『看板娘はさしおさえ』も3巻が出て、いよいよ深まってきたなあという感じであります。深まる。いったいなにがかといいますと、情愛とでもいったらいいんでしょうか。家族の情、それに友情なんてものもありますか。知りあって、なじみになって、ほだされるままに深まりゆく情の行く末。私はこの作者、鈴城芹の描く漫画は『さしおさえ』の他には『家族ゲーム』しか知らないのですが、しかしこのどちらも巻が進むにしたがって、情の描かれること濃密さを増して、すごいことになってるなあなんて驚かされるわけです。けど、それでも見失わないベースみたいなものがあるから、情に流されるということがなく、そして溺れることもなく、情の触れ合い、絡み合うその様子に揺れる心情が安定して描かれて、うまいなあと思ってしまうんですね。キャラクターといういわば絵空事、けれど彼彼女らの感じた情、それが伝わる気がする。うまいなあと思うんです。
その情の現れるところ、表情であり、言い回しであり、振舞いであり、そして人と人との関わるところであろうかと思います。読んでいるこちらの心に表面に、ざらつきを残すことがある。そのざらつきは、違和感や不快感といったものではなく、確かになにかが触れていったという実感とでもいったらよいでしょうか。そのなにかが触れたという感触が、心を騒がせ、ざわめかせ、波立たせるまでに広がって、そしてそれは長い時間をかけて丁寧に積み上げられた末の結果であるから、より深さを感じさせることにもなるのです。私のうまいと思うのは、その過程にあざとさという評価の立ち入る隙がないというところです。漫画の人物の心を大切に扱って、傷つけぬように、突き放さぬように、きっと救いもあれば、報いもあると、そう思わせてくれる落とし所に導いてくれる、その安心感がありがたいと思います。いい話しすぎると思う節もあるかもね。けど、いやな話なんてわざわざこうして読みたいなんて思わないじゃない。シビアさ、シニカルさをフレーバーに、湿っぽさ隠しながら、情の行き交いを味わわせてくれるのは、嬉しいことだねって思います。
この味わいをさして、現代の人情ものっていってもいいのかも知れませんね。実際の話、第3巻、十世の姉とみを巡る話は、ほのぼのとしたコメディに見せかけて、それだけにとどまらない大きなものを描いていたと思います。家族、本当の家族と疑似家族、それぞれの繋がりをうっすらと対比させながら、そのどちらもを大切なものとして引き受けるにいたるまでの心の物語は、葛藤、確執をはらんで、静かながらも劇的で、そしてそこにも人の情があったのですね。十世の、いつもは見せない意固地なさまは、そうでもして突っ張らなければ収まりのつけられないほどにわだかまりが大きかったんだろうなあ、涙を絞ったよ。冒頭の描き下ろしについてもそう。人の心にはいろいろな面があり、明るく笑う笑顔の裏に、また違った層がある。当たり前のこと。当たり前のこと。けど、その当たり前を鈴城芹は、ちょっとの憂い帯びた表情と、言葉の綾でもって、ああもうまく見せてくれる。人の情の機微に気付かせてくれる。そしてそれは、この人がそれだけの情の揺れ動きを感じ、見つめ、そして忘れないようにしてきたということなんじゃないかと思います。もしこの想像があたっているのだとしたら、この人はすごく愛らしい人なのかも知れない、そんな風に思います。
情というものは割と厄介で、うかつに踏み込めば抜け出せなくなる泥沼だけれど、この作者は引き際をわきまえているようにも思われるから、ずぶずぶにまでははまらない。それは他のネタにおいてもそうかも知れませんね。思いっきり踏み込んでいるように見せても、これ以上いったらもう駄目という手前でとどめてくれる。だから余計に私は、この漫画によさ感じるのだと思います。身を委ねても安心と、そうした感じを得ているのかと思います。
余談
上につらつら書いたようなこと思ったのは、五十鈴ちゃんの台詞、お母さんのそういう所キライ!!
を読んで、感じるところあったからじゃないかと思っていて、なんていうんだろう、あれくらいの年ごろって性的なこと、自分が徐々に性的存在になりつつあること? に嫌悪したりするけど(いや、男はどうだろう)、そういうのがよく現れされてるなあって思ってなんですね。そういう心情のもろもろ、よく覚えていらっしゃるんじゃないのかなって。それも生々しい体感としての記憶、そんな覚え方されてるんじゃないのかなって。そんなこと思いながら読んだ3巻でした。
そうそう、この五十鈴ちゃんの台詞は、ともすればやり過ぎで鼻につきかねないお母さん、桜子さんの傍若無人な振舞いを一度に押さえるカウンターとして機能して、無害化とまではいわないけれど、ずいぶんと緩和してしまったと思っています。同様に、五十鈴ちゃんの鼻につきかねない部分、お父さん、匡臣さんにやたら厳しい部分ですが、これは十世ちゃん、さえちゃんの方面からと、それからほかならぬ五十鈴ちゃん自身からもカウンターがあるから、やっぱり無害化されています。こういうのはほんとバランス感覚のなせる技かと思います。
- 鈴城芹『看板娘はさしおさえ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
- 鈴城芹『看板娘はさしおさえ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
- 鈴城芹『看板娘はさしおさえ』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
- 以下続刊
引用
- 鈴城芹『看板娘はさしおさえ』第3巻 (東京:芳文社,2008年),117頁。
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