ちょっと昔を思い出させるような懐かしさが漫画全体から漂ってきて、それだけで私は嬉しくなるのですよ。私の育ったところは、ちょっと田舎でけれど実際には田舎ではない — 核家族化の進みつつある住宅地 — という中途半端なところでして、けれど昭和という時代には、道端の神様や彼岸と私らの世界を往き来するなにかが確かにいたようなのです。夜には暗がりがあって、町内にはちゃんと地蔵が祭られていて、それにそうしたものたちの名前が大人の口にのぼることも珍しくありませんでした。
身の回りのあらゆる事物、一木一草までに魂や神性が宿っているというのを子供はおぼろげながらでも感じていました。こうした実感が日本的な宗教観の基調をなしていて、ある種のモラルを支える力にもなっていたと思うのですね。少なくとも私にとってはそうでして、偏在する人でないものたちへの意識が、時々の判断や自制に少なからず関わってきたのです。
けれど今ではこうした素朴な宗教観というのはなくなってしまったんでしょうか。まったく顧みられなくなるか、あるいは巨大組織化した宗教ヒエラルキーに取り込まれてしまうか、そういう極端なあり方ばかりが目に付いて私は疑問ばかりです。内面の精神世界というのは、本来その世界を胸中に抱く私たちひとりひとりが真摯に受け止め育むものであるはずなのに。そのように考える私は、昨今の精神世界を取り巻く状況にどうしても馴染めないのです。
この漫画には、神様を含めた人外の住人への温かな眼差しと同時にシビアな感覚があふれていて、おそらくかつて私たちの祖先はこうした感受性を持って自然森羅万象に対していたのでしょう。実際にどうであったかはわかりません。『もっけ』の世界そのものが一種の理想像である可能性もあって、けれど私はそうは思いません。口伝伝承のなかに豊かに広がりをもって存在する、人の踏み入れることの許されない世界。このような異質な世界が意識されることで、私たち人は奢ることなく、自分の分をわきまえた生をまっとうすることができるんじゃないかと思うのです。
『もっけ』の世界は、ノスタルジーをもって振り返られるみたいに懐かしく、けれどこれは現在の話でもあります。物神崇拝が嫌というほど進行してしまった私たちの世界は、この漫画の主人公たちのように豊かな精神世界を再び手にすることで、忘れられたバランス感覚を取り戻すことができるんじゃないかと、私はただただ彼女らの世界を思慕するものなのです。
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