2004年11月22日月曜日

卒業式

 私はまっすぐであることに憧れます。まっすぐにものごとを見据えて、決して流されないという生き方 — けれど現実には難しいんですね。智に働けば角が立ちます。情に棹さし流されながら、窮屈に耐えてどこまで意地を通せるか。そこがまっすぐ生きるための要点であるというのに、ところが私は意気地がないものだから、すっかり世間のことは世間のこと、自分には関係ないことなのだと割り切って、あえて世間の求めることを求めるままに片づけるばかりにしています。

生き方としてはまったく下劣で、われながらあきれてしまいます。『卒業式』のヒロイン清良の言葉でいえば、すっかりナメクジになってしまっているのですね。

清良の用語ナメクジは、阿部謹也の用語では世間にあたります。世間というのは、それを構成する者同士が相互に圧力を与え合うことで維持される、利害をともにする集団とでもいえばいいでしょうか。世間に属し、世間内部の実力者に癒着していれば利益にあずかる機会も得られるかも知れないのです。ところが、一旦外されてしまえばどんな不利益を被ることになるかわからない剣呑さを世間は持っています。そして、無言のルールに従わないものを排斥しよう排斥しようという力が、世間には充ち満ちています。こうした利害と排斥の構造が、世間に逆らうことの無意味さを学ばせて、結果我々大人ままならない世間を嘆きながら、あえてそこから飛び出すことを考えないようになるのです。

『卒業式』に収録された四編は四編とも、それぞれにかたちや表現、視点を違えながら、世間の与える圧力と、そこから抜け出そうとする少女たちのせめぎ合いを描いて新鮮です。彼女らの姿勢はあまりにもまっすぐで、純粋すぎるくらいに透明で、ああ私にはまぶしすぎるのだなあ。

自分のもつ下劣さ — 世間に対し否定的批判的であるくせに、実際世間にまとわりつかれる場では、あえてその構造に否をいわない — があぶり出されるような気持ちになるのですよ。ああ、自分には彼女らの生き方はできない。けれどまっすぐな姿勢、みずみずしい感性は、私にとっても理想であったはずなのです。かつては、世間にまみれたくない、自分の思うところに殉じたいと思っていた私が、今ではナメクジの一味になってしまってのうのうとしている。こうした現実を見て私は、恥じ入るばかりに死んでしまいたくなるのです。

この短編を読んで、こんなのきれい事だと笑っておとぎ話みたいにするのは簡単で、けれどこうしたところにナメクジ化の一歩があるんです。これらが作り事なら、個人の確立した世界というのも存在しないということになります。群体のうちに自分を殺して、目を開けたまま眠って暮らすような毎日が正しいとは、決して私には思えないのです。そうした日々に空虚を感じる人には、この短編集は訴えるところがあるはずで、そして今の時代には、清良の声をはっきり聞くことのできる人がきっとたくさんいるはずなのです。

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