2006年4月30日日曜日

ライカとモノクロの日々

 えい出版(えいは木偏に世と書くんだけどコンピュータじゃ使えないみたい)から文庫が続々出版されていた時期があって、だんだん充実していくえい文庫の棚にたまたま見つけて、そのタイトルの面白さから買ってしまったのがこの本です。内容はまさにタイトルどおりで、ライカで撮ったモノクロ写真についてのこと。けれど写真本を期待しちゃいけないと思う。内田ユキオという写真家のエッセイが中心で、そこに写真がアクセントとして加わる感じといったらいいでしょうか。けどただのエッセイ本というには写真はしっかり充実してるから、写真を見たい人にもいいかも知れません。

でも、正直なところをいうと、どっちつかずの中途半端な本という印象も否めません。けど、私はこの曖昧さは結構嫌いじゃないのですよ。

さて、ここでことわっておかないといけないのですが、私は内田ユキオという人を全然知りません。この本を知る以前にも、この本を知った以降にも、この人について知る機会はついぞ与えられず、つまり私にとって内田ユキオとはこの本でしかない。しかもさらにいえば、私はこの本のタイトルこそは覚えているけれど、著者の名前はちっとも覚えていなくって、だから私にとってこの本はこの本そのものでしかない。

こういうスタンスは私の写真に対するスタンスそのものといっていいのかと思います。そりゃ私だって何人か写真家の名前くらい列挙はできるのですが、けれどそれでも私にはそれらはあんまり重要じゃないんですね。写真を見る。美しいな、すごいな、迫力だな、神秘だな、と思うことはありますが、けれど私にとっての写真は見るものではないのです。撮る。それでしかなくて、撮るという行為によって私がそこにいたということを確定したい。いや違うか。私のいた風景を確定したいという方がそれらしいかも。そりゃ出来がよければそれに越したことはないけれども、私における写真とはまず撮るであり、それ以上でもそれ以下でもないんですね。

いま、『ライカとモノクロの日々』を思い出したのは、GR DIGITALを欲しいと思ったことが関わっていて、でも私がGRを買ったとしたらなにを撮るの、という疑問も涌いてきて、だから写真を撮るってどういうことだろうと、思わずこの本を出してきたとそういうわけです。でも、答えがこの本にあるわけじゃなくて、とにかくこの本に収録された写真を見たかったんです。それで、写真というのが決して大振りに構えて撮らなければならないものでないと確認したかったのだ、と思います。

この本には、素敵な写真がいっぱいあって、その写真の半分くらいかそれ以上を日常ぽさの残されたスナップが占めていて、こういうのを見ると写真を撮るには大げさなロケーションとかいらないというのがわかって、だとしたら私がGRを手に歩いたその時々の印象を撮ればそれで充分なのかも知れないという気にもなれるというわけで、ならGRを持つことは悪くないと思えてくるというわけで、じゃあ買おうという気にもなれるかも知れない。

現実にはなかなかそういう風にもいかないんですけどね。

この本の写真を見て、ああこの感じがいいなと思う写真のほとんどがズミクロンの50mmで、やっぱり私は標準レンズが好きなのかもと思えば、GR DIGITALの28mmは不安になります。いや本当どうしたものか、50mmには被写体の側にたっているような感じがあるんですね。そして多分私はその感覚が好きなんですね。いや本当どうしたものでしょうか。

2006年4月29日土曜日

RICOH GR DIGITAL

 私はずっとデジタルカメラが欲しいと思っていて、その割に全然買う気配を見せないのはなぜかというと、好みのカメラがどうにもみつからないんですね。私の好みというのはどんなかといいますと、シンプルであろうかと思います。デジタルガジェットとしての面白さなんてなくていいんです。とにかく、操作が簡単でちゃんととれればいい。そして、これが重要なのですが単焦点。ズームは面倒くさい。カメラは単焦点でいいのです。

ところが、今はズーム全盛期でありますから、これだというカメラもなかなかなくって、そこにリコーがGRのデジタル版を出すっていう話を以前聞いて、ちょっと興味を持ったのですが忘れていました。と、ここにtara-exさんがGR DIGITALを購入されたという話をきいて、ああこりゃちょっといいかも知らんなあなんて思って、つまりは欲しくなったのでした。

リコーのGRといえば、私にはGR1が印象深いのですが、この当時(というか今も)、私はミノルタファンであったので、GR1よりもむしろTC-1の方に興味があって、ああ無理してでもTC-1買っときゃよかったかなあ。

でもTC-1は高くて、ちょっと手が出ない。そうした人がかわりに、というわけでもないのですが、高性能コンパクトを求める人の中ではTC-1とGR1というのがちょっとした位置を築いていて、だから私もGR1を覚えていたというわけです。だから、これのデジタルが出るというのなら欲しいと思うのも当然でしょう。GRのデジタルが出て、TC-1のデジタルが出たら、もう私には天国のような状況であったのにと、ミノルタのカメラ事業撤退を聞いた今、悔やまれる思いでいっぱいです。

コンパクトにしてシンプル、そして単焦点が私の好みということはすでにいいましたが、ではGR DIGITALはどうであるかというと実はちょっと微妙。なんでかというと、35mm判換算で28mmという広角レンズの画角に引っ掛かりを感じるのでして、実をいうと私は広角は苦手です。私は標準レンズ(35mm版で50mm)が好きで、つまりはこういう画角。カメラの基本は50mmであるぞといわれまして、なににつけても基本の好きな私ですから標準レンズでがんばって、ついにはその画角に慣れてしまった。けれどコンパクトカメラで50mmというのも聞いたことがないので、せめて35mmかなあと思っていたのですが、今や超広角時代であって、28mmというのが普通なのですね! ああ、私に28mmなんて使えるのかなあ。

私が広角を好かんというのは、広角には広角特有の収差があるからで、それを広がりといってもいいのかも知れませんが、でも私は標準レンズの素直さが好きで、だから広角には苦手意識が強い。そんなこというんだったらズームでいいじゃん、ズームを50mmに固定すればいいだけの話じゃんみたいな意見もあるかも知れませんが、単焦点広角のゆがみがいやだという人間がズームレンズの不自然なゆがみに耐えられるわけがあるわけないのであって、そう、ズームレンズのあのくらくらとしたゆがみが私は嫌い! まあ一旦撮ってしまえば気にはならないんですけどね、けどいっぺんでも気がついてしまえば気になってしまうものなんですよ。

けれどGR DIGITALには迷います。もしかしたら、やっぱりこれが私の理想のデジタルカメラなのかも知れないと思います。コンパクトでシンプル。飾り気のなさが好みにあっていて、それに液晶にグリッドを表示できるなど気の利いた機能もあって、やっぱりこれかなあなんて思う。作例を見ても、例えば作例4みたいなのは実に私好みの絵で、これはちょっと欲しくなるなあ。

迷うなあ、迷います。きっと猫の写真を撮る人がトラックバックでこのカメラの評判やらなんやを教えてくれるんじゃないかと思うから、そのへんを参考にして決めてみようかなあ。どうしようかなあ、迷います。

2006年4月28日金曜日

クジラは昔陸を歩いていた

 私がこの本に出会ったのは高校に通っていたころ、図書室においてでありました。もともとから自然科学に興味のある私には、このストレートなタイトル『クジラは昔陸を歩いていた』の訴える力はかなりのもので、とりあえず内容もよくわからないのに借りてみて、そしてはまってしまいました。丸ごと一冊がクジラでもって貫かれていましてね、またそれがちょっと想像を超えるような話ばかりですから、いや本当にすごいなあと感心するばかりなんです。クジラの潜水能力、そして餌を得るための攻防。それら描写は、どことなくのんびりとおおらかに見えるクジラのまた別の側面を描き出して、お気に入りの一冊になりました。

この本には隅々にまで楽しさ、面白さがつまっていて、目次の次にイラストで紹介されるクジラの種類というのからがもう楽しい。知っているクジラもあればまったく知らないのもあって、しかしクジラ・イルカの種類というのも多いのですね。私の知っていたことはというと、まずクジラ、イルカの区分があって、クジラにはハクジラ、ヒゲクジラの区分があって、とそれくらいであるのですが、ところがもっと多様な種の広がりがあることがイラストだけでわかります。見た目が違う、姿が違う。

このイラストの書かれた数ページは、子供時分に図鑑を眺めるのが好きだったというような人にはかなり訴えるものがあると思います。私もそうした子供のひとりでしたが、眺めていて飽きるところがありません。

しかしやっぱりこの本の中心はクジラに関する記述にあるのであって、読んでみれば本当にクジラの世界は広いと実感できます。超音波で会話をするというようなことなら一般にも広く知られていますが、この本に書かれているのはそんなレベルではないのです。泡で餌となるオキアミ、プランクトンを囲い込んでみたり、脳油器官を駆使して深海にまで潜ってみたり、そうしたクジラの高性能(?)さが書かれていて、しかもその時点で未だ仮説であるような情報まで書いてあって、例えばですよ、脳油器官をレンズのように使うことで超音波を集束させてイカを狙撃するであるとか、読んでいるだけでわくわくするんですね。

この本には、こうした自然科学的興味がたくさん盛り込まれていますが、もちろん政治的なこともあって、例えばクジラ保護に関することとか、なぜクジラが減ることになったのかということから説明されていて、それを読むかぎり、クジラ保護なんてイデオロギーは結局政治戦略なのかも知れないと悲しくなりますな。ともあれ、クジラという未だに神秘に隠された巨大な生物が人間の思惑で振り回されているという現実はあんまりに悲しいことであるなと、一冊を読み通してみるとそんなふうに思えるまでにクジラに対する愛着というのが増す、そんな本です。

2006年4月27日木曜日

よつばと!

  なんだか買い物ノートのような様相を呈してきたこのBlogですが、そう、今日の買い物は『よつばと!』でありました。『よつばと!』、もう説明する必要はないかも知れませんが、翻訳家の父ちゃんと元気いっぱいの女の子よつばが暮らす町でのできごと。お隣さん、三姉妹、友人たち。ほのぼのとして、勢いもあって、明るくて、普通じゃないんだけどでもやっぱりどこか普通で、普遍? 私はこの漫画が大好きです。誰にでもお勧めできるいい漫画であると思っています。

と、ここでちょっと私は反省です。今日、若い人が昭和の高度経済成長のころとか、そういう時分のことをさして、まだ生まれていなかったこの時代のことはもちろん知らないけれども、それでも好きだとおっしゃった。それに対して私は、きっと言葉では伝えられないと冷たい物言いをしてしまって、ああ私はどうしていつもこう人情味のないことをいうのかな、反省しているのです。

でも、私の育って、見て聴いて感じてきた時代を伝えることは無理でも、そうした時代に対して抱くノスタルジーのようなものはきっと同じだと思ったのです。ノスタルジーというのは、自分がかつて包まれていた時代を思い出して懐かしむ思いであり、そしてそれは今の時代を舞台に描いた『よつばと!』からもどことなく感じられて、昭和の七十八十年代に少年時代を過ごした私がそうなら、今の時代を自分の時代として育った若い人にとっても同じかも知れない。そして、もしかしたら、私よりもずっと年上の人にとっても同じなのかも知れません。

なにがノスタルジーなんだろう。それは多分、私が変わってしまったと思っている時代のなかに、きっと変わらず保たれ続けているなにかであると思うのです。子供の頃、世界はむやみに広くて、時間はむやみにだらだらと流れて、けれど毎日はエキサイティングで、冒険と発見、遠征先で知りあう新しい友達、まみれた土や水の匂い、寝そべった地面の熱さ、太陽、ねだって買ってもらったアイスキャンデーを友達と一緒に食べた夏。私が子供時分を懐かしく思いだすとき、それはなぜか夏なのです。夏休みか。友人のうちの決して広いとはいえない庭いっぱいにテントを張って寝たこともあった、親戚と一緒にいった海、帰り際に砂浜で大きな山を作った。アメフラシ、シュモクザメ、海辺の珍しい生き物、乗りつけない国鉄にも興奮して、私のかつて感じた時間、そして今この文章を読む私の知らないあなたも感じた時間、そうした時間はおそらく今の時代に育つ子供も共有しているのではないかと思えて、ひとつひとつの体験は違っていても、毎日が新しい体験の連続であった子供時分の楽しさはきっと同じなんだと思ったりした。

そう、『よつばと!』を読めば、きっとそう思うんです。なんか、昔なじみと子供時分を懐古するような思いに近い、不思議な読後感の残る漫画で、そしてまだ見ない未来も見られそうな、そんな不思議な時間の流れる漫画です。

  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 以下続刊
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.

2006年4月26日水曜日

木綿のハンカチーフ / わかれうた

  デアゴスティーニの隔週誌『青春のうた第7号に中島みゆきの『わかれうた』が収録されていて、これだこれだよ、私の求めている歌はこういうものなんだ、と思ったか思わなかったか。ともあれこの本のいいところは歌詞にコードのふってあるところで、なので私は鋭意『わかれうた』練習中。でも、『わかれうた』ばかりもなんだから一緒に収録の『木綿のハンカチーフ』歌ってみたらば、これがまあ、なんて都合のいい歌詞かしらとあきれてしまったのでした。国許に残した女性の心をまるっきり斟酌しない勝手な男の言い分に、あれやこれやと毒にも薬にもならんこというだけで、振られた最後にいたっては涙を拭くためのハンカチをくださいってなんだその物分かりのよさは! だなんて憤慨して、結局この歌というのは男の視点において語られる恋愛模様なのかもなあ、と思ったのでした。

でもって『わかれうた』に戻ってみて、ふと思いついたんです。『木綿のハンカチーフ』において物分かりのいい女を演じているその娘の別の側面が『わかれうた』であったらどうだろう。捨てられることに納得いかない女の醜態、都合のいい女を演じてみたり、あるいは泣きすがってみたり、恋愛の終わろうというときがきれいごとばかりですむわけなんてないんです。今まで自分が優位に立っていると思っていたならなおさら。自分がこの人を振り回していると思っていたときからひとたび状況が違ってしまえば、これまで見せたこともないようなそぶり口調で、去ろうという人の心をつなぎ止めようと必死になるのが恋愛なのです。ましてやつなぎ止めることもかなわず、一方的に去られようというときに、涙を拭くハンカチ一枚贈ってくださいというのなら、その一見物分かりのよすぎる態度の裏にいかほどの情念渦巻かせておることでしょうか。

とこんな風に思いながら『木綿のハンカチーフ』、『わかれうた』を一続きに歌ってみると、まったくといっていいほど違う歌に聴こえてくるから歌というのは面白いのです。

だから私は、ちょっとこの二曲をセットで練習してみようと思います。『木綿のハンカチーフ』を歌うときには『わかれうた』じみた情念を明るさけなげの裏に隠して、『わかれうた』歌うときには、かつてあったろう美しい季節、関係をほのめかしてみて。

けれど本当のところをいうと、『わかれうた』歌うときには、あの時はすまないことをしてしまったなどと昔を思い出し思い出し、つまり私はこの歌に責められる立場の人間です。

2006年4月25日火曜日

弦楽四重奏 恋の千年王国

その時々にはやりというのはありまして、あんまりにもその廃れるまでがはやいから自然記憶からも簡単に抜け落ちて、例えばそれはアダージョ1/fゆらぎオルゴール、そして弦楽四重奏。とにかくなにかが流行れば業界というのは売ろう売ろうと躍起になって、まあこういうときにまず出るのはビートルズと相場が決まっていて、弦楽四重奏では松任谷由実なんかも出ました。流行りに背を向けるのが常の私ですからもちろんこうしたものにはまったく関わりを持ってこなかったのですが、ところが一枚だけ持っているものがあります。それはゲーム『ネクストキング』のBGM集。サントラではないのです。ゲームのBGMを弦楽四重奏にアレンジしたアルバムが出るほどに弦楽四重奏は流行ったといったら、その人気、浸透のほどがうかがい知れるんじゃないかと思います。

私は今になって思うのですが、弦楽四重奏のブームというのは結構良心的であったと思うんです。だってね、オルゴールの時なんかはひどかったもの。まっとうなところではちゃんとしたオルゴールを使ったりもしたみたいですが、シンセでやっつけたみたいのもたくさんあったと聞きますし、とにかく音色と雰囲気さえオルゴールなら文句はないだろう、みたいな本当に乱暴なものも散見されて、1/fゆらぎやリラクゼーション、環境ミュージック、癒しの音楽なんて時にもそういった傾向を感じたんですが、本当に、なんかそれっぽいの作って売り抜けちゃえばいいだろうって思ってるんだろうといいたくなるようなものも少なくなかったんです。けれど弦楽四重奏は、少なくともオリジナルの曲を四声部にアレンジして、ちゃんと演奏者を使って録音して、そりゃもちろん急造のカルテットもたくさんあったことでしょうが、それでもシンセやサンプリングでやっつけました、みたいなのに比べたらずいぶんましじゃないかと思ったりして、そして実際そのアレンジもよかったといって、ちょっとした編曲の手本みたいな扱いをされたりもしましたっけね。

『弦楽四重奏 恋の千年王国』にもそうした影があるのです。ゲーム音楽の、時に壮大で、時にユーモラスなBGMを弦楽四重奏に再編して、そしてそれが実によくできているんです。どの曲ももとの雰囲気を壊さず、けれど上品に、けれど勇壮に、そしてそれらはとても弦楽四重奏らしいのです。演奏もなかなかに熱演でして、聞いていると、ゲーム関係なしにいいと思える。仮にゲームを知らなかったとしても、充分にインストゥルメンタルアルバムとして通用する質を確保しています。

このアルバム、1998年にリリースされたのですが、おそろしいことにアマゾンではまだ買えるみたいな表示がされていて、もしそれが本当だったら買いかも知れません。アマゾンは在庫を抱えているのかも知れない。ともあれ、今、ゲーム『ネクストキング』の関連品で普通に買えるのは、もうこの弦楽四重奏アルバムだけではないかと思われます。

ゲームを知っている人ならなおさら、そうでない人にもお勧めできるアルバムで、私は正直サントラよりもこちらの方が好きだったりするのです。

以下参考

プレステ

セガ・サターン

2006年4月24日月曜日

ナツノクモ

  私がその発売を楽しみにしている漫画雑誌『IKKI』の六月号が発売されていまして、嬉しいなあと買ってきたらば『月館の殺人』が最終回。ああ、じゃあ今日はこれで書こうかと思って、けれど単行本で読む人にネタバレにならないようにしなくっちゃと思っていたらば、巻末に収録される『ナツノクモ』が急展開を見せて、ああ、私は今月のこの回を読んで、今まで聞きたかった言葉をはじめて耳にした思いがしました。いや、聞きたかった言葉なんかじゃありません。そうですね。あの言葉は、私が口にしたい言葉なんです。そうなんです。私が誰かに告げたいと思ってやまない言葉がそこにあったのです。

だから、私はその言葉の告げられる最終コマにいたった時にはもうなんだか泣けてきて、けれどべそべそ泣くばかりじゃなくて、なんか心の底から言葉にできないような思いが沸いていて、窓をばーんっと開け放ってわーって叫びたいような気持ちであったのですが、そういうことをして警察に通報されても困るからここにこうして書くことにしたのです。

『ナツノクモ』は厄介な問題を扱って、決して後れを取らないまっすぐさが気持ちよくて、心にどしんどしんと伝わるような重さ、実感がともなっていて、私は本当にこの漫画を今、一番に推したい気持ちであるのですが、それは多分に、私の自分に対する評価がこの漫画の主人公コイル(トルク)のそれに似ているからであると思っています。いや、実際私の自分に対する評価の低さったらなくって、もう本当にゴミのようだって思っていて、なんの役に立つわけでもない穀潰しで、そのくせ自意識ばかりは強くて、いつも誰かに相手にして欲しいと思っているのに、誰かが相手してくれたらその手をはらうようなあまのじゃくで、人恋しさに揺れるのに、人の輪の中にはいればなぜか孤独にさいなまれて、自分から、まるで後脚で砂をかけるようにして出ていこうとする……、そういう最低な人間なのです。

だから私は、この漫画のヒロインのひとりであるガウルにも感情移入をしているのかも知れません。自分自身なにをというような思いもあるのですが、あの、動物園に暮らす人たちの思いは私にとって他人事でなく、存在しない人をあたかも存在する友人であるかのように思い、きっと仕合せな明日のくることを祈って、そしてそれは私自身が求めていることの反映なのだろうと思っています。そう、私は誰かに自分の身を預けたいと思っていて、けれど自分などを受け入れる人などいないとも思い込んでいて、そして誰かを受け入れたいと願っていて、そうした屈折した欲望やら願望やら切なさやら悲しさやらが、この漫画にはそっくり描かれているような気がするから目が離せない。そうなんです。寂しいのです。そしてその寂しさをネットワーク上に仮想的にできあがった世界に紛らわせたいと思う人たちがいて、そしてほかでもない私自身がそのひとりであるということをはっきりと自覚しています。

『ナツノクモ』の物語は、いま本格的に動き出したと感じて、だからクライマックスは直きでしょう。あと一山、二山くらいはあるでしょうが、あるいはもっと思いがけない動きもあるかも知れませんが、けれどいつかくる物語の終わりを予感して、私はなんだか震えそうです。悲しかったり寂しかったりしながら、けれどいつかくる物語の閉じられる日を感じては震えを覚えるのです。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊
  • 佐々木倫子,綾辻行人『月館の殺人』上巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2006年4月23日日曜日

耳をすませば

  図書館で借りた本、本の表紙をめくったところにはポケットがつけられていて、そこに図書カードが差し込まれていたというのはいったいいつの頃のことでありましょう。図書カードには、これまでこの本を借りた人の名前が書かれてあって、もちろん一番最後には今この本を手にしている私の名前があるはずで、そしてその上にはいつも同じ名前があったとしたら……。

『耳をすませば』はそうしたロマンティックなシチュエーションのもと出会った男女の物語で、まさしくボーイ・ミーツ・ガール。いや主人公が女性であることを思えば、ガール・ミーツ・ボーイというべきか。私の読もうとする本を先に借りている誰かがいる。誰かわからない、わからないからこそ知りたい。私の読みたい本を同じように読みたいと思ったまだ知らぬあなたはどんな人なのでしょう。実にロマンティックな導入であろうかと思います。

で、ロマンティックなのはよいのですが、残念ながらこうした出会いはもう不可能なのですね。というのは、図書館というのは利用者のプライバシーを守らなければならないわけでありまして、つまりこの本を誰が借りたかということを第三者に知らせるわけにはいかないのです。そのため、貸出の履歴を簡単にたどることのできるこの方式、ニューアーク式は衰退し、ついに消え去ったのです。ですが、私が子供だったころにはまだこの方式は細々ながらも存えていて、だから図書館における利用者のプライバシー保護がなされるようになったのは、ここ二十年ほどのことであることがわかります。と、そんなわけで、『耳をすませば』のようなロマンティックな出会いはもはや起こりえないというわけです。

このへんの事情は、ストーカー事案が重大な社会問題化したことで、一目ぼれを成就させることが極めて困難になったというのに似ているでしょうか。

私が最近やっているゲーム、『ときめきメモリアルONLINE』にはドラマ(ロールプレイ)というのがあって、決められた役割を演じて遊べるのですが、今日やってみたものがまさにこの『耳をすませば』シチュエーションでありまして、時代は二十一世紀だというのに、図書館がニューアーク式をすでに廃してしまっているということも、その前提となる利用者の秘密保持についても、かくも知られていない。つまりこうした現実の図書館に乖離した描かれ方がされる背景には、図書館への興味の薄さがあるわけで、あまりの描かれ方の旧態依然とした様に愕然としてみたり、まあ、ゲームごときで嘆きなさんなよといった話なのですが、でもまあ一応かつて図書館員であった身としては思うところがあるという話なのです。

でも、それでも、この見知らぬ相手に興味を持って、というのはなかなかにドキドキとさせるシチュエーションであるのは確かで、TMOのドラマにおいてはべたな設定で進行するのが常だから、もうニューアーク式が出た時点で最後に見つかるのはあいつだっ、みたいに分かり切ってしまうのですが、けれどもしこれが現実のシチュエーションであったら。本当に誰かわからない名前をいつも私の借りる本に見つけてしまう。本というのは、まさしく人の興味のそのものであるといい得るものであって、だとすれば私と興味を同じくするまだ見ぬあなたはどんな人であるのでしょうか。

私はプライバシーが守られなければならないことは百も承知しながらも、昨今なお強弁される個人情報保護の意義を理解しながら、でもあまりにこうした情報が隠蔽されすぎる状況というのもまた空しいのかも知れないと思ったりします。けれど穏やかであった時代は過ぎ去ってしまって、住所や電話番号は当然として、名前さえ覆い隠して見せようとしない時代がやってきたと感じて、今自分の暮らす時代の世知辛さを思います。なにも昔がよかったといいたいわけではありません。仮に昔に戻ったとしても、『耳をすませば』のような状況は私には訪れない。けれど、それでもあまりに人の顔が見えないような時代に、私はあたかも空白に向かって声を投げかけるような一抹の寂しさを感じているといえばいいすぎでしょうか。

私が、たとえすぐ側に人の気配を感じたとしても、いやむしろ人の存在を感じるからこそ、よりいっそう空しさ、寂しさをつのらせるのは、いったいどういうことなのか。自分自身でわからず、まるで私は暗闇に包まれたようで悲しいのです。

参考(映画版DVD)

2006年4月22日土曜日

フランス・ロマネスク

 私はヨーロッパの中世という時代が好きで、とりわけ好きなのはゴシック、と思っていたのですが、どうやらそういうわけでもないみたい。昔、図書館に勤めていたときに、中世っぽさを持った建築について知りたいという欲求にとりつかれたことがありまして、それは例えば城であるとかについてとかが知りたかったのですが、残念ながら城についての資料を見つけることができず、かわりにたどり着いたというのがロマネスクという様式、そして修道院であったのです。ロマネスクというのはゴシック以前のヨーロッパに生まれた様式で、天を目指して上へ上へとのびんが如しのゴシックとは異なり、簡素でやわらかな印象を与えるロマネスクは地にありて粛然としています。

この本の著者である饗庭孝男は、私の記憶ではフランス文学者なのですが、こうした本も書かれるのですね。『フランス・ロマネスク』はそのタイトルの示すとおりフランスにおけるロマネスク建築を扱っているのですが、著者が文学系の人間だけあって、その視点は独特です。なにしろ、建築を扱いながら、その向こうにロマネスク様式を育んだ時代の精神を見ようというのです。そしてこの試みは成功していると思います。なにぶん一般向けの本ですから、概略程度に抑えられているところも多いのですが、それでも、あの時代にどういう社会状況があって、それがどのように様式に反映されたかというのを知るのは面白く、修道院建築が好きで、中世という時代も好きという人にはきっとうってつけの本でしょう。

この本の前半は中世ヨーロッパ社会を俯瞰した概略的な章で、ここで時代の背景を知って、後半は実際の建築、修道院が紹介されるカタログといった様相を見せています。おおまかなところから入り、個別の事象にいたる。修道院の紹介にしても、歴史があり、建築についての説明があり、そして実際にその場に立った者としての感想があって、なかなかに多層的重層的で面白いのですよ。私がこの本を手にした理由は、建築解説に興味を持ったからなのですが、今となってみれば中世という時代にこそ興味が涌いて、面白いです。多様な興味を吸収できる、本当によい本であると思います。

この本を読んで、それから『薔薇の名前』を読むときっと面白い。映画でもいい。そしてそれらを体験したあとで戻ってきたら、この本の面白さもきっとよりいっそう膨らむはず。写真もたくさんあるので、ページをめくっているだけで中世の残るヨーロッパの土地に心が引き寄せられるようです。

2006年4月21日金曜日

Beethoven : Piano Sonata No. 21 In C, Op. 53 "Waldstein" played by Artur Schnabel

 iPodで音楽を聴いていると、新たな発見が次々とあるのです。今日、朝、通勤の電車を降りて歩いているときに、彼方に響くようなピアノの連打音が印象的に聞こえてきて、ああ、これは『ヴァルトシュタイン』だ。けれど私はこれをずっと『ハンマークラヴィーア』と思い込んでいて、あの低音の連打音。これは、確か、新しいピアノを手に入れたベートーヴェンがその音域の広がりを確かめるように、新しい表現の可能性を試すようにして書いたものだったはず。そう、この新しいピアノ、つまりハンマークラヴィーアを手にしたベートーヴェンの喜びがあふれるような曲であるから、私はこの曲を『ハンマークラヴィーア』と誤解して覚えてしまった。けれど何度もいいますがソナタ21番は『ヴァルトシュタイン』。ベートーヴェンの中期ピアノソナタにおける傑作であります。

この曲を弾くのはアルトゥール・シュナーベル。これまた私の記憶が確かであれば、我が敬愛するピアニストであるグレン・グールドが、少年時代に憧れていたというピアニスト、それがシュナーベルだったはずです。なので、当時行きつけのCD店にシュナーベルのCDを発見して、私は珍しくピアノものを買ったのでした。けれど、私はさほど貪欲にはこれを聴かず、というのも一度に買うCDが多すぎたのが原因です。シュナーベルは長い間棚にしまわれたままになっていて、iPod時代が訪れてようやく日の目を見ました。それが、かの彼方から響く低音の連打音。一聴して古い録音とわかる。SPからの復刻なのでしょうか。けれど、思いもかけず躍動するベートーヴェンに私はシュナーベルの活躍した時代というものを感じて、ああ、ロマンの時代です。演奏家が演奏家の個性により再創造を積極的に行った時代があったことを改めて思ったのでした。

多分、これが今のピアニストであらば、こんな風には演奏しないでしょう。揺れ動くテンポ、大きくたわんで膨らむフレーズは堂々として豊かで、そこには均整の美よりも表現の躍動がより色濃くあらわれて、やはりこれはロマンティックなのです。今ならこうは弾かないというのは、きっと古典派ベートーヴェンなら古典派らしい表現で、主題の関連を緻密に、分析的に追っていって、各部各部のバランスも確かめながら演奏されるに違いないと思うのです。ところが、かつてはそうしたバランスをよりも、演奏者の個性が重視された時代があって、それはやはりロマンなのです。たっぷりと肉感豊かに、まさに演奏者の、朗々と響かせる声、大げさにしかしダイナミックな手振り身振りが見えるかのような演奏に、私はたまにはこういうのも面白いと思います。もしこれが現在の演奏家によるものならどう思ったかわからないけれど、しかしシュナーベルも悪くないと思って、こういう演奏もありなのだという気になったのでした。

2006年4月20日木曜日

少女セクト

  去年だかおととしだかくらいから、百合などといって女性同性愛をモチーフにした漫画やライトノベルが流行っているようですが、私はこうした傾向は大歓迎。なんと、これらの流行がおこる以前から私の中にはこういったものへの傾倒があったんですね。これからちょっとややこしいことをいいますがどうか黙って聞いてつかあさい。

実のところをいうと、私は女として生まれたかった。それはさかのぼれば高校生くらいにまでなるんじゃないか、ともかくずっと以前からそんなことを思っていたのでした。いや、別に性同一性障害だとかそういうたいそうなのではなくてですね、単純に男ではありたくなかったというような話だと思うのです。男という性をもった自分への嫌悪や違和感があって、それで女に生まれたかった。けれど私はそれでも今は女ではないから、男を愛することはできない。そうした鬱屈から、女性同性愛的世界への思慕を深めた……、のだと思っています。

こうした偏屈な傾向を持つ私ですから、実は男性向けのエロは楽しくなくって、なんというのでしょう。男が女を、というベクトルがどうにも好きではなくて、ビデオにしても漫画にしても、小説にしても、これだっ! というようなものは実に、実に見つけられないんですね。それでもいろいろと自分の傾向を探ってみた結果、私にとっては女性の描くエロの方がよいようで、それもできれば直接描写の少ない、寸止め系の方がよりよい模様であるぞとわかってきた。そんなわけですから、『少女セクト』はしくじったと思いましたね。いや、表紙にひかれて目をつけていて、どうも評判であるようだからと購入に踏み切ったのですが、そうしたらやっぱり『メガストア』に連載されていただけあって、実に男性的な視点にもとづく漫画でありました。この同日に、同じく評判であるときいて買った『くちびるためいきさくらいろ』の方がよかった。あの、なんか、いたたまらなさというか、最後の最後で手をこまねいているような『さくらいろ』の方が好ましかった、と思ったものでした。

でも、読んでいるうちに評価が変わってきたのですね。読んでいるうちにこの人のエロの描写に慣れたとでもいうのか、エロをさほどエロと感じないようになって、そうしたら実によく仕掛けがされていて、その工夫のよく行き届いていることに気付いたのです。その工夫とは、基本的に男性向けである漫画を女性だけで展開して男性に飽きさせないという工夫であり、そしてもうひとつは、心の行き違いといったものがうまく表現されているというところ。ほら、前者は第四話に際立っていて、後者は第五話が白眉です。第四話においては、嗜虐性のある側を自分と見るかあるいは逆か、読者が選んで感情移入する余地があり、そして屈服させられる側が最後までそのままではないという下克上シチュエーションが実にうまいなと。そして五話。自分の好きな相手が違う相手を見ているということを知りながらもその思いをとめることができず、そして思いを遂げたかと思われたときに呼ばれた名前は自分のものではないという状況の見せ方。古典的かも知れません。ですが、最後、結末にいたるまでの展開は丁寧で、べたながらもうまさがそれと感じさせず、私は結局はこういうすれ違う思いというものが好きなのだなとしみじみ思ったのでした。

この漫画は、結局はその思いのすれ違いを二冊にわたってやって見せたんでしょう。第1巻ではさまざまな人間関係の中で、第2巻では常に主要な位置にあった二人をメインに据えて。通して読んでみて、今私は第1巻の方がよかったなと感じています。ですが、これから2巻を読み進み、分け入るにつれて、その評価は変わるかも知れません。でも、私には、内藤と藩田の関係については、第2巻においてのものよりも、第1巻の方が好みであったと思います。表立っては描かれず、端々に匂わされるような、そうしたほうが好みであったと、今の時点ではいっておきます。

  • 玄鉄絢『少女セクト』(メガストアコミックス) 東京:コアマガジン,2005年。
  • 玄鉄絢『少女セクト』第2巻 (メガストアコミックス) 東京:コアマガジン,2005年。

2006年4月19日水曜日

中庭

世間では『サラダ記念日』をきっかけに短歌ブームが巻き起こりたり、って、ああ五七調になっちゃったよ。実は私は短歌を詠んでいた頃があって、それもわりと熱心に取り組んでいたのですが、例えば短歌の専門誌『短歌現代』を購読してたりしましてね、ポケットにはいつ詩情にとりつかれても大丈夫なようにメモとペンが入っていました。今はもうその頃のようには乱造しなくなったのですが、それでもまれに詩情にとりつかれることはあるんですよね。それが今日。なんか思いがかたちをもとめて騒がしいものだから、どうにも詠まんではおられなかったのです。

と、いきなり『サラダ記念日』を引き合いに出しておいてなんですが、私における短歌のきざしは俵万智ではありませんで、じゃあ誰かといいますと栗木京子でありました。いったいなにで目にしたものか、栗木京子の一首を目にとどめて、それが歌集『中庭』からの一首と知った私は、その一冊を求めて書店へと急いだのです。

だから私がはじめて買った歌集というのは栗木京子の『中庭』で、ちょうど『水惑星』と一緒に編まれた本がでたところであったらしく、だから私の持っているのは『水惑星・中庭』です。この文章を書こうと思って、久しぶりに出してきました。この本は、書棚のおそらく最も古い状態が保持された棚の中に発見されて、淡いオレンジの装幀も往時のままに、なんだか懐かしいとは思いつつもまだ十年は経っていないのですか。震災があって、その二年後、私が歌詠みに精を出していたのはその頃だから、時期的にもぴたりとあいますね、ってなんの時期だか。

栗木京子の歌は、割合に神経質で、意識のたっているという印象が私にはあるのですが、そうした感覚が当時の私にはマッチしていたのだと思います。いろいろなことが歌に詠まれていて、私はそれまで短歌をきちんと読んだことなんて一度もなかったから、したたかショックを受けました。そうか、こんな世界があるのかと思って、だから釣り込まれるようにして歌を詠んで、今あの時の歌の数々はどこにあるんだろう。きっとぎこちなくて、けれど今よりもずっと若々しい言葉が踊っているはず。でも、多分あの頃は言葉にしようと思ってできない思いもあったはずで、そうしたことどもを私はどのように詠んでいたのか。臆面のなくなった今の私からは感じ取れないナイーブさが残っているんじゃないかと思うと、読み返すのはちょっと怖いですね。

今から当時を思い起こして一首:

恋に千々乱れし胸をおさめんと歌詠みてなほ思ひはすさび

しかし、今栗木京子の歌集を紹介しようと思って、それがことごとく絶版している、Amazonにおいては検索にさえ引っかからないというのはほとほと悲しいことでありまして、読めさえすればきっと響く心はあるだろうのに。

短歌は人気じゃないのかなあ。読めば面白く、自ら詠めばなお味わい深いものだというのに。

  • 栗木京子『水惑星・中庭 : 栗木京子歌集』(2 in 1シリーズ) 東京:雁書館,1998年。
  • 栗木京子『中庭 : 栗木京子歌集』東京:雁書館,1990年。

2006年4月18日火曜日

うちの大家族

  なんかここのところ重野なおきづいているといいますか、『Good Morning ティーチャー』がいいといっていたら今度は『うちの大家族』ですよ。そう、私はこれまで何度もいってきたように重野なおきの漫画が好きで、そしてたくさんの重野漫画のなかでどれが好きかといわれたら『うちの大家族』を外すことはできません。重野なおきの静と動、静が『ひまじん』なら動は『うちの大家族』。内野家せましと個性豊かな姉弟たちが生き生き暮らすその様がすごく楽しく感じられるのは、まさに彼らが千葉のどこかに生きて生活していると思えるほどに存在感をあふれさせているからなのでしょうか。

第三巻の主役は次男の大吾なんじゃないかと思います。大吾というのは、表紙にもでている坊主頭の少年で高校球児。野球に打ち込み、練習に労をいとうことのないストイックな一面も見せる好青年であった彼なのに、いつの間にか末の妹リンの見ているアニメ『魔女っ娘めもりん』にはまってしまって……。重野の漫画においては、男は総じて報われない傾向にあるのですが、それにしても大吾に関してはあんまりだ! とはいって見せていますが、だんだんと深みにはまっていく少年の姿を見る私の視線はきっと他の誰に向けられるものよりもあたたかであるのではないかと思っています。家族(特に長女愛子)から、そして読者からもその将来の向かう先を案じられている大吾ですが、けれどそんな彼が仕合せになってくれると嬉しいなと思っている読者はきっと多いだろうと思うのです。なにを隠そう私もそうした読者のひとりでありまして、ああ大吾が報われる日がきてくれたらなあ、そんなことを思わないではいられないのです。

けど、大吾みたいな人っているよね。隠れおたくといったらいいのか、アニメやら漫画やらにはまってるんだけど、それをどうしてもカムアウトできなくってさ、ひた隠しにして、なんの気もないそぶりをしてみせてって、こうした覚えのある人間はきっと『うちの大家族』の読者にも多いんじゃないだろうかと思って、そして私もそうしたひとりであって、だからそうした人からしたら大吾は他人事じゃない。ただ、歩んできた道が少し違うだけなんだ。うん、少しね。実際のところ、私と彼にはそんなに違うところはないと思う。

そんな報われない大吾でありますが、実際報われないのは本当で、第2巻でさ、私を号泣させた長男音也メインの回なんかでは、音也は格好良かったと思うんですよ。ところが、待望の第3巻、大吾メインの回において、やっぱり彼には花がないんだ。なんかぱっとしなくってさ、格好良さよりも人のよさばかりが表に出ちゃってさ、格好良かったのって結局次女のキリカじゃんかよ(私はキリカのファンだから、これはこれで嬉しい)。でも、こういうぱっとしないところが大吾の愛されるゆえんなのかも知れないなあとも思って、だからいつか大吾に一発奇跡の大逆転が訪れてくれたらよいなあなんて思うのです。本気です。

  • 重野なおき『うちの大家族』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。
  • 重野なおき『うちの大家族』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。
  • 重野なおき『うちの大家族』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 以下続刊

2006年4月17日月曜日

機動戦士ガンダム

 私は第二期くらいに属するガンダム世代でありまして、再放送の再放送くらいでその洗礼を受けたのです。はじめてみた回は、忘れもしません第36話「恐怖!機動ビグ・ザム」。このことについてはもうなんべん書いたので、今更いうことなんざなにもありゃしないのですが、とにかくガンダムというのは私たちの世代にとってはなかなかに特別なアニメでありました。再放送があれば見て、プラモデルも買って、私の最初のガンプラはリアルタイプ・ザクで(って、これも書いた)、途中ザブングルやらマクロスやらに寄り道するんだけど、けれどなんでかいつもガンダムに帰ってくる。ガンダムというのは、そんな感じの、一周するときっと戻ってくる場所みたいな、そんな特別な感じがするんです。

ガンダムはいったいなにがよかったんでしょうね。子供の頃は間違いなくロボットでした。局地戦に特化されたロボット兵器は、その特化された能力ゆえにわくわくさせて、ジオラマとかが流行っていた時期ですから、模型店の店頭にはかりかりにウェザリングとマーキングの入ったモビルスーツが、背景を背負って本当に格好良くって、私はほぼ素組み派、色を設定どおりに塗って満足という子供でしたが、いつかああいうのが作れるといいなあと思って、ショーウィンドウに張り付いていた。そしていつか作りたいシチュエーション、想像の戦場を脳裏に思い描いていたのですね。

こんな私だから、MSVにははまりましたよ。連邦ではジム・スナイパー・カスタム、ジオンならザク・フリッパーが好みでありました。あと、マインレイヤーとかもわくわくしましたよね。けど、今から考えたら、遠距離砲撃にモビルスーツを使う意味なんてないし、そもそもなんであんな大きな兵器でもって偵察できるだなんて思うんだ? 機雷の敷設だって船舶でやりゃあいいじゃんかって夢のないことをいってしまうのですが、それでも私たちはガンダムが好きなのです。夢のないことをいいあって笑い話にするのは愛ゆえのことなのです。

そして、大きくなっては、ガンダムにドラマ性を見るようになって、以前、KBS京都が年末にガンダムの映画版を一挙放送したことがあったのですが、うちじゅうで食い入るように見て、最後、アムロが落ちるア・バオア・クーから脱出する場面にうちじゅうで感動していた。もうすっかり大人になった姉弟も、もう老いにさしかかろうかという父母も、皆がガンダムの物語に飲み込まれてしまっていた。

ガンダムの物語は骨太で、そりゃあ粗っぽいところもあって、その粗っぽさは主にテレビシリーズ版にこそ顕著であったけれども、でも、それでも人を夢中にさせる力があって、あの年代のアニメは本当に侮れない。真面目にドラマをする。人間臭さを前面に押し立てて、人の死には愕然としておろおろと、ランバ・ラル、リュウ・ホセイ、マチルダ・アジャン、ミハル・ラトキエ、そしてララァ・スン。千々に乱れる心に、最後のアムロの台詞はどーんと効いて、ああやっぱりガンダムは名作だと私なんかは思うのです。

ガンダムのテレビシリーズがついにDVD-BOXになるそうで、きっと私は買えないですが、しかしこれを買うという人は少なからずいるでしょう。ええ、ガンダムは出せば売れるから。けれどそういうガンダムの位置づけを多少かなしむところも私にはあって、心はなんだか裏腹です。

連絡

ごめん、LD-BOX、借りっ放しにしてます。返そう返そうと思っているんですけど、どうも私はいい加減で、本当にごめん。また、連絡します。

2006年4月16日日曜日

さとうきび畑

 今日はなぜか歌を歌いたい気分だったのか、手持ちの楽譜を次々、それこそ棚卸しするみたいにしてひとつひとつ歌っていって、そうしたら『さとうきび畑』の楽譜があるのを発見、歌ってみてそしてこの歌のあまりに歌いづらいことに気付いたのでした。技術的に困難というんじゃないのです。楽譜の一番あたまに記された発想の表示は、淡々と、感情をおさえて。ええ、これは本当に必要なことであると思います。表現の上でもそうであれば、それ以前の歌う姿勢として私には大切な心構えで、というのも、だって、私は油断をするとうっとつまってしまって、感極まってしまうのですね。つとめて感情を抑えていないと、歌うどころではなくなってしまうんです。

『さとうきび畑』は今更説明するまでもないほどに有名な歌で、シンプルなメロディ、やさしい言葉で淡々と紡がれる歌詞。印象的なざわわざわわの繰り返しは目の前にあたかも青々と息づくさとうきび畑が広がるようで、そして夏の強く明るい太陽のもと、一連のエピソードが語られていく。その様は、まるで時間がとまったかと感じるほどに鮮烈な印象に彩られていて、絵画的状況のなか、私たちはその印象を自分の中に刻んでいくかのようです。

私がこの歌にこれほど強く心を揺さぶられる理由は、私自身わかりません。沖縄戦どころか、あの戦争についてさえなにも知っていない私が、この歌に感情をつのらせる。いったい私はこの歌のなにに共鳴しているというのでしょう。おそらく、この歌の中心に、核のようにしてある実感の強さに共鳴しているのであろうと思います。声高に叫ぶようなそぶりも見せず、ただ思いのまま、静かに言葉にすべてを移して、しかしその穏やかな凪のような言葉、メロディに、さとうきび畑を揺らす風が吹いているのです。その風が私のいる今のこの時にも届くようで、そして沖縄の強い光が照りつけてくるようで、ここで私は油断をしてはならない。

心を強く保っていないと、きっと歌うどころではなくなってしまうからです。

参考

2006年4月15日土曜日

Good Morning ティーチャー

    ご存じ重野なおきのお送りする熱血教師学園四コマ。私の購読しているまんがタイム系列誌にこの人を見つけて、ああいい漫画を書く人だなあと思って、単行本を買いはじめて、その判断は正解だったと思ったものでした。たまにあるんですけど、雑誌によって作風を使い分ける人というのはあって、だから未見の漫画を買うというのはちょっとした冒険なのです。まとめて既刊を買って、うわー、やっちゃったよー、なんてことももちろん一度や二度ではなく、だからもしこれから重野なおきに挑戦してみたいという方がいらっしゃったら、私が保証します。なにか重野漫画で好きなものがあれば、他のものもきっと同様に楽しめますよ、と保証します。

重野なおきという人は、『ひまじん』とか『ぼくの彼女はウェートレス』とか、少人数で展開するものを書かせても面白いのですが、でも大人数の入り乱れるような漫画でもその才覚を充分に発揮させて、例えば『うちの大家族』、そして『Good Morning ティーチャー』がそうした大人数ものに数えられるでしょう。基本的にはシチュエーション・コメディ。そこには笑いがあり、ナンセンスもあり、そして感動もあって、とにかく幅が広い。いい漫画を描く人だなあと、本当にそう思うのです。

シチュエーション・コメディとしての味わいが深いのは、登場するキャラクターが本当に個性豊かで、憎めない奴らばっかりで、そしてその彼らがそれぞれに背景を背負っているからで、表立ってそうした背景が描かれることは少ないのですが、その分、たまに背景に言及されたときの強さが光ります。『Good Morning ティーチャー』では上原が光りました。私は、こうしたひとつのストーリーを、こればっかりに着目することなしに追える作者のバランス感覚のよさに驚いて、そして彼の決断とその結末にうまさを感じました。よくあるストーリーといえばそうかも知れません。ですが、私たちの生活だって、現実だってそんなもんでしょう? その私たちの身の回りにだってよくあるエピソードを拾って、それを膨らませて、そしてしんみりとさせて、笑わせて、こうしたストーリーをひとつひとつクリアしていくごとに、登場するキャラクターへの愛情を深めていくのかも知れないと、私はそんな風に思います。

でも、基本的にはナンセンスを織り交ぜて描かれる四コマである『Good Morning ティーチャー』は、誰もが知っている学校というシチュエーションにおいて展開されるギャグ満載の漫画であって、ちょっとレトロな味を持ち込んでみたり、お約束設定を織り交ぜてみたり、だからたくさんの登場人物の誰がどういう人であるかを知らなくたって、最初から楽しめるよい四コマ漫画であります。けれど、出てくる人たちがどういう人であるかがわかれば楽しさがいや増すのは必然で、だからもし途中から読んで、ああ、この人の漫画、面白いなと思うことがあったら、過去に戻って流れをつかんでみるのも良いかと思います。きっとこれまで以上の楽しさと、よりいっそうの愛着を得られることかと思います。

ドラマCD

2006年4月14日金曜日

ことばのパズル もじぴったん大辞典 オリジナル・サウンドトラック

 私はナムコのゲーム『もじぴったん』が大好きです。シンプルにして高度なゲーム性も好きなら、あのもじくんの可愛さもたまらなく好きです。けれど、『もじぴったん』の一番好きなところは最初から今まで変わらずにあって、それはなにかというと音楽です。私は、ナムコのもじぴったんうぇぶ体験版が遊べると教えてもらって、遊んでみて、どれほど面白いと思ったか。何度も何度も遊んで、そしてこの楽しさを支える要素のひとつには間違いなく音楽があって、乗りのいい音楽、質の高さ、パズルゲームといえば地味でという印象があるのに、そんな私の思い込みなんか吹き飛ばさせるに充分で、一言で言えば恋に落ちた。私は今もこれからも、『もじぴったん』の音楽がきっと好きであり続けるかと思います。

私、以前こんなこといっていました。もし『大辞典』のさんとらが出るようなら、きっと私買いますね。買います。今月が終わるまでに必ず買います。これは絶対です。

私はiPodで通勤途中に音楽を聴いているのですが、その時にかかると嬉しい曲というのはやっぱりあって、絶対にがっかりしない、どんな精神状態の時であっても嬉しいと思う、それは『もじぴったん』の音楽なんですね。以前は『バンビーニ』が好きといっていた私ですが、今『Bedtime Puzzler』を聴いて、この曲のすごく心地よく響き、そして美しいこと。聴いていて、涙がこぼれそうになります。そして、私の心を揺さぶったり、はげましたりするのはこれらの曲ばかりじゃないのです。『もじぴったん』のテーマ曲といえる『ふたりのもじぴったん』を先頭にして、大好きな曲がずらりと並んでいる『もじぴったん さうんどとらっく』。そして『大事典 サウンドトラック』においてもきっと同じでありましょう。

私は、昔、ゲームがピコピコ音でしか音楽を表現できなかったころから遊んできて、いい音楽がたくさんあることをもちろん知っていて、そしてそうしたゲームミュージックの行き着いたひとつの頂はここなのだろうなと実感します。ゲームの楽しさを増幅し、邪魔にならないどころか、決して取り除いてはいけない大切な一部分となって、そして独立して聴いて楽しむに充分な質を維持している。こうした細かな要素の隅々にまで心を配って、最終的なプロダクトに仕上げるナムコというメーカーはすごいなと、その士気の高さ、良心に感じ入ります。

私は『もじぴったん』というゲームを漫画の一コマで知って、また同じ人から大事典のサウンドトラックが発売されているということを教えていただいて、ありがとうございます。私はきっとこのCDを買います。

参考リンク

2006年4月13日木曜日

KNOPPIX 5.0

KNOPPIX 5.0 日本語版がリリースされたというのをRSSにて購読しているニュースで知って、ふーんと思ってヘッドラインをよく見てみたら、なんとNTFSに書き込めるになったのですね。うわー、こりゃすごいことになった。これはちょっと興奮するようなニュースですよ。

KNOPPIXというのはいったいなにかといいますと、CD-ROMから起動できるLinuxのディストリビューションなのです。ハードディスクにインストールする必要がないから、そのマシンでLinuxが動くかどうかの確認にも使えるし、それに緊急時に大助かり。いざというときのためにもっておくべきはKNOPPIXであります。

NTFSの書き込みというのがなんでそんなにすごいのかといいますと、このNTFSというのはWindows 2000やXPなど、NT系のWindowsで用いられているファイルシステムなのですが、これが旧来のDOSなどからは見えないのですよ。だから、Windowsが起動しなくなったらDOSのフロッピーディスクから起動してという技が使えなくなって、そこでKNOPPIXの出番となるのですが、このKNOPPIXにしてもNTFSは読めるだけで書き込みができなかったのです。

そのため、ハードディスクに残ったデータを救出したいという場合には、FATのドライブを用意するか(USBのメモリストレージがFATだったりしますね)、あるいはネットワーク経由でデータを確保するかというやりくりが必要になって、もしそこにUSBで繋がるあるいは生きているNTFSのハードディスクがあったとしても、それは利用できなかったのですね。だから、数ギガにわたるデータをバケツリレーしたり、LAN経由で長時間転送されるのを待ったりして、ただでさえシステムが死んでへこんでいるのに、その作業の難儀さでなおさらへこむというのが普通のパターンであったのです。

ですが、KNOPPIX 5.0ではNTFSへの書き込みが可能なわけですから、今までのような面倒くさい作業が一気に軽減されて、死にかけたハードディスクから健康なハードディスクにデータをがつんとコピーして、そのハードディスクはまた新しいシステムで使ってやればいいじゃないかというわけです。ああ、これは便利ですよ。だから私は早速KNOPPIX 5.0を自分用に、そして職場用に用意したいと思います。

でも、これまではCDから起動できていたKNOPPIXですが、5.0はどうやらDVDでないと駄目みたいですね。といっても、どんどん大きくなるリソースをCDに押し込んでいたこれまでが奇跡みたいな話だったのですから、DVDに移るというのも致し方ないのでしょう。

詰まる所、これからのコンピュータはDVDドライブが必須ということでもあるのでしょう。といっても、最近のコンピュータでDVDが付いていないというのもまた少ないと思うのですが!

参考

2006年4月12日水曜日

RIDE BACK

   ナツノクモ』を目当てに『月刊IKKI』を買いはじめたのはよいけれど、きっとそれだけではすまないというのが私のよいところ(?)で、つまりですね、最初は『ナツノクモ』にしかなかった興味が、他の漫画にも移ってきているのですね。楽しみにしている漫画は今やいくつもあります。今日はその中のひとつ、特に楽しみにしているひとつを紹介しようかと思います。

それはなにかといいますと、カサハラテツローの描く『RIDE BACK』であります。ライドバックというのは、近未来世界で乗用されている人型の乗り物で、けれどロボットというよりかはバイクに近い印象を持っています。そして、その世界というのが、ちょっと私たちからしたら昔の日本を感じさせるような雰囲気を持っておりまして、学生たちが思想の旗の下に連帯してゲバ棒もって闘争しているという、そういうちょっとアナクロチックともいえる世界観とライドバックという近未来が同居する、ちょっと不思議な作風の漫画なのです。

でも、不思議な作風といっても、漫画自体はすごくビビッドで、肌にぴしぴしと向かい風の当たるような、そんな勢い、疾走感にあふれています。主人公は尾形琳、ダンサーになるべく入った大学で闘争に巻き込まれ、真っ赤なライドバックを駆る姿がまさに闘争を牽引する先鋒となった。本当なら一生そういうことにはかかわり合いにならなかったかも知れない女の子が、あれよあれよと運命に翻弄されていく。その急転のスリリングさ。私は読んでいて、次はどうなるんだろうと、先が気になってしかたがないといった状況にあるのです。

しかし、このひとつの流れを決定づけ引っ張っていくイコンとしてのヒロイン像は見事であるなと思うのです。思い返せば、過去の民衆蜂起にはなんらかそうしたイコンというものがあり、古くはジャンヌ・ダルク、新しくは樺美智子などがあげられるのではないでしょうか。ドラクロアは『民衆を導く自由の女神』という絵画も描いていて、なぜかこうした運動をリードする象徴的な存在をと考えると、女性があらわれてくるのは不思議な気がします。

漫画『RIDE BACK』においては、尾形琳が運動のイコンとなり、参加する学生たちを主導するのですが、けれどこれは善悪二元論のようなもので語られるような漫画ではなくて、世界を統治する機構とそれに対立する組織と学生たち、そのそれぞれにそれぞれの思惑があり、我々読者は琳とともに翻弄されながら、変わっていく。そうなのですね、明らかに運動なんかに興味を持たなかった琳も変化し、成長し、刻々とその色合いを違えていきます。そしてこの世界のありようと、その変化する様を見終えた先にはどういう感想を持つのかというのが、私には楽しみでならないです。

でも、その終着の地点はまだまだ先になりそうですね。ああ、楽しみで待ち遠しいですが、その日がこないことを祈るという矛盾も私の中にあります。ああ、つまりこの漫画が長く続いてくれればきっと嬉しいと思っているのですね。 

  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2006年4月11日火曜日

道化師のソネット

  私はいうまでもなくさだまさしのファンで、けれど、残念ながらそれほどレコードやなにかをもっているわけでもなく、その楽曲のすべてを網羅しているわけでもなく、でもそれでもさだが好きなのです。どこが好きなのかといわれれば、叙情性と滑稽味とが合わさって、けれどただ美しいだけでなくぐさりと突き刺すような透徹して鋭い詩の世界が音楽と拮抗して、そのせめぎあいと調和がさだの魅力なのであるかと思います。けれど、後年の曲にいたっては、より散文的な色合いを強めてしまって、そうしたほとんど散文といえるような歌詞で曲を書けるというのもすごいことなのですが、でも私は初期から中期にかけてのさだの、美しい詩情の世界がことさら好きなのであります。

さだの初期にはとにかく名曲がそろっていて、だから、そこからこれが一番好きという一曲を選ぶというのは非常に困難なことなのですが、でもそんな中、好きな曲がありますかと問われたら、即座に答えられる曲があります。それは『道化師のソネット』。哀しみに沈む友人、女性に向けられた歌でありましょうか。ともすれば哀しみに押しつぶされそうになる人生の折々の曲がり角に、あなたを助け、支えることができるというのなら、僕は道化師にだってなれるという告白。人生の哀しみは誰にでも訪れることがわかっていて、その哀しみがいつかいやされる日もきっとくるだろうということもわかっていて、ならばその日を迎えるための支えになりたい。すごくいじらしく、すごく共感性に富んだ言葉の数々であるかと思います。そして、リフレインから歌い出されるメロディも強くそして美しく、私はこのような詩と歌の書けるさだという人の計り知れない才能と、そして才能に負けないくらいに繰り返されただろう努力、苦闘にひたすら恐れ憧れます。

さだまさし

チキン ガーリック ステーキ

2006年4月10日月曜日

Spiritual Unity

  私だって少しくらいジャズも聴きます。けれど詳しいかといわれたら、すこぶる疑問なのですよね。残念ながら、ほとんど知らないといわざるを得ません。定番中の定番といわれるようなプレイヤーの、さらに定番といわれるようなアルバム、演奏を知っているくらいのものでありまして、ちょっと突っ込んだところに話が向かうと、途端になにも話せなくなる。それくらいに私はものを知りません。

そんなわけで、私はアルバート・アイラーを知りませんでした。この人はジャズサクソフォン奏者でありまして、ジャンルとしてはフリージャズであります。フリージャズってご存知ですか? ジャズにもいろいろあって、綿密な打ち合わせをするようなジャズもあれば、即興を重んずるようなのもあって、フリージャズというのはなかでも即興を指向するようなジャズなのです。一般的にジャズの即興すなわちアドリブというものは、テーマとなるメロディの変奏であったり、あるいはテーマとなった曲のコードに基づくインプロヴィゼイションであったりするのですが、フリージャズにおいてはいったいどうなのでしょう。なんというのか、な、なにやってんの!? ってのけ反らせるような、まさにエネルギーに充ち満ちたアドリブの吹き荒れるジャズ。それがフリージャズであると私は思っています。

でも、私は若いころは、フリージャズは好きじゃありませんでした。いったいなにをやりたいのか、まったくもって理解できず、理屈もなにもなしに適当に吹いてるんじゃないのみたいに思っていたのですが、そうした無理解もいつの間にか改善されていたようで、人に勧められて聴いたアルバート・アイラーに関しては、なかなか楽しんで聴くことができます。なにより、この人の演奏はフリージャズのなかでもおとなしいほうなんじゃないでしょうか。時折にメロディラインが聴こえてくることもあって、そのメロディがすごく印象に残るのは、やっぱりプレイヤーの術中に私がすっかりはまってしまっているからなのだと思うのです。

はじめて聞いたときにもなかなかに釣り込まれるような演奏でありましたが、繰り返し聴けば、それだけ深く引き込まれて、なんだか癖になるような魅力があります。多分、むかし私が理解しなかったのは、この魔力じみた魅力なのではないかと思います。

2006年4月9日日曜日

 私は川本真琴が好きです。歌に元気があふれて、それはもうはじけるようにはつらつとしていて、けれどその明るさのなかにはどことなく暗い影が差していて、そのギャップにひかれているのかも知れません。基本的に素直な歌。けれど屈折している。素敵であると思います。

もう桜の季節も過ぎようとしています。それぞれの季節に季節の歌があって、春の歌、それも桜の歌といったときに、私は川本真琴の『桜』を推したいと思います。一般に桜というと出てくる歌は森山直太朗の『さくら』であったりすることは私だってよくわかっているのですが、その中をあえて川本真琴の『桜』を推したいというのが私なのです。

でも、残念なことに、私にはその好きという川本真琴の『桜』を歌うには向かない声質で、きっと私ではあのはじける感じ、躍動感は出せないでしょう。少女と少年の合間、大人と子供の合間、移行期にあって神経質に揺れる気持ちのぴりぴりとしてけれど鮮やかな輝きは私のものではなくて、だから私はこの歌を歌いません。好きな歌であるけれど、好きであるゆえに歌うことのできないということもあるのですね。

私はこの歌を歌わず、だからかわりに聴くのですが、聴けばやっぱり歌いたくなるのが悲しいところで、もしかしたらいつか私はこの歌を歌ってしまうのかも知れません。けれど、きっと、この歌のよさを引き出すことはできなくて、恨むでもないですが、私は女性に生まれたかったなと思うのではないかと思うんです。私は、別に今の性別に文句があるのではなくて、ただただ女声を自分のものとして歌いたいという欲求があって、そうした思いは例えば川本真琴なんかを聴いたときに強くあらわれて、これが無い物ねだりに過ぎないことはわかっています。けれど、わかっていながらも欲しいという思いはやまないのです。

私にとって川本真琴は境界線上に立つ人であり、それゆえにこんなにも好きだというのでしょう。『桜』という歌にしても、曖昧なところを揺れて、けれど曖昧には終わらず抜け出そうとするかのようで、そういうところが気に入っているのでしょう。

私は曖昧を愛して、どのカテゴリにもあえてはいろうとしない境界線上の人になりたいと思っていて、それが川本真琴が好きな理由であると思っています。多分、この理由。人には通じないだろうなあ。ええ、極めて個人的な理由であります。

2006年4月8日土曜日

ソーダ水がお好きでしょう

 今日はちょっとイベントの手伝いにいってきまして、といっても自分がなにかするというわけではなく、イベント会場で提供されるコーヒーの給仕がメインです。あと設営や撤収の手伝い、まあイベントが滞りなく運営されるよう、細々手伝うというだけの話です。ちなみにボランティア。昼食に弁当こそは出ましたが、交通費も出ないという、そういう感じの、本当にお手伝いというやつです。

で、こういう場に出るといつも思うのですが、男達というのは本当に働きませんね。設営や撤収なんかでは動くのですが、とにかく給仕、食器等の片づけとなるとまったく駄目。返ってきた盆だけ受け取って、その上に乗っているごみごと持ってくる。いや、途中にごみ箱があるんだから捨てろよ。と思うのですが、そういうのは女の仕事とでも思っているのでしょう。とにかく駄目、本当に駄目だと思いました。

そうした、食事飲み物の準備片づけに関しては他人事と思っているような男というのは、まあいうたらお年寄りなのですが、そのくらいの世代には抜き難く男の仕事=力仕事、女の仕事=水仕事等、といった図式ができあがってしまっているのでしょう。だから、コーヒーの受け取りに客が殺到しててんてこ舞いになっていたとしても関知しない。そういうのを提供するのは女の仕事だと思っている。私はその後の打ち上げには出なかったのですが、もし出ていたとしたら、そうした景色を上回る不愉快を目にすることとなったと思います。

というわけで、ひとしきり眠っていた男女共同参画にからむ怒りが、再びふつふつと動き出してしまいました。ええ、こうした男達の考えがはびこっているかぎりは、男女共同参画なんてものの実現は夢のまた夢であろうよと思ったのでした。

私がたった一日で我慢ならなくなった男達のセクト主義に、きっと女達は何百年もの間、押さえつけれてきたのでしょうね。平塚雷鳥が元始、女性は実に太陽であった。といったのはいったいいつのことだったのか。確かにその当時に比べれば、今は夢のように女性の解放された社会になったといえるのでしょうが、しかしそこには本当の開放はあるのだろうかという気持ちになります。保守系の声の強さの前に、ジェンダーという言葉が圧殺される二十一世紀の到来に、きっと明日にはよりよい風の吹くはずだろうと期待した過去の声は消え去ろうとして、私は結局また私の大嫌いな男らしさ女らしさという足かせの目の前にちらつくのを感じて、本当に不愉快な日々を過ごしているのです。

重い足枷をけとばして暗い牢獄から抜け出した女性たちの前には陽のふりそそぐ街頭がある

なら、まだ女達はその陽のふりそそぐ街頭へと向かって歩みを進める途上にあるのかも知れません。

市川ジュンは『ソーダ水がお好きでしょう』において、ヒロインである夏乃にただ 毎日ソーダ水を飲んでいたいわけじゃないのよといわせて、その後に続くモノローグに、自分の自信をともに顔を上げて生きたいと思うことへの決意と、そしてただそれだけのことが難しいという現実への悲しみがあふれていて、私は当人らしさよりもお仕着せのらしさが幅を利かせる時代のまだ終わっていないことに気付くたび、このモノローグを思い出して、空を仰ぐのです。

引用

  • 平塚雷鳥「元始女性は太陽であった」,『青鞜』創刊号,1911年。
  • 『女人芸術』1929年,市川ジュン『血湧き肉躍る料理店』懐古的洋食事情4 (東京:集英社,1994年),34頁。
  • 同前,23頁。

2006年4月7日金曜日

エスパー魔美

   私は思えばいつの頃からこの日の来るのをを待っていたのかわかりません。と、いきなりわけのわからない話の切り出しをしますが、いったいなにがあったのかといいますと、『エスパー魔美』のDVDが発売なのですよ! ああ、エスパー魔美! 『エスパー魔美』については、もう説明の必要ないよね。かつて一世を風靡した藤子不二雄アニメの中でも、常に人気上位にランクインするのがこの『エスパー魔美』であります。自分に超能力があるということに気付いた魔美が、その能力を持って人助けをするというストーリーで、藤子不二雄らしい明るさと不思議への傾倒が光る、名作であります。

しかし、DVDは限定生産品であるそうで、見れば2006年6月12日が予約の締め切りではありませんか。実をいうと、『エスパー魔美』の真価はテレビアニメにこそあるのですよ。人気のために長期放映のされた魔美には、テレビアニメオリジナルのストーリーがたくさんあって、それがまたいい話なんだ。一度見れば忘れられない『雪の降る街を』もオリジナルであると聞きます。原作を超えようとして超えられないアニメは山とありますが、エスパー魔美は原作を超えようとはしなかったのに、いつしか肩を並べ、そして超えた。本当に希有にして名作というにふさわしいアニメであったと思うのです。

いやしかしそれにしても素晴らしかった。私はこのアニメが放映されていた当時はまだまだ子供で、原作本も欲しかったのだけど、手が出ずにあきらめていたのでした。比較的経済の面で余裕が出てきてからは、過去を振り返るよりももっぱら新しいものに向かおうという傾向が顕著であって、つまり『エスパー魔美』が顧みられることもなくなって、けれど書店で単行本が並んでいるのを見れば気になって、昔書店で立ち読みした風景、なにか機会のあれば思いだすいろいろに心を奪われて、やっぱり『エスパー魔美』とは名作なのであります。

しかし、私は『エスパー魔美』のDVDがリリースされる日がくるとは思ってもいなかったから、まさに寝耳に水のニュースで、そしてやっぱり欲しいのですね。上下巻それぞれが六万円を超えるという大物で、おいそれと手の出るようなものではないのですが、それでも欲しいのですね。私は買うのだろうか? 多分買わないように思います。いや、正しくいうなら、買えないように思います。でも、それでもこのアニメを振り返りたいと思うことのあらば、欲しい気持ちは止められないかも知れません。

揺れますね。揺れるのですね。

  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第1巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第2巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第3巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第4巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第5巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第6巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第1巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第2巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第3巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第4巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第5巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第6巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第7巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第8巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第9巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第1巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1984年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第2巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1984年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第3巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第4巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第5巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第6巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。

CD

2006年4月6日木曜日

J. S. Bach : Goldberg Variations, BWV 988 played by Trevor Pinnock

 今日は疲れてしまいました。仕事をしているからというのもまああるにはあるのですが、それ以外のことに疲れてしまって、といってもなんかいやなことがあったというわけではないんですよ。趣味のプログラムに手を出してしまいまして、こうなると私はどうにも駄目でしてね、寝ても覚めてもプログラムのロジックをどうしようって考えて、目はらんらんとするし、頭の中はぐるぐるだし、で、ある程度完成するとそれまでの張りつめた状態が緩んでしまうから、ぐったりとしてしまうのです。

こんなときにはなんかゆっくりできる曲なんか聴きたいなあ、といったときに候補に上がるのは、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』で、それはなぜかというとこの曲にまつわる逸話が関係しているのです。

その逸話というのはなにかというと、不眠に悩む伯爵が眠るのによい曲を作っておくれとバッハに頼んだことがきっかけでできたという話でありまして、実際この話は有名で、私は高校生の頃、図書館で借りた名曲解説全集でしょうかでこの話を知って、そうか、いつか聴いてみたいものだと憧れたものでした。

で、憧れはいずれかたちになるのでありまして、私のかなり初期に買ったCDのなかに『ゴルトベルク』はきちんとあって、その演奏者はトレヴァー・ピノック。どんな演奏家がいいとかの情報をまるで知らなかった私は、まずは入手しやすいものから入手していって、バロックではもっぱらイングリッシュ・コンソートの盤を購入していました。なぜかというと、ピリオド楽器を使った演奏であるということ、そしてなんだか評価も高そうだと思ったこと。なので私のバロックの原形は、トレヴァー・ピノックと彼の率いるイングリッシュ・コンソートにあるのではないかと思います。

しかし、私にとっては懐かしくも思い出深いこの盤が、もう手には入らないのでしょうか。だとしたら非常に悲しいことだと思います。と思っていたら、Amazon.co.jpの検索では引っかからなかったというだけで、どうやらイギリスの盤がまだ入手可能であるようです。うん、ちょっと嬉しいことであります。

2006年4月5日水曜日

Boot CampでMacintosh / Windows XPのデュアルブート

アップル、Boot Campを発表

これまで、懸賞金までかけてMacintosh / Windows XPのデュアルブートを実現しようとしてきた有志たちの苦労をあざ笑うかのように、アップルがBoot Campなるソフトウェアを発表しました。これを使えば、IntelベースのMacintosh上でMac OS XとWindows XPを選択起動することが可能になるのだそうでして、うはー、こいつは便利になるかも知れないなあ。周辺機器の繋ぎなおしなしで、ハードウェアを不必要に増やすこともなく、MacintoshとWindows XPの両方を使えるのだもの、これはすごく便利であろうと思います。

でも、多分一番便利なのは、Intel Macintosh用にチューニングされたVirtual PC for Macであろうかと思うんですけどね。多分、これ、ものすごく便利になると思いますよ。

余談

Mac OS Xの次バージョンはLeopardなんですね。私はこれを買うのかなあ。

参考

Logicool TrackMan Wheel

 キーボードがほしいだなんていってきて、いざキーボードを買うと決まったら、今度はトラックボールが欲しい。饅頭怖いかあるいは限りないものそれは欲望!?

私がキーボードを欲しいと思ったのは、まずはじめにはキーレイアウトの問題があり、次いでキータッチの問題、そして最後には姿勢の問題と続くのですが、実は私のコンピュータを利用する環境に共通するのは、机がどれも少し高いのです。ディスプレイの高さとしてはそれほど悪くはないのかも知れませんが、ところがキーボードの高さとしては最悪。肘より上にあるから、どうしても肩凝りが酷くなります。だからキーボードをひざ上に置けるようにするという意味もあるのです、マイキーボード計画には。

キーボードを打ちやすい位置に持ってくることができたとしますね。そうすると、また今度は別の問題が出るのですよ。それはなにかというと、キーボードとマウスの距離です。キーボードの利用時には極力マウスには手を触れないようにする私ですが、それでもGUI全盛の昨今において、マウスを使わないということはまずありません。だから、操作の最中にちょくちょく手はマウスに向かって、当然その距離が遠くなればなるほど能率は落ちます。マウスはキーボードそばにあるのが当然の理想ですが、でもキーボードはひざ上。マウスもひざ上? そんな……、どう考えても使いにくいでしょうよ。

だから、トラックボールなんてどうなのかなと思ったのです。

椅子に座って作業するときには、ひざ上にでもトラックボールを置いておけばいい。iBookはこたつトップだからその場合は座椅子の横にでも置いておけばいいでしょう。ということで、いいトラックボールはないかなあと思って探してみたのですが、そうしたらトラックボールのバリエーションの少ないこと! まわりを見回してもトラックボールユーザーなんていないし、全然情報が集まらなくて往生しました。

私にとってのトラックボールのイメージといえばKENSINGTONなんですが、これは大きくて使いやすそうな反面、ちょっとひざ上とかには置きづらそうです。それに、スクロールに使うホイールがボール周辺のリングというのもなあ、というわけでさらに探してみれば、Logicool製品がなんだかよさそうに思います。それも、最高級機種TRACKMAN CT-100ではなくて65UPiのライン。左右非対称で、右でも左でもというわけにはいかないでしょうが、スクロールホイールもあるスリーボタン方式。これならMacintoshでもWindowsでもドライバ不要で使えそうです。ボタンの配置も一般的なホイール付きマウスと同じだから、マウス、トラックボールの持ち替えもスムーズそうに思います。というわけで、これがいいかなあなんて思って、そうしたらコードレスとコード付きの二種類があるのですね。

私は実をいうとあまりコードレスは好きではなくて、マウスなんかの場合、電池の分重くなるという頭があるからなのですが、けどトラックボールなら使用時に持ち上げることはないわけだから重くても問題ないわけですよね。ひと月に一度くらいのペースで電池交換が面倒かななんて思うので、それでも心はコード付きに揺れるのですが、コードレスというやつは実際のところ便利そうにも思います。

という感じに揺れながら、気持ちはすっかりトラックボール欲しいです。このペースだと、いずれ買ってしまいそうです。いいキーボード、傍らにはトラックボール! ああ、ちょっと夢見ちゃいますね。夢見ちゃいます。

引用

  • 井上陽水『限りない欲望』 POLYDOR POCH-1022,CD【断絶

2006年4月4日火曜日

サクラ町さいず

  四コマ漫画にはもうつかれちゃいました。次から次に創刊される系列誌。漫画はそのほとんどが単行本化されることなく消えるため、おちおち雑誌を捨てるわけにもいかず、かといってため込むにはあまりに多すぎる量にあっぷあっぷして、こうした状況を見て、私は四コマというジャンルが爛熟に向かっているのだろうなと実感しています。爛熟。熟しきれば後は落ちるだけ。その落ちた後に残る漫画はいったいどれだけあるのかと思うと、そうですね、多分『サクラ町さいず』は残る漫画なのではないかと思います。

なんでこんな不吉な書き出しではじまるのかといいますとね、私がはじめて買った四コマ専門誌『まんがタイムラブリー』における最大の楽しみが『サクラ町さいず』であった時期があったからなのです。時が経れば誌面も変わり、そして読む私自身も変わります。かつてはあんなに好きだったはずの雑誌が今ではそれほどでもないと思う。ああ、なんという心変わりよ。読んで楽しい漫画ももちろんあったのですが、徐々に新鮮味が失われ、今ではすっかり古なじみといった感じさえして、そして雑誌も終わりにさしかかれば、読み疲れ、それほど好きではない漫画の数々、乗り切るべきかここでいっそ閉じてしまうか、けれど最後の最後に『サクラ町さいず』があることを私は知っている。ニューフェイスの新鮮さ、みずみずしさを保ちつつ内容は充実して、『サクラ町』を読みたいという思いが歩きにくい道を歩かせたのです。

四コマ誌にかぎらず、雑誌の最後を飾る漫画というのは大切でして、いうまでもないですよね、読後感を決定するのは大抵こうした漫画なのですよ。だから私にとって『ラブリー』の読後感は『サクラ町さいず』の感触そのものでした。少年少女だった季節にさらさらと吹く風のような軽やかなおかしみ、私は大好きでした。特に初期の雰囲気、あの感覚は、今思い出してもなお格別でした。

『サクラ町さいず』も第3巻まで巻を重ねて、でも面白さは相変わらずですね。ちょっと質は変わってしまったとは思います。けど面白さはなお引き続いて、定期的に四コマなんて読むのやめちまおうかと思う私を引きとどめるのは、こうした漫画なのだと思います。派手じゃない。ギャグにしても小さく細やかなおかしみに収まって、けれどそれでも面白い。私の裾を後ろから引くのは、こうしたささやかな声なのだと思うのです。

『サクラ町さいず』。私がこの漫画を好きなのは、悲しみをうちにはらみながら、決して悲しさを表立たせない明るさで、描かれる人の暖かさで、可愛さで、気持ちよさで、だから私はこの漫画の舞台サクラ町と登場するすべての人が大好きです。この漫画に触れているだけで、なんだか嬉しくなるほどです。

蛇足

KRじゃないのに!?

ひろえちゃん、そして麻子おばさんです。だから、3巻82ページの扉絵なぞは、まさしくこの世の春といえましょう。ああ、もう、可愛いぞ。

  • 松田円『サクラ町さいず』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 松田円『サクラ町さいず』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 松田円『サクラ町さいず』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年4月3日月曜日

だって愛してる

 売れない作家の夫を支えるけなげな妻の姿がいじらしく、けど耐えて忍ぶばかりが女じゃないぞというのが『だって愛してる』の本領なのだと思います。肝っ玉母さんなんていうとやたら古くさく感じられるんですが、けれど持ち前の度胸と包容力、そして明るさで夫雄二を支える街子を見ていたら、そんな古くささもどこ吹く風で、なんかいい景色が見えてくるようではありませんか。けど、母さんというにはまだ早く、奥さんというのも、妻というのもなんだかしっくりこないような気がして、そうですね、この人に似合うのはつれあいということばなんじゃないかと思います。作家のつれあい、二人三脚、少しずつ深まっていく、とそのような感じがする佳作。地味ながらなかなか侮れない佳作であります。

でもさ、旦那は甘えてるよな。妻が家計をパートで支え、放っておくと緩んでしまいがちな自分もしっかりつなぎ止めてくれる妻だなんて、そんなのフィクションの中だけの話ですよ。けれど、そうした一歩間違えると一方的になりかねない関係がしみじみとして見えるのは、それはすなわち二人の関係なんだろうと思います。街子はやはり耐え忍ぶばかりの人ではないし、雄二も妻をないがしろにするような甲斐性のある男ではないし、互いが互いを必要として、ああここでタイトルがくるのでしょうな。だって愛してる、なのでしょう。そうした情愛の細やかさが端々にそっとのせられているから、読んでるほうもなんだかほうっとするのでしょう。

しかし、なんだか二人の関係は夢のようだと思う。売れない作家にとってはまるで理想を絵に描いたような女である街子は、きっと売れない音楽家にとっても同じで、そしてきっとささやかな夢を追いながら暮らしの中に日々を流してゆくすべての人にとっての理想なのではないのかと、そんな風に思います。だから、きっと私はもし街子のような女が私の側にいたとしたら、これを決して近づけず、つとめて離れそむこうとするのではないかと思います。だって私にはそうした女に支えられる資格なんぞはないからで、いっそ寒風の中にひとり吹きさらされていたい。

けど、それが雄二と街子の話であらば、こうして穏やかに読めるのは、やはり二人の関係が夢のようだからなんだろうと思います。どこかに昭和の風が感じられる、少し昔気質の夢であります。

  • むんこ『だって愛してる』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年4月2日日曜日

All 'Bout the Money

  それについては全然、なんにも知らないんだけど、それでも好きだっていうものがあるかと思います。背景やなんかなんて知らない、目にしているそのもの、耳にしたそのもの、それだけしか知らないけど、それがぱっとあらわれてくると嬉しくてしかたがないというものがあります。もちろん私にもあります。そうしたもののひとつがMejaのAll 'Bout the Moneyでありまして、姉が持っていたCD MAX5に収録されているのを聴いて、どうしても忘れられなくなったのがこの曲を意識したはじめでしたね。

乾いたアコースティックギターサウンドをイントロにしてはじまるこの曲は、なによりも耳に残る印象的なフレーズがキャッチーで、曲そのものもリフレインを今か今かと待ちかねているかのように前進的で、普通ならリフレインまでをじらすように長く伸ばしたがると思うところを、本当にすぐリフレインに突入するから、すごく潔いと感じられます。その反面、曲が短いんですよね。わずか三分ですよ。全然物足りない。リピートしてでも聴きたい。けどあえてそれを我慢することで、次に会ったときの喜びはいやまして、でも本当のところはリピートで聴きまくってもまったく飽きるということがなく、私には本当にあった曲なんだなあと思うところしきりです。

あんまりにいいと思ったものですから、私もこの人のアルバムを探したことがあったんです。けど、その頃はまだインターネットなんてそれほど使えるようなものじゃなくて、今なら簡単にディスコグラフィーめいたものを入手することも可能ですが、それができなかった。だからCDショップ店頭にてMeja、Meja、M、M、M、M... って棚を探して、でも結局は見つけることができなかったんですよね。あの時見つけられたら、絶対買っていました。きっと『セブン・シスターズ』を買っていたろうと、そんな風に思います。

結局アルバムは買えず仕舞いでしたが、それ以降もずっと好きな一曲で、けどこのMejaという人がスウェーデンの人だなんて、今日の今日まで知らずにいました。知っていたものというと、この曲および名前だけ。けど、それでもすごく好き。きっとこの人の他の曲も好きになれるんじゃないかなと思う。けど、今はこの曲が好きなのです。

2006年4月1日土曜日

Das Keyboard

キーボードが欲しいよといって数年。私にとってキーボードを買うというのはひとつの悲願であったわけです。まずはキーレイアウトの問題。私がMacintoshを買ったころというのはまだJISキーボードというのが一般的でなかったころで、つまりUS配列、AsciiとかAnsiの配列のキーボードが使われていたんです。だから、私はUS配列でもってコンピューティングをはじめて、すっかり手がUS配列に馴染んでしまって、それでまわりを見回せばいつの間にかJIS配列の天下になっていてまいりましたよ。だって、ちょっとの違いといえばちょっとの違いなんですが、ちょっとの違いであるためにどうしても打ち間違いが発生します。それはちょっとしたストレスで、だからずっとなんとかしたい、具体的にいうと、決定版のUS配列キーボードが欲しいと思っていたのです。

最初はHappy Hacking Keyboardかなと思ったんです。でも、残念ながら私はこの選択を見送って、というのはコントロールキーの位置が問題でして、Aの左隣、一般的にCaps lockである位置にコントロールキーがありまして、こうじゃないと駄目だという人がいるのはわかりますが、私にはそこじゃ駄目なんです。コントロールは左下隅にあって欲しい。で、次にいいかなと思ったのはFKB8579だったのですが、残念ながらこれもコントロールがAの隣で、やっぱり普通のUSキーボードじゃないといかんのかなあ。

そしてこのキーボード購入意欲は、iBook購入に際してUS配列キーボードを選べたことから薄れていったのですが、でも最近ちょっとしたできごとがありまして、やっぱりキーボードが欲しいなと思った。そのできごととは職場でのできごとです。

新年度を迎えるにあたって、職場で配備されているノート端末の設定大会がおこなわれたのですが、このときに私は外付けキーボードを使っていたのです。USB接続のJISキーボードですが、機種によってちょっとずつレイアウトに違いがあり、なかにはきわめつけに使いにくいものもあったから、そうしたストレスから解放されるにはどうしても外付けキーボードが必要だった。JISでもかまわない、そういった心境であったのです。

で、外付けキーボードを使ってみると、これがまた使いやすいんですよ。タッチもしっかりしてるし、ものすごく打ちやすくて感心してしまって、私は職場ではハードキーボードパンチャーで通っているのですが、マウスでできることもキーボードでやる、コマンドライン大歓迎、一日プログラム打ってるみたいな感じで、だからここで外付けキーボードを使えると能率も上がれば疲労も少ないだろう、ああ、キーボードが欲しいよ。そして、この時点で、私にはちょっと気になるキーボードがあったのでした。

それがDas Keyboard。詳しくはMYCOM PC Webの『真の上級者以上に捧ぐ! 無刻印+キータッチにもこだわる「Das Keyboard」』を参照しておくれ。