2005年4月7日木曜日

それから

 友人と待ち合わせをしたのですが、私の時間の指定のミスからすれ違ってしまって会えず。せっかく職場まで来てくれたというのに、私は席をはずしていたんですね。無駄足を踏ませてしまって、本当に申し訳ないことをしました。

携帯電話があれば便利だといわれましたが、確かに携帯電話の利便性はいたく実感しているのですが、でもこれは私のペースに合わないんです。それ以前に、何時いついつどこどこでというのからが合わないんです。私にはもっと緩やかなほうがいい。端書でも出していついつお伺いしたく存じおり候。返事をもらうまでもなく訪って、留守なら留守で仕方がない。本日は残念でしたとでも書き置きして、実際私の訪問はこんな風で、だから無駄足ばっかり踏んでいます。

(画像は岩波文庫版『それから』)

漱石なんかを読んでみるとわかるのですが、明治には私がするみたいな訪問の仕方が普通でありました。明治どころか、昭和であってもこういうのは普通だったようで、今みたいにかっちり時間を取り付けず、さらにはまったく約束もなしに訪れたりもしたそうで、さすがに知らない相手を訪ねる場合は紹介を取り付けたりもしましたが、あるいはそれさえもしないこともあったようです。川端、三島の往復書簡を見れば、そういうやりとりの実際例を見付けることができるでしょう。

私には、どうもこうした前時代の時間の流れのほうが心地よいらしく、悪いことに現代の流れにあわそうだなんて思っていないようでもあるから、今日のことみたく人に迷惑ばかりかけております。

『それから』は、高校三年の国語の教科書に載っていて、私は不真面目だから教師の話なんて聞かず、教科書を好き勝手に読み散らかして、年度の後半には読むものがないから図書室で借りた本を読んでるような生徒でありました。けれど、『それから』は何度も読んでいました。繰り返し読んで、自分の身につまされるような、なにか胸が締めつけられるような —。

女の名が問題だったのです。代助が学生時分に恋しながらも自分の思いに気付かず、友人平岡の妻にと推した女。その女の名が、当時自分に関わりのあった女に同じ — 字まで同じ — であったのです。

当時の私は、間違いなくその娘のことを好いていたのだと思います。私はクラスにおいてもどこにおいても問題児で、けれどその娘とはどこか共有する感覚みたいなものがあって、それゆえ親身に話したのだと思います。一時は明け方まで電話で話して、ふたりは理解しあったかのように思ったのですが、私が全部ぶち壊しにしてしまった。後にその娘の友人から、私のことを見損なったようなことを聴かされて、覆水は盆に返らじと自分の軽率を悔やみました。

一言でいえば私が幼かったためで、確かに私は恋愛というものに怯えを感じていました。そのせいで踏み出さなかった。わざと壊れるようなことをして、けれどその時は好いた女を云々というような感じではなかった。私にはその娘はあくまでも共感できる友人であると思っていて、その友人との疎遠を嘆いていた。— そのように思おうとしていたのでした。

証拠は、まさにこの『それから』でしょうよ。女の名が同じということに感傷的な読み方をして、ヒロイズムに酔っていたのです。けれどこの小説の言わんとすることに相対しようとはしなかった。私が『それから』を文庫で買って、全編読もうとしたのは高校を卒業後何年も経ってから。大学に入ってからのことでした。

私とその娘の共通の知り合いが事故で亡くなったとき、訃報の連絡をする私は再びその女と話す機会を得て、やはりその娘こそが私の心に共感しうるものだという思いを強めました。あの親しく世話にもなった人の死に際して、その娘は「私はなにも感じない」といったのです。その感覚は、私のものに同じでした。「私はどこかが壊れているのかも知れない」という言葉に、壊れもの同士の寂しさや周囲への打ち解けなさを交換しあったのでした。

それから数年経って、その娘の結婚したという話を、人伝てに聞きました。私は、なんだよ、壊れているとかいいながらすっかり人並みじゃないかと恨みを思って、はじめて惜しいと思ったのでした。その時の感覚が口惜しさから発したものだと気付いて、はじめて私は、私がその娘を好いていたことを自覚したのでした。

こんな風に、私はすれ違ってばかりおるのです。

  • 夏目漱石『漱石全集』第6巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『それから』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1989年。
  • 夏目漱石『それから』(新潮文庫) 東京:新潮社,2000年。
  • 夏目漱石『それから』(角川文庫) 東京:角川書店,1985年。
  • 夏目漱石『それから』(漱石文学作品集;第8巻) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『それから』(講談社文庫) 東京:講談社,1972年。
  • 夏目漱石『それから』(ちくま文庫) 東京:筑摩書店,1986年。

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