2008年1月31日木曜日

まーぶるインスパイア

 単行本で読んで、はじめてわかることもあります。っていうのも微妙に問題のような気もするんですけど、『まーぶるインスパイア』って連続したストーリーものだったんですね。それもかなりしっかりと繋がっていて、連載で読んでいた時なんかは、繋がりこそは感じていたものの、これほどだとは思っていませんでした。ほんと、自分、なに読んでたんだろう。ある程度のまとまりがぼつんぼつんとあって、それが緩く繋がっているのかなって、それくらいに思っていたんですね。ところが、第1巻を読むかぎりでは、連続した時間を描いてる模様でして、今日の話の次には明日がきて、明日の次には明後日がきて。前日の出来事を受けて、次から次へと話が連鎖的に進んでいっていたんだなあ。意外な構成のしっかりさに驚きました。そして、続けて読むとやっぱり面白いのです。もっと意味わからん漫画だと思っていたのが、思いのほか理解できて、いやはやそれは二度目だからか、あるいは、読んできた時間が理解を促進させたのでしょうか。

『まーぶるインスパイア』が登場した時のことは忘れもしませんよ。正直、こりゃなんじゃと思ったんです。電器店にておうまジョーバっすね)を使う女子中学生。直接的な表現を避けた、けれど決して間接的ともいえない、微妙なエロさ加減にあふれた漫画の登場に、いったいなにを目指そうというのか、不安になったものでした。『まーぶるインスパイア』がというよりも、雑誌そのものの方向性が、ですね。けれど、どんなでも読者に印象づけられるものが強いのかも知れないなと思います。あの第一回目で、間違いなく『まーぶるインスパイア』は覚えました。

意味わかるようでわからず、けれどまったくわからないというほどにはとばさない。このへんも実に微妙で、あるいは絶妙? これ、最初はこういう作風の人なんだろう、きっとこういう風にしか描けない人なんだろうとか思っていたら、『まんがタイムオリジナル』に『プクポン』登場。子育て漫画なんですが、これがまたべらぼうに面白くって、うわあ、すごいよ、普通の漫画だよ。ということは、『まーぶるインスパイア』はあえてあのスタイルを選んだというわけか。 — この人は実はすごいのかも知れない、そう思った最初だったかも知れません。それにこの頃になると、意味わからんとかいいながらも、『まーぶるインスパイア』にかなり引き寄せられていることに気付いていまして、テンションでしょうかな、まったくのまれてしまったようになってまして、ええ、白状しますが、なんだかわからないけど目が離せねえよ、状態であったのです。

そして単行本が出て、ええ、意味わからんなんてことないじゃん! すごくわかる。いやごめん、それはいいすぎかも知らん。漫画の構成はしっかりしてるし、筋もよく整理されている、ここはわかりやすい。けれど登場人物、女子中学生三人と小学生二人、あいつらはようわからん。でも、実際の中学生女子となるともっとわからんからなあ。だから『まーぶる』登場人物がわからんのも仕方がない。異様なハイテンション。あんたらの語彙は漫画とネットでできとるんか!? 実際のおたく寄り中学生もあんななんかなあ、不安になりますが、けど中学生の痛さというかまわりの見えなさっていったら、実際の話あんな感じかもなあ。そうしたところはほのかにリアルなのかも知れません。

子供ならではの痛さや無邪気さ、本人は一人前のつもり、けど実際は全然というアンバランスさ。しかも彼女らは性的存在になりつつある時期にあるわけで、だからもうなおさらですね。こうしたもろもろが周囲に働き掛けるところに面白さの核があるように感じています。いうならば内部と外部のせめぎあい。女子中学生たちの内輪の世界は、外部との境界をわきまえることなくダダ漏れ気味にはみ出して、そのはみ出しに出くわした男子、大人をひかせてしまうは、ドキドキさせてしまうは、あるいはむらむら? けど当人たちはそんなことに頓着してないというか、一応気にしていたりはするんだけど、全然行き届いてない。やっぱり子供なんだろうなあ。曖昧な、曖昧な時期なんだっていうのがひしひしと伝わってきます。

そんな彼女らをかわいいと思う? それとも痛さに過去の古傷えぐられてもだえる? どっちもありですね。多種多様な感情が入り交じって押し寄せてくるところがいいのだと思います。そして彼女らは、知ってか知らずか、普通に大人とコミュニケートする場に身を置いていて、ほらネットとかゲームとか、昔だったらそんなことなかったでしょ? でも今はそれが可能なんだねえ。妙に納得させられました。これを見て、面白い時代になったというか、おそろしい時代になったというか、どう思うかはその人次第だけど、私は面白い時代になったのだと思いたいなあ。思いたい? やけにうがったこといいますね。ええ、実はちょっと怖れているんです。大人のコミュニティと思っていたら、実はそこには彼女らのようなのが普通の振りして混じっている可能性、実感させられましたね。ドッキリというか、ゾクゾクというか、素直に怖い。意外にこれはアンファンテリブル要素のある漫画であるかも知れない。そんなこと思ってしまって、こればかりは本当に意外でした。

ほんと、意外性に満ちた漫画。だってこんなこと書くつもりなんて、事前にはまったく予想もしていませんでした。だから、やっぱりこりゃちょっとすごい漫画なんだよと、買いかぶりかも知れませんけど、そんなことを思わせてくれる、それはつまり実に刺激的ということなのであります。

2008年1月30日水曜日

ナツノクモ

 ナツノクモ』が終わりましたね。2008年1月30日、今日、ついに最終巻が発売されて、私はものすごい量の加筆があるんじゃないか、それこそ『広辞苑』級の厚さになってたらどうしよう、いやむしろそうであって、なんて思ってたけど、やっぱり普通の厚さでした。ちょっと残念。けどそれが妥当かもなあ。

私が『ナツノクモ』を知ったのは、2005年9月のことでした。『空談師』で書いた時、ちょっと調べてみたら『ナツノクモ』なんていうのがある。またオンラインゲームものらしい。買ったのは2005年10月。それからの二年あまり、私はこの漫画に魅了されっぱなしでした。感情を揺さぶる、魂に訴えかける、どのようにいったらうまくその感覚を伝えられるでしょう。いずれにせよ、まぎれもなく一番続きが気になる漫画であり続けて、そして多少の飢餓感をともに終了。これを満足させるには単行本、最終巻しかないと、待ちに待ち続けての今日でありました。

そして最終巻。おのずと興味は加筆部分に向かったものの、それは思った以上に少なく、基本的には連載時に同じです。けれど、それでも加筆部分、大きかったと思う。語り切れなかった部分はいろいろあったというお話ですが、もしその隠された部分を明らかにするだけの猶予があったとしたら、いったいどういう話が展開されたのだろう。興味はつきませんが、しかしその語り切れなかったことがこの漫画の価値を、致命的に落とすことはなかったと思う、そういう感触の残るラストシーンでありました。正直私は、今の姿でも傑作、名作であるといえる、それだけの力を持った作品であると思っています。けど、やっぱりね、もしすべてを描き切ることができたら、篠房六郎完全燃焼、それだけの舞台が氏に与えられていたら、もう、もう、それこそ尋常でない、屈指の作になったんではないか。いや、あんまりこういうこというのはやめましょう。不毛だし、潔くないよ。ただ一言ここでいっておきたいことは、ファンだ好きだなんだといいながら、氏を支えることのできなかった、自分自身の不甲斐なさですね。ファンにもできることがある。ならそれをきっちりやっておくべきでしたね。大変申し訳ない、そういう思いを私はいまだに拭えずにいます。

さあ、もう書いてもいいよね。最終話に向けてのラッシュ。次々と明らかになる動物園の過去、そしてコイル/トルクの背負っていた現実について。再建された動物園を守るため、激闘に身を投じた彼らを支えたものはなにであったのかについて。いえ、戦いはもうとっくに始まっていたのでした。コイルが動物園を訪れる以前に、動物園という入れ物をではなく、そこに集う人間を守ろうとする戦いが開始されていました。その一方に、自分たちを繋ぐものの弱さを思い知った者たちがいました。強い絆に思えたそれは、実際にはそうではなかった。ネットワークを離れればたやすく切れてしまう、そんな儚い繋がり。それでも繋がり続けることでお互いを守ろうと、身を寄せあうようにした彼ら。孤独な戦いと、お互いを守りあおうという思いが、再建された動物園で出会い、そしてその場に集まったのが動物園残党とふたつの盗賊団、そしてクランク、コイルであったのですね。

本当のことをいうと、私はやっぱり、篠房六郎の引く線で、描く絵で、語る言葉でその結末を知りたかった。しかし現実にそれはかなわないとなったから、氏は決着を未来に託したのだと思います。すべての未来は、それまでの過去と現在の先に生じます。ええ、これまでに描かれたタランテラボードでの出来事が、来たる未来を予感させます。最後のシーン、あの子が向かった先で行われる戦い、おそらくは最後の戦い、これにクランクの狡知、大作戦がどれほどの成果をあげるのか、それはわからない。けど、勝つにせよ負けるにせよ、きっと彼らは大丈夫だ。そう思えるだけの信頼はすでにできあがっています。

コイルという、本当に信頼できる大人に出会えたガウル。ガウルに、怖れを越えて向き合うことのできたコイル。そして、彼らのそばにあって、ひっそりと見守り続けた彼女。すべては変化しました。本当の意味での信頼が戦いに参加した彼らを繋ぎ合わせて、そしてすべてはネットワークというか細い糸に支えられた空虚な世界での出来事であったはずなのに、関係の糸はネットワークを超えて広がりを見せ、オンライン世界は仮想なんかじゃない、現実の世界に繋がるものだってあるのだということを、明確に見せてくれました。

弱いと思われた絆が確かなものに変わろうとする可能性を感じさせたラストは、まぎれもなく屈指のものでありました。だから私は、そのラストシーンの先に起こることについて、不安は感じていません。きっとすべてはうまく運ぶに違いない。それだけの信頼を勝ち取ったのは、それまでに積み上げられたものが確かだったから。だから私はいうのです。

『ナツノクモ』は名作です。強靱にして柔軟な、まぎれもなく素晴らしい作品です。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第8巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2007年。

2008年1月29日火曜日

姉妹の方程式

    姉妹の方程式』、完結です。最終回、連載で読んで、そして単行本で読んで、なんか心がぽっかりした感じ。私、この漫画、好きでした。思えば、途中から買いはじめた『まんがタイムきらら』誌。最初は『三者三葉』読みたさに買っていて、けど『姉妹の方程式』、はっきり覚えてる。一美が小説の資料にとトーテムポール買ってくる話がありました。あれが、私の初『きらら』であったのですね。何年何月号とかもうわからないけど、あの号の『姉妹の方程式』はしっかり記憶に残っています。最初はその価値に気付かず、けどいつそのよさに気付いたんだろう。単行本、一巻、買ってからだっけ。印刷の、描線の、その色気に惑わされました。伸びやかな線、繊細でけれど表現力に富む線。素敵な線を引く人だなと思って、それからは魅惑されっぱなしです。チャーム? そうかも知れない。けれど、多分それだけではないとも思っています。

なににこんなにひかれたんだろう。最初は確かに描線だったのかも知れないけど、けどやっぱり漫画にだと思うんです。寡黙でグロ好みの長女一美、スポーツ一直線の次女十子、BL大好きおたくの三女百江、そしてヒロイン、しっかり者の四女千薪。個性的な姉妹の暮しにまつわるどたばた。貧しいながらも楽しい我が家、時にはけんかしたりもするけれど、いつも変わらずげんきであって、そして姉妹の仲のよさ。この漫画の魅力は四人の仲、その関係に集約されているのではないか、そのように思っています。

長女次女の高校生組、三女四女の中学生組、それぞれに距離感というか温度差というか、違えているのです。ちょっと大人びた関係を保っている年長組、けれど十子と百江となるとそうでもなくて割とわあわあと子供っぽさを残して、じゃあ年少組はそれよりも幼いかというと決してそういうわけでもない。それぞれの関係が、それぞれにできあがっています。それもごく自然に、いかにもこういう関係はあるのではないか、そう思わせる風合いを持っていて、実によく練られています。あるいはキャラクターの個性がそうした関係を自ら作りだしたのかも知れませんね。

たとえば千薪です。家族の中でもっとも貧乏に適応し、ゆえにしっかり者に育った千薪は、上の姉にも厳しく無駄遣い指摘するなどして、ある意味誰よりも大人びているのだけれども、上の姉たちはそうした千薪を頼りにするだけでなく、可愛い小さな妹として庇護しようという気持ちにあふれています。関係が一方通行じゃないのですよ。一美から見た千薪、十子から見た千薪、そして百江から見た千薪、それぞれに違いがあれば、また千薪から返される視線もそれぞれに違いを持っているとわかります。そして、この思いの行き合うところに、お互いを思いやろうとする気持ちが感じられて、ああ姉妹はこの姉妹でなければいけないんだ、四人が揃って家族なんだなっていうのが伝わるようなんですね。基本的にはコメディで、ことさらにお涙頂戴みたいなことはしない、そういう漫画だけれども、時にすごく染みて、ああなんかいいものに触れることができた、そんな気持ちになれるんです。

4巻の帯にのせられた、ありがと。の文字。見るたびに、なんかくすんだみたいに悲しくなってしまいます。これは、ただ悲しいではないですね。寂しいんだ。もう、この姉妹に関わることができないということが、すごく切ないと感じられて、なんだか泣きそうです。ああ、大きな存在であったんだね、今、まさにそう思っています。そんな私にとって、最終巻の後書きに記された言葉、なによりも嬉しく、気持ちは泣き笑いです。最後は笑顔じゃなきゃいけないね。寂寥感は思った以上だけど、笑顔で、またねと手を振って別れる、そんな気持ちで読み終えたい最終巻でありました。

そして野々原ちきさんには、お疲れさま。なんだか『きらら』誌における一つの時代が終わったかなと、一段落ついたかなと、そんな思いがしていると言い添えたく存じます。そして、また楽しい漫画を見せてください。新しい漫画に、今まで姉妹に感じていた思いを再び得ることもあるだろう、また違った新しい感慨を得ることもありましょう。そのように思いながら、ひとまずはお疲れさま。そして姉妹には、さよなら、またね、そしてありがとうございました。

  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

引用

  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第4巻 (東京:芳文社,2008年),帯。

2008年1月28日月曜日

鳩町まめっこイグニッションズ

 出た! 嬉しいっ! 『鳩町まめっこイグニッションズ』。ついに単行本と相成りまして、ようございました、本当にようございました。1月末に出る単行本に『鳩町まめっこイグニッションズ』がラインナップされていると知った時の私の喜びようといったら、それはそれは容易に言葉にならないほどでございました。あれいつごろのことでございましたでしょうか。ああ、昨年11月でございますね。それから三ヶ月弱、今日という日のくることを待ちに待って、買って、読みましたら、ここにどう書こう、なにを、なんと書こう。ずっと思ってきたのです。そしてついに今日という日がきてしまったらですよ、ああもう、なにを書いたらいいのかわかりません。とにかく嬉しい、嬉しいのでございますよ。って、ああ、なんか語尾がいつもと違ってるし! ああもう、これはもう冷静ではおられません。

落ち着きました。

『鳩町まめっこイグニッションズ』は『まんがタイムきららキャラット』に連載中の漫画。お嬢様中のお嬢様である恋歌様が、鳩町の皆さんのため、平和のために、お仲間ご友人がたお誘いあそばしまして、警備隊を作るお話であるのですが、その活動というのが地味といいますか、あまりすごくない。けれど、このすごくないというところにこの漫画のすごさがあるように思うのです。

地味。それで本日はどのような活動を? 校内のゴミ拾いですわ! ゴミ拾い!? そ、それで恋歌様はよろしいのございますか!? と思ったらまんざらでもないご様子でいらっしゃいまして、生き生きとゴミ拾いなさっておいでです。基本的に恋歌様はいつもこうでいらっしゃって、その無垢さ、人としての純粋さ、見ていてすがすがしいほどです。決して派手ではない、素朴にして目立たないようなことであっても、喜びを持って取り組まれる恋歌様のお姿に、ああなんと御立派なお方であろうかと、思わず恋歌様をお支えしたいと思ってしまうほど。ええ、この漫画読んでいると、恋歌様をついつい甘やかしてしまうまわりの人(とりわけあまねさん)の気持ちがよくわかる。確かに、出雲様もおっしゃるとおり、日和っているのかも知れません。けれど、多分そうじゃない。ほだされてるんだと思うんですね。ささやかなことでも、喜びを持って取り組んでいる人を見ると、ああ私も同じく働きたい、この人の助けになりたいと思うことってないですか(もしかして、私だけ!?)。恋歌様からは、そうした思いを抱かせる、魅力というか、オーラというか、そういうものが感じられるように思えます。それに、なにより楽しそうですし。

実は私には召使い願望があるようなんでございます。大学の同期に、ブルジョアとまではいわないんだけど、幼少期に海外でお過ごしになられた方がいらっしゃいまして、ええと、お家にメイドとコックがいたんだとかいいますが、ええ、ええ、すごいカルチャーショック。それで、やっぱり違うんでございますね、お育ちが。私はもう、いずれを見ても山家育ち、下賎のものでございますから、あてられっぱなしといいますか、ああ階級に差を感じる! その方の天真爛漫さ、少し恋歌様に似ていらっしゃいます。そして、ここ重要なのですが、私その方にお約束取り付けておりまして、嫁がれていずれ大金持ちとなられました暁には、私を召使いとしてお雇いくださいましってね。この話持ち出した時の返事、いいよー、一言でした(しかも約束は現在も有効)。素晴らしい。おそろしいほどに動じない。ほんと、お嬢育ちとはそういうものなのです。なので、私はいずれ国を出て、奥様付きの召使いとなるのですね(四コマ漫画の供給、どうしよう)。

閑話休題。そんな私ですから、恋歌様のご様子拝見するごとにお仕えしたくなってしまう、まあ甘やかすに同義であるといっていいのですが、そう思ってしまうのも仕方がないと申しますか、ええと希望のポジションは、恋歌様付の使用人であるあまねさんの部下あたり。巻頭描き下ろしにて明かされたあまねさんの秘密、わくわくしますね。いや、ちょっと、変な方向に向かってる? そういう漫画じゃありません。おかしいのは私です。漫画は真っ当、読んで楽しく、面白く、日常の時間が穏やかに過ぎれば、そこに心の和らぐような景色が広がる、そんな優しさに満ちた漫画であります。

この漫画の面白さには、恋歌様の鷹揚さ、天真爛漫なご様子が大いに関わっているとそのように感じます。漫画の中では日和っているなんていってますけど、小さなことにこせこせとすることなく、大きなお心があらゆる方面をお照らしになるような。言い換えればのんびりされているようで、浮世離れされているようで、でも漫画自体にはきっちりと常識の下地があるから、そのギャップが面白さを際立たせているといった感じなのです。警備隊だって、結構シリアスな事案を扱うこともあるのですが、その解決法なんていうのも、実に理にかなったものであったりして、え? ゆめときぼうが語られる漫画にして、こんなにも普通の? というか、ほんとに皆さん真面目なよい子たちでいらっしゃるんですね。

そしてすべてはこともなし、危なげがなく、不幸がなく、悲しさがなく、痛みがなく、けれどそれらは作者によって事前に排除されているからじゃない。登場人物が、自らの役割にしたがって、そうした負の要素を消し去ろうとしているからに他ならず、たとえばあまねさんの根回しで、出雲様のかわいらしい意地っ張りで、浅葱さんの普通さで、ミューのいたいけさで、恋歌様の燦々とした明るさで、そして皆の善良さで、すべてはこともなし。はなやいだにぎわい、かしましさの末にほほ笑ましくも幸いに満ちた解決が訪れる。ああ、この漫画は読んでいて心地が良いなあ。気付けばすっかり好きになってしまっている、目が離せなくなってる、そんな不思議な求心力があって、その中心にはきっと人のよさ、明るさ、楽しさがあふれているから嬉しくなる。本当の本当の良作です。

蛇足

浅葱さんが好きです。い、いや、眼鏡だからじゃない。ほんとです。

引用

2008年1月27日日曜日

ウォーキング with ダイナソー — 恐竜時代 太古の海へ

 ウォーキング with ダイナソー』のシリーズも、『BBC ウォーキング with ダイナソー&モンスター DVD-BOX』で一段落です。『恐竜時代 太古の海へ』と『前恐竜時代 巨大生物の誕生』を一箱にまとめてリリースされたもの、まずは『太古の海へ』を見てみました。

『太古の海へ』は『ウォーキング with ダイナソー — タイムスリップ! 恐竜時代』の続編といったほうがよいかと思うのですが、ナイジェル・マーヴェン先生が古代の海へと赴き、凶悪な海洋生物を見て回るという、実に単純明快なストーリー。けどナイジェルファンにとっては、このわかりやすさがなにより嬉しいものであるのではないかと思います。

内容は過去のものよりもまして充実。三部構成で七つの時代の海にいくという贅沢な作りであります。巡る順番は時系列なんて単純なもんではありません。なんと、危険ランキングに基づいてカウントダウンしていくというスタイルをとっていて、先へ進むにしたがってどんどん危険になっていくという、まあこれも単純といえば単純ですが、さすがナイジェル、エンターテイメントをよく理解しておいでです。

危険という点でいえば、現代の海だってたいがい危険なんです。サメやシャチといった危険生物、大きなものでは10メートル近いものがいるといいますね。こんなのにぱくっとやられたらそれだけで致命的ですが、ナイジェルはこれら以上に凶悪な生物を求めてタイムトリップを敢行して、その危険度合は第1話時点で非常識級なんですが、それがこの先どんどんエスカレートしていくのかと思うと、わくわくするというべきかはたまた思いやられるというべきか、実に微妙な気分です。

この海のシリーズには、『驚異の恐竜王国』で紹介されていた海の爬虫類、リオプレウロドンも登場します。リアリティに関しては絶品だと大絶賛していたやつでありますね。大気よりも透過性で劣る水中の映像、そこに陸上の生物よりものっぺりとして作りやすそうな水棲生物を泳がせるわけですから、その存在感は現存生物を撮影してきたのかと見まごうほどにいや増して、もう半端ではありません。巨大魚にナイジェルが近づくシーンでは、個体表面についた傷も実にリアルで、本物の魚みたいですからね。ただ大きさが半端でない。人も丸のみしそうなやつらがごろごろいて、さらにそれを捕食するやつがいて、その捕食者がナイジェルのターゲットなんですね。

『太古の海へ』は『ウォーキング with』シリーズの集大成なのではないかと思います。よりリアルな映像、水棲生物に絞って展開される映像世界は扱われる時代といい表現といい幅広く、そして案内役のナイジェルの面目躍如です。ナイジェル、やりたい放題。オルドビス紀では打ちあげられた魚や三葉虫の死骸をおとりにターゲットを引き寄せ、しかしこんなのはほんの序の口。デボン紀に至っては、おとりの魚を現地調達ですよ。ナイジェルほどの人になれば、タイムパラドックスなどまったく考慮する必要がないのです。ばんばん釣り上げて、巨大甲冑魚ダンクレオステウスをおびき寄せるのですが、これが凶悪。けれどこれでランキング5位。冗談じゃない。ランキング3位のメガロドンは、現代のサメがかわいく見えるくらいで、なにしろそのあごの標本、ホオジロザメのあごが人をすっぽり通せそうなサイズにとどまるのに対し、メガロドンのそれは歩いて通れるほどの大きさです。そいつをおびき出すためにナイジェルたちのとった方法は、細切れにした魚をコマセにして海にどんどん流すという方法。その魚どっから調達したんだ。また釣ったのか? それとも現代から持っていったのか? とにかくナイジェルの傍若無人が光ります。加えてナイジェルの性質ですよ。巨大生物を見ればとにかく一緒に泳ぎたくて仕方がない、さらには近づきたくなるという性格、果敢というよりも無謀なチャレンジの数々が肝を冷やしてくれるのですね。

とはいっても、私もわかってるんです、これらは結局はフィクションだって。ナイジェルのチャレンジは、アニマトロニクスとCGによって実現されているものだって。けれどそれでも、うわー、とのまれてしまう映像のすごさです。これ、事前の説明なしで見せられたら、実際の映像と思ってもおかしくない。わかっていてもはらはらするくらいですからね。常識外れの生き物を、あたかも現実かと思わせる常識外れの映像の力。これは見ないと損だわ。海洋生物もしくは古代生物が好きという人間にとっては、必見の作であると思います。もう何時間でも見ていたいほどに魅力的、むしろこれだけでは物足りないと思うくらいに引き込まれてしまうのですから。あ、ナイジェルファンにとってもそうですね。ナイジェルの無謀さは、『プレヒストリック・パーク』をはるかに上回って過激です。こんなこと続けてたらいつか死んでしまうんじゃないかと思うくらいの大活躍なのであります。

2008年1月26日土曜日

月刊アフタヌーン

 昨日いっていました、ささやかながらもめでたいと思える出来事、それは — 、もったいぶらずに端的に書いてしまいましょう。私のひいきにしている漫画家である篠房六郎氏の新連載が、昨日始まったのです。掲載誌は『月刊アフタヌーン』。朝、コンビニ兼書店に『アフタヌーン』を探して、めでたく発見。職場について、朝一番に漫画読みはじめるというのも問題があるから昼まで我慢。読んだのは昼休みのこと、いの一番に篠房六郎の名前を探して、見付けた、『百舌谷さん逆上する』。雑誌中程の掲載、センターカラー、読んで素直に面白かったといえる出来。途中何度か笑いを誘われながら、見事にからみとられていく、そんな実感を得たのでありました。

『百舌谷さん』のために買った『アフタヌーン』。この四十ページのために660円払ってんだ! というのもあんまりですね。実は『アフタヌーン』掲載の漫画には結構楽しみにしているのもあって、ちょっとあげてみましょうか。

意外と少ないな。もっとありそうに思ったんだけどな。ともあれ、楽しみに単行本を買っていた漫画を、連載ペースで読めるようになりました。これはちょっと嬉しいことだなあ。それに、今はよく知らない漫画であっても、いずれ馴染んでいくだろう。そうしたなかに、好きだといえる漫画も現れるだろう、そうしたことを期待しているところであります。

さて、『百舌谷さん』。まずもってツンデレに驚きです。こうきたか! 巻末の作者インタビューでは「今更ツンデレなんて」みたいなこと、いや、みたいじゃないか、あからさまに「今更ツンデレ」などと書かれてしまって、おー、なんということ。確かにツンデレはブームとしては終わったというか沈静化したというか、今やメインストリームではなくなりました。けど私には『百舌谷さん』におけるツンデレという設定、どう見ても偽装としか思われないのです。

表向きには、ツンデレという萌えの一表現様式を採用したこの漫画、しかしその実を見てみれば、コミュニケーションに困難さを持つ少女を取り巻く劇でしかなく、そんな彼女が他者あるいは普通の人の社会にどのように関わろうとするか、そこが焦点となろうことが予感されます。そして私にはこの漫画が、『ナツノクモ』で篠房が描こうとしていたものに通底するテーマを持っているようにしか思えないのです。『ナツノクモ』では、仮想世界において、どこか病んだ人たちが自分たちの居場所を守ろうと奮闘する、そうした様を描いて、おそろしくエモーショナルでした。パーソナリティ障害やコミュニケーション障害と言い切ってよいものか迷いますが、ある種そうした傾向を持つ人たちが、なんらかの救いを得ようと、ただ与えられるのを待つのではなく、自ら戦いの場に身を投じ、もがきあがいていた。その姿がとにもかくにも心を打ったのですね。

『百舌谷さん』においては、今後どういう方向に向かうか、それはもちろんまだわからんといったところなのですが、けれど第1回目を読んだかぎりでは、そうした精神面への掘り下げめいた動きがあるのではないか。ものすごく期待できる始まりでありました。ヒロイン百舌谷小音はあらゆる点で秀でた女の子です。知性においても身体においても恵まれ、その上に美しく魅力的、さらに加えて育ちまでいい? なにその完璧超人設定! であるのに、ツンデレという障碍を持っているというただ一点で、苦しみにまみれる人生を生きることを余儀なくされている。彼女のその設定は、ツンデレではないけれど脳に器質性障碍を持つ私には、またかつてこのようなことを書いた私には他人事ではありません。だからこれから百舌谷さんがどのように疾走していくのか、それが楽しみで仕方ないのです。

あ、そうそう。『ナツノクモ』第8巻は1月30日発売です。

2008年1月25日金曜日

Visit to a shrine on New Year's Day, taken with GR DIGITAL

Visit to a shrine on New Year's Day月末恒例のGR BLOGトラックバック企画、2008年最初のお題めでたい!であります。新年が明けてめでたい、あるいは個人的にめでたいと思える出来事があった、いろいろあると思います。たとえば私にも、まさしく今日、ささやかながらもこれはめでたいと思えることがあったのですが、そして今日はそれを取り上げようかとも思ったのですが、一日ぐっと我慢して、今日はGR Blogのトラックバック企画「めでたい!」に参加したいと思います。

私の選びました写真は、深く考えることもなく、今年の初詣の風景、近所の神社に年が明けるか明けないかという時刻におもむいて、参詣をする。その時に折角だからとGR DIGITALをもって、撮影もしてきたのでした。

基本的に暗い境内、ノーフラッシュでとれるのはレンズの明るさのおかげですが、さすがにISOは400にまであげています。コントラスト+1、シャープネス-1のモノクローム。あまりの光量不足にオートフォーカスがまったくといっていいほど働かず、苦肉の策でスナップモードを選択。これ、フォーカスが2.5mに固定されまして、つまりピントの合ってる合ってないを気にすることなく撮れるという素晴らしいモードなんですが、絞って被写界深度を深くできる日中ならともかく、どう考えても絞り開放が妥当だろう夜間スナップ。まあいいか。ピントの合ってる合ってない以前に、手ブレの方が問題でしょう。でも手ブレは味と割り切ろう。

冒頭の写真は、舞台におわす巫女さんふたり。撮っていい? と聞く気力がなかったので、足もとだけを取りました。次いでは参拝の列、本殿ですね。最後は本殿横でお神酒が振る舞われているそこを撮りました。おめでとうございますと新年の挨拶言い交わし、お酒をいただく。神社とは、新年最初の地域交流の場でもあるのですね。

Visit to a shrine on New Year's Day

Visit to a shrine on New Year's Day

2008年1月24日木曜日

恐竜100万年

 BBC『ウォーキング with ダイナソー』で書いた翌日にこれを取り上げるだなんて、まったく意地の悪い人だなあ、などと思う人もいるかも知れませんけど、もちろん私にはそんな意図なんてちっともなくて、ただ純粋に懐かしみたいだけなのであります。『恐竜100万年』、新聞はテレビ欄に興味をそそるタイトルを見て、これは絶対見なくては、わくわくしながら映画始まる時間を待ったことさえ懐かしい。だって『恐竜100万年』ですよ。恐竜に100万年が続く。あんまりに時代が近すぎる上に、タイトルだけでは内容がまったく推測できません。これはぜひこの目で確かめないといけないなあ、そう思わせる絶妙のタイトルでありました。

放送は確かテレビ大阪だったと思うのですが、昼間、二時ぐらいからやっていたんですよね。そういう時間にさりげなくやるということは、大作を期待してはいけない、それこそある種の覚悟が必要ということであると、私は理解していたのですね。そして見た『恐竜100万年』、すごかった。原始人類がいる、そして恐竜もいる。そう、恐竜が人類と共存する世界なのです。あり得ないなんていってはいけない、そうオーパーツが告げている。ほら、恐竜土偶ですよ。恐竜をかたどったとしか思えない土偶がメキシコで発見されているのです。これはすなわち人類が恐竜と共存した時代があった証拠なんだよ!

まあ、まともに取り上げるのもどうかという話ですが、この映画に関してもそういったのりで見るのがよさそうです。あるいは、かつての恐竜観、1966年の映画らしいですね、四十年前の恐竜に対する見方を追想するのもまたおつなものでしょう。のっしのっしと尾を引き摺って歩く直立獣脚類も懐かしい。そう、かつて恐竜はゴジラのように体をまっすぐにして歩いていたのです。それがわずか十年二十年で、脚を支点として頭と尾をバランスするように進化した。この急激な進化のスピードが恐竜を絶滅に追い込んだのだ、っていうのはあさりよしとおの漫画のネタですが、冗談はおいておくとしても、恐竜に対する理解は六七十年代から八九十年代にかけて、飛躍的に進歩したのです。私なんかはまさにその頃に少年時代を過ごしていましたから、子供の頃の常識があれよあれよと塗り替えられたわけで、科学というのはすごいなと、そう思うほかない経験でした。

私が『恐竜100万年』を見たのは、丁度そうした過渡期にあたる頃に一度、それから先だっていっていました昼間の放映、この頃にはもう新しい恐竜観が行き渡っていて、だから正直この映画は古くささの方が強くて、恐竜というよりか怪獣映画、そんな風に感じたものでした。合成や特撮に関しても、よりリアルさを増したものを目にしているわけで、正直なところちゃちだなあといわざるを得ず、当時、九十年代でさえそうだったのだから、今のCGばりばり、アニマトロニクスばりばりの映像に慣れた目にはもうどうしようもなく映るかも知れません。

けど、六十年代当時には、これが最先端映像だったんでしょうね。コマ撮りで動く恐竜と人類の死闘、その合成は見るものの度肝を抜いたものと思われます。それも大人が見て楽しんだ、少なくとも大人をターゲットにしていた映画であります。今からしたら子供だましに見えるけれど、その当時には至極真面目に作られていたろう映像。なら、今それを見る我々は、襟を正し、恐竜映画の先達に敬意を表すべきなのだと思います。いや、実際の話、突っ込みどころは多すぎるくらいにあるし、映画としても微妙なんだけれど、けどそんなに悪くないんですよ。だからもし、テレビでやるようなことがあったとしたら、きっと私はまた見るだろうと思います。

2008年1月23日水曜日

ウォーキング with ダイナソー — タイムスリップ! 恐竜時代

 年末年始に見た『プレヒストリック・パーク』が引き金を引いたせいで、この頃私は恐竜に執心しておりまして、BBC制作の恐竜ものDVDを買い込んでは見ていると、そんな次第であります。先日見たのは『ウォーキング with ダイナソー — 驚異の恐竜王国』。恐竜の跋扈した時代、三畳紀から白亜紀までのおよそ二億年をざっくりと見ることのできる良質の科学番組で、江守徹のナレーション。『プレヒストリック・パーク』のナレーションがNHKは渡辺徹、DVDは古谷徹、そしてここに江守徹まで加わって、恐竜ファンは徹ファンでもあるのか!? なんて思っていたら、『ウォーキング with ダイナソー — タイムスリップ! 恐竜時代』にはナレーションがありませんでした。残念! けれど、我らがナイジェル・マーヴェンは健在です。

『タイムスリップ! 恐竜時代』にはふたつのストーリーが収録されていて、ひとつは「巨大な爪の謎 (The Giant Claw)」、もうひとつは「地上最大の恐竜を追え (Land of Giants)」、両方とも時代は白亜紀、舞台は前者が今のモンゴル付近、後者は南米アルゼンチン付近とのこと。有名恐竜も出るし、近年発見されたような比較的新しい種も出るしで、見ていて非常に楽しいのですよ。たとえば「巨大な爪の謎」でいうと、プロトケラトプスが群生する中をナイジェルが駆け抜けたり、森の中ではヴェロキラプトルの狩の現場に出くわすなど、我々視聴者がいかにも見たそうな場面を選って構成してくれているのですね。

私は『驚異の恐竜王国』で書いた時に、これら恐竜ものは、それが制作された時のホットトピックが反映されるところに見どころがあるんだ、なんていってましたが、だとすると「爪の謎」のトピックはほかならぬ巨大爪の持ち主であるテリジノサウルス、プロトケラトプスとヴェロキラプトルの死闘、そして原始的な羽毛をもつ姿で復元されたモノニクスでしょうか。「地上最大の恐竜」においては、当時最大の恐竜ではないかといわれていたアルゼンティノサウルスでしょうね。それら注目の恐竜を、ただ姿を復元するだけでなく、生態についても紹介しようという姿勢がとにかく光っていまして、そしてそのレポートを普段現実の生物を紹介しているナイジェルがおこなうことによって、まるで恐竜に実際に肉薄しているように錯覚させてしまう。いやはや、素晴らしい企画だと思います。科学ものとしても質が高いうえ、エンターテイメントとしてもしっかりしていて、こりゃいいわ、何度も見たい、続きがあるならそれもと思わせる魅力にあふれています。

過去に恐竜ものの映像はいくつも見てきましたが、これほどまでに人間が接近しているものも珍しいと思います。『ジュラシック・パーク』みたいなエンターテイメントなら多いですけど、サイエンス系となるとがくんと減って、『恐竜惑星』くらいかなあ。けどこれはアニメだったので、どこまでも作り物感が抜け切らないという問題があります。対して、ナイジェルものはというと、生身の人間が恐竜に接近するというシチュエーションが、恐竜の存在感を強烈なものにして、プロトケラトプスってあんなに小柄だったのか! ヴェロキラプトルも小さいなあ。それに引き換え、こ、このテリジノのでかいこと。このタルボだって! いやあ、でかい。その大きさというのが、模式的でなく、生々しさをもって迫ってくる。ということは、アルゼンティノサウルスはどうなんだろう。とわくわくしながら待っていたら、あそこまででかくなるともうどうでもよくなってきますね。私の生物に関する大きさの把握限界を超えたんでしょう。もう唖然とするしかない大きさです。

このシリーズに問題があるとすれば、ナイジェルが実際に恐竜を見てきましたというスタイルをとっているために、紹介される恐竜の生態や特徴について、言い切らざるを得ないところでしょうね。まだそこまではわかっていない、だからいくつもある仮説のひとつでしかないのに、ナイジェルが見た以上、いやそうじゃないか、ナイジェルを通して私たちが見た以上、それは真実であると知覚してしまいがちになる、そういう問題点ですね。マニアはわかってるんですよ。仮説のひとつだって。色や鳴き声なんかはまったくの想像で、体表面なんかも多くは想像で、そうした想像が仮説を繋ぎ合わせて、こうだったんじゃないのかなあという恐竜の姿を、恐竜たちの時代を作り上げているって。けど、恐竜に詳しくない人、そうしたバックグラウンドを知らない人だと、ほら『ジュラシック・パーク』でディロフォサウルスが毒液を吐いたりしていたでしょう? そうしたらディロフォサウルス=毒吐き恐竜と固定されてしまう。『ジュラシック・パーク』というエンターテイメント映画でもそうなら、『ウォーキング with ダイナソー』のようなドキュメンタリータッチだとなおさらで、まあ制作サイドもこのへんは認識しているでしょうから、できるだけ正しそうな部分で勝負しているでしょうが、けどこれを正典みたいに押し頂いちゃう人も出そうに思います。まあ、マニア度が高まるにつれて、理解は深まり、背景についても理解できるようになります。いろいろ知って理解することで、『ウォーキング with ダイナソー』のとった戦略やその位置づけなんかもわかるようになると思うんですね。

『ウォーキング with ダイナソー』のシリーズ、特にナイジェルの活躍するものは、そうしたマニアの世界に誘う入り口として、まさしくうってつけの素材です。あんまり無茶は書いていない。ナイジェルこそは体を張って無茶しますけど、考証に関してはそんなにとばしていません。だからこれを見て、生き生きと躍動する恐竜たちに心引かれ、かつて地球上には興味深い生物が存在していたんだと知ることは、すごく意義深いことだと思います。そして彼らがすでに滅亡していること、我々人類は残された証拠をもとに彼らの姿や生活を思い描いているという事実に思いをはせることができれば、マニアの世界にようこそ! ってところでしょうか。それはつまりロマンだってことです。果てなく広がるフィールドに足を踏み入れたってことですからね!

2008年1月22日火曜日

臍下の快楽

 いちいちいう必要なんてない、それこそ当たり前のことではあるんですけど、漫画にはその時々の風俗、時代の空気というものがよくよく反映されるものだなあと思うんです。『臍下の快楽』、第1巻が出たのは1994年、第2巻は1997年、ということは連載の開始は1991年くらいからなのかな? 平成がまだ一桁だった頃、バブル景気の後退は1991年だそうですが、けどまだ充分にバブルの残照は残っていて、テレビではドラマ化された『東京ラブストーリー』が大ヒット。不況だなんだといっても、まだまだ余裕もあったし楽観もしていた。ジュリアナ東京がオープンしたのが1991年、踊り狂う若者がメディアで取り上げられ、まだまだいけるかもという、展望ではなくて願望でしょうね、やけっぱちみたいな熱気が一部に漂っていたんだけど、気付いたらジュリアナは店じまいしていて、時代の雰囲気もずいぶんと冷え込んでいました。

『臍下の快楽』が連載されていたのはそういう時代だったんですね。バブル以後。私が大学にはいったのは何年だったっけ。1993年ですか。そうか、ということは私が学生やっていた頃に、ほぼ同年代の若者を取り上げて漫画にしていたというわけか。道理で、この漫画見て変に懐かしさを覚えるわけです。描かれる若者のファッション、心情、もろもろがなんだか懐かしい。テーマとなるのは恋愛というよりもほぼセックスで、流されるまま、雰囲気で、というのもあれば、好きで好きで仕方がないというような湿っぽいもの、別れても関係を持ってしまってずるずると、いろんなあり方が出てくるんだけど、なんか捨て鉢な感じもしてやりきれないなあ。自堕落とはいわないし、退廃的ともいわないんだけど、だってセックスなんて当たり前だし、女性が複数人と関係を持つことだって、個人的にはどうかと思ったしそりゃとがめる人もいたんだけれど、そういう人はいた、別に普通に。夏、大学の飲み会で、彼氏持ちの女の子が前日から彼氏の家に泊まってうんぬん、そんな話、聞きたかないなあ、しかも本人から、というかそれセクハラだろう。そんな時代だったような気がします。

そういえば、『東京ラブストーリー』のヒロイン、赤名リカが「カンチ、セックスしよ」とかいって、穏健な家庭の風景に冷たい風を吹き込んだりしたもんだっけ。それから数年して、本当にセックスは特別なもんでもないと社会的に認知されたみたいになって、私はそうした世相になんだか軽薄さを感じ、軽蔑するでもなく、遠巻きに冷めた目で、眺めるでもなく眺めていた。人生の真空地帯にいるとうそぶいて、そうした世にまみれることを潔しとしなかった。 — つもりだったんだけど、今からこうして振り返ってみると、私もその軽薄な時代の子だったんだなあ、否も応もなく、そうした時代の空気を吸っていたんだなあと、今になってそんなこと気付かされるとは思いませんでした。

漫画としてはどうですかといわれると、短編のぎっしりとつまった文庫。たまには目先の変わったものもあって新鮮だけど、基本的に自分世界を吐露しようとするようなのばっかりだから、一気に読み通すのは正直しんどい。けど、男らしさに抵抗しつつも結局男でしかない私には、女の子理論ばりばりの漫画は異世界感じさせて面白いのだと思う。違和感しか感じないのもあるけど、それはそれで、共感してしまうようなのもあるけど、それもそれで、感動とかまるでしないけど、淡々と、ふーん、なんて感じで、当たり前のように読んで、当たり前のように感じている。けどこれは、あの時分をあの年代で過ごしたものにしかわからないだろうとも思います。私が『軽井沢シンドローム』に面白さを見出せないように、この漫画がさっぱりだって人はきっとある、それもたんとあるだろうと思う。けどなんとなく気になるっていう人もいる、私がそうだったように。なんとなく引っかかるって人は、あのなんかぼんやりした時代を思うことのできる人なんじゃないかと思います、結局私がそうだったように。

  • 安彦麻理絵『臍下の快楽』第1巻 東京:ぶんか社,1994年。
  • 安彦麻理絵『臍下の快楽』第2巻 東京:ぶんか社,1997年。

2008年1月21日月曜日

Apple iPod touch

 Apple Storeにいってきました。昨日。心斎橋のApple Storeなんですが、友人がiPodでどれを買ったらいいかわからない、アドバイスしてお呉れというものだから、そいじゃあと乗ったのでした。Apple Storeにいくのははじめてのこと、心斎橋の駅をおりて、方向間違えて歩いてクリスタ長堀にいってしまうなんていうのはまあよくあること。地図見て歩けばいいのに、面倒くさがって地図を用意しなかったんですね。一応うち出る時に確認したりもしたんですけど、いやああんなに方向がわからなくなるとは思いませんでした。クリスタ長堀で地図確認して、歩くこと五分くらい? 危なく行き過ぎそうになるくらいに簡素な外観の店舗、無事たどり着くことができたのでした。

実はここで見たかったのはMacBook Airであったのですが、残念、まだ展示されていませんでした。そのかわりというわけでもないですが、たくさん展示されていたiPod、見てきました。ほー、今のiPodはちょっとインターフェイスが派手になっとるんね。店員氏に聞いてみたら、これは新世代からのギミックで、旧世代では対応していないんですってさ。そうなんか、けど別に音楽聴くのにこんな派手なメニューはいらんから、どうでもいいや。ええ、私はこういうタイプの人間です(というか、シンプルなメニューが選択できないほうがいやかも)。

友人の目当てはiPod nano、Apple Storeでしか買えないという赤いモデルです。(PRODUCT) RED Special Editionっていうんですね。私は知らなかったのですが、このモデルが購入されると、アップルが購入金額の一部を「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に寄付することになっているのだそうですよ。意識することなく、ちょっと誰かの役に立つことができる、こういうのはなんかいいですね。けど、残念ながら私は、大容量のiPod classicにしか目が向かないようにできているから、そういうキャンペーンには参加できそうにありません。まあ、しばらくはiPodを新調する気はないので、かまわないといえばかまわないんですけどね。

 さて、iPod nanoもよいんですが(デザインが思ったよりもよくて、驚きました)、それ以上に興味があったのはiPod touchで、液晶がタッチパネルになっていて、指でちょこちょこ触って操作できるというあれです。まあ、今更といえば今更なんですけどね。けど、これまでまったく触れたことがないもんで、だからこれが初遭遇。今まで散々レビューやら読んできたから、ボディ前面のボタン押したらアイコンの並ぶメニュー画面に戻れることは知っています。そして、それだけ知っていたら割となんとかなる、そういう感じの道具であると思いました。

まず触ってみたのは、Safari。開いてみて驚いた、文字がちっさ! 読めねえよ。とかいってても仕方ないので、親指人差し指で触れてその指を広げてみると、思った通り拡大してくれて、最初は荒いドットが再度レンダリングされることできれいな表示に変わります。これは実際使えそうだなと思いました。ソフトウェアキーボードがあれだから、URIばんばか手打ちして、検索もしてなんていうのは面倒くさそう、だからブックバークをいかに充実させるかが使いこなしの鍵になりそうですね。まいったな、私、あんまりブックマーク使わない派なんだ。

天気予報Widgetは、Mac OSのDashboardにておなじみだから、だいたい使い方わかります。デフォルトではクパチーノが設定されていて、そこに大阪の天気を追加。そして、人差し指で左右にスライドして地域を切り替える。ほー、こりゃよくできてるや。いい感じに追随しますね。iPhoneは機器の能力は貧弱、それをインターフェイスで吸収しているなんていわれていたので、多分iPod touchも同様だろう、だったらその貧弱なスペックから得られるフィールとはいかなるものだろうと思ったのですが、通常の利用に関しては、当座問題になりそうな部分はないですね。地図で位置検索する際に、心斎橋と日本語で打ち込む、最初はどうやって日本語入力に切り替えるのやら、ちょっととまどったけど、まあすぐに問題なく使えるようになりました。iPod touchに用意されている諸機能、これらが必要で、けれど大きな機械は持ちたくない、簡便に使いたいんだというような人だったら、これを手にするというのは充分ありなんだろうなという感じがしました。

じゃあ、あんたは? そういう問が出そうですが、私ならいらないなあ。っていうのは、出先でメモとかとらないし、メモとるならメモ帳にペンが常備されています。そっちの方が絶対に便利で早いでしょう? Webで調べものすることもないだろうしさ、メールだって一緒。それにこれはWiFi環境下でないと使えない機能です。だったら、なおさら私には必要なさそう。音楽聴くとなると、現行のiPodで充分ですからね。むしろ、容量に劣るiPod touchの方が使いづらいと感じることでしょう。

以上は携帯電話をいまだ持とうとしない原始人の意見。以下は携帯電話を持っている友人の意見。電話が付いていないiPod touchには魅力がない。携帯の機能とかぶっているから。重複した機能のためにふたつ目の機器を持ち歩くのはナンセンスだと思う。iPhoneになったら考えてもいいかも知れないけれど、それも必要とする機能次第だと思う。ただ、触っててちょっと楽しかった。とのことでした。多分妥当な意見だと思います。

iPodでビデオを見たいような人だとまた違った意見になるのかも知れませんが、私はiPodのビデオ機能、まったくといっていいほど使っていませんから、やっぱりそういう点では、iPod touchよりclassicよりのユーザーであるのでしょう。これからのiPodユーザーは、こんな具合に、いくつかの層に分かれていくのかも知れませんね。

引用

2008年1月20日日曜日

日本の音楽と文楽

 歌舞伎を見にいってきました。演目は『御所桜堀川夜討 弁慶上使』、『義経千本桜 吉野山』、そして『恋飛脚大和往来 玩辞楼十二曲の内 封印切』から「新町井筒屋の場」です。私は歌舞伎に関しては詳しくないので、それぞれがどういう風に分類されるものであるか、適切簡潔に紹介することはできないのですが、『弁慶上使』は姫の身代わりにと自分の娘を手にかけてしまう武蔵坊弁慶の男泣きにむせぶ話、『吉野山』は桜の見事に咲いた吉野山での静御前と忠信の華麗な舞、『封印切』は遊女を身請けせんがために手を付けてはならぬはずの金に手を付けてしまった男の話、最後にすべてを女に語り、頼む、一緒に死んでくれと、悲しい恋の物語であります。

けれど、私は現代に生きる人間だから、それも近代にとりつかれた人間だから、筋については釈然としないところも大いにあって、なぜ姫の命を救うために、奉公人であるとはいえ娘の命を差し出さねばならぬのか。娘を生き別れの父親に引き合わせねばならぬ、母おさわは必死で救命の懇願するけれど、娘しのぶはというと、はい、死にますと納得してしまっていて、わあ、すごいな、封建制って! 今の世の中もユートピアとは言い難いけど、こうした時代を思えば天国なんじゃないかって思った。とまあ、こんな感じであるから、感情移入しにくくてですね、参るんですよ。同じ見るならずっぽりはまり込むようにして見たい。けど、それを阻むこうした筋、背景となる社会の構造が非常に厳しくて、けどそれでもですよ、男泣きにむせぶ武蔵坊弁慶を見て、たまらずもらい泣きですよ。ああ、役者っていうのはすごいね。感情にものすごく訴える。納得とかへったくれとか関係なく、ぐいぐいねじ込んでくるような凄まじさがある。ああ、すごいわ。情の世界、情念の世界であると、心の底から思いました。そして、その情念は私の心情の根っこにも渦巻いているのだと思ったのでありました。

昔、大学院での授業、文楽について学ぶ機会がありました。井野辺先生の『日本の音楽と文楽』をテキストに、文楽、義太夫を聴くという、そうした授業内容だったのですが、その時に聴いたのは『菅原伝授手習鑑』の四段目『寺子屋』であります。まあ、これもすごい。

菅原道真の息子菅秀才がかくまわれている寺子屋に、追っ手松王丸がその首もらいうけんと迫る。秀才を守らんと源蔵は、寺子屋の子供のうち、器量がいいのをひとり選んで、身代わりに首を取る。首実検をする松王丸、確かに秀才の首もらいうけた。しかし、松王丸は秀才を見知っているはず、やれおかしやと思っておったところに、松王丸が戻ってきていうことには、その子供こそは我が子小太郎、秀才の身代わりとするために、たったひとりの息子を源蔵が寺子屋に送り込んでいたという。我が子の最期を聞かせて欲しい、そう頼む松王に源蔵は、立派であったと、身代わりをというにあいわかりましたと承諾し、立派に死んでみせました。そうであったか、我が小太郎の最期はそうであったか、男泣きにむせぶ松王丸の慟哭が、聴くものの涙をこれでもかと絞るのですね。

でもさ、考えてみればひどい話なんですよ。これ、松王丸の子とわかったからいい話なんであって、そうでなかったら死んだ子はあまりにあまり。いや、ちょっと待って。松王の子でもあんまりに理不尽だよな。けど、それでも、主君の御為、我が子の命を投げ打つも致し方なしとする、まさしく義理人情、情念渦巻く世界であります。そして、これが感動させるんだ。どこかに理不尽、納得いかなさを感じつつも、それを押し流してもらい泣きさせてしまうそこに太夫の力がある。いやはや、日本の伝統芸というのも捨てたものじゃない、というか、伝統芸っていうのは半端ではないですよ。よく伝統芸能について、古くさいだのいってまともに評価しようとしないような態度とる人っていますけど、とんでもない、それは損をしています。西洋でも、東洋、日本でも、古典といわれるものは、長い歴史をもって培われた技芸があり、そして簡単にテクニックといって説明できない、いうならばデモーニッシュな、人知を超える領域に踏み込んでいるような、そんなところがあるんです。

もちろん、よいものは新しいものにおいても見られ、古典だったらすべていいというのは間違いだけれども、けれど普段見聞きする機会のない古典、まれにかいま見る機会を持てば必ず、もっと知りたい、もっとその深みを覗きたいと、そんな欲求にとらわれます。日本の古典の物語、すごいのありますからね。確かに納得いかないようなのもあるけれど、それでも受け入れざるを得ないような力あるもの、山ほどありますからね。願わくば、そうしたものをもっと知りたいなあ、そんなことを思うんです。

デアゴスティーニあたりが、週刊『日本の文楽』とか、週刊『歌舞伎の世界』とかやってくれんもんかなと思います。無理なのかな。けど、一番いいのは劇場に通うことなんですけどね。やっぱり、劇場っていいですよ。

2008年1月19日土曜日

ウォーキング with ダイナソー — 驚異の恐竜王国

 年末年始にNHKでやっていた『プレヒストリック・パーク』がきっかけになって、再び恐竜ブーム到来ですよ。といっても、私の周囲だけなんですが、というか盛り上がってるの私一人? 具体的にいいますと、『プレヒストリック・パーク』に繋がりを持つ映像作品を買いはじめているんですね。まずは古いものから到着。『ウォーキング with ダイナソー — 驚異の恐竜王国』。恐竜の生息した時代をざっくりと俯瞰しようという、三十分×六本のシリーズものであります。

扱われる時代は三畳紀から白亜紀まで、つまり中生代、極めてオーソドックスですね。ですが、紹介される生物は恐竜にとどまらず、海の爬虫類である魚竜や首長竜、空の爬虫類である翼竜までに及びます。翼竜は比較的ポピュラーで、紹介されることも多いのですが、海の爬虫類は珍しい。しかし知らない奴らばかりですよ。海の爬虫類というと、私の子供の頃はですよ、イクチオサウルス、モササウルス、後は首長竜、いやまだいたわ、アーケロン、巨大な亀。けれど、このシリーズに出てくるものはその覚え知った名前ではなく、ついぞ聞き覚えのない魚竜、そして首長竜が二種類。わくわくさせますね。古代の海における海の爬虫類の生態が紹介されるのですが、あたかもそれは今生息するものを撮影してきましたといわんばかりのリアリティを持って迫って、すごいですよ、すごかったです。

リアリティに関していえば陸上のもの、空のもの、どちらも同じで、まあ陸上のものに関してはクリアな画質、なんといっても水をはさみませんから、おのずと厳しく見てしまいがち、ちょっと作り物臭いかなと思うこともあったことは事実です。けれど、そんなこと考えてたのはそれこそ最初のうちだけで、だんだんと引き込まれて、仕舞いにはそんなことちっとも思わぬようになりました。ごく初期の恐竜コエロフィシスが、大型爬虫類や哺乳類型爬虫類らとともに、厳しい自然環境を生き抜こうとする序盤から、ジュラ紀を経て、そして白亜紀後期、恐竜絶滅の引き金になったと考えられる巨大隕石の衝突まで、地を海を空を埋め尽くさんとするかの勢いで、その種を増やし繁栄を謳歌した巨大爬虫類。ああ本当はどうだったんだろう、具体的なイメージを持って現れる彼らの姿におのずと想像は膨らんで、ああすごく楽しいや。恐竜はやっぱロマンです。これを子供の専有物みたいにしておくというのは、得策じゃないね。

さて恐竜っていうのは、新たな発見が過去の常識を打ち消し、どんどんその想像される姿を変えていくのですが、『驚異の恐竜王国』の作られた頃は、あまり羽毛恐竜のイメージは前面に出されてはいなかったようですね。『プレヒストリック・パーク』では羽毛恐竜も重要なターゲットでした。けど『驚異の恐竜王国』では社会性を持った生物としての恐竜に重点が置かれているように感じました。夏には緑が茂ったという過去の南極(今のオーストラリアやニュージーランド)に生息していたレエリナサウラ、子育てをする恐竜として知られるマイアサウラとともに、過去の恐竜観を一新させた種なのですが、群を成し、越冬する。大きな脳を持ち、後に恐竜人類に進化する可能性を秘めていた(『恐竜惑星』ですね、DVD欲しかった)などなど、当時のホットなトピックが反映されているから、遡って見てると、その昔を思い出して本当に懐かしい。ああ、こんなことなら無理してでも『恐竜惑星』、BOXで買っとくべきだった。いや、ほんとにそう思います。BOXとはいわんから、DVD再版しておくれよう。

あ、そうそう。『驚異の恐竜王国』にはナイジェル出てきません。ちょっとショックでした。いや、見始めると問題ないんですけどね。恐竜よりもナイジェルが好きなんだという人は、お気をつけください。

2008年1月18日金曜日

金色の眼の猫

18日というのは私にとって少し特別な日付でして、NHKの語学テキストの発売日なのですよ。今はテレビもラジオも、どちらの講座も受けていないのですが、それでもテキストは買っています。一時期はNHKテレビでやっている語学を全部視聴して、まあほとんど残らなかったんですけどさ、それでも結構考えるヒントとでもいいますか、それぞれの言葉の持つ個性、あるいは共通性に思うところがあったり、またそれ以外にも、各講座の持つ雰囲気の違いに、それぞれの言葉のベースにある文化の違いを思ったものでした。思い返せば、楽しかったなと思います。知るということが、わかるということが楽しかった、それまで聞き取れなかったものがなんとなく判別できるようになり、そして少しずつ内容もわかるようになっていく、そうした過程がなにより楽しかったんだと思うのですね。

今も買っている語学テキストは、テレビとラジオのフランス語講座なのですが、なにしろテキストは買えど番組は視聴せずですから、ざっと見て内容把握して、興味のあるところだけ読むというような、そんな感じになっています。効率としては悪いというか、学習効果はまあないんですが、かわりにというわけではありませんが、Podcastで配信されているNHKのワールドニュースを毎日聞くようにしていまして、たった十分の番組ですけどね、けど続けていればちょっとでもリスニングの能力は上がる、というか維持できるというべきか、無駄にはなっていないと思います。

しかし、本当にいい時代になりました。無償でフランス語でのニュースを聞くことができる。他にもケベックの人がやっているPodcastも聞いていて、ほんとありがたい。昔はこういうのなかったから、フランス語を聞きたかったらNHKの番組と、BS1でやってるニュースくらいだったかな。あとはCD買うとか、ほらCD付きテキストとかあるでしょう、ほんとそれくらいしかなかったと思います。けど語学系の本って高くてですね、けどそれでも数冊は持っているんですね。結構頑張ってたなあと、自分でいうのもなんですが、そう思います。

『金色の眼の猫』は、NHKラジオのフランス語講座で使われたものを再編成して、一つの独立したお話CDにしたものなのですが、人の言葉を話す猫ペピートとともに便りの途絶えたペンフレンド、バンジャマンを探しにゆくというストーリー。もちろん会話はフランス語(一部日本語)で、旅の途中、いろいろな人と出会い、そして物語の核心に迫っていきます。不思議なファンタジー色あふれる展開は、語学講座とは思えぬ盛り上がりも見せて、結構楽しかったです。一時はポータブルCDプレーヤーに入れっぱなしにして、それこそヘビーローテーション。聞きまくったものでした。

テキストは二分冊、一冊は物語が収録されたもの、日本語訳もついています。そしてもう一冊が語学のテキストで、文法や語彙の解説がされるのですね。この番組は入門編だったので、そんなに難しくはありません。一部語彙がわからず突っかかったりしますが、まあそれは仕方ない。それで肝心のCDですが、どこかにしまい込んでしまって見つからなくなっているので、すぐには聞けず、まあ自室のどっかにあるんでしょうね。こんど暇を見付けて捜索してみようかと思います。

思えば私がこの本を選んだのは、実用色の濃い語学テキスト群にあって、物語、それもオリジナルで勝負するという異色さに引かれたのでした。味のある猫のイラスト、語学テキストに広告が載っていて、ちょっとこれ面白そうだなと思って、大阪旭屋書店で買った、そのことさえも懐かしいですね。けど懐古ばかりじゃ駄目ですね。今から本腰入れるのはちょっと無理だと思うけど、またちょっとフランス語、触れる機会を増やしてみたいと思います。

  • 古石篤子『金色の眼の猫』照井喜美子絵 東京:駿河台出版社,1999年。

2008年1月17日木曜日

Apple MacBook Air

 Appleの新製品が発表されましたね。前評判どおり軽量のノートPCが登場して、実は私これにはちょっと興味を持っていましてね、いや、持ち運んだりすることは当座なさそうだから、純粋に興味というか、あるいはちょっと妄想というか、そんなのもやもやさせていたのです。もし今度出るのがうわさどおりの軽量ノートで、それもサブノートもしくはもっと小さいものだったりしたらすごいな、それでソリッドステートドライブ搭載だったら欲しいな、なんならこいつを使えるような職場に移ってもいい! なんていうくらいに妄想たくましくして、そうしたら本当に軽量ノートではありませんか。おお、ほんとにノートだったんだ! ちょっとわくわくしてきたぞ、ほんとそんな感じであったのです。

けど、やっぱりAppleというべきか、キーボードはフルに限るっていう会社ですからね、案の定そんなには小さくならなくて、ええと、大きなムラマサ? 光学ドライブが搭載されないなど、メインではなくサブマシンとして使われることを想定した割り切り仕様だと思うのですが、ドライブはメインマシンのものを利用し、無線でマウント。クレードルの代わりにTime Capsuleでバックアップ、データ共有もばっちりなどなど、よく考えられているとは思いましたが、正直買うにはちょっと高いし、それに重量、軽いといえば軽いけれど、1.36kg、運んでいるうちにだんだん重く感じてくるんじゃないかなあ、よしきた、買った、とはなかなかいきそうにないなというのが正直な感想です。

価格が高いなんていってますが、実際の機能やらなんやら考えると応分かなとは思いました。ハードディスク搭載モデルで229,800円、CTOでソリッドステートドライブに置き換えたら121,800円追加。やっぱりSSDは高いんだなあ、正直これが実感ですね。SSDにはかなり期待しているんです。稼働部品が少ないからクラッシュという概念もないだろう、ディスクが壊れてみんなパーみたいなことは激減するだろう(SDカードの内容が消える事故もないではないから、さすがに皆無とまでは思わないけど)、だから、早くSSDが低廉な価格で買えるようにならないかなあって思っていて、どんどんメモリの価格が下がっているけど、実際こいつがHDDを置き換えるのはいつごろになるんだろう、わくわくしていたんですね。だから、新しいAppleのノートには期待していて、そしてSSDモデルのあったことに喜んだものの、やっぱり高い! こりゃあ、ちょっと買えねえなあ。重くてもMacBookの方がよさそうだ、一気に妄想はしぼんじゃったのでした。ああ、貧乏性が憎い。

今、私の努めている職場では外部の端末持ち込みは厳禁だから、私物を使うなんてもってのほかであるわけですが、だったら転職して、なんて思ったその転職先というのは教員だったりするんですが、板書なんてやってられないから、Keynoteで資料作っちゃってさなどなど、妄想していたんです。実際の話、職があるかどうかなんてわからんし、目指すは講師なんて思っていたりするのですが(なんでそんなに不安定が好きなの?)、けど自分が教員なんてやるの? 不信だわ。そんなわけでどうにもこうにも踏ん切りつかないまま数年が経ちました。ああ、このまま私の免許は消えちゃうのかな。ちょっと惜しいな。

なんの話だっけ? ああ、新しいMacBook Airですね。魅力的ではあるんですが、私にはちょっとハイスペック過ぎる部分と足りない部分があるようで、手を出すに出せない、そんな製品と思われました。現時点においては、MacBookで充分そうだなあというのがどうも結論であるようですよ(もちろん買う予定はないんですけど)。

2008年1月16日水曜日

雇用融解 — これが新しい「日本型雇用」なのか

 真実を知りなさいという言葉を、世の残酷から目をそらしてはいけないと受け取ったわけでもありませんが、昨年末、丁度その年が終わろうという頃に『雇用融解』を購入しました。『週刊東洋経済』にて展開された特集をベースに単行本化されたこの本は、現代日本における労働の実態を描き出そうというルポルタージュです。巨大化する人材派遣市場の状況をレポートし、そしてその顧客である企業内部でなにが起こっているかを描き出すのですが、問題は派遣労働や請負の現場にとどまらず、非正規労働から正規労働にいたるまで、多様な現場で起こっている雇用状況の崩壊に踏み込んでいく労作であります。

いやね、他人事ではないんですよ。私は有期雇用契約に基づいて働く労働者なのですが、働けている今はいいけれど、雇止めされたらどうしよう、そもそもいつまでこの状況が続くものだろうか等々、やっぱり不安があるんですね。けれど、今から新たな職場をと思うと非常に厳しいわけで、年齢もあるし、資格にしてもろくなの持ってないから、もうあかん。コネでもあれば別かも知らんが、コネに頼るのはいやなんじゃあと突っぱねていたら今の状況。けれど、今の職場だって人に紹介されてようやくありつけたものなんです。じゃあもしそうした人がなかったらどうだったろう。まあ、いわゆるフリーターって奴だったんじゃないかなあ。以上、私のおかれている状況はこんな感じです。

今の労働をめぐる状況は、非常に厳しいといわざるを得ないものがあるかと思います。正規雇用にありつけなかったものは、フリーターとして、あるいは派遣や請負の労働者として低賃金での労働を余儀なくされて、そしてそこから抜け出すことが難しいという現実があります。日本においては特にそうだと思うのですが、新卒者を前提とする採用が一般的で、ある程度の年齢に達すると雇用のチャンスがそもそもないという状況に追い込まれてしまうんですね。丁度私が大学出た時ですが、就職氷河期といわれた時期があって、とにかく職がないんですね。私は職がなかったから院に進学したのですが、二年ほど潜伏したらなんとかなるかななんて思ったわけですが、ならなくってですね、今に至る。自己責任かい? そうかもね、自分で選んだ道だもの。ただよく私は思うのですが、グッドエンド、せめてノーマルエンドに向かう選択肢が出なかった人はどうしたらよかったんでしょう。いやね、ゲームやっててね、ああ自分の人生にはこういう選択肢は出現しなかったなあって思う。もしかしたら、どこかで一度間違えたんだね。それがバッドエンドに向かうルートへの入り口だったわけだ。かくして死亡フラグを立ててしまった人たちは、以後どこでどう挽回したらいいのでしょう。

以前、『ルポ最底辺』で書いた時にもいっていましたが、我々の暮らす社会には人生ゲームでいうところの開拓地がないんです。『雇用融解』に収録されたインタビュー、会社社長である奥谷禮子氏は、格差社会は仕方がない。結果平等ではなく機会平等を選んだ以上、実力によって格差が生じるのは当然だっていっています。けど、これ本当なんだろうかと思います。本当に機会は均等なのか? 平等だったのか? 実際問題として、親の職業、年収の違いが、子供の進路を大幅に決定するなんていいます。階層の固定が現実的に起こっているって話です。いったん派遣労働者、フリーターとなってしまうと、なかなか正規雇用には移行できないなんて状況ももちろんあるわけです。そんな状況で機会平等社会だなんていわれても、正直詭弁にしか聞こえない。いったいそんな社会、どこにあんねん。仮に機会が均等であったとしても、人生のある時点までに、その少ないチャンスをものにしなければいけない。数少ないチップを賭けて、すってしまえばそれまでか? 我々は逆転、はい上がりのチャンスを持たないままに、ゲーム盤にのせられてしまっているんだなあ、そんな感想ばかり残ります。

私は正規雇用にありつけなかった側の人間ですが、友人には正規雇用を得たものももちろんおります。彼は外食産業で働いており、数年で店長になったと聞いていますが、その働き方がものすごかった。二三ヶ月だったかなあ、休みらしい休みがない。朝早く出て、日付が変わるまで働いていました。残業代とか出てるのかなあ? 多分出てないんじゃないかなあ、なんて思うのは、丁度この本にあったファストフードチェーンの事例、店長の状況がそんなだったからで、店長という肩書きをもって管理職とみなし、残業代を付けない。実態として雇用側に近いわけでもない人間なのに、そういう立場とみなすことでコストカットできるというからくりで、まあこれは実にポピュラーな方法でありますが、無償の労働を課すわけですね。どんどん生活が労働に蝕まれる状況があるわけで、正規雇用にありついてもこんな働き方を強いられるんだったら、非正規の方がまだましだと思えてしまう。もちろん、会社もいろいろ、非正規もいろいろで、真っ当な正規雇用もあれば、やばい非正規もたくさんあるわけで、いわばこれも運。なにを選んだとしても、運が悪けりゃはいそれまでよ。人生においてもっとも重要なパラメータは運であるなあ、そんなこと思わなければならないっていうのも、実際正直どうなんでしょう。

つい最近、違法な労働者派遣を繰り返していたとして、グッドウィルに事業停止命令が出ましたね(2008年1月11日)。グッドウィルは、この本の第1章にて取り上げられた人材派遣大手のクリスタルを買収した企業でありますが、法令遵守に問題のあるクリスタルだがわれわれが引き継いだ後に悪くなることはない。直せば済む話ですといっています、ほかならぬ折口雅博会長が(インタビューの形式で収録)。そうかあ、なおらなかったんだ! さて折口会長はワーキングプアの問題について問われこんな風に答えています。

いずれにしても人材サービス会社や企業は何も強制していないということです。君たちはこれで働きなさいと強制しているんじゃなくて、彼らはその道を選んでいるんです。

そう、選んだんです。けどそう選ぶしかなかった、他の選択肢が出なかった者もあるんです。目の前にある選択肢の中から、よりましだと思えるものを選んだらこうなった。そうしたものはどうしたらいいんでしょう。そして、そうしたものに機会は均等だった、能力かそうでなければ努力が足りなかったんじゃない? という言葉が投げ掛けられる。けど、それは本当なんだろうか。こうした言葉が有効なのは、開拓地の用意されたゲーム盤においてではないのか。そして今我々の社会に開拓地はあるのか? 答えはとうにわかっているけれど、私はそれを問いたいです。

引用

2008年1月15日火曜日

だめよめにっき

 漫画によって画風、作風などを使い分ける人ってありますが、私屋カヲルという人もそうしたタイプの漫画家であるのかも知れません。というのもですね、この人の代表作『こどものじかん』と『だめよめにっき』、ずいぶんと雰囲気を違えているのです。ませた小学生が若い教員を翻弄する『こどものじかん』においては、過激といってもいいものか、扇情的な表現も多分に交え、そして時にはシリアスな顔もして見せるという、いわば動的な表現がなされていると感じたものですが、対して『だめよめにっき』はというと、台詞を極力減らして、シンプルにシンプルにネタを絞り込もうとするかの、いうならば静的でしょうかね、そうした見せ方が選択されています。

そして、絵柄も違っています。四コマ、小さな枠に全身がおさまる、非常によくデフォルメされたキャラクター。『こどものじかん』の読者にとっては、これもまた意外に感じられるのではないかと思うのですが、しかし私には私屋カヲルは『だめよめにっき』の人だったから、『こどものじかん』をはじめて読んだ時には、へーっ、こんな作風の人だったんだと驚いて、でもそれは表現の幅の広さを知ったといった感じの驚き。どちらの漫画にしても、表現のスタイルこそ違えど、キャラクターの魅力をよく引きだして、漫画の面白さを膨らませているなと思える出来であったものでしたから、むしろ好感を持ったものでした。

『だめよめにっき』は、ヨメとオットの新婚の夫婦生活を描く四コマ漫画であります。タイトルにだめよめとあるように、主役はヨメ。けどいったいどこが駄目なんだろう? 家事はしっかりしてるし、むしろスーパーなくらいであるといえる。となると、駄目なのは人としてか。オットを好きで好きでしかたなくて、その気持ちどころか、行動をも止められなくなっているヨメです。その行動、愛情の表現はかなりアグレッシブでラディカルで、けれどそれも可愛く見えるのはデフォルメされたキャラクターのためなのか。いや、オットにラブラブであることがよくよく伝わる、その表現があるがゆえなんだろうなと思います。

初期においては、登場人物はヨメとオットにかぎられ、しかもヨメの台詞はほとんどないという、サイレント的な味わいがよくできていて、また楽しかったものでした。ネタはことごとくシンプル、言葉を使わず絵でうまく表現して、それが面白いのです。素直にうまいなあと思わせる漫画でした。絵にしても、構成にしても、どれもがバランスよくまとめられている漫画でありました。

そして現在は、ヨメ、オットに続く第二の夫婦が登場、ツマコさんとダンナなのですが、この頃からヨメは普通に話すようになります。サイレント風の味は薄れましたね。けど、面白さはまた違った雰囲気を持って広がって、これはこれで面白いんです。しゃべるようになってよくわかる、ヨメのシビアな一面。そうかあ、オットにはラブラブだけども、他の人には割とひどいこというんだこの人は、というのがよくわかって、さらに好きになったというのはどうでもいい話。けれど、ひどい人担当はむしろツマコさんで、女同士の仲むつまじさに潜むシビアな丁々発止、これが実によくってですね、性格の違うふたりの女、その個性をうまく使って表現を広げる。普通っぽさは増したけれど、悪くないなと思わせる、そういううまさは健在です。

『だめよめにっき』は、雑誌センターでオールカラーであるのが売りといいますか、そのため単行本もオールカラーであります。正直これは嬉しかったです。連載時のてかっとした印刷とは違って、マットな質感は温かみを増して、これはこれでいいものです。そして、カラーのカットも数点追加されていて、雰囲気あるリアル志向のものと、一コマにおかしみの凝縮されたコミカルなもの、これもまた嬉しく、いい単行本だ、そんな感想を持ちました。

  • 私屋カヲル『だめよめにっき』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2008年。
  • 以下続刊

2008年1月14日月曜日

デビルマン

 私がはじめて『デビルマン』に触れたのは、以前住んでいたうちの近くにあった古本屋ででした。『デビルマン』の単行本、とくになにを思ったわけでもなく手に取って、そして打ちのめされるような思いで立ちすくむことになりました。それまで、私にとって『デビルマン』とは、テレビのなかで活躍する変身ヒーローでしかありませんでした。それが、あのおそろしいラストを見せられて、私は動揺とともに本を伏せ、そのまま帰ってきてしまって、まさか原作ではあのようなラストが描かれていたとは露ほども知らず、そしてその残酷な真実に触れる場面は、私の中に焼き付くようにして残ったのです。通して読んだのは、その体験から数年後でしたか、すでに中学に上がっていたと思うのですが、あらかじめ覚悟していたというのに、それでも強烈な読後感が残って、ああ『デビルマン』はすごいや。その感想は、この一月に発行された『デビルマン』愛蔵版を読んで、それでなお同じであったのでしたから、よっぽどのものといわざるを得ないでしょう。人間の心の奥底に眠る怖れを貫き通すかのような、激烈な一撃を秘めた一冊。これを名作といわずしてなにを名作といえばいいのか、そのように思います。

『デビルマン』がおそろしいのは、デビルマン不動明の戦うものの正体が、日々私たちが向き合っている人間の心そのものであったからに他なりません。正直序盤の、デーモンという異形を相手にしていた頃の方が優しかった。人類という守るべき存在を背負い、孤独に死闘を演じるデビルマンという構図はわかりやすく、それゆえに入り込みやすく、受け入れやすいものであったと思うのですが、永井豪はそれではすまなくなったのでしょうね。

ジンメンとの戦いを終え、物語は急反転するかのようにがらりとその構図を変えます。敵はデーモン、しかし不動明が対峙させられるものはもはやデーモンというわかりやすい侵略者ではなく、本来守るべき存在であった人間であるという残酷。そしてそれは読者にしても同じで、なにしろ不動明を中心に描かれる物語です。明の葛藤はそのまま私たちに伝わってくるものですから、読者は人間にして、人間を理解しがたい敵として感じざるを得ず、その違和感は手のつけられないほどにまで膨れ上がります。しかしそれでもなお、この物語は他の誰のものでもない、まさしく自分の物語なのだ、自分を取り巻いている現実があらわにされているのだ、そう思わせるほどの強さを持って眼前に立ちはだかります。それはもう暴力的なほど。人間に絶望した明の叫び、憎しみとともに吐き出された明の叫び、地獄へおちろ人間ども!、人間の本当の敵はほかならぬ人間であるのだと、それをこれほどにまで突きつけてくるものもまた多くはなく、そして人間である私は、続く明の絶望を受けて、自分の心を自分の手で引き裂いたかのような苦しみに悶えるのです。

ああ、『デビルマン』を読むものは、いやおうなしに自身の心の底をのぞき込まざるを得なくなる。はたして自分は、あのような場、阿鼻叫喚の地獄において、人間性をひとかけらでも保ち続けることはできるだろうか。私は自信がない。けれど、それではいけないのだと、極限の場面におかれた時こそ、自分の弱さを正面から見つめ、それを越えていかなければならないのだと、場に立ちこめる恐怖、混乱、狂躁に身を委ねるのではなく、人間の心を捨てない、立ち止まり続ける勇気を持たねばならないのだと、『デビルマン』は、永井豪の描いた残酷な真実の一面は、いっているのだと感じます。

『デビルマン』は人間性の所在を問い続けています。容易に答えの出せない問は、読むごとに一層深まり、悲しみをともに読み終えるたびに決意を新たにさせて、そしてこれこそは性別、世代、立場を問わず、あらゆるものに読まれるべき物語であると確信させます。

  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』全5巻セット (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1998年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第1巻 (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1997年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第2巻 (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1997年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第3巻 (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1997年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第4巻 (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1997年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第5巻 (講談社漫画文庫) 東京:講談社,1997年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第1巻 (KCデラックス) 東京:講談社,1993年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第2巻 (KCデラックス) 東京:講談社,1994年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第3巻 (KCデラックス) 東京:講談社,1994年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第4巻 (KCデラックス) 東京:講談社,1994年。
  • 永井豪,ダイナミックプロ『デビルマン』第5巻 (KCデラックス) 東京:講談社,1994年。

引用

2008年1月13日日曜日

LILY-C.A.T.

未知の病原菌の恐ろしさ、まさにこれから私たちが経験しようというインフルエンザパンデミックがそれであろうかと思われますが、短期間に多数の命が失われるという未曾有の事態に直面したとき、私たち人類は、日本人は、そして私自身はいったいどのような振舞いを見せるのだろう。それが心配でなりません。これまでに確認されているトリインフルエンザ(H5N1)の感染者数は2008年1月3日現在で348名、死亡者数は216名。感染者に対する死者の割合はおよそ60%、致死率は極めて高いといわざるを得ません。今後爆発的に拡大されることが危惧される新型インフルエンザが、そのままこれだけの被害をもたらすものであるかどうかは、実際起こってみなければわからないでしょう。ですがもしそのウィルスが極めて致死率の高いものであった場合、この日本においてもさながら地獄のような状況が生じ、ともないパニックも起こるだろう、そのように思われて、そうした現場に立たされた時、はたして私になにができるのか、そもそも私は生き残ることができるのか。考えるだに恐ろしいことであると思います。

さて、今日紹介します本は、やっぱりSF。けれど今回は国産です。『LILY-C.A.T.』。宇宙船サルデス号に起こった事件、未知のバクテリアにより次々と命を失っていくクルー。はたしてこの異常事態下、残されたクルーは謎のバクテリアに対しどのように立ち向かうのか。というようなストーリーです。

これ、もともとはOVAだったんです。私とそして友人は、もう毎度のことでありますが、『アニメ大好き!』でこのアニメを見て、そうしたらその友人は本でも読んでたので、貸してもらったと、そうしたらおどろおどろしさ、ある種見た目のインパクトの強かったアニメよりも、みっちりと曰く因縁めいたことをつづった小説の方が面白かった。たとえば船の名前にまつわる因縁だとか(といっても、これは本質ではありませんが)、そして在郷軍人パーティに出席したもののあいだに発生した奇病について。これ、レジオネラですね。在郷軍人(Legion)に発生した病気であるため在郷軍人病(Legionella)と名付けられたというわけです。病原体は桿菌(bacillus)すなわちバクテリアであり、つまりこのストーリーにおける最悪最強の敵であるバクテリアはレジオネラ症と同じメカニズムでクルーに感染を広げたと、そういう話なのであります。

そして、こうした未知の病原体に対して、人類は打つ手がないんですね。宇宙船という密閉空間で起こる伝染性の疾病の恐怖。そうだ、月面のステーションで起こる新種の伝染病の恐怖に触れた漫画もあった。次々と倒れ死んでいく仲間、つのる無力感、本当に打つ手がないとなった時、人心は荒廃するのですね。そして、これから起こるというインフルエンザパンデミックに直面する時、私たちの敵はまさしく新型インフルエンザウィルスであり、また私たち自身、荒廃する人心そのものでもあると知るのかも知れません。

結局は運なんですね。感染するしないも運、毒性の強い弱いも運、そして生き残るかどうかも運です。もちろん、予防をおこなうことで感染リスクを下げることは可能でしょう。マスクの着用、手洗いうがいの励行、栄養、睡眠を充分にとり、人ごみに出ないなど、とれる手だてはいくつもあるけれど、それでもかかる時にはかかる。そうなればあとは運次第。まあ、これまでだって全員が死んでるわけでもないですからね、運がよければ生き残るでしょう。くよくよ考えてどうなるものでもないのなら、もう運頼みしかないわけだ。だったら、できるだけのことやって、後は成り行き、運を天に任すのみです。と考えたら、少しは楽になります。恐ろしいかと問われれば、そりゃ恐ろしいと答えます。けど、恐ろしがっていてどうなるものでもない。人間死ぬ時には死ぬ、運がよければ存えるさ、それくらいの気持ちで、けれど捨て鉢になるでなく、できることしっかりやって、その日を待つでもなく待つというのが一番なのではないかと思います。

そして、その運というのはまさしく『LILY-C.A.T.』のストーリーにおける重要な要素でありました。エピローグ見るかぎり、おそらく人類はその後ひどい目に遭うけれど、けれど運がよければ助かるものもあるでしょう。そしてそれはSFの世界だけでなく、パンデミックというひどい目を経験する、私たちにおいても同じであろうと思います。

  • 鳥海永行『LILY-C.A.T.』東京:朝日ソノラマ,1987年。

参考

2008年1月12日土曜日

宇宙戦争

  NHK制作のドラマ、『感染爆発~パンデミック・フルー』を見ていました。パンデミック・フルー、これ、いったいなにかといいますと、いずれ起こるだろうと予想されているインフルエンザの爆発的大流行のことです。トリインフルエンザウィルスが変異し、人から人へ感染する能力を持った新型インフルエンザウィルスが生まれたらどうなるか。NHKのサイトから引用しますと、だいたい以下のようなことになる模様です。

どこかの国で新型インフルエンザウイルスが出現すれば1週間で全世界に拡大、未曽有の悲劇が人類を襲うことになる。ひとたび日本国内に入れば、だれも免疫を持たないため、瞬く間に感染が広がり、医療機関、交通機関、食料供給など社会は大混乱に陥る危険性がある。

厚生労働省の試算では日本における死者数64万人、多く見積もって200万人を超えるという専門家もあるのだそうですね。

いや、いたずらに恐怖をあおろうというのではないのです。ですが、これはどうも逃れられぬ運命であるようではありませんか。だから、ここは覚悟を決める必要があるなと、そういう思いでひりひりしています。

H. G. ウェルズの小説『宇宙戦争』が発表されたのは1898年のことでした。今や古典といってもいいくらいに古びたSFでもあり、何度か映画にもなっていますから、わりと知られていることかと思います。飛来した火星人により地球が侵略されるというストーリー。またこのラストの意外さ、病原菌により火星人が駆逐されるという、人類の無力さが際立つプロットは、さすがウェルズというべきか。けど、あれほどの兵器を持って地球に下り立つことのできた知的生命体にしては、あまりに衛生に関する意識が低すぎる。とはいえ、昔の小説ですからあまり突っ込まないでおきます。

ここで『宇宙戦争』を引いたのは、他でもないこの火星人の末路が、これから起こるだろうパンデミック・フルーを彷彿とさせたからです。パンデミック・フルーといえば忘れてはいけないスペインかぜの流行、これは世界かぜともいわれますが、世界規模の流行により多くの命が失われました。まさしく世界史的事象であったスペインかぜ、人類の経験した最初のパンデミックであったのだそうですが、これは1918年の出来事でした(ウェルズの『宇宙戦争』の方が20年も早い!)。

当時の日本の人口、Wikipedia記事によればおよそ5500万人。死亡者数は約39万。0.7%ってとこだから、今の日本の人口を一億二千万と見たら、だいたい84万人くらいが危ない。厚労省予測はそれよりも低めに試算されているわけですね。けれど、数十万という単位で死者が予想されているというのも恐ろしい話で、そしてもちろん死者よりも多くなる感染者。大混乱でしょうね。日本もそうなら、世界においても変わらんでしょう。いやはやどうなるものかな、ひりひりします。

そのインフルエンザ大流行、現在(2008年1月)の状況はどういったものかといいますと、こういう時には厚生労働省のサイトが便利、専門のページももちろんありまして、WHOつまり世界においてはフェーズ3、ヒト−ヒト感染は無いか、または極めて限定されている状況だそうで、そして日本はどうかというとフェーズ3A、国外でトリからヒトへ感染がみられ、国内ではトリからヒトへ感染した患者は発生していないという状況です。けど、2008年1月10日報道によりますと、ええと、朝日新聞の記事から引用しますと以下のとおり。

中国で初、人から人への感染確認 鳥インフルエンザ

 中国・南京市の父子が鳥インフルエンザウイルス(H5N1型)に感染した問題について、中国衛生省の報道官は10日の定例会見で、死亡した息子から父親への感染を確認したと発表した。中国で人から人への感染が確認されたのは初めて。ウイルスが「新型」に変異すると大流行する恐れがあるが、「遺伝子の変異はない」としている。

 父親は完治しており、父子と接触があった約80人からは異常が見つかっていないという。ただ、死亡した息子への感染ルートはまだ確認できていない。報道官は「冬から春にかけて鳥インフルエンザが多発する恐れがあり、予防対策を徹底していく」と述べた。

 オランダやベトナムなどで鳥インフルエンザの人から人への感染が確認されている。ウイルスが人から人への感染力が高い新型インフルエンザになると、世界的に流行する可能性がある。

いやはや、恐ろしい話で、これはくるな、早晩くるなという思いを強めさせるに充分なニュースでした。

なお、我が家におきましては、もっとも感染リスクの高いのは私なんですよね。なんでかというと、電車通勤してるから。実にやばい。不特定多数と日々接触しているというわけで、昨年末からのどを痛めないためにマスクを常時着用していますが、これは今後も続けたほうがよさそうだなと、そんな風に思っています。だって、風邪ひいてもかまわず咳くしゃみする人はいますからね。電車の中でも普通に遭遇しますから、うわあやだなあと思って、けど相手が構わないならこっちがかまうしかなく、だからマスク。なにしろ現在はパンデミックアラート期に入っているわけで、そしてもしかしたら今は、ヒト−ヒト感染を起こすウィルスが発生し、しかし潜伏している状況であるのかも知れないわけで、インフルエンザウィルスの潜伏期間はだいたい三日程度、早いものなら一日、長くて五日くらいだそうですから、気付いたら複数人が感染、フェーズ4に移行なんてことになってもおかしくない。そして、そうなったら5、6と駆け上がる可能性もあるんですね。いやあ、洒落にならん。

というわけで、とりあえずは明日のNHKスペシャル、シリーズ 最強ウイルス 第2夜 調査報告 新型インフルエンザの恐怖はなんとしても見ようと思っています。見たらなんとかなるわけでもありませんが、とりあえず、ウェルズの火星人みたいにして死ぬのは避けたい、なら少しでも知識をつけ、いざという時に最善を尽くしたいとの一念なのであります。

  • ウェルズ,H. G.『宇宙戦争』雨沢泰訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,2005年。
  • ウェルズ,H. G.『宇宙戦争』中村融訳 (創元SF文庫) 東京:東京創元社,2005年。
  • ウェルズ,H. G.『宇宙戦争』小田麻紀訳 (角川文庫) 東京:角川書店,2005年。
  • ウェルズ,H. G.『H・Gウェルズの宇宙戦争』武田勝朗訳 (全米ラジオドラマ傑作選 ミステリー劇場) 東京:ユニコム,2001年。
  • ウェルズ,H. G.『宇宙戦争』井上勇訳 東京:東京創元社,2000年。
  • ウェルズ,H. G.『宇宙戦争』加藤まさし訳 (講談社青い鳥文庫) 東京:講談社,1999年。
  • ウェルズ,H. G.『宇宙戦争』福島正実訳 東京:春陽堂書店,1989年。

映画

引用

参考

2008年1月11日金曜日

ネコ式生活

 私は猫は好きなんだけど、自分で飼おうとは思いません。だって、あいつら自分勝手そうだし、多分私の自分勝手と力いっぱいぶつかると思うんですよね。たとえばギターで爪を研いだりさ、あるいは何本となく屹立している本の塔を、牛若丸よろしく点々と飛び乗りながら次々崩していったりして、そうなると心穏やかに共存できそうにない。もう毎日が大決戦ですよ。戦いの果てに友情が芽生えるならまだしも、おそらくは余裕綽綽の奴らに歯噛みする毎日。きーっ、くやしーっ。とまあ、こんな風に心の狭い私に飼われる猫も不幸でしょう。なので私は猫を飼わないのです。でも、こういう猫漫画読んでたら、やっぱり猫がいたりすると暮しは楽しくなりそうだなあと思えてきて、危ないですね。ええ、すごく危ないです。

私は『ネコ式生活』を、はじめ実録であると勘違いしていたのです。主人公夫妻、マキちゃん、カズくんをなぜか作者夫妻と思い込んでいて、途中であれ違うのかと気付いて、けれどそんな思い違いしたのは、登場する猫三匹があんまりにも実在しそう感にあふれたナイスキャラクターだったからだと思います。

雑種のニャソさんを筆頭に、ロシアンブルーのムームーさん、アビシニアンのガッツと続く、これら個性的な猫たち。そのどれもがマイペースなのだけれど、マイペースにも質の違いがあるんだなあというのがわかるといいますか、ひたすらのんびりとしたマイペースもあれば、人の迷惑かえりみず気ままにやっちゃうマイペースもあって、そうした性格の違いがくっきりとしているところとか、そうかと思うと三匹ともに飼い主を、軽視するわけではないけれど、そっけなく扱っちゃったりするその加減がね、実際の猫を観察して描いたようにしか思えなかったわけなのですよ。

猫たちが生き生きしている、そこがいいんです。擬人化されるわけでもなく、ただただ猫であり続ける彼らの、個性際立つしぐさや性質の描写。それがもうどうしようもなく面白くて、類型の猫らしい猫を描きましたってんじゃなくて、それぞれの猫を描きました。三匹ともに変な猫です、けれどこんな猫なんです。そんな声が聞こえてくるようで、それになにより本当に彼ら三匹がこの地上のどこかで、マイペースの、のんびりであったり、むっむっむっであったり、ドドドドドであったり、そんな毎日を過ごしてるんじゃないかと思えてきて、なんか楽しい、ほほ笑ましい。会えるもんなら、こいつらに会ってみたいなあと、そんなこと考えてしまうくらい、参っています。

  • めで鯛『ネコ式生活』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年1月10日木曜日

プレヒストリック・パーク

 先日ご紹介しました『プレヒストリック・パーク』、到着しています。冒険家ナイジェル・マーヴェンが先史時代の生物を集めたサファリパーク、その名もプレヒストリック・パークを作ろうという一大スペクタクルであります。タイムポータル(NHKの訳ではタイムゲート)を使って過去、先史時代へと赴き、絶滅した生物を保護するという美名のもとに、古代生物と大格闘。いや、おっさん、ただ自分の好きな生物とじゃれあいたかっただけなんだろ。とはいえなにしろ保護ですからね、捕まえるにしても武器は使わない。使っても網撃ちだす銃とか洗剤つけた水鉄砲だとか、なんにしても原始的で、そして最後には生身がものをいう。自分がおとりになるしかない! って、いや他に方法あるでしょうよというつっこみも素知らぬ顔で、ナイジェルは走る、走る、とにかく走る! いかすぜ、ナイジェル。といったようなわけで、私の尊敬する人はナイジェル・マーヴェンです。

私はこの番組をNHKの地球ドラマチック!で知りまして、地球ドラマチック!っていったいどういう枠かといいますと、ええとNHKの公式ページではこんな風に紹介されています。

NHKが世界中からえりすぐった海外のドキュメンタリー番組をお届けする『地球ドラマチック』。

野生動物の王国に出かけたり、恐竜に追いかけられたり、古代文明をたずねたり、果てしない宇宙を目指したり、行ったこともない外国の人々の生活に触れたり・・・。

「へー、こんなノンフィクション番組が外国にはあるんだ!」ときっと感じてくれるはず。

な、なんか違和感ある文章だぞ。けど、これはましなほう。『プレヒストリック・パーク』アンコールについてた地球ドラマチック!紹介はもっと直球で、こんなでした。

世界中からえりすぐったノン・フィクション番組をお届けする「地球ドラマチック」。

いろんな場所に冒険に出かけたり、奇抜なアイデアにチャレンジしたり、見たこともない世界の番組を放送します。「へー、こんな番組が外国にはあるんだ!」ときっと感じてくれるはず。

これいいのか? いいのんか? そういい切っちゃってるんだから、信じちゃうぞ。恐竜に追いかけられたりしている『プレヒストリック・パーク』だけど、これノン・フィクションなんだな。本当にノン・フィクション番組でいいんだな。信じたぞ。

『プレヒストリック・パーク』のよくできているところは、その番組の作り自体なんです。前回、私もちょっと悪乗りして、あたかもプレヒストリック・パークが実在するかのように書いていましたけど、もちろんプレヒストリック・パークはこの世にある施設ではありません、まことに残念ながら。すべてはフィクションであり、もちろんナイジェルの活躍もそうなら、パークで飼育係長のボブがその生態食性もつまびらかでない動物たちの世話に苦労したり、動物の体調管理から治療、繁殖まで一手に引き受ける獣医師スザンヌの奮闘する様なんかもみんなそう。この『プレヒストリック・パーク』という名前のドラマにおいて描かれるばかりのものであるのですね。

しかし、それを作り物に思わせない演出が冴えています。ドキュメンタリータッチ。ナイジェルは実際に野生動物に果敢な(無謀な?)チャレンジをするような人で、そうした番組もあるそうで、その際のスタイルはまさしく『プレヒストリック・パーク』でのナイジェルに同じだとかいいますけれど、つまりそうした動物ドキュメンタリーのスタイルで先史時代の絶滅生物捕獲劇を描くというのが番組の趣旨なのでしょう。だから、勘違いしてしまうんですよ。いくらなんでも恐竜です、マンモスです。現代においては生存していないことなど百も承知です。けど、それがまるで実際に生息していて、彼らの手によって飼育されているのだと、そんな気になってくるんです。うちの母親なんて、スザンヌ、そしてボブに毛刈りされるマンモスを見て、これ、本物? なんて聞いてくる始末ですよ。いや、母だって知ってるんです、マンモスはもういないって。あんな毛むくじゃらの象は現存してないって。でも、そう聞かずにはおられない説得力があった。ええ、気持ちはすごくよくわかる。だから私は答えました、今はイギリスの動物園にいるらしいよって。

地上波アナログで見た『プレヒストリック・パーク』は画質の甘さゆえにCG臭さもほとんど気にならず、けれどDVDとなればさすがに違いますね。生物がそして背景の植物も、このへんはCGだって見えてしまいます。だから、もしハイビジョン時代が到来したら、こうしたCGものの説得力というのは一時的に後退してしまうかも知れません。けど、きっともっとものすごい世界を見せてくれるようになるんだろうな。そんなことを思わせます。だって、CG映像がこうした映画、ドラマに登場するようになってまだ十年そこそこじゃないですか? 二十年前なんて、どうみてもCG、というか単なるエフェクトレベル? でしかなかったのが、ここまできたのですよ。だから、ハイビジョン時代には、それこそどこからどう見ても現実に生きてそこにいる生物にしか見えないと、そんな驚異の世界を見ることになりそうな予感がしています。

そうだ、DVD版について一言。画面がテレビサイズでなくビスタサイズになったので、ちょっと嬉しい。そして声優についてですが、NHK版の方がコミカルな感じ、DVD版だと結構シリアスでドキュメンタリー調を強調してくれます。そしてナレーションですが、NHKは渡辺徹、DVDだと古谷徹、徹対決なわけですが、渡辺徹の温かみある穏やかな調子と異なり、古谷徹はクール、すごく淡々として、実に好対照です。いや、どちらもいい。優劣は競えません。でも、やっぱり人は最初に触れたものをいいと思うようにできているんでしょうね、渡辺徹ナレーションをもう一度聞いてみたいなあ。けど、もしNHKが古谷徹だったら、もう一度古谷ナレーション聞きたいなあっていってたんですよ、私はそういう奴です。

引用

2008年1月9日水曜日

まつのべっ!

  『まつのべっ!』の始まったのは、まだ私が四コマ誌の沼にはまっていなかった頃のこと。初出一覧を見れば、『まんがタイムオプショナル』とありますね。私、この雑誌は買っていなかった、どころか、見たことさえありません。ただでさえ多い『まんがタイム』系列誌。その全貌を知ったのは、つまりすべての『まんがタイム』系列誌を買うようになったのは、『オプショナル』がなくなった後の『まつのべっ!』移籍先である『まんがタイムナチュラル』が刊行中のことでした。なぜこういう全誌買いをするようになったのかというと、四コマ誌に掲載される漫画は、後から遡って知ることが極めて難しいという事情にあります。基本的に読み捨てられることを前提に描かれる漫画群を好きになってしまった私の不運ですね。単行本がなかなか出ない、単行本が期待できないなら、雑誌を買うしかない。後から好きになるかも知れない、漫画を好きになるかも、あるいは作家か。いずれにせよ、一度取り逃せばもう遡れないのです。この危機感が、とにかく買って残すという、病的なあり方を加速させました。

上に書いたような事情は、実に『まつのべっ!』においても無関係ではありませんでした。『まつのべっ!』連載開始は『オプショナル』1998年8月号、連載終了は『スペシャル』2007年5月号。うへえ、10年近くやってたんだ。しかし特記されるべきは、この十年にわたる連載中に、一冊の単行本も出なかったということでしょう。人気があったのかなかったのか、少なくとも秋吉由美子は人気のある作家だと認識していたのですが、実際複数誌に連載を持ち、単行本も結構出ていた。けど、それが『まつのべっ!』に関してはまったく放って置かれたような状態で、しかも次回に続く続くで極めてストーリー色の強いこの漫画です、単行本にしないでどうするというような状況。だって、連載で追おうとしても、前提となる人間関係がすぐにはつかめないんですから。なら、ちょっと面白いかなと思わせた人には単行本で読んでもらって、はまってもらうかどうかしてもらったほうがいいんじゃないのか? しかし、そういう状況にはなかったのでしょうね。結果、連載終了から半年待って、なぜこの時期に突然!? というサプライズ刊行ですよ。いや、嬉しかったよ。嬉しかったですよ。けど、いくらなんでも時期を外しすぎてやいないか。同じ出すなら、連載終了時だろうよ。

いや、それでもこうして単行本化されたことを喜びたいと思います。十年分を一度に、上下二分冊で刊行されたために、各冊二百五十ページ超過という、まれに見る大冊となっております。というか、こんな分厚いまんがタイムコミックス見たことない。それが二冊も。圧巻だなあ。そしてそれは外観だけでなく、内容についても同様です。十年にわたり展開されたドラマが、ぎゅっとつまっている。四コマ漫画の体裁で、少しずつ、本当に少しずつ積み重ねられた物語は、二転三転として、思いがけない展開も見せつつ、そして大団円へ。これはやはり単行本で読むと格別であるなと、なにしろストーリー色が強いものですから、本当にそう思えます。

主人公、まつのべ、松延と書く。新人幼稚園教諭。男。彼が幼稚園教諭を目指したのは、幼少時、幼なじみの一言がきっかけで、そして受け持ったクラスには幼なじみを思い出させるような女の子がいて — 。

幼い日に別れた幼なじみは、今や押しも押されもせぬ人気女優としてドラマに歌にと大活躍。手も届かない世界の住人となった幼なじみとまつのべの、長い時間を経ての恋愛模様が描かれるのですが、いやあ、これがすごい。普通なら出会うこともないだろうまつのべと女優大園皇香は運命に引かれるように接近し、そして離れ、その紆余曲折がやきもきさせたものでした。まつのべは昔の憧れをともに皇香を好きになってるし、しかしじゃあ皇香はどうなのだろう。それが見えず、ゆえに心は揺れて、寄っては離れ、しかし忘れられず。この揺れる思いと、そして隠された謎。これが実に引っ張られましてね、すべてが明らかにされるのは最終回間近になってようやく。ああ、それは、そうじゃないかと思いながら、いやそれはさすがにないだろうと棄却した予想のまんまじゃありませんか! しかし、やられた。でもそのやられた感も含めて楽しく、そして面白かった。皇香へのまつのべの思いがあり、そしてまつのべを巡るもうひとつの恋愛模様もまた気掛かりで、いったいこのドラマはどちらの恋を終着地に選ぶのか、またやきもきですよ。そして、このやきもきが楽しかった。ええ、楽しい、いい恋愛劇だったと思います。

今、こうして単行本としてまとめて読めて、初期の頃から匂わされている伏線に、なるほどねえ、このへんからもう仕掛けてやがったかとにやりとして、一度結末を見てますからね、けど結末を知らず一気に読めたらきっとすごい盛り上がるだろうなあ、果たせぬことに思いをはせるのもまた一興でしょうか。でも、本当、一度まっさらな気持ちで読んでみたい漫画でありますよ。毎月の連載を待つことなく、気持ちのはやるまま先へ先へとページをめくる楽しさ。きっと想像以上だろうな、そんなことを思いながら、ゆっくりと味わうように読んでいる。ええ、急ぐのはもったいない。そんな風にも思える、待ちに待った単行本です。

  • 秋吉由美子『まつのべっ!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 秋吉由美子『まつのべっ!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年1月8日火曜日

すいーとるーむ?

 『すいーとるーむ?』が『まんがタイム』に掲載されたその一回目、お、これは! と思ったものでした。建築の職場、新入社員の永井君を待っていたのは、厳しくそして優しい先輩ゆかりさん。面倒見よいおねえさんタイプ、有能でしっかりもので、きれいで色っぽくて、それにいい匂いがする(いや、ごめん。そこまではわかりません)。けど、ただひとつ変わっていたのは、ゆかりさんは会社に住んでいるのです。寮やなんかじゃない、宿直でもない。オフィスの隅に私物を持ち込み、自分のプライベートスペースを作っている。そんな会社にひきこもり系OLゆかりさんと、頼りないわりに妄想が暴走しがちな永井君の、どきどきオフィス生活が始まります。

といっても、永井君は仕事が終わったら家に帰るのですが。なので、夜の会社はゆかりさんの王国で、パジャマでくつろぎ、パソコンでテレビ見たりDVD見たりゲームしたり、そんなのびのびとした様がなんだかほほ笑ましいのだけど、ほほ笑ましいのは主にゆかりさんにまつわる部分。永井君にまつわる部分は、なんか厳しいなあ。特にお姉さまがたが。世情に疎く夢見がち、どこか危機意識に欠けるうえ、うかつな一言も多いせいで、めちゃくちゃなもの売りつけられそうになったり、見るも恥ずかしい手芸品押し付けられたり、お得意先には買いたたかれてみたりと、どうにもこうにもひどい目に遭ってばかりの永井君なんですが、そこがいいんです。やっぱり男の子は、厳しくも優しいお姉さまに、一癖も二癖もあるお姉さまにかわいがられてなんぼだと思うものですから。

塩田さんとセールスの娘さんに愛情や優しさはない感じだけど、それをいったらゆかりさんでさえ愛情はないようだけど、そういう逆境の中、ひとり頑張る、そして空回りする永井君が見ていて可愛いなあと。君いい加減に学習したまえよと思いながらも、賢くなっちゃったら面白くないから、本心ではずっとそのままの君でいてと思っている。仕事に関しても、頑張って、成長して、ゆかりさんの負担を支えてあげられるようになって、なおそこで粗忽なミスをするような、そういうキャラであって欲しい。永遠の弟分といいますか、頼りなさの抜け切らない後輩でいられるあいだは、そうあり続けて欲しいものだと思っています。だってそうじゃないと、ゆかりさんの出番がなくなっちゃう。ええ、永井君の最大の功績は、ゆかりさんや美好さん、素敵なお姉さまがたのシビアでしかし愛嬌のある素顔を引きだすところにあるのですから(しかし、そのシビアさに気付いてないってとこがまた永井君のよさよね)。

ところで、屋上での飲み会で発覚した、妙にプリティーな部長の特技、鼻でソバを食べるですが、もしかしたら目でピーナッツを噛めたりもするのでしょうか!? 今後も部長からは目が離せません!

  • 東屋めめ『すいーとるーむ?』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年1月7日月曜日

まとちゃん

 昨日、『プレヒストリック・パーク』を見て思わず漏らした感想 — 、虫がたまらん。いや、喜んでるんじゃなくて、逆。だってさ、体長が三メートル近いヤスデですぜ。ひっくり返したら脚がワシャワシャうごいてるの。うわ、耐えられないわ。けれど、そんな番組見ながら、あああの子ならきっと喜びそうだと思っていて、それって誰かというと……、えっと、私らの世代で虫、娘とくると、ほぼ自動的に虫愛づる姫君ナウシカを思い出すものなんですが、そうではなかったのです。私が思い出していた娘というのは、まとちゃん。結城心一の漫画『まとちゃん』のヒロインである高原馬頭子です。いやあ、この子がもう部類の虫好きなんです。もう、耐えられんほど虫好きなんです。

『まとちゃん』は、まとちゃんとその周辺の小学生が織り成す、不条理だったり、あるいは妙に現実味あふれる、いやそれは実に虫に関した事柄に集中していたりして、そんなとこリアルであってくれなくていいんですが、読んでるとですね、ぞわぞわしてくるんですよ、背筋らへんが。まとちゃん、不思議系とでもいったらいいのか、ちょっとなに考えてるかわからない感じの子で、いやそんなことないな、この子の考えてることっていったらたいがいが虫絡みだ。いったいどういうところに虫がいるかをよく心得ていて、しかしそれを筆箱にしまうのはやめて欲しい。

そんな子、実際いるけどさ(女の子では珍しいけど)。私だって子供の頃は虫捕まえたりは普通のことで、虫かごに突っ込んでおいたカマキリの卵嚢、幼虫が一斉に孵化してバイオハザード起こしたり、共食い誘発させたり、また捕まえるまでもなく、毒性のある花の汁でもって大量虐殺したり、いろいろしたけど、今はもう無理。できればかかわり合いになりたくないというのが正直なところで、でもまとちゃんみたいな子が身近にあればいやでも関わらざるを得ないよな。ああ、やちほ先生の心労が偲ばれます。

つうわけで、『まとちゃん』は心穏やかに読めたことが一度たりともありません。うわあ、とか、ぐわあ、とか、勘弁して、とか、そんなこと思いながら読んでいて、けどたまらんのはヨタボールよな。ええと、ヨタボール、表紙に出てます。まとちゃんが乗ってるのがそれ。だから、私は絶対帯はずしません。ヨタボールがなにかぴんとこないっていう人は、差し当たりメガボールあたりをキーワードにして検索してみてください。そう、この手のものが好きなんです、まとちゃんは。私は、ちょっと耐えられないわあ。東南アジアとかマダガスカルに生息する生物らしいですが、お願いだから国内に持ち込むのは勘弁してください。繁殖したりして、ほら温暖化だなんかで日本も暑くなってきてるから、下手したら普通にそこらに定着しちゃいそうで、でもこんなのに出くわしたら卒倒はさすがにないだろうけど、軽くパニック起こすだろうなあ。ナイジェルみたいに、体当たりで捕獲なんて絶対無理。

とこんなわけで、私とまとちゃんは趣味が合わないのです。

って、虫だけで終わってしまってもなんなので。『まとちゃん』は虫だけが持ち味じゃありません。奇妙に現実から乖離した、けれどどこかで見たことのありそうな、マニアックな非日常センスが付与されることで、なんともいえない不思議空間の入り口を開く、そういう漫画でもあります。それも淡々とした描写で、いつもの日常のりに直結させてくれるから、ありえないことがありそうで、けどそれはあくまでも非日常であるわけで、しかしそれは日常と同じ地平に共存していて、一種悪夢めいた奇妙な具合に仕上がっている。いい感じに脳みそを攪拌してくれます。

あ、そうだ、これも書いとかないと。『まとちゃん』は一巻ものですが、実質的にその続きといえる『ちろちゃん』も出ています。まとちゃんは主役の座をおりますが、それでも存在感は健在です。というか、ちろちゃんの天敵だよな。

  • 結城心一『まとちゃん』(REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 結城心一『ちろちゃん』第1巻 (IDコミックス 4コマKINGSぱれっとコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 以下続刊

2008年1月6日日曜日

プレヒストリック・パーク

 年末年始とか、休みが続くうえに特別編成番組がじゃんじゃん流される時期になりますと、実はNHKが面白くてですね、年間放送してきて評判よかったものをどかんとまとめて放送してくれたりする、それが実に豪華で、もう本当に目が離せないんですね。今年の目玉は『プレヒストリック・パーク』でした。これ、素敵すぎ。なにがいいといっても、出演者、ナイジェル・マーヴェン氏ですよ。この人、先史時代の生物を集めて生態展示するプレヒストリック・パークの園長さんなんですが、まさにそのパークを造っているその時の様子が紹介されていて、もう鼻血でそうなくらいに素敵。うわあ、こんな体当たりで動物を捕まえていたのかあ、と唖然としながらも大興奮でありました。

どれくらい体当たりかというと、いまだ調査も満足になされていない古生代にパークスタッフ&カメラクルー率いていってみたかと思うと、人間大の多足生物アースロプレウラ、まあはっきりいって虫なんですが、それもヤスデとかムカデといった類いの節足動物であるのですが、そいつと取っ組み合いの大格闘ですよ。うわあ、勘弁してください。子供の頃は虫好きだった私も、今やさすがに直視に堪えない。それがメートルサイズでうごめいているときた。ああ、プレヒストリック・パークにいくことがあったとしても、昆虫館に寄るのはやめておこう。あんなのと対面したら絶叫しそうです。

『プレヒストリック・パーク』は全六回シリーズで、残念ながら途中の回は見逃してしまいました。見たのはティラノサウルスを二頭連れてくる話とマンモス、そして昆虫、巨大ワニの回ですね。しかし、それにしても楽しい番組です。恐竜にしてもマンモスにしても、とにかくこんなの見てみたいなあという、子供どころか大人にとっても夢憧れの存在に、仮想的にとはいえこんなにも接近させてくれるのですから素晴らしいです。思えば私は子供の頃から恐竜が好きで、図鑑見たり映画見たりして、想像を膨らませていたものでした。どんな生態だったんだろう、どんな時代だったんだろう。なにしろ私の子供時分といえば、恐竜は尾を引き摺って歩く鈍重な生物とされているのが主でしてね、ブロントサウルス、じゃないや、アパトサウルスなどの足跡化石に尾の跡が残っていないのは、こやつらが水中で生活していたからだろうっていって、それにブラキオサウルスの鼻の穴は額についてたんだそうですが、これ水面から頭のてっぺんだけ出して息をしてたんだっていってたんです。でもその後の研究で水中生活説は否定されて、ともない私の知識も上書きを余儀なくされたのでした。

この新たにわかってくるということが、こうした古い時代の生物を知ることの醍醐味であるんだと思うんですね。そしてその新しい知識、知見に基づいて新しい恐竜像が描かれて、それが『プレヒストリック・パーク』のような番組になって私たちの興味を刺激し、楽しませてくれるんですね。まあ、この番組に関しては恐竜にとどまらないのですが。

この番組、制作はイギリスなんだそうですが(正確にはイギリス・アメリカ・フランス・ドイツ合作だそうです)、こういうのががっつり作られて、放映されて、人気になってという土壌のある国はうらやましいなと思います。それを日本に持ってきて、吹き替えしてくれて、放送してくれたりするNHK。素直にありがたい、NHKがやってくれなかったら、私は知る機会を持たないままでした。ということでDVDも買ってみて、到着してまた頭から見るのが楽しみで、吹き替えが違うのがちょっと不安だけど、きっと大丈夫ですよね。ええ、始まってみればきっととりこになってしまうだろうと思います。

2008年1月5日土曜日

Pelikan Pelikano Junior

  三本目の万年筆を紹介しようかと思います。ええと、自分で購入したものでは三本目、使ってきたものとしては五本目にあたりますね。そして、五本目にしてようやくパーカー以外の万年筆にチャレンジするという、どれほど私は保守的であるというんでしょうね。これと決まったら、それ以外に目を向けないという、よくいえば一途、悪くいえば意固地、視野が狭い。しかし、人としてそういう態度はよくありません。いろいろを知り、経験してはじめて見えてくるものもあるはずなのですから。というわけで、ドイツの名門筆記具メーカーであるペリカンにチャレンジしてみました。といっても、決して高級なペンではありません。Parker Espritに対し1/4、同Sonnetに対し1/10の価格を誇る、ペリカーノジュニアであります。

ペリカーノ、小ペリカンって感じでしょうかね、それのさらにジュニアときました。カラフルなプラスチックボディもキュートな太軸の万年筆でありますが、特筆すべきはその価格。日本円にして1500円。千五百円です。そしてこれ、いったいどういう位置づけにあるペンかといいますと、ドイツの小学生が書き方の授業で使うものなんだそうでしてね、だから子供用。しかし、子供用と侮っていてはいけない書き味、さすがドイツというべきか、それともペリカンがすごいのか、大人が日常で使って違和感を感じさせないレベルの品質、書き味を提供してくれるものだから、ペリカーノファンもたくさんいるのだとそのように聞いています。

子供用だから安い、子供用だから丈夫、しかし品質は良、実に万年筆らしい万年筆というキャラクターが、大人の日用ペンとしての需要によくマッチしているということなのでしょう。この上位にペリカーノというのがあるんですが、そちらは少しスマートな感じ。これもschool fountain penだそうで、つまりメインとなるターゲットは児童、学生の模様。でも大人だって愛用している。それはリーズナブルであること、品質が劣っていないこと、そしてトランスルーセントなカラフルボディの持つデザイン的魅力が受けてということなんだと思っています。

 そんなわけで、私も買ってみました。色は赤を選択。ああ、軸の色ですよ。インクはペリカン純正のロイヤルブルーです。なぜ赤軸にしたかというと、過去にドラマの影響で売れまくったという黄色は黄系の肌色を持つ私には合わないし、青はちょっとクールすぎるし、じゃあ緑か赤。交互に手に取って、ぱっと目に鮮やかな赤がよさそうだなと、そういう決め方でした。

書いてみた感じは良好です。すらすらとインクが出るから、のびのびと線を引ける。ソネットと比べると確かに違うんだけど、そりゃカテゴリが違うんだから比べるほうが間違い。しかし、これをキャラクターの違いと捉えるのなら、充分にありなペンであることは確かです。

持ち手は、大人の手にはさすがにゴムのグリップは前過ぎてバランスが悪いから、軸の中ほどを持っています。人差し指、中指がわずかにゴムにかかるくらい。グリップには、子供が正しいペンの持ち方に慣れるよう、ガイドがつけられているのですが、その恩恵を得るには年をとりすぎました。子供の小さな手、薄い手ならグリップを持ってマッチするのかな? けれど、小学校低学年くらいの知り合いなんかいないしなあ。通学路に張り込んで、このペンで字を書いてご覧、なんてやったらまあ間違いなく通報される自信があるね。ああ世の中とはままならないものですよ。

私がこのペンを使おうと思っているシチュエーションは、まさしく職場、事務用です。それもきっちりとした書類を作成する時ではなく、電話を受けた時など、メモを取るため。今は鉛筆(最初はHBだったけど、今はなぜか2B)を使っているけど、その前はゲルインキペンの太字でした。この変遷を見ても、いかに筆圧をかけずに書こうとしているかがわかろうかというものです。そして、再びペンに戻ろうという段になって、ペリカーノジュニアを選んだのですね。ラフに、大ざっぱにメモを取っていく。気取りなく、力みなく、しっかりと書くのによさそうだと思ったのです。

さて、ペリカーノジュニアですが、ペンに同梱されているのはブルーインクのカートリッジです。ですが、カートリッジはコストパフォーマンスの点で劣るから、コンバータを購入しまして、店員さんいうには、メーカー非推奨ですとのことですが、まあ気にしない。けれどインクはペリカン純正のボトルを買ってるんだから、このへん私の気の弱いところです。

さて、コンバータですが、次の写真見ていただくとわかるように、容量がカートリッジの半分くらいしかないんですね。

Converter and Cartridge

しかも、これ私の腕が悪いんでしょうけど、タンクいっぱいにまでインクを吸えなくて、店員さんに普通はどれくらい吸い込めるものですかと聞いたら、まあ七八割はいきますよとのこと。腕が悪いんでしょうかね、苦笑されていました。そりゃ、お客様が下手なんでございますよとはいえんよな。ともあれ、インクの出が豊かであるペリカーノジュニアです、コンバータだとびっくりするような勢いでインクがなくなっていきそうだな。でもまあいいや。こまめに吸っていくことにしよう。数こなせば慣れるだろうし、この吸い上げ作業もまた万年筆の味のひとつ。面倒が嫌いならカートリッジ一択だろうとは思いますけどね。

2008年1月4日金曜日

Parker Esprit Matte Red CT Fountain Pen

 万年筆を買いました。って、こないだもいっていたような気もしますが、それとは別件。そう、二本目を買ったのですよ。えー、そんなに万年筆ばっかり買ってどうするの、なんて声も聞こえてきそうでありますが、いやシチュエーションが違えば使うペンも変わるものでしょう? 金を使ったペンなんてのは、やっぱり気軽に表に持ち歩くものではないと思うんです。外でハードに使うペン、あるいは事務に使うペン、そういうのはもっとソリッドな質感にあふれている方がいい。というわけで、買いました、同じくパーカーのEsprit。小さく携帯、大きく使うといったらいいでしょうか、ちょっとギミックに凝ったペンであります。

そう、ギミックに凝っているのだよ。私はどうもギミックに弱いのです。最初のもの、メインとなる一本こそは極めてスタンダードでオーソドックスでトラディショナルなものを選ぶのですが(よくデュオフォールドにしなかったものだ)、二本目三本目、サブにあたるものとなると、ちょっと毛色の変わったものが欲しくなっちゃうんですね。で、結果がEsprit。これいったいどういうペンかといいますと、テレスコープメカニズム搭載、なんと軸が伸び縮みするのであります! ほんと、あんたこういうの好きそうだな。ええ、好きなんですよ。だって、ちょっとこの画像を見てください。

携帯時

使用時

どうです、このトランスフォーム具合。といっても、2センチ程度かな、それくらいしか伸縮しないんですけど、でも携帯するということを考えるとこの2センチが馬鹿にできません。ポケットに入れるにしても、でかくて長くて邪魔ということはないし、手帳につけるにしても、バランスを欠くということもなさそうだろう。ギミックがあるせいで壊れやすいんじゃないかという心配も、実際に店頭でさわってみたらさすがにしっかりしてます。それこそ小さく携帯するなら、無印良品のポケット万年筆という選択肢もある中、やっぱりある程度のものをもちたいという欲求のためでしょうね、パーカーに決着したのでした。

さて、万年筆となると問題となるのは書き味です。実はインクカートリッジをさして、まだちゃんと色が出切らない状態(店頭での試し書き後の洗浄で、水が入っているため)であるので、なんとも評価しにくいのですが、タッチとしては結構固め、Sonnetとは違い、ペン先がしなって開く感触(もちろん実際にはそんなに力入れることはありません)は得られません。太さがF(細字)しかないため、線は当然細目に引かれ、ともない文字もおおらかにのびのびと広がるというより、小さくきっちりまとまろうとする、そういう傾向が見られます。学生の頃に使っていた、45に近い書き味がして、まさしく実用のペン、そんな印象ですね。

ペンを持った感じのバランスは、思ったよりというべきか、それともやはりというべきか、溝を掘られたグリップ部分を握るのではなく、軸中央寄りに平衡を求めたくなる感じです。中指と人差し指がグリップの溝に触れている、そんな位置で落ち着きます。これはキャップを尻軸につけての場合。もちろん軸を伸ばし切った状態です。キャップを尻軸につけないと、軽くなりすぎて、ゆったりと持てない。ペン先側に握りが移動して、立てて書く感じになってしまうから、やっぱりキャップは後ろに留めてバランスがとれるようになっているのだと思います。

インクについて。インクは、カートリッジによる供給です。店頭でも聞いてみたのですが、軸が縮む関係で、通常のリフィルは使えず、ということはもちろんコンバータも使用不可です。小サイズのカートリッジを使うことになるのですが、いやあ、これが実に心もとない。標準のカートリッジだと、はじっこにインクを溜める機構があって、急なインク切れが起こった際には爪で軽くはじいてやると、急場をしのげる程度のインクが出てくるようになっているのですが、そういうのは皆無ですね。だから、常に替えリフィルを用意しておく必要がある。でも、このカートリッジ、普通の文具店には置いてないよなあ。

あ、色はウォッシャブルブルーを選びました。黒はあんまり好きじゃない。でも、黒カートリッジも一本、標準でついてくるんですよね。これ、どうしよう。まあ、いつか使う日が来たら使おう。一生こないかも知れないけど。

私はこれを、日常のメモ取りであるとか、覚書のために使いたいと思っているので、可搬性に優れているところ、文字を小さくまとめやすそうなところはうってつけだと、そういう風に評価しています。ですが、キャップが結構固めなところであるとか、軸の伸び縮みが急ぎの時には煩わしく感じられたりしないかなど、心配といえば心配。まあ、使っているうちに克服できるでしょう。それよりも、こういう面白いペンが手もとにあるという面白さの方がはるかに勝っています。

万年筆

マルチファンクションペン(ボールペン / スタイラスペン)

シャープペンシル

ボールペン

2008年1月3日木曜日

楽園の条件

 割と評判がいいようだったので『百合姫Wildrose』を購入してみたところ、ちょっと私には合わないみたいで、残念でした。けれど、収録のものすべてが性に合わないわけでなく、なかには結構いいなと思えるものもいくつかあって、ちょっと視野が広がるきっかけになったかな? さて視野が広がるといえば、『Wildrose』には森島明子も参加していて、森島明子、私にとっては四コマ誌でなじみの作家であるのですが、いわゆる百合ものにおける森島明子はこれが初遭遇。四コマとはまた違ったスタイルでお描きなんですね。確かに画風は森島明子であるのだけど、より繊細なタッチが新鮮で、こういうのも悪くないかもなあ。そう思ったものだから、丁度刊行されたところの『楽園の条件』、手にしたのでした。

買おうかどうか迷っていた『楽園の条件』を読むきっかけを作ってくれた、これだけでも『Wildrose』を買った甲斐があったというものです。先ほどもいいましたとおり、森島明子の繊細なタッチが新鮮。そして、出てくる女性たちがまたよくてですね、この人の得意なのかも知れませんが、さばさばとした女性には女臭い女性を、若くて素直な女性にはちょっととうが立って屈折気味の女性をといった感じに、対照的なパーソナリティを合わせてくるのですが、これが見事なマッチ具合であるのです。われ鍋にとじ蓋といったら表現は悪いけれど、お互いが自分の人生を生きながら、それでいて相手を求めている。欠点も含めて自分の持っているものはこれとこれとこれで、けれどそれでは満ち足りないから、私はあなたを必要としてしまうのだ、といったらいいのかな。最終的に、そう感じられる関係が成立していると思われたのは、やはり作者の目指したところが、そうしたところだったからなのでしょう。

パートナーに対しその人を必要と思うのは、依存しているからじゃないんです。溺れるのではなく、自分の立ち位置を時に確かめながら、二人にとっての最適の距離を、一番心地いいと思える関係を模索していく、そういう感触が読んでいて優しく触れてくるようで、たいへんよかったと思います。そしてこうした感触は、既存の関係の鋳型をではなく、私たちにとってのベストを目指そう、新しいライフスタイルの創造っていったらいいのかな、そういうみずみずしい関係しかたへの可能性を開こうという意欲が生み出しているように感じます。

この漫画が百合ものだから、なおさらそう感じられたのかも知れません。理想とは異なり、なかなか対等とはいかない男女間の現実の重苦しさ。そういうものを感じているから、これら創作の分野においては、新たな関係性の可能性を思わせて欲しいものだ、そんな風に思う私には、女性間ないしは男性間の恋愛ものの持つある種対等なあり方に引かれてしまうのかも知れません。『楽園の条件』に収録された漫画は、その点すごく徹底していまして、年齢や立場等による差が生じたとしても、いったん相手を好きになってしまえば、そうしたものは吹っ飛んで、対等になっちゃうんだよということが、きっぱりと描かれていました。そう、本当は男女間でも一緒なんですけど、恋しちゃえば立場とかなんとかまるでどうでもよくなっちゃうんですよね。けれど、それでも因習というかなんかの力で、現実に落とされてしまう関係がある。だから時には夢を見たいと、こうしたものに触れるのだとしたら、あまりにも後ろ向きすぎるかも知れません。

でもはっきりいえるのは、『楽園の条件』において、森島明子は、こと恋愛を描くことに関し、たいへんな上手であったということです。純粋に感情のからみあう小品は、非常に感受性に優れて、読んでいるこちらからして仕合せな気持ちに包まれるようでした。私はこの文章を書くにあたって、やたら百合ものという言葉を使ってきたけれど、この本はそうした枠を抜きにして評価されるべきものであろうと思っています。より一般的な地平においての恋愛ものとして読むことのできる、そういう一冊です。

  • 森島明子『楽園の条件』(IDコミックス/百合姫コミックス) 東京:一迅社,2007年。

2008年1月2日水曜日

世界樹の迷宮

  ようやくといったらいいものか、『世界樹の迷宮』、クリアいたしました。といってもまずはシナリオクリアだけ。クエストはまだ残ってるし、それにアイテムも揃っていませんし、まだまだ先は長い。まさしく、俺達の戦いはこれからだ! といったような状況であるというわけです。さてさて、途中でストップしていたゲームをこうして再開したのはなぜかといいますと、以前にもいいましたとおり、『世界樹の迷宮 II — 諸王の聖杯』の発売を知ったからです。はたして続編買うべきかどうか。なんといっても、途中でWiz XTHに逃げていたのには理由がないわけでもなくってね、ゲームとしてはXTHの方が好みだったというわけで、さてこうした状況で買うかどうか、迷うわけですよ。ところで、続編の初回特典が決定しましたね。古代祐三のサントラがついてくる! というわけで、購入決定しています。心配なのは、あぶれるんじゃないかなあっていう、その一点なのですが、だってまたオークションで入手するなんていやですからね。

話は『世界樹の迷宮』に戻ります。このゲーム、なにが微妙であったかというと、戦闘が微妙に作業的になってしまうところだったんじゃないかなと、そんな風に思います。もちろん迷宮をショートカットできるような各種ギミックもついていて、無駄に戦闘させようとしているようには感じませんでしたが、けれど最初こそは雑魚敵相手にもはらはらと緊張感持って戦っていたものの、ある程度すると完全なパターンに入ってしまうんですね。いや、それはWizも一緒だろっていわれると、確かにそうなんですけど、いったいなにが違うんだろう。

『世界樹』、シナリオクリアに要する最終戦、そいつがちょっと弱すぎたっていうのはまずかったんじゃないのかい? ちょっと不満に思っています。レベルをあげすぎたかな? って、最高レベルが70というのは正直驚きましたよ。最終ボスにたどり着くよりもかなり早い段階でカンストしてしまって、レベル99まであると思ってたから、スキルアップの計画がえらいことになった。けれど、ここで引退させるわけにもいかないし、だからといって休息してポイントを再配分するのもどうかと思うし……、突っ切っちゃうか、と思って突き進んだら、思いがけず楽勝で勝ててしまいました。というか、突き進む過程で無駄になった経験値が惜しい。いいんですけどね。

ラスボス倒すとエクストラダンジョンが待っている、というのは『世界樹』でも一緒です。ちょっとおどろおどろしい迷宮歩いて雰囲気だけ味わってみて、そしてここで引退させました。いやね、効率を考えたらこのまま突き進むのがベストでしょうが、さすがに経験値の無駄が気になりました。なので、スキルポイントボーナス付きでレベル1からやり直して、30を超えた時点で面倒でたまらない。いやあ、ボスと連戦できたらありがたいんですけど、仕組み上無理なようにできていて、ああ、じれったいな、早く生き返ってこい! そう思いながら、ちまちま雑魚敵相手に経験値稼いでいます。

シナリオについてはあんまり突っ込むつもりなかったんだけど、あのおっちゃん、それこそ主人公を懐柔しちゃえばよかったのに。なんでわざわざ敵対する必要があったんだろう。モリビトに対してもそう思ったけれど、あの妙に好戦的だったおっちゃん、あの人の考えがいまいちわからない。だって、あの時、あの状況、あのバックグラウンドで戦わねばならない理由なんてわからないもの。なんていっても仕方ない。なに、降りかかる火の粉を払ったまでさ。いや、ほんとにそんな感じ。クリアまでに時間をかけすぎたかなあ。変に冷静になってもつまらないものだと思います。

『世界樹の迷宮』で楽しいのは、やっぱりボス戦だと思うのです。だから、ボスの復活速度、もう少しあげて欲しかったです。シナリオクリア後だけでもいいから、とにかくボスと連戦できるようにして欲しい。だって、ボスが落とすアイテム、運がよければ二戦三戦くらいで揃いますけど、運が悪いといつまでたっても揃わないでしょう? ボスをたたく、落とさない、リセット。とにかく落とすまでリセット。レベルが70にもなると、まず負ける気がしないから、それも作業になってしまいがちで、残念だ。いや、こういう時こそ博識(アイテムドロップ率が上がるスキル)の出番なのか? でもなあ、正直採取系やアイテム入手系にポイント割り振る余裕がなくて、いや、でもつぎ込むスキルを選別すればいけるかな? いや、無理か。それこそキャラクター登録枠がもう少し多かったら、アイテム入手に特化したパーティとか作れただろうのに、なんていっても仕方ないんですけどね。

『世界樹の迷宮 II』では、1で不評だったところ、バランスが悪かったところが調整されてくると思います。だから、きっとより面白くなるんじゃないかなと、そういうところに期待しています。だから、まずは主力パーティを育てて最前線に投入して、迷宮全踏破を成し遂げ、ひいてはアイテムコンプリートを成し遂げたいと思います。

ええと、2の発売は2月21日か。ひと月半、うーん、無理じゃないかなあ。そんなにゲームばかりしてられる余裕がないんですよね、悲しいことですけど。だから、まあできる範囲で。なんなら、2の開始を遅らせてもいいわけですから。うん、そうするかなあ。いずれにしても無理しない範囲で、少しずつ、少しずつ進めていこうと思います。

CD

Toy

2008年1月1日火曜日

毎週火曜はチューズデイ!

新年明けましておめでとうございまチューッす!!

正直申しまして、2008年年頭はこれしかないと心に決めていました。2008年子年、チューズ年。しかも元旦がチューズデイ、まさしくチューズの休日に始まるというのですから、この日この時を逃して『毎週火曜はチューズデイ!』を語るチャンスはあるまいぞといきこんでいたわけです。あ、単行本が出たらその時にもきっと語るので、その節にはよろしくお願いします。といった次第で、この希有な日こそは『毎週火曜はチューズデイ!』を語るにふさわしい時。チューズたちの活躍するこの漫画を取り上げたいと思います。

さて、さっきからチューズ、チューズといっている、それっていったいなんなのか。なんてそらっとぼけたこといってますが、お読みの皆様方におかれましてはピンときていらっしゃることかと思います。ネズミであります。ÖYSTER氏の漫画『毎週火曜はチューズデイ!』ではネズミをチューズと呼称して、彼らチューズのアグレッシブでナンセンスな日常をこれでもかこれでもかと勢いよく描写しているんです。登場人物(?)は基本的にチューズのみ。ネズミというにはあまりに人間っぽい彼らが、食べ物を探し、困難に挑戦し、危機を回避し、そして時に遊び、友情を深めていく。その様が実に面白いのですが、いや別に感動巨編になったりはしません。

この漫画にあるのは、ÖYSTER氏らしいと感じられる味わいです。読むものの期待というか常識というかをうまくいなして、転倒させて、くすっと笑わせる、そういうエスプリ。言葉にすればきっとなんでもないことだろうのに、勢いのある描線、チューズのダイナミックなしぐさや表情、そして集中線がそれを特別な場面に変えてしまう、これもまたÖYSTER氏の魔法でしょう。いったんその魔法にかかってしまったものは、もう逃げられない。絵を一目見ただけで、くすっと笑ってしまう、にやりとしてしまう。理由なんてわからないし、そもそもどうでもいい。扉絵の、チューズが世界のチーズと一緒にいる絵だけで笑ってしまえる、私などはそれほどまでに魅了されてしまっています!

以上、予定どおり『毎週火曜はチューズデイ!』でお送りしました。心残りは、Blogでは集中線が引けないという、その一点だけです。

今年もよろしくお願いしまチューッす!!

  • ÖYSTER『毎週火曜はチューズデイ!』

引用