH』との戦いはこれからだ、という感じ。最初の心配こそはクリアしましたが、第2シリーズを同じく無事乗り切ることができるかどうかはわからんわけです。なので、ちょっとドキドキしながら見始めた『ダーティペアFLASH2』。オープニングを見てみれば、主題歌歌っているのがケイ役の松本梨香で、ああこれは第1シリーズよりももっと先鋭的に声優を押し出す戦略であるのだなと諒解。ということは、エンディングは國府田マリ子が歌ってるなと思ったらそれが大正解。じゃあ内容はというと……、割りと嫌いな感じじゃなかったですよ。面白かったし楽しめましたというのが素直な感想です。

でも、『ダーティペア』としては微妙かも知れません。全5話のうち、頭と最後こそはWWWAから派遣されてのミッションでありますが、真ん中の3話はというと復元された二十世紀東京テーマパークでのいろいろてんやわんや。まあ、事件はあって解決もしてる話もあるからいいとはいっても、うち2話はまるっきり事件ってなもんじゃないもんなあ。別に『ダーティペア』でやる必要のある話じゃない。普通の学園ものでもいいし、それこそどんなキャラクター、どんな設定であってもこなせそうな汎用ストーリーだからなあ。なので、多分このシリーズは『ダーティペア』を『ダーティペア』として楽しみたい人からしたら不発なんじゃないかと思います。

でも、私にはそれでも充分面白かったのです。つまりこれを『ダーティペア』として楽しもうとは思っていないということなんですが、一番好きな話はというと、その汎用ストーリーであるところの第4話「キラキラ純愛Flowershop」と言い出しそうな勢いですからね。いや、別に白鳥由里が出ていたからとかそういうわけじゃないんですよ。だって、私も衰えたなと思ったんですが、かつてはその吸気音から白鳥さんだ! と気付けたというのに、今の私はというと話しはじめてなお気付くのに数秒かかったというていたらく。駄目だ。堕落しました。って、こんな馬鹿な話はどうだっていいや。あの、最後まで宙ぶらりんのままひっぱっていって、もしかしてこのままゴールイン!? と思わせて裏切るというあのパターンは王道とはいえやっぱり面白い。私は最後の最後、待ち合わせの場面、ゲスト(白鳥さん)が駆け出すその瞬間に仕掛けにはっと気付いたんですが、それまでしっかりだまされて振り回されていましたからね。ええ、やっぱりこの振り回される感じというのがなにを見るにも大切なんじゃないかと思います。

今回のシリーズは、すべて二十世紀東京を再現したテーマパーク内でのできごとです。事件やなんかはいろいろあるとはいえ、アクションの要素は弱め、銃撃戦もちょびっと、剣戟に関してはほぼ皆無といっていいくらい。SF的要素はというと、あの真犯人の設定は面白いなと思ったけれども、まあそれ以外はごにょごにょ、つまりSFを期待して見るようなアニメではありません。こうした点で、やっぱりこれは平成期のアニメであり、そうした時期の面白さを求める人間のためのアニメであるのですね。以前に気にしていた変身シーケンスに関しては本編には同じくそんな設定ないかのごとくに無視されて、でも私のような人間を満足させるためか、ラブリーエンゼル号の合体シーケンスや二人の変身はすべてオープニングアニメに突っ込んであるという、親切なんだかよくわからんサービスがありがたかったです。正直、あの設定いらんよなとか思いながらも、こういうのが用意されてるというのが90年代の空気だったんだと思います。つまり、要はこうした要素を受け入れられるかということ。その許容の度合いが『FLASH』を楽しめるかどうかの鍵であるかと思われます。

関連

小説

2006年12月9日土曜日

百合星人ナオコサン

 kashmirという漫画家については『○本の住人』を読むまで知りませんでした。なんだかとんでもない感じの作風。ええと、いっちゃってるっていうか、普通に話を回すこともできそうなのに、要所要所に微妙にずれてきわどいところを挿入していくって感じの作風です。そんな伝統的ナンセンステールの素養がそこはかとなく感じられるkashmirの『百合星人ナオコサン』が発売されるということで、はるばるてくてく書店に買い出しにいってきました。うん、普通なら休みの日にわざわざ出歩いたりしないんですけどね。でも、この本の初版初刷にはなんと主題歌収録のCDがついてくるというではありませんか! これはなんとしても確保しなければ、というわけでてくてく書店に出向いたのであります。

『百合星人ナオコサン』は『電撃大王』にて連載中の漫画だそうで、だから結構覚悟して読みはじめたのですが、思ったより普通じゃんというのが第一印象。覚悟っていうのはつまんないとかそういうのを予想したんじゃないですよ。まだ私の理解の及ぶ範囲にとどまっている『○本の住人』とは違って、私のわからない領域に全力疾走していたらどうしよう、って心配したのですね。でも、普通。うん、普通。タイトルに百合星人ってあるから、表紙の金髪の女の子が黒髪の女の子にあんなことやこんなことをするような漫画かと思っていたらそういうわけでもなくってですね、むしろ幼女幼女っていってる……。ろくでもねえ……。いや、でも普通。至極普通。

普通というのは『ナオコサン』の方が論理的に理解しやすいという意味においての普通ですね。発想の普通じゃなさに関しては『○本の住人』の方が優れていると思います。だから普通。こうした違いが現れてくるのは、掲載されている誌風が違うからだと思うんですが、片や四コマ誌『まんがタイムきららMAX』、片やマニア向け漫画雑誌『電撃大王』。四コマとストーリーという表現形の違いも大きいのかなあ。四コマというスタイルだと四コマ目で投げっぱなしてフォローしないっていうのも可能だけど、ストーリーだとそうはいかないからなのか、ストーリーもののほうが自由度が大きいからひとつのネタを拾って展開しやすいからなのか、全般に『ナオコサン』の方が理解しやすいです。

ただ、それは決して内容が薄いというわけではないんです。内容の濃さに関してはおそらく『ナオコサン』の方が上で、コアなネタも多いように感じるのですが、だからやっぱり表現形の違いが大きいのだと思います。有無をいわせないドライブ感はどちらにもあって、引っ張るベクトルが違っているというそれだけだと思います。そしてなによりこの人のうまいなって思うところは、その引っ張り方。うまく引っ張っていってくれる、振り切って自分一人でいってしまうっていうところがない。こんなに振り回されて、脳みそかき回されてるみたいになっても、独りぼっちにされてるような寂しさ、寒さがない。この距離感というのは才能なのかなあ。すごく配慮の行き届いているような感じが好きです。

いちおう触れとこう。『○本の住人』は妹漫画、『ナオコサン』は姉漫画です。無邪気さの中になんかちょっと危ない言動が現れてくる弟くんと主人公みすずの関係が素晴らしい。具体的にいうと逆さ釣りとか往復ビンタとか、愛が感じられますね。素晴らしい漫画だと思いました。

蛇足

kashmirという人はナンセンス系ファンタジーの系譜にある作家だと思います(本気でいってます)。ちょっと目を離せない感じだぞと思っています(本気でいっています)。

蛇足2

CD、よかった。休日に出歩いた甲斐がありました(ただいまヘビーローテーション中)。これ、おまけだけにしておくには惜しいものがあると思います。

  • kashmir『百合星人ナオコサン』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 以下続刊

2006年12月8日金曜日

デトロイト・メタル・シティ

  平積みにされた表紙のインパクトと帯に踊る惹句のミスマッチはずいぶん前から気になっていたというのに、なんとはなしに敬遠していたのが『デトロイト・メタル・シティ』です。面白いんだろうか、面白そうに思うんだけどと思いながらも、手にしなかったのは失敗することを怖れていたからかも知れません。けど、どうもこの漫画の評判はよいようで、『暴れん坊本屋さん』の3巻で番子さんの購入品にも見かけるし、もの子さんも購入してらっしゃるようだし、よっしゃこりゃ買うかと思ったら1巻が見つからない……。というわけで、今日まで延ばし延ばしになってしまいました。

読んでみて驚いたのです。これって各話完結なんですね。てっきり続き物だと思っていたので、思わぬ肩透かしでした。そしてもう一点。もっとシリアスな漫画かと思ってました。だって、想像以上の脱力系です。基本的にイージーな感じのこじつけが馬鹿馬鹿しくもおかしいというそういうタイプの漫画で、なんだえらい軽い感じじゃないかと思いながらもいきなり三度読み返してしまう。うう、ちょっと病みつきにさせる系統かも知れないですね。過激なわりに微妙にださく設定されたクラウザーさん率いるバンド、デトロイト・メタル・シティと他でもないクラウザーさん自身の暴走っぷりを、何度でも見てみたいというそんな雰囲気。基本的にはパターン漫画ですから、話がどういう展開するか大筋は確定してるんですが、それをどう馬鹿っぽく、勢いつけて見せられるかが勝負でしょう。今のところ、勝負には勝っていると思います。気弱な根岸青年が魔王クラウザーII世となって暴虐の限りを尽くす、その盛り上げ方がなんか侘びしくて嫌いになれないって感じです。

この、嫌いになれないというのは、主人公である根岸青年のキャラクターがうまく作られてるからなのかなあなんて思ったりするんですがどうでしょう。気弱で状況に流されやすく、もう後には引けないって状況になると人一倍はじけてしまう。こういう場の雰囲気にあらがえないという、多かれ少なかれ誰にもあって、もちろん私にもある性質がなんか生暖かい共感と笑みを誘うのですが、けどあの暴れっぷりはどうかと思う。本当は嫌っているはずなのに、きっと後で落ち込むに違いないのに、けどその心の奥底にはそうした衝動を隠してるんだよこの人は、みたいなアンビヴァレンスなあり方は悲しくっておかしいなあ。正直なところいいますと、私は普段の根岸よりも、クラウザーさんになって大暴れしている彼の方がずっと好きです。もっと、もっと激しくやってくれ。

この漫画読んで一番おかしかったのは、第1話(読み切り?)に出てくる作りかけの歌詞がちゃっかり第3話(ゲスト掲載?)で歌になってたところでしょうか。あ、没にしなかったんや。この実に無駄のない感じが小ネタながらも面白かったと思います。

ところで、この漫画ではメタルをはじめとしてポップやラップなんかも題材として使われるのですが、結構みんなおちょくった感じで描かれていたりするんです。実際の話、価値観を共有する人たちにとっては至極真面目にやってることでも、一歩引いて外から見たらおかしかったりキテレツだったり意味不明だったりするのかななんて思って、こういう外部からの視点というのは忘れんようにしたいものだな、なんて思ったのは内緒です。だって、この漫画、そんな真面目に読んじゃいかん漫画だと思う。一緒に馬鹿になって状況を楽しむというのが、きっと一番いい読み方だと思います。

2006年12月7日木曜日

Moreべたーふれんず

  伝説の着ぐるみコントを最後に、惜しまれつつも終了した『べたーふれんず』。面白かったのに、残念だと思っていたら思いがけず復活。その名も『Moreべたーふれんず』とバージョンアップしての登場。これ、アンケートではそれほどぱっとしなかったけど、単行本にしたらむやみに売れたとそういう話なんでしょうか。でも、だってさ、この漫画が連載されてたのって、本誌系列ではなくて別冊扱いの『ナチュラル』でしたから、買い控えといて単行本になったら買おうと思っていた人が多いと思うんです。だって、私からしても途中までそうだったんですもの。ですが、私は途中入りしてあの伝説の最終話に間に合うことができた。あの時のおかしみは、通勤の車内の空気雰囲気、光の加減まで含めて、今なお鮮明に思い出すことができそうなほどに印象に残っています。

しかし、辻灯子って面白いんだ。多少漫画っぽく誇張されているとはいえ、身近にいてもおかしくないような登場人物が、身近にあってもおかしくないような行動振舞いでもって笑いをさそう、その手口が実に巧妙です。極力言葉で説明しない。わかるやつだけわかれ、ってな訳でもないんでしょうけど、読んでぱっと意味が繋がれば幸い、わかんないときはためつすがめつして、ははあこういうことねって思ってくすっと笑う。この人は絶対に説明型の作家ではなく、いうならばギミック型の作家であると思います。仕掛けはある。気付けば面白い。実に私好みの笑いであります。まあ、おいてけぼり食らわされる人からしたら面白くないでしょうね(二重の意味で)。

辻灯子のこういう性質は、静香という複雑なキャラクターを創出して、実にその個性を発揮するにいたったと思うのです。静香、容姿端麗にして才気煥発、清楚な身なりに丁寧な物腰も柔らかく、けど皮肉やいけずはすごいぞってキャラクター。ああ、もうここまで書けばいうまでもない。ええ、私は好きですよ。こういう人大好きです。育ちがよくちゃんとした人に見えて、中身はろくでもないって感じの人が好きなんです。

って、私の好みなんてどうでもいいや。

直情径行元気溌溂型の紅実と静香が合わさることで、どちらかだけでは出すことができない面白さというのが表現されていると思うのです。やることどちらも破天荒、けど前者は無自覚の、後者はというと計算づくの、現れに対する前提が違っています。この違いというのが相乗的に働いて、シンプルでいて複雑な、複雑に見せてシンプルな、そういう独特の間やバランスを生み出しているように感じます。

と、ここまでなら『べたーふれんず』と一緒。『Moreべたーふれんず』のMoreたるところは、紅実静香に加え青柳さん緑川さんをはじめとする同僚先輩上司たちもより積極的に関わってくるところではないかと思います。もちろん彼女彼らの多様な個性は『べたーふれんず』においても登場し、面白さの創出に参加していましたが、その度合いはというと『More』には及びません。『べたーふれんず』ではあくまでも紅実静香が話のエッセンスであったのに対し、『Moreべたーふれんず』では皆が等しくエッセンシャルであると、そういう感じなのです。

今、この記事書くためにちょっと『べたーふれんず』読んでみたらば、おそろしくシンプルでストレートで驚きました。『More』は繊細さ込み入り方の点においても進化してますね。初心者にはきついかも……、けど重度の辻灯子ファンなら、きっと『More』くらいでないと物足りなさを感じるはず — 。ええ、『More』の微に入り細をうがつ面白さのギミックは、ちょっと中毒性さえ感じさせるほどに利いて、読んでいるうちになんだか不思議な快感さえ得られるほど。私が辻灯子を唯一無二ユニークな作家であるという所以はここらあたりにあるようですよ。

2006年12月6日水曜日

Families - 家庭の構造

 iTunse Music Storeで使えるフリーソングコードを、思いもかけず九曲分もいただけまして、こうなると途端に困ってしまうのが私というやつなのです。だってね、どれをダウンロードしたものか……、と迷ってしまう。たくさんあって迷うのなら救いがあります。優先度を自分で決めて、上から選んでいけばいいだけの話ですから。ですが、そうじゃないのですよ。ないのです。これというものがない! いや、ないんじゃない。聴きたい曲はある。でも、それをiTMSで買おうとなると踏みとどまってしまう。例えば、THE TIMERSの『デイ・ドリーム・ビリーバー』。いやあ、ずっと欲しいと思ってたんだ、とか思いながらダウンロードできない。サディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』に関しても同様。こんなとき、自分がオールド・タイプ・リスナーであるということ痛感させられます。

オールド・タイプ・リスナー? いったいこれなにかというと、円盤に重力を縛られた古いタイプのリスナーですね。データで音楽を購入することよりも、音盤で所有することを好むタイプであるということです。音楽は曲単位で聴かれるようになった、アルバムの時代は終わったんだ、iTunesのパーティシャッフル体験がそう教えてくれたよ、だなんて口ではうそぶきながら、結局はアルバムという単位にこだわっているリスナー。それが私です。だから、『ロ・ロ・ロ・ロシアン・ルーレット』を『宇宙恋愛』を欲しいといいながらも、ダウンロードを拒むのです(iTMSの中原めいこ『TWIN BEST』の扱いはちょっとすごい。30曲入って1500円って!)。

そんな私が、かつて同じくフリーソングコードを手に入れたとき、このときは一曲だけしかダウンロードできなかったのですが、迷って迷って迷った揚げ句、心を鬼にして(?)選んだのがこの曲、桐島かれんの『Families - 家庭の構造』であったのです。この曲、私が知ることとなったのはNHKでやっていたTVアニメ『ふしぎの海のナディア』でイメージソングとして使われていたからなのですが、これがもう本当にいい曲で、一体どのへんが『ナディア』のイメージにそぐうのかちっともわからんのですが(父娘の関係?)、とにかくいい歌なんです。すごく大きな広がりがあると思う。曲にも歌詞にも、そして歌にも、広さ大きさを感じさせる力があって、雄大。私は、『ナディア』のヴォーカル・コレクションを人から借りて聞いて、返すの嫌になったくらいですから。桐島かれんが、森川美穂が、私をこのアルバムに縛りつけて、だからそうした好きだった歌というのをぽつぽつと単体で買っていけるなら、iTMSはいいかもなあと思ったんですね。

でも、本当は、アルバム『かれん』そのものを欲しかったさ! だって、きっと私の知らない世界が広がっているはずだという気がして、そしてそうした広がりは一曲単位の購入ではわからないではないですか。おんなじアルバムで買うのなら、ちょっとくらい高くても音盤で……、と思ってしまう。それが私という人間で、私が自分をオールドタイプであると自覚するのはこうした瞬間なのです。

というわけで、オールドタイプである私にお勧めの曲を紹介してください。コードの有効期限は2006年12月18日なので、それまでに紹介してくださるようお願いします。いくらなんでもそれは嫌だってなことがない限り購入しようと思います。感想を書けとおっしゃるなら、このBlogにてお応えしましょう。なにとぞご紹介のほど、よろしくお願いします。

2006年12月5日火曜日

姉妹の方程式

 私は野々原ちきが好きです。儚さと繊細、細やかな絵のいとおしさにいけずさが加わって、このギャップが実にいい感じです。実際、この人の漫画からは実にいけずな感じがしましてね、だからというわけでもないと思うのですが、私はとても好き。いけずといっても、ただただ意地悪だったりするとかだったらこんなに好きになったりはしないと思うんです。登場人物に対する愛があって、けどその裏腹にいけずがあるという、一見矛盾に思える感情や行動がしみるのだと思っています。家族や友人、気の置けない間になってはじめて見せるような意地悪さってありますよね。もちろん嫌って意地悪するんじゃない。それもまた愛情表現なんです。そういう微妙な愛情の距離感がうまく表現されているのがこの人の漫画の魅力であると思います。

そんなわけで、『姉妹の方程式』もついに第3巻ですね。ええと、私、以前こんなこといってましたっけ。十子ちゃんが好きです。十子さんというのは第3巻の表紙の娘さんで、さっぱりもの、しっかりもの、素敵! てなわけで、私はもうこの表紙だけで満足なのじゃよー、と思っていたら、単行本書き下ろしの漫画が! 漫画が! 中学時分の、まだ髪も少し長くセーラー服着ていた時分の十子さんが! あーもーどーしたらえーねん! と、第3巻では記事の内容がまともにならないことがわかっていたので、書こうかどうか迷ったんです。でも書きました。書かずにはおられなかった。

『姉妹の方程式』のよいところというのは、シンプル、スタンダードであるところだと思っています。奇をてらわず、設定の特異さに逃げることなく、台詞に頼りすぎるでなく、また絵ばかりに偏るでもなく、話もクールであったりドライであったり、でもどこかに必ず姉妹の絆、仲のよさを思わせるコマも挿入されて、このバランスのよさというのは随一です。ナンセンスに常識を拮抗させて、コンパクトながらも毎回をひとつのテーマでまとめるというそつのなさ。人によったら物足りないと思うんでしょうね。けど、私にはそのこぢんまりとした世界がたまらなくいとおしく感じられて、だから好き。地味で損しているタイプの漫画だなあと思いながらも、心ある漫画読みならこのよさに気付くはずと信じています。

蛇足

十子さんが好きです、てのはまあいいとして、第3巻では脱げ!足を開け!!てのがどえらく面白かった。とにかく、本誌連載時から気に入ってる話であります。

  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

引用

2006年12月4日月曜日

ダーティペアFLASH

 先日、『ダーティペア』のOVAシリーズを見たときの感想で、正直がっかりしたというような話をしていました。これ、せっかくあがったテンションが下がったというのも問題だったのですが、それとはまた別に問題がありまして、それは『ダーティペア』の続編(?)というべき『ダーティペアFLASH』に対する不安がいや増したということです。というのはですね、『ダーティペアFLASH』がリリースされた当時、私はアニメ誌を一誌購読していまして、このアニメが紹介された誌面を見てなんじゃこりゃ、と思った記憶が今なお残っているからなのです。ええーっ、するに事欠いて『ダーティペア』をこんなかたちでリメイクかよ! みたいに思ったことを覚えています。

ファンというのは保守的なものですからね。まあ、人にもよるとは思うのですが、自分にとって思い入れのあるものを変な風に改変されて、それがどうにも我慢ならなかったという経験のひとつやふたつは誰しもあると思うんですが、そんなんだったら嫌だなと思ったわけですよ。けれど、『ダーティペアFLASH』がリリースされてからすでに十年以上の月日が経ってるわけです。だから、心機一転新たな気持ちで見れば、これはこれでいいんじゃないだろうかという期待もわいてきていましてね、このへんの心境は『ダーティペア』のDVD-BOXが発売されると知ったときにいっていたとおりです。

で、この期待というか希望に対してですね、OVAシリーズが冷や水を浴びせたってわけですよ。

『FLASH』の感想。最初、コンピュータが大阪弁でしゃべってるのを聞いたとき、こりゃもう駄目だと思いまして、見るのやめようというところをすんででとめて、とりあえず最後まで見よう、せめて第1話だけでも見ようと思いとどめたのでした。ってのはですね、私、大阪弁キャラって嫌いなんですよ。一体いつからマニア向けアニメには大阪弁キャラ必須みたいになったんでしょう。あの、一体いつのどこの大阪で話されとんねんといいたくなる変な大阪弁。大阪へのいびつな視線、歪曲された先入観で糊塗された大阪弁キャラクターは大嫌いなんです。もちろんすべての大阪弁キャラがおかしいわけじゃなく、まともなのもあります。けど、あのコンピュータに関しては駄目だろう。ほんと、最悪だと思いました。

ほんでまたユリのキャラクターが最悪。デート優先で仕事をさぼるってなんじゃらほいっ。そりゃ駄目だろー、ってアニメ見てストレスためても仕方ないんですが、こういうところ、私は変に真面目で駄目だと思います。やるべきことをやらない。そのために発生する問題については私は許容できないみたいです。というわけで、私はこのアニメの主役二人、ケイもユリも許容できないと思ったんです。その時点では。

結局、一気に全6話を見てしまいました。それで、『FLASH』の最初のシリーズというのは、相性も悪くパートナーシップなんて欠けらもない仕事に対して不真面目な二人が、さまざまな事件、出会いを通して自省し、ペアとして成立するまでのストーリーであるということを理解しました。だから、これが元の『ダーティペア』ファンに受けが悪いという理由もわかったように思います。『ダーティペア』の面白さは、困難な事件にケイとユリ、そしてムギとナンモがそのチームワークでもって取り組み乗り切るというそこにあったわけで、対して『FLASH』はというと、そうした状況に至るまでを描いている。面白さ、見どころが違うわけです。『ダーティペア』はすでにできあがったチームの活躍を、『FLASH』は成長しようとする二人の物語を、それぞれ違った風に楽しむアニメであるというわけです。

『FLASH』、面白かったですよ。あの時点で見るのをやめなくてよかった。表現としては妙に甘くて、シビアさに欠ける部分も多かったように思うけれど(レーザーブレード振り回して服だけばらばらになるというのはやめようよ……)、けれどそうした部分は『FLASH』に関しては本分ではないのでしょう。あくまでも不完全な二人が、反発しながらも互いの価値を見いだし、そしてチームとなるという、そういう信頼の形成をテーマにしていたのだと思います。ライト感覚かもは知れませんが、よく取り扱って、6話の間、だれずに話をうまく取り回して、私は結構好きな感じ。ええ、『ダーティペア』という名前のバリューに負けず、うまく取り組んで、『FLASH』なりのよさというものを作り上げるのに成功しているとそんな風に思っています。

ただちょっと謎なところ一点。第1話においてですね、ユリとケイが不断着から戦闘着(?)に着替えるシーンがあるんですが、これがブレスレットの機能でもって一気に変身といったような塩梅なのですが、これってバンクシーンですよね。で、ケイのバンクはきちんとフルに使われているんですが(あの胸を強調するところでおえーっとなったのは内緒)、ユリのは途中でキャンセルされるんですね。このとき、私は、なんだよー、変身ものかよー、って辟易したのですが、驚いたことにこのバンク、その後一度も現れません。まるでこのスーツ装着の設定がなかったかのように現れません。

これって、変身ものっぽく見せるためのひっかけだったんでしょうか? あるいはユリにもきちんと変身シーケンスが用意されていたんだけど、ストーリーの都合上使われずにお蔵入りになった? 『FLASH2』とか見ればわかることなのかも知れませんが、とにかく謎です。謎なのです。だって、できることならユリの変身シーンもフルで見たいじゃないですか(えーっ、結局嫌いじゃないんじゃん!)。

関連

小説

著作権法の意義ってなんだろう

著作権に対し熱心に取り組んでいるサイトやBlogではすでに取り上げられているのではないかと思いながら、私もコメントしてみようと思います。

 車の事故で亡くなった子どもの写真などを自分のホームページに無断で転載したとして、愛知県警が、東京都あきる野市に住む小学校教諭の男(33)を著作権法違反(公衆送信権の侵害)の疑いで書類送検していたことが3日明らかになった。

 教諭は交通事故以外にも、虐待や災害で死亡した子どもの遺体の写真を大量に掲載していたという。裸の写真も含まれていた。

最初この記事を見たとき、私は理解することを拒否したのです。はっきりいってまともであるとは思われない。上記の引用部分の後にも記事は続きますが、そこに引用された問題サイトの文言は見るに堪えないというほかないもので、死者の尊厳や個人のプライバシーをうんぬんする以前の問題であると思われて、はっきりいってまともではない。嫌悪が先にたって、この人の行為に対しコメントすることは私にはちょっとできそうにありません。

私がこの事件において気になったことがあります。上記の問題を告発するために著作権法が使われたということです。児童の写真に発生する著作権でもってサイトを差し止めようとしたのでしょうが、しかしこれは著作権法の本来の趣旨からすれば逸脱しているというほかなく、まさしく搦め手というべきやり方です。

身内の死が好奇の対象としてさらされるという状況が遺族にとって苦痛であろうことは私にもわかります。だからなんとかしてサイトを差し止めたいと思う気持ちもわかります。そして、現状の法においては著作権法を使うのがもっとも速く目的に達する手段であったということなのでしょう。

ですが、これは著作者の権利を保護するという著作権法の趣旨から見れば、明らかに逸脱する運用であることには留意しておく必要があるように思います。今回は、悪意を退ける目的でおこなわれたケースであり、故にメディアも著作権法を利用して表現を差し止めたとストレートに取り上げていますが、同じ手段でもって不善をなすことも可能であることを充分理解しておかなければなりません。コンテンツホルダー(著作権を有する側)が自分にとって不利益な表現(情報)を、その表現の内容を問題にすることなしに、著作権法違反として告発、取り下げさせることがありうるということを知っておく必要があるということです(そしてそうしたケースは、今回のようにおおっぴらに報道されることはほとんどないでしょう)。

今回のようなケースに関しては、個人のプライバシーにかかる侵害、尊厳に関わる侵害を、その表現そのものを問題として罪に問える法が整備されることが理想であろうと思います。おそらくは本文にあるように侮辱容疑やあるいは名誉棄損に問うというのが筋であろうと思いますが、これらの容疑でもってサイトの差し止めをおこなうには手が遅すぎると判断されたのでしょう。ですから、インターネット上に公開された(そしてそれはインターネット上に限らないでしょう)個人の権利を侵害するリソースを迅速に差し止めることのできるような法も、これからは求められるのかも知れません。そして私はすでに必要とされていると思っています。

もちろんこうした法律を作るのは簡単なことではないと思います。なにをもって権利の侵害とみなすかは常に問題となるでしょうし、おそらく裁判所が為すこととなるだろうその判断を待てないという事情もあるでしょう。また、その法を悪用して自分にとって批判的な内容を持つ表現を摘もうとする者も現れるかも知れません。ですが、本質的に関係ない法を流用して追い込むというような手法をとるほかないという状況もまた問題です。こうした、本来の法の趣旨にもとる流用がおこなわれたとき、そしてそういうことが往々になされる風潮があるときに、それら行いがはらむ問題を認識しながら沈黙するようなことはしてはならないと考えます。

引用

2006年12月3日日曜日

ダーティペア コンプリートアートワークス

 『ダーティペア コンプリートアートワークス』が到着して、見てみれば私の予想していたようなのはずいぶんと違う感じでありました。私が思っていたのは、ファンブックというかムックというか、雑誌に載ったようなイラストを集めたのが第一部、後半にはスタッフ等々へのインタビューが収録されているというようなのだったのですが、これはどちらかといえば設定資料本です。主要キャラクターの紹介やアニメのカットを使っての名シーン集(こういうのなんていうのかな)、それとポスター等の紹介というのはありますが、それは冒頭のごく一部にとどまりまして、メインとなるのはあくまでも設定資料。あ、それとアニメの原画集か。これらを紹介するページは墨一色のページだから、割合に質素で地味な印象の本という感じであります。

でも、地味だから駄目という感じでもなく、見ていて面白かったです。欲をいえば、当時の状況を伝えてくれるインタビューやなにかがもっと欲しかったところでありますが、でもそれは、おそらくこのシリーズの趣旨ではないのでしょう。あくまでも絵を残すのが目的なのだと思います。収録された絵というのは、設定、原画がメインであるとはすでにのべたとおり、それらが主役の二人、周辺の人物、ゲスト、そしてメカと次々紹介されて、その中にはアニメには出てこなかったものもあれば、スタッフによるいたずら書きみたいなのも見られて、これが微妙に時代を表していて面白いんですね。設定画にも興味あらば、余白の落書きにも同様に興味が出てきて、やっぱりこういう内部向けの資料を知ることができるというのはありがたいものであると思います。

この本が扱っているのは『ダーティペア』のTVシリーズ、『ノーランディアの謎』、『劇場版』、OVAシリーズそして『謀略の005便』、つまり頓宮恭子&島津冴子ペアの時代が対象です。ひとつ例外としては、映画『クラッシャージョウ』の劇中映画の設定(といっても立ち絵くらい)。巻末には各話解説とスタッフ表があるけど、これらは付け足しといった感じです。

これを見て驚いた(というほどでもないのですが)のは、TVシリーズの宇宙船ラブリーエンゼルの羽が左右とも同じ長さであったってことでしょうか。私、一体なんでこんな勘違いしたのかわからんのですが、ずっと左右非対称だと思っていたのです。アニメの表現でパースを強くつけた回とかがあったのでしょうね。それが左右対称と知って、あれー、と思ったのでした。

残念だったのは、TVシリーズ特有のキャラクター(『ノーランディア』にもちょっと、ほんとにちょっとだけ出てるけど)であるナンモのページが少ないところでしょうか。私、ナンモが大好きだったんです。『ダーティペア』で誰が好きといわれると、そりゃ、まあユリなんですが、ユリに匹敵するくらいにナンモが好きでありまして、だからナンモのページが少なかったのは残念。もっと設定資料があるような気がするんですが、ページの関係上削られたか、あるいは発掘されなかったか。同様にムギのページも少なかったのは残念かも知れません。

とまあ、こんな感じで、頻繁に出してきてみるというような本ではないかも知れませんが、たまにぱらぱらとめくってみて、へー、ここのギミックはこうなっていたのかとか確認して楽しんで、そういう感じの、ファンならきっと気に入るんじゃないかなという本だと思います。

アニメ関連

小説

2006年12月2日土曜日

ドリームハンター麗夢

 購入してからずいぶん時間が経ってしまいましたが、ついに見ました『ドリームハンター麗夢 DVD-BOX』。これだけ時間がかかったのには理由があって、それは同日に到着した『ダーティペア』を先に見ると決めたからなのですが、ソコがフシギ発見! ナ・ゼ・ア・ト・マ・ワ・シ? なぜ『ドリームハンター麗夢』が後回しであったのでしょう。それは単純な理由。失望は後回しにしたいからという思いがあったからでした。失望!? じゃああんたは失望するのがわかっててBOX買ったのか、といわれると、もちろんそんなわけないじゃないですか。私だって楽しみにしていて、けどもし私のこのアニメへの評価というのが思い出はいつもキレイ理論に基づくものであったらばどうしようという不安があって、だから第2話をざっと流してみて、後にしたいと思ったんです。不安要素をぬぐえなかったんです。

で、本日1から3話までをぶっ続けで視聴してみた感想なのですが、面白かった。確かに最初のものに関しては、思い出が美化した部分もあったように思うのですが、あるいは年を重ねたのが利いたのか、ストーリーの乱暴さに突っ込み入れないではおられないような場面も多くて苦笑いだったりもしたのですが、けど見どころは確かにあって、しかもいくつもあって、面白かったと思います。例えばそれは、3話を通して感じられる特撮ものの匂い、巨大化した夢魔を仰ぐカットなどには明らかに特撮怪獣ものの構図があって、これらは視聴者へのサービスだろうなあとそんな風に思わせます。こうしたことを思わせる個所はいくつもあって、死神博士の造形なんかは典型的。『麗夢』の面白さというのは、作り手と視聴者による共犯関係に生まれるものなんではないかと思う所以です。

でも、こう書くとなんだか『麗夢』がマニアの内輪受けを狙ったようなアニメと感じられますが、もちろんそれだけじゃないんです。私が第2話を見て怖れたというのは、このまさしくマニアの内向きの楽しみにとどまるのではないかという点であったのですが、第3話まで見ればそんなことはないとわかります。おそらく、オリジナル作(オリジナルはアダルト向けアニメでした)が当時のアニメファンに受けたのを見て、全年齢向けに作り直し、またそれが受けたので第2作第3作と作られたのであろうと推測するのですが、その回を重ねるごとに質がぐんぐんと上昇していって、第3話は実になかなかのものでした。確かに筋には乱暴なところがあります。オカルトをモチーフにしたアニメであることをいいことに、あえて手続きをすっ飛ばしているような苦しい部分もあるのですが、けれどそうした粗さをものともせずに見せ場を用意してくれるから、見ているこちらとしては満足といわざるを得ない。実際満足でしたよ。面白かった。粗がありつつも、そのマイナスを補えるだけの面白さが用意されているのですから。

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CD

書籍

2006年12月1日金曜日

ダーティペアの大冒険

小説にも手を出すんじゃないかな、どうしよっかなといっていた『ダーティペア』でありますが、しっかり手を出してしまいました。けど、まだ一冊だけ。『ダーティペア』シリーズの1、『ダーティペアの大冒険』を買ってきて、これ面白いですね。アニメに慣れきっているから、原作には馴染めないんじゃないかという心配をしていたわけですが、まったくの杞憂でありました。いや、まったくというのは言い過ぎか。なにしろ昭和五十年代の小説ですから、全体に古くささというのが感じられて、それは台詞なんかに顕著でありまして、「かわゆいわぁ」みたいな台詞を今目の前に突きつけられると、投げてしまおうかって気持ちにもなったりするほどぞっときたりするのですが、でもこのへんは当初の心配とは別のものですね。けど、そうした時代くささを越えて面白く読めるだけの魅力があったのはなによりでした。

この本の魅力というのは、それはもうサービス精神に尽きるんじゃないかなと思うのですが、活劇の面白さってやつでしょうか、うまく見せ場を配置しているとそんな感じがします。物語の導入があったかと思えば、畳みかけるように最初の見せ場がきて、おいおい待ったなしかよ、なんていっている間に話は一歩進んで、事件のあらましと謎が提示されたと見るや、また活劇。まさにこんな感じなのです。

以前、『ノーランディアの謎』でいっていた念視、クレアボワイヤンスですが、『ノーランディア』では冒頭での導入に過ぎなかったこの要素が、原作ではものすごく重要なのには驚かされました。事件の核心に踏み込ませ解決にまで導くキーなんですね。これがあるおかげで、必要以上に謎にかかずらわされることなく、それこそ一足飛びに本丸に飛び込むことが可能になっています。これをテンポがいいと見るか、ちょっと物足りないと見るか、それは個人個人の好みでしょうね。活劇系SFにするにはこの要素はありかなって思うけど、私の好みからしたら反則すれすれというジャッジ、都合のいい種明かしだなこりゃみたいに感じたというのが本心です。

でも、それでも面白かったです。今、最近のライトノベルよりもちょっと重厚で、けど娯楽小説ですからそれなりにライト。話によってはなんか一抹の悲しさ寂しさを得たりもして、けど必要以上に感傷的ではないから、私としては嬉しいな。ほら、なんか無理矢理お涙頂戴みたいの多いでしょう、特に最近。私はそういうのは一応すべて受けるんですが、けどあんまりなのは好きじゃないんです。このちょっと突き放したみたいなところは、今となっては逆に新鮮でいいですよ。

そういえば驚いたこと、他にもありました。これ、あくまでもケイ視点なんですね。ユリの影が薄い薄い。アニメで感じたような印象はなくて、ユリファンとしてはちょっと物足りない。ほんと、びっくりしましたよ。あと、びっくりしたといえば「ふみぃ」ってユリがいうの、原作由来なんですね。原作では「ふみっ」なんですが、私『ダーティペア』のBOX買ってなにが嬉しかったとっても、またユリの「ふみぃ」が聴けたってことだったりしたのですが、これあんまりに馬鹿馬鹿しすぎるので、書かなかったんですよ。こんなことなら書いとけばよかった。いや、でも本当に原作から「ふみっ」があったというのは驚きでした。

アニメ関連