2008年3月22日土曜日

終末の過ごし方

  先日、『眼鏡なカノジョ』に触れて1999年くらいの私なら、きっと一も二もなく飛びついていたといっていましたが、その1999年という年は、決して思いつきやなんかで決められたものではありませんでした。他でもなくこの年を選んだ根拠、それはゲーム『終末の過ごし方』の発売された年であったからです。1999年、世界の滅びるという予言の年ですが、もうみんな忘れてるよね。私もすっかり忘れていました。ですが、終末思想は綺麗さっぱり忘れてしまえても、『終末の過ごし方』というゲームの残した印象は忘れるわけにはいかなくて、それは私のこのゲームに向けられた愛着のためであると諒解してくださったらどんなに嬉しいかわかりません。

1999年当時、私はWindowsの動作するマシンを所有していませんでした。まだLC630使ってたころじゃなかったかなあ。風の噂に、ヒロインが全員眼鏡かけてるゲームがあるらしいぜ、なぬーっ! それってどんな桃源郷!? みたいなやり取りがあったかどうかは今やさだかではありませんが、その噂のゲームこそがほかならぬ『終末の過ごし方』で、当然ながら欲しいと思ったのですね。けれどそれはWindows用のゲームであります。なので、存在は知りつつも手にすることはきっとなかろうと思っていた。それが私の1999年という年でした。

Windows機を入手したのは2001年のことであったようです。いや、2000年末であったかも。冬。それは『終末の過ごし方』のために入手したものではありませんでしたが、ですがいずれあの記憶に残るゲームを手にしたいと思って、そしてそれがはたされたのは2001年の8月でした。なにがそれほどまで私に働き掛けたのだろう。ゲームとそしてすでに絶版(出版社倒産)していたために入手困難となっていた『オフィシャルアートワークス』を立て続けに入手することとなって、そして私はその夏、このゲームの持つ雰囲気に打ちのめされたんですね。陰鬱というより繊細で、絶望よりも儚げさが感じられるこのゲームの世界に迷って私は、悲しくて、切なくて、なんだか泣きそうな思いであったのですね。

『眼鏡なカノジョ』で書くにあたって、『終末の過ごし方』の発売された年を調べました。それでDVD-PG版が出ていることを知って、私の行動は実にわかりやすい、買いました。そして到着次第プレイしてみて、ああ懐かしい。小池定路氏の絵も温かみをもって、なんだかそれだけで泣きそうになっている自分もどうしようもないけれど、ああ好きだなこの雰囲気。胸いっぱいに広がる空白に耐えられない自分を自覚している。そんな人には、きっとこのゲームはぴったりだ。そう思ったその瞬間、私は私自身がずっと空白のまま、今の今まできてしまったことに気付いてしまって、ああ、自分という人間は、空虚を吸い、空虚を吐いて生きているのだなあ。あまりの自分の変わらぬことに愕然として、そして空虚をひとつ、ため息とともに吐いたのですね。

関西のあの地震はいつだっけ。あの時、燃える街の様子をテレビで見た時、私は自分自身が生きていることがわからなくなって、それっきり。実際に被災したわけでない私がそんなことをいうのがおかしいことはわかっているんだけど、けれど私は自分の役に立たないことをいやというほど知って、自分が当然のように思って信頼している基盤にしても、実はそれほど強固なものでもないということを理解して、なんだか現実の側との繋がりがぷっつりと切れたみたいになってしまって — 。この気持ちというのは私個人のものであるのは当然ですが、あの時代、多くの人が共有していた気分がこうだったといってもいいように思います。失われた自分と社会との接点を回復したいと思った。けれどそれは回復されたのか。他者との関わりの中で確認される自分の価値、それを見失ったままさまよった人たちは、今、自分の価値を確かなものとして信じられるまでになったのか。私は無理です。私はまだ空白のまま生きています。それでは駄目だと理解しながら、深い穴から抜け出すための最初の一歩を踏み出せず、今も、まさしくこの瞬間も、足踏みするばかりのように思われてなりません。

『終末の過ごし方』は、私にとってのはじめてのDVD-PGとなりました。プレイしてみて、多少出来に荒さを感じないではなかったけれど、例えば、シーン・テイクを告げる声がそのまま残されていたり、台詞が取り違えられていたり。またシーンをまたいだ台詞の間がつまりすぎているなど、残念ながら最高の出来とはいえません。ですが、ナレーションの読み上げられるのを聞きながら話の流れを追う、それは割と悪くはありませんでした。それだけに、男性キャラの台詞が読み上げられないのが残念で、いやね、ナレーションのお姉さんが読んでくれてもよかったんですよ。男性キャラの台詞が完全に空白になってしまうため、読むことをやめることができない。それがただただ残念でした。

とりあえず久しぶりのプレイにおいて、辿ったのは大村いろはルートでした。というのは私はいろはさんこそがこのゲームの正ヒロインと思っているからなんですが、次の週末に世界が滅亡するという現実に、立ち向かうでもあらがうでもなく、変わらぬ日常を送ろうとする彼らの物語において、もっとも過酷な未来に向きあえたように思えたのがいろはさんルートなんですね。誰よりも厳しい状況をあたえられていたキャラクターで、それゆえに誰よりも現実から遊離していた彼女が、主人公知裕と繋がることで、過酷な運命を引き受けようと決意するにいたる。いや、それを口にしたのが彼女であったというだけだったのかも知れませんね。主人公をはじめ、誰もが喪失された自分を持て余していた、その色が一番強かったのがいろはさんだったということなのかも知れません。

このゲームプレイすると、いつも私は思うのです。八週間後に人類が滅亡すると知らされて、彼らは学校という日常を維持すると選んだわけでありますが、もし私だったらどうするだろう。今の私に、はたして最期まで大切に残したい日常っていうのがあるだろうかって思うんですね。多分、こうして八週間、自分の身を振り返って56タイトル抜き出して、文章書き続けるような気がします。って、それまでにネットワークは途絶するか。けど、私は誰が見なくなったとしても、文章書いているような気がします。ギターを弾いて、歌って、文章を書いて、届けられない手紙と公開されないBlog。それできっと最期の日には、『終末の過ごし方』を取り上げるに違いないのです。

余談

いろはさんと呼ぶのは、小池定路氏いわく、

どうでもいい話だが、彼女のことは「さん」付けで呼んで下さると有難い。

とのことなので。愛されたキャラクターなのだと思います。

引用

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