2005年4月30日土曜日

WAKI WAKIタダシさん

 二十九日の不調はきっと体のゆがみのせいだろうなんて思って、ええ、私の体は体調に変調を来すほどにゆがんでいるのです。まあ、ギターに限らず、左右対称でない楽器を弾いている人は多かれ少なかれ体がゆがんでいるし、そのせいで体調不良を訴える人というのは数多いんですね。私もその一人でありまして、不定愁訴に関してはなかなかのものでありますよ。こんなの、なんの自慢にもならないのですが。

結局二十九日の不調は風邪が原因であったようなのですが、それでもその風邪を招いた根本には体のゆがみやなんかがあってのことでありましょうから、体のゆがみはできるだけないに越したことがないのです。そんなわけで、『WAKI WAKIタダシさん』を引っ張り出してきてみました。

『WAKI WAKIタダシさん』は、曲がったものが許せない整体師タダシさんが主人公の漫画です。実はこの漫画の作者は、二十七日にちょっと紹介しました『ビジュアル探偵明智クン!!』の阿部川キネコでありまして、この他にもいろいろ書いてらっしゃるんですが、そのどれもが違った雰囲気を持っていて、この人の芸風の広さはなかなかのものと思います。

『タダシさんの』は、形式としては四コマ、ジャンルとしてはギャグにあたるかと思われます。偏執狂的にまっすぐであることにこだわる主人公のキャラクターもなかなかのものではありますが、その周りを固める登場人物の変さもたいがいで、けれどそうした変わり者を空回りさせることなくうまくからめてコメディを成立させてるのだから、作者の構成の上手はなかなかのものかと思います。こうした構成力や引き出しの多さはいろいろな場所で培ってきたキャリアのたまものなんでしょうね。

しかし、この漫画を見るといつも思うのですが、整体師の腕の善し悪しというのは本当に大きなものでありましてね、悪い整体師にかかると問題ない体であっても悪くなってしまうものなんですよ。だから私は長いこと体の不調を思いながら、整体の情報なんかもちょこちょこ聞き込みしたりしながら、結局通院までに踏み切らないのは、腕の善し悪しがそうした情報だけではわからないということに尽きるんですよね。本当に腕のいい整体師の話を聞いたことはあるのですが、残念ながら東京で開院されているものだから、ちょっと京都からでは通えません。

だから、本当の話、それが腕のいい整体師なら、ちょっとくらい変わりもんでも、私は気にしないんですけどね。どなたか、京都近辺で腕のいい整体師の情報おもちの方とかいらっしゃいませんでしょうか。いや、これ結構本気で聞いてます。

2005年4月29日金曜日

かろうじてふっかーつ

ちょっと今日の更新で遊びタイガーを使おうと思って、『ぱにぽに』を調べにいこうと思ったらさ、突然体調が悪くなってしまって、まさかかろうじてふっかーつまで使うことになるとは思いもよりませんでした。

トイレに缶詰めになって、原因は腸閉塞じゃね。新辞林には短時間のうちに全身状態が悪化するなんて書いてあって、いやあ、実際その通り。腹の張りが増すごとに体調の悪化も加速度的に進み、吐くは戻すはの大惨事。仕舞には脂汗がだらだら出て、脳貧血も出て、多分今すごい顔色をしてるんだろうなあと自分でもわかるんですが、なにしろトイレの中だから鏡なんてありません。実際、何時間くらい入ってたんだろ。最前のエントリを書き終えてから、つい今し方までずっと苦しんでて、そうしてようやく、完全回復とはいわないまでも、なんとかこうやって文章書けるくらいまでに回復したというわけです。

しかし、もうちょっとひどくなるようだったら、本気で救急車呼ぼうかと思った。といっても、トイレの中だから電話なんてないので、呼ぶに呼べないんですけどね。

ああ、このどうにも弱い体は、どうしたもんなんだろう。頑健、元気な人がうらやましいです。

引用

  • 氷川へきる『ぱにぽに』第1巻 (東京:エニックス,2001年),94頁。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第2巻 (東京:エニックス,2002年),56頁。
  • 新辞林』(東京:三省堂,1999年),「腸閉塞」の項,EDBRIDGE 15バンドル版。

Mac OS X 10.4 Tiger

 新しいMac OS Xが全世界規模で発売されました! というか、実はもううちでは10.4 Tigerが動いていて、つまり今こうして更新している環境というのがTigerだったりするのですね。新しいRSSに対応したSafariでもってお送りしております。

私は過去これまで、OSのみをバージョンアップしたことっていうのがなかったのですが、というのは、いつも型落ちぎりぎりのエントリーモデルを安く買っていたからでありまして、つまり新OSが出ても満足に使えるような環境ではなかったんです。ところが一昨年買いましたiBookは、当時最高速度の1GHz G4搭載モデルでありまして、しかもメモリも潤沢に640MBをおごってみたのでした。オーマイ! これだけマシンに投資したのですから、いくらなんでもTigerが動かないなんてことはあるまい。そうした考えから、初のOSアップグレードに挑戦してみたのでした。

で、その首尾たるやどうであったかというと、実にスムーズ。ノープロブレム。OSが宅配便で届いて三時間後には、旧環境からのデータの引き継ぎも済ませ、主力アプリケーションのセットアップも終了していました。

三時間後? アップルアップグレードのプロセスは30分もかかりませんっていったじゃん。つうことは、アップルは嘘ついてやがんのか?

いやいや、そんなわけではございません。というのはですね、私は外付けHDDにメールや設定も含むデータを退避させまして、クリーンインストールしてみたのです。全くまっさらになったOSに、主要アプリケーション(といってもそんなにないけど)をインストールし、データを移行し、設定ファイルをちまちま移して、その全作業がたったの三時間。正直、もっともっと時間がかかると思っていたから、逆に不安になるくらいです。

環境の整備が終わってからは、Safariの新機能であるRSSフィードの読み込みを試し、自分のお気に入りのBlogを登録し、そしてWidget! 大いに期待していた翻訳機能を試して結構満足。Oh my! を翻訳してみたところ、私のオハイオ州! になった(ちなみに逆に翻訳すると、My Ohio state! に。いかす!)のにはちょっと笑いましたが、おおむねいい感じに翻訳されて、というのも、宝塚という地名もちゃんと翻訳しますからね。翻訳WidgetはSystranを利用しているのですが、機械翻訳の質も上がったなと実感しましたよ。

後いっとかんといかんもんといえば、こないだいってたDreamweaver MXのTiger対応。現在時点では、とりあえず問題なく利用できそうで安心です。

そしてWeb関連でいえば、Safariの細かな変更点が好感触で、これまではフォントの問題で表現できなかった日本語のボールドも可能になりました(けれどイタリックはまだ駄目)。ほかにもいろいろ手直しされてるみたいで、なかなかいい感じに仕上がってると思います。

現在Pantherを使ってる人が、Tigerにアップグレードする意義はあるかといわれれば、正直迷いますが、私自身はアップグレードしてよかったと思っています。

引用

2005年4月28日木曜日

空の国のあなたへ

 突然の事故によって失われる命があります。普通の日常の中で、思いもかけない出来事が運命を分けて、本当なら今日も昨日と同じように帰ってくるはずだった人がもう帰らない。そういう不幸は、残念ながらこの世界のあちこちにあって、私たちは普段そうした事々を他人事みたいに思おうとしているけれど、実は今日明日、自分や自分につながる誰かが、そうした不幸に引き込まれてしまうかも知れなくて、もしこうした不幸が我が身のことになったとしたらと仮定すれば、今身近にありふれている普通のことが、どれほど愛おしく大切なことであるかということがわかろうというものです。

先日のあの痛ましい事故の日から連絡のとれない友人があったのです。

メールを送っていたのに返事が一向に返らず、なにしろゴールデンウィークの予定を話していた途中での突然の沈黙。始めは忙しいかなんかだろうと思って、けれどそんなに返事に日にちを待たせるような人ではなかったから、もう一通送ってみて、けれど一日待って返事はなかった。その人は、よくよく思い返せば宝塚の近辺に住んでいて、だから、場合によってはあの路線を利用することもあるかも知れない。

そう思えば、不安が不安を呼んで、この数日私は、おちおちとしていられない。そんな気持ちであったのです。

もし明日電話をしてつながらなかったら、名簿を調べるつもりでいました。

『空の国のあなたへ』は、航空機事故によって命を落とした犠牲者の側から失われた日常を振り返ろうという、逝くものの視線が新鮮なショートストーリーです。陸奥A子の軽くおしゃれな描線、淡々とした描写、語りは不要に悲しさを煽るようなことをせず、ちらほらと舞って散る雪のような印象 — あるいはセンチメンタルに過ぎるといってもいいかも知れない — を与えます。死者の思い出が、あまりに美しく、あまりに現実離れして描かれているのに、不思議と嘘くささはなくて、こうした感想は、死を自らの問題として捉えることのない、生きている私のエゴゆえのものかも知れません。亡くなった人たちが、この漫画に描かれたような美しい思い出をともに空の国に逝くのであれば、せめてわずかでも慰めになるかも知れないと、此岸にある私はこの上もなくセンチメンタルで無神経なことを思っているのかもわかりません。

もしこの漫画が、こうした妙に仕合せで割り切った死者の思い出話だけで終わるのだとしたら、私は陸奥A子を見限って、この漫画を買って手元に残そうだなんて思わなかったでしょう。

三人の逝くものたちが、それぞれの思い出を振り返りつつ話したその最後に、層を違えて浮かび上がってくる残されたもののモノローグは、よもや甘ったるさの勝った物語を一気に引き締め、それまでのほのぼのとほほ笑ましくさえあった世界を転倒させるだけの力にあふれていました。出来すぎていると感じるほどに美しく描かれた物語の向こうに隠された悲しさや後悔、痛ましさがあらわにされて、けれど口振りはあくまでも静かで、こうして静かであったからこそ、むしろ悲しさはいっぱいに胸に広がったのではないかと思ったのでした。

あるいは、陸奥A子は、自身の体験をもとにこの話を描いたのではないかと思ったのでした。それほどまでに言葉は真実味を帯びて、作り事であるはずの物語に、本当の感情を与えていました。悲しさを抱き続けながらも、絶望から立ち上がろうとする人の心の強さ、そしてやさしさがあふれています。

友人からのメールを受けて、私はこの数日の最悪の想定をようやく振り払うことができて、けれどその心底の悲しさに直面する人のあることを私は知っているから、私は私のことで素直に喜べませんでした。

なにをいおうにも、言葉にすれば嘘になりそうな気がします。だから、私はせめて、旅立たれた方はその道中が安らかで幸いなものでありますように、送られる方はいつかこの悲しさの中から愛おしかった日々を抱きとめられる日を迎えられますように、祈るばかりであります。

2005年4月27日水曜日

ようこそ小豆沢美研へ!

   今日発売のまんがタイムKRコミックスは、どうにも表紙があれで買いにくかった……。明智クンなんてこんなだし、『まゆかのダーリン!』も間違って買う人を見込んでるとしか思えない。そんな中、『ようこそ小豆沢美研へ!』だけは穏当な表紙で、けれど私はこの漫画を買おうかどうか、ぎりぎりまで迷っていたのでした。

なんで迷ってたのかっていいますと、私、この漫画をどうにもつかみあぐねていたんです。私は遅れてきらら本誌の講読をはじめた口なので、キャラクターやら舞台の設定やらを知らないままに読んでたものが多くて、だからいまいち漫画の内容やらをつかめないでいるものがあったんです。

『小豆沢美研』は、その代表格といってもいい漫画でありました。載ってるから一応読むんだけど、出てる人がどういう人かよくわからないからあんまり楽しめない。だから、コミックスを買おうか買うまいかすごく悩んだ、とそういうわけだったのでした。

けど、結局購入。行きつけの本屋が新装開店しましてね、その祝儀もかねて購入いたしました。で、感想。よかったです。いい仕事してます。

漫画としては、あれですね。以前『苺ましまろ』についてちょこっと書いたことがありましたが、この漫画もそういう感じ。幼い感じの美少女好きのおねえさん(眼鏡)が、予備校の後輩の女の子に妄想を膨らませてみたり、見た目子供の所長にめろめろになってみたり、慕うあまり追いかけてきた後輩に色々せがまれてみたりと、まあなんというか、とにかく同性であるゆえに躊躇なく可愛い女の子好きを主張し実行に移すことのできるおねえさんが我々読者の代理人として萌えを追求してくれるという、そういう種類の漫画なのであります。

効きますね。ええ、強烈に効きましたよ。もちろん私は、病んだ身ゆえに自らの姿に気が付かないでいるから、この漫画のどこに良さ、魅力があるかなんてちっともわからないでいるのですが、それにしても、この漫画はよかった。本誌連載時にこの漫画の構造に気付いていたら、応援のしようもまた違ったろうなあと思います。ともかく、萌え四コマ誌としてスタートした『まんがタイムきらら』は、本来このような形式を求めていたのではないかと、そんな風にさえ思ったのでした。

そんなわけで、『ようこそ小豆沢美研へ!』、本当に買ってよかった。表紙も実にいい仕事をしていて、特に裏表紙が素晴らしい。ええ、裏表紙見てると、もー、どーしたらええねんっ、て感じになる。いや、なにもしなくていいのは自分でもよくわかってるので、放っておいてください。

蛇足:

きらら系の漫画で書くときは、意識的に好きなキャラクターを書くようにしているのですが、一応今回も慣例にしたがって書いておこうと思います。

所長じゃね。小豆沢かりん。あー、しかし最初の方はカラーページも多かったんじゃねー。本誌を最初から買わなかったこと、激しく後悔してしまいますわ〜。

引用

2005年4月26日火曜日

ギャラリーフェイク

 『ギャラリーフェイク』の最終巻が刊行されました。

思えば、私が『ギャラリーフェイク』を知ったのは、バイト先にこの漫画が置かれていたのを見たからで、確か最初の二三巻くらいしかなかったと思うんですが、美術の世界を舞台にした躍動のストーリーがこの上もなく面白くて、矢も楯も堪らず買いはじめたのですね。ええ、美術に関する知識、情報を盛り込みつつも、それがただの情報に落ちていないところがすごいと思います。スリルやサスペンスを盛り込まれたストーリーは、あっというどんでん返しで落とし所も冴えて、そして贋作専門を謳う黒い画商フジタの格好良さ。名だたるライバルを押さえ、ダーティーと思わせたその向こうに一本正義を通して見せる、アウトローヒーローものの面白さは堪らんものがありました。

アウトローヒーローもの。ええ、またなんか言い出しましたね。ええ、秘密のヒーローもの大好物を標榜する私は、『ギャラリーフェイク』みたいなアウトローヒーローものも大好きなのですよ。古くは『ブラックジャック』なんかにアウトローヒーローものの典型を見て、おうそうさ、私は『ブラックジャック』も大好きだよ。全巻揃えてるよ。

てなわけで、私が『ギャラリーフェイク』のフジタに格好良さを感じるのも当然といえるかと思います。

けど、アウトローヒーローものってね、最初は一匹狼、まわりは敵だらけみたいな感じで、ああ、この方の本当の心を知ってるのはあたくしだけなのっ、って、そんな秘密を共有するような喜びがあったりする(つまり、本質的には秘密のヒーローものと同じ構造をしているんです)んですが、巻を重ねていきますとね、なんだかいつの間にか登場人物も揃ってきてさ、なんだかいろいろつるみはじめたりしてさ、つるむのが同じアウトローだったらいいんですけど、かつてはもう本当に敵同士だったじゃんかあんたら、みたいのまで理解者面し始めれば、だんだんアウトローヒーローとしての魅力は失われていくのであります。

ブラックジャックも、途中から人情ものの色合いを強めて、あんまりアウトローくささというのは感じられなくなりましたね。それはフジタも同じで、なんとかアウトローとしてのフジタを描こうとするもどうしてもよく知ったお友達のあの人がさぁみたいになって、私にはだから途中から魅力減と感じられました。

いや、アウトローじゃないフジタは駄目といいたいんじゃなくて、ちょっと慣れ合いが見え透いてきたかなというのがいやでしてね、馴れ合いというのは登場人物にも生じるし、作者と作品の関係にもあって、当然私ら読者と作品の間にもできてくるもんなんです。そうした多層的な馴れ合いが、この漫画の緊張感 — この漫画本来の味を殺いでしまっているかもと思ったこともあったのでした。

けどさ、最終巻は久々に息詰まりましたね。いや、息詰まるサスペンスは最終巻だけじゃなく、これまでにも何度も何度も出てきましたさ。けれど最終巻は、これまでの主要登場人物を贅沢に配して、次々に畳みかけるという、まさに最終回の大団円を飾るにふさわしい豪華さでありました。

私は近刊を読んでは、くぅー、やっぱり面白いなあと思いながらも、どこか満たされないようなところがあったんですが、けれど最終巻を読み終えて、今まで『ギャラリーフェイク』を読んできてよかったと心から思えました。『ギャラリーフェイク』最後のストーリーは、作品から読者へのプレゼントであったと思います。けれど、ただのプレゼントじゃない。ストーリーとしての面白さを充分に備え、そしてそこに読者が望んでいただろうラストをのせて、最高にハッピーな終わり方をして見せました。

ただよ、ちょいと不満があるのさ。ああ、けどこりゃネタバレになるから書かないでおこうか。いや、やっぱり書きたい!

なんでエリザベータがでないの! それに翡翠も! 三田村さんの処遇もいい面の皮だと思うけど、まあこいつは妥当かなあ。けど、知念さんは出て欲しかったかも。いやしかし、翡翠! なにをおいても翡翠は —

白地に白文字で書いておいたから、読みたい人は反転でもなんでもしてくださいな。

2005年4月25日月曜日

セ・ラ・ヴィ

 昨日、宝塚でこの人のライブがあったので、気を良くして今日はドミニク・シャニョンのファーストアルバムです。

ドミニク・シャニョン、知っている人は知っているかと思います。NHKのテレビフランス語会話にて、2001年から昨年まで歌のコーナーを受け持っていたのがドミニクさんで、歌のうまさやら人柄のよさやらで私は結構なファンであります。CM曲の作曲などもされているということですが、けど、彼の真価はやはり歌にあるなあと思うのですね。私がこの人を知ったのが、歌のコーナー『ドミニクと歌おう!』でだったということもあるのでしょうが、しかしそれでも安定した歌唱力、豊かな量感は誰しもが認めるところであると思います。『ドミニクと歌おう!』以前に歌のコーナーを担当していたファビエンヌからドミニクに代わったときは、NHKは歌に本気だと、フランス語会話視聴者の間で囁かれたものでした。

『ドミニクと歌おう!』開始当初は、まったくもって正体がわからなくってですね、なにしろ関連情報がなく、一番ちゃんとした情報がNHK語学のテキストに収録された紹介くらいなもんでして、しかもその紹介にはパリ音楽院卒業なんて書かれていたから、私ら音楽関係者は色めき立って動揺して、まさに驚愕したのでありました。パリ音楽院といったらパリ・コンセルヴァトワール — パリ国立高等音楽院でしょうが。まさに世界屈指の音楽院で、でもなんでそんな学校を出た人が日本みたいな場末の、しかも語学番組で歌ってんの!?

まあ、その後色々情報が開示されてきたことで、ドミニクの母校はコンセルヴァトワールではないということはわかったんですが、しかしだからといってドミニクの歌、作曲の価値が損なわれるわけではありません。ベーシストで作曲もして、そしてなによりも歌手であるドミニクは、宝塚の屋外ステージで、実に素敵なライブを繰り広げて、ああやはりドミニクさんはよいわと再確認したのでした。

アルバムについて書こうかと思ったけど、どうしようもなく陳腐なのが出来上がってしまったので削除。ちょっと懐かしのフレンチポップスから、もちろんドミニクオリジナルも収録されて、ドミニクのアレンジャーとしての手腕と幅広い歌唱力をともに楽しめる好アルバムに仕上がっています。

まずはなにはなくとも聴いて、ドミニクの歌に触れて、ゆくゆくはドミニクのステージに赴くというのがよろしいのでは!

2005年4月24日日曜日

ウイルスバスター

 なんか昨日からテレビのニュースや新聞で、ウイルスバスターがどうとかこうとかで問題が出て云々、とにかくたくさん報道されてて驚いてしまいました。コンピュータが今の社会にどれほど食い込んでいるかということ、そしてコンピュータがどうにかなっても、人の力でなんとか回せていけるということ。まあ、そんな感想はさておきまして、実は私が最初に思ったことというのは、トレンドマイクロは運が悪かったなあというもの。シェアの高さがあだになったなあと思ったのでした。

確か、私の記憶が確かならば、McAfeeも以前似たようなことをやっていたはずで、ですが影響範囲がそれほど広くなかったためかさほど話題にはなりませんでした。それにこういう不具合をいうのなら、ついこないだもAppleがMac OS X 10.3.9アップデートでJAVAに不具合を生じさせたり、Microsoftだって最近ではXP SP2のリリース時に大混乱を引き起こしたりと、どこもあんまり褒められたような状況ではないと思います。

けど、今回のトレンドマイクロはその影響範囲の広さ、深刻さ(なんせCPU使用率100%だもんな)から見ても、ご愁傷様といわざるを得なく、シェアの拡大したベンダーは社会的責任の重さも背負わなければならないのだなあと、ちょっと不憫にも思ったのでした。

実をいいますとね、私の今の職場でもウイルスバスターが使われていまして、この話、他人事ではないのです。たまたま発生が土曜日だったから影響は少ないと思いますが(トレンドマイクロにとっては不幸中の幸いだったと思います)、明日職場に行けばなんらかの対処をしなければならないかもなあと思ったりして、参ったなあと思ったり思わなかったり。いずれにせよ、とんだ大ポカをしてしまったものだと、前線で働く営業各氏やその他サポートセンターなどのご苦労を思うと、ちょっと泣けてきますなあ。

私は今なお職を転々としている途中ですが、これまで職場を振り返ってみれば、ウィルス対策ソフトウェアを入れていた三職場中二職場がウイルスバスターを利用していました。

私は長くMacintoshユーザーをやっているので、ウィルス対策ソフトウェアベンダーというとSymantecを思い浮かべるのですが、けれど数年前のトレンドマイクロの戦略を思い起こせば、最大シェアを奪ったのもうなずけるように思います。

ウィルス感染の疑いがあり、けれど対策ソフトを入れていなかった! とかいう場合、トレンドマイクロのサイトに行けばActive Xを利用して、オンラインウィルス検索とかができたんですね。それどころか、ソフトウェアをダウンロードすればそのまま体験版としてフル機能を利用できて、コンビニとかに行ってもウイルスバスターが売っててとか、とにかく手っ取り早くウィルス対策をと思うと、ウイルスバスターが浮上してきたのですね。

けれど最大シェアを獲得して気の緩みでもあったんでしょうかね。しかしなにがまずいといっても、テストを充分に行わずリリースしたということに尽きるでしょう。

ウイルスバスター自体は決して悪い製品ではないと思っているのですが、それだけに残念なことであったと思います。

2005年4月23日土曜日

聖ポーリア女学園

『まんがタイムスペシャル』6月号に掲載された、高田理美の『楽楽OL24時』。テレビの音量は5の倍数と決めてるのとかボクは3の倍数とか、そんな決め方してる人がいるなんて、まったく私には信じられませんでした。だって、テレビの音量といったら偶数でしょう! 3の倍数だと、21とか出て来るんですよ。21! このおさまりの悪さ。20か24にしましょうよ。せめて22か25。5の倍数には妥協できても、3の倍数にはどうしても納得できないのであります。

そんなわけで、今日のテーマは高田理美です。私がこの人の漫画と出会ったのは、私が最初に講読しはじめた四コマ誌『まんがタイムラブリー』に連載されていた『聖ポーリア女学園』ででした。女学園ものではありますが、昨今はやりの萌えとかそういうのんじゃないですよ(いや、萌えってもうはやりじゃないよな)。ナンセンスでけったいなギャグが盛り込まれて、思わずそれで笑ってしまうという、実に四コマ誌らしい四コマだったのでありました。

けど、あんまり売れなかったのかなあ。私はこの人ののりは大好きで、もちろん『聖ポーリア女学院』は発売されたその日に買いましたし、今連載中の『楽楽OL24時』にしても毎号を楽しみに読んでいます。高田理美は、なにがいいといっても、テンション抑え目で、けれどいいところを突いてくるネタの切れ味。地味だけど面白いと思うんだけどなあ。支持する人もきっといると思うんだけど、今のはやりからちょっとはずれているとかそういう点で損をしているんじゃないかなあ、とか思っています。

『楽楽OL24時』には、毎号ではないのですが「実録シリーズ」と銘打たれた作者の日常(なの?)を取り上げたネタが収録されるんですが、私はこの「実録シリーズ」も好きで、どうも高田理美のネタは私の面白いと思うところにピンポイントで入るようなんです。ちょっとずれた言動とか、ちょっと失礼な物言いとかそういうのが高田理美の味だと思いますが、こういうギャグが面白く響くのは、裏にきっちりとした常識的な尺度があることが見えて、けれどそこからはずれているという、そのはずれっぷりの見せ方であると思うんです。はずしすぎたらただナンセンスなだけ、不条理なだけになります。けれど高田理美は、現実にうまく寄り添って、片足を常識にのっけながらそこをはずして見せる。ここがこの人の真骨頂であると思っています。

一撃必殺型ではなくて、徐々に浸透して病みつきにさせるタイプの漫画家が高田理美。ええ、この人のくすぐりめいたネタは中毒性を持っていると思います。

こっから愚痴:

しかし、私の好きだという漫画家は、なぜか単行本化されなかったり、なぜか突然連載終了したりと、不遇な目に遭うことが多くて悲しくなります。

そういえば、古い話で恐縮ですが、かつてあの国民的人気を誇ったクイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』では、私の応援する人から順に脱落していくというジンクスがありました。まるで呪いでもかけられたかのように、次々脱落していくあの様!

もしや、四コマにおいても私にかけられた呪いは健在なのか!? 私の好きな漫画家の皆様、申し訳ございません。私の呪いのせいで、私の呪いのせいで……。

  • 高田理美『聖ポーリア女学園』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2000年。

引用

  • 高田理美「楽楽OL24時」『まんがタイムスペシャル』第14巻第6号(2005年 6月号),128頁。

2005年4月22日金曜日

日本絵とき事典

  私が以前フランス語を習いに行っていたときのことです。先生(もちろんフランス人)が日本に来た当初に買ったという日本のことを書いた本を見せてもらう機会がありましてね、私は最初フランスで出ている日本本だと思っていたんですが、手にしてみてびっくり。なんとJTBが出している本ではありませんか。仏文は第11巻と12巻の二冊で、残りの巻は英文なのですが、その内容たるやかなりの労作です。日本に生まれて日本で育った私も知らないようなことがたくさん扱われていて、しかもその説明が仏語(英語)! 日本のものを欧米語で説明する難しさは、私もよくわかっているつもりではありますが、それにしても、これだけのものをよくも訳して本になるまでまとめたものだと、感心と感動でしばし眩暈を感じるほどでありました。

(画像は『仏文日本絵とき事典』)

あまりに感動したものだから、私はすぐに本屋に走りまして、洋書を扱ってる書店といえば丸善です(そう、あの京都三条の丸善です)。洋書のフロアにいってみたら、あるわあるわ、続々と出ている巻数の堂々とした様。よほど人気のあるシリーズなのだなと、またここで感心したのでした。

けど、仏文がたった二冊だったことには、ちょっとがっかりしたかな。

私が先生から借りた本には、所々に先生のされた書き込みなども見えて、それが本の内容に膨らみを与えて、私にはすごく面白かったのでした。先生のその頃の感心や、あるいは理解しづらかった日本というものを髣髴とさせて、残念ながら私の本にはそういう書き込みなんてありませんから、私の本はちょっと寂しく、無機質にちんと佇むばかりです。

これらのシリーズは、1980年代から1990年代にかけて刊行されたもので、ですので説明やイラストの端々に昭和の匂いを感じさせます。自分には懐かしくもあり、また反面、日本の前近代的な部分が今よりも色濃かったことを思い出させて、つくづくそこに住まうということは愛憎半ばさせるものであると思わせます。

私には近すぎたり思いが深すぎたりするせいで、あの淡々と事象を描出するに長けたフランス語の作文に、必要以上の情緒性を持ち込んでしまって、文章を台無しにしてしまうことしばしばなのですが、この本はなにより事象を説明することを第一に編まれていますから、そういった情緒に流れる心配がなくてよいのですね。しかし、その説明は苦労だったでしょう。

最初にもいいましたとおり、特定の文化の風物を別の文化に育まれた言語で説明するというのは、非常に困難な試みでありまして、交通機関や食べ物といった近代的システムあるいは具体的にかたちを成しているものならともかく、因習的、伝統的に育まれてきたもの、特に概念に及ぶようなものを説明するのは至難です。ところが、この本はそれに挑戦している。鬼やら天狗やらが出て来る。日本人の感情表現なんてものもある。こういう、日本語でもあらためて説明しようとすると厄介なものを、よく異国の言葉に訳したものだと、その苦労を偲び、また自分の仏作文の参考にしたりしています。

  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第1巻 A Look into Japan 文化・風俗編 東京:JTB,1984年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第2巻 Living Japanese Style 生活編 東京:JTB,1984年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第3巻 Eating in Japan 飲食編 東京:JTB,1985年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第4巻 Festivals of Japan 日本のまつり 東京:JTB,1985年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第5巻 Must-See in Kyoto 京都編 東京:JTB,1985年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第6巻 Must-See in Nikko 日光編 東京:JTB,1985年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第7巻 A Look into Tokyo 東京編 東京:JTB,1986年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第8巻 Salaryman In Japan サラリーマン編 東京:JTB,1986年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第9巻 Who's Who of Japan 人物日本史 東京:JTB,1987年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第10巻 Today's Japan 自然・社会編 東京:JTB,1987年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『仏文日本絵とき事典』第11巻 Regard sur le Japon 文化・風俗編 東京:JTB,1985年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『仏文日本絵とき事典』第12巻 Vie au Japon 生活編 東京:JTB,1987年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第13巻 Japanese Characters 漢字編 東京:JTB,1989年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第14巻 Japanese Inn and Travel 旅館編 東京:JTB,1990年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第15巻 Say It in Japanese 日本語会話編 東京:JTB,1993年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第16巻 Martial Arts and Sports in Japan 日本の武道編 東京:JTB,1993年。
  • JTB海外ガイドブック編集部『英文日本絵とき事典』第17巻 Japanese Family and Culture 日本の家族編 東京:JTB,1994年。

2005年4月21日木曜日

「私が、答えます」

  竹内久美子という動物行動学を専門にする人の本が、なんか新しく出ているみたいでして、私は買おうかどうか考えあぐねてまだ買っていません。だって、最近この人は売れっ子で、次から次へといっていいくらいに新刊が出ているんですね。読めば面白いんですよ。主に性的な行動に関してが中心ではありますが、私たち人間がついついとってしまうような行動というのが、動物の行動原理をもとにして次々解説されていくのです。もちろん人間も動物の一種ですから、こうしたアプローチは間違っていないと思うんですが、しかしそれにしても、私もついついしてしまうようなことがきっぱりと説明されて、ああなるほどそういう理屈が裏にあって、その本能的(?)な要請に基づいて私はああいう行動をとっていたのか、ということがわかるんですね。具体的にどういう行動かは申しませんが、とにかく自分のなんとなくしてしまってることにも理由があるのだということがわかって、私はこの本をはじめて読んだとき、すごく新鮮な気持ちになったのでありました。

でもまあ、新鮮な気持ちといったって、あんまりそんなに褒められたことじゃないんですけどね。むしろ、なんというか、開き直りに近い感情の方が強かったような気もします。自分がこういう行動をとってしまうのは、動物的本能に根ざす欲求があるからなんだ。自分がどうしようもないからじゃないんだ! って、こんなのばっかりで、いかに自分が駄目なやつであるかということがわかります。

けれど、どう言い繕ったって、人間は自分のうちなる欲求には抗えないようにできているんです。だから、そういう内的要請を理解した人は、うまくそいつと付き合えるようになればよし。自己の本能の力に気付いてない人を見たら、うまくその状態を利用して、本能的要求とやらが私に向かうようにしてやればよし、ってこれはちょっとあまりにあこぎすぎますね。けれど、ちょっとくらいあこぎなくらいで、人生ちょうどいいって思いますよ。それに、そもそも本能的なんてものは、うまくコントロールできないものなんです。自分の本能にしてもそうだし、他人の本能なんてのはなおさらです。だったら、ちょっとそういうずるを夢想してみるくらいのことが、いったいどれほどの罪であるというのでしょうか。

ところで、私はこの本を、以前の職場である図書館の新着図書で知ったのですが、なぜかまわりの人間人間が、こういう本をいれたのはあんただろうっていうんですね。あれ? いや、確かにこの本を入れたのは自分だったかもしれない。ちょっと、今、記憶が混濁しています。

私が疑われたのは確かこの本が入ったときで、それにこの本の時もそうだったっけ。けど、『「私が、答えます」』に関しては、書評を見て面白そうだと思って、自分でまず買ってみて実際面白かったから、図書館に入れたのかもしれない。

というわけで、疑われるには疑われるだけの理由があるということですか。 — だって、みんなにも読ませたかったんだもん。自分のうちから起こる要請に意識的であることは、大切なことであると思うんですよ。

2005年4月20日水曜日

トゥルーライズ

 カリフォルニア州知事としてご活躍のアーノルド・シュワルツネッガー主演の映画で、俳優シュワルツネッガーが大人気の頃に作られました。この頃、シュワルツネッガー映画はもはや一ジャンルを築いたといってもいいくらいに量産されていました。ファミリー・スパイ・コメディである『トゥルーライズ』もそうした映画のひとつです。

この映画は、いかにもハリウッドというのりを楽しめるなら実におすすめの作でありまして、なにがいいといっても、シュワルツネッガー演ずる諜報員ハリーと家族の間に巻き起こるどたばたが面白いんですね。

ハリーはスパイですから、自分の仕事について誰にも知られないようにする必要があるんですね。だから、家族にも秘密。普通の会社員みたいなふりをして生活をしていて、スパイとしての顔を知らない家族からは頼りない父親と思われているのです。

妻は、平凡な夫との生活に退屈して浮気を試みるし、娘は娘で父親を馬鹿にしきってるしで、けれどひょんなことからハリーの家族が事件に巻き込まれて、ハリーは今まで秘密にしてきた真実の姿を……。

てなわけで、結局のところこの映画は、私の好きな形式である秘密のヒーローストーリーの系譜にばっちりつながっていると、そういうわけなのですね。

映画の基本軸は、家族のためにお父さんがんばっちゃうよ! というものなんですが、そのがんばり方が間違ってるというのは私だけでしょうか。軍のハリアーを奪って、家族を、娘を守るために破壊のかぎりを尽くすというなかなかに無茶な展開が、頭悪くて素敵です。

実は、私は、こういう馬鹿な映画というのも好きだったりしまして、最後の最後、家族を無事助け出し、ついでに権威の回復にも成功したお父さんの感動的名場面に、ビルとか橋とか吹き飛ばしてたけど、それについてはお咎めなしかい! と突っ込み入れるのも楽しいものじゃありませんか。実際映画の中でもなんのフォローもなしに日常生活に戻ってますから、あんまりな場面にも、そういう馬鹿さ加減を楽しむというスタンスで望むのがよいのかと思います。

2005年4月19日火曜日

あの素晴らしいフォークをもう一度 — 紙ふうせんのギター弾き語り入門

 買おうかな、どうしようかな、やめようかなと迷いながら番組だけはビデオに録っていて、けれど思い切って買うことに決めました。『あの素晴らしいフォークをもう一度』は、現在NHK趣味悠々にて放送されている趣味のギター講座でして、そのタイトルからも明らかであるように、かつてのフォークムーブメントを体験した世代に向けられた番組です。講師が紙ふうせんというのもそんな感じでありますし、毎回登場して話をするゲストもそんな感じ。とりあえず番組を見た感じでは、若い世代には訴えないような気がします。

私がこのテキストを買おうかどうか迷ったのはなんでかといいますと、テキストの質としてはかなり前のNHK趣味百科時代の『アコースティックギター入門』のほうがよかったからなんですね。このときの講師は石川鷹彦と加藤和彦で、収録されている曲のバリエーションも広く、収録されたインタビューや名盤紹介も読み物として優れていました。

けど、じゃあ、なんで文句言いながらでも今回のテキストも買っちまったのさ。ええ、それは収録曲に魅力が感じられたからなんですね。

今回の収録曲は以下の通りです。

  • 友よ
  • 若者たち
  • 翼をください
  • 遠い世界に
  • あの素晴らしい愛をもう一度
  • 冬が来る前に
  • 竹田の子守歌
  • 悲しくてやりきれない
  • Puff (The Magic Dragon)
  • 紙風船

このうち、『あの素晴らしい愛をもう一度』までが番組で取り上げられるもの、『冬が来る前に』以降は参考曲とあります。

さて、ではどの曲が私にとって魅力的だったのでしょうか。

『Puff (The Magic Dragon)』だったんですね。ご存じですか、Peter, Paul & Mary。アメリカンフォークの風が全世界に広がりを持って受け入れられた時代の立役者がPPMでした。といっても、もちろん私はその時代を知りませんから、後から仕入れた知識なんですけどね。

ギターに興味を持って色々調べたりしてみれば、PPMの名はいたるところに散見されて、当時どれほど人気があったかがわかります。『雨をよごしたのは誰』 — を歌ったのはジョーン・バエズか。PPMは『虹と共に消えた恋』とか『花はどこへ行った』とかですね。そして『パフ』人気であったと聞きます。

私の手持ち楽譜にあるPPMナンバーは『虹と共に消えた恋』と『井戸端の女』で、できればその他のPPM曲の楽譜も欲しいと思っていたのですが、たまたま手にしてみたテキストに思いがけず『パフ』。あ、こりゃ買っとけみたいな感じに思ったのでした。

でも、すぐには買わなかったんですけどね。ちょっと躊躇して、迷って、というのもPPMナンバーなら、それだけでがっちり一冊の本として出版されたりもしているので、PPMに取り組みたいならそういうのを買うのが一番でしょう。

なので、私の背を押したもう一曲を紹介しますと、それが『悲しくてやりきれない』。私はこの曲が大好きで、もともとは『イムジン川』だったんだそうですね。ところが『イムジン川』が発禁の憂き目に遭って、その悲しさをもとに生み出されたのが『悲しくてやりきれない』。『イムジン川』のメロディを逆にたどってできたという逸話を以前テレビで観たことがありました。

ところで、上のようなことをいってると、残りの曲は好きじゃないのかみたいな感じに思えますが、もちろんそうじゃないんですよ。『若者たち』は子供の頃の愛唱歌でありました(コーラスやってたのさ)し、『翼をください』、『あの素晴らしい愛をもう一度』、『冬が来る前に』はちゃんと楽譜をおさえています。

そんなわけで、結局フォーク好きの私にとっては、うってつけの番組だったといえますね。そりゃテキストも買っちまうわけです。

ところで、番組の冒頭で大勢の若者が輪になって、何本ものギターを伴奏に歌う映像が流されるのですが、当時のフォークムーブメントというのは本当にすごかったんだなと、その熱気には驚かされました。当時青年だったような人は、今でもギターを手にすればそこそこ弾いたりしまして、実に侮れない世代なのでありますよ。

2005年4月18日月曜日

Macromedia Studio

 ところでこの記事を見てくれ。こいつをどう思う?

デザイン業界の雄、AdobeとMacromediaが合併するというニュースは、まさに寝耳に水といった感じで、デザイン業界、コンピュータ業界のみならず、経済方面にもおおいに驚きをもって迎えられてるようでして、正直私も面食らってしまって、なんといったらいいかわかりません。合併とはいいましたが、実際にはAdobeがMacromediaを買収したのだそうで、その額なんと三十四億ドル。うーん、正直もうなにがなんだかよくわからん。なんとコメントしたらいいのかさえもよくわかりません。

ただ私にいえることはといいますと、Macromedia Studioユーザーである私にとっては、この買収はまずいことになるかもしれないということです。もう手に馴染んで、愛着さえもあるDreamweaverを軸としたWebスイートが消滅するようなことになったら、私はどうしたらいいんでしょう。

私のDreamweaverとのつきあいは意外に長くて、Dreamweaver 3にまでさかのぼることができます。それまで使ってきたクラリスホームページがバージョンアップに伴いとんでもなく悪い出来になってしまったことから、愛想を尽かしてDreamweaverに乗り換えを計ったのでした。これが2000年のことでして、それからずっとDreamweaverを軸としたサイト運営をしています。ええ、我がこととねはあの地味さにも関わらず、Dreamweaverで制作運営されているのです。

なんか、ソフトウェアの能力を使いきっていない典型みたいなサイトではありますが、これで意外やDreamweaverの恩恵には授かっているのですよ。Dreamweaverの良い点というのは、ひとえにHTMLを勝手に書き換えないということです。私はDreamweaverを導入してから他のWeb制作アプリなぞには脇目も振らずの一筋ユーザーでしたから、他のWysiwyg系Webアプリケーションの現状についてはよくわからないのですが、2000年時点においては、そのような行儀のよさは特筆してよいほどのものだったのです。

こととねはいうまでもなくHTML 4.01 Strictによるサイトなのでありますが、これをWeb制作アプリを使って運営するというのは案外難しいのですよ。というのはですね、たいていのWeb制作アプリは、よくいえば独自の、有り体にいえばいい加減なHTML書式に基づいて、誤ったHTMLを書くからなんですが、ところがDreamweaverは実に素性のいいHTMLを生成します。もちろんへんてこなHTMLを書かせようと思えばそれも可能ですが、ですが、アプリケーションの挙動さえ理解すれば、手書きよりもずっと早く、良質のHTMLをコーディングすることが可能になるのです。

私は以前、HTMLを一日中書くような仕事をしたことがありましたが、あの時Dreamweaverがそばになかったら、どれほど非効率に時間を浪費したかわかりません。

Dreamweaverのもう一点の恩恵。そいつは、サイト管理の便利さでした。

Dreamweaverの真価は、HTMLを書いたり、デザインをどうこうしたりというようなものではないのです。まさにこのソフトの利点というのは、サイト全体をよく掌握できるというこの点です。サイトの構成構造をハンドリングし、サーバとローカルに別れた多数のファイルを同期一致させ、急な変更にもよく対応することのできるという、まさに多量のHTML(そして少しの画像)を扱うこととねのようなサイトにはうってつけのソフトであったのです。

私は今や手が勝手にHTMLを書くような状態になっていますから、HTMLコーディングに関しては、Dreamweaver必須ではないのです。よいテキストエディタがひとつあればなんとでもできるのです。ですが、千を超えるファイルを擁することとねの管理、把握となるとそうはいきません。サイトのツリー構造を、こうした管理ツール抜きで把握し、的確にアップロードを行いというのは、非常に骨になるでしょう。

まさしくこととねの毎日更新は、Dreamweaverのもたらす便利によって成り立っているといっても過言ではないのです。

Dreamweaverについてばかりいっていますが、Fireworksについても惜しい。FireworksとAdobe Photoshopを比べれば、圧倒的にPhotoshopのほうが多機能で高機能です。ですが、機能が多くて高度ならいいというものではありません。物事には、手頃なバランスというのが必要なのです。

その点、Fireworksは優れていました。少なくともイラストを描いたり、写真をレタッチするという点においては不足のあるだろうソフトではありますが、Web向けグラフィックを作成するということにかけては、必要充分機能を揃えて、実に使いやすかったのです。手頃で、使い勝手もよく、私には手放せないソフトですが、この合併(買収)で危機に瀕するのはFireworksであると思われます。

だって、Photoshopがあるんですよ。ImageReadyもありますしね。ってなわけで、一番最初に淘汰されるのはFireworksなんじゃないかしら、ってそりゃあんまりだ!

私はMac OS X 10.4 Tiger購入を決めて、もしそれで今手持ちのMacromedia Studio MXがうまく動かないようなことにでもなれば、Studio MX 2004 Upgrade from Studio MXを購入するつもりでいたんです。ところがそれがこういう状況になってしまって、ちょっと手を出しにくくなってしまいました。どう進もうにも、正式なアナウンスのない限り身動きのとれない状況です。

あしたはどっちだ!?

参考資料

2005年4月17日日曜日

Add It Up (1981-1993)

 私のCDラックは少しばかり混沌としていて、けれどこの間iTunesに手持ちのCDをすべて読み込んでみたおかげで、随分見通しがよくなったのでした。さて、その読み込み作業によって発掘されたCDがあったことは、以前にもいいましたとおりでありまして、で、そのクラシックジャンルに紛れ込んでいた非クラシックアルバムというのが『Add It Up (1981-1993)』。ジェズアルドで書いたときにはこれをメタルだなんていってましたが、おおっとこいつは思い違い。CDDBで取得したデータによると、この曲はAlternative & Punkに分類されて、ところが私このジャンルがどういうジャンルなのか全然ピンとこないときています。

発売元であるポリドールによればロックなんだそうですが、帯のあおり文句をちょっと引用しますと、

ミルウォーキーの変わり者バンド、ヴァイオレント・ファムズのベスト・アルバム。

バンド初期のアヴァンギャルドでパンキッシュな曲や彼ら得意のカントリー・ゴスペル調の曲、そしてユーモアと皮肉が込められた歌詞に熱狂的なライヴ。このアルバムでヴァイオレント・ファムズのカルト的な人気の秘密を知ろう。

だなんて書いてありましてね、なんだかものすごくマニアックなグループのようでありまして、実際これはこのアルバムを聞いてみればわかることであると思います。

なんといったらいいのか、うまさとか洗練とかを目指していないようなんです。なんか冗談みたいな感じで、気楽にやっつけみたいな感じでやってるかと思えば、なんか悪のりしてナンセンスを追求してるみたいのもあるんですが、正直私はこの人たちの音楽をつかみあぐねています。いや、だってさ、気付いたらCDラックに入っていたアルバムなんですよ。いつ買ったかどころか、なんで買ったかさえ覚えていないし、外盤なら投げ売りセールで買ったんだろうというところが、日本盤ですからなおさら入手の意図が不明です。包装ははいであったから、一度は聴いたのかも知れませんが、その聴いたという印象さえすっかり抜け落ちて、本当に聴いたんだかも疑わしい。本当に謎のアルバムなのであります。

iTunesに取り込む際、ジャケットだけ見て、多分一生聴くことはないだろう。でもまあ、せっかくだからiTunesに取り込んでおいて、シャッフルのにぎわいにでもなればいいだろうとか思っていたんですが、ああ、この私の見識違い。このバンド、かなりいかした音楽をやっていて、私はすっかりこの変わり者バンドに参ってしまったのでありました。

iTunesでのパーティーシャッフル中に、このアルバムから「ジーザス・ウォーキング・オン・ザ・ウォーター」が選ばれまして、思い掛けないのりの思い掛けない音楽におおっと思って、曲名を確認しないではおられませんでした。Jesus Walking on the Water。素晴らしい曲だと思いました。なんか悪のり調のカントリーソングみたいなよくわからん曲だったのですが、頭から聞き直してみて、これがあの偶然発掘されたアルバムであるとわかって、ちゃんとしたオーディオ装置を通して聴いて、こいつはいいぜ! と思ったのでした。

でも、正直一般うけはしない音楽だとは思う。帯にある変わり者バンドという称号は伊達ではないと思います。でも、その変わり者な感じが私にはすごくクールだったんですね。

だから、もし今この文章読んでるあんたに変わり者の自覚があるなら、是非ともおすすめだ。

引用

  • ヴァイオレント・ファムズ『Add It Up (1981-1993)』の帯 ポリドール:スラッシュ POCD-1129,CD,1993年。

2005年4月16日土曜日

経済ってそういうことだったのか会議

 テレビに竹中平蔵氏が出てしゃべっているのを見たのですが、それにしてもこの人の弁舌は平易でわかりやすいもんだから、聞いてると、そうなんだぁと素直に心服してしまって、すっかりその気になってしまうのでした。基本的に私は悲観論者なので、数年前から声高に叫ばれている経済回復だとか構造改革だとかがとんとん拍子にうまくいくとは思っていないんですが、そんな私でも、平蔵氏のいうとおりにしてみたら、経済もよくなるんじゃないかなあと思ったりして。そんな風に、これからもしかしたらもあるんじゃないかと期待させてしまう前向きさが氏の言葉には感じられます。

私が竹中平蔵の説明上手を知ったのは、たまたま本屋で平積みにされてるのを見付けて買ってきた『経済ってそういうことだったのか会議』によってでした。この本は、だんご三兄弟とかポリンキー、ゲームでいえば『I.Q.』で知られる佐藤雅彦との対談によって成り立っていまして、そのテーマというのは書名にもあるとおり経済。私は、この本を手にする前まで、どうにも経済というのはわかりにくく、取っつきにくいものだと思って敬遠していた節があったのですが、でもこの本は私の経済に対する固定観念をぶち壊してくれたのでした。

平蔵氏の説明がわかりやすいというのは、経済を大きな活動から見るのではなくて、私たちの身近にあるようものを題材にするからなんですね。まずわかりやすい例を挙げる。そして、実はそうしたことが今私たちの話している経済なんですよと種明かしする。佐藤氏がそこに問いをはさむことで、平蔵氏の解きほぐしはさらに先に進む。そのまとめは平蔵氏であったり佐藤氏であったり、また言葉によってではなく一コマ漫画で表現されていたりもして、とにかくなるほどそうだったのかと思います。

この本を読んでみたかぎりでは、平蔵氏はわかりやすさというものを重視しているのだと思います。説明のわかりやすさということもありますが、それ以上に経済活動のわかりやすさ、税制やなにかといったそういうシステムのわかりやすさ、見通しのよさがないと駄目なのだと、そういう考えがあるのだと思います。

実際の話として、世の中にあるものはそれでも結構複雑で、簡単にはしきれないところもあると思います。けれど、長年の建て増し修繕がたたって迷路みたいになっているところは、ここいらで刷新しないといけないと思うのです。完全に新品に、それこそ建て替えするみたいにはいかないと思いますが、それでも見通しをよくする努力を怠ってはならんのだろうなと思います。もちろんこれは、国家経済というレベルの話だけでなく、ひとりひとりの生活に根ざした経済においても同じことだと思います。

2005年4月15日金曜日

失踪日記

 以前、イタリアに行ったときに『女王陛下のプティアンジェ』を思いがけず見ることができて、ほんとにラッキー。けれど私は『プティアンジェ』を見た覚えがないというのにそのアニメが『プティアンジェ』だとわかったのはなぜなんだろう、てなことをいってました。ええ、なんてことはないのです。吾妻ひでおという漫画家がいらっしゃいますが、この人は大の『プティアンジェ』好きだったそうでして、そして私は吾妻ひでおを嫌いではない。ええ、きっとあの時『アンジェ』を『アンジェ』とわかったのは、私が吾妻ひでおの記憶を通してテレビを見たからだと思います。

いや、なんか電波っぽい話だけどそうじゃなくて、確か『ななこSOS』に、アンジェの人形が出てきたという覚えがあるんです。てなわけで、手元にある『ななこSOS』をざあっと見直してみたのですが、ちょっとそのコマというのを見付けることができませんでした。勘違いなのかな。確かにこの漫画に出てたと思うんですが、もしご存じの方がいらっしゃったらご一報くださると幸いです。

さて、その吾妻ひでお氏。私、何年か前に、この人失踪して行方知れずらしいよなんて噂を聞いたことがありまして、なにしろ噂でありますから真に受けたりはしなかったのですが、それでも気にはなっていたんですね。噂といえば、私の好きだった歌手が電車に飛び込んで自殺したという噂もあったりして、けれどその人は今もお元気にいらっしゃいます。だから吾妻氏に関しても、ちょっとしたことに尾ひれがついて広まったか、あるいは悪意を持って捏造されたか、そんなのだと思っていたのですね。

ところが、私の見立ては大間違いでして、実際に氏は失踪されていたとのこと。新聞の書評だったかで氏の『失踪日記』が取り上げられて、私は失踪の事実を知ったのでした。ちょっと愕然とするような気持ちでした。

失踪中のことごとを氏独特のやわらかく可愛らしいタッチでつづったのがこの『失踪日記』でありますが、こうした自分語りの不幸話というのは往々につらいものになりがちで、なにがつらいといっても見ているこちらがつらいんです。ああ、あの人がこんなことになってたのかと思うつらさ、それほどまでに追い詰められたことに同情したり、その出来事をまた明け透けにしなければならないことへの痛ましさったら— 、とまあ、きっとそんなことになるだろうと思って、私はこの本のことを記憶の片隅に置いておくにとどめて、あえて読むのはやめておきたいと思ったのでした。

けれど、行きつけの本屋に二列の平積みに並べられていたのを見付けてしまいまして、しかも立ち読み防止のシュリンクがありません。私はこのオレンジの表紙の持つ暖かさにふらふら引き寄せられて、頭の中では読むな読むな触るなといっているのですが、けれど誘惑には抗えず手にしてしまっていたのですね。

他人の悲しい過去を覗き見するなんてと思ったのか、けれど読んでみれば思っていたような感じではなかったのです。陰惨さがなかった。悲しさやつらさは確かにあるのだけれど、自虐はなかった。むしろ晴れ晴れとした明るさがあって、それは泣き笑いの明るさで、しかもべらぼうに面白い。私は立ち読みのままどんどん読み進んで、半分まで読んだ時点で買うことに決めました。この本は、どうしても手元に置かなければならない本だと思ったからです。

私は、吾妻氏の失踪中のことや入院中のことをこの本で知って、人の一生には色々あるということ、喜びや悲しさがないまぜになっていること、立ち直っては転び、転んでは立ち直りを繰り返す人がいることに思いを馳せたのです。普通の人は、何度も同じことを繰り返す人に、学ばないやつだとかどうしようもないやつだとか、そういう風に思うのかも知れません。けれど私は、自分自身がそういう人間だと知ってるから、あぶないところでふらふらしながら、まわりの人たちのおかげでまだこちら側に残っていられるということをわかっているから、吾妻氏のことは他人事とは思えないのです。

明日は自分の番かも知れないと思っています。吾妻氏の、特にアルコールにおぼれたときの描写なんかは、身につまされました。私は酒はあぶないと思って近づかないでいるのですが、けれど似たような依存に落ち込んだことがあって、だから、うまくは言葉にできないのですが、なんかその依存していることを振り返ってること、それから依存しているときの気持ちがなんだか伝わるんです。依存している人は、自分の依存状況に気付いてないわけじゃないんです。あぶないあぶないと思いながら、けれどまだ大丈夫、自分はまだ大丈夫と思いながら、そのぎりぎりの線上をさまよってる。私の依存は半年程度で軽減して、今はその依存からは大丈夫なのですが、けれどアルコールという精神依存だけではすまないものにつかまってしまわれたこと、大変だったと思います。

けれど、私はこうして吾妻氏が戻ってきてくれたことを、心から喜んでいます。多分、私と同じように思っている人は多いんじゃないでしょうか。吾妻さんのことを他人事みたいに思えず、私みたくへんてこな共感をもってなんか泣き笑いの気持ちになっている人も多いんじゃないでしょうか。

そういう人たちは、きっと吾妻さんを愛していると思います。吾妻さんは多くの人に愛されているのだと思います。だから、長くお元気でいてくださると嬉しいなと思うのです。

  • 吾妻ひでお『失踪日記』東京:イースト・プレス,2005年。

2005年4月14日木曜日

モーニン!

 集英社の女性向け漫画誌You。明日発売の2005年5月1日号をもって、『モーニン!』が最終回を迎えました。『モーニン!』というのは葬儀屋を舞台として繰り広げられる女の子の成長物語で、実は私、この漫画が始まったとき、なんていやな漫画だろうと思ったのでした。あからさまに駄目な子として描かれた主人公戎富久子の造形もいやなら、やたらもの分かりよすぎるストーリーの展開、そして浅さ。人の死という、ある種センセーショナルな題材を扱って、それをしっかりと受け止める力のない漫画でした。予想されたとおりに物語が進行していく。頭っから終わりまで鉄の規律に縛られて身動きとれないような、硬直した漫画でした。

けれど、それでも読んでいるうちに、私はこの漫画を嫌いじゃなくなっていったのですね。

私に嫌悪感を引き起こさせた要素というのは、最終回にいたるまで消えることなくつきまとっていて、結局それは漫画としての読ませる力の欠如であったと思うのです。実は、こうした求心力のなさは今のYou全体から感じられて、ええ、確かに次回を楽しみにさせるような漫画もあるにはあるのですが、それ以上に読むのやめようかなと思わせる漫画のほうが多いです。私の好みが変わった、あるいは今Youが捉えたいと思っている読者層から私がはずれたというだけの話であるとは思いますが、その、もう自分にはYouは駄目かもと思わせた漫画のうちにこの漫画は含まれていたのでした。

けれど、連載の途中からこの漫画に向ける私の目は明らかに変化してきて、読み飛ばすには惜しい漫画だと思うようになっていたんですね。それは多分、当初あまりにも甘すぎた富久子が、甘すぎた漫画の雰囲気が、だんだんと考えて自ら動こうとするかに変わったためであったと思います。

浅いには浅いなりに、それでもだんだんと複雑さを持ってきて、例えそれがありきたりの、読み終える前に既に結末の用意されてしまっているようなものであったとしても、そうした固さと漫画自体の持っている腰の弱さとが面白くバランスをとって、私には嫌いになれない漫画になりました —

私の、この漫画に対する好悪の移り変わりは、結局は最終話のテーマに同じであったのだと思います。この漫画の甘さというのは、ハートフルであることにつきます。べたべたのハートフルで始まった漫画は、結局そのハートフルをどこかに残したまま、ハートフルだけでは駄目なのだと説明して終わった。その矛盾した危うさが、私の心に触れたのだろうと思っています。

ええ、一般の人には読んでみたらと勧められても、漫画読みには決して勧められない漫画で、けれど私にはどこかほっとさせて、どこか嫌いになれないという、微妙な温度を感じさせるという、不思議な漫画になりました。このことだけでも、今までYouを講読してきた意味はあったと思います。

  • 川富士立夏,黒沢明世『モーニン!』(クイーンズコミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 以下続刊

蛇足:

富久子は音大卒という設定です。音大出の甘いお子ちゃまが葬儀の現場で揉まれるうちに成長する。第一話を読んで、ああ、ありきたりな話、と思いながらも、実はそんな富久子の駄目さ加減は意外にリアルであるかもなあと思ったりもしたのでした。

もちろん、音大出ててもしっかりしてばりばりと仕事をこなすような人もいますよ。でも、連載開始当初の富久子みたいなのも、間違いなくいます。ええ、間違いなくいます。

2005年4月13日水曜日

スプリガン

  桜のよい季節がやってきましたので、ちょいと桜にまつわるタイトルを取り上げたいと思います。というわけで『スプリガン』。世界各地に眠る古代遺跡を守る特殊エージェント、スプリガンの活躍を描く冒険活劇で、私が『ARMS』面白いねっていったら、『スプリガン』もおすすめですよ! って貸してもらえたのでした。

面白かったかって? ええ、もう抜群に面白かったですよ。『ARMS』ほど重いテーマは扱わないので、楽しんで読めます。人はやっぱりいっぱい死んだりしますが、それでも『ARMS』みたいな救われない感じはありません。安心して読めるよい漫画でありましたよ。

今回の目録を作成するために調べてみて知ったのですが、めちゃくちゃ種類が多いですね。一番最初に刊行された大判コミックに、愛蔵版といっていいのでしょうか、A5版のコミック。コンビニ展開されたと思しいシリーズ、そして現在刊行中のMy First WIDEとかいうやつ。うーむ、なんというべきなんでしょうか。それだけ人気があるとして喜んでよいのか、それとも小学館やりすぎとつっこんでみるところなのか。正直、少々迷うところです。

私が持ってるのは、愛蔵版みたいにしてリリースされたA5版のShonen sunday booksなのですが、今から買うのならこれがいいんじゃないかと思います。第一巻には第0話とでもいったらいいのか、主人公御神苗優の日本における初ミッション話が収録されていて、これって書き下ろしなんでしょうかね。それでもって、最終第八巻には連載終了後に二号連続読み切り(変な表現?)で発表された御神苗優のその後話が収録されています。

けれど、それを差し置いてもおすすめできる理由がありまして、それは紙がいいんです。白色度が高く、全然日に焼けない。これは大変なことですよ。最近の漫画は紙でコストを落としているのか、気がつくと茶色く焼けて、日陰に置くよう心がけてもそれでも焼けて、がっかりすることが多いんですが、このシリーズに関してはそれがない。ええ、長年手元に置きたい人は、ちょっとくらい高くっても、この版を揃えることをおすすめします。

私がこの漫画を好きなのは、主人公御神苗が秘密のヒーローをやってるところに魅かれてのことなんですね。世界に名を知られる凄腕エージェントでありながらも、普段はそんな顔を隠してましてね、普通の高校生をやっていたりするんです。そのギャップ、そして事件に関わった人間だけが御神苗の正体を知っているというその秘密の共有感がたまりませんでした。

あの御神苗優が実は! というのは第一話の山菱理恵教授(私にとっての主たるヒロインですな)話からありましたが、その感覚が加速するのは第二話の初穂・香穂姉妹編からですね。普段のおちゃらけた学生としての御神苗しか知らなかった二人が、御神苗の真実の顔をかいま見るわけです。駄目だとばかり思ってたこの人が! というしてやったり感。そして御神苗の心からの願いを知ったふたりが、御神苗を支えるよき理解者になっていくというプロセス。ええ、この話は、『スプリガン』というシリーズを通して理解するには欠かせない話であります。この話があってはじめて、超人御神苗優の大切にする世界と、それをともに守ろうとする人の思いが鮮烈に表れるのではないかと私は思っているのですから。

私が一番好きな話は、御神苗が修学旅行で京都に来るという真田柊編。一般には「修学旅行」というタイトルで知られています。

この話は前後編と短く、また敵もあんまり巨大ではなく、伴って壮大さも期待できないという、どちらかといえば箸休めみたいな趣がある小編なのですが、ですがその小編がすごくぐっとくるんですね。

他の、国家レベルでの遺跡争奪戦に巻き込まれたり、巨大軍需産業との対決があったりする話とは違う、また違う彩りが嬉しいんです。修学旅行中に起こる事件だから、出て来る人たちというのは御神苗のクラスメートというわけで、御神苗が秘密にしていることがばれそうになる。それどころか、御神苗の日常が脅かされてしまう。そこで御神苗が陰に回って活躍するという秘密のヒーロー的性質が表れてくるんですが、私がこの話を好きという理由はこれだけではありません。私がこの話を特に好きというのは — 、御神苗のささやかな願いというのが一番よく出ているから、御神苗に近くある人たちが御神苗をどれほど大切に思っているかというのがよくわかるから、なんですね。ええ、すごくいい話ですよ。読むと、私、泣けてきます。

しかしこんだけしゃべって、染井芳乃に一言も触れてないとはどういう料簡でしょうか。

染井芳乃、もちろん大好きですよ。無茶をする強いヒロインは大好物です。

  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第1巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1991年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第2巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1991年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第3巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1992年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第4巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1993年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第5巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1993年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第6巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1994年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第7巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1994年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第8巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1995年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第9巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1995年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第10巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1996年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第11巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,1996年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第1巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2001年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第2巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2001年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第3巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2001年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第4巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2001年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第5巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2001年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第6巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2002年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第7巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2002年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第8巻 (Shonen sunday books) 東京:小学館,2002年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第1巻 (My First WIDE) 東京:小学館,2005年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第2巻 (My First WIDE) 東京:小学館,2005年。
  • たかしげ宙,皆川亮二『スプリガン』第3巻 (My First WIDE) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2005年4月12日火曜日

Macromedia Flash

 Flashはもともとは、Futurewave Softwareという会社が出したペイントソフトライクのドローソフトで、名前もSmart Skechと全然違うものでした。1996年くらいのことです。

私はその頃からすでに絵を描きたいという気持ちがありまして、でもどうもペイントソフトには向いていないという苦手意識もありました。クラリスワークスのペイントとドローを使ってみて、自分はドロー向けの人間だなと思っていたのです。なので、ペイントソフトのように描いて消しゴムで消してという荒技の使えるSmart Skechには興味津々。なにしろ、ペイントの味わいを残しながら、ドローのオブジェクト配置の便利も得られるという、おいしいとこどりのソフトです。実際、驚異のドローソフトといわれ、一部に熱狂的なファンを生み出しました。

このソフトの体験版が、当時講読していたMACLIFEという雑誌に収録されたんですね。体験してみて、驚きました。すごくいい感じに描ける! ああ、このソフト欲しいなあと思ったものでした。

けれど、いつも私はそうなのですが、決断せずあとであとでと先送りにしていたら、Macromediaに買収されてしまいまして、名前もFlashに変わってしまいました。Flashは、今ではWebで最も用いられるアニメーションツールとして知られていますが、もともとはお絵描き用のソフトだったんです。いや、Smart Skech時代から、将来はアニメーションに対応すると案内されていたのですけどね。

私がFlashを買ったのは2000年でした。当時はまだバージョン5で、値段は39,800円。そう考えると、現在の60,900円という値段は随分高く感じますね。2000年当時はFlashの拡大を狙って戦略的価格で販売されていたのかも知れません。そういえば、あの頃のDreamweaverも安かった(これは実際に戦略価格でした)。その後米国と同価格に戻されて、あらためてこれらの製品がプロ仕様で、アマチュアは相手にしていないのだと思い知りました。ええ、高いんですよ。ちょっと買おうかという気にならないくらい高いんです。あまりに高いから、私はStudio MX以降のバージョンアップを見送っています。

Flashは、私が購入した頃にはまだ充実したコンテンツもなくて、アマチュアが面白がって研究しながら作っているという雰囲気もあって、そうしたゆったりした感じが好きでした。Macromediaのニュースグループにも入って情報蒐集して、なんか、色々できそうだというそういう可能性みたいのが感じられて、それだけでわくわくしたものでした。

けど、じきにすぐ優れたクリエーターが育ちましてね、ああ、私は見てるだけでいいかもって思うようになりましてね、ええ、これが私の駄目なところです。下手なら下手なりに、横好きで描いたり動かしたりしてたらよかったんですよ。けれど、結局買って研究しただけで満足したみたいになって、なにも作らないままになってしまったのでした。

実をいいますと、その後Studio MXを買ってましてね、StudioはWeb関連の総合スイートですから、当然Flashも入っています。

ということは、Flash 5はただインストールするためだけに買ったということか!

もったいなくて罰があたりそうです。

2005年4月11日月曜日

WACOM Intuos

 私は、特にがっちり絵を描くような口でもないのに、ペンタブレットなんか持っていたりするんです。さすがに買ったのは大分前だから、最新のモデルなんてことはありませんが、それでもA5サイズと張り込んで、いやはや使っていないのがもったいないという話であります。

しかし、ほとんど使っていないタブレットですが、このところチャレンジしてる絵の試みなんかでは大活躍してくれているんですよ。画像をスキャナで取り込むでしょ。そいつをレタッチしたりするときに、ものすごく重宝するんです。例えば投げ縄ツール。マウスでやっていたときは、どうしてもぎざぎざのがたがたにしかならなかったのが、さすがにペンだけあってすいすい、すごくきれいに囲めるんです。やっぱり画像を扱うなら、マウスじゃなくてタブレットだと思い知りましたよ。

私の持っているタブレットはWACOMの初代Intuosでして、i600 USBでした。先ほどもいいましたようにA5サイズで、USB接続のタイプです。

この頃のIntuosに標準で付いてくるのは、本体、CD-ROMを除けばペンが一本、そしてペンスタンドくらいのものだったのですが、今はマウスまで付いてくるんですね。マウスは通常のものを併用すればいいだけの話ですからなくても別に構わないのですが、やっぱりUSBポートが占有されることを考えれば、タブレット上で使用できる専用品があったほうが便利かなあと思います。

Intuosの仕様を改めて振り返ってみれば、筆圧感知が1024レベル、傾き検出が±64レベルと、Intuos3と比べても遜色ないレベルで仕上がっていたんですね。けれどIntuos3にはIntuosにはなかったエクスプレスパッドが装備されています。この違いはかなり大きいんじゃないかと思います。

Intuos3の写真を見ると、Intuosにはあったタブレット上部のファンクションがなくなっています。ファンクションという言い方が正しいのか知りませんが、Intuosには、タブレット入力エリアのすぐ上にカットやペースト、保存や新規作成などの基本的なコマンドを発行するための領域が用意されていたんですね。ペン先で升目に触れると、それぞれの升目に割り当てられた機能が実行されますが、ところがこれは便利な反面、不便でもあったのです。

不便、 — 誤って機能を発動させてしまうことがあるんですね。タブレットを使うときって、たいてい目は画面を見て、タブレットを見るようなことってほとんどありません。なので、勢い余って行き過ぎたペン先がファンクションを発動させてしまうことがある。もちろん、タブレットの操作に慣れればそういうことはなくなりますよ。けれど、タブレットの平面上に印刷された升目をペン先で触れるのですから、使い勝手としてはあんまり褒められたものではありません。目視しなければ使えない、画面から目を離さなければならない。対して、エクスプレスパッドは目を画面に置いたまま使えるように工夫されています。こういう、細かな点での操作性の向上というのは、評価できるところであると思います。

けど、私の場合は使い勝手をどうこういうよりも、まずもっと使ってやらないといけないと思います。だって、もったいない。せっかくの道具なのですから、もっと使う機会を増やしてやらないといけないと思います。

がんばりますか。

スターターパック

A4サイズ

A5サイズ

A6サイズ

2005年4月10日日曜日

勇気のしるし

世の中には、春になって太ったという人もいるというのに、私はというと痩せてしまいまして、この間からどうもしんどい、頑張りが利かないと思っていたんですが、てきめん。体重が落ちていたのでした。

参ったなあ、正直なところもともとウェイトのあるほうではない私ですから、ちょっとの体重の減がもろに健康、頑張り、気魄に影響してしまうんですね。普段は気力でなんとかカバーしているのですが、気力にも限度があります。

そんなわけで、この最近はどうもやることなすこと中途半端で駄目ですね。

頑張りが利かないときに頑張りを利かせるといえば、栄養ドリンクというんでしょうか、そういうのを愛飲する人も多いようですね。けど、もともと不信心の私ですからこういうドリンク剤のこともどこか信用してなくて、おそらくはそのせいで私にはあんまりドリンク剤の効果が出なかったりします。養命酒とかも一時期飲んでたけれど、あれも目立った効果はなかった気がします。ま、もともと養命酒は目立った効果が出るようなものじゃないですが、しかし目立った効果を得るのが目的のはずのドリンク剤がいまいちとは、それも困ったことではありませんか。

ドリンク剤といえば、モカとかユンケルが有名ですが、同様に知られるのがリゲインですね。リゲインといえば、私らくらいの年代のものには昔のCMソングが覚えにあって、その名も『勇気のしるし』。歌うは若かりし時任三郎、牛若丸三郎太と名乗っていたのでありました。

この曲、目茶苦茶ヒットしましてね、リゲイン公式サイトの情報によれば、六十万枚を売ったそうです。そのうちの一枚がうちにもあるんです。当時吹奏楽をやっていた私は、演奏会のアンコールでこの曲をやることに決まったもんだからシングルを買いまして、今もちゃんと残っています。すっかり忘れていたのですが、この間のiTunesに手持ちのCDを取り込んでいるとき、最後の最後に発掘されたのでありました。

この当時のリゲインのキャッチコピーというのが「24時間闘えますか」というもので、『勇気のしるし』にもこのフレーズがじゃんじゃん出てきて、日本のビジネスマンが昼夜を問わず仕事に打ち込んだ、じゃんじゃん仕事があって、じゃんじゃんお金が回った、そういう時代の空気をにおわせる歌であります。ちょうどその頃くらいにカラオケボックスが流行しだして、私らも学校帰りとかによって、当然流行っていたこの曲も歌って、懐かしいやらなんだかよくわからないやら。そういう時代があったのは、もはや夢のような気がします。

やりたいことがいっぱいあって、時間がいくらあっても足りないと思うような私には、この「24時間闘えますか」というのはある意味理想的だなあと思います。できることなら24時間闘いたい。けれど体力がそれを許しません。

ただでさえ短い一日を、寝過ごしたりなんかしてさらに縮めて、やりたいこともこなせずに夜は更けていきます。

ああ、残念ですね。残念ですね。けれど、24時間闘わないといけないというのも酷な話で、それこそ非人間的です。あの狂乱の時代に戻りたいとはついぞ思えず、けれど24時間闘えるキャパシティは欲しいものだと、非人間的な活力を夢見たりするのでありました。

  • 勇気のしるし — リゲインのテーマ

2005年4月9日土曜日

季節を抱きしめて

 ふと思い出したようにやるドラ。最初は私のはじめてプレイした『サンパギータ』にしようかと思ったのですが、よくよく考えたらこれは秋のドラマでありました。プレイステーションでリリースされた初期やるドラ四部作は、記憶喪失のヒロインと出会った主人公というシチュエーションを共有する、四季のドラマであったのです。秋のドラマが最初にいいました『サンパギータ』、冬が私の最も好きな『雪割りの花』、夏が『ダブルキャスト』、そして春は桜の樹の下で出会ったヒロインとの物語『季節を抱きしめて』。記憶喪失という同一のモチーフを扱いながらも、それぞれがそれぞれの面白さ、よさを持っていて、私はとにかくこのやるドラというシリーズが大好きでした。

プレイステーションという、今振り返ってもスペックが潤沢とはいえないハードで、よくここまでやったものだという実現性の高さがすごかったのです。繰り返しとかの技法を多用して、ゲームマシンでフルボイスのアニメーション(『ダブルキャスト』、『季節を抱きしめて』は除く。この二作は、主人公がしゃべらないのだ)を実現していたのですから、よほどの努力や工夫があったのだろうと偲ばれます。それに企画もよかったのだと思います。選択肢によって展開が変わるドラマという、決して簡単には実現できないものを、あのプレステで作ったのです。CD-ROM二枚組という容量の制限もありながら、あそこまでの良質なものをリリースしたのですから、ただそれだけでも評価に値するシリーズでありました。

以前、『スラインディング・ドア』という映画で書いたときにも触れましたけれど、昔、科学博覧会で見た映画 — 観客の投票でドラマの展開が変わっていくという映画を、まさに自宅で楽しむことができる。私はあの時の映画のそういう仕掛けが面白くってしかたがなくって、けれど色々展開を試してみることができなくて欲求不満に思っていたりもしたもんだから、やるドラには飛びつきました。『サンパギータ』を皮切りに全作買って、CDも集めてファンディスクも買って、ああ、すまんね、私はものに執着するマニアだから、集めちゃったんですよ。

やるドラファンの中では、『季節を抱きしめて』が最もゲームらしく評価できるタイトルであるとされています。三人のヒロイン、記憶喪失の少女麻由と予備校時代から付き合いはじめたトモコ、そして隣に住む綺麗なお姉さんそれぞれとのハッピーエンドが用意されているところなど、実にそのころはやりのギャルゲーを髣髴とさせるではありませんか。ええ、こういう攻略対象が明示されるところなど、最もゲームらしく楽しめるのが『季節を抱きしめて』でありました。

やるドラにはグッド、ノーマル、バッドの三種に分類される複数のエンディングがありまして、クリアしたエンディングが一覧できるようになっているものだから、なんだか全エンディングを見ようとむきになってプレイしましてね、さらには見たシーンがパーセンテージで表示されるから、それも100%になるまでがんばったりして、けど残念ながら、私はどれも100%に達することなく終えました。100%になったからといってとりわけいいことってないんですけどね。全部のシーンを見た、すべてのルートをたどったという満足感と、100%達成おめでとうのグラフィックを見ることができる。ゲームを楽しむということに関しては、むしろ邪魔になるのがあの達成率表示なんではないだろうかと私は思っていました。

達成率を上げるためのプレイというのは、もはやゲームを楽しむというよりも、ルーチンワークでしかないんですね。そんなのあらためていうまでもない自明のことなのですが、既視のシーンをスキップしながら攻略チャートを横目にチェックして、まだ見ぬ選択肢の組み合わせを試すわけです。最初こそは二桁台で推移する達成率も、終盤には小数点二桁の変化にとどまるようになりまして、そうなればもうしらみつぶしといったほうがいい。極々わずかの違いを求めてプレイするんですが、こうなればもう面白くない。達成率100%を目指すことで、ゲームの主眼が質から量に移ってしまうんです。ええ、このことに気付いてから、達成率100%を目指すのはやめよう。量ではなく質を楽しもうと思うようにしたのですね。

いや、数値として達成率が出てしまうと、気になるのは確かなんですけどね。

私、思うんですが、自分の見たシーンを自由に組み合わせて、ドラマを自分で演出できるようなモードがあったら面白かったろうなと思うんです。シーケンスを記録したデータをメモリカードに保存して、友人と交換しあったりできたらきっと面白いし、達成率を上げるまた違う目的、魅力もあったんじゃないかと思います。

実現するのは簡単じゃないのかも知れませんが、クリアデータをリプレイ再生して、ドラマを通して鑑賞できるようになっていたのだから、こういうのも決して不可能じゃないと思うんです。オフィシャルなストーリーをよりドラマティックに盛り上げるのもいいし、脱線してまったく違う筋を作っても面白い。ちょっとした映像編集の楽しみみたいなのを、やるドラでできたんじゃないかと思っていたのでした。

やるドラはPS2でもリリースされたのですが、こうした魅力的な要素が追加されることはなく、むしろスペックに頼った派手な演出が目立つだけの楽しめないものになっていました。買うには買いましたが、あまり長く楽しもうというものではありませんでした。できることが増えるということが面白さに直結するわけではないと、あらためて学んだ気がします。そんなわけで、私には初期やるドラで充分なのです。

今度、PSP用に、この初期やるドラがリリースされるみたいですね。調べてみれば、追加されるのは設定画やCGギャラリー、あとはエンディングギャラリーといったところですか。

私にはプレイステーション用で充分な気がします。正直、このためにPSPを買おうという気にはなれないと思います。

CD

2005年4月8日金曜日

魔法使いの開発工房

  以前の職場に新しいコンピュータが導入されたとき、マイクロソフト社のリレーショナル・データベースソフトMS Accessも一緒にやってきたのでした。私はそれ以前からデータベースソフトはさわっていたのですが、なにしろそれらはカード型データベースであって、はじめてのリレーショナル・データベースは極めて敷居の高いものと感じられました。そもそも、概念がわからなかったんですね。

そんなとき、ともにAccessに取り組んでいた同僚が『魔法使いの開発工房』というサイトを見付けてきてくれたのでした。私はこのサイトを見ながらAccessというソフトがどういう考え方のもとに成り立っているソフトであるかを学習して、今はAccessを用いたデータベース作成をなりわいとしています。

Accessを使えるかどうかは、リレーショナル・データベースというのがどういうものであるかを理解できるかどうかにかかっているといっていいでしょう。WordやExcelのようにデータと視覚表現が混ざり合っているアプリケーションとは違い、データはテーブルに保存され、それらをクエリでハンドリングする。けれどいちいちSQLを書くのも骨だから、使いやすいようフォームでもってインターフェイスを工夫し、印刷時にはレポートを使う。

こういう、データとその他のものがくっきりと線引きされているAccessに馴染んでしまえば、WordやExcelみたいなのは、なんだか不潔に感じられてしまいます。データと非データは分離しとけよ。再利用しにくくて仕方がないじゃんかよ、と文句のひとつもいいたくなる(いや、実際いってます)。とりわけExcelには我慢ができない。なんだ、あのセルの結合ってやつは。なんで文書タイトルやらそういう非データをデータ記述部であるはずのシートにがんがん書き込まれにゃならんのだ。そもそも、あのデータ型のいい加減なところ。CSVを読み込んだら、テキスト型で保持しているデータを勝手に数値型に変換される。わざわざアポストロフィで括ってるのに、数値型にされる。まったくもって不潔ですわー! という感じで、私はExcelは大っ嫌いです。

なんか話がそれましたね。今回はそんなことをいいたいんじゃなくて、Accessというのはちゃんと使えば、データの再利用にも便利だし、データを集めて検索するだけじゃなくて、集計したり統計とったりといろいろに活用できるってことです。

なので、Accessを学びたいという人にはニキータさんの『魔法使いの開発工房』を訪れてみるようおすすめしています。なによりわかりやすいところがいい。リレーショナル・データベースというのがどういうものであるか、色々例を出して、実際にデータベースを作りながら、理解できるように工夫されています。私はこのサイトを読むたびに驚くのですが、市販のどの本と比べてみても『魔法使いの開発工房』のほうがわかりやすいのですよ。特に「漕げよマイケル」。これ見て、それでもAccessというのがどういうソフトかピンとこないという人は、正直リレーショナル・データベースには向いてないからあきらめたほうがよいと思います。そういいきっていいくらい、リレーショナル・データベースをわかりやすく伝えるための努力があふれているコーナーであります。

ソシムから出ている二冊の本は、『魔法使いの開発工房』のサイトオーナーであるニキータさんの出版された本です。サイトで解説されている内容からもう一歩を求めるならきっと役立つのではないかと思います。

2005年4月7日木曜日

それから

 友人と待ち合わせをしたのですが、私の時間の指定のミスからすれ違ってしまって会えず。せっかく職場まで来てくれたというのに、私は席をはずしていたんですね。無駄足を踏ませてしまって、本当に申し訳ないことをしました。

携帯電話があれば便利だといわれましたが、確かに携帯電話の利便性はいたく実感しているのですが、でもこれは私のペースに合わないんです。それ以前に、何時いついつどこどこでというのからが合わないんです。私にはもっと緩やかなほうがいい。端書でも出していついつお伺いしたく存じおり候。返事をもらうまでもなく訪って、留守なら留守で仕方がない。本日は残念でしたとでも書き置きして、実際私の訪問はこんな風で、だから無駄足ばっかり踏んでいます。

(画像は岩波文庫版『それから』)

漱石なんかを読んでみるとわかるのですが、明治には私がするみたいな訪問の仕方が普通でありました。明治どころか、昭和であってもこういうのは普通だったようで、今みたいにかっちり時間を取り付けず、さらにはまったく約束もなしに訪れたりもしたそうで、さすがに知らない相手を訪ねる場合は紹介を取り付けたりもしましたが、あるいはそれさえもしないこともあったようです。川端、三島の往復書簡を見れば、そういうやりとりの実際例を見付けることができるでしょう。

私には、どうもこうした前時代の時間の流れのほうが心地よいらしく、悪いことに現代の流れにあわそうだなんて思っていないようでもあるから、今日のことみたく人に迷惑ばかりかけております。

『それから』は、高校三年の国語の教科書に載っていて、私は不真面目だから教師の話なんて聞かず、教科書を好き勝手に読み散らかして、年度の後半には読むものがないから図書室で借りた本を読んでるような生徒でありました。けれど、『それから』は何度も読んでいました。繰り返し読んで、自分の身につまされるような、なにか胸が締めつけられるような —。

女の名が問題だったのです。代助が学生時分に恋しながらも自分の思いに気付かず、友人平岡の妻にと推した女。その女の名が、当時自分に関わりのあった女に同じ — 字まで同じ — であったのです。

当時の私は、間違いなくその娘のことを好いていたのだと思います。私はクラスにおいてもどこにおいても問題児で、けれどその娘とはどこか共有する感覚みたいなものがあって、それゆえ親身に話したのだと思います。一時は明け方まで電話で話して、ふたりは理解しあったかのように思ったのですが、私が全部ぶち壊しにしてしまった。後にその娘の友人から、私のことを見損なったようなことを聴かされて、覆水は盆に返らじと自分の軽率を悔やみました。

一言でいえば私が幼かったためで、確かに私は恋愛というものに怯えを感じていました。そのせいで踏み出さなかった。わざと壊れるようなことをして、けれどその時は好いた女を云々というような感じではなかった。私にはその娘はあくまでも共感できる友人であると思っていて、その友人との疎遠を嘆いていた。— そのように思おうとしていたのでした。

証拠は、まさにこの『それから』でしょうよ。女の名が同じということに感傷的な読み方をして、ヒロイズムに酔っていたのです。けれどこの小説の言わんとすることに相対しようとはしなかった。私が『それから』を文庫で買って、全編読もうとしたのは高校を卒業後何年も経ってから。大学に入ってからのことでした。

私とその娘の共通の知り合いが事故で亡くなったとき、訃報の連絡をする私は再びその女と話す機会を得て、やはりその娘こそが私の心に共感しうるものだという思いを強めました。あの親しく世話にもなった人の死に際して、その娘は「私はなにも感じない」といったのです。その感覚は、私のものに同じでした。「私はどこかが壊れているのかも知れない」という言葉に、壊れもの同士の寂しさや周囲への打ち解けなさを交換しあったのでした。

それから数年経って、その娘の結婚したという話を、人伝てに聞きました。私は、なんだよ、壊れているとかいいながらすっかり人並みじゃないかと恨みを思って、はじめて惜しいと思ったのでした。その時の感覚が口惜しさから発したものだと気付いて、はじめて私は、私がその娘を好いていたことを自覚したのでした。

こんな風に、私はすれ違ってばかりおるのです。

  • 夏目漱石『漱石全集』第6巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『それから』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1989年。
  • 夏目漱石『それから』(新潮文庫) 東京:新潮社,2000年。
  • 夏目漱石『それから』(角川文庫) 東京:角川書店,1985年。
  • 夏目漱石『それから』(漱石文学作品集;第8巻) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『それから』(講談社文庫) 東京:講談社,1972年。
  • 夏目漱石『それから』(ちくま文庫) 東京:筑摩書店,1986年。

2005年4月6日水曜日

ライフ・イズ・ビューティフル

 私はこの映画をNHKの語学番組『イタリア語会話』で知ったのです。こうした語学番組は、もちろん外国語の勉強が中心テーマであるのですが、それら言葉の使われている国や文化を紹介するコーナーもあるものだから、語学に格段の興味がなくても楽しめる番組であると思います。

フランス語では言葉を学ぶのにシャンソンを使うなんて昔はいったもんですが、そんな絡みからどの言葉の番組でも音楽の紹介があるのは嬉しいことで、そして映画。映画は映像によってその土地の文化、風土を観ることができるということで、特によく紹介されます。独立系の映画館で公開されるような、ちょっとマニアックな映画が多いのは仕方ないとはいえ、そうした映画を好きな人にはたまらない魅力があるのではないでしょうか。

『ライフ・イズ・ビューティフル』はイタリアの映画で、舞台は第二次世界大戦中のイタリア。私は知らなかったのですが、ドイツの同盟国だったイタリアにおいてもナチスのユダヤ人排斥思想は吹き荒れて、殲滅収容所が建設されていたのですね。私はイタリアのそういう負の側面をこの映画で知らされて、ショックでした。

この映画が劇場公開された頃の『イタリア語会話』では、随分この映画をプッシュしましてね、数週にわたって紹介されていたことを覚えています。しかし、もちろん当然のことながら映画の核心には触れないわけです。これからどうなるの!? ってところで紹介が終わるわけです。

グイドと彼の妻ドーラ、そして二人の息子ジョズエの運命の行方が気になって仕方のない私は、DVDの見られる環境がやってきてすぐに、この映画を買ってみたのでした。そしてそのあまりに苛酷であった運命に泣いたのでした。

映画は、基本的に喜劇の性質を帯びています。脚本・監督のロベルト・ベニーニは主役も演じていて、彼が美しい教師ドーラに恋してからその愛を勝ち取るまでの物語は、笑いの連続です。スラップスティックな味わいもあり、私は昔チャップリンの映画が好きで、テレビでもよくチャップリン特集とかされてたもんだから(そういえば、最近はあんまりやってませんね)、ビデオに残してみたりして、ええ、チャップリンのどたばたの笑いとヒューマニズムあふれる涙を好きな人なら、間違いなくベニーニの映画も好きになるでしょう。

けれど、私はこの映画の結末を見て、あまりに強く大きすぎるリアルには笑いとヒューマニズムだけでは太刀打ちできないのではないかと思ったのでした。チャップリンの映画は基本的にハッピーエンドです。最後の最後にちょっとの涙と笑いと、そして感動がある。でも『ライフ・イズ・ビューティフル』ではどうか。確かに涙と笑いと感動がある。けれどそれ以上の悲しさもあったのではないか。身を挺して、粉骨砕身の努力で息子を守った父親の、あまりに崇高な精神に私は涙が止まらなくなったのです。ウィットに富んだラスト — ええ、それは確かにハッピーなものでした — は、泣きながら見ました。泣きながら笑って、そして父親の息子に注いだ愛の大きさにまた泣くのでした。

チャップリンとベニーニ、この二人の偉大な監督にして俳優の選択するラストの違いは、二人を隔てる時代の違いであると思ったのでした。チャップリンの時代には、まだ不幸があまりに身の回りにあふれすぎていて、そこに追い討ちをかけるような現実を突きつけるようなことはできなかったのでしょう。対してベニーニは、そうした不幸が過去に追いやられようとする時代にあって、だからあえて不幸を直視した。私はそんな風に考えています。

しかし根底に流れる考え方は同じであると思うのです。不幸をただ不幸と嘆くばかりではなく、よりよい明日を迎えるために、愛する人に素晴らしい未来を手渡すために、奮迅の働きをする人間の心の強さ、素晴らしさ、美しさを謳う映画であると思います。

しかしだ、この素晴らしい映画のDVDは絶版しているらしい。こういうの、ちょっと悲しいですね。

蛇足:

私のお友達は、素晴らしいイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』に敬意を表して、決して英題をもととした名前では呼ぼうとはしません。必ず『ラ・ヴィタ・エ・ベッラ』と呼んでいます。

ええ、私も『ラ・ヴィタ・エ・ベッラ』と呼んでいます。決して英題では呼びません。

2005年4月5日火曜日

Satie : The Early Piano Works, played by Reinbert de Leeuw

  ジムノペディやグノシェンヌで知られるフランスの作曲家エリック・サティは、おしゃれな響きと聴きやすく美しい曲調からも人気があって、もちろん私の好きな作曲家のひとりです。以前、お菓子を作っているとき、エリック・サティをステレオで流しっぱなしにして、それにしても美しい曲があったものです。複雑さや重さから解き放たれた精神は実に自由。サティの音楽の魅力はこうした自由さと、ちょっと気取ってみせる才気のたまものであると思うのです。

さて、サティを弾くピアニストといえばパスカル・ロジェなんかが有名ですね。ええ、確かにこの人の弾くサティはガラス工芸の美しさがあります。ですが、私にはもうロジェは物足りない。デ・レーウのサティを聴いてからは、ロジェでは満足できなくなってしまったのです。

私がラインベルト・デ・レーウの弾くサティを聴いたときの印象は、一生忘れられないようなものでした。遅い! もしこれがレコードだったら、回転数を見直しただろうと思うほど遅い『ジムノペディ』に私は驚いてしまい、なにしろ、途中でとまってしまうんじゃないの? と思うくらいに遅いんです。友人のピアニストに、ものすごくゆっくりのサティを買っちゃったよと、わざわざ報告してしまったくらいに印象的なサティだったのでありました。

しかし、この聴き手の忍耐力を試すかのように遅い演奏が、この上もなく美しいんですよ。これまで私が考えていたサティとはまったく違って、手頃な工芸細工なんてものじゃなくて、風景がすべて霧の中に融けて、世界の色が、光がゆっくりと混ざり合いながらなめらかに輝くような美しさがあるのです。

私は驚いてしまって、それは最初は確かに演奏の遅さのせいであったのですが、次第にその美しさに飲み込まれるようにのめり込んで、なぜこれほど美しいのかと、聴くたびに嘆息するようになったのです。

私のCD棚には、複数持っている演奏というのがあります。それは例えば、ピノックの『管弦楽組曲』でありました。実は、デ・レーウのサティも複数持っているのです。最初に私を驚かせた国内盤と、その後見付けて矢も楯もたまらず手にした二枚組の輸入盤。私は、その二枚組の半分をすでに聴いているというのに、残りを聴きたいばかりにこれを買ったのです。そして、それを後悔したりもったいないと思ったりなどは、これまで一度たりともありませんでした。

2005年4月4日月曜日

さゆリン

  『さゆリン』は、まんがタイム系列誌(ジャンボとスペシャル、ちゃんと初出一覧で確認したから確かです)に好評連載中の四コマ漫画で、けどその読後感は他の四コマと比べても随分違います。なんというんでしょう。ギャグがとりわけ面白いってわけじゃないんですよ。起承転結も明瞭に推移せず、なんとなく漠然茫漠としたなか、淡々と鈴本さゆりさん(漫画のタイトルは『さゆリン』なのに、さゆリンと呼ばれているわけではない。謎だ!)とお友達のゆるいコメディが進行していくんです。アップテンポでハイテンションでオーバーアクションのメリハリがあるわけでもなく、むしろ淡々粛々と進んでいくんです。

そんな漫画面白いの、と聞かれればですね、面白いんですよこれが。なんでなんでしょう。ものすごく面白いのですよ。

『さゆリン』の面白さは、多分作者の人の悪さに起因しているのだと思うのですよ。なんか、作者、よくわからんのですが、なんかの研究職の一端を担う人みたい。民間伝承とかよくわからん知識が山とあるみたいな感じの人で、けれどこうした知識を漫画に動員するようなまねはせず、せいぜいそっと触れてみる程度で済ませるんですが、その触れ方が妙に意外なやりかたでもってするものだから、そこにわずかなギャップが生まれてくる。この些細なギャップが積み重なっていって、いつしかそれが奇妙な面白さに変わってしまってるんです。

仲間内の笑いというのがありますが、身内だけで通じる笑いで、傍から見たらどこに面白みがあるのかわからないというような話ですが、『さゆリン』の面白さはそういう面白さに通じます。変な子さゆりと、さゆりに振り回される高品勇太くんを軸に仲のよい友達が集まって、他愛もなくじゃれあっている楽しさ。そのじゃれあいの描き方が妙にうまくって、その奇妙に普通のテンションがじわじわ効いてくるんでしょうね。

ちなみに単発の面白さだけを問題とするなら、作者が自分自身のことを書いたものとか後書きとか、そういうもののほうがよっぽど効きます。どう見ても常識的という枠からかけ離れた感じがあって、どこまでが本当でどこからが嘘か判別つきにくい、現実非現実の境界線がおぼろげに揺れる独特の面白さはすごい。

それに比べると『さゆリン』は薄味だと思います。けれど、薄味だからこそ長く楽しめるということもあるんだと思いました。味付けがあっさりしているから、ついつい食べて、いつの間にか病みつきになっている。『さゆリン』とは、そういう感じの漫画であると思います。

変な作者、変なヒロイン、変な四コマ漫画。その変のすき間には常識が忍び込んでいて、その境界の曖昧さが人を病みつきにさせる要素なんだろうなあ —。

まあ、つまりは作者の人が悪いということでいいですよね。

  • 弓長九天『さゆリン』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 弓長九天『さゆリン』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。

蛇足:

出版社/著者からの内容紹介によれば、勇太クンはさゆリンのシモベであるのだそうです。シモベ — 、ああ、なんと甘味な響きでありましょうか。

2005年4月3日日曜日

日本十進分類法

SHINOすけさんが、分類に関してお困りだ! というわけで、今日は『日本十進分類法』をご紹介しようかと思います。『日本十進分類法』というのはなにかといいますと、日本における図書館の現場で、最も広く用いられている図書の分類ツールです。NDCと略されるので、こちらで覚えているという人もいらっしゃるかも知れませんね。

『日本十進分類法』はその名が表すように、十進法の数字表記で図書の分類をしようというものです。例えば私の専門だった音楽でいえば芸術がまず700、そしてその芸術のカテゴリー内に音楽は760という数字を割り振られていまして、さらにこの中に、総記だったら末尾を0、理論だったら1、地理歴史は2というように、どんどん細分をしていきます。

『日本十進分類法』の便利なところはなにかといいますと、日本の図書館の多くがこのツールにしたがって図書の分類をしているから、一度この分類を覚えてしまえば、図書館に行って本を探すのが大変便利になるんですね。京都の図書館で音楽史が762なら、東京でも北海道でも九州でも、やっぱり762の分類を見れば音楽史の本が集められているわけです。分類法や目録規則といった基本的ツールを共有化することで得られるメリットというのは、まさにその、どこにいっても同じやり方が通用するということでありましょう。

じゃあ、『日本十進分類法』があればそれで万全かというと、そうではないのが非常につらいところでして、なぜかといいますと、『日本十進分類法』が提供するのはあくまで分類の区分だけでありまして、実際の分類に関しては図書館の整理係の判断にかかってくるからなんですね。

例えば、『ベートーヴェン32のソナタと演奏家たち』という本があったとして、これをどういう風に分類してみましょうか。

タイトルにベートーヴェンとあるから、ベートーヴェンに分類してしまえばいいんだ、となれば、ベートーヴェン論なんかが収められる762.34という番号を与えてやればいいでしょう。ちなみにこれ、ドイツの音楽という区分です。

ところで、この本、ベートーヴェンの32のピアノソナタを扱う本みたいですね。じゃあピアノに分類すべきなんじゃないかなと思ったりもする。この場合、与えられる数字は763.2です。

いや、私は「演奏家たち」というフレーズが気になるという人もいるかも知れませんね。実際この本は、色々なピアニストがどういうベートーヴェン解釈をしているかという本ですから、じゃあ演奏家列伝でもあるのじゃないかな。そうなると762.8になるのかなあ。いや、けどこれは違うような気がする。

とまあ、こんな風に分類というのはどうにでもなりそうなもんであるのですよ。だからこそ、分類する人間のセンスや見識が問われるわけで、さらにいえば、分類する人間の良し悪しが、その図書館の質を左右するともいえます。

けれど、現実問題として分類というのは難しいんです。私が『ベートーヴェン32のソナタと演奏家たち』を分類するとしたら、主分類を763.2にして、副分類を762.34にするような気がします。いや、私が以前いた図書館の基準(つまり過去の分類係の仕事の積み重ね)を思い出してみれば、主が762.34、副に763.2をあてるほうがいいのかな。と、やっぱり迷います。

例に出した本はまだわかりやすいほうなんですが、世の中には本当にどう分類したものか考えても考えてもわからんというのもありまして、さらに悪いことに、『日本十進分類法』には用意されていないような分類もあって、つまりジャンルやカテゴリーというのは、常に新しいなにかが出現するたびに拡大発展していくものでありますからね。時代の最先端みたいなものは、どこにいれたらいいかわからないものも出て来るんです。

とまあ、こんな風にジャンルわけ、カテゴリーわけというのは難しくって、突き詰めていけば身動きとれなくなってしまいます。だから、ええいっ、私はこれは762.34に含めるべきだと思う。他の誰がなんといおうと知らんっ、というような割り切りが必要になるんですね。

  • もりきよし原編『日本十進分類法』東京:日本図書館協会,1929年;新訂9版,1995年。

2005年4月2日土曜日

西洋音楽の歴史

 友人が今度やる演奏会のプログラムをどう書いたものかと悩んでまして、例えば原題を載せるとき、英語にするのかフランス語にするのか、あるいは作曲者の出身によって変えるべきなのか、というようなことなんですね。問題となったのはムソルグスキーの『展覧会の絵』で、フランス語にすべきか英語にすべきか、それともロシア語? どうしたらいいんだろう。それにムソルグスキーの表記もMussorgskyだったりMoussorgskyだったり、どっちがいいの、云々という話でした。

こうしたことは、非常にむつかしい問題で、考えれば考えるほど深みにはまって答えが出なくなります。だから、これはという典拠になる資料やポリシーを決めておいて、それに従うのが一番ですよと答えまして、そんなわけで私のネタ本を紹介したのでした。私が普段参考にしている資料というのは、この本『西洋音楽の歴史』です。

私がこの本を参考にしているのは、非常に単純な理由ではあるのですが、著者が私の通っていた大学の先生陣であるからなんですね。なんだよ身内びいきかよ、と別にそういうわけじゃないんですよ。私は身内だとか云々関係なしに、この本を評価しているんです。

この本のいいところというのは、西洋音楽に対する日本人の視点が感じられるところであると思っています。西洋音楽というのは、あらためていうこともないのですが、ヨーロッパを拠点にして発展深化した音楽で、つまりヨーロッパ的な思想や視点がベースにはあるんですね。今私たち日本人は、昔の日本人とはまったく違うといってもいいくらいに欧化された生活を送ってはいますが、それでもヨーロッパ的なるものとは相容れない東洋的日本的なものをベースにしている。クラシック音楽をいくら身近に感じたとしても、やはりどこかに本流とは違うものを私たちは抱えているのです。

私は思うのですが、過去の音楽史というのは、そういう差異みたいなものを感じさせることなく、あくまでも西洋の視点で見ていたような気がするんですね。西洋人が当たり前に考え、感じていることを普遍的なことであるかのように捉え、日本人もそう感じているんだみたいにしてきた。けれどそれはやっぱり違ったんだと私は思います。

比較音楽学や民族(民俗)音楽学が発展していく過程で、過去の、西洋音楽が中央にあり、その中央と周辺の民族(民俗)音楽を比較しようという見方は否定されました。西洋は普遍ではないということが明らかにされて、だからこの本の視点は、西洋が普遍でなくなった時代の目なのだと思います。日本人的視点というのも違うのかも知れませんね。日本も西洋も等価に捉えるという、そういう視点があるのではないかと思います。

さて、私がこの本を参考にすることが多いというのは、やっぱり編著者をよく知っているということも大きいのだと思います。著者の人となりや編集執筆の方針(ポリシー)をよくわかってるから、参考にするにもしないにも、非常にやりやすいわけです。この人のいいたいことってなんなんだろうというのが、なにしろ事前にわかってるんだから、いちいち悩んだり考えたりする必要がないんです。

だから便利、非常に都合がいいんですね。ものすごい個人的な理由になって、ごめんなさいね。

  • 高橋浩子,本岡浩子,中村孝義,網干毅『西洋音楽の歴史』東京:東京書籍,1996年。

2005年4月1日金曜日

檸檬

 京都の丸善が店をしまうらしい!

これは信じていいことなんだよ。何故って、今朝の新聞の地方面に丸善京都河原町店9月閉店へだなんて記事が載って、にわかには信じられないことじゃないか。けれどこれはまぎれもない事実で、つまりあの有名な丸善を見たければ今しかない。今年、暑い盛りを過ぎれば、馴染みのあの店はなくなってしまう。いや、丸善が潰れるわけじゃない。京都のどこかに新しく店を構えるだろうが、しかし京都の書店といえば三条河原町の丸善を思い浮かべる人は多いはずで、だからそれだけ寂しく思う人も多いだろうと思う。

(画像は集英社文庫『檸檬』)

私は熱心な丸善の客だったかといえば、決してそうじゃありませんでした。一番古い記憶をたぐれば、丸善のビルが改装しているときの仮店舗が思い浮かびます。その時私は『不思議の国のアリス』に夢中で、京都の高島屋で開かれたアリス展で買い込んだ資料を読みふけって、ついに原書に手を出したいと思い至った。うちのものがいうことにゃ、洋書だったら丸善だよ。ええ、ある程度の年代の人にとって丸善は洋書を手広く扱う書店として有名で、だから私にとっても丸善は、洋書舶来雑貨に力を入れている店という印象があるのです。

京都で美術書を買おうと思ったら京都書院が有名で、私の祖父は着物の絵師をしていたから、母の子供時分には京都書院の外商がうちまでやってきたといいまして、そういう話を聞かされていたから、私もおのずと京都書院が好きで、なにを買うわけでもなかったけれども、京都に出ればついでによってというようなことをしていました。

けれど、1999年5月に京都書院は営業活動を停止したんですね。久しぶりにいったら京都書院が閉まっていて、すごくショックでした。そういえばその隣にあったオーム書店もいまではOPAになってしまってる。

高校時分からピアノのレッスンに通う関係で、ちょくちょく京都市内に出ては書店巡りをしていたから、こうした懐かしい書店がなくなってしまうのはすごく堪え難いことで、けれどまさか丸善までなくなるとは思いも寄らないことでした。すごく寂しい。すごく悲しい。今ではたまにしか市内には出ないんだけど、それでも機会があれば寄って、なんか面白そうな本があったら買って、けど、そうしたことはもうできないんだなあと思うと、やっぱり胸が苦しくなります。

梶井基次郎の『檸檬』には、まさしくこの京都の丸善が出てきます。気鬱な空気を吹き飛ばす爆弾としての檸檬。短かな文章は、不思議に興趣を帯びて快活で、私にはひどくコミカルな感じがありまして、なんだか焦燥感や気詰まりといった感じよりも、退屈を打破しようとする鮮やかな精神の諧謔のほうがずっと強いように思えたのでした。

私がこの『檸檬』を買ったのは、ほかならぬ京都の丸善で、丸善の和書の階、レジのすぐそばに、京都の丸善が出て来る本、といったような感じで広告が打たれてたのを面白がって買ったのでした。買って、読んで、すごく独特の梶井の世界が、私の現実の丸善をぐるぐるとかき回して、すっかり不思議の世界になってしまった丸善の中には、燦々と檸檬の黄色が輝いていたのでした。

京都書院は、限定的ながら活動を再開しているようで、このことを知って、私はまさしく旧知に会ったような嬉しさを感じました。

だから、丸善もまた京都で店を再開して欲しいと思います。頻繁にはいかれないとは思いますが、それでも機会があるごと寄りたい店であるのは変わりません。本を買うだけならどこの本屋でも一緒かも知れませんが、私の愛する書店には、ただの本の購入所には留まらぬ楽しさ愉快さがあって、私の丸善には洋書美術書催事雑貨の楽しみがありました。ええ、大切な書店のひとつであるのです。

引用

  • 丸善京都河原町店9月閉店へ — 利用客「やはり寂しい」」『朝日新聞』2005年4月1日朝刊【,第13版,第28面,地方欄】。