2005年7月28日木曜日

長い道

 道さんみたいな女に惚れられるのだとしたら、いいじゃありませんか。いや、惚れられてるのかどうかはわからないけれど、けれどひとつ屋根の下に暮らして、寝食を共にして、かいがいしく働く道さんを見て、それであの仕打ちとは荘介どのは人が悪い。例え道さんが自分の理想に描く女性と違っているからといって、あのように粗末にしては罰が当たります。

もし私が荘介どのの立場であったら、道さんのような女性から敏行どの、敏行どのと呼ばれたりしたならば、私はきっとその人のためになんでもしてあげたいと思うだろう。私の心を砕いて、その人のために差し出すこともいとわない。もし道さんの心が私のもとにないと知ったとしても、それでも私はそっと寄り添い続けたいと思う。疑うなどと、ましてや裏切りを働こうなどと、きっと私は露ほども思いはしないでしょう。

すまんの、ぜんぶ嘘じゃ。

人間は、誰しも人生で三度くらいはもてる時期がくるんだとかいいますね。実際私にもそんな頃があって、私は男女比率が異常なところで青春時期を過ごしましたから、それはそれなりに私に思いを寄せようなどという奇特な女性もいたのです。

けどよ、私はそうした娘たちを寄せ付けないで、今から考えるとまったくもってもったいない話であるのですが、けれどその頃の私はちっともそうした状況に甘んじることがありませんでした。

私の得意技は気付かないふりでした。いかに秋波送られようと、思わせぶりをいわれようと、気付かぬ知らぬ存ぜぬを決め込んで、けれど時にはなにも知らない無邪気ゆえの喜ばしなんぞ口にする。いや、ずいぶんとひどい仕打ちじゃないか。わかっていたなら応えてやってもよかろうに — 。いや、わかったからといっておいそれと応えることができないのが男女の仲であろうかと。

……だから私に、道を邪険に扱ってみせた荘介を非難できるわけなど、これっぽっちもありゃせんのです。

けど、自分にはちょっと堪え性がなさ過ぎたかなあと思います。日本においての男女のことは、愛というよりもむしろ情で、三日でも飼えば情が移る、ましてやそれが自分を慕う女なら可愛く思わぬわけがない。それをわかっていながら、いやわかっていたからこそか、危ないと思って最後の距離を見極め続けて、— その先に起こるいろいろを怖れていたんでしょうね。

『長い道』は、愛というよりもやはり情で、これがヨーロッパ人の書いたものなら『存在の耐えられない軽さ』みたいになるのかも知れないけれど、こうの史代はやっぱり日本の女性だから、しっとりとした情の世界が描かれて、私の心はすっかりほだされてしまいました。

私は、道さんのような人は好きだと思います。けど私が荘介であれば、自分の心の最終線を決して道が越えることのないように、距離を、距離を測り続けるだろうと思います。いや、あるいは、今ならどうだろうか。今なら、その最後の距離を詰めようと動くこともあるだろうか、あるいは否か。

と、このようなことを考えさせられた漫画でありました。

  • こうの史代『長い道』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

0 件のコメント: