2008年3月31日月曜日

アスペクト2008年3月号

一年ぶりの『アスペクト』。とはいってもここに取り上げなかっただけで、見かければ確保、読んではいたんですが、それでも定期購読しているわけではないから、見落としなんかもあったかもなあと思っています。まあ、それはどうでもいい話。出版者アスペクトの出しているPR誌、これが妙に人を食ったような味があって面白いんです。特に、巻頭の特集にその傾向は強く、ネタとしては割と真面目なんだと思うんですけど、その展開の仕方が妙。編集者や書店員といった本に関わる人に聞き取りするというスタイルなんですが、いらんやり取りが書かれていて、めちゃくちゃ面白い。だから私は、なにをおいても特集は読みますね。と、ここで本題です。『アスペクト』2008年3月号の特集は「おっさんと読書」。本を読まないといわれるおっさんに本を読ませるにはどうしたらいいだろうかという、問題提起であります。

しかし、なぜ「おっさんと読書」にそんなにもひかれたのか。いや、そうじゃないんです。この問題提起を受けて思うところがあったのではなく、むしろその内容です。ちょっと引用してみましょう。書評家という肩書きで永江朗氏答えていわく:

いま、時代小説が人気です。歌舞伎みたいなもので、しゃべり方も枠組みも決まっている。殿様か町人かの違いはあるけれど、キャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるのって、きっとおっさんにはぴったりだと思うんですよ。

さらにもういっちょう:

「新しいものを吸収するのは疲れた」という人は、設定が全部用意されているものに入りこみやすい。そういう前提で考えると、時代小説のショートショートというのは、いままでにない。

上の文章のキャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるというくだり、これを読んで、ああ、いわゆる萌え四コマに寄せられる感想そのものだって思ったんです。

まんがタイムきらら』とか『まんが4コマKINGSぱれっと』をはじめて読んでの感想や、あるいはこういった雑誌に載っている四コマに対する否定的な評に顕著なのが、どれを読んでも同じという文言です。確かにそうかも知れません。似た形式、構造、パターンを持つ漫画は確かに多い、それはわかります。けれど、違うのは絵柄だけ、かわいい女の子がいるだけでお前ら満足なんだろ、だなんていわれたら、それは違うと答えます。ちゃんと違いはある。形式、様式もろもろは似ているけれど、そこには確かに差異があるんです。明確に言葉にして説明するのはむつかしいのだけど、感じ取れる空気、雰囲気、感触にちゃんと違いはあるのだよといいたい。ええ、少なくとも連載されてる多くの漫画から、頭ひとつ抜けて、その面白さを認知させているタイトルは、それだけの違いというものをもって、読者に自分の存在を誇示しているんです。

けど、熱心な読者以外、それこそ一見さんやちゃんと見ようとしてくれないアンチの人には、その差異が際立ってこないんですね。だからなおさら駄目なジャンルに見えてしまう。こうした向きを説得して、面白さを知ってもらおうだなんてもうちっとも思わないけれど、でもキャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるといわれるような特性は、時代物ならずとも、これら四コマにおいても同様であるのだろうなあと感じた。だから、件の文章にはくるものがあったのですね。

参考

さて、二つ目の引用から気になる部分。DV系四コマにおいてはキャラクターやシチュエーションが決まってしまっている(部分もある)ということを認めてしまった私は、「新しいものを吸収するのは疲れた」という人は、設定が全部用意されているものに入りこみやすいという言説も認めなければならないのかなあ。実は悔しいことに、私はかなり疲れた状態で四コマにたどり着いたという経歴を持っているんですが、でも私のいう疲れたは、漫画そのものに疲れたというよりも、漫画を取り巻く売らんかな主義、メディアミックスやらなんやらでどかどか出る関連商品に疲れ果てたわけですから、ちょっと違うと思いたい。

参考

萌えと呼ばれるものと四コマが結びついて、こうまで広がったのは、なにも『あずまんが大王』がヒットしたからではなく、ましてや雨後の筍、二匹目の泥鰌狙いがぼこぼこ出たからでもないと、私自身は思っています。『あずまんが大王』がなかったら、別のなにかが出ただろう。時期こそはわからないけれど、いずれきっとそれに準ずるヒット作が出ただろうと思っていて、そしてその後に続く類似のものが、広くジャンルを形成しただろうと思っているのです。なんでそう考えるかというと、四コマという形式と萌えと呼ばれる様式は親和性が高いと感じているからです。

萌えと呼ばれるもの — 、キャラクター性やシチュエーションの魅力を見せ、展開するためのプラットフォームとして、コマよっつを一区切りにして畳みかけられる四コマ漫画の形式はすごく理想的です。キャラクターそのものがテーマとなりうる舞台において、キャラクターは当然自身のキャラクター性を表現することが求められるわけですが、その表現するという行為はテーマの提示展開だけでなく、キャラクターやシチュエーションの説明、そしてキャラクター性そのものを強化していく手段としても機能するわけです。もちろんこういったことはコマ割り漫画でも見られるのだけれど、四コマ漫画の合理性には及ばないだろう、ましてや循環のうまくいっている四コマの効果は絶大だ。こんなことを私は考えているのですね。

けれどそうはいっても、あ、話は戻りますよ、まとまった時間がなくて本が読めないおっさんには時代小説のショートショートがうけるはずだという意見を見て、ああ、なんのかんのいっても、DV系四コマを好む人たちも時間がないのかも知れないと思ったんですね。生活が忙しい、慌ただしいからなのか、次から次へリリースされる雑誌、漫画、ノベル、アニメ、ゲームを追うのに汲々としているからか、それは私にはわからんことです。ですが、一人一人は自分自身の状況を見て、思い当たるところはあるんじゃないかなと、そんな気もして、じゃあ私自身の場合は? やっぱり時間はないと思う。けど、四コマを読みはじめたのは、隙間時間に細切れで読めるから、ではなかったのも事実です。四コマを読みはじめた時の私にとって、四コマというジャンルには、少なくともそれまで知らずにいた魅力があった、それが全てであると思いたい。そして今は、と問われれば、それを知りたいがためにこうしていろいろ書いているんですと答えます。

引用

  • 『アスペクト』2008年3月号(2008年3月15日発行),7頁。
  • 同前。

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