2009年2月28日土曜日

雅さんちの戦闘事情

 『雅さんちの戦闘事情』は、雑誌での連載も大団円にて無事完結し、そしてこの単行本第3巻の刊行で本当の本当に完結して、実はちょっとさみしい。はじまった当初こそは、ちょっと馴染みにくさも感じたりしたけれど、途中からは本当に楽しかった。特に、2巻くらいからの展開でしょうか、女巨人たちが出てきた頃くらいから。それまでが悪かったとは思わないけれど、私にとってはこれからが楽しくて、それはキャラクターの魅力がこれでもかと前面に出ていたためでしょう。真面目一辺倒のアングルボザ、この人を筆頭にして、個性的な面々が主人公サイドを食ってしまうくらいにクローズアップされ、活躍していました。日常の描写にあらわれる彼女らの素の姿がよかった。敵味方にわかれるはずの彼女らが、主人公たちとだんだんに交流を深め、仲良くなっていくというその過程にひかれました。そして、いつかこの敵対しながらも親しいという関係が壊れてしまうのではないか、その時のくることを怖れていました。

怖れるだなんて大げさな。けれど、あの、変に仕合せそうで、そして楽しげな関係が好きだった私には、その安定が壊れるのはいやだなと、そんな風に思われて、けれどこの漫画が、日常を描くことを中心にするのではなく、物語の結末に向かって進んでいくものである以上は、いつか決着がつけられるのだろうと納得はしていて、それがつらいものにならなかったらいいな、そんなことを思ったものでした。けれど、こうした心配はまったくの杞憂というやつで、ええ、展開しようではいくらでもシリアスにできそうな流れでありながらも、徹頭徹尾コメディタッチに終始して、面白く、楽しく、和やかな雰囲気を保ったままで終了したのですね。それも、第三勢力までもを和やかさのなかに取り込んで。こうした楽しげな展開が可能となったのは、登場人物全員がシリアスというものを放棄していた、それゆえであろうと思われて、けれどまったくシリアスな面がなかったというわけでもないのです。現われるやいなやコメディに融けていく、コメディやギャグの踏み台として利用されるような扱いではあったのだけれど、主に人間関係において現われてくる、ちょっとシリアスな表情、それが私は好きでした。具体的にいうと、3巻ではヤルンサクサの行動に伴なういろいろ。あれはよかったなあ。彼女は実にいいキャラクターであったと思います。

物語は基本的には王道。いわゆるお約束を押えたものでありました。ストーリーを持った漫画ではあるけれど、展開の妙や意外性を売りにする漫画でなく、あくまでコメディであったのですね。お約束的展開は、コメディの舞台としてよく機能していました。シチュエーションを提供し、キャラクターの個性を発揮させるための仕掛けとして働き、その結果、登場人物たちの人となりが強く意識されることとなって、そして彼女らの人となり — 、和やかさが漫画全体を支配することとなったのでしょう。それはすごく心地良いものでありました。過激で過剰なネタ(主にぱんつ)、ちょっとシビアなネタ(主に父の扱い)、そうしたものも柔軟に包み込んで、あたりを和らげていました。漫画全体がずっと親しみやすいものとなって、ああ、私はこの親しみやすさが好きだったんだ。完結した今、そのように思っています。

連載が終了したのは、ついこのあいだだというのに、ずっとずっと前のことのように感じます。そうしたことに驚きながらの単行本、おそらくは私は以前よりもずっとニュートラルな状態で読めたと思うのですが、以前いっていた内部だ外部だという話、それはもうほとんど気にならず、普通に、独立の漫画として楽しんで読んでいたと思います。楽屋ネタは楽屋で、そんなことも書かれていましたが、リアルタイムで連載を追っていた人間だからわかる、そうした面白さがあってもいいと思います。けれど、それがリアルタイムでなくなったときに、後に読み返されるそのときに、その漫画の面白さはどうなるんだろう。古典作品なんかで、註が付けられたりする、そうやって読み解かないと楽しめないというのはちょっと残念かもな。などと思うこともあるのだけれど、今、こうして読み返された『雅さんちの戦闘事情』は充分以上に面白かった。その内部にしっかりと面白さを抱えていたと思います。

ところで、あんな人物紹介、はじめて見ました。過剰で過激。けど、それを許させるのは、この作者の持ち味、これまでの積み重ねのためであろうと思います。ああいう無茶は結構好き。それと、巻末の付録、北欧神話解説というかコメント、ああいうの大好きです。凛々しいを通りこして怖いくらいの昔アングルボザ、素敵すぎ。素敵といえば、表紙の雅花子。いい絵だなあ。かわいすぎ。本当にいい絵です。

  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。

引用

2009年2月27日金曜日

けいおん!

 音楽を題材とした漫画のブーム、その波は四コマ漫画にもやってきて、『けいおん!』、『うらバン!』、そして来月には『ひかるファンファーレ』もひかえていて、もう、なんだか嬉しいなあ。喜んでいるわけですが、しかしそのうちのひとつ『けいおん!』がアニメ化されるいうのですから、驚きです。いやね、長く四コマ漫画読んできたわけですが、こんなにも次々アニメ化される日がくるだなんてこと、夢にも思っていませんでした。私は今は脱テレビしてしまったので、きっと見ることはないでしょうが、でもすなおにうれしいことであるなあ。喜んでいるのであります。

さて、その『けいおん!』は、第2巻に入って皆さん進級しまして、そして新入生も迎えることとなりまして、ひとりは平沢唯の妹、憂。この人は軽音楽部には入ってません。そしてもうひとり、中野梓、軽音楽部に新しく入った一年生でギター。使うギターはフェンダー・ムスタング? なんか、メジャーどころを避けている? そんな風に感じないでもない選択は、わりと私の好みであったりします。いやね、私もエレキギター持ってるんですよ。全然弾いてないけど。ひとつはエピフォン・ジャパンのレス・ポール。もうひとつは、ZO-3の7弦ギター。これもまた全然弾いてないけど。弦もしっかり錆びちゃってるし、いかんよなあ、なんとかしないと。

梓のムスタングを選んだ理由というのは、手が小さいからというもの。ネックが細くないと、といっていたけど、多分、スケールの問題もあるんだろうな、なんて思ったりして、スケールってのはなにかというと、この場合はネックの長さないしはフレットの幅のことです。この漫画に出てくるギターでいえば、唯の弾いているレス・ポールはミディアムスケール、そして梓のムスタングはショートスケールでありまして、ミディアムスケールはネック長(正確にはナットから12フレットまでの長さ)が628mm、ショートは610mmです。そして、フェンダー・ストラトキャスターなどはロングスケール(レギュラースケール)で648mm。この数センチの差から生じるフレットの間隔の違い、それを梓は考慮に入れて、指が短くても弾きやすいショートスケールを選択したのかも知れないなどと思ったりなんぞしましてね、ちょっと面白かった。で、こうした演奏しやすさを考える梓に対し、徹底的に感性の人である唯は見た目の可愛さからレス・ポールを選んだ。あの重いギター(ストラップかけたら、鎖骨が折れるんじゃないかと思うほど重い)。それをこの人は、また感性で、気のおもむくままに弾いているようで、こうしたアプローチの違いみたいなのが出てくるところも面白く、そして梓(理論派なの?)が理屈抜きの唯に感じるもやもや、すごくよくわかるような気がします。ってのは、私もどうやら理屈派であるようでして、けど音楽ってのは理屈なんてどうでもいいから、音が出りゃいいって面もあるわけですよ。指がばたばたでも、コードの押え方が人と違っていても出りゃいいんです。スタンダードでないことを恥じるのではなく、それが個性だ、オリジナリティだっていいはればいい。唯はまさにオリジナリティ志向としてデザインされているようで、で、本番になると輝いて見せるタイプに設定されていて、ああ、ちょっともやもやする。このもやもやは、ちゃんと言葉にすると嫉妬になるんではないかなと思います。

連載で追っていたときには、1巻同様に、やっぱり音楽については薄めかな、なんて思っていたのですが、こうして単行本になって、まとめて読めばやっぱり印象は違ってきて、これくらいでちょうどいいんじゃない? と思える濃さに仕上がっているように感じます。私なんかは、もうちょっと濃くてもいいかなって思うけど、そりゃ自分も音楽やってる人間の言い分で、音楽は聴くだけって人には、これぐらいじゃないと重いでしょう。音楽がほどほどにあって、けれどそれと同じくらい、学生としての日常や遊びたい気持ちが描かれる、そういうバランスが、楽しみとして音楽に取り組む人の温度をうまく表現しています。バンドってのも楽しそうだなあ、そう感じさせるのは、音楽や楽器の魅力もさることながら、仲間たちとわいわいとやる、そうした場がしっかりと描かれているからなのかも知れません。

ところで、作者もギターを弾く人、しかもレフティであるんだそうですが、著者近影の代わりに掲載されたギター三本、みごとにギブソン系で、レス・ポール、同DC、そしてSG。ハム好き? けどこういうの見ると、なんかまたエレキギターが欲しくなるなあ。買いませんけど。バンドなんかもやってみたくなるなあ、友達いないから無理だけど。なんて思ってふらふらしてしまうのは、ちょっと感化されてるのかも知れませんね。正直なところ、楽器店で貼り付いてしまう澪の気持ちはよくわかる。わかるからこそ、ちょっと危険な漫画であるんです。

欲しくて買えない澪の気持ちはよくわかる、といったわけでもないのですが、私のちょっと欲しいと思っていたギター、Les Paul Standard RAW POWER EMGってやつなんですが、どうやら市場から払底してしまってるみたいです……。馴染みの楽器屋のサイトにいったら、消えていました……。ううう、残念。まあ、買えないから、どっちでもいいんですけど。

  • かきふらい『けいおん!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • かきふらい『けいおん!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月26日木曜日

デイドリームネイション

 『デイドリームネイション』の2巻が出たというので、買ってきました。しかし、すっかり内容を忘れてしまっていましたよ。舞台は高校の漫画研究部。ヒロインはふたり、眼鏡の小岩井、すくすくとした肢体に釘付け荻野。そしてこの漫研には神さまがついていて、沼の神さま? かえるの神さま? この人はやたら美形で、日がな一日漫画を読んで過している。あとは、久遠寺先輩か。とにかく、わけのわからない人。ある意味、kashmirらしさを担保している人。うんうん、だんだん思い出してきました。そして2巻は、彼女彼らがまんが祭り、漫画のイベント、即売会に参加すべく、コピー誌づくりに明け暮れる、そんなシーンから始まります。

けど、なんといったらいいんでしょう。この漫画には妙に郷愁めいたものを感じないではおられない、そんなところがあって、けれど私にはこの漫画に描かれるような、非日常と日常がないまぜに混じり合うような過去はなかったし、あそこまで常軌を逸した知り合いというのもいなかった。なのに、そう思ってしまうのはなんでなんだろう。そもそも、漫研でもなかったというのに。なにか通ずるところがある、そう思われてならないのは、青春の惑いといったものが、とりわけ小岩井あたりから感じられるからなのではないか。そんなことを思っているのです。

青春の惑い、なんだそれはといわれれば、小岩井とラノベ絵師葉子さんの会話などがかなりそんな感じをかもしだしているのですが、小岩井の、自分の未来に対しての希望を持ちつつ、同時に失望している。失敗する可能性を勘定に入れてしゃべっている、けれど実はほのかに期待をしている、そうした揺らぐ様がたまらなくくすぐったくて、そして懐かしいのです。

ええ、私も惑っていたのだと思います。いや、今も惑っているといった方がいい。自分にはどういう可能性があるのだろう、そうしたことを思いながら、捨てきれずにいる思いを引き摺りながら、いつかくる未来なんてないと失望している。けど、もっとものをわかっていなかった昔は、高校生だとかのころは、もっと無謀に将来を夢見ていた。けど同時に無理だなんて思っていたんだよなあ。そうした思いの中で揺れながら、どこにも落ち着くことなく今まで流れてきてしまったのが私なら、もしかしたら小岩井なんかもこれからそうした道を歩むのかも知れない。そうしたことが語られるところに、胸の詰まるような思いがしたのでした。

この漫画に限らないのですが、kashmirという人は根は真面目なのかも知れません。叙情や感傷がいたるところに顔を出す。時に、気恥ずかしくなりそうなほどに、真っ直ぐな気持ちが表現されることがある。けれど、実際に気恥ずかしいからなのか、そうした面に非現実や荒唐無稽に肉薄しようとするかのような表現を上塗りして、流してしまう。それは、いい話を台無しにするという手なのかも知れないけれど、あるいは真正面からいい話をできない、したくないという故なのかも知れないとも思って、けれど、それでも、そうした叙情、感傷、なんでもいいんだけど、伝わってくるんですもの。伝わってくるもの、『デイドリームネイション』2巻においては、心の揺れ動き、希望と失望の間に惑いながらも、ちょこっとずつ現実にその期待を着地させられないか、そんな気になる若人の話であったのかな。そして、もちろん後半に語られた一連のこと、あの心情も切々としてよかったのです。ああ、叙情の人だな、kashmirは。そんなことを思います。

と、ここまで書いて、過去の文章に立ち返ってみれば、なんてこった、『○本の住人』、『百合星人ナオコサン』でも叙情という語を使ってました。まいったな。けど、そのどれもに共通するかのような情緒があり、そしてそれぞれに固有と感じられるようなものもあり。一番強く感じられるもの、それは失われるものに対する強い憧れでありましょうか。もしかすれば、固有であると思えるものも、ベースとなるそうした情緒の変奏であるのかも知れないなどと思っています。

  • kashmir『デイドリームネイション』第1巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2007年。
  • kashmir『デイドリームネイション』第2巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月25日水曜日

I met a cat on a Sat., taken with GR DIGITAL

Cats on a street今月のGR Blogトラックバック企画は猫であります。非常に人気の高い被写体、実際、猫を撮るのが好きという人は多いといいますし、また、どこで聞いたかちょっとわすれたのですが、日本人の猫好きは特筆すべきものがあるとか。多分Flickrあたりだと思うのですが、写真共有サービスで、あまりに日本人が沢山猫写真を公開するものだから、一体あれはなんなんだと、驚かれたり面白がられたりされたんだそうです。けれど、私はそんなに猫の写真は撮っていません。見掛けたら撮るようにはしてるんですが、ほら、猫ってやつはじっとしてくれないでしょう。近づくと、ぱっと逃げちゃう。寄らせてくれないから、広角のGRではきびしいんです。とはいうものの、探せばやっぱりあるわけで、そいつをひっさげてトラックバック企画 猫 に参加します。

ある土曜日、猫に出会った。ということで、タイトルは I met a cat on a Sat. 私は毎日写真を撮ることにしているので、ちょっとしたお出かけでもGRを持って出るのですが、そうしたある日の写真ですね。途中猫に出会って、写真を撮って、去ろうとしたところに寄っていったら、近付いてきてくれました。猫を真上から撮ったのははじめてのように思いますが、すらりと長いものなのですね。

猫はそのまま留まりもせず、足元を抜けていってしまいました。どうも、私は面白みに欠けていた模様です。

I met a cat

I met a cat

I met a cat

2009年2月24日火曜日

トンボ鉛筆 ピットテープMフラット

 テープのりを新調しました。これまで使ってきた、ニチバンのテープのりDSから、トンボ鉛筆のピットテープMフラットに買い替えたのです。して、その理由とはいかなるものであったのか。いやね、実に簡単単純な話であるんですけど、替えのカートリッジを買いにいったら売り切れててなかったんですよ。ありゃあ、参ったなあ。明日明後日に使いたいから、なんとしても今日買いたい。けれど、いつもののりはなし。となると、今、店頭に置いてあるものを買うしかないわけで、それがたまたまトンボのピットテープであったというわけなのでした。

(画像はトンボ鉛筆 ピットテープM)

ピットテープMフラットは、テープのりDSに比べてもずっと小振りなボディ。テープ幅は8.4mmで長さは14m。のりはドットやメッシュではないけれど、スパッと切れると謳っていて、期待してもいいのかな?

買ってきて、実際に使ってみての感想、その第一は、びっくりするほどにローラーが軽く動くということでした。それはちょっと頼りないと思わせるほどであったのですが、しかし紙の表面を見れば、きちんとのりがついています。紙を載せて押さえてみると、確かにしっかりと貼れているようで、ひっぱってもずれる、動く、はがれるということはありませんでした。

のり切れに関しても、当面問題なく使えて、だらしなく糸を引くようなこともありませんでした。ただ、紙面から離すときには、ちょっと意識して真上に持ち上げるようにした方がいいかも知れません。そうしないと、のりが斜めに切れたりして、まあ若干なんですけど、次に使うときのことを考えるとちょっと気になったりしまして、でも今のところ、問題なく連続使用できています。

私はこれを、主に雑誌のアンケートを出すために使っているのですが、雑誌から切り抜いた様式を端書に貼るんですけど、このとき雑誌の切り抜きにのりづけするのは、ちょっとうまいやりかたではありません。黒がべたっと印刷されたようなところには、のりがうまく付かないし、また紙の表面がそんなに強くないものだから、時にテープに貼り付いた紙面が剥がれて巻きこまれることがあるんですね。だから私は端書側にあたりを付けて、そちらにのりづけするようにしているのですが、このピットテープ、この軽さなら、直接雑誌切り抜きにのりをつけてもいけるのでは? そう思って試してみたのですが、やっぱりそれはうまいやりかたではありませんでした。

テープのりDSを使ってきての経験によると、開封してある程度すると、湿気を吸うんでしょうかね、のりがべたつくのかどうなのか、のりづけ動作が重くなってしまいます。あるいは、ローラーまわりに付着するダマのせいなのかな? いずれにせよ、ピットテープも軽いのは最初だけかも知れません。これに関しては、半月もすれば結果が出るでしょう。けれど、最初の軽さを考慮すれば、ちょっとくらい重くなっても問題ないような気もしますけれど。

といったわけで、これからしばらくはピットテープMフラットを使っていくこととします。つめ替えテープも一本、購入済みです。

2009年2月23日月曜日

はなまるっ!

 荒木風羽は私の好きな作家です。詳しく知っているわけではないけれど、『まんがタイムきららMAX』に連載されていた『スキっ!キライっ!』で好きになって、そして現在連載中の『そして僕らは家族になる』、ちょっと辛気臭いところもあるんだけど、そうしたニュアンスも含めてやっぱり好みで、だから既作が単行本化されるというのを知ったときは、ちょっと嬉しかったです。そのタイトルは『はなまるっ!』。『コミックフラッパー』で連載されていた漫画なのだそうですが、私はそのころ、この作者の存在すら知らなかったわけで、けれどその知らずにいたころの漫画をこうして読めるチャンスがやってきた。本当にありがたいことです。『そして僕らは家族になる』の効果でしょうか。一定数のファンが付いて、一定の売り上げが見込めるようになったということなのかも知れません。じゃあ、だったら、その期待に見事応えてみせようじゃありませんか。買ってきたのでありました。

内容は、女学生が楽しそうに学生生活を送っている、その様子を描いたものであるのですが、読み始めの当初、少々混乱しました。あのカラーは描き下ろし? ということは、あの文化祭からスタートしたの? 第一回にしてはやたら唐突なんだけど。人物紹介などもないし、それこそ、これ、第2巻ですといって渡されたら信じてしまいそうなスタートに戸惑い隠せず、まさか、まさか、掲載当初の何回かオミットされてる!? そんな、ひどい、ひどいわ。よよよと泣き崩れ — 、たりはしませんが、しかしオミットされてたりしたら、ちょっと残念かもなあ。とはいいますものの、まずはこうして読めることを喜びたいと思います。初出一覧が見当たらないので、オミットされてるかどうかもわからないのですが、でも気にせずに読んで、楽しんだらいいんです。とにかく、今、手にしているものがすべてである、その意気で読み進んでいったのでした。

しかし、登場人物は結構ベタといいますか。関西弁キャラはあえて外すとしても、腹話術人形を通してしか話せない女の子や、着ぐるみキャラが出てきます。個性的でないことに悩む完璧優等生がいるかと思えば、病弱の流血教師などなど、わりと見掛けるタイプのキャラクターで構成されているところに、最初は微妙さを感じないでもなかったけれど、しかしそうした要素はほどなく気にならなくなって、そうなれば後は荒木風羽のらしさが出てくるばかりであります。強烈なオリジナリティを発揮するわけでもないけれど、なぜだかほどほどに個性的、にじみ出るような独自性、ちょっとしたおかしさ、ああ、ファニーだったりストレンジだったりってことね、が働きかけてきましてね、例えば着ぐるみは着ぐるみでいいんだけど、撞木鮫というセンスはかなりきてます。そうした、はしばしに感じられるセンスの独特さが私の心を捉えましてね、ああ、そうか、私のこの人が好きというのは、まさにこの不思議ささえ感じさせるセンスのためだったんだって再確認したのですよ。

思えば、『スキっ!キライっ!』だってそうでした。よる子の奇矯性。その、あまりの変な子ぶりに心奪われて、なんて可愛いのだろう、釘付けでした。それが『はなまるっ!』でも再現するかも知れない。けれど、まだ足りない。まだ残っているという原稿、2/3が足りない。実際、回を進めるごとに、キャラクターの自然な奇矯性が開花していくと感じられるものですから、このまま先へ先へと進むことができれば、きっともっと好きになるに違いない、そんな予感がするのです。そして、この人のもうひとつの持ち味。心の機微を、ささやかにしっとりと描いて、ほのかに暖かみを残すようなところもじわりじわりと効いてくる。これは、いいな。漫画に加えて、この作者の持ち味がよいな。折々にそう思わせるところがあるのですね。

だから、メディアファクトリーは、続々と続刊させるといいと思うよ。そして、もしも可能なら、『スキっ!キライっ!』も出してください。じわじわと、この人の持ち味が浸透していくとどんなにか素敵だろう。そのように思い、願っているのです。

  • 荒木風羽『はなまるっ!』(MFコミックス フラッパーシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月22日日曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

Saxophone mouthpiece with T Series rigature昨日に引き続き、Tシリーズのリガチャーについて。ただし、今回はアルトサックス編であります。これまで使ってきたリガチャーは、定評のあるハリソンのゴールドプレート。リードをH型のプレートで支えることで、その振動を妨げない。固定的なファンのあるリガチャーでありまして、さらにいうと、私の持ってるのはオリジナル。このリガチャーには復刻とオリジナルがあって、オリジナルじゃないといやだという人もいるんです。ハリソンは華奢なことでも知られ、ネジを絞めすぎると金属が切れる、そうした事故もあるリガチャーですが、しかしオリジナルを愛する人は、切れても修理して修理して使い続けるのだそうです。その人にとっては代え難い、大切な道具であるのでしょうね。そしてそれは私にとっても同様で、もし壊れたらたまらないと、細心の注意を払って扱ってきました。ネジはそっと、リードを軽く押さえる程度にしか絞めない。キャップはしない。チューニングもしない(嘘です)。マウスピースの抜き差しは、リガチャーに負担のかからないよう、場合によってはリガチャーとリードをはずして行うなど、もう大切に大切にしてきたのです。それは、それだけ気に入ったリガチャーであったからなんです。

というわけで、ハリソンとTシリーズの対決と相成りました。おそらくは、それほどの差異は出ないはず。そのような予想を立てて吹いてみて、はたしてその結果はどのようなものであったのでしょうか。

実際、劇的な違いは出ませんでした。しかし、違いは確かにあるのです。Tシリーズの方が充実して吹けるという印象があります。低音はよく出ます。けど、ハリソンも同じくらい出るからなあ。高音も出ます。でも、ハリソンでも出るんですよ。しかし、その出方がちょっと違います。ハリソンの方が軽い吹奏感です。そして、ちょっと神経質な感じ。よくいえば繊細です。対してTシリーズはというと、結構な抵抗感がありまして、わりと豪快に鳴ってくれます。ただ、息の消費が増えた? なんてったらいいんだろう。マウスピースの開きが大きくなった感じがするっていったらいいか、昔大学で吹いてたバリトンサックス、あの頃の吹奏感を思い出した。特に低音の響きにその感覚は顕著で、大学の備品たって音大なので、そりゃちゃんとしたものが置いてあるんですが、セルマーのSerie IIにS80 Dが付いてたんだっけかなあ、あれいい音したんですよね。低音の魅力、Low Aなんて出した日には、うっとりする。そんな気持ちよさがあったのですが、Tシリーズを使ってみて、そんなこと思い出しました。

ハリソンが神経質なら、Tシリーズは無神経? いや、そんなことはありません。リガチャー側でしっかり音をホールドしてくれているという感触があって、それを私は抵抗感があると表現したのですが、押し返してくるといったような感じはなくてですね、あくまでも抜けのいい音がするんです。私の実感では、ハリソンよりもいいかも。高音をはじめとして、全体に音は太ったと感じます。うまく受け止めてくれる感触があるから、思い切ってどんと渡せるといった感じがいい。ちょっとくらい不用意に吹いても大丈夫。でも、手を抜いた吹き方すると、手を抜いたような鳴りがするぞ。こうした風に感じるのは、奏者の意図によく反応するからなのかも知れません。一生懸命吹いたらそのとおりに応えてくれる。フォルテシモもピアニシモも、ニュアンスを違えて吹こうとした時も、うまく反応してくれて、コントロールがしやすいと感じられます。

ただ、こうした感覚には直に慣れます。ハリソンにはハリソンの長所があって、今は私はハリソンでは得られなかった部分に反応しているのかも知れません。なにしろ、私にとってハリソンの感触は、自然でニュートラルと感じるようにまで慣れていたのですから。けれど、私はTシリーズの鳴り、安定性、ぽんと投げてまかせられる安心感に魅力を感じて、これからはこちらを継続的に使っていこうと思っています(ネジが壊れたりする心配もなさそうだし)。そしてTシリーズが自然に、当たり前になった時にハリソンを使うと、両方の長所短所がよくわかるんだろうなと思います。

あ、そうだ。私の購入したのはピンクゴールドのモデルでした。上記の感想にあった、音の太ったという印象、これはピンクゴールドの輝きもありつつ柔らかくしっとりしていて深みや色気があるという特性によるものなのかも知れません。太ったというとなんか変な表現ですが、ふくよかといいかえるとそれらしいかも知れません。私の実感としては、あくまでも太ったなんですが。

もし、またハリソンの音質が欲しいと思うことがあったら、Tシリーズの金メッキあるいはロジウムを試してみるといいかも知れないなと思っています。説明を読むと、おそらく安定性はそのままに、素直な伸びや発音の明瞭さを得られるのではないか。アーティキュレーションをしっかり表現したい時にはロジウムが有利?

いつか、全種類そろえそうな予感がして危険です。

引用

2009年2月21日土曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

先日注文したリガチャー、Tシリーズが到着しました。実際に手元に届いたのは一昨日なんだけれど、実際に音を出すとなると土日を待たないといけなくて、いやあ、実に待ち遠しい。そんな数日を過ごしました。そして今日、Tシリーズを試してみました。まずはソプラノサックスから。なにせ、リガチャーに選択の余地がなかったという、その状況を是正したいと思っての購入であったのですから、まずは主目的からはたしませんとね。そして、その結果はといいますと、まったくもって素晴しい。きっと変わるだろうな、それも格段に変わるに違いない。そうした予感はありましたが、想像していた以上に変わりました。その違いは、吹いている本人どころか、聴いている周囲にもきっとわかるだろうと思われるほどに劇的で、いやはやこれはなかなか。もしあなたにライバルがいるなら、このリガチャーの存在を知らせるな。そうアドバイスしたくなるほどに好感触でありました。

どう変わったか、もうちょっと具体的に書いていきましょう。

私の望んだこと、それは高音の抜けと低音の出でありました。双方、見事にクリアされました。高音はやせず、素直に出る。しかも、響きを抑えないためか、倍音を使った高音域も出やすくなって、High G(実音だとHigh F)も楽に出る。おっと、これはHigh Gキーいらんかったんじゃないの? そう思うくらい、フラジオの方が出やすくて、ありがたいなあ。選択肢があるということはいいことです。

低音は、下線の音域になると、どうにも暴れやすくて困っていたのですが、それが随分改善されました。というか、右手の音域の時点で既に変化は現われていて、楽器の管いっぱいを使って鳴っているという感じが心地良い。素直にレンジが広がったといえる。音量の幅がというだけでなく、表現の幅も広がったという感じです。これまで、この右手あたりの吹奏感に不満は感じてはいなかったのですが、一度経験したら駄目です。これまでのリガチャーに戻して吹いてみたら、拘束されてるような感じがする。全然息が入らないと感じられる。それは息が入らないのではなくて、入れた息がロスしているということに他ならないのですが、つまりこれこそが高尾哲也氏のおっしゃる効率であるのでしょう。

響きが増大していることは、反響して返ってくる音の感覚が違うことからもわかりました。それは音量が増えるということではなく、遠達性がよくなるということでしょう。ソノリテが違う。これは、ホールなどで吹けばきっともっとよくわかるはずで、けどその機会はちょっとなさそうだなあ。残念。

低音の改善には目覚ましいものがありました。油断すればそりゃ暴れることもあるけれど、しかし以前のような暴れかたはしない。というか、暴れさせるつもりで吹いても暴れないし、よっぽど不用意にやらないかぎり大丈夫そう。信頼性がぐっと上がったといっていいかと思います。中音域から最低音域への跳躍に際し、必要以上に気をつかわなくていいというのは素晴しい。高音に関しても、びくびくせずにどーんといける。というか、これが楽器本来の調子であるんでしょうね。

楽器やリードがダイレクトに鳴る、そんな感じがして実によいのですが、逆にいえば、質の差がもろに出るということでもある模様です。リードを本腰入れて選別してやらんといかんという気になっています。鳴らないリード、よくないリードでもそれなりには吹けるけれど、それなりでしかないということも実によくわかって、それは結局はリガチャー周辺で抑えられていた分が開放されたということなのでしょう。良いリードはより良く、そうでないリードはそれなりに。うまい人はよりうまく、そうでない人はそれなりに……?

もっと頑張って練習しよう! そんな気になるリガチャーで、それはつまりは、しっかり吹けば、その分きちんと返ってくることが実感できるということであります。お友達にも教えてあげて、お友達も綺麗にしてあげましょう。いや冗談じゃなくて、人にどうよとすすめてみたくなる、そんなリガチャーであるんですよ。

2009年2月20日金曜日

Hotter Than That

 CDはずいぶん安くなった。などというのは、昨日とりあげましたハルモニア・ムンディの50枚組を受けての感想でもありますが、それ以前に、先月くらいからちょっとブームになっていた、メンブランの10枚組ボックス、これを受けてのものでもあるのですね。ジャンゴ・ラインハルト、アストル・ピアソラを買い、そのコストパフォーマンスにはしびれたものでした。私の購入した価格は1680円。輸入盤でも、この価格では1枚くらいしか買えなかった、ちょっと前まではそうだったと思うのですが、今やこの価格で10枚組が実現するというのですから、おそろしいですね。もちろん、これが特殊なケースであることは理解しています。けれど、一度こうした価格での買い物を経験してしまうと、安価になれてしまいそうで、それもちょっと困ったことだと思います。

さて、ジャンゴ、ピアソラに続いて、ルイ・アームストロングも買ったといっておりました。もちろん聴いています。さすがにちょっと昔の人、音質もそれなりといえばそれなりであったのですが、けれど昔の盤だとわかっているから、この音質も特に問題だとは思わない。むしろ、味わいのうちだ、そんな風に思うきらいもあるくらいです。

収録の曲は、有名な曲、聴いたことのあるというようなものもあれば、まったく知らないものもある。というか、私はジャズはそれほど聴いていないから、ほとんどが知らない曲です。しかし、それでも問題なく楽しんで聴いて、それはきっと、ルイ・アームストロングの音楽の、魅力のためであるのでしょう。

ルイ・アームストロングはいわずと知れたトランペット奏者でありますが、この10枚組ではむしろ歌手としての印象が強く、親しみのある声、低音のあたたかいと感じさせる声質に、語りかけてくるような歌い口がひきつけます。かつて全米どころか世界を魅了した歌声。しかしそれは熱狂させるようなものではなく、静かに穏やかに響いて、やさしく心をなぐさめてくれるようであります。それは軽快な曲であっても、スローな曲であっても同様と感じられて、そんなことを思うのは今の私が刺激にとりまかれてしまっているため、なのかも知れせん。ルイ・アームストロングの音楽にことさらの刺激を感じなくなってしまっているのかも。だから、かつて彼に魅せられた人は、穏やかなんてものではなく、まさしく熱狂したのかも知れませんね。伝わってくるエネルギーがあります。それは湧き上がるような力強さを持っていて、私はそれを頼もしさ、安定と感じますが、かつては人々を熱狂させた、そんなエネルギーであったかも知れないな、そのように思わせる強さは確かにあるのです。

ルイ・アームストロングのジャズは、ニューオーリンズスタイルという理解でいいのでしょうか、古典的な、結構端正と感じさせる、そんな佇まいでありますが、けれどうきうきと楽しくさせる、ほっと穏やかな気持ちにさせてくれる、多彩な表現、表情を持っています。ぱっと聴けば素朴と思える古き良きジャズ、けれど骨董品ではない、そのように感じるのは、その音楽が生きて、聴くものの心に触れてくるからでしょう。改めて聴いて、よいなあ、そう感じさせる魅力があったのでした。

2009年2月19日木曜日

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

 このボックスの存在を知ったのは、購読しているBlog「せろふえ」で取り上げられたのを見てでした。古楽ジャンルで定評あるレーベル、ドイツ・ハルモニア・ムンディの50周年記念ボックスだっていうんですね。なんとCD50枚組が五千円台で買えちゃうという。ええーっ、と驚いて、余裕ができたら買おう、そう思って楽しみにして、待っていたんです。はら、今はどんどん円高が進んでいるとかいいますでしょう。だから、待ったらもっと安くなったりするんじゃないのかなあ、なんて期待をしたんです。そうしたら、六千円台に値が上がってしまいまして、あわてて買いました。いやあ、欲をかいちゃいけませんね。というか、この間の悪さ、これこそが、私のギャンブルや相場に手を出さない理由です。そいつを、まさかCD購入で再確認させられるとは思いもしませんでした。

さて、届きました、50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi。

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

開けました。

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

驚愕の50枚組!

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

AstorgaのStabat Materに始まり、

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

ZelenkaのSimphonieに終わる、長大なコレクション。これだけたくさんあれば、まったく知らない曲どころか、名前を聞いたこともないような作曲家さえ出てくるのですが、けれどしっかり有名どころが押さえられているから、バロックを中心とする古楽の入門にもうってつけかと思われます。バッハなら『ゴルトベルク変奏曲』、『音楽の捧げ物』、『ロ短調ミサ』、『無伴奏チェロ組曲』。ヴィヴァルディの『四季』だってありますよ。もちろんこの他にも有名どころはあるんですが、マショーの『ノートル・ダム・ミサ曲』なんてのは偉大なタイトルだし、ブクステフーデやクープラン、ラッスス、リュリ、パーセル、ラモーなんてのもビッグネーム(フレスコバルディやモンテベルディ、グルックなんかももちろんそうなんだけど、それいうと、ほぼ全員の名前をあげないといかんので……)だし、マラン・マレだとかサント・コロンブはガンバにおいては外すことのできない大家だしで、けど古楽に明るくない人にとっては、このへんはよく知らないということもあるでしょう。

しかし、だからこそ、このボックスが光るのです。50枚組で六千円そこそこという安さは、ただそれだけで魅力ですし、それになにしろハルモニア・ムンディ、質に関しては申し分ありません。入門者にとっては、解説が簡素という弱点もあるかと思いますが、どうせ輸入盤で、日本語解説なんて入ってないんだし、あってもなくても一緒でしょ? というわけで、日本語解説が入っていてもはなから読む気なんてない私は、躊躇なく購入を決定。届いてからは、iTunesに読み込むだけでも一苦労、はたしてどれくらいの日数で全部聴けるだろうと、実に贅沢な悩みでありますよ。

とりあえず、一日に2枚くらいのペースで聴けたらいいかなと思っています。って、それでもおよそひと月かかるのか。脅威のコストパフォーマンス、すごいことになってます。

2009年2月18日水曜日

トミカ No. 014 コマツ 対人地雷除去機 D85MS

 昨日、たまたま知ったのですが、対人地雷除去機のミニカーを買うと、その売り上げから地雷除去などの活動をしているNPO、JMASに寄付がなされるのだそうですね。へー、知らなかった。じゃあ、買おう、そう思って、帰りにヨドバシカメラに寄りました。昨年末にヨドバシカメラにいった時に、対人地雷除去機のミニカーがあることに気付いていたんですね。トミカの棚を眺めていて、へー、面白いものがミニカーになってるんだなあと思ったことを覚えていたのです。実は、その時にも面白がって買おうかどうか迷ったのですが、けれど面白いからといってぽんぽん買い物したら、あっという間に身のまわりがもので埋まってしまいます。というか、既にかなり問題のある状況なので、なんとか買うものをセーブしようと、そのように思っているのですね。ですが、その買い物が人道支援になるとなったら話は別です。買った。これは地雷除去のための寄付活動なんだ、そういいながら買ったのでした。

まあ、本当に人道支援、寄付活動をしたかったら、おもちゃを買ってなんてまどろっこしいことしてずに、直接寄付すればいい話で、それをしないというのは、結局おもちゃが欲しかっただけなのでしょう。ただ、買うには言いわけが必要だった。あるいは、物欲を人道支援のイメージで綺麗に飾って、いい気分に浸りたかった。あとは、ちょっとした話題が欲しかった、そうした気持ちもあったのかも知れません。

買ってみて、実際に手にしてみれば、結構な重さのあるものなのですね。ボディはダイキャストでしょうか。亜鉛合金でできていて、ちょっとやそっとでは壊れそうにないタフさです。このあたりは、さすがトミカと思わせるものがあります。昔から、定番のおもちゃとして、男の子のいるうちにはひとつふたつあって、屋内どころか、どこにだって持ち運ばれたものでした。おもちゃ箱の中に無造作に突っこまれる。砂場に埋められる。それでも滅多に壊れるものではありませんでした。開閉式のドアが動かなくなったり、車軸がまがってしまったりしても、車体は無事。それがトミカというものであったと思います。

ミニカーの楽しいところは、手で走らせて遊ぶというだけでなく、扉の開閉ギミックなど、稼動箇所の作り込みも魅力でありました。だから、普通の乗用車よりも働く車に人気が出るわけでして、荷台の動くトラックとか、はしごの伸びる消防車とか、こうした車は子供心をとらえて、そしてあまりに稼動させられるものだから、荷台がはずれたり、はしごは折れていたり、散々なことになって、けれど子供はそんなちょっと傷ものミニカーでも大好きでしたね。私も好きでしたよ。うちには、収集コンテナのなくなったゴミ収集車がありました。けど好きだったなあ。

地雷除去機もちゃんと稼動箇所があります。キャタピラがまわるのは当たり前。除去ローター(車体前部にある地雷を破砕・爆砕するためのローラー)を支えるフレームは上下に動き、そしてローターもまわります。凝っているのは、ローターフレームに取り付けられたシリンダーもちゃんと動くところでしょう。よくできてるなあ、改めて感心します。

買った当初は、ちびすけにでもくれてやればいいかと思っていたのですが、実際手にしてみると、それはちょっと惜しい。というわけで、結局私のお気に入りとして、無駄にしまいこまれることになりそうです。でも、ほんと、ちょっとかっこいいのよ。といったわけで、私にも男の子回路があったのだなあと再認識することとあいなったのでした。

KOMATSU D85MS Minesweeper

参考

2009年2月17日火曜日

少女Aはまっすぐ

水井麻紀子の『少女Aはまっすぐ』、ヒロインの山本南はA型。ゆえに掃除と整とんが得意。じゃあ、私はA型じゃないや。整頓が苦手だからB型か。いや、一旦スイッチが入ると完璧に片付けようとするからAB型だな。でも、普段からここというところはきちんと整理していて、例えばコンピュータのデスクトップは、アイコン、ショートカットひとつ置いていません。ファイル管理もきっちり形式やカテゴリでもって分類していて、でもすべてがこうきっちりしてるわけじゃないからなあ。気にするところ、しないところが極端だからO型ですね。などと思っていたら、山本さん、大事にしまい込みすぎて、よくものをなくすそうです。そういえば、私の学生時分に使っていた万年筆、まだ出てきません。とにかく大切に仕舞ったことは間違いないんですよ。そうかあ、山本さんと私は似たもの同士なのだなあ。ということは、やっぱり私はA型でいいみたいです。といった具合に、『少女Aはまっすぐ』は血液型に基づいた性格分類をもって話を進めていって、そして私はというと、その流れにいつか耐えられなくなりそうです。

私は、血液型性格判断なるものが、大嫌いなのです。

そんな私が、この人の漫画は面白いなと思っています。絵柄は可愛く、よくまとまっているし、雰囲気もほのぼのとして実に罪のない感じがして好感触。そしてキャラクターひとりひとりの個性がうまく表現されているから、とっつきやすく、好印象。けどその個性は血液型に基づいて逆算されたものなのか……。タイトルからしてそうですが、『少女Aはまっすぐ』は血液型性格判断というギミックがビルトインされてしまっているから、どうしても血液型という要素を意識しないではいられません。初期とは違いこのごろでは、血液型色もずいぶん薄れてきたようにも思うのだけど、そして実際、血液型というギミックを捨てたとしても、充分に回っていくだろうと思わせるのだけれど、それでも要所に血液型は現われて、そのたびに立ちすくむような感覚に襲われます。

しかし、なんでそんなに血液型うんぬんを嫌うのか。それは、血液型を前面に置くことで、その向こうにあるその人の本質を見ずともわかったつもりになる、そうした構造が嫌で嫌でたまらないからです。この記事の冒頭にも書きましたが、片付けが苦手で、けれど分類することには一生懸命で、このBlogなどはその例示となるかと思いますが、数年に渡り、毎日一件以上の記事を起こしてきた、一種偏執的ともいえる几帳面さ、これなどは一体何型の性格なのでしょう。A型でしょうか、B型でしょうか。AB? O? どれだっていいのですが、もし私を血液型で区分してわかったつもりになる人がいるとしたら、私はそのあまりに失礼な態度に気分を害することでしょう。失礼とはどういうことか — 。人を既存の枠組みに押し込むことで、理解したと思っている、そのことが失礼です。その視線は私を離れてしまっており、血液型性格判断という偏見に基づくありもしない虚像ばかり見ている。そういう態度は非常に失礼なものなのではありませんか?

もしあなたが女なら、ちょっと想像してみてください。

君は女だから、判断に際しては、理性よりも感情を優先するだろう。

私はこれは極めて失礼な態度であると思います。目の前にいるあなたをではなく、勝手な思い込みで作り上げられた偏見で推し量る、こうした不快を覚えた経験はありませんか?

『少女Aはまっすぐ』のヒロイン、山本南の性質は、血液型に由来する気質であるというよりも、もっと別の要因で説明した方がしっくりくるようなものです。それこそ、診断名が付きそうな性格だと私は思っていて、具体的には書きませんが、おそらく私の同種だなと、そのように感じています。ある疾患に原因する行動様式、それを漫画にしてはいけないとは思わないけれど、でもそうしたネタが危険をはらみかねないということは理解されやすいのではないかと思います。それがただその人の個性であると諒解されているうちは、問題とはならなかったけれど、その性格はある疾患に特有のものだという表現となったら、事情はちょっと変わります。その表現は偏見を助長しませんか? その疾患は典型的とも思える気質を生み出しはするけれど、それでも各個人によって性格は違っているのです。私の持つ異常性、それを同種の人たちがみな備えているわけではありません。しかし、私の異常性とその原因に気付いている人は、私と同じ疾患を持った人に対し、ああ、この人は私同様の異常者であるのだなと判断するかも知れない。その人が、異常性を有す有さないに関わらず、そのような判断がなされる時、その判断こそを偏見というのではないでしょうか。

去年は血液型性格判断が、近年稀に見るブームであったのだそうですね。苦々しく見ていました。『少女Aはまっすぐ』は、そうした世相を受けて出てきた漫画なのかな、そんな風に思っています。ですが、ブームはいずれ去ります。あるいは、盛り上がったブームを批判する、そうしたブームが発生しないとも限らない。かつてオカルトがブームになり、その後、オカルト叩きがブームになったように。その時、この漫画はどうなるんだろう。できれば長く続いて欲しい、そういう思いもないではないけれど、この漫画に血液型がかたく結びついているかぎり、血液型のブームが去り陳腐化してしまった時のことを思うと、心配は消えません。

けれど、そんな起こるかどうかわからない心配よりも、今は私がこの漫画をいつか嫌いになってしまうのではないかという、そちらの方がずっと重要です。重ねていいますが、私はこの漫画が結構好きです。絵柄が好きです。話のもっていきかた、ふくらませかたが好きです。登場人物が好きです。由井さんが好きです。ですが、血液型に関しては、耐えがたい。今は好きが大きいから、なんとでもなっている。けれど、この耐えがたさが、一定のレベルを超えてしまった時に、好きという気持ちが反転してしまうのではないだろうか。どうでもよくなるならともかく、嫌いにはなりたくない — 。

いっそ、最初からつまらない漫画だったらよかったのに。そこまで思います。けれど、面白い、好感触であるのは事実。だからこそ、揺れるのです。好きと嫌う可能性の間で、複雑に揺れています。

  • 水井麻紀子『少女Aはまっすぐ』

引用

参考

2009年2月16日月曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

リガチャーを買うことに決めました。ソプラノサックス用。今使っているのはバンドーレンのマスターラッカーなのですが、これは決してこれがいいと思ったから買ったのではなく、当座、これしか選択肢がなかったから、なんです。もし私がセルマーのマウスピースを選んでいたなら、選択肢は多様にあったのですが、残念なことに私の好みはバンドーレンでしてね、そうなると驚くほどに選択肢が狭まります。バンドーレンはセルマーよりも若干外径が大きいため、セルマー用にデザインされているリガチャーは使えないと考えた方がいい。実際、セルマーのリガチャーは駄目、最有力候補だったハリソンも駄目、試奏しようと思ったリガチャーのことごとくが使えず、純正以外で唯一使えたのがロブナー。しかし、これ重くって、私には到底無理。といったわけで、純正品を買いました。オプティマムでなくマスターなのは、オプティマムが在庫してなかったから。冗談抜きで、選ぶ余地などなかったのです。

けれど、実はもう一種類、候補に入れてもよかったろうリガチャーがあったのでした。それは、Tシリーズ。広島交響楽団のクラリネット奏者、高尾哲也氏の作っているバネ状のリガチャーで、一般にはくるくるという呼び名でも知られているといいます。しかし、なぜこれを選ばなかったのか。それも、店員おすすめの品であったというのに。

簡単な理由です。見るからに華奢で繊細なリガチャーです。それを無理に径の大きなマウスピースにはめて、ゆがめてしまったら一大事じゃないですか。買ってからなら、それでもいいでしょう。でも買う前から無茶はできない。なので、もうしわけ程度に合わせてはみたけれど、おっかなびっくりの試奏、その真価を知るまでいかず、結果最もオーソドックスな、言い換えれば無難でつまらない選択をしたのでした。

実際のところ、Tシリーズは価格がかなり安く、金メッキ、ピンクゴールドメッキで2500円、ロジウムで3000円と、他製品と比べてもコストパフォーマンスに優れています。だから、ひとつ試しに買っておいてもよかったかも知れないけれど、私はあんまりいろいろ小物を揃えるのは好きじゃないんですよ。これと決めたら、それを使い続ければいいじゃないか。って、それは思考停止っていうんじゃないのか? いや、ここは一途と思っていただきたい。脇目も振らぬ(視野が狭い)。それが私という人間です。

なのに、ここでTシリーズ リガチャーを買おうというのは、つまりマスターラッカーがあまり気に入っていないってことです。高音も低音もわりとまんべんなく出るんだけど、もうちょっと高音の抜けはよくなって欲しいし、低音も楽に出て欲しい。リガチャーを替えたら解決するのかといわれれば、替えてみんことにはわからんと答えるしかありません。けれどおそらくは改善するはず。というのはですね、経験上、接点の少なく軽いリガチャーになるほどに音の出はよくなるとわかっているからで、例えばセルマー純正(旧モデル)のリガチャーとハリソンを比べるとその差はかなり大きいのですよ。先日の試奏にしても、慣れている分を差し引いても、ハリソンは優秀でした。セルマーのマウスピースにセルマー純正のリガチャー、さらには他のモデル、逆絞めも含めて試して、ハリソンが高音の出に優位と感じられたものでした。リードを締め付けず、ソフトに、しかししっかりと押さえるからなのか。それはわかりません。ですが、これが愛用される理由は確かにある。そう思わせるリガチャーです。

ですが、もしかしたら、Tシリーズは、そのハリソンを置き替えるものになるかも知れない。

そうした期待もあったものですから、アルト用も注文してしまいました。散財ですね。けれど、それで発音やレスポンス、響きの問題が改善するなら、安いものです。

というわけで、今はリガチャーの到着する日が楽しみで、けれどかつてこれほどにサックスを吹くことが楽しいと思ったことはあったろうか。吹いていれば、思うようにならず、惨めな気持ちになることもあるけれど、でも今はただ吹けるというそのことが嬉しい。数年のブランクは無駄といえば無駄であったけれど、こうして新たな気持ちで向き合えるようになった、それを思えば意味のある期間であったのかも知れません。

2009年2月15日日曜日

フランシーヌの場合

 なぜかわからんのですが、歌声喫茶を今のこの時代にあえてやりたいという人と知り合う機会を持ちまして、それでなんでかわからんのですが、その手伝いをすることになりまして、端的にいいますと、歌います、そして伴奏します。けど、いったいなにを歌ったものか、それがわからず困っています。狙いの客層というものがあります。店主にいわせれば、団塊の世代、つまりリタイアして悠々自適に暮らそうという、そうした人たちをターゲットにしたいのだそうですが、だから若い人の歌はあまり選ばないで欲しい。まあそれはいいんです。私が若い人向けの歌を知りませんから。けど、だからといって六十七十代に訴える歌というのもちょっとわかりません。とりあえず初回のお勤め(といっても給金は出ない)を果たして、自分の父母よりもちょっと上の世代が中心かとあたりを付けたけれど、そうなるとなおさらどんな歌がいいかわからない。頭かかえる思いでいます。

そんな私の支えとなるのは、全音楽譜出版から出ている『歌謡曲のすべて』であります。そしてもうひとつ、デアゴスティーニからリリースされている『青春のうた』。ここからピックアップしていけばよいのかな。前者、曲集はなにしろ戦前歌謡から軍歌から収録しているし、後者は歌声喫茶全盛の時期もサポートしているし、しかしそれでもよくわからんなあ。わからんながらもこれがいいんではないか、そんな風に思う歌もあって、そうした中の一曲が、新谷のり子の歌った『フランシーヌの場合』です。

私ははじめてこれを聴いたとき、てっきりシャンソンに日本語歌詞をつけたものだと思ったんです。実際、この歌のはやった当時にもそう思っていた人は多かったらしいのですが、実はそれは勘違いというやつだそうでして、つまりフランスにオリジナルがあるのではなく、日本で作られた歌であるんです。作詞はいまいずみあきら、作曲は郷五郎。ただし、題材はフランスの出来事に取材していて、パリにて抗議の焼身自殺を遂げたフランシーヌ・ルコントがモチーフになっているのだそうで、それが3月30日。フランシーヌという名前と、3月30日の日曜日という日付は、歌詞にもはっきりと歌われて、つきはなされるような悲しさや世界と断絶されるようなやるせなさ、そうした感情を抱える歌詞と曲調が相俟って、なんともいえない独特の世界をかもしだしています。

私がこの曲を歌おうと思ったのは、『青春のうた』にて聴いてどうにも忘れがたかったということがあって、そして『歌謡曲のすべて』に楽譜を見付けた、その二点がためでありました。しかし、まずは心のどこかにひっかかっていた、そうした事実が重要でした。陰惨ささえ感じさせる歌、それが無理に情感もりあげるでもなく、淡々と歌われる。まるで、フランシーヌを遠くに感じ、ながめるような、そんな距離が切なかった。けれど、その距離感とは、フランシーヌに向けられたものというよりは、むしろ彼女のようにはあれない私に対するものであるのかも知れない。そのようにも感じさせて、素朴で素気ない、そんな歌が、歌うほどに沁みるのです。

だから私はこれを愛称していて、実際この歌は大ヒットしたそうではありませんか。きっと一部の世代には訴えるだろう。そのように思って、信じて、歌っていきます。

2009年2月14日土曜日

晴れのちシンデレラ

 実は、発売日に買っていました、『晴れのちシンデレラ』。毎月の、KRコミックスの買い出しにいったいつもの書店、新刊の平積みの中にあって、なにか訴えかけるものがあって、でもなあ、無闇に買う本を増やしたくない、そんな気持ちもあって、迷って迷って、手にとっては戻し、またとっては戻し、お嬢様学校に通うお嬢様だけど根は庶民、そういう設定に『笑う大天使』思い出したりして、それゆえにひかれつつも抵抗がある、うろうろうろうろ売り場を回り、ええい、もう買っちまうがいいさ! やけっぱちな気持ちで買って、そして今日まで寝かせてしまったのでした。いやね、かなり面白いという人もあって、ならきっと面白いのだろう。Amazonのおすすめにもいつもあがっている、だからこの数ヶ月ずっと気にしてきて、けれどそれでもし自分の性に合わなかったらどうしよう。なにか怖れみたいなものがあって、けれど読んでみれば、ああこれ面白いな。心の底から思いました。というか、MOMOか。雑誌買ってもいいかも、そう思うくらいよかった。いや、もう、買い損ねなくてよかった。あの時の判断、そのぎりぎりの決断に我がことながら安堵しました。

そうした経験を積み重ねていくほどに、表紙買いと称した衝動買いが酷くなっていくというのですが、そのへんのことはどうでもいいので、パスしまして。しかし、この表紙、こちらに向かって駆けてくるお嬢様、晴さんですね、その印象のぱっと引き付けるところ、そこが決め手となったのでした。さて、私は以前表紙で買ったシリーズ、なんていって、自分の表紙買いの傾向について書いたことがありました。それは、いわく、こちらを見つめる表紙シリーズ。そう、『晴れのちシンデレラ』も見事その条件に合致しております。凛々しいお嬢さんが、こちらを真っ向から見つめている。あまつさえ、駆けてくる。実にいい。しかし読み終えて思う、もしこの駆けてくるハルさんを避けなかったら、きっと撥ねとばされてしまうんだろうな……。

この漫画のヒロインは貧困をともに育った春日晴さん。ひょんなことから大金持ちになってしまったけれども、根っからの庶民はいまだ抜けきらず、そうしたところはよくある設定であるかと思います。けれど、その庶民ハルさんが、どうもこうもなくいい人で、じいやさんやメイドのみそのさんの気持ちがよくわかる。ちょっとしたことに喜びをあらわにするハルさんと、その弟あたる。その素直なところ、人柄人品のよさには格別のものがあります。人懐こくて、どうもこうもなくひきつける。そればかりか、その喜びに、なにか共感できるものがある。ささやかな仕合せを、この上もない喜びとして受け取る春日姉弟の笑顔には、こちらもつい笑顔にさせてしまう力がある。うん、すごく身近と感じられる、その距離感がたまりません。

その距離感、親しみやすさがあるから、学校の皆からハルさんが慕われるという、そうしたところもすごく自然と感じられるのでしょうね。実際私も読み終えるころには、健気なお嬢様にすっかり絆されてしまっていて、けれどこの漫画の面白さには、そうしたキャラクターの持つ力だけではない、ネタのあちこちに光るものがあって、だってサンタクロースはまんまトントン・マクートだし(クリスマスの夜に悪い子をさらいにくる、麻袋おじさんの伝承を持つ地域は実在します)、しめじ…、モノクロ、もう最高。これらのネタの面白さは、ネタだけではなくキャラクターがあって光るものなのかも知れませんが、またキャラクターの魅力を引き出すのもこうしたネタの積み重ねであるわけで、いわば車の両輪として互いに作用しあいながら、漫画の魅力を高めているのでしょうね。

ところで、この漫画の見どころのひとつに、姉を慕う弟たちがあるように思います。実際、弟というものは姉を慕い、ああして力にもなれば、助けにもなりたいと思うものなのですよ。などという私は、現在理想の姉を探している最中です。あ、そうそう、素敵なお姉さんの話ですが、目撃者ゼロなら本気で戦える、って、あんたは変身ヒーローですか!? と思ったら、どうもその認識で正しかったみたいです。ついでに、実は、この表紙、あの絵のために、ハルさんのこと、ずっとツンデレ系のお嬢さんかと思ってました。とんだ誤解でありました。

  • 宮成楽『晴れのちシンデレラ』第1巻 (バンブー・コミックス MOMO SELECTION) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊