Yahoo! に入れても出てこない、どうしたらいいのかと母親がいうのです。いったいなんのことかと思ったら、新聞の広告に出ていたURIをそのままYahoo! で検索したらしく、つまりコンピュータに親しみのない一般の人の知識はこの程度であるということなのでしょう。
私たち、比較的若い世代はこうしたコンピュータに疎い先の世代を見て、なんでそんなこともわからないのかといぶかしがったり馬鹿にしたり、インターネットを適当にぐるり見渡してみればそうした言説は簡単に、しかも多量に見付けることができるはずです。けれどコンピュータをひとつの道具として見れば、この新しい道具を使おうとする人が使い方をわからないというのは当たり前のことで、なんら馬鹿にされたりする必要などないのです。私たちは、先の世代が普通に使ってきた道具をもはや普通には扱えなくなっている世代に属しているのであり、道具とともに蓄積されてきた技術や知識を備えないことを省みれば、先の世代がコンピュータに疎いこととちっとも違わないのですから。
そんなわけで『道具術』という、以前読んだことのある本を思い出したのでした。
この本の扱う道具というのは、私たちが日常に使う道具ではなくて、斧やナイフなどアウトドア指向の強いものです。しかも出来合いの道具をそのまま使うのではなく、自動車のサスペンションに使われる板ばねからナイフを作るなど、自給自足的色合いの濃い、いうならば昨今忘れられ欠けている本来的な道具とのつきあい方を再確認できるような内容です。
道具に関する説明は図解入りでわかりやすく、しかも作り方、使い方を説明するだけではありません。なぜこの道具を使うのか、作ったのかを含めて、生活と密着した道具観が語られています。本来的に道具というのは、人間が外界のなにかに働きかけようとするときに媒介となるものでして、道具から外世界を見るという視点があるといえば言い過ぎかも知れませんが、単なるハウトゥーを脱してライフタイルを含めた人生観を感じさせる一冊になっているんですね。
今、この本を思い返せば、コンピュータを理解できないのは手に返ってくるフィードバック感に乏しいからかも知れません。ある種の人たちはコンピュータに関しても間違いなくそのフィードバックを得ていますが、そうしたものを得られない人にとっては永遠にわからない機械であり続けるんでしょう。
しかし、手で使う道具にしても、そのフィードバックを感じない人がいる(!)のですから、結局は人の力というか感受性の問題というかにつきますね。繊細な感性を失いつつある近代人は、そのことをもっと真摯に反省しなければならないなあと思うのでした。もちろん、自分も含めてですよ。
- 遠藤ケイ『道具術 — 自然人のための本箱』東京:岩波書店,1990年。
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