2005年11月30日水曜日

迷宮書架

 病床で、『星のズンダコタ』を読んで、そのまま『迷宮書架』に移行。『迷宮書架』は雑草社の雑誌『活字倶楽部』に掲載されている四コマ漫画で、けどちょっと掲載の仕方は異色かも。というのはですね、ジャンルごとに分けて掲載されるBOOK REVIEWの各ジャンル扉に載っているのですよ。『かつくら』は季刊で、各号に漫画は六本。「SF・ファンタジー」,「ミステリー・ホラー・サスペンス」,「現代文学・純文学・歴史・時代小説」.「エッセイ・ノンフィクション・ガイドブック」,「少女小説・ボーイズラブ」,「海外翻訳小説」のカテゴリーにまつわる四コマは小気味よく、レビューを読む前のわくわく感をうまく盛り上げてくれてます。

私は以前図書館で働いていたことがあるのですが、そこで一緒に働いていた人が『かつくら』の購読者で、私はそれを見せていただいていたのでした。知らないだけでいろんな雑誌があるのだなあと感心して読んだのですが、まさかひらのあゆが漫画書いているだなんて思いもしなかったもんですから、はじめて借りたときは驚きましたね。

各カテゴリーをうまくあしらった四コマは面白く、本好きなら共感するだろう、いやただの本好きじゃないな、書狂といったほうがしっくりくるんじゃないかと思うんですが、そうした人なら絶対面白い。で、私はそうしたマニアの口だから、やっぱり面白かったんですね。

こうした扉を飾る漫画ですから、きっと単行本なんて出ないと思っていました。だから、なんとか確保したいなあと思うのはおたくの性で、でも人の雑誌だから切るわけにもいかんし、そもそも自分の雑誌でもはさみ刃物を入れるのは抵抗あるしで、スクラップ作戦は不可。コピーあるいはスキャンする? けど、雑誌が開いちゃうもんなあ。

ある種、本に関しては異常者の域に踏み込みつつある私には、この漫画を確保するのは至難で、だからすっぱりあきらめるという選択をしたのでした。あきらめるという選択肢がない人生は、苦痛ですじょ。

で、そうしてあきらめていた漫画が単行本になった! 嬉しい! 必ず手に入れたいもんだからジュンク堂に注文して、そしたら発売日に現物を書店で見つけてしまって、どうしても我慢できないもんだから買ってしまったら、当たり前だけどジュンク堂から届いてしまった。

今、うちにはこの本が二冊あって、一冊は読みやすいように本の山の中に(うそ、全然読みやすくなんてない。行方不明本は山ほどありますから)、一冊は日の当たらないように戸棚の中に封印。いやあ、マニアっていやですね。いや、本当にいやなもんです。こんな性格に生まれたことを呪わないではおられませんから……。

各号六本、季刊だからかける四、一年で二十四本しか書かれない漫画です。そんなわけで、『迷宮書架』が出るまでに九年かかって、だから、次は、多分2012年。ああ、すごい未来みたいに思えますね!

  • ひらのあゆ『迷宮書架』東京:雑草社,2003年。

2005年11月29日火曜日

たるとミックス!

  物語からキャラへと漫画の比重が移ってきたという話に以前ちょっと触れたことがありましたが、『まんがタイムきらら』誌はまさにこうしたキャラへの重点移動を仕組んだのであろうなと、そんな風に思います。今、四コマ漫画は、四コマ一本で完結するスタイルもあれば、一回分を使って軽ストーリーを展開するものもあり、そして複数回に渡り重厚にストーリーを見せるものもありと、まさに多様なスタイルにあふれていますが、本来的には四コマ完結を基本スタイルとしており、そういう意味では四コマ漫画においてはキャラよりも起承転結で表現されるネタが重視されてきたわけです。

ですが、今はもう起承転結だけの時代ではない。よりキャラ性が前面に押し出され、むしろキャラ性の希薄なようではいけないと、そういう傾向を強めているのが今の四コマ漫画であると思います。

キャラというのは、視覚的なデザインと、それに付随する記号(属性だなんていったほうがわかりよいですかね)の総和であると思うのですが、一定の諒解のもとで組み合わされた属性によってできあがるキャラの有効性は、馬鹿にできないものであると思います。そもそもこうしたキャラ性に引きつけられるというのは人間の性みたいなもんであるわけで、昔はそうした傾向に歯止めをかけよう、そんなものはしょせんまやかしに過ぎないのじゃ、というそういう考え方があった。けど、今はそうしたものから自由になって、キャラ性への傾倒をおおっぴらにしてはばからない。そういう変化があったのだと思います。

『たるとミックス!』は悪魔退治をなりわいとする双子の兄妹の魂が入れ替わって、というそういう非現実的な前提を持った四コマで、ですがこういうのはもはやお約束といえる範疇であるかと思います。その他たくさん出てくる非常識的な登場人物にしても、そうしたお約束をうまく踏襲していて、こうした漫画を面白いと感じるのは、私と漫画が同一のお約束の範囲にいるという、共感や帰属感が生まれるからではないかと思います。

こうした面白さというのは、一種楽屋落ちに近いものがあるのかも知れません。私にはわかる、というそういう近さがさまざまなネタから感じられ、それら感覚が登場人物に振り向けられることで、登場人物への共感や愛着を引き起こすのかも知れないと、『たるとミックス!』を読んできた感想はそのようなものでした。

実をいうと、私、最初はこの漫画、あんまり好きではなかったのです。読む分には読んでいましたが、あまり面白いと思えなかった。ですがいつしか面白いと思いはじめて、おそらくこれは私がこの漫画の読み方を覚えたということもあるのだと思うのですが、でも多分それだけじゃない。私が、きらら誌や他の媒体をとおして、こうした漫画のスタイルにそぐう感性を身に付けたためであろうと、そんな風に思っています。

四コマ漫画にはいろいろなスタイルがあってといっていましたが、最初に上げたスタイルでいえば、『たるとミックス!』は一回分を使って軽ストーリーを展開するものにあたります。ですが、私はこれら萌え系と呼ばれた四コマに関しては、そうした表面的な分類ではくくれないものがあると思っています。

おそらくは、これこそが物語(四コマならば起承転結)からキャラ性への転向ではないのかと、これが現時点での私の理解です。思えば四コマという形式は、もともとストーリーが希薄でも問題がないのでありますから、キャラの魅力を最大限に生かしうるフォーマットではないかと、そしてそうしたやり方を最初に発揮させてみたのが『あずまんが大王』だったのではないかと。

思い起こせば、『あずまんが大王』を萌え漫画といって罵倒する人がいて(かつて萌え系という表現はあざけりの文脈で使われていました)、『あずまんが大王』ファンはそうじゃないよと、決して接近することのない平行線のような論争めいたものがかつてありました(もちろん、私は後者側)。『あずまんが大王』で萌え漫画であれば、『たるとミックス!』は完全にアンチあずまんがには受け入れられない漫画でしょう。

ですが、私には『たるとミックス!』は面白くて、特に兄貴たるとと妹りぼんの入れ替わりに伴う男性女性性の混乱は面白く、そこへもともと混乱している桐生まことや栗原飛鳥が絡んでくれば、もうどうしようもないくらいでした。神供子とりぼんの確執も好きなテーマで、これらがうまく回転して脂も乗ってきたと思った矢先に終了したのは、かなりのショックでした。

でも、一番いい時期に終わって、惜しまれて、漫画にとってはよかったのかも知れません。その後はじまった『ぷら☆みすらんど』も好感触ですし、私にとって神崎りゅう子はちょっと目を離せない感じになっています。

蛇足

栗原飛鳥はもうとんでもなく大好きでした。なんというか、あのたるとりぼん、桐生まこととの三役揃い踏みの回、最高でしたよ。とりわけまことにしがみついた時の背中のラインの艶めかしさといったら……。私、とならつきあえると思います。

あと、神供子は可愛いですね。ああいうタイプの娘は、あんまり好きじゃないはずなんですが、でも神供子は可愛かった。当然、りぼんも好きです。たるとりぼんやりぼんたるとのほうが好きかも知れませんが。

反省

もっと、『たるとミックス!』のよさを前面に押し出したかったのですが、力及ばず、二転三転支離滅裂、書こうと思ってたことには結局たどり着けず、大変申し訳ないことになってしまいました。

いつか、もっぺん書こう。

余談

テヅカ・イズ・デッド』は、近々にでも読んでみようと思っています。

  • 神崎りゅう子『たるとミックス!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 神崎りゅう子『たるとミックス!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。

2005年11月28日月曜日

てんちょおのワタナベさん

  『てんちょおのワタナベさん』は、記念すべき『まんがタイムきららコミックス』(現在は『まんがタイムKRコミックス』)の第一冊目であり、今から考えれば、この出版こそが偉大なる第一歩、ジャイアント・ステップであったのだと、しみじみ胸に兆すものがあります。『まんがタイムきらら』誌は、当時まだ充分に発見されていなかった萌え四コマを開拓すべく発刊され、それまでの、マニアやおたくのなかでもさらにコアな連中にしか見いだされていなかった四コマを、おたく的領域における重要なジャンルとして確立させるにいたりました。表面的にはマニアやおたく向けチューンを施すことで、しかしその底層では四コマの語法を拡大させることに寄与しました。発足した当時は萌え四コマといわれたこれらジャンルは、そのエッセンスをオールドスタイルに逆流入させるまでに成長し、そしてこの記念碑的第一号コミックスとなった『てんちょおのワタナベさん』は、本日発売された第三巻をもってめでたく完結です。

思い出します。『てんちょおのワタナベさん』が出版された当時、私はこの漫画を購入するかどうかで煩悶し、購入すればきらら系の支持、見送ればきらら系の不支持を表明するに同じであると、内心そんな風に思っていました。とはいっても、実際にはそこまで悩んだり深く考えたりすることはなくて、せっかくきらら系のコミックスが出るのであるからと、ご祝儀包むつもりで買いました。そして、これがきっかけとなったのか、その後私の四コマ系コミックスの購入には歯止めがなくなり、どれくらい買っているかは、このBlogでの記事をご覧になれば推測も可能なのではないかと思います。

『てんちょおのワタナベさん』が出た当初のきらら誌と、今のきらら三誌を比べれば、驚くほどの違いがあって、知らぬ間にこれだけの時間が経ったのだと、不思議な気持ちにとらわれます。『てんちょおのワタナベさん』のころには萌え四コマと呼ばれたこれら四コマですが、今では萌え四コマという表現はしなくなり、当時は新ジャンル開拓の最先鋒であったように感じた『てんちょおのワタナベさん』も、穏当なオールドスタイルの空気を感じるさせる少し古風な漫画と感じられます。

ここで勘違いして欲しくないのですが、古びたといってるわけではないのです。知らぬ間に、ずいぶんと遠くにきたのだなとそうした感慨がいっぱいで、移行期を担ったこれら四コマ漫画たちはその仕事を実によくはたしましたと、お疲れさまと、ねぎらいたい気持ちでいっぱいです。

2005年11月27日日曜日

But Two Came By

 Jack Orionをいろいろ聴き比べてみようという企画。最後の盤が届きました。マーティン・カーシーというシンガーでギタリストが、デイブ・スウォーブリックというフィドル弾きと一緒にやっているアルバムBut Two Came Byに収録されたJack Orionです。

私はマーティン・カーシーについてはよく知らなかったのですが、どうやらサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンの師匠ともいえる人であるらしく、有名なS & Gの『スカボロー・フェア』は、カーシーの演奏にルーツを見ることができるらしいです。と、マーティン・カーシーはそういう人だという情報を得て私は、ならきっとよい歌手だろうと、知らないままにアルバムを買ってみようという気になったのでした。

マーティン・カーシーの歌うJack Orionは、English and Scottish Folk Balladsに収録されたJack Orionと同じメロディを持っていて、歌詞にしても、そもそも外国語の聴き取りに関してはことさら自信のない私ですからなんともいえないのですが、ほぼ同じである模様です。

Jack Orionではギターは弾かず、フィドルによる伴奏が軽快で、面白みを出しています。このフィドル伴奏というのはEnglish and Scottish Folk Ballads収録の版でも同様で、これはJack Orionの主人公Jack Orionがフィドラーであったからなのでしょう。あの伴奏の響きこそが、フィドル一梃を頼りに諸国を遍歴するジャックを彷彿とさせるのでしょう。

マーティン・カーシーは、民謡の風合いをわずかに残しながらもすっきりと整理された歌い口が聴きやすく、これを派手さがないと見るか、あるいは安定していると見るか、それは人それぞれであるかと思います。

私は、ほら、地味なのが好きですから、この人の歌はいいなと、そんな風に思いました。朗々と歌うでもなく、けれど朴訥としているでもなく、歌うべきところはしっかり歌って聴かせる、ちゃんとした歌手であります。こいつはちょっと過去アルバムをさかのぼってみるのがよさそうだぞと、しかしえらくさかのぼりたいシンガー、ギタリストが増えてしまって、私はちょっと大変です。

2005年11月26日土曜日

星のズンダコタ

  ひらのあゆといえば、『ラディカル・ホスピタル』で知られた人で、他にも『ルリカ発進』とか『迷宮書架』で知られた人で、って、おおい、『迷宮書架』はもう手に入らないのかあ。名作だというのに、あの、本を楽しむ人にはたまらなく面白い漫画なのに、入手困難になっているというのはもったいないことです。

私がひらのあゆを知ったときには、すでに『星のズンダコタ』は入手困難になっていました。確か、大阪旭屋書店のコミックフロアで、二巻だけはなんとか買えたんですよ。けど、一巻はもう注文出しても通らない状態。ジュンク堂に泣きついても駄目で、しかたがないからネットで探して中古で押さえました。

その非常に入手困難だった『星のズンダコタ』が復刊されました! ああ、嬉しい。これで、ズンダコタ文明を知ろうとしてかなわなかった夢の探し手たちもうかばれることでありましょう。

クールな態度、しかし胸には情熱を秘めた考古学者、香神壮一郎が我らの主人公。行方の知れない森本博士を探しだし、そして彼はあの幻のズンダコタ文明にたどりつくことができるのでありましょうか! というのが、漫画のあらすじ、というか基本設定といったほうがいいのかな? こうした状況の中、一癖も二癖もある人物に右往左往して、時には迷い、時には奮起奮闘する香神を愛でようという漫画です。

基本的にはどたばたのコメディ。一見すれば自分勝手で迷惑そのものだけど、本質的にはチャーミングで仲間思いの登場人物がわんさと出てきて、その関係というのがすごく魅力的だもんだから、私はうらやましい。みんながみんな変わり者であることを自覚していて、だからお互いを許し合えるというか、認めあえるというか。ある種、おたく的理想の関係が成立しているのだといっていいんじゃないかと思います。

この、表面的にはぐだぐだなんだけど、基本線はびしっと通っている人間関係を描かせたら、ひらのあゆはうまいなあと思うんです。『ラディカル・ホスピタル』もそうだし『ルリカ発進』もそうだったし、で、その人間関係が暖かいのは本当に素晴らしいことだと思います。お互いを尊重しあい、慈しみあえる。けれどそれは私を犠牲にするとか、そういうのとは全然違っていて、個が立って、非常に自由で自然な状態なのです。

だから、私はひらのあゆの漫画が好き。『星のズンダコタ』は、普通の漫画読みには勧めたくない漫画ですが、私がこれぞと思う人なら、面白いよー、と勧めたい。とっておきの漫画であります。

  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第1巻 (ZERO-SUMコミックス) 東京:一迅社,2005年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第2巻 (ZERO-SUMコミックス) 東京:一迅社,2005年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第1巻 (ぱふコミックス) 東京:雑草社,1998年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第2巻 (ぱふコミックス) 東京:雑草社,1998年。

2005年11月25日金曜日

はらったま きよったま

  買おうかな、どうしようかなとずうっと迷っていて、けどこういうときは買ってしまった方がいいのです。大和証券のCMでもいってるように、人間は行動した後悔より行動しなかった後悔の方が深く残るもんですから。

というわけで買ってしまいました。『はらったま きよったま』は、なんでか知らないうちにタイトルを知っていた漫画で、この度文庫化されたのがきっかけ、どうしても所有したいという誘惑にあらがえず買っていまいました。

『はらったま きよったま』は、生まれついての霊感少女、麦子が大活躍する活劇漫画で、もうちょっとジャンルを絞るとなればホラーになるのかな? やっぱり幽霊とか妖怪とか怪奇現象があっての霊感少女という気もしないではないですし。

この漫画ですが、なんか不思議なポジションについているといいますか、どうもうまく表現できないような感じがします。ホラーテイストがあるけど怖いかといわれれば全然そんなことはないし、展開はなんというかどたばたで、熟慮とか推理とかじゃなくて勢いとか力技とか、そういうののほうが重要そうな気がします。でも、私はこの漫画がどうにも気になってしかたがなくって、というのは基本的にギャグ・コメディをやりながら、最後には正論をばばーんとたたきつけるその啖呵の切りようが気持ちいいからだと思うんですね。

まあ、そもそもが私が綺麗なもの、可愛いもの好きというのもあるんでしょうが、その可愛い主人公が、居丈高に乱暴に活躍するという、そのたくましさがたまらなくよいと、そういう理解でよろしいかと思います。

ところで、男性向け少年向けのサービスカットとなると、女の子に水着着せたりとかそういう方向に向かいがちですが、少女向けのサービスカットは、綺麗なキャラクターに綺麗な服を着せて、その上これでもかと花を散らせて!

私は、そっちのほうがずっといい。それで、その綺麗なキャラクターが[略]。

2005年11月24日木曜日

ご臨終メディア — 質問しないマスコミと一人で考えない日本人

 ヨハネによる福音書は次のようなエピソードを伝えています。罪を犯した女をモーセの律法に従い石で打ち殺すべきであるかと問われたイエス答えて曰く、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。かくして女は助かったのですが、しかしこうした出来事から二千年ほど経った今の日本では、我もわれもと先を争うようにして石を手にする輩がいっぱいで、しかしなあ、あんたらも一枚かんでた口じゃないのかね、と私はいいたい。ことが起これば、私は関係ありませんといわんばかりに聖人君子面しやがって、やってることといえば数に頼んだリンチじゃないか。

いやな国だよ。私は昔からこの国はマイノリティに冷たいと、そんな風に思っていたのですが、このところはその上冷たい風が吹く。いやな国だよ、いやな国だよ。

私はこうしたこの国の状況を理解するよすがとして、阿部謹也のいう世間を頼りにしています。この本を見つけたときには本当に嬉しかった。私の日本における居心地の悪さの実体がついに言葉になったと思った。といっても、今回は阿部謹也を扱うのではないから、これはこの辺でストップ。

森達也と森巣博対談本が出ているのを書店で見つけて、その瞬間に確保。森達也といえば私にとっては『放送禁止歌』の著者であり、森巣博は『ナショナリズムの克服』のあの人です。これだけ役者が揃って、買わないという選択肢はありませんでした。

この本が扱うのは、日本のメディアのていたらくぶりと、そのメディアとともに低きへ流れていく世相です。メディアは批判をおそれるナイーブさゆえに当たり障りのないことを書いてお茶を濁し、そのメディアの受け手はというと、口当たりのよく明快な答えを欲して、答えらしきものが提示されればそれでよし。自分で考えようとしない、飼いならされた大衆に成り下がっている。

耳が痛い。私は実際その通り、なにしろ素直なものですから、人のいうことはすぐ信じちゃいます。疑うなんてことは露とも思わず、テレビがいってるんだから間違いないんだ、そうなんだ! — こういう人間が、あの女に石を投げろというコマンドが発された瞬間に石を取り、ためらいもなく投げるのでしょう。へどが出ます。

私は、願わくば道を誤らず、そう、昨日いっていたように、善きマイノリティの友でありたいと思います。私は自分の多数派に与しないことを知っていて、ことがあらば追われる側の人間であることを自覚していて、だから私はいかなる場にも属すことなく、塀の上を歩く人間でありたい。そういう私にとって頼みは自分の実感ひとつで、だから森と森巣の対談は、ともすれば考えるのをさぼろうとする私にとって、大いなる励ましであり叱咤でありました。

そういえば、以前ロシアの作家ソローキンがいっていたことを思い出しました。彼は人生に埋もれることがなにより最悪なのだといっていて、それを例えて巨大な肉挽き機の一部になることと表現しました。私はこの肉挽き機を世間であると諒解して、ソローキンがいうように、この肉挽き機を外側から眺めていたいと思います。

肉挽き機を外から眺める方法とは、世間に取り巻かれるのではなく、距離をおいて見ること、 — 思考することをあきらめないことであろうと思います。

2005年11月23日水曜日

Chanson pour l'Auvergnat

  Chanson pour l'Auvergnat、『オーベルニュの人にささげる歌』は私の好きなシャンソンのひとつで、今、突然なにか歌ってくれといわれて、空で通しで歌えるシャンソンといったら多分これだけでしょう。出会いは例によって例のごとく、NHKの語学講座で、この歌を作ったのはジョルジュ・ブラッサンス。シャンソンを語るうえでは欠かすことのできない名前であると思います。

とはいっても、私が生まれたのはそもそも日本におけるシャンソンブームが過ぎ去った後で、テレビでそうした残照を見たことは幾度かあれど、けれどやっぱり私はシャンソンに関しては浅いのです。昔、図書館で働いていたこともあって、シャンソン関連の本も何冊か借りて読んで、けれどそれでも深く分け入ることはできず。私におけるシャンソンは表層的に過ぎるなと、そのように思っています。

私が、昼、職場の駐車場の片隅でこの歌を歌っていたとき、シャンソンも歌うんだねとおばさんが話しかけてくれたのを思い出します。日本におけるシャンソンのブームは越路吹雪がおそらく牽引役で、けれど越路吹雪が『オーベルニュの人にささげる歌』を歌っていたとはついぞ聞きません。あるいは、他の誰にしてもこの歌を歌っていたかは知らなくて、一時私のサイトを見てくれたフランス人に頼まれて調べたことがあったのですが、日本でこの歌が歌われていたという形跡を見つけることはできませんでした(誰かご存知なら教えてください)。

だもんだから、あの時の言葉は嬉しかったです。知っていてくれたことが嬉しかった。

『オーベルニュの人にささげる歌』は、苦境にあったときに手を差し伸べてくれた人が仕合せになってくれればよいと願う歌で(もっとはっきりいえば、あなたがもし死んだら天国に行けますようにという祈りです)、私にはこの歌の主人公が善良なるマイノリティの代表のように思えてなりません。

私は、善良であるかどうかは自信がありませんが、自分自身が少数派であることを自覚しているから、この歌の主人公が他人事のようには思えなくて、だからもし私が彼に会ったときには、きっと手を指し伸ばせればよいなと、そのように思います。また、私が苦境にあったときに助けてくれた人を思いだしては、あの人たちの仕合せを、魂の仕合せを祈りたいなと思います。

Georges Brassens

Juliette Greco

Timna Brauer & Elias Meiri

2005年11月22日火曜日

白衣の男子

私の記憶が確かなら、岸香里は漫画家になるまでは看護職にあったはずで、その職歴からか、看護師や医療の現場を題材とした漫画を数多く出していらっしゃいます。私は看護師や医師、病院を扱った漫画が好きで、それは私の病弱だった子供時分を反映してのことだと思いますが、いずれにせよいつかは岸香里の漫画にたどり着くと、これは決まっていたようなものだったのだと思います。

『白衣の男子』は『まんがタイムスペシャル』にて連載されているショートストーリーの漫画で、スペシャルの購読を始める前に、書店で単行本を見つけて買った。確かそんな風に覚えています。なぜこれを買うにいたったかというと、私の友人にまさしく『白衣の男子』をやっているのが一人あるからです。

単行本第1巻の時点では主人公たちはまだ看護学生で、数々の失敗をとおして大切なことを学んで、 — 残念ながらこのあたりの描写は紋切り型に過ぎて、一般のストーリー漫画を読み慣れている人には面白みであるとかを感じるのは難しいかと思います。四コマ誌におけるストーリー漫画ってちょっと微妙な線にあると思っているのですが、王道であるかマンネリであるかの線引きが難しいくらいの位置にあって、ある種作者もこうした微妙な位置を理解しているのだと思います。だから、そういうキャラクターを出して、そういう話の作りをする。

けれど、『白衣の男子』は、たまにぐぐっとくる力を発揮するから侮れなくて、それはこれまでにも何度もあったのですが、今日発売の『まんがタイムスペシャル』。2006年1月号を見て、通勤の車内、すんでのことで涙をこらえることができませんでした。

駄目かも知れないと思いながらも応援を続けるということ。同じく理解しながら、その応援に応えたいという気持ちを発揮して — 。これを見てきれい事だという人もいるかも知れないけれど、私にはそれでもこたえました。人間の無力を思い、けれど無力だということを逃げ道にしない。そういう態度が胸を打ったのだと思います。

『白衣の男子』、私は好きな漫画なので、続刊を待ち続けています。いつか出てくれれば、きっとどんなにか嬉しいことだろうと思います。

  • 岸香里『白衣の男子』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2001年。
  • 以下続刊

2005年11月21日月曜日

Camino

 サン・ヴィクトールのフーゴーは全世界が流謫の地であると思う人は完全な人であるといい、山下和美は『天才柳沢教授の生活』にて、たとえ遠くに離れて暮らしていても、この大地を心に抱くことが出来れば必ずこの結婚は成立すると登場人物にいわせました。この、大地に根ざすという感覚。遊牧の感覚といってもよいのでしょうか、nomadeのそれに、私は憧れてやまないのです。

そんな私が好きだというジプシー・キングスが歌うCamino。カミーノとはスペイン語でという意味です。道、俺の道と歌われるカミーノを聴くたびに、私は今私を取り巻いている状況を背景に押しやってしまって、太陽の下、大地を貫いてまっすぐ伸びる一本の道に立つ自分を夢想してしまいます。

私がジプシー・キングスを聴きはじめたころは、いちいち歌詞を確認したりはせず、ただ流れる歌を流れるままに聴くばかりでした。スペイン語もわからないし、そもそも聴き取りは苦手だし、で、わからないままに聴いていた曲の中に、気になってしかたがない歌があったのです。 — カミーノでした。

カミーノの意味するところは、当時の私でもわかりました。道、俺の道という歌詞になにか感じるところがあったのでしょう。歌詞を確認して、はっと思うところがありました。

自分の道を探し続けていた男の歌なのですね。街の中を、一人でさまよって、そして大地に自分の道を見つけた。道、俺の道! 手にはギター、同胞(hermano = 兄弟,同胞)とともに歌い、放浪者(vagabundo)として道の上にある彼はとても自由だ — 。

しかし、それにしても私が驚いたのは、この歌にうたわれている風景が、私の、言葉もわからないままに聴いていたときに感じたものにほぼ重なっていたことで、ジプシー・キングスはすごい。そう思ったものでした。

引用

  • サン=ヴィクトルのフーゴー「ディダスカリコン(学習論)」,上智大学中世思想研究所編訳『中世思想原典集成』第9巻 (東京:平凡社,1996年)所収【,104頁】。
  • 山下和美『天才柳沢教授の生活』第15巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2000年。

2005年11月20日日曜日

Jack Orion

 ギターをはじめたのは、歌の伴奏をできるようになりたかったからで、けれどはじめに考えていた歌というのは、フランス語の歌 — シャンソンとかあるいは日本のフォークとか。けどフォークはフォークでも、まさかフォークの源流といえる民謡 — フォークソングにたどり着こうとは思ってもいませんでした。

伝承曲といっても私はさほど馴染みがなく、だからCDやなんかで仕入れるばかり。いったい自分の育ってきた地域に伝わる歌ではなく、なんでイギリスなんだといわれればそれは実に謎なのですが、私の聴くフォークソングといえばペンタングルとかになるんですよね。

このアルバム、Jack Orionは、トラッド・ソングのJack Orion聴き比べてみたくて買ったのでした。

歌っているのはバート・ヤンシュ。ペンタングルに参加していたギタリスト/シンガーです。ペンタングルによるJack OrionはアルバムCruel Sisterにも収録されていて、けれどこのふたつのバージョンは、本当に全然違っていて驚かされます。

まず気付かされるのはそのテンポの違いで、ゆったり伸びやかにうたわれるペンタングルのものとは違い、アルバムJack Orionの版は軽やかにずんずんと進んでいく、まさに対照的な表現です。けど、こんなに違っているのに、どちらを聴いてもしっくりと曲にアレンジがあっているんですね。最初はずいぶん違うなあと思ったものでしたが、今となっては、どちらを聴いても違和感なんて感じません。

曲を自分のものにしているからなんでしょう。

バート・ヤンシュによるJack Orionは、ビートも効いたモダンなもので、土俗的な匂いは払拭されています。ペンタングルのものとトラディショナル色の強いもの、そしてこのアルバムでJack Orionを聴いてみて、多分一般に受け入れられやすいのは、これなんじゃないかと思いました。

けど、どれもがそれぞれの魅力を持っているから、一概にこれがいいとはいえなくて、こういう豊かな土壌があるというのはよいことだと思います。

2005年11月19日土曜日

imp! 〈インプ!〉

 疑似家族とか疑似親子とかそういうジャンルはかなり昔からあって、いったいなにがこんなにも引きつけるんでしょうね。私の好きなWeb漫画サイトに蛸壺堂というサイトさんがあるのですが、ここではその名もずばり『擬似親子四コマ』という漫画が公開されています。『疑似親子四コマ』第一話における著者のコメントはなるほどと思わせるものがあって、ちょっと引用してみたいと思います。

擬似親子というものが好きです。

血縁ではなく愛情で繋がっているけれど、本当の親子とは違って、どこか危ういものをはらんでいるのが。

この危うさにこそ魅力があるのでしょう。外部からの働きかけによって壊されてしまうかも知れない。あるいはうちに抱かれた波乱がすべてをひっくり返してしまうかも知れない。ですが、こうした脆さを意識しつつ、それでも関係が壊れてしまわないようにと願うところに、人間の本性が見えるのだと思うのです。

だから私も、いうまでもなく、疑似親子もの、疑似家族ものは好きで、『蛸壺堂』に公開されている漫画(特に私は『強制同居人』が好き)もしかり、そして久世番子の『imp!』にしてもしかり、でありました。

『imp!』は、二人の大学生のもとにやってきた、人間の子供そっくりの生き物メロウを軸に繰り広げられる疑似親子もので、メロウの子エバをめぐるストーリーをしっかりと組み上げながら、二人の学生の問題をあぶり出すことに成功していいます。彼らの問題は、ともすれば私たちにも通じるものでありまして、だから彼らに訪れる変化は、読者にとってのカタルシスでもあり得ようかと思います。実際私にとってはザークのテーマは切実で、欲しくてたまらないと思いながら、手にすることのできないものがこうして描かれて、私の魂はいくらかなぐさめられたように思ったのでした。

しかし、こうした疑似家族、疑似親子というモチーフは、少女漫画の系列にはよく見ますが、少年漫画のラインではあまり覚えがありません。少年漫画だと、親子や家族というよりも、押し掛け女房型になることが多いように思います。

ですが、私は押し掛け女房よりも疑似親子ものの方がはるかに好きです。疑似親子といわれて筆頭に浮かぶのは『ぼくの地球を守って』におけるラズロとシオン。最近では『サクラ町さいず』、そして『よつばと!』あたりにも疑似親子っぽい雰囲気は漂っていて、こういう関係がはらむ微妙で難しい距離と、でもこの関係を壊したくないという思いが私には心地よいのです。

引用

  • 擬似親子四コマ」第1話,『蛸壺堂

2005年11月18日金曜日

少年愛の世界

 暴れん坊本屋さん』で好感触を得、続いて遭遇した『甘口少年辛口少女』ではまってみようかという気になって、そして今日、久世番子既刊を揃えてみました。まずは『少年愛の世界』。もちろん『imp!』も買ってます。

『少年愛の世界』は、ちょっとあり得ないような状況を設定して、けれどそのあり得なさというのが面白いなあと思います。思えば、『甘口少年辛口少女』もちょっと不思議を日常に投げ込んで、その不思議をもって心の揺れ動きを浮かび上がらせていたのですから、『少年愛の世界』に関してもきっと同様なのでしょう。主人公愛の心の揺れ動きをそうっと見守って、私は非常に満足げでありました。

けど『少年愛の世界』はギャグの要素が強くて、そのギャグというのもパロディ色の強いものだから、大本のモチーフを知らないとちょっと楽しみ方に迷うかも知れません。でも、今や少年愛は国境を越えて羽ばたく世界語でありますし(本当)、その分野における最先端を走る日本で、こうした文化を知らないというのもなんです。触れてみれば、実によいものであるとわかるはず。いやなに、抵抗があるのは最初だけですよ。

って、なんの話してるんだ。

久世番子の漫画は少年愛とタイトルにはあるものの、掲載誌(ウィングス)の性質を反映させて、いわゆるBLものではありません。美しく心優しい少女と、その娘に憧れる少年を描いた、恋愛のときめきも嬉しこそばゆい、王道的ラブコメであります。

で、ラブコメにギャグ(パロディ)の要素が付加されていて、その持ち味というのが私には実によくマッチしているから、読んでいてすごく楽しかった。筋は基本的に王道系だから、読みながらでもその先に用意されている展開はすっかりわかってしまって、けれどそれでも面白さが減らないというのは、その展開というのが読者である私の期待そのものであるからでしょう。こうなるんじゃないかな、きっと落ちはこうだろう、と思いながら読んで、よしよし、いい感じに進んでる、その調子、そして、最後の最後にはやったーっ! そんな感じに読める。ほら、プロレスなんかでもいうじゃないですか。いかに技を受けるかが見どころって。まさに『少年愛の世界』に関しても、そうした受けの美学が花開いていて、なんかいいもの見せてもらったなあ、ってそんな感じ。駄目押しの書き下ろしも最高で、カバーをはいでもまた素敵。ヒットです。なにをどうしたらこっちが喜ぶか知ったはると思いましたね。実によいです。

『少年愛の世界』は久世番子の初単行本なのだそうですが、著者の多面的な魅力が一冊にぎっしりとつまって実に良質です。ギャグばかりでない、シリアスばかりでもない。けどそうした引き合う両要素の間には、この著者のらしさがぴしっと張っていて、ひとりの人のうちに広がる世界の豊かさを感じます。

  • 久世番子『少年愛の世界』(Wings comics) 東京:新書館,2003年。

2005年11月17日木曜日

G. F. Handel : Water Music, performed by The English Concert

  iPodは持ち出した全曲にわたるシャッフル再生が楽しくて、私はもっぱらこういう聴き方をしています。次に飛び出してくる曲がわからないという、そこが楽しいのですよ。その日一日の最初、いったいなにがかかるのか、それは結構重要で、今朝なんかはトレヴァー・ピノック率いるイングリッシュ・コンソートの演奏する『水上の音楽』だったから、気分は朝のバロックといった風情でした。ですが時には、朝の裕次郎だったりもするし、朝のマニアックなCDドラマだったりすることもあって油断ができない。ラジオドラマだったときは、容赦なくスキップするなあ。だったら、最初っから入れなきゃいいのに、って話ですよね。

朝のバロックだった日には、結構ご機嫌なスタートでありまして、やっぱり朝の一曲目がハードなロック(といっても、私の聴くのはおとなしいもんですが)や重厚なオーケストラだったりすると少々きついものがあります。もちろんすべてのロックが駄目なわけでも、オケものがよくないわけでもなく、ああいい感じじゃん、というのもあるんですが、バロックとかフォークだとやっぱりどことなく爽やかでしょ? って、これ、ただの偏見なんですけどね。

イングリッシュ・コンソートによるヘンデルの『水上の音楽』は、私の買った二枚目のアルバムにあたります。一番最初のアルバムが『動物の謝肉祭』、二枚目は『水上の音楽』。この頃買っていた曲は、私が吹奏楽出身ということもありまして、オケものが中心です。ですが、それでもあんまりオケの王道みたいなのは聴いておらず、そもそもイングリッシュ・コンソートというのは古楽のグループです。ヘンデルが生きていた時代の楽器を復元し、演奏慣習についても忠実に、バロックの当時の音楽を再現しようという試みがはやったことがあったのでした。私がCDを買いはじめた頃というのは、ちょうどそうした試みが一般の層にまで降りてきた時期でありましたから、私はもう自然にピリオド楽器による演奏に親しんでいって、逆に、モダン楽器でのバロックに馴染みがないという逆転現象を起こしています。

私は、当初これだけは絶対に購入しようという曲目リストを作っていて、なにしろ小遣いに余裕がなくて、その少ない予算から選ぼうというんです。名曲解説全集みたいの首っ引きで、この曲は面白そうだ、こちらもなかなかよさそうだと、そんな具合にして文章から聴きたい曲を探して、リストにまとめて、そのリストに記した曲を全部買うことはかないませんでしたが、けれどあの時は音楽に対して夢があったなあ。

『青少年のための音楽入門』を購入して、その次が『水上の音楽』というのですから、私がどれほどヘンデルのこの組曲を聴きたがっていたかがわかろうかと思います。一般に流布しているのは、F Dur、D Dur、G Durの組曲から、六曲を抜粋したようなものであったりするのですが、イングリッシュ・コンソートの版は見事全曲を網羅していて、こういうところは私好みですよね。

私が『水上の音楽』を聴きたがったのには理由がありまして、それはちょっと面白いエピソード付きの曲だからです。

どんなエピソードかというと、イギリス、アン王女の死去に伴いドイツはハノーファーからジョージ一世がくるんですが、この人はもともとのヘンデルの雇い主だったんですね。ドイツにいた頃のジョージ(ゲオルグ)は、ずうっとヘンデルに帰ってこい帰ってこいといっていたのに、当のヘンデルはイギリスが気に入ったのか住み着いてしまっていて、一向に帰る気配がなかった。ところが、ひょんなことからそのジョージがイギリスにやってきて、王様になってしまった。ヘンデルは弱って、どうにも顔向けができない。だから、王様の船遊びの際に、この曲を仕立ててご機嫌を取ったのでありました。めでたし、めでたし。

このエピソードが本当かどうかは知りません。伝説という説も濃厚みたいですね。ですが、こういうエピソードがある方が興味が出るというのもまた事実で、少なくともこのエピソードは十八世紀社会における音楽家の位置づけをよく表していますよね。

2005年11月16日水曜日

モスラ対ゴジラ

 本日、恐竜博にいってきまして、やはりこの手の博覧会というのは心躍らせる要素に満ちていますね。圧巻はティラノサウルスの全身骨格標本ですが、見どころは他にもたくさんあって、数々の小型恐竜と彼らの進化過程を追うことで、恐竜が鳥へと進化した可能性がわかるようになっているという、その企画こそが中心でしょう。しかし、恐竜への理解は私の子供時分から見ればずいぶんと進んで、新種の恐竜の発見、しかも続々と見つかっているみたいですね。研究はもっと進んで、来年には来年の、十年後には十年後の恐竜観が提出されているはずで、こうして一歩一歩歩んでいくということの素晴らしさを思った博覧会でした。

で、今日は『モスラ対ゴジラ』。私の最初に見た映画『のび太の恐竜』について書いたとき、併映が『モスゴジ』だといっていましたね。私は、併映があったということを知って、てっきり二番館でドラえもんを見たのだと思っていたのですが、これがどうも勘違いのようなのです。はじめての映画ドラえもんは、初回から『モスゴジ』併映だったと最近知って、近ごろ見ない上映形態に昔ののどかさを少し感じたのでした。

で、『モスラ対ゴジラ』。私は映画として最も評価しているゴジラは、その名も『ゴジラ』、第一作であるのですが、好きなものはといわれれば『モスラ対ゴジラ』なのであります。

インファント島からやってきたモスラの卵。続いて上陸するゴジラ。二大怪獣の決戦は実に手に汗握らせる迫力で、なんといってもモスラは正義の味方として描かれているから、そのモスラが……、ってこれ以上はいいますまい。

高校への通学途中にボークスの本社がありまして、ロボット大好き、特撮(東宝怪獣系)大好き、プラモデル大好きの私は、友人連中を連れて連日入り浸ったもんでありまして、こんときにガレージキットの存在を知って、欲しかったなあ、モスゴジ。思えばこのときに海洋堂の名を覚えたのですが、海洋堂も今や食玩で人気、広く知られた会社になってしまいました。昔から知るものは、嬉しいやらちょっと寂しいやらでしょう。

今日の恐竜博では、海洋堂原形のスーフィギュアを買ってきました。ゴジラのガレキは高くて手が出ませんでしたが、ティラノサウルスは手ごろな値段で、大人気のようです。骨格モデルが売り切れでしてね……。

2005年11月15日火曜日

浮上せよと活字は言う

 今、自分の立っている位置がわからなくなったとき、これからどこへ向かうべきか迷ってしまったとき、誰もが自分なりの処方箋を持っていて、友達に相談するのもそうですね。占いに頼むのも素敵でしょう。ですが、私は本に答えを求めます。そしてその時そばにあってくれればよいと思うのは、橋本治のこの本『浮上せよと活字は言う』。私にとってこの本は、航海士にとっての羅針盤であり渡り鳥にとっての地磁気のごとしです。たとえどんなにあやふやな立ち位置からであっても、自分の本来たどろうとしていた道に帰ることができる、これは本当に貴重な一冊です。

この本において、橋本治は本と雑誌を通し、私たちの過ごしてきた時代を読もうと試みるのですが、果たしてその読み解きは出版物という枠にとどまらず、メディア全般に広がり、ある一時期を覆ったひとつの方向性 — ムードにまで達して、鋭く容赦がありません。しかし、私はこの読み解きにつきあって、いかに時代は読み解かれるかというさまを目の当たりにし、そして今まさに生起しうごめいている現代を読む手段を学んだように思います。

この本の出版は今から十年も前のことで、いくつかの章では、あの狂乱のバブルとその前夜が扱われ、また日本におけるスタイルの欠落、そして無関心が俎上にのせられ、ですが果たしてここに語られていることは本当に十年前のことであるのか。私は非常に疑問に思うのです。あたかも今私たちが暮らしている現在を語っているかのように思われるからです。

十年前と比べ現在は、日本を取り巻く情勢もまったく異なり、国内においても状況はがらりと違っていて、けれどこれだけ変わっていながら、私にはこの本の内容が昔のこととは思われません。スタイル(様式)は今もまだ確立されることなく、無関心はなおいっそう進行している。この本において問題とされたいろいろは、解消されることなく社会の中央にまだ肥え太ってどでんと座っています。

私は、毎日の生活の中で、自分の暮らすこの時代への疑問をくすぶらせて、そのくすぶりの火が消えないどころかあおられて炎をちらつかせるようになったのを危ぶんで、再びこの本をとったのでした。うねうねとのたくる橋本治の思考をたぐりつつ、疑問の中心に潜っていって、今再び水面に顔を上げて、こうしてかつて私が見つめていたはずの星は今も頭上に輝いていると気付いたのでした。

私は、私が世の中の中心にいないことを理解しています。ですがこんな私の頭上にも星は瞬いていて、きっと誰もが頭上に星をいただいているのだけれど、人によっては見つけられずに、気付かないままに終わるかも知れない。ですが、私は私の星を見つけたと思う。だから私は、私の星に手を伸ばしてやろうというのです。届かなくてもいいから、今は精いっぱい進んでいけばいいと、再びそのように思えるようになって、私の頭のなかは嘘みたいにすっきりと晴れ渡っています。

2005年11月14日月曜日

Sous le soleil exactement

  Sous le soleil exactementは映画Annaの挿入歌で、私の愛するシャンソンでもあります。ヒロインであるアンナが、想像の中、海岸で、本当の太陽の真下といってこの歌を歌うシーンは本当に感動的で、間違いなく映画の中核に位置する場面です。この場面で、この歌で、果たしてなにをいわんとするのか。私はここに、ありのままの自分でいられる場所への思慕を感じ取ったのですが、あるいは実際はたいした意味などなかったのかも知れません。

この歌にうたわれる太陽の真下を、ありのままの自分でいられる場所というように感じたのは、他の誰でもなく私自身が、ありのままの自分をもって生きたいと切望しているからであろうと思います。映画におけるアンナの境遇、 — 思い人が自分に向けている視線の乖離を思えばあながちこの感じ方も間違いではないと思うのですが、1966年に撮られた映画の一シーンが、すでに二十一世紀を迎えた今にもなお訴えうるというのはすごいことであると思います。本当の自分と、本当からはかけ離れてしまった自己像のせめぎあいというのは、近代的自我における悲劇だなんていわれたりなんかもして、そういうのなら、私は未だ近代を抜け出すことができずにいるのでしょう。

私はこの歌を、映画のサントラと『恋物語』というアンナ・カリーナ名義のアルバムで持っているのですが、サントラの寂しげに美しさが広がりすこやかに叙情の高まる版と、『恋物語』に収録された人懐こさが見え隠れする版、どちらもが好きで、これを聴くとなんかしんみりとして、ちょっと泣きたくなる。けどその反面、微笑みたくもさえあるのです。

涙は、悲しいからではなく、寂しいからでもなく、なんかやっと思いが通じたような嬉しさがあって、けれどその嬉しい気持ちの裏に皆が共有する孤独なんていうのも知れるように思うから、どうしても複雑な表情を作らないでいられなくて、けど私は泣かないんです。きっと泣かずに、目を閉じて、なんかしんみりとして歌の中に沈んでいこうとするのです。

2005年11月13日日曜日

日本の音楽と文楽

 今日、新聞に掲載された『テヅカ・イズ・デッド』という本の評を読んで、私はまったく違うことを考えていました。80年代以降、物語からキャラの魅力へと漫画の中心は移動したという、こうしたキーワードがきっかけとなったのは間違いなくて、というのは、私は実際今の漫画やその他もろもろに触れて、物語の力が弱くなったなあと、そんな風に思っていたからです。 — 物語るという行為の根っこが弱くなった。私はこうした状況の背景には、実感の乏しさというのがあると思っていて、実際私たちの世代はそれ以前の世代に比べて実体験は弱いかも知れない。私は本当の貧困を知らないし本当の苦痛や理不尽も知らず、だからその対となる豊かさや平穏に気付くことができないのかもなあと、私はとりわけ実感がないとなにもいえないという人間ですから、自らの実感の乏しさを見つめてその度に空虚にとらわれます。

私が、ここ数年、フォークロアや伝統芸能に傾倒しているのは、これらが私の空白な気持ちを鎮め、次の一歩を踏み出させるきっかけになるんじゃないかと思うからです。民間伝承や古典は、長く語り継がれる中で磨かれて、幅広く奥深い豊かな内実を持つにいたる。時代の苦悩や迷い、語り尽くせない思いなんかが注がれて、しかし無駄は見事に取り払われて、力強い骨格に分厚い肉付けが成されていて、けれどこれらは受け止めるにはあまりに重く、もし私がここに再演するとなれば、よほどの実感を必要とするでしょう。私は、自分自身がこうした歴史を受け止め、物語れるだけの実感を持っていないことを知っています。

こんなことを考えるようになったのは、井野辺先生の講座を受けたのがきっかけであったのは間違いなく、私は先生の講座で、日本の古典芸能 — 文楽について習っていました。文楽は、人形浄瑠璃といったほうがぴんとくるでしょうか、近松門左衛門や竹本義太夫により完成された人形芝居です。人形芝居といっても、高度な表現や劇的要素に支えられた、日本有数のファインアートであります。

私は先生の授業で、テキスト(台本)を手に浄瑠璃を聴き、その豊かさに圧倒されたのでした。大夫による表現の違いはあれど、感情のあふれ出る様子は切々と胸に迫るものがあり、本当に力強い語りの前に打ちひしがれる思いでした。テキストがすごい、表現がすごい。それらを支えるのはいったいなにであるのか。それは実感にほかならないのではないか。私は目が開いたかのように感じ、フォークロアや古典に潜ろうと決意したのは実にあの時のことでした。

実感があるとは、そこに身体があるということにほかならないと思います。私は、私の身体の語りかけに耳を澄ましながら、その身体が受け止めるもの、その身体が共鳴している対象に近づきたい。

より大きなものを得ようとすれば、それだけ大きな身体、豊かな身体が必要なのだと思います。だから、私は私の身体を育てなければならないと、そう思って数年、まだ足りません。まだ足りないのです。

2005年11月12日土曜日

デイリースイーツ

猫月さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね? やのうて、今月のラブリーは読まれましたか? ええ、今日、11月12日発売のやつですよ。私はラブリー十二月号表紙を見て、ずいぶんうれしかった、だってカタクラユキさんの新連載が告知されていたんですもの。

猫月さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、カタクラさんは、鍋とケーキでお祝いされていらっしゃることでせう。

と、よくわからない冗談はやめておいて、けれど、カタクラさんの新連載は本当なので信じてください。そのタイトルは『デイリースイーツ』、お仕事バリバリのお姉さんが主役の、しゃっきりした印象が気持ちいい四コマ漫画です。

私はカタクラさんといえば『ブックブックSHOW』が本当に好きで、あの本好きの店長さんが本当に好きで、もうどうしようもなかったのですが、『デイリースイーツ』はというとどちらかといえば『ひばりさんの社長ライフ』を彷彿とさせる雰囲気です。私、『ひばりさんの社長ライフ』も好きだったんですよね。懐かしいですよね。あの毎号の表紙にみょーん君グッズの紹介がされているのが面白くて、一時などはエイプリルフールの嘘で、トップページをみょーん君グッズを扱う通販サイトにしようかなどと思って、けれど企画するだけで実施しないのが私の常ですから、しれっと流れて終わりました。

どんだけ脱線すりゃ気が済むんだ。

『デイリースイーツ』は、シンプルにタイトにまとめられて、最近の芳文社におけるカタクラさんの雰囲気とはちょっと違っていますが、私はこういうカラーも好きなので本当に嬉しかった。だもんで、末長く続いてくれたらこのうえもなく嬉しいと、そんな風に思っていますわ。

  • カタクラユキ『デイリースイーツ』東京:芳文社。

2005年11月11日金曜日

ガンパレード・オーケストラ 白の章 青森ペンギン伝説

 私は、以前PlayStation.comでハードディスクを買ったから、宣伝のメールが送られてくるんです。このメールというのは、基本的には読んですぐ処分といった類いのものなのですが、今、ゲームから身を離している私にとっては、本当に貴重な情報源でありまして、そんなわけで、かの名作と名高い『ガンパレード・マーチ』の続編(といっていいのかな?)、『ガンパレード・オーケストラ』が発売されると知ることができたのは僥倖でした。

実は以前、『絢爛舞踏祭』の発売もこうしたメールで知って、『絢爛舞踏祭』というのも『ガンパレード・マーチ』の関連作で、で、正直私は買おうかどうか本当に迷って、結局見送ったのですが、レビューを読めばかなりの意欲作みたいじゃないですか。多分、私はそれなりに楽しめるユーザーの資質をもっているのですが、きっとプレイすればおえーってなって、遊べなかったんじゃないかなあ。そんな気がします。

おえーっていったいなんなんでしょう。それはですね、鼻につくんですよ。アルファ・システムのゲームはあるひとつの世界観の中に囲われていて、『幻世虚構・精霊機導弾』とか『式神の城』とか、それで『ガンパレード・マーチ』と『絢爛舞踏祭』。これらのゲームを貫いて飛び交うキーワードを追っていくことで、いつか世界の謎が見えてくる……、んでしょうが、私にはもうお腹いっぱいなんです。

でも、お腹いっぱいでおえーっていいながらでも、それでもアルファ・システムのゲームが発売されるとなると興味がでてしまうのは、ここの作るゲームはかなり面白いことを知っているからなんですね。実際『ガンパレード・マーチ』はそうで、あんまりに評判がいいもんだから、世界の謎なんてまったく知らずにこれを買って、実際その面白さにやられました。何度もプレイして、世界の謎掲示板にも入り浸って(昼夜問わず!)、けれどそれで疲れちゃったんでしょうね。

世界の謎は鼻につきすぎます。理解して欲しいという欲求が前面にたちすぎているというのか、何気ない台詞にキーワードが隠されているとかじゃないんですよ。いきなりぼーんと生のままでキーワードが、本作にまったく関係のないような唐突さであらわれて、いったい今の台詞なに? って、でもクリアには必要かも知れないからメモしておこう。けど、このメモはゲームをプレイする上ではなんの役にも立たず、そうなんですね、世界の謎を追うという知的ゲームに参加してはじめて意味のあるものなんですよ。

それが多すぎる。しかも一作で完結せず、複数のゲームをまたいで展開するものだから、情報量はそもそも膨大で、ゲームに参加すればわかるのですが、情報エリートがすでに山といて、階層を成して、それはもうある種カルトを形成しています。いや、それでもいいのです。カルトを形成するほどにしっかりした構造があるのでしょうし、それはそれでアルファ製の価値なんです。ですが、それを無視する権利も欲しい。無視するのにも無視する努力が、あ、これは世界の謎絡みだと思った瞬間に目を背ける努力が要求されるのはどうかと……。

私が『絢爛舞踏祭』を避けたのは、このことがわかっていたからで、そして、おそらくは見送って正解でした。

『ガンパレード・オーケストラ』は、かなり『ガンパレード・マーチ』に近いゲームのようで、だから、私は悩むのです。ゲームシステムが『ガンパレード・マーチ』で、それがPS2のスペックでもって実現されていて、これは『ガンパレード・マーチ』をよく遊んだ人たちが望んだ理想そのものといってもいい。あの時の、テレビの前で過ごしたときの興奮やわくわくが取り戻せるというのなら、このゲームは買いかも知れない。私はそんな風に思っています。

しかしその反面、『ガンパレード・オーケストラ』 — ガンパレード=第五世界。世界の謎が目の前にちらつきます。私は、世界の謎はむしろトラウマのようになっているのですが、それでもあの夜に立ち会った人間ですから、ちょっとは知っているんです。だから、きっとひとつのキーワードが次々に記憶を掘り起こして、七つの世界に張り巡らされた関係性を思い起こさせるはずで、 — でももうそれはいやなんです。オプションかなんかで、世界の謎関連のワードを表示しないというのをつけて欲しい。本当にそう思います。

これが購入をためらう第一の理由。

『ガンパレード・マーチ』はかなり時間をとられるゲームでした。セーブタイミングは一日が終わったその時で、まあ、一日中訓練するとかしたらあっという間にセーブできるのですが、このゲーム、それじゃ面白くないんです。で、面白さを求めると時間がかかる。それに、戦闘が始まれば、そこからまた時間がかかり、それなりの準備もしてますし、腕にも覚えありでしたから、気分はもういくらでもかかってこい、お代わりだ、お代わりもってこい、てなもんだったんですが、それでも時間はかかる。

私、時間がないんですよ。ここ数年、ゲームをほとんどしていないんですが、だからこのゲームを買ったとしても、一周目すらクリアできず終わる可能性大です。

これが第二の理由。

今度発売される『ガンパレード・オーケストラ』には白の章という副題がついていて、その後に緑の章、そして青の章(青にはあの青は関係しているのか!?)が用意されているのだそうですね。これがなんかいやな予感をひしひしとさせていて、なにがいやなのか。ずるずると引っ張られるようないやな感じが、いやな感じがするんです。マニアなら、三本、限定版で揃えるとでもいわんばかりじゃないか。どうせだったら、三本出すんじゃなくて、三本分を一本にまとめてくれー!

これが第三の理由。

『ガンパレード・オーケストラ』はメディアミックスなんですってね。アニメになって放送中? 実をいいますと、私、メディアミックスって嫌いなんです。なんでか知らんけど嫌いなんです。メディアミックスで展開されたやつで、好きになれたものが過去にひとつでもあったろうか?

これが第四の理由です。

白の章は舞台が青森県だそうですね。何年何月の青森なんでしょうか。青森まで戦線が下がっているということは、熊本は落ちたのでしょうか。あるいは、北からの侵攻を押し返そうとする戦線であるのか。なら緑の章の舞台は? 青の章の舞台は? いずれにせよ、興味は尽きません。

おそらく、私は時間に余裕さえあれば、『ガンパレード・オーケストラ』を買っているでしょう。躊躇もなく、予約したことでしょう。プレイして、悲喜こもごも、いやな気分も味わうかも知れませんが、けれどトータルではプラスになるはずだという確信があります。ですが確信はあっても時間がない。

世の中とはままならないものです。このままならさを受け入れている私なら、あるいは『絢爛舞踏祭』も楽しめるのかも。いや、けどやっぱり時間がない。ままなりません。

2005年11月10日木曜日

耳栓

  今朝、通勤の友iPodのスイッチを入れたところ、なんとバッテリーマークが赤く表示されていて、そうです、電池が直きに切れますよという警告です。しまったなあ、とは思ったのですが、iPodはバッテリーが赤くなってからが長いという印象もあったので、うまく今日の往復分くらいはもってくれるかなという期待をしまして、ですがこの期待もはかなく、帰りの、電車を待つホームにて、iPodは沈黙したのでした。

この間まで、ポータブルオーディオのない生活をしていたというのに、イヤホンを外すときには一抹の寂しさも漂って、人間の馴れる能力とは馬鹿にできないと思いました。しかしそれ以上に思ったのは、まわりのうるさいこと。これはもう驚いてしまうほどで、私は耳栓型のイヤホンを使って、遮音効果が低いとか文句をいっていましたが、しかしそのイヤホンを外せばあたりはこんなにもうるさい。まわりに人がひしめいているわけでもないのに。目の前に列車が通過しているというわけでもないのに、本当にうるさい。

雑踏の真ん中や、あるいは客車内となればなおさら。これは堪え難いなと思ったものでした。

だから私は、耳栓代わりにイヤホンを耳に突っ込んで、うるささを多少緩和しながら帰ったのでした。ですが、まさかミュージックプレイヤーの電池が切れて、周囲の騒がしさに気付かされるとは思いませんでした。こんなにも音の無秩序に氾濫する中で生活していて、これは少なからずストレスとなっていたのではないかと、そう思うほどの出来事でありました。

と、そんなわけで、耳栓。昔、イヤーウィスパーっていう、黄色い耳栓が売られていて、押しつぶして耳孔に突っ込んでおくと、体温で元の大きさに戻ってしっかり遮音してくれますってやつです。私は昔これをためしに使ってみて、思った以上に遮音効果が得られないとして見限ったのですが、ですがこれも今から考えたら、きっと無意味ではなかったのでしょう。

私は長く耳栓を使う人を理解できずにいましたが、今日、ようやくその気持ちがわかったように思います。耳栓をはめた生活に慣れた人間なら、これはもう必携といってもいいアイテムなのだろうと思います。

2005年11月9日水曜日

甘口少年辛口少女

 暴れん坊本屋さん』で久世番子の虜となってしまったわたくし。ある日の帰り道、日課のように寄り道する書店(四店舗ある)、新刊の棚にちょっと気になるタイトル、表紙を発見。なかなかいい感じじゃん、とか思ってどれどれ作者を確認したらば、おっとどうだい、久世番子さんですよ。その瞬間に購入決定。だって、表紙絵が非常に好みだったんだもの。

優しい感じの眼鏡少年に、ちょっと目つきの悪い美少女という取り合わせ。なんつうか、目つきの悪い女の子って可愛いですよね。でもって、裏表紙見てみたら、これまた勝ち気そうなお嬢さんに眼帯美少女ときて、これはなかなかに期待させてくれるじゃありませんか。

で、買ってみて、読んでみて、なんじゃこりゃあ、期待以上でした。

久世番子のキャラクターは、造形がしっかりしていていいなと、はじめはそんな感想でした。ちょっと勝ち気の女の子という、私好みのヒロインが元気に動き回って、けれど動きの大きな反面、素直になれない屈折した気持ちというのがいじらしいと思う。

それで、加えて、絵も好きな感じで、漫画において絵の好き嫌いという要素はかなり大きいなと思うところです。絵が好きといっても、最初にいっていた表紙絵のようなのもそうなのですが、ああいった止め絵だけじゃなく、動きのある絵、表情、見せ方といった表現においても好きな感じで、これは、なんというか、はまりそうな感じがしますね。

こういったときの私の行動はというと、まず、既刊を全部買いそろえてみる。おそらく、近々にでも久世番子既刊を買いに大阪にでるだろうと、そんな感じであります。

ところで、本文に戻って、私は、この人の漫画は、ハッピーエンドが期待される安心タイプの漫画であると思って読み進んでいたのですが、どうもそれだけではないこともわかって、このひと月ほど止まっていた、漫画を読みながら泣く癖というのが再発しました。

久世番子、よい漫画家だと思います。

2005年11月8日火曜日

English and Scottish Folk Ballads

 ペンタングルを聴きはじめたからなのか、あるいははじめからそうした傾向があったのか、私はどうにもイギリスの民謡なんかが好きであるようです。そんなわけでいろいろちょこちょこCDやなんかを集めだしたりもして、この度買ったというのがイギリスとスコットランドのバラッド集。Jack Orionが目当てでありました。

Jack Orionというのは、以前お話したペンタングルの『クルエル・シスター』に収録されたJack Orionでありまして、同じ曲が違う歌い手に歌われることでどう変わるのかというのを知りたい一心での購入でした。

聴いてみて、びっくりしました。なにに驚いたといっても、その素朴さ。ペンタングルのJack Orionにしてもそれほど派手派手しい曲ではないですが、そんなどころじゃないくらい素朴で、にわかに同じ曲とは思われない、 — というか、これは違う曲です。

私はとんだ思い違いをしていたようで、Jack OrionにせよCruel Sisterにしてもこれらはトラッドのナンバーで、つまりは民謡。こうした曲が、そもそもソフィスティケイトされてるはずがないんですよ。ものすごく土俗的な響きや匂いがして、わあ、やっぱり民謡なんだと思いました。

私の思い違いというのは、ヨーロッパの音楽は洗練されているものだという思い込みに根ざすものであったのでしょう。いや、しかしそれにしてもですよ、私はブルガリアの民謡の強烈に土俗的な様を聴いて知っていたというのに、じゃあなんでそれがイギリスだったら洗練されているだなんて思ったのでしょうか。偏見でしょうね。偏見です。

けれど、私はこの人間臭さ、民俗臭に触れて、なんだか目の前が明るくなったような気がしたのでした。私は、これまでヨーロッパの民謡歌手たちの演奏を聴いて、その表現の巧み、洗練に憧れてきたわけですが、けれどそれはあくまでもモダンアレンジのされたものだということがわかって、つまりはやり口の問題であるわけです。素材は本当に土地のもの、長く歌い継がれてきた民謡であり、そしてそこに現代風が持ち込まれることでどう変化するかという、その様を見て取った気がしたのです。

口伝えするうちに練り上げられた民謡に、絶えず今の風が吹き込まれている。素晴らしいことだと思いました。古いスタイルには、今のスタイルが失った強さがあり、新しいスタイルには、古いスタイルには存在しない表現があり、どちらがよいわるいというものではありません。どちらもが素敵なものに違いないのです。

2005年11月7日月曜日

暴れん坊本屋さん

 新聞で取り上げられたりして、なんだか話題沸騰中(?)の漫画『暴れん坊本屋さん』。地上三十階にある紀伊国屋書店コミック専門店にいったら、これでもかこれでもかという勢いで押されていて、やれ本好きにお勧めだとか、新聞書評に取り上げられたとかどうとかこうとか。でも、私は自分が本好きだからとか書評で好意的に取り上げられたとか、そういうので買ったのではありません。私がこの本を買うにいたったのは、『もの好き もの子のモノ日記』で扱われていたのを覚えていたからで、あの時、あの記事を読んでいなかったら、きっと私はこの本を買っていなかったでしょう。

さて、本好きにお勧めという『暴れん坊本屋さん』っていうのは、いったいどういう漫画なんでしょう。

一言でいうと、書店で働いている漫画家が、仕事中に経験したことを面白おかしく描いているそういう漫画です。ああ、よくあるよね、っていわれたら確かによくありそうな話で、本屋に勤めたことのある人や、私みたいに図書館勤務の経験のある人間なら、あるあるそういうことってうなずきながら読めることでしょう。

って、こう書いたら、別に『暴れん坊本屋さん』じゃなくてもいいじゃんって感じになりますね。

でも、私には『暴れん坊本屋さん』はすごくよかった。まさに他にはないという感じがいっぱいで、買ってよかった、もの子さんありがたうと思わず感謝してしまったという(本当)。なにがよかったのかというと、やっぱり著者の傾向なんだと思います。あるいは掲載誌? 今では『ウンポコ』に連載されているそうですが、初出一覧を見れば『ウィングス』発祥らしいですね。『ウィングス』! というわけでBLというわけでもないんでしょうが(実際これは誤った見方で、『ウィングス』はBL誌ではありませぬ)、『暴れん坊本屋さん』にはそういったテイストがあちらこちらに散見されて、これは……! 実に私好みではないですか……。

折りに挿入されるギャグであるとか突っ込みであるとかが、私の性に合っていたのでしょうね。

そんなわけで、私の一番好きな回は「第9刷 俺の売り場は俺の庭」です。ハチさんが最高に可愛いです。彼女こそは、まさに理想の女性といえるでしょう(本気)。

ちなみに、一番好きなページは89ページです。

  • 久世番子『暴れん坊本屋さん』第1巻 (Un poco essay comics) 東京:新書館,2005年。
  • 以下続刊

2005年11月6日日曜日

ひまわり

 私は集英社の雑誌『YOU』を年間購読しているのですが、この数年、私の好みとは傾向を違えた漫画が増えてきて、どうにも読むところがなくなってきたものだから、更新はしないでおこうと思ったのです。ですが、そう思った矢先に市川ジュンの『ひまわり』の連載がはじまって、いやなタイミングで好みの漫画を投入してきやがると、一年間の購読延長をしたのです。

こうして私を捕まえた漫画『ひまわり』も、めでたく終了し、先日単行本も発売されて、もちろん私は単行本も押さえました。集英社での連載だからか、近代ものの料理もので、楽しく読んで、けれどこれだけ早く終わってしまったものだから、ちょっと物足りなくもあります。

『ひまわり』の主人公はちょっと勝ち気で前向きな女性で、実に市川ジュンらしいヒロインだと思います。一念発起し、戦後の焼け跡に亡き父の起こした食堂を再建しようと奔走するヒロインの生き生きとした強さにはほれぼれとさせられて、あんまりにとんとん拍子すぎやしないかという展開も気にはなりません。あるいは、若く美しい男性たちに取り巻かれるヒロインという構図。そういった、実においしい状況、お膳立てがあって、それでどうしてここで終わるのかなあ。

と、多分集英社は単行本の売れ行きをはかっているのだと思います。これが売れて、人気のシリーズになりそうならば、また単行本一冊分くらいの展開をしてみせて、それを売れている間だけでも繰り返すというのでしょう。最近はそういうやり方というのが目に見えて、失敗しにくいので出版社としてはやりやすいのかも知れません。

私は『ひまわり』を読んで、まだ続きが出るなら読みたいなあと思って、けど続けば『YOU』の購読をやめるきっかけを失いそうで、だからちょっと危険かなあって思います。でも危険でも、この話が続くなら読んでみたいと、そう思うんですね。好きというのは、本当にしようのないものです。

  • 市川ジュン『ひまわり』(クイーンズコミックス) 東京:集英社,2005年。

2005年11月5日土曜日

あたしンち

 『あたしンち』は、日本のよくある家庭を描いて、その描写が妙に的確だから、ああそんなこともあるなあ、あったなあと共感しきりです。昔、私にはスイスからの留学生に知人があったのですが、彼女もいっていました。私のうちとおんなじだって。

けらえいこは国境を越えたと、あの時は本当に感心しました。いや、けらえいこがというよりも、母親というものの普遍性かも知れません。母親というのは、日本だとかスイス、ヨーロッパだとかの地理的状況を超えて、どうも同じようなものであるのですね。それも、『あたしンち』に出てくる母親というのは典型的な日本のおばさんであるわけで、ところが彼女の証言に基づくならば、ああした人は世界中にいるわけか……。

母親というのは偉大であると思いました。

母親の習性が普遍性を持つというのなら、きっと姉や弟においても同じなのではないかと思います。といってもだ、けらえいこは女性であるし、『あたしンち』にしても、基本的には橘家の長女であり姉であるみかん視点に基づく漫画であるわけだから、ここに出てくる姉というのはおおむねわたしであるわけです。つまり、この漫画における弟ユズヒコは、姉の目でもって観察された弟であるということなんです。

きゃー、この漫画は姉に見せちゃいかんわ。あ、ここでいう姉っていうのは、私の姉のことです。

ユズヒコは中学生で、だんだん子供から男っぽくなりはじめる時期にありがちな行動が描かれてるんですよ。大人ぶってみたりもするし、なんかわけわからん衝動にかられて暴れたりもするでしょう。身体においても精神においても、子供の部分と大人の部分が角突き合わせてアンバランスな時期で、それを姉の目がじっと見ている……。

ああ、こっぱずかしいわ。きっと姉がこれを見たら、私が中学生だった頃のことを引っ張りだしてきて、あれこれいいやがるぜ。だから、この漫画は絶対に姉には見せちゃならんのです。

いや、母でも一緒だな。この漫画は、私個人のものとして隠匿したいと思います。

  • けらえいこ『あたしンち』第1巻 東京:メディアファクトリー,1995年。
  • けらえいこ『あたしンち』第2巻 東京:メディアファクトリー,1996年。
  • けらえいこ『あたしンち』第3巻 東京:メディアファクトリー,1997年。
  • けらえいこ『あたしンち』第4巻 東京:メディアファクトリー,1998年。
  • けらえいこ『あたしンち』第5巻 東京:メディアファクトリー,1999年。
  • けらえいこ『あたしンち』第6巻 東京:メディアファクトリー,2000年。
  • けらえいこ『あたしンち』第7巻 東京:メディアファクトリー,2001年。
  • けらえいこ『あたしンち』第8巻 東京:メディアファクトリー,2002年。
  • けらえいこ『あたしンち』第9巻 東京:メディアファクトリー,2003年。
  • けらえいこ『あたしンち』第10巻 東京:メディアファクトリー,2004年。
  • けらえいこ『あたしンち』第11巻 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 以下続刊

2005年11月4日金曜日

アコースティック・ギターが弾ける本

『アコースティック・ギターが弾ける本』は、私がギターを弾きはじめる際に手引きとして用いた本で、ヤマハのサイトでの説明にもあるように、本当の入門、初級者向けの本であると思います。それこそ音楽に長けてない人でもわかるように懇切丁寧に書いてあって、だから私にはちょっと買いにくく、結局図書館で借りて済ませたのです。ですが、それこそ山のようにあるギター入門本の中からこれを選んだということを思い返すと、それだけの見るべきなにかがあったのでしょう。

わかりやすいということもあったのでしょうが、私はきっと、練習内容がきちんと示されていて、そういうところによさを見いだしたのだと思います。それこそ最初は、同弦上での練習みたいな、本当に簡単というか、普通ならつまんなくてやってらんねえよというようなのが載っていて、だんだんやることを増やしていくという、そのスタンスが私の好みだったと、そういうことなのだと思います。

今になって思い返せば、私は本当に最初のひと月ほどは、飽きもせずにというか馬鹿正直にその同弦上での練習というのをやっていて、こうした基礎を重んずる姿勢、逆にいえばいつまでたっても人に聴かせられるような曲が仕上がらないやり方で今までやってきて、いや、今になっても、やってる内容こそは最初の本よりも難しくなったとは思いますが、持ち曲が一曲もないというのは問題で、でも普通なら退屈といって敬遠されそうな練習が好き(好きなのはしょうがない)な私には、『アコースティック・ギターが弾ける本』は向いていたのでしょう。

とりあえずこの本は、スケールの練習までやって返却して、だから巻末に載せられていた歌や曲というのはちっともやってなかったりして、だからやっぱり、私には純練習曲みたいなのが向いているのかなあなどと思ったり。

けど、この本も絶版みたいですね。多分今は、新しい違う本に代が移ったのでしょう。ちょっとさみしい気もしますが、それだけの時間が流れていたということなのでしょう。私の腕も、流れた時間の分だけよくなっていればよいなと思います。

2005年11月3日木曜日

Beethoven : Bagatelles played by Glenn Gould

 最初に一応断っておきますが、私のこのBlogにおいてやたらとグールドが出てくるのは、私が聴いたことがあるのがグールドくらいだからという、非常に薄弱な理由で、グールドこそがお勧めですぞ、といっているわけでは決してないので、あしからずご諒解いただけますとありがたいです。

と、そんなわけでグールドのバガテル。私は、自分の持っているCDをCDのまま聴くというのはほとんどなくて、iTunesに読み込んだものを全曲シャッフルして聴くという、そういうスタイルが普通です。こういう聴き方をして気付くのは、意外と自分の知らない曲が多いということ。買っただけで聴いてなかったというものもありますが、何度も聴いたはずなのに、気付いていなかった側面にはっと光が当たるような体験もありまして、なかなか侮れません。と、そんな具合で、はっと違った側面に光が当たったように感じたのがベートーヴェンのバガテルです。

私が今回気付いたとかいっているのは、バガテルは作品126の4曲目。h mollでPrestoのやつ。これ、ものすごくポップなんですよ。なんか別の作業やっていて、鳴っている曲に全然注意を払っていなくて、そうしたらすごくポップなピアノが聴こえてきて、おや、と思った。てっきりSony ClassicalのGreat Performances, 1903-1998あたりかと思って確認したら大間違いで、修論書くときに何度も何度も聴いていたはずのグールド。あれまあ、全然意識せずに聴いていたのかい!? いや、そんなことはないつもりなんですが……。

バガテルOp. 126 No. 4ですが、これ、全編がポップというわけではないんですよ。どっちかというと重厚な感じではじまって(まあグールドの演奏は、全体にスタッカートがかってますが)、けど途中曲調ががらりと変わってむやみにポップな感じになって、まあまた元の感じに戻るのですが、この変わりようがすごい。好対照というか、ちょっと思いがけない変化があって、実に効果的で、やるじゃん、ベートーヴェンって感じですよ(私、何様?)。

このポップな感じですが、ことさらグールドのせいってわけでもないと思っています。演奏者によって雰囲気はそりゃちょっとは違うでしょうが、この曲のベースにあるコケットリーはきっと変わらないはずです。ちょっと重厚で、真面目ぶった部分があったと思えば、ポップな曲想が飛び出てきたり、メロウで美しいパートがそっとあらわれてきたり、ほんの五分ほどの小品なんですが、やっぱり侮れません。

危ないですね。ここで古典派なんぞにはまりだしたら、また爆発的にCDを増やしかねません。危ないですね。

2005年11月2日水曜日

ひだまり家族

 ほへと丸の『ひだまり家族』が単行本になって、やれ嬉しや、私はこういったほんわかとした漫画が好きで、そもそも私が四コマにシフトしていったのも、最近の漫画と漫画を取り巻く状況がどんどん高度複雑化していったせいだったもんですから、だからこのご時世に『ひだまり家族』が単行本化したというのは本当にありがたいことだと思います。

ありがたい? ありがたいというのはなんでかというと、世の例に漏れず四コマというジャンルにおいても高度複雑化は進行しつつあり、細かな設定や緻密な描写、一度見逃すとわからなくなるストーリー展開。販促面でも高度複雑化ははじまっているようで、いずれ初版限定とかが出るんじゃないかと戦々恐々。そんなのに疲れたから四コマのゆったり加減がよかったのに……。

私がほへと丸の漫画を見てほっとするのは、私が四コマに移ってきた頃の雰囲気をほんのりと感じさせるからだろうと思います。

シンプルな描線、可愛いキャラクター。ネタの運びもうがったようなところはなく、こんこんとしてわかりよい。折々に季節のことを描いて、こういうところには昔ながらの四コマの空気があるんです。

けど、昔ながらといってもさすがに今という時代に連載されている漫画でありますから、丸々昔なんてことはありません。両親共働きで、母親が上役かつ北海道に単身赴任。こういったところに、やっぱり現在があるのですね。あるいは携帯電話である、ネイルであるといった、そういったところにも今を感じさせて、けれど、商店街など、どこかしら懐かしさも漂わせている。

私がこの人の漫画を好きというのは、古い様式のよさと今という時代性を兼ね備えているところが気に入っているからなのだろうと思います。四コマごとに独立したオールドスタイルもあれば、今号のホーム(まんがホーム12月号)でやってるみたいな、全四コマをワンテーマで束ねるような新様式でも展開してみせて、このどちらのスタイルであってもほへと丸らしさがよく出ていて、やっぱり私はこの人の漫画はよいなあと思うのでした。

てなわけで、この記事をお読みの皆様におきましては、どうぞ『ひだまり家族』をお買い求めいただきたい。というのもですね、こういうちょっと懐かしい雰囲気の四コマが売れないと、今後こういった感じのものが出版されなくなってしまうかも知れないからです。

売れ行きが悪ければ第2巻もないかも知れない。同傾向の漫画が単行本化されることもなくなる、あるいは連載も減るかも知れない。私が好きだった四コマの四コマらしさはどんどんなくなっていって、そうなればいよいよ私は四コマからも撤退することでしょう。

ほへと丸の漫画は、読めばきっと面白いはずで、だからぜひ一度手に取ってくださると嬉しく思います。

  • ほへと丸『ひだまり家族』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

余談

Amazonでの表記は「ほへと 丸」みたいな感じで、ほへとと丸の間にスペースが入っていて、名字ほへとで名前が丸みたいですね。

以前は岩澤ほへと丸と名乗ってらっしゃいました。ほへと丸で名前です。

2005年11月1日火曜日

COOL JEWEL

高校の時分から通っていたレコードショップが閉店することになって、店じまいの二割引セールがおこなわれました。その時、私はまだ学生で、自由にできるお金も少なかったのですが、これはもう祝儀だと思って、店内にあるサクソフォンのアルバムを全部買って、それらは今も私の大切なコレクションとしてCD棚に収められています。

このとき買ったアルバムは、どれもこれも何度も何度も聴いて、それほど好きではないというものもありましたが、中にはかなりのお気に入りになったものもあって、ですが行きつけの店が閉まるというのは、大きな出来事でありました。今から考えると、あの時が、私の音楽に対するスタンスの変化の始まりだったのではないかと思います。

あの時買ったサクソフォン絡みのアルバムで、一番好きだったのはなにかというと、本多俊之の『COOL JEWEL』でした。いや、過去形じゃない。今も好きです。

ぱっと聴いた感じには、なんかそっけない感じで、メロディも単調な感じで、本気でやってんのなんて思ったりもするのですが、ところが、これが癖になるのですよ。ジャンルでいえばフュージョンで、スタイルとしてはミニマルっぽいのかな? シンプルなフレーズが何度も繰り返されて、気付けば忘れられなくなってしまっていて、これは本当に愛聴の一枚でした。

なんでこの曲を思い出したのかというと、今日iPodが選曲した音楽で、ちょっとしたミニマル風味を目指したというのがあったのですが、それが聴くに堪えなかったからなのです。いったい何分やってるんだ、と思って時間を確認したら、五分ほどの曲なのです。ですが、延々何十分もやられているような気がして、飛ばしちまおうかと思ったけど、後一分くらいで終わるからと思って我慢しました。けど、その一分が長かった。もう終わりだろうと思っても、たった三十秒しかたってなくて、本当につらかった。

この曲を聴いて、やっぱり本多俊之のセンスというのはすごいのだなと思いましたよ。単調な感じなんだけど、本当に単調というわけではないのです。そっけない風だけど、本当にそっけないわけじゃないんです。いつしか耳に残るフレーズ、心に引っかかる癖、風合いがあって、こうしたものはよっぽどじゃないと出ないのだなと、本当に思います。

けど、私が好きだという『COOL JEWEL』、絶版なんですね。ちょっと残念です。