2006年4月9日日曜日

 私は川本真琴が好きです。歌に元気があふれて、それはもうはじけるようにはつらつとしていて、けれどその明るさのなかにはどことなく暗い影が差していて、そのギャップにひかれているのかも知れません。基本的に素直な歌。けれど屈折している。素敵であると思います。

もう桜の季節も過ぎようとしています。それぞれの季節に季節の歌があって、春の歌、それも桜の歌といったときに、私は川本真琴の『桜』を推したいと思います。一般に桜というと出てくる歌は森山直太朗の『さくら』であったりすることは私だってよくわかっているのですが、その中をあえて川本真琴の『桜』を推したいというのが私なのです。

でも、残念なことに、私にはその好きという川本真琴の『桜』を歌うには向かない声質で、きっと私ではあのはじける感じ、躍動感は出せないでしょう。少女と少年の合間、大人と子供の合間、移行期にあって神経質に揺れる気持ちのぴりぴりとしてけれど鮮やかな輝きは私のものではなくて、だから私はこの歌を歌いません。好きな歌であるけれど、好きであるゆえに歌うことのできないということもあるのですね。

私はこの歌を歌わず、だからかわりに聴くのですが、聴けばやっぱり歌いたくなるのが悲しいところで、もしかしたらいつか私はこの歌を歌ってしまうのかも知れません。けれど、きっと、この歌のよさを引き出すことはできなくて、恨むでもないですが、私は女性に生まれたかったなと思うのではないかと思うんです。私は、別に今の性別に文句があるのではなくて、ただただ女声を自分のものとして歌いたいという欲求があって、そうした思いは例えば川本真琴なんかを聴いたときに強くあらわれて、これが無い物ねだりに過ぎないことはわかっています。けれど、わかっていながらも欲しいという思いはやまないのです。

私にとって川本真琴は境界線上に立つ人であり、それゆえにこんなにも好きだというのでしょう。『桜』という歌にしても、曖昧なところを揺れて、けれど曖昧には終わらず抜け出そうとするかのようで、そういうところが気に入っているのでしょう。

私は曖昧を愛して、どのカテゴリにもあえてはいろうとしない境界線上の人になりたいと思っていて、それが川本真琴が好きな理由であると思っています。多分、この理由。人には通じないだろうなあ。ええ、極めて個人的な理由であります。

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