2005年11月13日日曜日

日本の音楽と文楽

 今日、新聞に掲載された『テヅカ・イズ・デッド』という本の評を読んで、私はまったく違うことを考えていました。80年代以降、物語からキャラの魅力へと漫画の中心は移動したという、こうしたキーワードがきっかけとなったのは間違いなくて、というのは、私は実際今の漫画やその他もろもろに触れて、物語の力が弱くなったなあと、そんな風に思っていたからです。 — 物語るという行為の根っこが弱くなった。私はこうした状況の背景には、実感の乏しさというのがあると思っていて、実際私たちの世代はそれ以前の世代に比べて実体験は弱いかも知れない。私は本当の貧困を知らないし本当の苦痛や理不尽も知らず、だからその対となる豊かさや平穏に気付くことができないのかもなあと、私はとりわけ実感がないとなにもいえないという人間ですから、自らの実感の乏しさを見つめてその度に空虚にとらわれます。

私が、ここ数年、フォークロアや伝統芸能に傾倒しているのは、これらが私の空白な気持ちを鎮め、次の一歩を踏み出させるきっかけになるんじゃないかと思うからです。民間伝承や古典は、長く語り継がれる中で磨かれて、幅広く奥深い豊かな内実を持つにいたる。時代の苦悩や迷い、語り尽くせない思いなんかが注がれて、しかし無駄は見事に取り払われて、力強い骨格に分厚い肉付けが成されていて、けれどこれらは受け止めるにはあまりに重く、もし私がここに再演するとなれば、よほどの実感を必要とするでしょう。私は、自分自身がこうした歴史を受け止め、物語れるだけの実感を持っていないことを知っています。

こんなことを考えるようになったのは、井野辺先生の講座を受けたのがきっかけであったのは間違いなく、私は先生の講座で、日本の古典芸能 — 文楽について習っていました。文楽は、人形浄瑠璃といったほうがぴんとくるでしょうか、近松門左衛門や竹本義太夫により完成された人形芝居です。人形芝居といっても、高度な表現や劇的要素に支えられた、日本有数のファインアートであります。

私は先生の授業で、テキスト(台本)を手に浄瑠璃を聴き、その豊かさに圧倒されたのでした。大夫による表現の違いはあれど、感情のあふれ出る様子は切々と胸に迫るものがあり、本当に力強い語りの前に打ちひしがれる思いでした。テキストがすごい、表現がすごい。それらを支えるのはいったいなにであるのか。それは実感にほかならないのではないか。私は目が開いたかのように感じ、フォークロアや古典に潜ろうと決意したのは実にあの時のことでした。

実感があるとは、そこに身体があるということにほかならないと思います。私は、私の身体の語りかけに耳を澄ましながら、その身体が受け止めるもの、その身体が共鳴している対象に近づきたい。

より大きなものを得ようとすれば、それだけ大きな身体、豊かな身体が必要なのだと思います。だから、私は私の身体を育てなければならないと、そう思って数年、まだ足りません。まだ足りないのです。

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