『のののリサイクル』が完結しました。好きだった漫画が終わる、それはちょっとさみしいことですが、物語というものは始まりがあって終わりがある、そのふたつがセットで完成するものでありますから、完結はもっと喜びをもって迎えるべきなのだろうなと思います。それも、こんなにもいい終わり方をしてみせた漫画に関してなら、なおさらそうだと思う。ええ、思わずじんとして涙ぐんでしまうような、けどただのお涙頂戴ではなかった、そんないいお話、いいラストでありました。
『のののリサイクル』はちょっと甘めのアンドロイドとの交流もの。そのテイストは、少々私のようなおっさんが読むには甘すぎるような気もするのですが、でもそれでも確かに受け止めたと思えるものが残って、その、手に、心に残る感触は本当によかったと思うに充分なものでした。三巻かけて積み上げられてきたものは、最後にしっかりと結実した — 。けど、本当ならやっぱり私のような、人生に、世の中に、社会に疲れてしまった大人ではなく、もっと若い人たち、ののやエミュリを友達として迎えた彼女らと同じくらいの年代の人に読んで欲しい漫画であったと思います。けど、掲載誌は『まんがタイムきららフォワード』。ちょっと小学生は読まないだろうなあ、というか、この雑誌の主要購読層ってどれくらいなんだろう。多分、私は大きく外れてると思うんだけどなあ。
SFとしてこれを見るなら、アンドロイドないしは作られた人格との共存ものといえるかと思います。『鉄腕アトム』的な、人間の友達としてのロボット。一部では秀でて、けれど一部では劣っている、そうした彼らを迎えて、人とともに成長する彼らの可能性を見守る。そうした要素が見られる漫画であるのですが、アンドロイド、AIなどのSF的要素を支えるバックグラウンドはそんなに強靱ではないから、むしろファンタジーとしての面白さ、人間ではない故に可能性に満ちた異邦人を友達とする、そうした興味が全面に出ている漫画であったと思うのですね。
そう、異邦人なんです。まさか私は、こんな方向にこの漫画が向かうとは思っていませんでした。異邦人でありながら受け入れられるものがあり、異邦人であるがために受け入れられないものがあり、同じ背景を持っているふたりが直面するこの差異とはいったいなんなのだろう。このふたりのヒューマノイドの違い、そこが物語の軸的要素となって、ストーリーを引っ張っていくのですが、悪くいえばありきたりかも知れないそのテーマは、丁寧に描かれてきた子供たちとヒューマノイドの関係に後押しされるものだから、わかっていながらも引き込まれてしまって、うん、わかりやすくきれいにまとめてあるというのはすごくいいことだと思います。小難しく描いてあったら高尚ってわけでもないですからね。まず伝わることが大切で、そしてその大切なこと — 、気持ちを伝えるは『のののリサイクル』の描く、一番のテーマだったと思います。
これは別にあえて書かなくてもいいことだと思うのだけど、私たち人が伝えるもの、遺伝子は、ジーン (gene) の他に、ミーム (meme) と呼ばれる要素もある、といったのはリチャード・ドーキンスだったそうですね。『のののリサイクル』におけるテーマとして、このミームが意識されていたことは、物語中でも語られるとおりです。伝えるもの、伝えられるもの。人とともにそれらを受け継ぐ存在として、ヒューマノイドののはデザインされている、そういう考えはちょっと素敵であるなと思えるものでした。いやね、以前知人と馬鹿なこと話してた時に、人間が育ててきた文化、文明がいよいよ頭打ちとなったら、その伝達、保存は機械、ヒューマノイドに託してしまって、我々人間という種は退場しちゃっていいんじゃない? みたいなことを話していたことがあったんですよ。そう、『のののリサイクル』的な前提に立ちつつも、それが私ならこんなにも嫌な、悲観的な方向に向かってしまう。ところが『のののリサイクル』は、失われるものををそのうちに抱えつつ、新たな方向へ、人という種とともに向かおうというんですから、ああ、いい話だったななんて、なおさら強く思ったんですね。
大人が読むには甘めだと、それはわかっているから、そうした甘さを欲している人、人生や、人付き合いや、社会にへこたれつつある人におすすめしたい、といいながら、やっぱり本当は、これから世界を経験し、関わっていこうという、発展しようという世代の人たちにこそ読まれて欲しいと思う漫画であります。けど、私がいくらそう望んだとしても、このBlogをそうした世代の人が読んでるとは、到底思えないからなあ。というか、いったいどんな人がこのBlog読んでんだ? などと思ってしまうところなどは、私のヒューマノイドののに全力で負けてしまっているという所以です。
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