2006年4月8日土曜日

ソーダ水がお好きでしょう

 今日はちょっとイベントの手伝いにいってきまして、といっても自分がなにかするというわけではなく、イベント会場で提供されるコーヒーの給仕がメインです。あと設営や撤収の手伝い、まあイベントが滞りなく運営されるよう、細々手伝うというだけの話です。ちなみにボランティア。昼食に弁当こそは出ましたが、交通費も出ないという、そういう感じの、本当にお手伝いというやつです。

で、こういう場に出るといつも思うのですが、男達というのは本当に働きませんね。設営や撤収なんかでは動くのですが、とにかく給仕、食器等の片づけとなるとまったく駄目。返ってきた盆だけ受け取って、その上に乗っているごみごと持ってくる。いや、途中にごみ箱があるんだから捨てろよ。と思うのですが、そういうのは女の仕事とでも思っているのでしょう。とにかく駄目、本当に駄目だと思いました。

そうした、食事飲み物の準備片づけに関しては他人事と思っているような男というのは、まあいうたらお年寄りなのですが、そのくらいの世代には抜き難く男の仕事=力仕事、女の仕事=水仕事等、といった図式ができあがってしまっているのでしょう。だから、コーヒーの受け取りに客が殺到しててんてこ舞いになっていたとしても関知しない。そういうのを提供するのは女の仕事だと思っている。私はその後の打ち上げには出なかったのですが、もし出ていたとしたら、そうした景色を上回る不愉快を目にすることとなったと思います。

というわけで、ひとしきり眠っていた男女共同参画にからむ怒りが、再びふつふつと動き出してしまいました。ええ、こうした男達の考えがはびこっているかぎりは、男女共同参画なんてものの実現は夢のまた夢であろうよと思ったのでした。

私がたった一日で我慢ならなくなった男達のセクト主義に、きっと女達は何百年もの間、押さえつけれてきたのでしょうね。平塚雷鳥が元始、女性は実に太陽であった。といったのはいったいいつのことだったのか。確かにその当時に比べれば、今は夢のように女性の解放された社会になったといえるのでしょうが、しかしそこには本当の開放はあるのだろうかという気持ちになります。保守系の声の強さの前に、ジェンダーという言葉が圧殺される二十一世紀の到来に、きっと明日にはよりよい風の吹くはずだろうと期待した過去の声は消え去ろうとして、私は結局また私の大嫌いな男らしさ女らしさという足かせの目の前にちらつくのを感じて、本当に不愉快な日々を過ごしているのです。

重い足枷をけとばして暗い牢獄から抜け出した女性たちの前には陽のふりそそぐ街頭がある

なら、まだ女達はその陽のふりそそぐ街頭へと向かって歩みを進める途上にあるのかも知れません。

市川ジュンは『ソーダ水がお好きでしょう』において、ヒロインである夏乃にただ 毎日ソーダ水を飲んでいたいわけじゃないのよといわせて、その後に続くモノローグに、自分の自信をともに顔を上げて生きたいと思うことへの決意と、そしてただそれだけのことが難しいという現実への悲しみがあふれていて、私は当人らしさよりもお仕着せのらしさが幅を利かせる時代のまだ終わっていないことに気付くたび、このモノローグを思い出して、空を仰ぐのです。

引用

  • 平塚雷鳥「元始女性は太陽であった」,『青鞜』創刊号,1911年。
  • 『女人芸術』1929年,市川ジュン『血湧き肉躍る料理店』懐古的洋食事情4 (東京:集英社,1994年),34頁。
  • 同前,23頁。

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