『放送禁止歌』というショッキングなタイトルがあって、それだけを聞くと、なんだか放送にのせられない歌を紹介して、 — いや、その理解は正しいのですが、けれど反面正しくない。というのが、私がこの本をはじめて読んだときの感想でした。放送禁止にされる歌というのは、性的なタブーに触れる歌、あるいは政治色が強いもの、反社会的なものという印象があり、そしてそれは一種事実でもあるのですが、でもそれだけではないのです。そして、この本を読むまでそこに考えのいたらなかった私は、まことにあさはかであったというほかありません。
放送にのせられない理由には、差別にまつわるからというものがあります。いや、歌が誰かあるいはなにかを差別しようというものであれば、そうした対処もいたしかたないといってもいいのかも知れません。ですが、この本が問題としているのは、かつては名曲として歌われていた歌が、突然メディア上から消えうせてしまう。なぜか。クレームがあったからではなく、まして糾弾があったわけでもなく、 — そう自主規制されてしまうから。この本では、メディアにおけるタブーと自主規制にいたるプロセスがとてもていねいに扱われていて、特に部落差別に関係するとして葬られた歌を主題に深く踏み込んでいく様子は、むしろ感動的でもあり、今私たちが置かれている状況について考えるきっかけにもなって、私はこの本を読んでよかったと心から思った。いや、曲がりなりにも歌を歌う人間としては、読んでおかなければならない本でありました。
『竹田の子守歌』という歌があります。フォークムーブメント吹き荒れた日本においてブームとなり、そうして広く知られるようになった歌で、ですがこの歌は放送できないのだそうです。なんでか。それは本当に先に挙げた理由があるからで、しかしこの歌はむしろ被害者であるんじゃないかという印象を持ちました。ええ、私はこの歌こそが被害者であると思っています。
この歌はこの間放送されていたNHKの趣味悠々『あの素晴らしいフォークをもう一度』のテキストに収録されていて、だから今ではそうした放送禁止といったタブー視はされないのかも知れません。親しみやすく美しいメロディーに、情緒深い歌詞はやはり名歌だなと思います。だから、私はいずれこの歌を歌うこと日がくるだろうなと思っているのですが、その時にもしこの歌の背景を知らなかったらどれほど私の歌は軽く弱いものになることでしょう。背景もすべて引き受けて、歌の中に流れている(あるいは、いた)感情を知って歌われる歌には強さがある。ですが、もし表層を歌うだけであったらと思うと、— 歌というものは、それがどのような歌であったとしても、生半可に歌うものではないという思いを強めるきっかけになったのがこの本でした。
というわけで、私は今日、この曲を演奏してきました。いや、歌ったわけではないのですが、人の伴奏で。で、私はこの本を読んで、この歌にはある種思い入れができてしまっていたものですから、なおさらしっかりやろう、しっかりやろうと思っていたのだけれども、最後の最後、本当に最後の最後で足を出してしまいました。
ううー、ショックだよー。いや、ほんまにショック。
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