2009年1月31日土曜日

うちの姉様

 パティシエール!』の野広実由が『まんがくらぶオリジナル』で連載している漫画、『うちの姉様』が単行本になって出るという話を聞いて、実はちょっと楽しみにしていました。私は竹書房の雑誌は買っていないので、これが初読となるわけですが、面白いのかなあ、どうなんだろう、ちょっとの不安とそれから期待をともに読みはじめて、そうしたら面白いではないですか。東大に通う優秀なお嬢さん、日高涼音がヒロイン。彼女には小学生の弟と妹がいて、だからあねさま、であるのでしょう。しかし、このお姉さんが極端にマイペースで、ある意味豪快、少々無神経、けれど魅力的。実によい感じでありまして、しかし味のあるキャラクターだなあ、そう思っていたらなんとモデルがいらっしゃるらしい。わお、世の中はすごいな、希望が湧いてきたぞ。

モデルがあるためでしょうか、涼音はわりと常識の範疇に留まっていて、というのは人間離れしたような描写がないということをいっているのですが、現実にありうる程度の変人度合い、とはいえ、あんまり身近にはいないタイプかも知れませんね。でも、Suica(関西ではPiTaPa)をカバンごと使う人はいます。朝の通勤で一緒になるおじさんが、自動改札にヴィトンのセカンドバッグをどしっとのせて通ってゆかれる。けど、あれを見て、変わった人だなあではなく、いかすなあ、と思う私もたいがい変わりものなのかも知れません。

涼音が変わりものと感じられるのは、涼音が自分にとっての効率や快適を求めるその際に、いわゆる世間や世の中の規範というものを意識しないという、そこに理由があるのだと思われます。普通なら、人目を気にしてそうはしない。たとえ自分にとっての快適がすぐそこにあったとしても、ぐっと我慢をしてしまう。ところが、涼音は躊躇なく、自分の都合を優先させてしまうのですね。はたしてそれを傍若無人、自分勝手ととるか、あるいは自由闊達、天衣無縫と見るか、そのとりようで評価はいかようにも変わってしまう、そんな人だと思います。そして私はこの人については、その自然体がよいなと思って、ええ、こういう感じの人、好きなんですよね。

涼音の自在な性格は、おそらくそれだけではそれほどに際立つことはなかっただろう、そんな風に思うのは、彼女の弟、妹である倫、るるの存在があるからこそ、その魅力が発揮されていると感じるからです。倫は小学二年生、るるは一年生、そうした年少の子らの方が常識をわきまえているところがある。そう、大学二年生の姉の方が子供以上に奔放であるのですから面白い。枠にはまらず、自分の思うままに振る舞う、そうしたスタイルは本来なら子供のらしさといわれるところであるのに、この漫画では子供が大人の分別を持って、年長者をたしなめる側にまわるのですね。ゆえに、涼音のフリーダムさはより一層に強調されることとなって、ともないその魅力もぐっと引き出されるといった具合であるのです。

さて、その涼音に恋慕する男、遠野が問題であります。あからさまに涼音に興味ありありなのに、涼音を前にすると、お前なんかなんとも思ってねーよ、といわんばかりに、おかしな態度をとってしまう。その姿は、最近の言葉でいえばツンデレ、けどスタイルとしては小学生の男子よの。まあ、ああした行動をとってしまう人は大人にも一定数あるというのは周知のことで、たまさか本日公開された「その愛情表現だと嫌われる」なんかはまさしくその典型であります。だから、遠野君は『理系のための恋愛論』を読むといいよ。なんて思ったりして、しかしこの遠野君にもモデルがあるというんですね。わお、これも驚きだ。けど、特にめずらしくないタイプともいえるような……。理系というか、オタクに多いタイプにも思えます。

遠野は数学科かと思ったら、実験とかしてるから物理なのかも。でもまあ二年生だからまだ前期課程なのか。名前が理一だから、理Iなのかななどと思ったりして、もし今後大学のことが描かれるなら、涼音とは違う学科に進んでいくのかも知れませんね。ヒロイン涼音はというと、宇宙の勉強しているとかいってたから宇宙物理あたりに進むんでしょうか。もしそうだとしたら、卒業後にはリコーダー奏者を目指すといいと思います。いやね、私の知人のリコーダー奏者は京大の宇宙物理を出てるのだそうで、だからきっと涼音も素質ありです。先生の持ちネタである救急車のサイレンは、ドップラー効果もついていて、秀逸。涼音さんもいずれはそうした域に逹していただきたいものだ、なんていい加減なこといっています。しかしあの先生も面白く魅力的な方でした。こうした先行事例を見ても、フリーダムな人の素晴しさというものがわかろうもの。涼音さんも、その魅力をよりいっそうに磨いていただきたいものだ、そんなこと思ってます。

  • 野広実由『うちの姉様』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:小学館,2009年。
  • 以下続刊

2009年1月30日金曜日

チャンネルはそのまま!

 佐々木倫子の新作はテレビ局を舞台にしたものらしい、というのは聞いてはいたのですが、具体的にどういうものかはまったく知らず、そうしたら本日ですか? 単行本が出ていました。タイトルは『チャンネルはそのまま!』。北海道の地方局に入社したお嬢さんが主人公のコメディで、実に佐々木倫子らしい漫画であります。憎めない変わりものが常識人を振り回す、そうした構図は名作『動物のお医者さん』を彷彿とさせて、しかし『動物のお医者さん』と決定的に違っているのは、その変わりものが主人公であるというところでしょう。ちょっと『おたんこナース』に似ているかも知れません。ですが、『おたんこナース』は医療ものであったため、似鳥ユキエの迷惑度にも自ずと限界がありました。ところが今回はテレビ局もの。ヒロイン雪丸花子にリミッターは設定されていない、ように思えます。

そもそも雪丸花子というキャラクター、そのものはじめっからバカとして設定されていて、なにしろテレビ局に入れたというのもバカ枠とやらがあったから。もちろん、そんなものが現実にあるかどうかは知りません。けれど、昔からまことしやかにそうした枠があるとかないとかいわれてきた、ような気もしますが、それって試験は通り抜けてきたけれど、どう考えても使いものにならない、そんな新人を腐して、あいつはバカ枠採用だっていってただけなんじゃないかと思ったりもするのですが、でもまあ、生物というものは集団になると、ある一定の割り合いで怠けものが出るようにできているらしいといいますし、山本夏彦も、会社というものは一握りのできる人間が、残りを養うもんなんだ、出来ない坊主がいるのは当たり前だなんていっていました。だから、この雪丸花子、彼女こそは北海道☆テレビにおける、出来ない坊主なのでしょう。

しかし、確かに雪丸花子は出来ない坊主であるのですが、それでも彼女の活躍、というか他のスタッフの足を引っ張ってばかりのところも多いのだけど、そんな中に思いがけないヒットがあって、これは雪丸がいなければ得られなかった絵、得られなかった情報だ。そうしたプラスの側面も描かれているから、このあまりに駄目な娘のあまりに駄目なふるまい、仕事ぶりも許せる気になるのでしょう。ってのは、やっぱりちょっと、この人どうだろうなんて思うこともあったりしたからで、簡単に覚えられるものを覚えないというのはただの怠慢としか思えない。覚えられないなら覚えられないで、メモをとるなり、対応策もあるだろう。それを講じもせず、何度でも同じ失敗を繰り返すのってどうよ。いや、わかってるんです。そうしたところ、雪丸のへっぽこなところを楽しむ漫画だって。けれど、現実にしんどさを感じている人には、こうした描写は受け付けないかも知れない。だから、この漫画を頭から最後まで笑って楽しく読める人は幸いです。きっとすごく健やかな精神をお持ちであると、そのように思う私は、現実に少し疲れている模様です。

2009年1月29日木曜日

まーぶるインスパイア

 出会った当初にはその価値がわからなかったものの、後に好きになってしまうということは往々にあります。例えばそれは『まーぶるインスパイア』などがそうで、最初はとにかく意味のわからない漫画、そのようにしか思えなかったのが、いつしか面白く思うようになってきた。単行本で読んで化けた。その内容の連続性、密度の高さに驚いて、それからは連載で追いながらも、いつか単行本の出ることを楽しみにするようになったのでした。それはやはり毎月の連載では話の繋りがわかりにくいからなんですね。だから、連載では、いったいなにが飛び出てくるかわからないというインパクト、わけのわからなさ、トリップ感を味わい、そして単行本では、緻密に描かれる日常の出来事を流れに沿って読む、その面白さを味わう。このように、表現の媒体の違いによって、ひとつの漫画で異なる楽しみかたをしています。

しかし、連載を読んでいるときにはわすれてしまいがちなのですが、この漫画は、パソコン購入資金をるくはがちびちびと遣い果してしまうまでを描いているんですよね。親から渡された資金、中学生にとっては大金、それを買い食いやらなんやらでちまちまと消耗させてしまう、その愚かしさ。けど、それは大人でもあんまり変わらないのかも知れません。手元にお金がある、たんまりとある、それが気持ちを大きくさせてしまって、結果、無駄な消費をしてしまう。こうしたことは、誰しも覚えがあるんじゃないかと思いますが、いざそのときという段になって、しまった遣いすぎてたっ、気が付いて、後悔先に立たず、どうしよう……、困ってしまうわけです。果してるくはが後悔するのは、今は先送りしている金銭問題を、その身に引き受けざるを得なくなる日はいつなのか。すごく楽しみでありますが、この漫画の進行速度から考えると、来年か再来年か、かなり先のことになりそうな気がします。

というのも、この漫画、連載が開始されてもう二年になるのに、作中ではまだ一週間そこそこしかたっていないんです。第1巻で自転車通学を始めた、それが2巻終了時点でまだ4日目とかいっていて、とにかく時間のたつのが遅い漫画なのです。その原因はあきらかに描写の緻密さ。普通なら放課後に買い物にいくというエピソード、ひと月ないしふた月ほどで終わるところが、この人の場合半年くらいかかります。いく途中でひと月、現地でふた月、帰りでひと月、それが別キャラで展開されるから、結果半年ってな具合でして、しかしそれはまどろっこしくはないのかと聞かれれば、ちっともそんなことがない。特異なことです。

停滞しているように感じないのは、その回ごとに注視して描かれることが異なっているためでしょう。毎回に核となるようなエピソードが切り出されて、クローズアップされるのですね。しかし、その注視されることのあまりな偏り、それは特筆もので、しかも狂乱といっていいくらいの盛り上がりを見せて、いったいこの熱中とはなんなのでしょう。別に特にたいしたことでもないというのに、想像力は白熱する。それは時には胸であり、時にはよだれであり、時には車内で居眠り、もたれかかってくる女子中学生に心乱されまいと奇行に及ぶ男性の内面描写であり、その描かれようはとにもかくにも大げさ。しかし、その大げささがおかしくて、なんでこんな風に表現できるんだろう。一種の天才であると思います。

2009年1月28日水曜日

はずむ!おじょうさま

 『はずむ!おじょうさま』をはじめて読んだ時、それはそれは当惑したものでした。ヒロインは名家のお嬢様はずむ、少々浮世離れしたお嬢さんであるのですが、もしそれだけなら当惑するようなことはなかったはず。そう、特異な設定があったのです。それは、ドキドキすると胸の谷間に物が挟まってしまう呪いがかかっているという……。頭を抱えるような馬鹿さ加減であります。当時、きらら系列誌ではちょいエロが流行していた、そんな背景があったとはいえ、それはいくらなんでも無茶すぎるだろう。エロとしては直球だし、正直なところいいますと、あんまり露骨にエロを押し出されても困ります。そんなわけで、最初はあまり乗り気ではなかったんです。ですが、それがいつしか楽しみに思えるようになって、それはいったいなにが変わったというのでしょう。

変わったもの、まず第一には私自身でしょう。慣れたのだと思います。単行本で最初から読みなおして、別に嫌悪感のようなものはなく、だから当初は特異で異質に思えたものも、いずれ慣れて楽しく読めるようになる。そうした傾向は確かにあったと思います。けれど漫画も変化していました。ちょいエロから無理目なエロの要素が少なくなっていきました。その反面、馬鹿さ加減は上向いて、それにともない面白さも増していったと感じられて、はたしてこのネタをどう受けとめればいいのだろう、微妙に迷う、そうした落ち着かなさ、ぎりぎりで踏み止まるいたたまれなさが、なんともいえないおかしさとなって、ひたひたと寄せては返す。それがいつしか癖になってしまっていたのですね。

馬鹿さ加減、そうした要素を一身に受けることとなったのは、はずむに仕えるワタルでありました。はずむお嬢様のことを第一に考える少年執事、であるのですが、この人、結構自分の欲望には忠実で、それからちょっと度量が狭い。そういうところは結構好みであったのですが、この上、中盤から後半にかけては変態的なコスプレさせられるはめに陥って、しかしその微妙さ加減はすごかった。キャラクター紹介にてコスプレ一望させられて、あらためてすごさを認識したというか、おそるべき破壊力です。ただ見るだけで笑ってしまうほどで、しかも本編では、それが動いてしゃべって、正直、どのようにいいあらわしたらいいかわかんないんだけど、面白くって、しかし本当にどうコメントしたらいいかわかりません。ナンセンスきわまりない、その異様さ、奇矯さ、ファニーさに、心奪われました。それがひどいありさまであると、わかっていながらやっている、しかもなんだか堂々とやっている、そうしたワタルの姿にときめくものがありました。

けど、思えばそうした馬鹿な振舞いも、お嬢様大事、その一心であったんでした。ワタルと、そしてワタルとともにはずむに仕え、ワタルにひどい役割りを押し付けるメイド慈美。ふたりともに変わりものであるのですが、特に慈美がかなりのものなのですが、そのふたりがはずむと一緒にいる、そうしたことの理由がわずかに語られたかなまら君の回、あれはよかった。はずむを心配し、はげまそうとして、ただやりかたがアレなだけで……、そうした様がいつもは笑いになっている。けどそれは、本当はやさしさであるんだなと伺わせて、いや、別になにも、そんなにいい話にしようって風じゃなく、あくまでもさりげなく、けどそうしたさりげなさがなおさらよかったのでした。

『はずむ!おじょうさま』、これはちょっとおすすめできない漫画です。けれど、私は好きでした。終わった時、残念だなと思った。まさか単行本にはなるまい、そう思っていたら一冊にまとまって、これは本当にありがたいことだと思いました。願わくば、売れてくれるといい、そう思っています

2009年1月27日火曜日

キルミーベイベー

 今日という日を心待ちにしていました。『キルミーベイベー』の発売日。これ、英語タイトルは Baby, please kill me. いや、もう、本当にプリーズ・キル・ミーですよ。以前、ゲームを作っている会社の人がいっていたんですが、女の子に殺されたいですって。それ聞いて私はうんうんってうなずきましてね、ええ、本当にそんな感じでキル・ミー・ベイベーであります。しかし、この、四コマ漫画には、それもKRレーベルには一見似つかわしくない物騒なタイトル、一体どうしたことかといいますと、ヒロインのうちのひとりがなんと殺し屋であるというんです。普通に学校に通ってきている女の子、それが実は殺し屋。このナンセンス極まりない設定にたまげますが、その殺し屋であるという女の子、ソーニャちゃん、この娘が最高です。殺し屋やってるというだけあってクールな美少女、さらに金髪、碧眼ときましたよ。そりゃもう、キル・ミー・ベイビー! 我を失ってしまうってなものです。

『キルミーベイベー』の登場人物、メインはふたり、妙に打たれ強いやすなと殺し屋のソーニャちゃんのダブルヒロインであるのですが、この、基本ふたりだけで展開するスラップスティックコメディが強烈に面白くて、一目見てはまりました。それは、もう、恋に落ちたとでもいいましょうか、それくらいに衝撃的な出会いでありまして、これが続けば嬉しいなあ、いつか単行本が出てくれたら嬉しいなあ、そう思っていたら出た。わお、この漫画を面白いと思った人、たくさんいたんですね。きっとみんな、ソーニャちゃんに命を狙われたいなあなんて甘い夢を見てるに違いありませんよ。もう、ソーニャちゃんたら、千客万来商売繁盛です。

しかし、この漫画、殺し屋ソーニャちゃんにやすなが絡んで、痛い目にあわされて、それでも絡んで、また痛い目にあわされて、基本はその繰り返しであるんですが、それが本当に面白いのです。テンションは時に高く、それはそれは密度も高く、畳み掛けるようにネタが繰り出されて、結果笑いとまらず、そうかと思えばちょっとのんびり目に、ことばのやりとりの軽妙さを楽しませてくれることもあって、けどやっぱり一番の魅力はスラップスティックですよ。もう、たまりません。四コマごとに落ちを付けながら、次へ次へと読み進めさせるその推進力は、ちょっと他に類を見ない、そんな輝きを放っていて、昔の、無声映画時代のどたばたコメディに似たテイストが感じられて素晴しい。シンプルでありながら、見せ方はダイナミック。動きの面白さがネタの面白さを際立たせて、これで笑わないって考えられない。割とアクション系、それもバイオレンス系、パンチとジュディみたいなもんですか?

スラップスティックとは大きな音をたてて相方を叩く棒に由来することばだっていいますが、まさしくそんな感じにスラップスティック。関節を極める、拳で殴る、ナイフで脅す、けどこうしたバイオレンスが笑いですむんだから、それはそれはすごいことで、これは受け側の、つまりやすなのキャラクター、無邪気でめげることのない明るさ、そして凝りないしたたかさ、そうした性格のおかげでもありましょう。クールな殺し屋と甘えん坊なのか? そんな女の子がマッチすれば、こんなにも面白い漫画ができあがるのか! 本当に近年まれに見る、そういってもいいすぎとは思わない、そんな漫画であるのです。

私はもともと『まんがタイムきらら』の系列誌では『キャラット』が好きだったのですが、『キルミーベイベー』が始まってから、その輝きはいっそう増した、そんな風に感じています。もう、毎号が楽しみでならない。それほどにか!? といわれると、それほどに! と答えないわけにはいかんでしょう。とにもかくにも面白い。もう最高、大好き、これより他にどういったものか、容易に言葉にならないくらいに気に入っている漫画です。

蛇足

登場人物、やすなとソーニャちゃんと忍者のあぎりさんの三人なんだけれど、その三人ともが、強烈な存在感を持ってるのはすごいことだと思います。中でも私はソーニャちゃんが好きですが、いや、人間誰でも一度は死ぬもんだからさ、天命をまっとうするのが一番だってわかってるけどさ、けどもしつまらない死に方するってんだったら、ソーニャちゃんに命を狙われたいって思うのはごくごく自然なことでしょう。それくらいに好き。

しかし、殺し屋に仕事を依頼するにはどれくらいかかるんでしょうね。けど、ソーニャちゃんに、「君、いくら?」って聞くと、誤解して、その場で始末してもらえそうな気がします。つまりは無料か! やったぜ!

  • カヅホ『キルミーベイベー』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年1月26日月曜日

日本列島プチ改造論

 パオロ・マッツァリーノが、新刊出てるよ、っていうものですから、こないだ買いにいったら、どこに置かれているか全然わからなくって、しかたないから蔵書検索を使ってみたんですが、そうしたら入荷はしたけどまだ整理してないっていうんです。カウンターで調べてもらったところ、まだ棚に並べていないようでして、ええーっ、出直しですか。でもまあ、仕事の帰りについでに寄れる場所だから、いいか。かくして本日、再びいってまいりました。狙いは『日本列島プチ改造論』。以前、大和書房のサイトで連載されていたコラムでありまして、小振りながらも面白い、だから楽しみにして読んでいたのでした。それがついに単行本になって、けれど一度読んだものだからなあ。どうしようかなあ、見てから決めるか、そう思って、実際に手にして、買っとくか。買ったのでした。なんのかんのいっても、マッツァリーノの文章が好きなのですよ。

この人の文章っていうのは、なんかあやしい外国人気取って、すっとぼけたこと書くっていう、そういうところがあるのですが、私が好きというのもまさしくそこで、だってイタリア人だっていってるのに、やけに古い日本の文化、それもサブカル方面に詳しいな! なんてつっこみ入れながら読むのが楽しいのですね。けれど、そうした芸風だけが好きというんじゃないんです。その内容も結構好きでありまして、思いおこせばかつて『反社会学講座』にて、社会学的手法というやつの欺瞞を軽やかに切って捨ててみせた、その鮮やかさ。当時テレビやなんかでコメンテーターとやらがまことしやかにいってたことごとを、実はそうじゃないんだといってくれた。統計や資料をふんだんに用いて、自分のいいたいことのために現実を歪曲して伝えているやつがいるんだぜ、ってやってくれた。痛快でしたね。

けど、そうした反抗だけの人だったら、私はそれほど入れ込まなかっただろうと思います。私がこの人に入れ込むのは、この人の真っ当と思える感性に対してでしょう。皮肉もある、もちろん私の思うところと違う、そんなことを書いたりもします。けれど、そうした意見の底に見え隠れする、この人のらしさ。不当に蔑まれているものあらば、さっとその視線をそらさせて、蔑まれるいわれなんてないんだ。無闇に強弁されるものあらば、ちょいとその前提をひっくり返して、あんなのただのナンセンスだ。そうしたメッセージを送ってくる。そうしたところに、私は一種の健全を感じてしまって、しかもそれを説教口調なんて微塵もなしに、軽口たたくように、軽妙にやるというところが粋ってやつなんでしょう。まあ、私はてんで野暮天なので、粋だどうだとなると、ちょっとよくわからないのですが。

さてさて、マッツァリーノといえば、感想文なんて大嫌いだった子供が大人になるとこぞってBlogで感想文を書きたがる、だなんていってましたっけね。そうした話はこの本にも出てきまして、「一億総批評家時代のための批評入門」とか「辛口気取りはヤボなこと」、それから「感想より情報を」あたりですかね。でもって、これが耳に痛かったりしましてね、いや、私はこのBlogで評論やレビューをやっているつもりなんてないんです。だって、評論やレビューってなんだろう。どう書こうとも、私はこれをこう読みました、それでこう思いました、ってくらいにしかならない。だから、私はここに書いてるもろもろ、評論だなんて思ってやしない。印象批評でさえない、なんて思っていて、じゃあなにかというと、かこつけて書いてるだけなんです。漫画でも音楽でもなんでもいいけど、それにかこつけて、自分の趣味や好みを書く、そういったことをやっていて、例えば身も蓋もない女性が好きだとか、サバサバとして女臭くない人が素敵だとか、背の低い女性が好きだとか、金髪が好きだとか、眼鏡が好きだとか、ロリコンとののしられてもかまわないとか、そうしたことをいきなり告白されても、はあ、あんた、なにいってんのって思われて終わりでしょう? ですが、こうして漫画について書いたという体裁を整えると、間違って読んでくれる人も出るって塩梅ですよ。そう、私はそういう馬鹿なこと書きたくてBlogを続けてきたんです。だから、こと一億総批評家だなんていわれると、心苦しくてしかたがなくて、いやもう本当に。このサイトを漫画レビューサイトだと思ってくださる方もいらっしゃるようですが、それに関してはもう心から申し訳なく思っていて、というか、うちは音楽系Blogだと思ってやってるんですが(説得力は皆無だと思いますが)、それだけになおさらすまない気持ちでいっぱいです。

といった具合に、本でもなんでもを引き合いに出すことで、自分のいいたいことをいうのが、このBlogの目的です。うん、テリーさんのいうには、みんな自由に書けばよろしいということですから、これからも頑張って、いかにくだらないこと書くか、そのあたりを追求していきたいと思います。

引用

2009年1月25日日曜日

クロてん

 『クロてん』の作者豊田アキヒロは、『まんがホーム』にて『てんたま。』を連載している作家です。私は、この人が他で描いているというのに全然気付かずにいて、もし教えてもらわなければ、見過ごしにしてしまったかも知れません。あぶないところでした。感謝しています。といったわけで、買ってきました、『クロてん』。内容はまったく知らないまま、背表紙の作者の名前を頼りに探していたところ、なんと帯で作者名が隠されていて、ふー、またまたあぶなかった。漫画を、タイトルではなく作者で探すことも多い私にとっては、非常に見逃がしやすい仕様でありました。購入は公式の発売日である23日。この点、大阪はまだ恵まれています。雑誌も単行本もたいてい発売日には入手できる。単なる地理的優位かも知れませんけどね。でも入手可能性の高さ — 、限定ものでも足で探せば新品入手ができるという、微妙に都会で微妙に地方都市という、この曖昧性が素晴らしい土地であります。

さて、『クロてん』の作者でありますが、私は『てんたま。』読んでいた当初のこと、この人を女性だと思っていまして、いや、作者名そして自画像見たら、男性なんだろうなってわかるんですが、私は漫画読む時はそれほど作者を意識しないものですから、その作風、ふわふわとした絵、あまくやわらかな雰囲気から勘違いをしたってわけです。ですが、回を重ねるごとに、微妙に際どいネタも増えてきて、多分今の時点から読みはじめたら、女性と思うことはないかも知れない。そんな風に思うわけですが、いやしかし読み始めが『クロてん』だったら、きっと女性だなんて思いやしなかったろうな。それくらい、『クロてん』は『てんたま。』とは雰囲気を異にしています。

なにが違うのか。ふわふわとした可愛らしい絵は同じですが、そこからが違います。ブラックコメディとでもいったらいいんでしょうか。セクハラ院長とカニバル女医がメインの位置にある、そんな漫画であります。だから、人によってはこれを受け入れられないと思うかも知れません。実際私も、病変部位を食っちゃってるネタは微妙かも、って、健康な組織だったら平気といわんばかりですが、うん、それなら平気。まあ、食というのは人間の根源的な部分、育ってきた環境が違うから好き嫌いもイナメナイ、ですよね。私にはその女医の好きというタイプもどうも駄目なようでありまして……、いや、ごめんなさい、ちょっと気持ちわるくなってきました……。そもそも全般に駄目なようです……。

とまあ、セクハラとカニバル方面への傾きを持った漫画であります。形式は四コマ、ナンセンスなギャグコメディであるのかな、けれど絵柄がさっきもいったようにふわふわとしたものだから、特段にエロい、また特段にグロいということはなく、安心して読めるという印象でした。実際、私がさっき苦手かもといったネタにしても、漫画のなかで出てくれば、面白く、思わず笑ってしまうことも頻繁で、不快に感じるようなことは基本的にありません。不快に感じることがあるとしても、それは生理的な好き嫌いというものであって、作者の姿勢やネタのどうこうに腹がたつというものではないのです。気持ちわるさを感じながら面白い。うえー、と思いながら笑う。この微妙な間隙を突くところ、うまいなと思うこともあり、そして気付けばそうした部分がないともの足りなくなってしまっている。癖になるのだと思います。

こうした不謹慎系の漫画というのは、倫理方面の意識の高い人のなかには、どうしても受け入れられない、そう思う人もあるかと思います。けれど、こうした不謹慎を扱う人というのは、それが不謹慎とわかってやっている、つまり倫理的な枠組みが常に意識されているということなのだと思うのです。不謹慎がナンセンス性によって無毒化、とまではいわなくとも、弱められるよう工夫されています。ゆえに、不謹慎を不謹慎として笑うことができるのでしょう。だから私はこの漫画は平気、楽しんで読むことができるのです。

  • 豊田アキヒロ『クロてん』(MFコミックス フラッパーシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2009年。
  • 以下続刊?

2009年1月24日土曜日

Snapshot for my family, taken with GR DIGITAL

Preparation of dishes for the New Year's Day月末が近づくと、GR Blogのトラックバック企画が気になります。はたして今月はどんな課題だったかなあと再度確認して、なにかいい写真はあったかなあと探し始める。そして、運よくテーマにあった写真があれば、トラックバック用の記事を書くのであります。

さて、今月のトラックバック企画のテーマはCandidであるとのこと。キャンディード? 思わずバーンスタインの『キャンディード』を思い出してしまうのですが、あれはCandide、スペルが違います。なので、辞書にて確認して、そうしたら自然体で撮られた写真をさす言葉であるそうです。そうかあ、自然体かあ。というわけで、トラックバック企画 Candid に参加します。

今月の写真は、被写体となった人に許可を得る必要がありました。私にはめずらしく、人物写真です。撮ったのは1月の10日。起き出してすぐ、食卓にいたちびすけを、適当に撮った。本当になにも考えず、ただ面白そうだから撮った。撮った時点では、こうして公開するつもりはなくて、将来、家族が今のこの時を懐しむ、そうした思い出になればよいと思って撮ったのでした。

けれど、見返してみれば、なかなかにいい写真じゃないか。そんな風に思った。それに、テーマCandideにも沿うている。だから、写っているふたりに、というかひとりはその母親になんだけれど、トラックバック企画に応募する写真に使っていい? インターネットに公開していい? と聞いたのでした。ありがたいことに、いいよといってもらえて、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

Snapshot for my family

2009年1月23日金曜日

百舌谷さん逆上する

 百舌谷さん逆上する』第1巻が出た時は、私の心はもうその先に進んでしまっていたから、その思いを抑えるのに四苦八苦して、そして今日、『百舌谷さん』の第2巻が出て、それで書こうと思っているところであるというのに、やはり私の心はその先に進んでしまっているから、胸中に渦巻きさざめくもろもろを言葉にすることができず、どうもこうもない、そんな気持ちで七転八倒です。いや、もう、すばらしいんです。ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害を抱える少女の物語。誰しも自分の心を持て余すことはあるけれど、ヒロイン百舌谷小音においては常人の域を超えています。それは他でもなく障害のためであるのですが、人との関係において過激に過敏に反応し、極端に振れてしまう彼女の問題が、こんなにも私の心をえぐるように感じられるのはなぜなのでしょう。彼女の戸惑いはひと事のようには思えない、彼女の悲しみ、辛さがまるで自分のなかに流れ込んでくるようで、もうたまらなくてたまらなくて、篠房六郎は本当にすばらしいな、そうした思いで一杯です。

第1巻が出た時は、本当の面白さはこの先にあるのに、そう思ったものでした。今、第2巻を読んでみて、第1巻は単なる導入、第2巻はその先の展開を準備するための女装、じゃなくて、助走期間に過ぎなかったのではないか、そんな思いにとらわれています。物語られることごとが、次へ次へと引き継がれ、発展していく、その様子があまりに見事なものだから、ぐいぐいと引き込まれてしまって、今読んでいるそこがピーク、いや次号こそがピークであろうと思ってしまうのです。

とはいえ、先を語ってしまっては、まだ読んでいない人に申し訳がたたない。というか、この漫画こそは予備知識なしに、いきなり読んでもらいたい、そんな風に思って、というのは、展開の意外性、そいつも楽しみのひとつだと思うからなのですね。基本は、お嬢さんがぱっとしない少年を(合意の上で)いたぶる、ちょいヴァイオレンスコメディである漫画。そこにひねくれてしまったお嬢さんの心情がオーバーラップしてくるのですが、コメディタッチとシリアスの間をいったりきたりする、その落差がものすごく、そして毎回の終わりには、早く次号を読みたいと思わせる、そんなシーンが用意されているのですね。解決は先延ばしされて、それはまさにサスペンド状態。実際、私は今まさに宙吊りにされるかのような感覚を味わわされていて、一体このストーリーはどこに着地するのだろうか、そもそも着地はいつになるのか。先が見えない状況で、見えない展開に怯えてみたり、期待してみたり、そうした楽しみを奪うことなんて、私には到底できそうにありません。

だから、私はちょっとだけ、匂わせておきたいと思います。篠房六郎はいつだって、私の心に直に届くような、そんな台詞をぶつけてきて、それはそれはしびれるのですが、例えば他人を演じることで自分に向きあうこととなったシーンなどは、小生思わずむせび泣き。ドMに関する独自理論も、散々笑って、しかしその心意気とはどれほどに気高いものだろう。リフレインに胸を打たれて、あれは本当にすばらしい。私もかくありたい。そう思わせる名シーンでしたが、それはまだ先の話。そして、私はその先こそが気になってしかたがないのです。そして、その先を知りたくてうずうずとしてしまう気持ち。それは、今語られていることが確かな面白さに裏打ちされている、そのためであるといってはばかりません。

2009年1月22日木曜日

三菱鉛筆 ユニホルダー

 この間から、ちょっと真面目に音楽に取り組もう、そんな気分になっています。具体的にはサクソフォンなのですが、アルトサックスは修理調整してもらったし、ソプラノサックスは買ったしで、もうこりゃやる気にならないと嘘だ、そんな気分であるのですね。なので、鉛筆を買いました。正確にいうと芯ホルダー、樹脂製のホルダーがあって、そこに芯を差し込んで使う、書き味やなんかは鉛筆だけど、鉛筆とはちょっと違うという代物です。しかし、なんでサックスを吹くのに芯ホルダーが必要なんだ? リードを鉛筆で黒く塗るといいんですよ、って、これは嘘です。信じちゃいけません。楽譜にね、書き込みするのに使うんですよ。覚え書き、注意事項、楽譜にはそうしたものが書き込まれるものなんですね。

そして、楽譜への書き込みは鉛筆がいいのです。まあ、シャープペンシルでもいいんですけど、私はあんまりシャーペンは好きじゃないので、線が細いしさ、製図するような人には必携なんでしょうけど、私の好みではありません。だから、もっぱら鉛筆を使ってきたんですけど、鉛筆というのも善し悪しで、すごくいい道具で好きなんですけど、ほら、軸が短かくなってしまうでしょう。短くなりすぎると、さすがに書きにくい。けれど、まだ書けるからといって使い続けてしまう。ホルダーを使ったらいいんですけど、私はあれはあんまり好きじゃなくて、って文句が多いな。けど、そう思うんだからしかたがない。しかたがないから、よりよいものはないかと思っていた。そうしていきついたのが、芯ホルダーです。

私の買ったのは、三菱鉛筆のユニホルダーというものです。これは、芯が4Bから4Hまでそろっていて、それを軸にセットして使う。軸、つまりはこれがホルダーであるのですけれど、外観は鉛筆、それも三菱ユニをかたどっていて、持ち手だけはローレット加工された金属になっている。ちょっと細過ぎるようにも感じるのだけど、まあそれはそういうものだと思うことにします。

私の買ったのはBでした。やわらかめの芯を選んだのは、少ない力で濃くはっきりと書けることを期待するからです。そもそも私がシャープペンシルではなくて、鉛筆を好むのは、太くしっかりとした線が欲しかったからで、それはやっぱり演奏時の視認性に関わるからなんですね。ぱっと見て判断できる、そうでないと困ります。小さい、よく見ないとわからないような書き込みなんて、役に立たないのですよ。だから私は鉛筆を愛用してきて、そして今芯ホルダーに移行しました。そういえば私の師匠は、1.0mmだったか、やけに太いシャープペンシルをお使いでした。色鉛筆を使う人もあるそうですが、間違ったり考えが変わったときとかに消しにくそうだから、私はちょっと使いたくないかな。ともかく、見やすさを重視する結果、これという筆記具にいきつく、そんなことも多いように思います。

私が、最近、とにかく書き込みしなきゃと切実に思ってるのは『歌謡曲のすべて』だったりします。自分が歌うときに、何カポで歌ってたか、それがもう覚えきれなくて、だからとにかく書いておかないといかん。いや、本当に切実な話なんです。本番なんかで、突然わけがわからなくなることだってある、そんな時に書き込みに助けられたという経験は一度や二度ではありません。だから、本当に書き込みは大事。これは音楽をやっている人なら、きっと理解してくださることだろうと思います。

2009年1月21日水曜日

Djangology

 昨年末からサックス吹きに復帰して、よしここは見聞を広めよう、これまであまり聴いてこなかったジャズサックスも聴くことにしよう、仕事帰りにCD店に寄ったのでした。しかし、ジャズのコーナーはどこだろう。店内をさまよいながらCD物色していたらですよ、なんかすごいの見付けました。それは10CDのボックス、価格は1680円。安っ! 見ればジャンゴ・ラインハルトやらアストル・ピアソラやらルイ・アームストロングやら、ビッグネームが並んでいて、うわ、ちょっと欲しいぞ。けど今日はサックスのCD買いにきたんであって、ギターもバンドネオンもトランペットもお呼びでない。とかいいながら、安さには抗えませんでした。買っちゃいました、ジャンゴ・ラインハルト、それからピアソラ。いやあラッキーだったなあ。久しぶりの大量購入に、なんだかわくわくしてくるのでした。

というのは昨日の話。帰宅後、次々iTunesに読み込んでいって、この20枚の他にもまだCD買ってたから、そいつから聴きはじめて、そしてついにジャンゴ・ラインハルト。今日で二日目なのに、まだ半分も聴けてないっていうんだからすごい。トータルで200曲、全部聴くには9.6時間かかるんだそうで、本当にものすごい。しかし、これだけの音源が1680円だってんだからありがたいですね。実は、前からこのセットの存在は聞いて知ってたんですが、どこで探したものかわからずにいたのですね。それが偶然にいきあたって、ラッキーでした。

ジャンゴ・ラインハルトというのは、ジャズギターを弾く人です。かなり昔の人。調べてみると、1910年生まれ、1953年に没したとのことです。まだ若いのになあ。ロマの人で、ロマの音楽とスウィング・ジャズを融合させたとありますね。けれど、この人を有名にしているのは、こうした話よりもむしろ事故によって動かなくなった左手指の逸話でしょう。火事で左手の薬指と小指が動かなくなってしまったっていうのですね。けれど、それでもこの人はギターを諦めることをせず、ついにはその不自由な手で、独自の奏法を編み出すまでにいたったのだといいます。

独自の奏法は、ハンデを克服するための必要から生れたのだと思うのですが、結果的にそうした工夫の数々が、彼の開いたジャズのジャンル、マヌーシュ・ジャズの性格を決定付けることになったのだそうです。特にそれはボイシング(和音の音の展開のしかた)に特徴的で、他のジャンルでは見られないコードフォームがあるんだそうですね。それは、例えば『ジャンゴ・ラインハルト奏法』なんて教本が出て、解説されているくらいです。

しかし、ジャンゴ・ラインハルトのすごいところは、そんなハンデがあるなんてまったく感じさせないところでしょう。軽快な伴奏、洒脱なソロ、どちらも素晴らしい。私はギター弾くようになってから、この人のことを知って、ちょこちょこ聴くようになったのだけれども、しかし華麗です。さすがにこのジャンルに手を出そうとは思わなかったけれど、一時期はこのジャンルに特徴的なギター、セルマー・マカフェリの廉価なレプリカを欲しいと思ったりもして(店で見かけたんだ)、もしそれ買ってたら、このジャンルもちょっとはやってたかも知れませんね。けど、多分ただのコレクションにしちゃったろうなあ。人間、あれもこれもってわけにはいきません。

さて、機会があればジャンゴ・ラインハルト、しっかり聴きたいものだというその期待がついにかなって、ジャンゴ漬けになっているわけですが、こうしてまとめて聴いてみれば実に多彩で、基本はギターとバイオリン、そんなところだと思うのですが、フルートやトランペット、サックスなど管楽器が加わった曲があり、歌もあり、そして曲調もさまざまです。アップテンポの、いかにもマヌーシュ・スウィングと思えるようなものがある、そうかと思えば、しっとりとメランコリ感じるようなのもある、多彩です。それらは、アメリカのスウィングとはちょっと違ったニュアンスを感じさせて、それは彼のロマの出自がためであるのか、あるいは広くヨーロッパという土地の持つ感性のためであるのか、そのへんはよくわかりませんが、ジャズのひとつのありかたとして、非常に興味深い。いかにも夜の音楽といったムーディさが素敵です。

2009年1月20日火曜日

ユーキャンペン字トレーニングDS

ユーキャンペン字トレーニングDS通信教育で知られるユーキャンが、ペン字学習ソフトを出していたことは知っていました。任天堂が出した『美文字トレーニング』に遅れること数ヶ月。『美文字トレーニング』同様に専用タッチペンを同梱し、しかも価格はより安く、けれど私はひととおり紹介文を読んだだけで、見過ごしたのですね。だって、私は今PILOTのペン習字通信講座を受講中。よって、当面は必要ないと判断したのです。また、文字というものはその一文字単体で完結するものではなく、前の文字、後の文字との関係も無視できないものです。しかし『美文字トレーニング』も『ユーキャンペン字トレーニング』も、習うのは一文字単位。そうしたところがどうにもひっかかったようで、面白そうだと思いながらも、結局は見送ったのでした。

けれど、なぜそれで今、『ユーキャンペン字トレーニングDS』を取り上げるというのか。それは、モニター募集のキャンペーンをやっているからなのです。バナーをBlogに掲示して、応募するとモニターになれる — 、かも知れないという話であります。へー、なんだか面白そうだなあと思ったので応募してみようと思ったのです。

私がこの手のソフトに期待するところがあるとすれば、それは添削機能であると思うのです。例えば、任天堂の製品だと、左右のバランスを見たり、複数ある横画の間が均等に揃っているかなどを見るようです。そのあたり、ユーキャンのものだとどうなっているのか、サイトの情報を見るかぎりではよくわからないのですが、よく書けたところを示してくれたり、またバランスの悪いところに朱を入れてくれたりするようですね。また、こうした添削に入る前の練習段階では、文字のどこをあける、そろえるなどのアドバイスをともに習えるようで、それはよさそうであるなと思えるところです。

ペン習字を習い始めたころ、私が『美文字トレーニング』に興味を示しながら見送ったのは、その文字が毛筆を意識したものであったというところもあったのでした。私は数年ほど毛筆もやっていましたが、タッチペンであの筆の感じを、というのはいくらなんでも無理でしょう。だったらすっぱりとペン字にいけばいいのに、なぜか手本は筆文字風。これはちょっといただけないなあ。筆圧を感知しないDSでは、毛筆のはらいなんて再現できないでしょう。なのに、手本にはそうした要素があるから、それは習う際に迷いをもたらしかねないと思ったのでした。

その点、『ユーキャンペン字トレーニング』は、ペン字に特化しているから、そうした迷いを持つことはないように思います。だから、もし私がペン習字講座を始めていなかったとしたら、こちらを買っていたかも知れません。けど、仮に買っていたとしても、続けられていたかどうかは不明ですね。

2009年1月19日月曜日

パティスリーMON

  パティスリーMON』が10巻でなんと完結! ええーっ、それは意外。だって、もう少し長く続くと思っていたものですから、これは本当に意外でした。ほら、第9巻が出た時に、物語もいよいよ佳境かといっていた矢先の完結ですよ。ラストに向けて動き出す準備も整い、あとは進むだけ。巻数にして、あと2巻くらいは続くかと思っていたのが、この10巻一冊できれいに完結して、あまりのはやさに驚きました。けど、拍子抜けしたなんてことはまったくなくて、だってあのラストに向かう流れは、もうずっと以前から用意されていたということがわかりますから。これまでに、MONに関わった人たちを、ひとりひとり訊ねるかのような気持ちにもなれる、そんな筋立てが私には嬉しかった。ええ、いろいろあったけれど、この人たちは気持ちを通じさせて、今はもうなんともなくなったんだ。和解という言葉が似合う、そんな光景の連続が嬉しかったのです。

そうした光景が幸いだったから、MONという店の雰囲気、それがあんなにもさっぱりとして暖かな、居心地のいいものだったから、音女の変化も際立ったのだと思うのです。第10巻は、最終巻にして、音女が決定的に変わった巻であったと思います。それまでは、不安に取り巻かれながらも、それこそパニック寸前にまで追い込まれるようなことがあったとしても、彼女自身のらしさを失なってこなかった。そんな音女が、ついに恋の不安に負けてしまいました。今までずっと、夢見がちのいい子であったこの人が、汚ない真似をするまでになってしまいました。持ち前の素直さ、真っ直ぐさではなく、怯えと不信に突き動かされるままに、かたく心を縮こまらせてしまって、それはしかし音女をより魅力的にしたと思います。

先日もそうした恋愛の混沌について書いていましたが、本当に恋愛というものはそうした、自分でさえ思いもしなかった側面をあらわにする危険物であるなと、音女の振舞いを見て思いました。音女は自分が卑怯なことをしていると気付いていました。気付いていながら、その振舞いを正すことができなかった。自分のやっていることがどういうことであるか、わかっていながら、最後の最後になるまで直視できなかった。そうした弱さが人間らしいと感じられて、いじらしい。人というのは、自分の心でさえままならないときがあるのだ、情動を抑えきれずに屈してしまう、そういう存在なのだということを思い出させます。

こうした恋愛の混沌にとらわれたのは、なにも音女が最初ではなく、土屋がそうであり、雪がそうであり、あるいは加瀬もそうだったのかも知れませんね。恋愛というものは、人を高揚させると同時に不安もつのらせるものであり、そして人はその揺れ動きのうちに、平静を失なってしまうものなのだということが、これでもかと描かれた漫画であったのだ。これが、最終話まで読んでみての感想であるように思います。

そして、その感想の核には音女と彼女の感情があったように思います。音女の感情、それは、自分らしくない振舞いをしてしまったこと、それがよくない結果を招いてしまったこと、そして後悔 — 。音女は自分の弱さを直視することとなって、ああ、そうした揺れ動く感情の描かれる、そこが『パティスリーMON』の魅力であると感じます。けれどそれだけじゃありません。この漫画のよいところは、弱さに負けた人たちが、その弱かった自分を乗り越えて、より大きく強い自分自身を取り戻していくというところです。土屋がそうであったように、雪がそうであったように、音女も自分を取り戻すのですね。あのチークダンスの父と母の情愛と、そして大門の — 、恋愛に怖れを感じていたひとりである大門の、真っ直ぐな気持ちの発露を受けて、恋愛の怖れを打ち消し、弱い自分を過去のものにする。その一連のシーンは、静かで、しんと冴えわたる、本当に素敵なものでありました。

さて、私はこれまで大門について、あえて触れないようにしていました。だって、絶対脱線するってわかっていたから。やれ、果物を扱い味見をするその姿がセクシーだとか、いや、ほんと、きらは男性を色っぽく描かせたら天下一品だなって思います。あの、ペティナイフ扱う大門の手の表情、果物の瑞々しさが色を添えて、そして小片を口にする、その顔付き、もうたまらんものがあります。そんな、仕事にかけては引き締まった表情を見せる男だのに、あの最終話での朴訥さ、そして最後のシーンでの少年みたいな屈託のない笑顔、ってもうたまらん!

と、こんな感じに脱線しても読まされる人が困るだけなので、あえて触れずにいたのです。

けど、この漫画は、大門の魅力にまいりながら読むのが正しいのだと思います。それくらい、やつは魅力的でありました。次点は、ショコラティエ安藤ですね。彼女もまた、恋愛の混沌のふちに立って、揺れ動いていた人であるかと思います。ええ、本当に魅力的な女性でありました。

  • きら『パティスリーMON』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第3巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第4巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第5巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第6巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第7巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • きら『パティスリーMON』第8巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • きら『パティスリーMON』第9巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • きら『パティスリーMON』第10巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2009年。

2009年1月18日日曜日

NHKスペシャル|シリーズ 女と男 最新科学が読み解く性

小芝居が気になって見始めたNHKスペシャル、『シリーズ女と男』の最終回が放送されて、ええ、ちゃんと見ましたよ。というか、母ともども楽しみにしていたんですね。さて、その最終回はどういう内容を扱っていたかといいますと、なんと男という性が危機に向かっているという、実に刺激的なものでありました。その危機というのは一体どういうものかといいますと、まずは性を決定する性染色体のうち、男性にかかわるもの、Y染色体がどんどん劣化しているっていうんですね。具体的にいいますと、男性女性ともに持っているX染色体に含まれる遺伝子の数が千程度であるのに対し、Y染色体はというとなんと70そこそこだっつうんです。えーっ! なにその比較にならん差は! なかなかにショッキングで、しびれる事実からスタートしたものですよ。

Y染色体が劣化するというのは、基本的に対で構成される染色体の中、Y染色体だけがシングルであるからなんだっていうんです。例えばX染色体の場合、女性の場合はこれが2本あるから、仮にどこかに欠損が生じたとしても、もう1本から補うことが可能です。しかし、男性のみに1本しかないY染色体では、欠損がでたとしてもその欠けた部分を補うことができません。そのため、過去より綿々とコピーされつつ受け継がれてきたY染色体は、どんどんその遺伝子数を減らしてきたんだ。そういう話であったのですね。

その結果が、さっきもいった遺伝子数が70そこそこという事実であって、そしてこの劣化を避けられない仕組みのために、あと五百万年もすればなくなってしまっているだろう。あるいは、突然変異が起きて、Y染色体を消滅させてしまう個体がすぐにでも出る、そんな可能性もあるというのですから驚きです。まあ、実際問題として、Y染色体の消滅が人類の滅亡をもたらしうるとしても、それ以外の要因で絶滅する可能性の方が大きいんじゃないかと、私なんかは思うわけですが、だって人類の文明の歴史なんて、たかだか千年単位で語られるようなものに過ぎないわけで、そもそも種としてのヒトにしたって、新人で十万だか二十万年前にぽっと出たものに過ぎないわけです。五百万年さかのぼってみたら、そこにいるヒトはせいぜい猿人ですから。それに、このY染色体の劣化は、我々ヒトに固有の問題ではなく、彼ら猿人、さらにいえば性の決定にY染色体が関わるようになった時にすでに始まっていた問題であります。だからこれは学問的には興味深いトピックであるけれど、直接に我々ヒトという種の未来をどうこうするほどの重みは、今のところ持ち得ない、そのように感じています。

それよりも問題なのは、ヒトの精子が弱っているという、そちらのトピックでありましょう。ヒトの精子は、ヒトが一夫一婦という制度を持ってしまったために、淘汰を受けなくなり、その結果弱くなってしまったというのですね。ヒトとの比較に出されていたのは、チンパンジーであったのですが、彼らの社会では発情したメスが複数のオスと性交するために、子宮内で複数の個体の精子が競争を余儀なくされます。その結果、運動性能に長けた精子を持つオスの精子が受精する、それはつまり、優秀な精子を持った個体の遺伝子が受け継がれるということにほかなりません。

けれどヒトは一夫一婦というシステムを持ったために、そうした精子の選別がなされなくなってしまいました。弱い精子を持った個体が淘汰されなくなってしまったわけです。そのため、ヒトの精子はずいぶん脆弱になってしまい、しかも悪いことに、環境要因と考えられる精子の弱体化もあるかも知れないときた。現在、私たちの社会では、不妊治療を受けるカップルが増えてきているといわれていますが、その背景にはそうした精子の弱体化があるというのですね。しかもなお悪いことに、不妊治療で用いられる顕微受精が、より精子の弱体化を加速させるかも知れないといわれて、ああ、こちらもなかなかにしびれる話でありますね。

こうしたしびれる話のあとは、多様化する性のありかた、あるいは家族というものの捉えかたといってもいいのではないかと思いますが、精子バンクや同性愛カップルの事例が紹介されて、人によってはなんだそんな異常な連中め! と思うのかも知れないけれど、私には特に嫌悪感のようなものもなく、むしろこういう選択肢がある社会のほうがよい、そんなこと考えているような人間ですから、面白いありかただなあ、ただただそう思うばかりでありました。そして、特に男を必要としない人があるということを知れば、将来においては、こういう選択も普通になっていくのかも知れない。それこそ、男が少数になって、あるいは消滅しても、テクノロジーがその生物学的欠損を補ってしまうのかも知れない、そんな風にも思います。

などと思いながら見ていた『シリーズ女と男』最終回ですが、その見ている間中、頭の中にあったのは、ゼントラーディでした。ほら、あのマクロスの。そして、今この文章を書いている途中、思い起こしたのは、『大奥』でした。そうか、あの社会が到来するのか。だとすれば、まあ問題はなさそうだね。なんて思ってしまう私は、結構な楽観論者であるのかも知れません。

2009年1月17日土曜日

誰が為に鐘は鳴る

 去年からずっと見たいと思ってきた映画、『誰が為に鐘は鳴る』のDVDを購入しました。買ったのは、いわゆる500円DVDというやつで、つまり著作権の保護期間が終わった作品というわけですね。古い映画です。制作年は1943年、アメリカの映画。原作はアーネスト・ヘミングウェイの大ヒットした小説らしいのですが、そちらはちょいとわかりません。機会があれば読んでみてもいいかもなんて思いますが、読みたくて買ったのにまだ読めてないものが、山になって積みあがっている現状をみると、よほどのことがないかぎり、読むことはないんじゃないかなと思います。けれど、映画は見たいと思っていた、その理由というのは、非常にばかばかしいものでありました。

去年の上半期のことになりますか。私は手帳を買っているのですが、それがこの映画を見たいと思ったきっかけでした。意味わからないですよね。もうちょっと説明しますと、私の買った手帳というのはいわゆるシステム手帳というやつでありまして、これが登場したのは第一次世界大戦がきっかけだったといいます。それまでは貴族など、上流階級が指揮官をやっていたのが、この戦争では平民あがりの士官が現われることになった。秘書を持たない彼らは膨大な情報を管理把握するために、システム手帳を必要とした、とかなんとかいうらしいんですね。

この情報を知ったときに、へー、そうなんだー、なんていって、適当に感心していたんですが、じゃあその将校たちは具体的にどのように手帳を使っていたんだろう。そんな疑問もわいたのでした。そうしたら、映画『誰が為に鐘は鳴る』にシステム手帳が活用される様子が描かれているっていうじゃありませんか。なんと、じゃあそいつを見てみたいものだ。

以上が、この映画を見たいと思った理由です。もう、本当にいいかげんというか、どうしようもない理由ですね。

けれど、確かに最初はシステム手帳の使われ方を見たいという動機であったとしても、見てみればそのストーリーに引き込まれて、舞台は内戦にあけくれるスペイン、フランコ率いる反乱軍に抵抗すべく義勇兵として戦いに身を投じたアメリカ人、ロバートが主人公。彼は、鉄橋爆破の任務を帯びて前線に赴いて、描かれるのはそれからの三日間に起こったことであります。ゲリラとともに暮らし、またゲリラに身を寄せていた若い娘、マリアと恋に落ちる。その恋は、多少唐突とも感じないではなかったけれど、しかし恋というのはそもそもそうした唐突なものであるのでしょう。だからそこは目をつぶり、三日後に迫る作戦に向けて準備をする最中の出来事を見ていけば、仲間割れや妨害めいた行動に対処し、作戦に必要な情報を集め、決行から逃走までの段取りを整える。その過程であきらかになるヒロインやゲリラの頭領たちの胸中、過去が語られ、先へ進む意思が確認された後に、物語はクライマックスへと向かうのですが、それは非常な痛ましさをともなうものでありました。

これが現在の映画ではないというのは、あのラスト、ハッピーエンドといえばそういってもいいかも知れない、けれど決してハッピーエンドではないという、そうしたところからも感じとれるように思います。以前見た『西部戦線異状なし』もそうした終わりかたをしていて、これら昔の戦争映画がこうした悲劇を描こうとするのは、戦争の持つ非人道性を伝えたかったから、なのかも知れませんね。次々と人が死んでいく。いいやつも悪いやつも死んでいって、そしてその人が死ぬ、人を殺すということが、強烈な忌避感をもって語られる。それは、当時の戦争に対して人々が感じていた気分であったのかも知れません。

とはいえ、この映画の作られたのは1943年。第二次世界大戦のさなかであります。主人公はアメリカ人、敵はドイツ、イタリアといったファシズム国家に支援されるフランコ陣営、ここに少々のプロパガンダ的な匂いも感じとったりしまして、だってロバートは自由を守るという思想に殉ずる、まさにヒーローであるのですから。自由そして愛を守るために戦い、そして散っていくというヒロイズム。それは痛ましくもあったけれど、一種憧れのシチュエーションともいえる、そんな側面もあったりします。だけど、多くの人はこれをゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマンという美男美女によるメロドラマとして見るのでしょう。ええ、そういう見方でいいのだと思います。特に今のような時代にあっては、ことさらそうだと思います。

QMA、ドラゴンに迷い込む

本日、QMAをプレイしてきました。180日ルールのために、そろそろプレーデータが消えてしまう、というので、久しぶりにゲームセンターにいったのでした。

いつもの通り、本日の記録を書いておきます。

0-0-0-0#2-1-0(0-1-0)

今日は三回しかプレイしなかったのですね。もちろん、参戦しようと思えばまだいけるくらいの余力は残していましたが、それを使いきると後に影響が出かねません。それに、体力気力があったとしても、時間がないんですよね。というわけで、三戦にとどめたのでした。

第一回目のプレイはフェニックス組で戦いまして、三回戦落ち、惜しくも5位でありました。けれど、運がいいのか悪いのか、前回が馬鹿づきで1位1位という終わりかたしていたため、過去三戦の平均順位が2位となってしまい、めでたくドラゴン組にあがることとなりました。

って、なんも嬉しくないなあ。

ドラゴン組では正直まともに戦える気がしません。雑学ビジュアルで二回戦落ち、10位です。全問正解あたりまえ、一問落とすと脱落リーチ、そんな状況にくらくらします。

というわけで、気分転換を図るべく、検定をしてみることにしました。私のやってみたのは、クラシック検定です。お前、大人気ないぞ、なんていわれそうですが、いいんです。

結果は、1696点でAランクとなりました。間違えたのは3問だけ。夢遊病の女はわかったけど、むゆうびうって打っちゃって、残念でした。けど、Sランクは2500点らしいですけど、そんなの可能なの? ほぼ問題を見た瞬間に答えているんですけど。全問正解したらボーナスが入る? それとも、間違うまで延々答え続けられるの? よくわかりませんが、予習なしでこれくらい答えられたら、まあ大丈夫ですよね。

最後のプレイはドラゴン組での全国トーナメントにもどりまして、学問ランダムの二回戦で区間賞ゲットです。やったあ(まぐれだけど)。と思ってたら、次のアニメ&ゲームタイピングで0点を叩き出して脱落しました。って、わかんないんだよ! ほんと、最近のアニメはわかりません。

2009年1月16日金曜日

ママさん

  山田まりおの漫画では『ママさん』が一番好きだったかも知れません。もちろん、初遭遇作であった『スーパーOLバカ女の祭典』も好きで楽しみに読んでいたのですが、けれど私は昔の山田まりおのよさを今もなお懐かしみながら、今の山田まりおがよいと思っています。破壊的なギャグ、スラップスティックが持ち味の作家だと思っていたら、今はもうそうじゃない。そうした持ち味も残しながら、人の心の機微も描いてみせる、そんな作家になっているのですね。ギャグの合間合間に心の揺れ動く様子が差し挟まれて、ぐっと胸に迫ります。そして『ママさん』などは、そうしたものの典型であると思います。

『ママさん』における心の機微。それは人を好きになるという気持ち、そのものでありました。主人公アキトは高校生。彼は、自分の母に恋心を抱いていて、しかしそれはマザコンというものとはちょっと違う。母、和美はアキトとは血の繋がらない、法律上の母であるのですね。しかし、和美はアキトをただ子供としか思っていない。そこに気持ちのすれちがいがあったのでした。

そうした気持ちのすれちがいは、アキトと和美の他にもあって、それはアキトの同級生、小池さんとの関係もそうであったと思います。アキトは小池さんとつきあっていた。しかし小池あかりは、そこにアキトの心がないということに気付いてしまった。アキトは和美を忘れるために自分とつきあっているのだ。それはわかっていたこととはいえ……。そうした小池さんの悲しみが、ところどころに浮びあがってきます。まあ、その現われかたが問題だったりするのですが。なんてったって破壊的だし、まさに乱心以外のなにものでもないって感じだし。しかし取り乱す小池さんの鬼気迫るその姿を見れば、ああ、恋愛というものはこうしたものであったなと、なにか胸に突き刺さるようであります。恋は心を掻き乱して、平静を失なわせるものでありました。成就すれば嬉しい、しかし同時に不安や怖れも渦巻くようで、まさしく『ママさん』における小池さんのポジションとは、この恋愛の混沌であったと思うのですね。

山田まりおは、そうした混沌をもギャグにしてしまって、けれどそのギャグは面白くありながら、その裏に痛ましいと感じさせるなにかを隠していて、こうした両面性がこの人の魅力なのでしょう。アキトの前では可愛く振る舞おうとする小池さんが露呈させる、汚ない振舞いや卑怯さは、女というのはこうしたもんだという、そうした現実を強調してみせるギャグでありながら、そうまでしなければならないほどにアキトを好きであったということを雄弁に物語っていました。そして小池あかりにおける結末に向かうあの描写は、変にリアルさを感じさせて、恋愛というのは劇物だなあと改めて思った。そして、その描写が説得力を持ったものであっただけに、アキトの恋心の深まりも強く伝わった、そのように感じています。

『ママさん』は2巻で完結して、私はこの話はうやむやにされて終わるのかなあ、そう思っていただけに、あの真摯なラスト、意外でした。これまでに描いてきたことを、真面目に受け止めたラストであったと思います。大逆転やどんでん返しとは無縁の、すごく落ち着いた、それでいて確かな変化の感じられた、そんな終わり方はアキトと和美の関係にはふさわしいものだったかもなって思っています。すごく、あのふたりらしい。そんな感じが、読んでいる私にしてもほのかに嬉しい、とてもいいラストであったと思います。

  • 山田まりお『ママさん』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 山田まりお『ママさん』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2008年。

2009年1月15日木曜日

手紙

 書店にいって、谷川史子の新刊を見付けて、そうなればもう買わないではいられない。私は、谷川史子のファンなんですよ。学生のころ、別の漫画目当てに買っていた雑誌にこの人の漫画が載っていて、それがどうにも気になりましてね、『くじら日和』でしたっけね、単行本が出れば買いまして、さらには既刊にも手を出して、もう好きで好きでしようがありませんでした。思えば、あのころ読んでいた少女向けの漫画、今も継続的に読んでいる人といえば、もう谷川史子くらいしか残っていないんじゃないかな。他の作家は、だんだんに疎遠になったりして、それは私の年齢がいって、どうにも馴染まなくなったってことなのだと思います。ですが、谷川史子だけはちょっと違っているようで、今も変わらず好きであるようです。新刊が出れば買う、それも、ただ買うだけではなくて、ああお元気に活躍していらっしゃるんだと、まるで近況お伺いするような気持ちで買う。そうした気持ちにさせてくれる作家は、確かにほかにもありますけれど、でも谷川史子に関してはそうした気持ちが非常に強く、それはとても不思議、自分自身からがとても不思議であるのです。

その新刊は、タイトルが『手紙』。ちょっとした誤りから読んでしまった他人宛の手紙。そして返信。私は最初この導入に、うわっ、さいてー、と感想をもらしてしまって、いや、だって、そうでしょう。なりすましですやんか。手紙というものは、相手に自分の気持ちを伝える大切な手段。それをインターセプトしたのみならず、よりによって返信してしまう。ひでえヒロインだな。しかも、その誤ちに気付くまでが長い。それはもう、無神経の域に達していると思ったほどでした。

しかし、そこから展開する物語の見事なこと。私は、この時点で、一点をのぞき、この話の仕掛けがわかってしまったんだけど、けれどそんなこと気にさせないくらいの大きな感情のうねりがあって、私の心はすっかりもっていかれてしまったほどです。しかも、これは長編ではない。短編なんです。長くない、それに、内容にしても特に新規という感じもしない、オーソドックスで、よくあるといえばそんな感じの話であるというのに、あらがえなかった。いや、むしろ、自ら身をゆだねたのかも知れません。とんとんとん、と進んでいくテンポのよさには、持ち前の陽気さ、明るさが添えられて心地良く、そしてラストまわりの揺り返し。涙が止まりませんでした。大げさなことはいっていない。それはとてもありきたりなこと。しかし、それはきっと誰もが感じることであるのでしょう。身に迫る実感が、つらくもあり、切なくもあり、この少女という季節を抜けて大人になりつつある頃の思い、それはとうに青年でさえなくなっている私にも容易に重なって、重み、確かな手応えを残したのでした。

収録の三編は、ハッピーエンドもあり、ちょっと悲しい終わり方をしたものもあり、けれどそのどれもに、人の誰かを思いやる、そうした気持ちがあふれていました。かけがえのない誰かのことを思う。しかし、人というものは哀しいもので、そのかけがえのないということを時に忘れてしまうんですね。あたりまえと勘違いしてしまう。そうなれば、思いは軽んじられて、ないがしろに、粗雑なものにされてしまう。そして、いつか後悔する日がくるのです。その後悔とは、きっとたまらなく深いものになるはずで、というのは、私もまた、そうした後悔に苦しんだことがあるからなのですね。

かけがえのない誰かが身のそばにあるときには、精一杯心を砕かないといけないんだ。そうしたことが語られた漫画であったと思います。見せ方はさまざま、仕掛けもいろいろでありましたが、語られることの真ん中には誰かを思うということがしっかりと息衝いていて、時に暖かく、時に切ないのでした。わずらわしいと思う気持ちが、心を遠ざけることがある。自信のなさや迷い、怖れが、人を思う心を弱らせて、ひとりよがりに陥ってしまう。けれど、谷川史子はそこに健やかさを一滴落してくれる。それが、あたりまえのことをあたりまえにできない、そうした弱さをはらってくれるように感じられるのです。朝の光が夜をはらうように、昨日の悲しみは少しいやされ、とげとげしかった気持ちもやわらげられる。そんな感覚が気持ちのよい三編でした。

  • 谷川史子『手紙』(りぼんマスコットコミックス クッキー) 東京:集英社,2009年。

2009年1月14日水曜日

NHKスペシャル|シリーズ 女と男 最新科学が読み解く性

一昨日の夜、黙々とBlog用の文章を用意していた時のこと、母の見ていたテレビが妙に気にかかりまして、なにかというと男と女の差を扱った番組です。脳の理解が進んだことで、男と女の得意とすることが違うということが、次々わかってきているといいます。ほら、ずっと前に話題になった本で、『話を聞かない男、地図が読めない女』というのがありましたけれど、そういった類の話だと思ってくださればよろしいかと。この番組におきましても、男は空間把握に長け、女は言語能力に優れているなどなど、そういった話がなされていて、そしてそれはかつてヒトが狩猟採集生活を送ってきた、その名残りなのだというのです。男は、逃げる獲物を追って遠出をした後、最短距離で帰るための能力が求められた。対して女は、動かないものを採集するため、目印を頼りに移動していたなどなど。しかし、これだけなら特に真新しい話ではなく、だから音楽など聴きながら適当に見ていたのです。それが、きちんと見よう、そう思ったのは、途中途中に差し挟まれた小芝居、そのあまりの意外さのためでありました。

小芝居といいますか、ミニドラマだそうです。筧利夫と西田尚美のふたりが、なんだか居酒屋? いや、定食屋だっけ? でなんかやってる。それが妙にコメディタッチで、それがあまりにNHKスペシャル風ではなかったものだから、飽きた母がチャンネルを変えたのかと思ったくらいでした。けれど、気がつくとNHKスペシャルに戻っている。なんだろうと思って母に聞いてみれば、チャンネルはそのままだというんですね。そうか、あの小芝居含めてNHKスペシャルなのか。ここで、私はヘッドホンをはずしました。無視できないくらいに、興味が大きくなってしまったのですね。

母のいうには、この番組はその前日もやっていて、その時のテーマは恋愛であったのだそうです。そうかあ、どんなだったんだろうとNHKのサイトを確認してみれば、なんだか面白そうだ。再放送予定を見れば、14日午前にあるという。なので、遅ればせながら見たのでした。

恋愛における男と女の脳の働きの違いが語られていました。男は視覚優位、女は記憶優位であるという話。それは男は、相手が子供を産めるかどうかを視覚情報にもとづき観察する。女は、子を産み育てるに際し相手が協力的であるかどうかを、その行動の記録から判断するというんですね。しかし、そうして育まれた愛は、せいぜい三年四年で終わってしまう……。なぜか。その理由と、そして破局を避けるにはどうしたらいいのか。米国での離婚防止の取り組みなどが紹介されて、ええ、正直にいいますが、これは本当に役に立つ番組であったと思います。

いや、役立てる機会があるかは別の話ね。ただ、いつなんどきなにがあるかわからないのが人生ですから。

この番組は、ミニドラマで興味を繋ぎつつ、現在わかっている事実をわかりやすく紹介し、そしてその結果が社会にどうフィードバックされているか、例えば第1回なら離婚防止のカウンセリングであり、第2回では男女別クラスであるなど、理屈とその実践をバランスよく紹介しているところがよかったです。女性との話し合いを口論にしないためにはどうしたらいいか。クライアントの性差によって効果的な営業のアプローチはどう違ってくるか。男の子に教える場合、女の子の場合、それぞれどういうやり方が適しているか。それらは、ただの知識にとどめてもいいし、あるいは人生における実践の場で役立ててもいい。それは見た人次第でかわってくる。そうした発展の可能性、広がりを持ついい特集であったと思います。

2009年1月13日火曜日

キミとボクをつなぐもの

 『キミとボクをつなぐもの』は、ご存じ荒井チェリーが『まんがタイムきららフォワード』にて連載していた漫画であります。芳文社では主に四コマを描いている作者ですが、これは掲載誌の関係もあって、コマ割り漫画でありました。連載の開始されたのは2006年。二年近くかかって完結した、こうして振り返ると意外に息の長い連載であったのですね。内容は、当時の流行を受けたのでしょうか、生まれ変わりものです。ひょんなことから前世の記憶を取り戻してしまった美少女浅川真雪が主人公伊達朝陽に迫ります。といっても、特段オカルトに走るわけでもなく、というか、作者はそちらの方面に関しては割と冷淡な感じであるから面白い。物語の都合から生まれ変わりは肯定されてしまうのだけど、序盤においてはやれくだらないだ、やれおかしいだ、おそらくは作者の地が出ていて、そうしたリアリスト的視点と少しオカルトな物語が、融和するでもなく進んで、なんとなく混ざり合って解決した。そのような構造が、煮え切らないといえば煮え切らない、けれどその曖昧性もまたこの人の味なのかも知れないと思われるラストでありました。

物語は、最初にいいましたとおり、前世の記憶や生まれ変わりを扱うオカルト志向。前世を見通す能力を持った少女も出てくるなど、描く人が描いたら、きっと強烈なやばさを感じさせるものになったかも知れないような話であるのですが、しかしさすが荒井チェリーというべきでしょうか、結構なあっさり風味にしあがっています。ただ、恋愛を扱ったコメディとしても少々薄味という感じもしますが、それはこの人の作風でしょう。他の連載でも、誰かが好きとか嫌いとかいいだしたりしているのに、恋愛ものにシフトしたりする気配はありません。恋愛となると、その方面にのめり込むかのように没頭させてしまう作家もありますが、荒井チェリーに関しては、恋愛至上主義という考えなどは露ほどもないのかも知れません。

以上のようなわけで、前世の因縁がからみあう恋愛のドラマティックを期待する人にはおすすめできない漫画であります。浅川に翻弄される主人公にしても、前世の記憶や過去の関係に悩まされながらも、実質は自分の魅力にも相手の気持ちにも鈍感である浅川の性格に手を焼いているという感じです。こうした印象が、オカルトを題材にする漫画でありながらも、そうした雰囲気に沈みこむまでには至らせないのかも知れません。あくまでも軸足は現在の彼らの関係にある、現在の彼らの気持ちに置かれているってことなのかも知れません。

生まれ変わりもの、前世ものといえば、私たちの世代ではどうしても『ぼくの地球を守って』が思い出されます。あれは、前世とその記憶に翻弄される少年少女を劇的に描いて、強烈な印象を当時の読者に残しました。ちょっとした社会現象として扱われた、全国紙が前世を求める青少年を特集するくらいでありました。そしてその物語は、登場人物たちに、前世を乗り越えさせることで完結したのでしたっけ。

『キミとボクをつなぐもの』もそうした道筋をたどって終結して、それはこと前世というものを扱うかぎり、こういう決着しかありえないということなのかも知れません。あるいはまったくの対極に振れて、前世に、因縁に飲み込まれるという方向にいくのでしょうか。しかし、この漫画は、過去は過去として、それらを乗り越えさせる方向に進みました。前世は現世における出会いもろもろをうながしはしたものの、現在の物語は現在の彼らが紡ぐのだ、そうした前向きな終わりかたをしてみせて、それは私は、前世などというオカルトに振り回される人もある現在における、健全のひとつのかたちであると思います。

2009年1月12日月曜日

森田さんは無口

 佐野妙は私にとっては『Smileすいーつ』の作者であります。姉と妹の暮らしを描いた漫画、姉が妙に色っぽいことがあって、別にそうしたニュアンスを強調しようだなんて風でもないのに、ドキッとさせられる。あんな素敵な人が上司だったら、どんなにかいいだろう。そういう気持ちになったことは、一度や二度ではありません。さて、私は『Smileすいーつ』ですっかり佐野妙の漫画を気に入ってしまったようで、だから『森田さんは無口』という漫画が出るよと聞いたとき、どんな漫画か知らないけど買い決定だ、そう心に決めた。いわゆる作者買いってやつですね。そして実際に買ってみたのでした。

森田さんは無口、ええ確かに無口であります。けれど、それは本当に無口、しゃべろうとしないのではなく、話そうとするその時に、どう話したらいいか、あるいはこれはいうべきことだろうか、いろいろ考えすぎた挙句に話す機会を逸してしまう。結果無口、寡黙と見られることになってしまい……、そうした森田さんの身の回りに起こることを描いた漫画であるのです。結構これが面白くて、けれどそれは『Smileすいーつ』とは違うタイプの面白さでありました。私はこの作者のまた違ったアプローチを知って、こういうのも悪くないなと思ったのでした。

違うのはアプローチ、私はそういいました。ということは、変らないものがあるということ。それは、人との繋がり、関係性ではないかと思います。森田さんが見る友人たち、そしてクラスメイトの見る森田さん。森田さんの真実を周りの皆は知らない、誤解している。逆もまたしかり。ある種の変わり者である森田さんの見る世界認識は、やはりちょっと独特なんだと思う。しかし、こうしてすれ違い続ける認識、誤解の積み重ねがあると思えば、そうではない、ちゃんとわかっているという関係もあって、例えばそれは森田さんの友人である美樹がそう。そうした関係性の違いに生じる濃淡、わかりわかられ、あるいはともに誤解する。そうした様を、一望できるというところが面白いんじゃないかと思ったりしています。

しかし、この漫画に対する、いやはっきりいおう、森田さんに対する感触は、実に危険な領域にある、そんな風に感じられてしようがありません。危険? ええ、ちょっと危険。先ほども少しいいましたが、私は読者の特権で、森田さんの真実に触れることができる、そんな立場にあります。それはすなわち、多くのものにとっては謎めいた存在である森田さんを、より正しく見つめることができるということであり、誰よりも彼女を理解しているのは私なんだっ、っていう錯覚に陥ることも可能ということです。だから危険。誰にでも好かれる、そんなキャラクターよりも、孤立ぎみのキャラクターにひかれる人には、ある種、訴えるものがあるのではないか。彼女は誤解されている、彼女のよさを知っているのは私だけだ、ゆえに彼女は私がまもるよ! こうしたパターンが確立されている人、そうした要素を受けて狂信的な愛に向かってしまうような人には森田さんは格好の獲物、失礼、ヒロインとなる可能性があります。

けれど、森田さんは特に孤立しているわけでもなく、その無口であるというところも含めて受け入れられている、つまり不幸ではない。いやあ、本当によかった。それは森田さんのためによかった、そして私のためにもよかった。私の狂信をトリガーする最大の要素は不幸です。森田さんには不幸の影はなく、たとえ誤解されて、ムラムラ、じゃないや、イライラするといわれることがあったとしても、そこには険悪といった印象はありません。だから心安らかに読める。そのテイストは、女の子社会におけるふれあい、であるような気がします。女子的コミュニティの雰囲気といったらいいか、それが私には新鮮であるように感じられて、長く女子的コミュニティに暮らしていたんだけどな。私にとって女子とは、なおも謎であり続けているようでありますよ。

さて、余談ですが、冷凍イカの目の森田さん、すごく魅力的でありますが、でもきっと、現実にこういう人がいたらムラムラ、おっと失礼、イライラするような気もするのでありますが、そうした森田さんにはじめはただの興味から、しかしいつしかただの興味ではすまなくなってしまっているような女子、あの眼鏡の娘さんが気になってしかたありません。

あ、それと、これも余談ですが、どうも私も磁石のM極の人間である模様です。あのお母さんも婀娜っぽくて素敵だなあ。

  • 佐野妙『森田さんは無口』第1巻 (バンブー・コミックス MOMO SELECTION) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

2009年1月11日日曜日

山吹色のお菓子

Bright yellow coloured pastry今日、人と会う機会がありました。学生時分からの友人であるのですが、年に何度かあるイベントにいくと会える、そう、今日はそうしたイベントがあったのですね。そのイベントでのこと、新年明けて最初のイベントですから、挨拶まわりする人も多い、特に長年活動していたりすると、結構な繋がりができていたりするのでしょう。友人が山吹色のお菓子を貰っていたのでした。ふふふ、お主も悪じゃのう、そうした台詞がつい口をついて出そうになる、時代劇における定番お約束ともいえる贈答品。しかし、なぜそんなものが現代に!? それは、そうした名前のお菓子が実際に売られているから。知る人ぞ知る、というか結構有名? 山吹色のお菓子であります。

私も名前は知っていたのですが、実際に目にするのははじめてでした。詳細は、書いちゃっていいのかな? まあ、販売しているサイトにも詳しくあるのでかまわないっちゃあかまわないんでしょうが、けれど実際に目にしたときのインパクトを損ないたくないという人は、説明をすっとばして、末尾のリンクをたどってみてください。

山吹色のお菓子は、風呂敷を思わせる包装紙に包まれています。今回の場合は熨斗紙がついており、そこには袖の下の文字が! これ、注文時に熨斗紙を依頼できるそうなのですが、カスタムではないとのことです。つまり、選択肢に最初から含まれているというんですね。熨斗紙を取り除け、包装紙を開くと、現われるのは重厚さを感じさせる黒塗りの箱。山吹色のお菓子という箔押しの文字が眩しい。そろりそろりと箱を開けますと、薄紙の向こうにきらりと光るものがずらりと並んでいて、こ、小判ですよ!

この一連の作業、実にわくわくできる、楽しいものでありました。しかし、洒落の固まりみたいなお菓子です。熨斗紙のオプションにデフォルトで用意されている袖の下にしてもそうですし、そもそもこうしたものを実際のお菓子として作って売ってしまうというところからがそうです。しかも、サイトが素晴らしい。商品についての一問一答風FAQは山吹色の質問に玉虫色の回答ですし、熨斗紙説明ページの弔事の場合なんかもすごい。本当にセンスあふれるサイトであると思います。

このお菓子を拝見して、そのインパクトや面白さを見知って、そして、今の時代、不況とはいいますが、それでも必要なものはある程度いきわたっているといっていい状況に達した日本においては、こうした付加価値が重要になってくるのだろうなあと実感しました。付加価値とは、質の高さであってもいいし、こうしたエンターテイメント性でもいい。これはいい、面白い、話題性がある、なんでもいいから他にない価値を付加することが重要。その価値が認められれば、多少くらい値がはろうとも売れる。その価値を、たとえ無形であったとしても、買おうという人があるってことなんだなあと思いました。

こうしてかたちとして提示されれば、ああこういうのありだな、って思えるけれど、実際に作ってみる人っていうのは少ない。それこそ、コロンブスの卵の故事に似たものがあると思います。着想こそが価値だけれど、実現されるより前にそれを思い付けただろうか、そして思い付いたとしても実行できただろうか。大切なことは、発想することを忘れないこと、思い付きを思い付きのまま捨てないこと、行動することなのでしょうね。

お菓子、お裾分けをいただいています。これは、食べるだけならただのお菓子、けれどそこにはそれだけではない価値が上乗せされています。その様子に触れて、はたして私は自分にどのような価値を付加できるだろうかと自問、新年から少し新鮮な気持ちを呼び起こすことができました。

2009年1月10日土曜日

YAMAHA ソプラノサクソフォン YSS-875EXHG

 世間は不況だ、ものが売れないだとかいわれています。このままじゃデフレスパイラルに陥るぞ、とにかく今は消費を増やさないといけない、そういわれているのに、消費が増える気配はちょっとありません。ということは、この先にはやっぱりデフレスパイラルが待っているというのでしょう、いやだなあ。そう思ったものですから、ちょっと頑張って経済に貢献してきました。楽器、買ったのですよ。ソプラノサクソフォン。ほら、あの真っ直ぐなのがかっこいい楽器ですよ。私の心のようにねっ、っていいたいところですが、私はきっとカーブドネックを使っていくと思うから、残念、ちょっと曲ってしまっています。

買ったのは、昨年末に一目見て欲しくなった楽器です。YAMAHAの製品、ソプラノサックスでは最上級機種にあたるYSS-875EXHGでありますね。この型番、EXHGというのは、エクストラ・ハイ・グレードではなくて、High Gキー付きのEXという意味。ああ、EXがなんの略かは知りません。High Gキーというのはなにかというと、通常サックスでは最高音がHigh F#までなんだけれど、さらに半音上の音を出せるよう孔をあけました、ってことなんですね。これにより、高音域での演奏がさらに容易になりました、みたいなことがカタログには書いてあるけど、ただ孔をあけたら出るってもんじゃないからなあ。実際、今日試奏していたときも、確かに出るには出るんだけど、実用になりそう? っていわれたら、自分にゃ無理と答えたいところです。そもそも体力に劣り、少々へこたれてもいる私には、High Fくらいが限界って感じでありました。

試奏したのは、楽器を選ぶのではなく、楽器に取り付ける部品(といっていいのかな)、マウスピースを選ぶためでした。楽器っていうものは、こういうと語弊があるかも知れませんが、当たり外れがあるものなんですよ。いや、それはすべての工業製品にいえることではあるんです。車なんかでも、コンマ1秒以下で競い合うような世界においては、部品を精査して、精度の高さを追求します。楽器もそれと一緒で、とにかく性能命のものだから、同じメーカーの同じ型番のものでも、選んで使うのが普通のこととなっています。

その選定に数時間がかかってしまって、多分三時間くらいやってたと思います。あるいはそれ以上? ふたつのメーカーの5モデル、7本から最終候補を2本にしぼって、どちらがいいか、片一方は非常にオーソドックス、もう一方は広がりのある個性的な感触が面白かった。結果的に後者を選びました。マウスピースの個体差としては、前者の方が優秀だったかも知れないけれど、モデルとしての面白さで選びました。前者はバンドーレンのS27、後者は同じくバンドーレンのSL3で、そのどちらも息の入りはよかった(選ばれなかったものの中には、息が入らず、音量がかせげない個体もあったんですよ)。アンブシュアさえしっかりとしてくれば、高音から低音までしっかりと吹けて、しかしこれらは当然クリアされるべき最低限の資質です。よって、どれくらい表現しやすいかが重要になるのですが、まあどちらでもよかったと思っています。というか、余裕があったらそのS27も押さえておきたかったくらい。余裕がないから見送りましたけど。ちょっと未練ですね。まあ、S27を買ったら、SL3に未練を感じるに決ってるんですが。

サックスにおけるトップシェアは、おそらくはセルマーの製品だと思います。それはことマウスピースにおいては断トツで、あ、これはジャズじゃなくて、クラシックや吹奏楽での話ですよ、そういったわけで基準はセルマーということになっているらしいです。いやあ、それで参りました。サックスはマウスピースのほかにリードも必要なのですが、そいつをマウスピースに取り付けるためにはリガチャーという器具が必要で、それでもまた音が変わってくるので、当然また選ぶことになったのですが、バンドーレンのマウスピースはちょっと太いからリガチャーが合わないんです。ネジがしめられない。無理にやってゆがめてしまったら、お店に迷惑がかかります。唯一付いたのはロブナーで、しかしこれ重いっすね。抵抗感がすごくて、非力な私じゃ吹けない。ほんと、参ったなあ。お店の人に相談したら、バンドーレンのリガチャーが出てきて、そりゃもう当然ベストマッチですよ。なので、リガチャーに関しては選ぶ余地すらありませんでした。

余談だけど、アルトサックスでも私はバンドーレンのマウスピース、A20を使っているのですが、それにはハリソンのリガチャーを合わせています。これは、マウスピースの径に合わせて複数モデルが用意されているからこそ可能な組み合わせであるのですが、だから、ソプラノでもそうじゃないのかと思って聞いてみたら、カタログには1モデルしかなくって、ああもう、ソプラノってそんなにマイナーか! そんなにみんなセルマーが好きか! ひねくれて、星をにらんだ私でしたよ。

今回買った楽器は、プロ奏者による選定品。だから私が選ぶ必要はなかったのですが、いい機会だから875EXも試してみようと思っていたのです。もちろん、875EXの方がいいと思ったらそっちを買います。ですがそっちは売れてしまっていて、おお、私のほかにもソプラノ買った人いるんだ! 素晴しいなあ。ちょっと感動した。で、今の心配は、私の選んだマウスピースが正解であったかどうかがわからないってところですね。同じモデルの2本から選んだ、それはいいのですが、それはただましな方を選んだというだけで、たとえば30点と50点とあるうちの50点だったかも知れませんよね。もちろん30点と80点だった可能性だってありますよ。でも私には基準といえるものがなかったものだから、結局は相対評価にすぎず、レッスンにいってみたら、あんまりよくないね、っていわれるかも知れんわけです。不安だなあ。まあ、それもひとつの経験ですよ。

そう割り切って、これからさらに経験を積んでいきたいと思います。もしマウスピースに不満が出れば、その時には、きっともっとよりよく判断できるはずでしょうからね。ただ、バンドーレンを大量に置いているところってのを知らないからなあ。そういった情報を仕入れるのも、課題のひとつかと思います。

引用

2009年1月9日金曜日

夏乃ごーいんぐ!

  昨日、背の低いヒロインが好きだなんていってましたが、当月は同じく背の低いヒロイン夏乃陽子の活躍する『夏乃ごーいんぐ!』の4巻も発売されて、そりゃもちろん購入ですよ。私は、この漫画が好きで、たかの宗美の芳文社初登場となったこの連載に、ほー、知らない人だけど、面白い漫画を描く人が出てきたなあ。キャラクターもいきいきと動いて魅力的だし、なんて思っていたら、えらいベテランの人でした。ごめんなさい、存じあげませんでした。道理で、飛び蹴りが無闇にうまいわけです。

私がこの漫画にひかれたのは、背の低いヒロインが好きだから、ってのももちろんあるのですが、それに加えて夏乃陽子のアグレッシブさ、なんにでもポジティブに取り組み、必ずや成果をあげる、そのタフさに魅了されたんでしょうね。小柄、ちんまりとして可愛くて、声なんかちょっと聞き取れないくらいに小さくて、けれどアクションはダイナミック、やることなすこと強引、そしてなによりも元気で明るい。魅力的じゃないですか。ええ、すごく魅力的でした。

人は自分にないものに憧れるだなんていいますね。そういうことだったと思うのです。私はとにかく活力のない、そんな男でして、だから溌剌と仕事に取り組む夏乃陽子がまぶしく感じられた。夏乃陽子はデスクワークが嫌い、ですが私はまったくの逆で、体使う仕事が嫌い。そんな、自分と対極にあるようなキャラクターの活躍する様は、強引で無茶で過激で過剰なものでありましたが、晴れ渡った空のようなすがすがしさもあって、このすがすがしさ、さっぱりとして淀みのないところ、それが私にはとてもよかったのでしょうね。

おおっと、これって私が曇り空のように、どんよりとして淀んでるっていってるのと同じじゃないのんか? ……まあ、間違っちゃいないか。

夏乃のそうしたよさは、ただキャラクターの性格というだけではなくて、漫画全体からも感じられるような広がりを持っています。シンプルでわかりやすい。ひねったりうがったりするくらいなら直球勝負だ。そんな風にさえ感じられるネタは時に強引で、時に無茶なんだけれど、単純であるがゆえに面白いというところもあって、そして大切なのは単純だけど単調ではないってことだと思います。定番のネタでも、ちょっとした意外性をもって現われれば、おっと思う。しかもそれが勢いよく、最短距離を突っ切るようにして飛び込んでくるのだから、なおさらです。いきがいいなあ、そんな印象があざやかであるのですね。

さて、どんよりと淀んだ私のお気に入り夏乃はといいますと、4巻79ページ、綿入れ半纏はおって、横着に首つきだしてコップからお茶? すすっている姿だったりします。こういう、気取らない様子っていうのが好きなんです。気取らず、気張らず、真っ直ぐ。さっぱりとして実にいいじゃありませんか。

  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年1月8日木曜日

先生はお兄ちゃん。

  先生はお兄ちゃん。』の第2巻が発売されて、およそ一年での単行本化、人気があるのだなあ、わがことのように喜んでいます。そういったこと思うのは、私がこの漫画のファンであるからなのですが、それこそゲスト掲載のころからなんかいいなあと思ってきて、それが人気があるようだときたら、嬉しく思うのも人情であろうかと思います。しかし、なにがそんなに面白いと思ったのか。主人公は背の低いことを悩んでいる妹。彼女には、妹大好きの兄貴がひとりあって、それがクラス担任をやっている。常軌を逸した妹偏愛ぶりに、皆はあきれ、当の妹はおかんむり、それがパターンとなっています。ありがちといえばありがちな設定です。けれど、これが面白くていいなあと思ったんですね。

なにがよかったのか。自問自答してみれば、やはり妹の可愛さがあるのではないかと思われます。ああ、あんた背の低い娘、好きだものね、っていわれればそうなんですが、けれど妹に関してはそれだけではなくて、その話し口ですよ。見た目、花のような美少女であるというのに、口調はきっぱりはっきりとして、むしろ凛々しさ感じるくらいで、だからもしこの妹が女おんなした口調性格してたとしたら、ここまで好きになってなかったと思う。ええ、私はこういったさばさばした人が好きなんです。男でも、女ならなおさら。だもんだから、この妹、桜木まゆはよかった。そして、もう一点、好きなものを前にしたときの妹のハイテンションぶり。それは、妹を前にした兄を彷彿とさせて、なんという似たもの兄妹! そう思わせるためのギミックであるのは重々承知しながら、そのギャップにやられてしまって — 、というのは以前にも話しましたとおりです。

第2巻では、不動不変と思われたこの漫画の設定にちょっとずつ動きが見えはじめて、兄が同僚の養護教諭神奈月子を少し意識しているような描写が出てきたり、登場人物、準レギュラーですかね、も増えて、妹をめぐる男性の影もちらほら、なんだかそれはこれまでになかった傾向を期待できそうで、いい感じです。そして、進級。私はこれに驚いて、この漫画は永遠の現在を高校1年設定で突き進むのかと思っていたのに、あっさりと進級。その際のアナウンスも気がきいていて、面白かった。ええ、随所に見られる漫画的表現や約束ごと、過去に蓄積されてきたものがうまく利用され、そしてうまく機能している、そういうところも私のこの漫画がいいなと思うところであります。

そうしたギミック的な面白さというのは、漫画としての面白さを工夫しようとしたその結果生じたものであると思います。楽しみまた楽しませようという思いは、毎回の面白さとして現われて、そして単行本ではおまけとしての描き下ろし、たくさん描きすぎて、収録本数削られたとのことですが、そのサービス精神には本当に頭が下がる思いです。それに、その描き下ろしがですね、実に気のきいたもので、本編漫画に+αされる面白さがとてもよかった。ああ、この雰囲気、やっぱり好きだと再確認するような気持ちで読めました。連載を追っていた人間も、新鮮な印象を得ることができる — 、それはひとえに漫画をよりよいものにしたいという意識のたまものでしょう。そうしたところからも、この漫画に対する作者の愛情といったようなものを感じられる、そんな風に思うんです。

2009年1月7日水曜日

恋愛ラボ

  今日はまんがタイムコミックスの発売日、というわけで、今日まで漫画の話をしないようにしてきたのでした。一年最初の漫画の話題はこちらです、ってやりたかったんです。しかし、なぜそこまで四コマに、しかもまんがタイム系にこだわるのか、って感じですが、まあ、私の四コマの入り口がまんがタイム系だったから、なんでしょうかね。

さて、一年最初の漫画の話題は『恋愛ラボ』からです。女子中学生たちが、理想の恋愛を思い描き、特訓をするというコメディなんですが、第2巻ではフルメンバーが揃って話もどんどん進んでいって、これがもう面白い。私の、かなり気に入っている漫画です。

『恋愛ラボ』は、あくまでも基本はコメディ。恋愛特訓の的外れっぷりを楽しもうという漫画であるのですが、いやはや、それがもうただごとではない感じで、よくもこうまで話を膨らませることができるものだ、読むごとにワンダーを感じてしまいます。

なにがワンダーなのか。基本優等生で深窓の令嬢風の真木夏緒の暴走が半端でないのです。なにが彼女をこうまで駆り立てるのだろうと思うほどに過激、苛烈、極端で、狙いどころは定番中の定番シチュエーションであったりするのに、なぜそれを実際に試すとそうなるの!? それは疑問であり、それは不思議であり、やっぱりマキはすごい、恐ろしい子! ワンダーなのであります。

当初は、ボケ役のマキにツッコミのリコ、倉橋莉子のふたりで進行していたコメディが、途中からスズ、棚橋鈴音が加わり、そして第1巻の最後でエノ、榎本結子とサヨ、水嶋沙依里が参加して総勢五名となりました。この、登場人物が増えるたびに、基本保守的で変化を嫌う私は心配をしてきて、散漫になるんじゃないかとか、面白さの質が変わってしまうんじゃないか、そんなことを思ってきたのですが、いやいや、全然問題ないですよ。参加者が増えてネタも広がり、またボケとツッコミの畳み掛けもよりその密度を増して、面白いなあ、っていうか、みんな夢見すぎじゃないのんか、とはいいながら、男も女も、ああして恋に異性に夢をもってしまうというのは、しかたのないことのようにも思うんですね。

うん、私もちょっとは夢見たくなることがあります。

登場当初は妨害者であったエノとサヨ。そのためにちょっと悪印象を持ったりもしたんですけど、だってエノはえらくツンツンしてるし、サヨは変に無敵キャラだしで、でもエノに関しては砂糖菓子発言から、サヨに関しては打ち明けて謝るなら今だったのにあたりから、その印象をがらりと変えて、いい子たちじゃないか、そんな風に思うようになって、ええ、この印象を一変させてしまった一連の流れ、これもまたワンダーであったと思います。実際、登場する子らをこうも皆個性的に描いて、そしてその誰もを魅力的に感じさせてしまう、その手腕はただものではない、そう思わせるに充分なものがあるのです。なんだ、いい子じゃないか。そうした印象は、読者である私だけでなく、登場人物間にもあるのかも知れません。なんだかんだ過去にあったとしても、それを引き摺ることなく、親密の度合いを増していく。そうした、友情を深めていくところ、それもまたこの漫画のよさであると思うのですね。

ええ、本当に素晴しい、そう思います。友人であるあなたをこんなにも大切に思っている、そうした気持ちが伝わってくるエピソードがあるんです。押し付けなんかでない、自然に素直な気持ちが伝わってきて、もう私は泣いて泣いて、こらえていた涙が、こう頬をスゥ…って。いや、ごめん、冗談なんかじゃなくて、あれは本当に泣く。コメディの楽しさの中に不意にさしはさまれたシリアスは、ただ物語を盛り上げるための薄っぺらな刺戟なんかではありえない、自分も感じていたことが今そこに描き出された、そう感じないではいられないほどに確かな重さを持った表現だったからこそ、涙を、共感を誘われるんです。それはもう、練習どころではなくなるほどに……。

すいません。ここは読んだ人しか相手にしない酷いBlogなんです。意味がわからない人は、多分、今年の後半くらいに第3巻が出るでしょうから、それを待ってください。私も楽しみに待ちたいと思います。

しかし、第2巻も見どころがかなりあって、それこそ個々のエピソードに触れていきたいくらいですが、それやるときっといつまでたっても終わらないので、しかしこの面白さは並大抵ではありません。そんな私のお気に入りはマキマキオ。エノが可愛いったらありゃしない。そういう私は、リコが好きですが、というか、あの娘はかなり魅力的だと思うですよ。ああ、そうか、私がこの漫画がいいなって思うのは、この娘たちに、私の嫌いな女臭さがこれっぽっちもないからなんだ。それは宮原るりの描く女性全般にあてはまるんだけど、自然体のその人らしさを感じさせる、そんなところがあるでしょう。その自然なさま、振舞いに、私はひかれているんです、きっと。

って、ほら、いつまでたっても終わらない。あ、そうそう、おまけにも言及しておきたい。子供っぽい友情と、少し大人になった友情、それが対比されるエピソード。一旦ウェイトを置いて、そして感情をふわっと広げてみせるそのやり方に、また、スゥ…、ですよ。ええ、彼女らの友情の確かさ、取り戻された関係、その幸いに、スゥ…。泣き笑いですね。ええ、幸いさに涙が流れることもあるんですね。

  • 宮原るり『恋愛ラボ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 宮原るり『恋愛ラボ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

引用

  • 宮原るり『恋愛ラボ』第2巻 (東京:芳文社,2009年),30頁。

2009年1月6日火曜日

無伴奏チェロのための6つの組曲

 去年の末にバッハの無伴奏チェロのための組曲の楽譜を買ったといってました。ただしそれはチェロの譜ではなく、サクソフォン用に編曲されたもの。昔、学生のころに練習しはじめて、楽曲の魅力にとりつかれてしまった、そんな話でありました。学生時分に使っていたのはコピーしたもので、今こうして原譜を手にいれて、久しぶりにまっさらの楽譜で吹いてみて、その景色の違いに新鮮味あるいは違和感を覚えたりして、いやあ、ちょこっと変わってるところがあるんですよ。アルマンドの最後から一小節、そこに確かにあったリタルダンドを示すrit. の表記が消されていて、なんでこれに気づいたかというと、そこの音符が手書きしたようにぐにゃぐにゃになってたからなんです。プレートナンバーは同じみたいなんだけど、使いまわしを続けたせいで、傷んじゃったのかな? 年月を経れば、楽譜の風景も変わるものなのですね。

さて、その問題のrit. ですが、コピー譜を見れば鉛筆で塗り潰されていて、どうも私はこのリタルダンドが気に入らなかったみたいですね。けれどこれは元ネタがあって、チェロの譜を頼りに、この編曲者がつけくわえただろう指示を消していったんです。私にとっては、あくまでもバッハの意図しただろうようになっている必要があったんでしょう。しかし、楽譜とは、それがどのようなものであったとしても、どこかに校訂者の意図の入るものであります。そうした中、演奏者はこれという楽譜を選び、そして研究者もまたこれという楽譜を選びます。

演奏者と研究者の好む楽譜は違っていることも多いのですが、最近の傾向だと、その差は縮まりつつあるのでしょうか。そもそも演奏からしても、演奏者の感性の発露よりも、作曲者の意図をいかに汲み取るかという方向にシフトしているわけです。そうした点からしても、両者の向おうとする地点は近いといえる、そんな気がします。その地点とは、できるだけ混じり気のない、作曲者の書いたとおりであろう楽譜です。

こうした、作曲者の意図が最も反映されたであろう資料をもとにして校訂された楽譜を、原典版というのです。作曲者の意図といっても、ことはそう簡単ではないのですが、だって一度出版されてからも変更が加えられるケースもあるわけで、特に、楽譜に書かれたものが音楽の完成品ではなく、あらかたの骨格を示す程度であるようなケースもあるわけで、楽譜にはこうあるけれど、実際にはオクターブ音を重ねて弾かれることが多かったとか、そういうことが書き加えられるようなこともあります。作曲者にとっても常に変化していた、そうした音楽をとどめる楽譜とは一枚のスナップショットに過ぎないのかも知れません。

まあ、そういう問題はあるにしても、校訂者がああだこうだと研究考察して、ひとつの結果を出す。それが原典版として出版されて、演奏者、研究者が手にする。その楽譜が解釈の出発点になっていくんですね。

私が音楽を学んでいた時、バッハといえばウィーン原典版あるいはベーレンライター原典版がよいといわれていたような覚えがあります。ウィーン原典版は赤い表紙、ベーレンライターは青い表紙で、当時私はようわからんままに、こうした楽譜を手にしていました。チェロ組曲に取り組んだときも原典版を図書館で探して、これを参考にしたんですね。ベーレンライターでした。けど、これが人気というか、いったい誰がストップさせるのか、最初のころ、なかなか返却されなくて往生して、しかたがないからファクシミリ(手書き譜の写真版)を借りたら、これがまたよくわからない。やっぱり印刷譜っていいですよ。

こないだ、古い友人と電話で話したとき、この曲の話題になって、彼はチェロ譜を見てやってるといっていました。そうか、それで充分いけるよな。そう思ったものだから、一番がある程度吹けるようになったら、今度はチェロ譜を買おうと思います。その際には、いったいどの楽譜がいいのか。実際に演奏する人は、どこのを使うことが多いのか。そういう情報を持たない私は、きっとベーレンライター原典版を選ぶような気がします。ここには、この楽譜なら間違いないだろうという信頼と、権威への弱さが見てとれて、いやはやいけませんね。ベーレンライターを選ぶなら選ぶで、なぜそれを選んだかちゃんと説明できるのが理想ですが、ちょっとできそうにないなあ。こういう横着さは、重々反省されねばならないところであります。

2009年1月5日月曜日

Gnome Partition Editor

今日は、新年最初の出勤日でありました。ああ、今日からまた一年が始まるな。そう思いながらの出勤は、特になにか晴れ晴れとしたものがあるわけでもなく、昨年に予告されていた仕事、機器セットアップの手順をどうしようかというものでありました。機器セットアップといってもたいしたことはなくて、職場で使うコンピュータに必要な設定を施してソフトウェアをインストールするという程度。まあ、一日かけることもなく終わるんじゃないかと思っていたのでした。しかし、これが思いもかけないことになるのですから、世の中っていうのは面白いです。その思いがけないことっていうのはなにかというと、パーティションの作成でありました。職場のPCは、詳しいことはいえませんが、Dドライブを必要としていて、ところが作業者がいうには、PCの初期設定が完了し、添付のバックアップツールを実行したらDドライブが消されてしまったとかいう話です。そんなわけで、急遽Dドライブを用意する、つまりパーティションを操作する必要が出てきたのですね。

しかし、残念なことに、私はこの手のツールには詳しくありません。泥縄式にツールを探してみて、そして見付けたのがGnome Partition Editor。パーティションを操作するためのオープンソースソフトウェアであります。GUIが用意されていて、NTFSを含む各種ファイルシステムに対応するという素敵ツールで、しかもLive CD、CD-ROMから起動して使うことができるというのですね。

早速isoイメージをダウンロードして、ディスクを作成。使ってみたのでした。

結果からいいましょう。うっかり失敗してしまって、データをきれいさっぱり消し去ってしまいましたとさ。いやあ、思ったようにパーティションのサイズが変更できなかったものだから、試しにパーティションテーブルを触ってみたら、情報が飛んじゃったんですね。いやはや、慣れないことを、慣れないツールで、軽率にやるもんじゃありませんな。反省しました。

とはいっても、セットアップ途中のPCですから、損害は時間と手間だけです。再度リストアを開始して、その際には同ツールでもってDドライブ分の領域は確保しておいて、ところがリストアツールがディスクをきれいに再フォーマットしてくれたものだから、その作業はまたもやパー。と、これをこのツールの名誉回復の機会と捉えまして、再度チャレンジしてみたら、今度はあっさりと完了しました。

このツールのすごいところは、多様なファイルシステムに対応するだけでなく、サポートする言語もまた豊富であることでしょう。日本語が選択可能なんですよ。こうした、失敗してしまうと取り返しのつかない作業を、慣れた言語でできるというのは非常に大きなことだと思います。まあ、それでも私は一度失敗したわけですが。でも、日本語で作業できるのはすごく楽でした。というか、すごいなと感心するばかりでした。

昔は、フリーソフトウェアというと、製品に比べて信頼性や性能が劣るものであり、サポートに期待はしないのが鉄則という印象がありましたが、今や下手な製品よりも高性能、高信頼性を持っていたりするから怖ろしいですね。実際、パーティション操作ツールは製品として販売されているのもあるわけで、ですがちょっと調べるだけで無料で使えるオープンソースソフトウェアが見付かってしまう。しかも、昔なら言葉の壁とか、技術の壁とかがありましたけど、Gnome Partition Editorに関しては、日本語が用意されていて、バイナリも用意されていてという至れり尽くせり。ソフトウェアを作って売っている人たちからしたら、脅威どころの話ではないだろうなと思いますよ。本当、ソフトウェア産業ってどうなっていくんだろう。

などとちょっと心配にもなりながら、けれどその恩恵をうけているのですから、あんまり偉そうなことはいえません。でも、本当にすごい時代になったものだと思いますよ。

2009年1月4日日曜日

女性ジャズボーカリストのためのスタンダードソングブック

 音楽をやっていて実感するのは、楽譜の大切さであろうかと思います。確かに、必要にせまられて耳コピーをすることもあるけれど、曲のつくりなどをしっかり把握したいという場合は、やっぱり楽譜にあたらないといけない。意外と、歌いやすいよう、やりやすいように変えて採ってしまっていることがあるんですよね。楽譜を見てわかること、そういうことは非常に多い。楽譜に向きあって、書かれているように歌う、演奏するということの難しさを実感するとともに、なんと、こういう趣向、仕掛けがござったか、と舌を巻く。いやあ、本当、楽譜大事。そういえば、昔、私の師匠にもいわれたものです。楽器は最悪なんとかなる、とにかく楽譜だけは忘れるなって。特に日頃使っている楽譜、書き込みをともに育ててきたものなら、その価値ははかり知れないものがあって、本当に楽譜というものの大切さは取り組むほどに実感されるように思います。

というわけで、音楽やってると楽譜がとにかく増えるんですよ。私は今はあんまり増やさない方向でやっているけど、でもそうもいってられなくなってきました。去年の末、リクエストに応えるために『歌謡曲のすべて』を買いました。まずは『秋冬』のために買った曲集ですが、ほかにもいい歌がたくさん入っているものだから、少しずつ歌える歌を増やしている途中で、けれどまだほかにも歌いたい歌はたくさんある。だもんだから、次は『フォークソングのすべて』でも買おうか、それとも中島みゆきかさだまさしの曲集でもないものか。いろいろ企むわけですが、そんな私が今欲しいのが『女性ジャズボーカリストのためのポピュラーソングブック』であります。

おまえさん、ジャズボーカリストでもなければ、そもそも女性でもないじゃんか。

そんな声が聞こえてきそうですが、まあまあ、話を聞いてつかあさい。そもそも歌うかどうかわからないじゃありませんか。っていうのはですね、昨年末に復帰したサクソフォン、そいつでやりたい曲があるのですよ。それはなにかといいますと、Calling Youであります。映画『バグダッド・カフェ』の主題歌ですね。これがもう本当に切なくていい曲で、ふと『バグダッド・カフェ』を思い出して、それと一緒にこの歌も思い出して、もうこれを演奏したくてしたくてたまらない感じになってしまって、はたして楽譜は出てるのか? と思って調べてみたら、ありました。それが『女性ジャズボーカリストのためのポピュラーソングブック』であります。

とはいえ、現物を確認してみたわけではないので、買うならまずは書店等でどんなものか見てからになるでしょう。とりあえず今わかっているのは、収録曲と楽譜の構成くらい。メロティ、コード、歌詞のみの楽譜(リードシート)にワンポイント・アドバイスが付いているみたいです。模範的な譜面およびコードと歌詞を付けて収録しているみたいです。ということは、伴奏譜は期待しちゃいけないのかな? ということは、伴奏者を頼むときは、コードを見て弾ける人を選ぶか、あるいは伴奏譜を自分で書いて渡すかどっちかってことになりそうですね。まいったな、ピアノのアレンジなんてできませんよ。だって、ピアノ弾けないんだもの。

この先、本当に期待どおりに仕事がくるのかどうかわかりませんが、もし仕事になるとしたら、こうした曲集でも持って、レパートリーを増やすことも考えないといけません。その時々の流行曲を演奏する、それも必要で、ある程度定番になった曲も演奏できる、それもまた大切なことであります。だから、こういう曲集を何冊か持っておくと、助かることも多いんですよね。

といったわけで、今度楽譜売り場にいったら、この本をチェックしてみることにします。とかいいながら、シャンソンを買っちゃったりするんですよね。どうにも落ち着きのない私です。

引用

2009年1月3日土曜日

アメリ

 昨日、少し触れました『バグダッド・カフェ』、停滞していたところにひとりの女が現われて、状況をどんどん塗り替えてしまうという、そんな映画だといっていました。なんというのだろう、見ると元気になるというか、再び潤いをとりもどせる、そんな感じの映画であったのですね。この映画の制作されたのは1987年、西ドイツ作品だそうですが、こうした状況を打破する女性といえばもうひとつ思い出されるものがあって、それはフランス映画、制作年は2001年、『アメリ』であります。この映画、『バグダッド・カフェ』とはタッチも違えば、その受ける印象も違うんだけど、思い出してしまったものはしかたがない。というか、これまで一度もとりあげていなかったというのが意外なくらいで、DVDも買っちゃってるくらい好きな映画であるんですけどね。

しかも映画館にいって見たはずなんです。職場の誰かと連れ立っていったんじゃなかったかな。で、DVDまで買う、しかも缶入りのものを買うという、まあこれは同じ買うならレアなのを選んだ方がいいんじゃないの? という、マニアにはよくある思考からなんですが、まあ、嫌いな映画ならそこまではしませんわね。

この映画は、ちょっと変な女の子、というにはとうがたちすぎているようにも思いますが、アメリのちょっとしたいたずらや楽しみ、興味が、誰かの人生に影響して、自信や優しさを取り戻させたり、生きる希望を沸き起こさせたり、そうした様子をコミカルに、テンポよく描いて見せて、実に面白かったのでした。いたずらというのも、変に手が込んでいたり、変に大掛かりだったり、けれど見る人を嫌な気分にさせるようなものではないんですね、一部は除きますが。こんなことが身近にあったら、私の色褪せた暮しも、素敵なものに変わるかも知れない! ささやかに生活、人生を応援するようないたずらとその顛末が、ユーモラスに、キュートに描かれるのが本当に気持ちを高揚させて、そして時に緩ませてくれる。ほっと、暖かな気持ちになれる、それがヒットの理由だったのだろうと思います。

しかし、さすがフランス映画とでもいいましょうか、ポップで、コケティッシュ、どこかノスタルジーを感じさせるフランスをハイセンスに描いているその端々に、なんともいえない皮肉っぽさというか、意地の悪さみたいなのも感じとれて、とてもフランス的。人生あるいは世界に対して向けられたシニカルな視線というものが感じとれる、そんな気がしましてね、ただ可愛いだけの映画ではないんですね。だいたいにして、ヒロインであるアメリ、彼女からがビザール、変な娘であるわけです。フランスにおいて変なら、日本においてはさらに変だろう、そんな、ある種、社会から外れた人間による偏った世界認識、そうしたものがベースにある映画であると思います。ですが、こうしたベースがあるからこそ、あの各種いたずらや報復劇、あまり一般的とはいえない趣味が生きてくるのだと思うんですね。そして、こうした下地を受けるからこそ、アメリに対して与えられるアドバイス、怖れずに踏み出せという、それが生きるのでしょう。

一歩、世界に対して距離を置いていたアメリが、そうして距離を置いていたからこそ可能だった試みの数々を経て、ついには世界に対し一歩を踏み出す。ひとりの娘が、怖れを越えて変わろうとすることを望むまでの様子。他人の思いを変えるきっかけを与え続けていた彼女が、ついには自分の気持ちを変えるにいたった。そうした、変化を望み、変化に身を投じるまでのプロセスが、なによりも魅力的と感じられる映画であったと思います。

2009年1月2日金曜日

バグダッド・カフェ

 昨年末に会ったイタリア人の悩みとは、日本のコーヒーがおいしくないというものでした。彼はその妻とフランス語で会話するのだそうですが、その妻のレポートするところによれば、オ・ドゥ・ショセットといって文句をいうらしい。オ・ドゥ・ショセット(eau de chaussettes)ってなにかというと、eauは水、chaussettesは靴下、靴下しぼった水っていう意味らしい。ヨーロッパ人のセンスっていかしてるわ、私はこの悪口をいたく気にいったのですが、確かに日本で飲むコーヒーはヨーロッパで飲むコーヒーとは違う、それくらいは私にだってわかります。

土地あるいは文化におけるコーヒーの違い、こういう話になると必ず思い出す映画があります。それは『バグダッド・カフェ』という映画なのですが、この映画の冒頭に、ドイツ人の忘れていった水筒のコーヒーをアメリカ人が飲むシーンがあるのですね。一口飲んで、顔をしかめて、水を足すんですが、つまりヨーロッパのコーヒーは濃い。あのシーンは、ヨーロッパ人とアメリカ人のコーヒーに対するイメージの違いを如実に現わす、好シーンだと思います。

私がこの映画を見たのは、もう十年くらい前になるんじゃないかな。以前の職場、図書館につとめていた時の話。当時、まわりには映画好きが集まっていたものだから、おすすめしたりされたりして、思えば私の映画に対する好みというのはあの頃に固まった、そんな気もする次第です。

その頃に、見るといいよ、名作だから、といわれたひとつが『バグダッド・カフェ』でした。私、タイトルで思い違いをしていたのですが、これは中近東あたりを舞台とする映画ではなくて、西ドイツ、アメリカの合作、舞台もアメリカはモハヴェ砂漠にたつカフェ。バグダッド・カフェというのは、そのカフェの名前であるのですね。しかし、それにしても独特な印象のある映画でした。全体に重いあるいはくすんだ色調が支配的で、そして映画の内容もそうしたくすみを帯びたものでありました。

アメリカにひとり取り残されたドイツ女が、バグダッド・カフェにやっかいになるという序盤に、そのくすんだ色調は色濃かったように思われます。不和や倦怠があちこちに顔を出して、アンニュイな映画、そんな印象を持ったものですが、けれど時間が過ぎていくごとに、その印象は新たな色で塗り替えられていきます。バグダッド・カフェに新たに加わったドイツ女の、飾らない人柄が魅力的でした。若くもない、美人だったという印象もない。けれど、すごく人懐こくて、すごくチャーミングであった、そういう風に記憶しています。よく働く人、ほがらかで、さんさんと照る太陽のような暖かみをもって、人を、場所をすこやかに変えていった。その変化の様が、ちょっとコミカルで、時に胸をかきむしるかのように切なくて、そして幸いで、いい映画だ、名作だと一押しされる理由がわかろうものでありました。

切なく感じさせたのは、Jevetta Steeleの歌う主題歌、Calling Youのせいもあったと思うんです。絞り出されるような I am calling you の響きに胸はいっぱいになって、それからしばらくの間、心がこの曲にピンで止められたようになって、忘れられなくなってしまった。

I am calling you
Can't you hear me
I am calling you

私は呼んでいます。聴こえませんか、私はあなたを呼んでいます。

切なさに胸がいっぱいになります。なんて美しい歌だろう、泣きそうな気持ちになって思います。

引用

  • Telson, Bob. Calling You.

2009年1月1日木曜日

ベルリン・天使の詩

 昨年の末、恩人の連絡先を見つけようと、古い年賀状をここ十年ほど遡ってみる機会を持って、しかし、それは思いの外に切ない作業となりました。端書をめくるその途中に見付ける懐しい名前。それは昔の友人であり、恩師であり、皆さん、今はいかがなされているのだろう、そうした思いに少し微笑みなどして、そして鬼籍に入った人からの年賀状 — 。ああ、この人はもう私たちの住まう岸にはいらっしゃらないのだ。旅立たれて数年が過ぎて、得難い人、類縁の者、そのかけがえのなさに思い至り、少し寂しさ、悲しさを胸に抱いたのでした。

これもまた昨年のこと。『刑事コロンボ』でとりわけ知られる名優、ピーター・フォークの近況が知らされて、アルツハイマー型認知症に罹患されているということがわかりました。誰にも訪れる老い、そして病。自身、また身の周辺を見回しても、その色は年々濃さを増して、おそろしさに気の遠くなるような思いをすることがあります。そしてそうした病とは、思い出のヒーローにもふりかかるのですね。往年の姿が思い出される、そうしたことごとが、現実というもの、時間の過ぎたということを、これほどに切なく思わせて、私はたまらなさに言葉を失なってしまいます。

多くの人にとって、ピーター・フォークは『刑事コロンボ』の人であると思います。ですが、私には彼は『ベルリン・天使の詩』の人であって、それは私がこの映画をとりわけ好きであるからなのだろうと思います。

『ベルリン・天使の詩』、人間の世界を訪れた天使が、あまりに不完全であるはずの人間に憧れを持つ。そうした映画でありました。モノクロームで構成された画面は、天使の眺望であるというのでしょうか。人の世界を傍観するかのごとくに、転々とその視点を変えていきます。見始めのころなどは、これは一体なにを描こうとする映画なのだろうかと思うほどに淡々として、脈絡といえるものがつかめるまで、支えを失なったかのような感覚で見ることになったのでしたっけ。でも一度その仕掛けがわかれば、その魅力はしんしんと身に迫るようで、少々センチメンタル、けれどラストは前向き、極めて美しい映画であると記憶されたのでした。

ピーター・フォークは、この映画において、非常に重要な役を演じています。ピーター・フォークその人を演ずる、しかしそれは現実のピーター・フォークとは少し違っていて、彼はかつて天使であったが、その位置を捨てて、人の瀬に降りたという、そうした特異な役どころであったのでした。天使の、完全ではあるが生きているという実感に乏しいありかたに満足できなくなり、人として生きることを選択した元天使の姿は、まちがいなく、役者ピーター・フォークをなぞっていて、その語り掛けの自然さには、現実のピーター・フォークがかつて天使であったとしてもかまわないと思わせる、そうした真実味さえ宿っていた。そのように思います。彼がその身のそばに、もう見ることのかなわない天使の存在を感じとって、人として生きることの意味、実感、喜びを語る段にいたっては、映画を見ている私にしても、生きるということは素晴しい、孤高という孤独の座に留まることなく、人生のせせらぎに降り、その流れに身をさらすということがどれほどに素敵であるかということを、確かに感じたように思ったものです。ええ、この世界には、たとえ苦しさや厳しさ、いたましい現実があふれているのだとしても、それでも素晴しいなにかがある。そして、そのなにかとは、自ら手を伸ばしてはじめて触れることのできるものであると、そう確かにピーター・フォークはいったのでした。

ピーター・フォークの現在について知ったとき、私は寂しさや悲しさをせつな感じたものだけれど、それは彼がかつて天使であったころに、段々にかえってゆかれる途中であるのかも知れないと思うにいたって、切なさも少しやわらいだように思います。そして、おそらくは、すべての人がそうであるのでしょう。かつて彼岸の存在であったものたちは、この岸に降り、人生という川縁にしばし佇んだのち、またかの岸に戻るのかも知れません。だとすれば、それはなんと自然なことでありましょうか。それは、あるいは、悲しむ必要さえないことなのかも知れません。