2005年11月15日火曜日

浮上せよと活字は言う

 今、自分の立っている位置がわからなくなったとき、これからどこへ向かうべきか迷ってしまったとき、誰もが自分なりの処方箋を持っていて、友達に相談するのもそうですね。占いに頼むのも素敵でしょう。ですが、私は本に答えを求めます。そしてその時そばにあってくれればよいと思うのは、橋本治のこの本『浮上せよと活字は言う』。私にとってこの本は、航海士にとっての羅針盤であり渡り鳥にとっての地磁気のごとしです。たとえどんなにあやふやな立ち位置からであっても、自分の本来たどろうとしていた道に帰ることができる、これは本当に貴重な一冊です。

この本において、橋本治は本と雑誌を通し、私たちの過ごしてきた時代を読もうと試みるのですが、果たしてその読み解きは出版物という枠にとどまらず、メディア全般に広がり、ある一時期を覆ったひとつの方向性 — ムードにまで達して、鋭く容赦がありません。しかし、私はこの読み解きにつきあって、いかに時代は読み解かれるかというさまを目の当たりにし、そして今まさに生起しうごめいている現代を読む手段を学んだように思います。

この本の出版は今から十年も前のことで、いくつかの章では、あの狂乱のバブルとその前夜が扱われ、また日本におけるスタイルの欠落、そして無関心が俎上にのせられ、ですが果たしてここに語られていることは本当に十年前のことであるのか。私は非常に疑問に思うのです。あたかも今私たちが暮らしている現在を語っているかのように思われるからです。

十年前と比べ現在は、日本を取り巻く情勢もまったく異なり、国内においても状況はがらりと違っていて、けれどこれだけ変わっていながら、私にはこの本の内容が昔のこととは思われません。スタイル(様式)は今もまだ確立されることなく、無関心はなおいっそう進行している。この本において問題とされたいろいろは、解消されることなく社会の中央にまだ肥え太ってどでんと座っています。

私は、毎日の生活の中で、自分の暮らすこの時代への疑問をくすぶらせて、そのくすぶりの火が消えないどころかあおられて炎をちらつかせるようになったのを危ぶんで、再びこの本をとったのでした。うねうねとのたくる橋本治の思考をたぐりつつ、疑問の中心に潜っていって、今再び水面に顔を上げて、こうしてかつて私が見つめていたはずの星は今も頭上に輝いていると気付いたのでした。

私は、私が世の中の中心にいないことを理解しています。ですがこんな私の頭上にも星は瞬いていて、きっと誰もが頭上に星をいただいているのだけれど、人によっては見つけられずに、気付かないままに終わるかも知れない。ですが、私は私の星を見つけたと思う。だから私は、私の星に手を伸ばしてやろうというのです。届かなくてもいいから、今は精いっぱい進んでいけばいいと、再びそのように思えるようになって、私の頭のなかは嘘みたいにすっきりと晴れ渡っています。

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