2006年8月15日火曜日

アームストロング砲

  『アームストロング砲』、司馬遼太郎の短編なのですが、これがまたべらぼうに面白い。時は幕末、佐賀は肥前鍋島藩において購入、研究されたイギリスの新兵器がアームストロング砲なのですが、日本という東洋の小国のまたその一藩に鬱屈するかのごとく垂れ込めた新技術新知識への渇望がひりひりするように肌にさして、はらはらもすればわくわくもさせて、私は正直『アームストロング砲』には期待していなかったのですが、結果的に大いに印象に残る一編となってしまいました。そういえば、私のはじめて触れた司馬遼太郎といえば『アームストロング砲』に同じく短編集である『人斬り以蔵』。一番頭に収録された『鬼謀の人』にアームストロング砲をもって彰義隊を壊滅させる場面が出ていて、こうして司馬遼太郎の小説は、短編長編を問わず互いに関わりを持ちあって、その時代時代を生き生きとさせてやみません。

しかし幕末もののなんと面白いことでしょうか。人には時代の好き好きというのがどうもあるようで、私の父は戦国から江戸にかけてが好きな模様。対して幕末は好みでない。ところが私は戦国にはどうもピンとくるところがなく、幕末あたりが好みのようです。多分私が幕末を好むのは、学問者の活躍する場面というのが多かれ少なかれ出てくるからなのだろうと思います。世界の新技術新知識を咀嚼吸収しようと学問に打ち込み、そして時代の流れに引き寄せられ、あるものは活躍を見、またあるものは流されるままに消えていく。そうした悲喜こもごもを合わせ、幕末という動乱の時代に生きた人たちの生がいとおしくてたまらない。そんな私ですから、『アームストロング砲』はまさにピンポイントで面白さのつぼに入ったのでしょう。面白かった。本当に面白かったです。

面白かったといえば、司馬遼太郎の大砲関係の話はどうにも面白くできているのか、『人斬り以蔵』に収録の『おお、大砲』もどえらい面白かった。思いがけない展開の妙に、そして不思議な諧謔味。そして最後の一言、

「侍のころは、ばかばかしいことが多かったな」

幕末というのは、古びて形骸化した価値の馬鹿馬鹿しさが、来るべき時代に追放されようとした時代であったのだと思います。そしてアームストロング砲は、まさしく世界の最先端が固陋を打ち破る一弾を放った、この時代を象徴するかのような兵器であったのだろうと思います。

引用

  • 司馬遼太郎『人斬り以蔵』(東京:新潮社,1969年;改版:1987年),218頁。

2006年8月14日月曜日

Le Grand Tango

 ピアソラがブームになって、弦の奏者も管の奏者もこぞってタンゴを取り上げるようになって、おしゃれな雰囲気、そして情熱的な様がとにかく受けたんでしょう。テレビでも演奏会でもとにかく聴いたという、そういう時代があったのですが、例によって私ははやりには抵抗するたちですから、ピアソラを聴くようになったのはそれから数年後のことでした。ちょうどピアソラのアルバムがいい感じに値崩れしたという事情もあったのかと思います。ヴァイオリンの名手ギドン・クレーメルの演奏するピアソラを安価に一度に買ってきて、一時などは本当にこればっかり聴いていました。大学の行き帰りの車内、当時はまだポータブルCDプレイヤーを使っていて、ディスクをいちいち取り換えるのも面倒くさいからと、まさしくピアソラのヘビーローテーション。その頃はまっていたライトノベルのBGMにピアソラが妙にはまって、今でもピアソラを聴くとその本を思い出すことがあるというのは余談。いずれにせよ、耳に残って、記憶にしっかり染みつくほどに聴いたのでした。

しかし、これらアルバムに収録されているのはそれこそどの曲もよいのだけれども、今日たまたま聴いたLe Grand Tangoの素晴らしいこと。最初は非常に落ち着いた、むしろ陰鬱といっていいような出だしを見せるのに、途中ヒステリックにかきむしるかのような高揚を見せて、しかしそれで破綻するような心配がまったくありません。畳み込むように繰り返されるフレーズもひしひしと迫ってくるようで、かといってどこかに落ち着きも湛えているから聴きやすいのだと思います。うまいなあ、いい曲だなあと、改めて感じ入ったのでした。

思い返せば、ピアソラブームの立役者といえば、ヨーヨー・マの存在も確かに大きかったのだけど、ギドン・クレーメルでありましたね。それまでクラシックを聴くような層には知られていなかったピアソラを取り上げ、一挙クラシックジャンルにおけるスタンダードといった位置を確保しただけでなく、一般層にまで浸透させてしまった。その最初期のインパクトがLe Grand Tangoを収録するアルバム『ピアソラへのオマージュ』だったのだと思うとその影響力に舌を巻きます。しかし、聴けばやっぱりわかるのですね。すごいです。こりゃ確かに人心を引きつけますよ。タンゴ界の異端であったピアソラは音楽の大舞台に躍り出て、ひとつのジャンルとして未だに確固たる地位を保ち続けています。それはひとえにピアソラの功績であるとはいえ、その足がかりを築いたのはやはりその音楽を紹介した演奏家の力もあってのことなのだと思います。

そう思えば、このアルバム、この演奏というのは、演奏家と作曲者の共同制作によって生み出された極めて幸福な結晶であるのでしょう。実際、名盤であろうかと思います。

2006年8月13日日曜日

脱走兵

 私はギターを弾くのですが、そもそもなんでギターをはじめようと思ったのかというと、歌の伴奏をできるようにしたいという思いがあったからなんです。歌の伴奏というのはどういうことかというと、誰かのバックでというのじゃなくってですね、自分が歌うときの伴奏です。私は自分のつまらない人生を送るにあたって、ささやかな楽しみとして歌くらいは歌いたいと思っていたんです。そしてその伴奏をしたいという一心でギターを手にしました。当初歌いたいと思っていた歌というのは、フランスの歌、シャンソンでした。当時私はフランス語を結構熱心に習っていて、フランス語というと歌で言葉を覚えましょうなんていう風潮があるものですから、とにかくいろんなフランスの歌に触れる機会があって、そうして知ることになったのがボリス・ヴィアンの『脱走兵』でした。私はこの歌を、ギターを持ってかなり初期の段階から歌っていて、そして最近になって改めて歌い直そうと思うようになったのです。

歌い直そうと思ったきっかけというのは、今の社会状況に一言申したい、とかそういう理由ではまったくなくて、実に単純な話、最近ギターの技術があがってきたから、ちゃんと伴奏らしい伴奏で歌えるようになったかなと試してみたというだけの話なんです。そう。確かに技術はあがっていました。それっぽく歌うことができるようになっていて、それこそ以前はギターに神経をもっていかれていたのが、歌に集中して歌えるようになっているから、歌もよくなっているのではないかと思います。なんでも続けるということが大切なのだなあ。改めて実感しています。

さて『脱走兵』という歌ですが、この『脱走兵』という邦題は微妙に間違っていまして、もともとのタイトルはといいますとLe deserteur。辞書で調べると確かに脱走兵という訳語ものっているのですが、それよりも別の訳語である裏切り者であるとか、あるいは少しひねって懲役拒否者とか、そういうタイトルの方がより実態にそぐうのではないかと思います。実際、『懲役拒否者』というタイトルで紹介されているケースもありまして、つまりこの歌の主人公はまだ兵隊になっていないわけですから、脱走兵というのは本当はちょっと変だという話なんです。

大統領閣下。召集令状を受け取りました。けれど私は戦争にいきたくありません。誰も殺したくありません。今まで戦争の嫌なところを散々見てきました。だから私は逃げ出します。フランス中を回りながら、戦争にいくなと説得して回るつもりです。私が邪魔なら、どうぞ射殺してくださいますよう憲兵にご命令ください。

というような内容の歌です。しかもこの歌、戦時下フランスにおいて発表されたものだから、ばっちり放送禁止になっているのだそうで、こういうエピソードを聞くと、歌が社会にしっかりと関わりを見せていた時代があったのだと、歌に社会情勢を変えうる力があると信じられていた時代があったのだと、なんだかすごく不思議な気分になります。そうなんですよね。今は歌は人生のささやかな楽しみや慰めのためのもので、社会を変えうるなんてとんでもない。そもそも政治的ななにかを歌に求めようだなんておかしいよ、という時代で、けどそうした歌からは実感というものも抜けていくようで、ありもしない夢のような、幻のような愛や恋やを歌って、心に届くところは少ない。確かにその方がおしゃれかも知れないし、時代にはあってるのかも知れないけれど、歌の本来持っていた力というのは不当に弱められているのだといわざるを得ないのかも知れません。

もちろん、そういう表面的な歌はほんの一部に過ぎなくて、そうしたものを越えた先には豊かな歌の世界が今もあるということは諒解しています。けれど、それらは一般の耳目に届くようなところまで浮上してくることは少なくて、そういう点から見れば、かつて社会の一端を担っていた歌はその役割をおりたのだと思わざるを得ないのです。

ボリス・ヴィアンの歌う『脱走兵』は、なんだか飄々とした感じの歌い方も相まって、独特の味わいを持っています。内容こそはプロテストソングですが、これを聴いて異議申し立ての気炎を即座に感じるということは難しいのではないかと思います(特にフランス語のわからない私たちにとっては)。けれど、そうした歌いぶりのなかには確かに実感がともなっていて、そのリアルな情感があったからこそこの歌は今にも残っているのだと思います。歌は、表面的な音の現れを越えた先に真実をはらんで、そしてよいものはきっと残るのだと、そんな風に思うのです。

2006年8月12日土曜日

デュープリズム オリジナル・サウンドトラック

 これこれ、これですよ。左の男の子がルウ、右の女の子がミント。『デュープリズム オリジナル・サウンドトラック』がついに再販されて、やっとまともな価格で手に入るようになりました。しかし嬉しいですね。自分の好きで聴いていて、人にも勧めたいと思ってきて、そうしたものが普通に手に入るようになりました。ああ、嬉しい。本当にありがとう、スクウェア・エニックス! と大絶賛したい気持ちでいっぱいです。

さて、実は『デュープリズム』再熱の兆しです。といっても私の個人的な再ブームなのですが、というのはですね、なんと『デュープリズム』をモチーフにした同人ゲームがあるというのを最近知ったのですよ。その名も『DuoPrincess』。わーっ、これは買わなくっちゃだわ! 決断したら早いのが私です。購入しました。今日発送されたそうです。明日明後日には到着するでしょう。楽しみです。

しかし、同人の世界もすごいですよね。昔は漫画やレターセットなどのグッズくらいしかなかったのが、今はCDからゲームから、さらには実用ソフトまであったりして(漫画に特化されたドローソフトが出展されてるのを見たときには、ちょっと感動した)、もう本当、すごいの一言ですよ。クオリティもあがっています。同人なんてどうせエロでパロディでなんて思っている人もいるかも知れませんが、そりゃ偏見ってものです。そりゃエロでパロディもたくさんありますが、そうした中にもよいものはあり、そして当然、そうしたカテゴリからはずれたところにもよいものはたくさんあります。私は制作には参加しない、いわゆる読み専であります。それも、特に熱心とはいえない参加者です。そんな私ですが、おりにこうした対象作品への愛が溢れるものに触れれば、いやおうなしにテンションがあがります。その対象が私にとっても愛しいものであればなおさら! ああもう、『DuoPrincess』を知ったときには、あまりのあまりでテンションが天井を突き破らんばかりにあがって、勢いでサントラまで買おうと思ったら、こっちは品切れしてるみたいで買えませんでした。

自分の消費動向がわかるエピソードですが、その根底にあるのはやはり作品への愛であろうかと思います。その作品というのは『デュープリズム』。何度だっていいます。私はこのゲームが好きで好きで好きで、このゲームの登場人物たちが好きで好きで好きで、そして音楽も好きで好きでしようがないのです。明るさがありギャグがあり、そうかと思えば悲しさありシリアスありのこのゲームに出会えたことを、私は本当に幸運であったといって恥じるところがありません。

音楽

ゲーム

2006年8月11日金曜日

D-LIVE!!

  私が楽しみに読んできた漫画『D-LIVE!!』がついに完結です。全然意識せずにいたのですが、もう三年も続いていたんですね。そりゃあ、斑鳩も卒業するわけだわ。ってなんだか間違った感想のような気がしますが、けど本当に思いがけない早い完結で、正直あともう少し続くものだと思っていたんですよね。師を乗り越え、数段ステージがあがったところで活躍する斑鳩の姿があって、そして終わるものだと思っていたら、確かに後日談はあったとはいえそれはあくまでもさわり程度であって、だからちょっと残念かなあと。でも、きっとこれでよかったんだと思います。ずるずると引き伸ばすのではなく、すっぱりと終わらせて、相も変わらず斑鳩は元気にやってますよというところを匂わせて、これまでの話が躍動感に溢れて面白いものばかりだったから、この先の斑鳩の活躍も見えてくるようで、これはこれでよいラストでしょう。

漫画についての感想は、以前のコミックバトン企画で答えたものに変わらず、やっぱり私はこの漫画を秘密のヒーローものと考えてるんですね。人知を超えたスーパーな存在であるヒーローが、なぜだか普段は身を普通の人間にやつして暮らしている。ところが、一旦ことが起こればひた隠しにしていた実力をあらわにして、悪い奴らをばったばった倒してみたり、誰もがさじを投げた困難な作戦をクリアしてみたりと、その姿が格好いいんですよ。斑鳩に関しては、スーパーマン以来の伝統である普段はさえないという要素まであるものだから、活躍時とのギャップがまたすごく、だもんだからよりいっそう爽快に感じられるというものなのでしょう。もう、大好きです。何遍でも読み返して、何遍でもわくわくすることのできる漫画であると思います。

以前にもいっていましたとおり、私の好きなタイプの話はシンプルな短編です。だから正直ラストへの大きな流れには乗りきれないところもあったかも知れません。でもさ、それでも基本的には小さな単位のミッションの積み重ねでできているからそんなに駄目ということもなかったんだけど、 — だけど、一番好きなミッションというのが潜水艦救助ミッションであるとか、ボス猿決定戦だとか、やっぱりそういう小ミッションに落ち着くというのが私らしいんじゃないかと思います。そして、やっぱり春日委員長編ですよ。鈴鹿8耐の興奮があり、そこに乗るかたちで話を膨らませてみせた委員長をともに逃亡しようという話。よかった。すごくよかった。特に最後の、なにか大切なところをわかりあえたというような対話がよかった。そんなだから、ラストエピソードでの委員長の扱いはひどいよね。とはいっても、彼女の役割をきっちりはたしたという感じもするから、あれはあれでありなんですが。

私が大きなミッションがあんまり好きな話でないというのは、流れが大きすぎて乗り切れないというだけではなくて、少年誌的微温があんまりに強すぎるように感じられるからなのだと思います。基本的に勧善懲悪で、正義は必ず勝つ話ばかりです。だから、時には正義側があまりに有利になりすぎていて、これ、主人公サイドが超S級エージェントの集まりであるという設定があるからなんとか破綻せずにいられただけで、ある意味ライバル不在といってもいい展開でした。そういうのは特に大ミッションにおいて顕著だったから、私がこうした話にあまり乗り切れないというのも当然だったのかと思います。

けど、ひとつひとつのミッションは、問題とその解決への流れに盛り上がりを演出して、本当によくできていました。だから、私はなんのかんのと不満も口にしながら、それでも結局は好きで読み続けていたのだと思います。『ARMS』に比べればスケールもちょっと小さな地味な話だったかも知れませんが、けど私はこの漫画、結構、いやかなり好きです。いつでもまとめて読めるよう待機させてあって、どこから読んでも面白い、いつ読んでも楽しめる、本当にいい漫画であると思います。

  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第1巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第2巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第3巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第4巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第5巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第6巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第7巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第8巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第9巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第10巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第11巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第12巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第13巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第14巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第15巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。

2006年8月10日木曜日

機動戦士ガンダム

声優の鈴置洋孝さん死去 「ガンダム」のブライト艦長役

2006年08月10日19時17分

 鈴置 洋孝さん(すずおき・ひろたか=声優)が6日、肺がんで死去、56歳。葬儀は近親者のみで済ませた。後日しのぶ会を開く予定。連絡先は東京都渋谷区桜丘町29の10の賢プロダクション。

 「機動戦士ガンダム」のブライト艦長などを演じたほか、舞台のプロデュースも手がけた。

asahi.com:声優の鈴置洋孝さん死去 「ガンダム」のブライト艦長役 - おくやみ

声もありません。以前、『ガンダム』でマ・クベを演じていらっしゃった塩沢兼人さんが死没されたときもショックで、なにかぽっかりと空虚な気分で胸がいっぱいになったことを覚えていますが、今度のニュースを見てもやっぱりそうした感じがしまして、56歳とのことですが、早いですね。まだまだじゃんとか思いますが、人生とはままならないものですね。

これまでにも、なんべんもいってきたように、私はまさしくガンダム世代でありまして、ガンダムのアニメを見て、プラモデルを作って、小説も読んだ、ゲームもした。そんな私たちにとって、ガンダムというのは間違いなく特別なタイトルで、そしてその特別なタイトルにこの鈴置洋孝という人は関わっていた — 『ガンダム』の物語には欠かすことのできない人物、ブライト・ノア役をされていたのが鈴置氏でした。

ガンダムが登場して、もう二十五年が経ったのかな。なんだかあっという間で、振り返ったらすぐそこに少年時代、わくわくしながらテレビの前に陣取ってわいわい見ていた情景を生々しく思い出すくらいに鮮烈で濃厚で、けれどたとえ記憶がどんなに鮮やかであったとしても、時間は経っていたのですね。青年は壮年になり、そして旅立たれる方もひとりふたりと。こうした悲しみはおそらくこれからが上り坂でしょう。悲しいことだけれども、受け入れなければならない現実なのでしょう。

にしても、56歳は早すぎると思います。私はこういう人たちは死なないと思ってるような節があるからなおさらで、受け入れて納得をするにはまだもう少し時間がかかるでしょう。ゆっくりと偲びながら、だんだんと受け入れていくのだと思います。

BANDAI CHANNEL / バンダイチャンネル

引用

2006年8月9日水曜日

ラディカル・ホスピタルよりぬきキャラクターズファイル

 私のひらのあゆ初遭遇はまさしくこの『ラディカル・ホスピタル』でありまして、衝撃でした。私の購読している『まんがタイムラブリー』に突如あらわれたかと思うと、それがもう面白いのなんのって。私はそれまでは『ラブリー』一誌しか買っていなかったのですが、『ラディカル・ホスピタル』求めて他誌まで買いはじめるようになって、そして今に至る。大量の四コマ漫画誌に埋もれるような生活を送るきっかけとなったのは、間違いなく『ラディカル・ホスピタル』との出会いであったのです。

そして、その『ラディカル・ホスピタル』の単行本は11巻を数え、さらにはよりぬきまで出た。ああ、よりぬき。魅惑の響き。最近はよりぬきってあんまり聞かないですけど、昔は結構ありましたよね。うちにも『よりぬきサザエさん』とかありましたよ。あんまりに大量に単行本が出たせいで、途中から知ったという人に敷居が高くなって、よりぬきというのはそういう人への救済なのだと思います。いわばベスト盤。今からアルバム全部を集めるのはしんどいけど、ベスト盤なら欲しいなあ。そういう需要に応えるのが『ラディカル・ホスピタルよりぬきキャラクターズファイル』であると思います。

ベスト盤だから、既刊を全部揃えているよー、なんていう読者にはちょっと不足かも知れません。そりゃそうですよね。単行本に載っていないようなのが収録されたら、その数ページのために買わないといけないはめになります。それじゃそれこそ、ベスト盤に新テイクだとか未発表曲が収録されているようなもので、だから私はこの仕様は結構良心的だと思います。って、既刊全部そろえている私がなんで知ってるの? 簡単な話です。買ったんです。既刊全部揃っているというのに、買ったんです。しかたない、マニアだから。本当にマニアというものはしかたがないと思います。

私はタイトルに『キャラクターズファイル』とあるから、てっきりそれぞれのキャラクターに特化したような話を出していくのかななんて思っていたのですが、実際には普通のハイライト集みたいになっていたのが意外でありました。キャラクターの紹介とかもありますが、それもあんまりガツンとはこない感じかな。全体に薄味といっていいと思います。

けど、薄味で多分正解です。だって、私らみたいなのはコアな部類であって、こういう連中に満足行くように作ったら、一見さんには正直きついでしょう。帯にもあります。ラディカル・ホスピタルを初めて読む人へのガイドブックです。よりぬかれている漫画は実際結構悪くないバランスで、十冊を超える既刊からよくうまいことこれだけ抜いたなと思いました。そりゃ人によっては、ええーっ、なんであの話が入ってないの? みたいなこともあるかも知れないけど(私にとっては「コアラよ」がなかったのが残念)、でも結構うまい取捨選択であったと思います。でも、時系列や話のつながりをまったく関係なしに抜いて並べてなんらおかしいと思わせないのは、それだけ一回一回の話が独立して機能しているという証拠なんでしょうね。読む人にも無理させず、毎回のテーマを理解させつつ、大きなストーリーというのもないわけではないという、このマルチな読ませかた。やっぱりよくできた漫画だなあと思います。こうしたベスト盤の成立することが、逆に『ラディカル・ホスピタル』の完成度の高さを表してるのかもなあと思ったりしたのでした。

ともあれ、とにかく面白い漫画であると思います。本格的に読みたい人は既刊を一括でいっていただいて、とりあえず雰囲気を知りたいわという方はよりぬきで楽しんで、というのがいいんじゃないかと思います。どうせマニアになれば、全部買うんだし。って、そういうのって私だけですか?

余談

「二人の医局」が収録されてたのはちょっと嬉しかったなあ。好きなんです、あの話。

引用

2006年8月8日火曜日

ミス&ミセス

 私にとって阿部川キネコとは、『明智クン!!』の作者であり、『辣韮の皮』の作者であり、『WAKI WAKIタダシさん』の作者であり、こうした漫画の作風こそが阿部川キネコらしさと思っているから、『ミス&ミセス』には驚きました。というのは、以前『お菓子な片想い』で書いたときの出だしでありますが、本当にこれを雑誌に見つけたときは驚きました。いや、これはちょっと事実を正しく伝えていませんね。最初見つけたときには阿部川キネコとは気付かなかった。地味だけどいい感じの漫画よねなんて感じで読みはじめて、そこで初めて作者が誰か気がついた! ええーっ、阿部川キネコなの!! やられた。正直やられたと思いました。

でも、本当にすごいよね。タッチも雰囲気もがらりと違えて見せて、これ、違う名前で描いてたらどれだけの人が阿部川キネコと気付くんだろう。それくらい違うんですよ。正直、悪乗りの粋に突入しているとは思いますが、あんまりに鮮やかだからそれが全然嫌な感じがしないんです。やられたーって思いながらも、そのやられた感がすごく嬉しい。もうすっかりだまされましたわーって喜んでいるような始末で、さらに嬉しいのが、漫画としても実に面白いというところでしょう。いわゆる主婦向けを装いながら、その端々に阿部川キネコ的毒を仕込んでいるから、二重三重に面白い。この漫画が連載されている間は、本当に読者を楽しませるのが上手だなと感心しっぱなしでありました。

ジャンルとしてはなんになるんだろう。パロディ? は絶対ないとして、やっぱり女同士の友情ものと見るのが一番素直な見方なんだろうと思います。タイトルがそうと示すように、未婚者と既婚者の女性二人が主人公で、それぞれに違った生活、価値観を持ちながら、しっかりと友人関係を築いているのです。その二人の関係がすごく自然で、ありそうな感じで、それでまた二人を取り巻くできごと、婚家との関係とか、二人の他の友人とか、そういうのもまたありそうな感じで、なんだか考えさせられたり、ただただ面白かったり、そして最後にはちょっとじんとしてみたりとか、ええいどこまで真っ正直に描いてるかわからん阿部川キネコで感動なんてしてたまるものか、なんて突っ張ったりもするんだけど、だって感動しちゃうのはしかたないじゃない。本当に、懐の深い作家だと思います。

さて、私は『ミス&ミセス』以外の漫画も知っていて、それでこれに出会って、わあこの漫画すごくいいわ。阿部川漫画の中でランクをつけるなら、最上位にこれを置いてもいいなあというくらいに好きなんですが、もしですよ、『ミス&ミセス』が阿部川キネコ初遭遇だったらどうでしょう。私は多分阿部川キネコの前歴を知らなくても『ミス&ミセス』を好きになったと思います。ここで私の習性発動。きっと阿部川キネコ既刊を集めだすでしょう。問題はここですね。果たして『ミス&ミセス』しか知らなかった人が、この人の基本スタイルに出会ったときの衝撃ってどんななんだろう。

私はもはやそのショックを感じることはありませんが、人によれば愕然としたりするのかも知れませんね。そう思うと、どちらから入ってもサプライズだなあ。おいしい漫画だなあなんて思ってしまいます。

単品でもおいしい。他と合わせてもおいしい。よい漫画です。

  • 阿部川キネコ『ミス&ミセス』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。

2006年8月7日月曜日

本当にあった読者の最強ハプニング

  私は四コマ漫画をよく読みますが、それでもあえて手を出さないジャンルがあるのです。それはなにかといいますと、いわゆる実話系といわれるジャンルで、読者から寄せられた体験談をもとにして構成された、赤裸々体験談を漫画化したものといえば伝わりやすいかと思います。なんでこれには手を出さないかというと、見るに堪えない、読むに堪えないというようなものがままあるからで、身近にこんなおかしなことがあったんです、というのならよいけど、こんな嫌なやつがいるんです、というのならまだしも、だからこんな復讐をしてやりました、みたいなのになると、笑えないよなあなんてことにもなりかねなくて、だから基本的にこのジャンルには近づかないようにしているのです。

でも、毎度毎度のことですが、ダブルスタンダードが私の基本です。つまり、実話系でも読むものがある。例えば『まるっと病院パラダイス』なんかがそうでしたね。そして作者によってはやっぱり読むのであって、それが今回取り上げようという、たかの宗美の漫画です。

たかの宗美は多作な作家です。ナンセンスギャグを描いたかと思うと、ペットものも描いていたりして、そして実話系でも描いていた。目録を見ると『本当にあった笑える話まるごと読者投稿』というのがあったみたいですが、これいつの間に出て、いつの間に消えたんでしょう。2004年時点ならすでにたかの宗美にはまっていたはずなのに、思いがけず見落としてしまっていたようです。というわけで、私の初の実話系たかの宗美遭遇は『本当にあった最強オフィスハプニング』と相成ったのでした。

オフィスに起こるおかしなできごとや、不思議な人たち、そしてやっぱり嫌な人やその人への仕打ちみたいなものもあって、けど割りと嫌な感じはせず、それどころか読んでいて面白いと思えたりもして、これは多分たかの宗美の作風あってのことなんでしょう。この人の描く漫画は、ちょっと突き放し気味というか、あっさりとした味があって、そのせいで下手するとしつこくなりかねない実話系のネタが、テンポよく、嫌みも抑え目に表現されるのかと思います。『オフィスハプニング』ではオフィスのできごとに限局されるから、余計にそういう印象を強くさせたのかも知れません。面白かった。特に自衛隊関係のネタ(自衛隊ってオフィス?)がすごく面白くて忘れられないほどです。

で、『本当にあった読者の最強ハプニング』。ちょっと苦手な感じのネタも多い(ブス系は大嫌い)のですけど、けどブスだからと一方的に蔑視されたりするというネタは実はないんですよね。だからか、結構苦手ながらも読めたりなんかして、そしてやっぱり私にとって非常に面白いと思えるネタもあって、例えばそれは化粧が病みつきになった夫だとか、罰ゲームの勢いで男同士で関係を持ってしまった話だとか、たいそう面白かった。これはネタがというわけじゃないけど、初物を食べるときは東を向いて笑うとかもおかしかった。結局はこの人の表現の仕方が好みにあってるのだろうと思います。そしてこの人の漫画がとにかくいろいろ出版されるというのは、私同様に感じている人が多いということでもあるのでしょう。

あ、ここで異例の蛇足。23頁「誤爆」の彼女さん、かわいいよねえ。ウルトラにかわいいよねえ。いや、単にそれだけ。それだけの話です。

2006年8月6日日曜日

帰っておいで、スヌーピー

 チャーリー・ブラウンという男の子』と一緒に買った『帰っておいで、スヌーピー』。DVDソフトとしての名前は『スヌーピーの大冒険』なのでありますが、私の中ではより原題にそぐう訳である『帰っておいで、スヌーピー』という邦題で統一しております。って、相も変わらず頑固だねえ。でも、おたくないしマニアというものは、普通の人からしたら理解もできないところにこだわりを見せるものですから、こういう名前に対する思い入れなんてのもそうした一例。私の習性でありますから、もうしかたがないというほかないでしょう。

そして、おたくのもうひとつのこだわりポイント。それは声です。昨日いっていました『チャーリー・ブラウンという男の子』の声は、私の馴染みの坂本千夏版でありまして、やったぜ! みたいな話だったのですが、じゃあ『帰っておいで、スヌーピー』はどうだったかと申しますと……、これは決してやったぜとはいえない、そういう結果と相成りました。

最初にことわっておきます。私が坂本千夏版がいいというのは、それが単に私に馴染んでいるからというだけの理由です。他の吹き替えが劣っているといいたいわけでないということにはどうぞご留意ください。それこそ昨日いっていたように、各種吹き替えを収録したDVDなんてのが出たら[中略]多くのファンが喜ぶはずなんです。だって誰しも馴染みの吹き替えというのがあって、経験や好みによって、どれがいいとかこれはうまくないとか、本当に人それぞれだと思うのです。そして私にとっては、坂本千夏版が馴染んでいた。単純にそれだけの話なのです。

さて、『帰っておいで、スヌーピー』の吹き替えはどうだったかといいますと、以前にもちょっと触れていましたが、古田信幸版であります。チャーリー・ブラウンやライナスが大人っぽい男性ボイスで、わーい、すごい違和感! だって、坂本千夏版ではいわゆる日本アニメっぽい女性演ずる子供ボイスであるのが、古田信幸版では海外青春ドラマっぽくなってるんだもん。同じパラマウントから出ているDVDで、これほど傾向を異にしたものが併売されているのもすごいと思いますが、ほんと、どちらかに統一して欲しいものだと思います(となると、必然的に坂本千夏版ならざるを得ない。というのは、『ピーナッツ』映画の第1作には古田信幸版吹き替えが存在しないからです。ああ、なんというバイアスのかかった発言であることでしょう!)。

でも、吹き替えが馴染みのものではないといっても、映画の質には違いがなく、見ていてやっぱりじんとさせる、本当にいい映画だなあと思います。なんとなく粗末に扱われていたスヌーピー。そのスヌーピーが昔の友人に会いにいって、そして今の友人たちといよいよ別れるというときの状況がほろりと涙を誘って、スヌーピーの葛藤、悲しみのあまり声も出ないチャーリー・ブラウン。多分チャーリー・ブラウンたちの胸中には、なんでスヌーピーに優しくしてやれなかったのかという後悔が渦巻いていたのだと思います。別れの際になって、はじめてその大切なことに気付く。私たちの日常にもよくある話で、私たちはおりにこうした後悔を噛みしめながら、けれどまた日常に中に身近にいる人の掛け替えのなさを紛れさせて、そしてきっと近い将来に悔いるのです。誰もの経験する悲しみをよく描いた佳作であると思います。

私の好きなのは、スヌーピーと別れたチャーリー・ブラウンの独白に似た歌のシーンです。どうして世界中の好きな人たちを集めて一緒に暮らせないんだろうって、どうして別れがあるんだろうって — 。こうした悲しみはきっと世界中の誰もが同じく抱く普遍的なものでしょう。だからチャーリー・ブラウンの悲しみを誰もが共有できるはず。そうした共感性の強さが、この映画をことさら名作としているのかと思います。

DVD

引用

2006年8月5日土曜日

チャーリー・ブラウンという男の子

 アマゾンに注文していた『スヌーピーとチャーリー』が到着しました。原題がA Boy Named Charlie Brown。私はかつてNHKで放送されたときのタイトルである『チャーリー・ブラウンという男の子』というタイトルが気に入っているので、頑なにこの邦題を使い続けています。というのはですね、日本では『ピーナッツ』はどうにもスヌーピーというキャラクターが人気を博して、その他のキャラクターに関しては知られていないという実情があるせいか、『ピーナッツ』ものが翻訳される際には、どうしてもスヌーピーといれねばならないみたいなのです。ですが、『ピーナッツ』映画第一作においては明らかにスヌーピーはメインではありません。メインはあくまでも我らが主役チャーリー・ブラウンであり、そしてもっとも重要な脇役はライナス・ヴァンペルトであるというのは、この映画をご覧になった方ならご理解いただけるかと思います。でも、商業的に考えると『チャーリーとライナス』にはできないんでしょうね。

さて、まずは嬉しい話。『スヌーピーとチャーリー』の吹き替え配役は以下のとおりでした。

チャーリー・ブラウン
ピーター・ロビンス
坂本千夏
ルーシー
パメリン・フェルディン
渕崎ゆり子
ライナス
グレン・ギルガー
横沢啓子
シュローダー
アンディ・フォーシック
一龍斎貞友
スヌーピー
ビル・メレンデス
松本梨香

やっぱりライナスは横沢啓子だったんですね。というわけで、私の馴染んでいた吹き替えと同じということで、違和感なく見ることができて大変よかった。やっぱり吹き替えにおいて声優というのは非常に大きな要素であると、今さらながら確認した思いでしたよ。

さて、『チャーリー・ブラウンという男の子』というタイトルで正しいのか改めて調べてみたところ、LOCAL CACTUS CLUBというサイトを発見しました。ここではさまざまな『ピーナッツ』関連情報が扱われているのですが、なかでもありがたいのは劇場版アニメの情報、そして劇場版吹き替えに関する情報。ああ、こんなにもバリエーションがあるんだ。そして注目はシュローダー。LOCAL CACTUS CLUB掲載の情報では鈴木みえとあるのが、DVDでは一龍斎貞友とあります。ええーっ、異同があるの? ということは再録音??? と思ったらそうではなくて、鈴木みえの現在の芸名が一龍斎貞友なんだそうですって。はあ、驚いた。

見て、やっぱり非常に素晴らしいと思いました。なにをやっても駄目なチャーリー・ブラウンが、スペリング・コンテストにおいて意外な才能を発揮して — 、というストーリーを軸に、スヌーピーのレッドバロン、シュローダーの弾くベートーヴェン、そして再びスヌーピーのスケーティングという、アニメーションのよさを再確認させるような副エピソードがあって、でもやっぱり一番いいのは以前にも紹介しました、ライナスの最後の台詞。じんと泣けてきます。そしてルーシーの言葉。すごく胸に染みる温かい言葉であると、どんなであってチャーリー・ブラウンは皆から愛されているのだ、ということがわかる名シーンで、やっぱり泣けてくるのでした。

さてここでちょっと疑問が。この映画の一番最後の台詞なんですが、ここだけ英語になっています。以前見た版ではちゃんと日本語に吹き替えられてたんだと思うんですが、いやそんなに難しい英語ではないからわからないなんてことはないんですが、それまで吹き替えでやってきて、そして最後の最後の胸に迫る台詞、まさしく決めぜりふをなんであえて英語にしたんだろう。すごく疑問に思います。

私は、あの台詞は、私の一番馴染んだ言葉で聞きたかった。一番胸にしっくりと入る言葉で聞きたかったと思います。

ところでですが、誰しもこれだという吹き替えがあるんだと思うのです。もし、もしこういうのが可能ならの話ですが、各種吹き替えを収録したDVDなんてのが出たら、それが一枚五千円一万円となっても買う人はいるかと思います(ここに)。だから、願わくばそうした盤を出して欲しい。そうすれば、多くのファンが喜ぶはずで、今まで知らなかった翻訳なんかにも触れることができるわけですから、また違った楽しみも得られると思います。

こんなことはどだい無理かも知れませんが、でももし可能であれば出て欲しい。そんな風に思います。

DVD

VHS

2006年8月4日金曜日

数独

 突然ですが、数独にちょっとはまってしまったようです。発端は水曜日のこと。電車で隣り合わせたおじさんが数独をやっているのを見て、一体これはどういう仕組みになってるんだろう、興味が出て、Wikipediaで調べてみたら解法がざっと示されていた。ああ、これでなんとかいけそうだと思いました。でも、問題がないとどうにもならないですよね。だからちょっと調べてみたら、出るわ出るわ、じゃんじゃん出てきます。無料で遊べる数独サイトは山ほどあって、ここでは紹介しきれないほどです。というわけで、私が最初に取り組んだのはNHKオンラインが提供しているSUDOKUです。なにぶんはじめてのチャレンジですからちょっと戸惑いましたが、それでもなんとかいけるものです。ガイドなしで初級も中級もクリアできましたよ。

そんな私の目下のお気に入りは、Web Sudokuです。ここはなにがいいかというと、問題が自動生成ではないんですね。世にSudokuサイトはたくさんあって、その中には明らかに問題を自動生成しているものもありまして、自動生成でも解けるようには作ってあるんですけどね、でも、やっぱり人間が考えて作ったものの方が面白いのですよ。自動生成と人間の作ったものはどうやって見分けるかというと、最初に配置されている数字の位置が鍵になっています。人間が作ったものはというと、数字の置かれている升目が明らかに対称を描いていたりして、こういうものは解いているときに妙な引っ掛かりがなくて解きやすいと感じます。

数独のいいところは、無心になってとけるところであろうかと思います。ヒントはすべて盤面に用意されているから、考えて考えて考え抜いたら解けるようになっているんですね。私はまだ初心者だから、そんなに難しいのには挑戦していないし、先ほど紹介しましたWeb Sudokuの一番簡単なパズルであっても、十分以上かけてしまうんですから、まだまだ先は長いなと思います。だって、数独選手権なんかだと、ひとつ解くのに三分とかいう人もいるとかいうじゃないですか。そういう人は、もう盤面を見た瞬間にいくつかの数字が浮き上がって見えるのでしょう。でも、私みたいな凡人でも、何度もやっているうちにそれに近い感覚は得られるんじゃないかと思います。ざっと見回すだけで、簡単なものならひとつふたつ数字が拾えるのです。後はその繰り返しですね。拾った数字が次のヒントになりますから、列行の関係を見てみたり、あるいは一列の中で考えてみたりと、解き方のノウハウはだんだんと身に付いていくんじゃないかと思います。そしてノウハウに気付くたびに、ひとつ脳のつかえがとれる。そんな気がします。

さて、今日は数独ということで、ゲームで出ている数独をまとめてみました。本はというと、山のように出てるから目録を作る気になれなかったんです。でも、もうひとつ理由があります。コンピュータで遊ぶ数独は、答え合わせが非常に楽なんです。数字を埋めた、どう? その瞬間に答え合わせが済んでしまうから、数をこなしたい人にはきっとゲームの方が向いているのだと思います。

でも、一マス一マス数字をつきあわせていってというのも、また違った面白さがありそうです。もし機会があれば、紙の上で解く数独もやってみたいと思います。

あ、紙のメリットといえば、メモしやすいというのがありますね。だから最初のうちは、紙の版で解いていくほうがいいのかも知れません。

Nintendo DS

PSP

PS2

PS

Windows

2006年8月3日木曜日

モン・スール

 こないだ、モン・スールじゃなくてマ・スールなんじゃないのかなんていっていた私ですが、これすっかり勘違いでした。私はこれが兄から見た妹の物語だと思っていたものですから、その先入観でスールはsœur(妹)に違いないと決めつけてしまっていたのです。ですが実際はそうではなくて、seul(唯一のもの)だったのです。このタイトルを日本語に直すならば『私のただひとりの男性』になるかと思われます。すなわち、この物語は妹の視点で描かれたものであると、タイトルがすでに主張していたのでした。それを勝手に『僕のいもうと』だなんて誤解していたのですから、本当に失礼いたしました。けど、もしかしたらスールという響きに妹という意味を透かそうという意図があったりなんかしたものでしょうか。だとしたら、うまい名付けかたであると思います。

読んで見ての感想。悪くないですね。暗い話です。主要登場人物は四人。その誰もがどこかで誤ってしまって、そのせいで取り返しのつかないことになってしまって、けどそこに本当に救いはなかったのかというと、そういうわけでもなかったのだと思っています。本当に大切なものが失われるまえに、なんとか手を伸ばすことができた。その手が届いたかどうかは読者一人一人が読んで、自分の実感として諒解すればよいのだとそういう風に思います。作者は後書きで、マルチエンディングなんですよなんていっています。確かに、私もそのように感じました。あのラストの情景、美波の視線が空に向かうあのシーンを見て、私がふと思ったものはというとフランソワ・トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』でした。映画のラストシーン、やっとたどり着いた海を見つめるドワネル少年の表情に私たちはなにを見るのか。

それはあたかも自分を映す鏡のようです。私たちは、彼彼女の見たものを思うことで、自分自身の心のうちをつぶさに描き出すのです。

この漫画は、そういう意味で映画みたいです。またある意味、演劇みたいでもあります。ひとつのシチュエーションの中で繰り広げられる科白劇。登場人物一人一人が、自分の失敗から目をそらしていたのが、ひとつの過ちが露呈したことをきっかけに変わっていく。自分の失敗を棚上げして他者を責めるばかりだったのに、自分の失敗も他者の失敗も苦いながら飲み込んで見せて、彼らの世界はきっと変わったのだと思うし、これからも変わっていくのだと思う。そしてそこに見つけ出されるだろう希望である望みであるは、同じくやはり私たち読者が一人一人抱いているものの映しなのだと思います。

だから、私はこの物語に救いがないなどとは思いません。投げっぱなしとも思いません。苦しいばかりとも思いませんし、暗闇の中には光だってあるのだと思う。私たちの胸の奥にも消えずに残る過ちや後悔は、苦さをもろとも飲み下すことでしか乗り越えることはできないのだと、過去に押しやるのではなく今の私の一部であることを自覚しまっすぐ見つめる覚悟ができて、そうしてはじめてこの物語は完結するのだと思います。

  • きづきあきら『モン・スール』(ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2006年。
  • きづきあきら『モン・スール』(SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2003年。

引用

  • きづきあきら『モン・スール』(東京:ワニブックス,2006年),213頁。

2006年8月2日水曜日

Jelly Tones

 この八月でiTunes Music Storeは一周年。というような訳で、一周年御礼のフリーダウンロード曲が五曲用意されております。そのうちの一曲がケン・イシイの『Sunriser』。ケン・イシイ、懐かしいなあ。実は私は、一枚だけケン・イシイのアルバムを持っているのです。それは『Jelly Tones』、当時購読していた雑誌『MACLIFE』で紹介されているのを見て、こいつはちょっと買ってみようと思って、お初天神近くのフコクパレットをあがったところにあったDISCPIERで買い求めたのでした。思い出しますね。邦楽フロアにいってイシイ・ケンのこれこれというアルバムはありますかと聞いたら、洋楽フロアにありますよと案内されていってみたら、あっという間に売り切れたんですよ、という話でした。でも、メーカーが増プレスするとアナウンスしていますというので、注文してそして買って、これが私の初テクノとなりました。

さて、『MACLIFE』というのはMacintoshの専門誌でした。なんでそんな畑違いの雑誌にケン・イシイが特集されたのかといいますと、このアルバムのジャケットに関係しています。アニメ『AKIRA』を彷彿とさせるこのジャケットアート、実はこの印象はあながち外していなくて、作画監督補として制作に名を連ねた森本晃司が関係しているのです。

このアルバムには初回限定版が存在しています。初回限定版はCDとCD-ROMの二枚組で、CD-ROMには『Extra』のビデオクリップが収録されていたのです。このCD-ROMがついてくるという点で、またそれがデジタルアニメーションであったとかなんでしょうか、そういう経緯から『MACLIFE』で特集されるにいたり、そして私のような人間がレコード店に足を運んだ。この、本来のケン・イシイの需要層ではなかったはずの人間がこのアルバムを買い求めたことで、初回限定版はあっという間に売りきれ。なのでメーカーは異例の初回限定版二次プレスに踏み切ったという、そういう話みたいなのです。

それまでケン・イシイのことなんてまったく知らなかったくせに『Jelly Tones』を買い求めたのは、おそらく私のようなコンピュータがらみの人間、そしてアニメファンであったのではないでしょうか。でも、おそらくそうした層の中からも、新しいケン・イシイファンは生まれたのではないかと思います。確かに最初はマルチメディアタイトル、アニメーションが目当てであったけれど、テクノミュージックの面白さをこのアルバムによって知ったという人間はきっと少なくないと思います。少なくとも、私はそうでした。

この文章に出てきた『MACLIFE』はもうなくなってしまって、お初天神近くのDISCPIERもすでにありません。だって『Jelly Tones』発売からすでに十年が経過しているのですから、変われば変わるというものです。ですが、ケン・イシイはまだ第一線で活躍していて、なんだか私は嬉しくなりました。久しぶりに聞いたケン・イシイの音楽はなんだかずいぶんとおしゃれで明るい感じになっていて、こういうのもよいなあと思いました。iTMS一周年記念の曲は、思わず私に昔を懐かしませて、なんだか本当によいギフトになったと思います。

2006年8月1日火曜日

忘れません

今日は送別会でした。私が今の職場にきたのが三年半前。一緒に働いていた人が、違う部署へと異動することになったのです。なんだ、異動かとはいわないでくださいましよ。その人は外部からきている人であったので、異動となると今後同じ職場で働くことはまずあり得ない。あえて会おうとしない限り、きっと会うことはないんじゃないだろうか。そうですね。人生にはよくあるタイプの別れのひとつであろうかと思います。

今日の送別会のあることを聞いたのは先週のことでした。そうかあ、お別れなんじゃねと実感を深めて、別れというのは寂しいものです。だから、私は以前にいつか歌いたいといっていた浜田隆史氏の歌、『忘れません』の練習を始めたのでした。機会があったら歌おうと思って、歌の情景としては去るもの送るものが逆ではあるのですが、けれど私はこの歌を歌いたいなと思ったのです。

はじめはin Gで練習しはじめて、それだと高音がつらいからと、in Dに落としてみました。今はそれを2カポでやっています。前奏間奏後奏もそれっぽくして、ちっともうまくならないといいながらも、少しは進歩しているのだなと思ったりなんかしながら歌ってみて、なおさらいい歌であるなという思いを強めたのでした。

歌詞が大変によいと思います。素直な飾らない言葉は目の前にいる友人に語りかけるようで、そして内面に思うところを吐露するくだりなどは非常に情感に溢れて、歌っていても気持ちのよい歌です。思うのは、言葉に曲がうまく寄り添っているということ。言葉が曲にのり、曲は言葉の抑揚に馴染んで、お互いがお互いをよく支えているのだなということがよくわかります。音楽の大本は歌にあり、歌は声であり言葉であると、そのように思わせる力のある歌であると思います。

しかし残念ながら、私は今日はこの歌を歌う機会を持てず、ただギターを運んだだけで終わってしまいました。けれど、今日は確かに歌えなかったけれど、いつかこの歌をまた歌おうという日がきっとくると、そんな気がするから、忘れないようたまには歌って、大切にしていきたいものだと思っています。

オリオンはiTunes Music Storeにて購入可能です。一度試聴だけでもしてみてください。