2006年6月30日金曜日

安部窪教授の理不尽な講義

 いやはや、世の中にはいくらでも私の知らない、面白いもの、ことがあるのだと思います。私は『安部窪教授の理不尽な講義』なる漫画の存在を知らなかったし、その作者である滝沢聖峰という人についてもまったく知らなかった。けれど、帰りに寄った書店にてこの漫画を見つけて、その背表紙、おそらくはタイトルに興味を引かれて立ち止まって、そうしたら立ち読み防止用の透明の帯が付けられていなかったのです。私は引き寄せられるままに本を手に取り、ざっと一話を荒く読んでみて、買おうと決めた。そうですね。それはなんでかといえば、この安部窪教授とやらのスタンスにやられたのでしょう。そう。私は幽霊をはじめとする怪奇があってかまわないと思っています。ただそれを怪奇として放っておきたくないとも思っています。知りたい。明らかにしたい。懐疑心を常に抱きながら、現象を明らかに見ようというスタンス。ああ、格好いいじゃないの。と、私はこの教授のキャラクターにこそ惚れてしまったのでしょう。

しかし、つくづく漫画にせよなんにせよ、大切なのはそのアプローチであるなと思うのです。『安部窪教授の理不尽な講義』はスタイルとしては非常にありきたりであるのですが、というのは、変わり者で趣味人の教授が、よくできた女子学生と軽い男子学生をともに、奇妙な現象の謎を解くというパターンが基本形としてあって、男子学生が狂言回しを演じているという点でもよくあるケースであろうかと思います。

けど面白い。おそらくこの作者は、よくあるスタイル、形式などなどを持ち寄って、アサンブラージュするみたいにしてこの漫画を作ろうとしているのでしょう。でもこのやり方は、過去に積み上げられた様式美を利用できるというメリットのある反面、ありきたりという印象を与えかねない危険もあって、けれどこの漫画に関してはうまくそのあたりを処理して、オリジナルの風合いを出していると思います。そしてそのオリジナリティは、作者の手跡そして工夫に発しているのだと思います。

工夫は、教授に持ち込まれる事象の見せかたと、その事象に対する教授のアプローチにあるのであろうと考えています。いやそうかな。それらも結局は突き詰めればなんらかの類型の中に解消されそうなものであろうかというもので、しかしそうした類型の集積になりかねないところがよい塩梅でもってオリジナルとして成立している。やはりこれは、作者の手跡が少しずつこの作者のらしさを作り上げているとしか言い様のない世界であると思います。

けれど、この漫画の一番の楽しみといったら、好奇心旺盛で深い洞察と多彩な特技を持ったタフなおっさんが、どんな風にかっこうよく描かれるのだろうかという、そこにこそあるのではないかと思います。うん、これはあれだね。おっさん萌えの漫画だと思う。教授の活躍を楽しむのが一番面白い漫画であると思います。

ところで思ったんだけど、教授とよくできた女子、できの悪い男子の構図って、昔の学習漫画を彷彿させますね。させませんか? そう思うのって私だけ?

2006年6月29日木曜日

レナード現象には理由がある

 川原泉は、なんか雰囲気がえらく違っちまったなあ、だなんて思うんです。絵がシャープになったというか、若干固くなってしまったというか。けど、見た目の雰囲気こそ変わってしまったけれど、その漫画の醸し出す雰囲気にはやっぱり川原色があるのだとも思います。よりよく生きようと、不器用ながらもがんばる人のささやかな喜びがつまっている。決して大それた仕合せやなんかを欲しがるのではなく、自分の身の丈にあった仕合せを求める人たちの物語なのだと思います。大きすぎず、また小さすぎず、あつらえの身にきっちりとあった服の気持ちよさがあるといったらよいでしょうか。こうした仕合せのかたちを称して小市民的というのかも知れないけれど、不相応に過分な富やらなにやら求めて、いつまでたっても満ち足りない不安を思えば、小市民的のなにが悪いのか。他の誰がなんといおうと、自分の求める仕合せをきちんと見つめられる人こそが人生をよりよくいきる人なのだと、川原の漫画からはそうした哲学が感じられます。

そして私はそんな川原漫画で満ちたりるのですね。『レナード現象には理由がある』は表題作の他に、「ドングリにもほどがある」、「あの子の背中に羽がある」、「真面目な人には裏がある」を収録して、これらはそれぞれが独立した短編でありながら、ひとつのシリーズとしても機能しています。無類のエリート校、私立彰英高校を舞台にして、けれど「レナード現象」、「ドングリ」を除いては、あんまりそうしたエリート校うんぬんといった設定は表に出てこないよね。もう、普通の、川原的ほのぼのペースに持ち込まれてしまって、けどこのちょいと穏やかにしてのんびりがいいんだ。川原はアップダウンの大きな物語を描いたりもするけれど、けどその本質にはこの穏やかさがあるのだと思います。きっと最後にはうまくいくさ。きっと最後には報われるよねと、思わずそう信じたくなる人のいじらしさというのが川原色です。

さて、白泉社のいうにはこの本はちょっぴり変わった4つの恋のお話なのだそうですが、そうだったのか! ってわざとらしく驚いてちゃいけませんやね。けど、川原泉の漫画って、ラブコメのようでラブコメのようであらずけど実はやっぱりラブコメという、友達以上恋人未満的なシチュエーションが多くて、そういうところがなんだか私は安心してしまってほのぼのと嬉しくなってしまいます。とはいっても、白泉社のいうように、この漫画ではそれぞれの話の主人公たちがちょっとしたできごとをきっかけに近づいて、相手を見直してみたり、必要と感じてみたり、憧れを深めてみたり、誤解をといてみたりの結果、とても仲よくなってみたりして、けどそのなんだか変に健全で、なんだか変に落ち着いた様が面白くて、このちょっと枯れたみたいなカップルのありかたというのはむしろ理想的かも知れないね、なんて思います。

でもそうかと思えば、「真面目な人には裏がある」の最後の最後のト書き。すっごく意味深だよなあなんて思ってにまにましたりさせてくれちゃったりなんかして、でもまあとにかくいい話ばっかだよなあ。

食欲魔人シリーズみたいにして続いてくれたら嬉しいななんて思っていたら、人気あるんでしょうか、『メロディ』10月号には「その理屈には無理がある」が掲載されるらしくって、ああこのタイトルのつけかたを見れば関連作っぽいじゃありませんか。私がこのシリーズを好きと思ったように、同じく好きと思っている人がたくさんいるということ。ささやかだけど、本当に嬉しいことだと思います。

引用

  • 白泉社の最新刊

2006年6月28日水曜日

さんさん録

  税金を納めに市役所にいくついでにと、漫画に強い書店にも寄ったのでした。って、実は嘘。税金の方がついでだったというほうがきっと正直で、今日は『さんさん録』の発売日だったから、どうしても本屋にはいっておきたかったのです。『さんさん録』を描いたのは、このBlogにおいて何度もそのお名前を紹介してきたこうの史代。優しくやわらかでしなやかで健全で、ときにぴりりと一味かえて懐の広さやいたずらっぽさも披露されるところが実に楽しい。そうですね。昨日の表現を使うなら、私は間違いなくこうの史代という作家についたファンです。だから、きっと間違いなく『さんさん録』も手もとに置こうというのです。

『さんさん録』。このあまりに不完全な人たちを描いた漫画。しかしその完全でない人たちっていうのがこれほどに魅力的に映るのはなんでなんだろうと、そんなことを思うのです。考えてみれば、こうの史代という人の漫画に出てくる人というのは、みんなどこか引っ込み思案だったりして、自信に満ちあふれている人というのはない感じなんですよね。けど、これはそうした人たちが卑屈だとか駄目だとか、そういうことを意味しません。自分のことに自信を持てなかったり迷ってしまったりはあるけれど、けれどそれでもこういう自分が自分なんだと自然に受け入れているというような、そういう強さがあるように感じています。そして多分この強さは、こうの史代という人がその芯に、支えみたいにして持っている強さなんじゃないのかななんて思うのです。

正岡子規という人が『病牀六尺』という本の中で、悟りということを誤解していたといっています:

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

そうなんですよね。そして私はこうの史代の漫画からは、そうして平気に生きている人の強さを感じるのです。

とはいっても、人間というのは弱いものだから、いつでも平気というわけにはいかないし、そしてそのいつでも平気でいられないということをよく知っているのがまたこうの漫画であると思います。弱さを知っているから、誰かを好きになろう、好きになりたいという気持ちも涌くのだろうし、そして誰かの悲しみだとかつらさとかを放っておけない気持ちにも繋がるのだと思うと、こうの漫画の優しさ、やわらかさはここに発するのであるなと思わされます。

けど、本当のところをいうと、私が『さんさん録』2巻を読み終えて本当に思ったのは、なんて自分は不完全なんだろうということ。誰も愛さず、誰からも愛されず、自分で決めたことすら守ることのできない薄弱な人間で、けれどその弱さゆえに誰かを愛したいと思うのだということに気付いた。そして、やはり私はこうの史代はただ者ではないと。『さんさん録』においては苦手を描こうと自ら高いハードルを設定されて、そしてそいつを見事に越えてみせられた — 。

私は『さんさん録』は、生きるということを真っ当に真っ正面から真面目に描いた、泣き笑いの素敵な漫画、傑作であるといってはばかりません。

  • こうの史代『さんさん録』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • こうの史代『さんさん録』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。

引用

  • 正岡子規『病牀六尺』,「病牀六尺」からの孫引き。

2006年6月27日火曜日

ちびでびっ!

 えー、ファンと一口にいいましてもいろいろございまして、作品につくファンがいるかと思えば、作者につくファンというのもございます。で、私はといいますと後者のたちでありまして、前々から申しておりますとおり、これだと思うところがあらば、その作者の既刊を集めて集めて集め倒してしまう。そういう類いの、作家からしたら非常にありがたい金づ……、げふんげふん、けど一歩まかり間違うと頭にスのつく困ったちゃんにもなりかねない、ありがたかったり迷惑だったりという、微妙なタイプなのですね。

さて、『ちびでびっ!』という漫画。これが私にとっての寺本薫初遭遇でありまして、おおっ、なんだかいいじゃんと、なかなかにくるものがあったのです。で、私の困った習性から、全部集めちまおうという意欲が出たのですが、その時点で刊行されていたものはなし。で、後に出た『ふるーつメイド』ですが、なぜかこれには手が出ませんでした。なにがいけなかったんだろう……。メイド? あるいは主人公に尽くす女性というのがいかんとでもいうんでしょうか?

その点、『ちびでびっ!』は尽くすというような要素が少なくて、だから私もはまりやすかったのかも知れないですね。基本的に気ままな母、姉、同居人、友人ばかりが出てくる漫画で、そうした人たちに振り回されるヒロインの悲哀たるやいかなるものであるか。そう、この漫画の主人公は女性なんですね。凛々しいタイプのヒロインで、女の子からモテモテでという、最近はやりの百合ものとまではいかないものの、けどどことなしにそうした空気をまとわりつかせているのはうまいところであると思います。

私は寺本薫という人に詳しいわけではないのでいいきることはできないのですが、多分、この人は基本的なお約束を守ろうとするタイプの漫画家なのだと思います。例えば『ふるーつメイド』では、メイドとご主人様という定型を使い、そこにツンデレであるとかどじっ娘であるとかを配置する。こうした約束ごとがはまれば強い訴求力を持つのではないかと思いますが、残念ながら私にはこの定型が決まらなかったのです。対して『ちびでびっ!』はどうかというと、軽度の百合っぽさというのはすでにいいましたが、これに加えてツンデレ要素を多分に加えて、基本的に私はツンデレとやらには興味がないのですが、けれどなんでか『ちびでびっ!』に関してはこれが効きました。いや、ツンデレじゃないか。ちょっといびつな恋愛模様に、かわいい嫉妬を加えましたって感じなんだと思うのですが、こうしたラブコメであってラブコメでなく、けどやっぱりラブコメというようなところがとてもよかったのだと思います。

さて、『ちびでびっ!』第1巻には販促用小冊子が付けられていまして、それには凛子とラキの小エピソードが入っていて、このちょっといつもより百合色強めというのは非常にいい感じでした(けど、私にはあと三段くらい突っ込んでくれてもよかったかなあなんて思います。直球というより微百合ですよね?)。

小冊子は、私のいつもいっている書店、グランドビル30階の紀伊国屋書店にて入手。まだ残っていましたので、例によって例のごとくお知らせまで。

蛇足

残念ながら、いつものような蛇足って感じじゃないので、はてどうしたものか。特定のキャラクターが、というよりも、登場人物全体の関係が醸し出す空気が好きって感じです。

  • 寺本薫『ちびでびっ!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年6月26日月曜日

卒業アルバム委員長の窓

 写真を趣味にしている人はたくさんあって、それぞれが抱く写真への思いはさまざまです。写真という、瞬間を切り取るそのものが好きな人。カメラという精密にして精巧な機械に魅せられた人。被写体が好きな人もいるだろうし、写真を撮る自分が好きな人もいて、これは十人十色といっても差し支えないのではないかと思います。私自身、写真を撮りますが、それはなぜかといわれると、一口にはいえないものがあります。流れる時間、移ろう季節の中に暮らして、一向にかえりみることのなかった自身を反省してカメラを手にした、 — 刻一刻とありようを変える世界を感じていたかったのだといえば、あまりに格好付けすぎだと思います。けれど、一番最初にカメラを手にするきっかけとなった瞬間ははっきりと覚えています。あの朝、電車の窓から見た風景、その風景を見つめていたいと思った。その風景を見つめる目になりたかった。そうした思いが募って、私ははじめてのカメラを買ったのでした。

『委員長お手をどうぞ』は「卒業アルバム委員長の窓」のヒロイン、実田花乃([みのるた]じゃなくて[じった]です、でもミノルタだよね)のスタンスというのは、もしかしたら私に似てるのかも知れないなあと、この話を読むたびにどきりとして、嬉しくなったりどぎまぎしたりと大変です。なにがこんなにもドキドキさせるんだろう。それは多分、一歩世界から距離を置いているようかのようにクールである花乃が隠している情熱、高揚が伝わるから、だと思います。

花乃はいいます。

わたし
みんながどんな風に世界をみているのか
ずっと知りたいと思ってた

写真というのは本当に不思議なものであると思います。その時、世界に向けた思いをそのまま凝縮するようにして結実する写真は、その思いをありのままに残すのです。あの止まった画面に、強く生き生きと結晶する誰かの思い。私は写真を撮り、その写真を見る人は私の思いを感じてくれるだろうか。そして、あなたの写真を通して、私は他でもないあなたの思いを知りたいと思う。写真にはそうした色合いが確かにあるのです。

私は花乃の言葉に、私が思ってきたことがあからさまにされているのを見て、きっとこの人は私の思いを受け取ってくれる、そして私はこの人の思いを受け止めたいとそのように感じたのです。そしてドキドキと胸が高鳴る — 。写真とは、そうした交歓を確かに媒介します。

そして、牧名二子の存在が秀逸でした。花乃が世界を見つめる視線として写真に関わるのだとすれば、二子は対象への思いゆえに写真に関わったのではないかと思うのです。花乃の思いが世界を捉え尽くしたいというものであらば、二子のそれはあなたに触れるほどに近づきたいという思い。ここに写真の究極的な思いの両極が出会って、響きあうかのように感じられて、そして私はこの一連のシーンの描き方にじんとする。そう、写真というのは究極的には愛だと思うのです。あなたへの愛、世界への愛。その立つ位置、スタート地点は違ったとしても、きっとゴールはおんなじなのではないかと、そのように感じさせたこの漫画は、限られた紙幅でもって写真の本質、人の思いのありようを充分に描いてしまった — 、とそんな風に私は思います。

  • 山名沢湖「卒業アルバム委員長の窓」,『委員長お手をどうぞ』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

引用

  • 山名沢湖「卒業アルバム委員長の窓」,『委員長お手をどうぞ』第2巻 (東京:双葉社,2005年),148頁。

2006年6月25日日曜日

はれた日は学校をやすんで

  『はれた日は学校をやすんで』。私が好きだったころの西原理恵子がここにはあります。遥かなる叙情性。心の揺れ、マイノリティの悲しみがここには描かれていて、しかしただ悲しむばかりではなく、その心揺れ動く季節に空を見上げるような悲しみに向けられた視線のあたたかさ。マイノリティというのは、ここでは、大勢に溶け込むことのできない人のことと捉えてくださるとよいと思います。人の和に入ろうとしてはいれない人。皆の中に入りたいと思うのだけど、あるいは入っているのだけど、そこになぜか落ち着くことのできないタイプの人間というのはあるのです。私もそうです。けれどひとりぽっちが楽しいわけもないのです。どうして自分は皆と同じにすることができないんだろう……。そういう悩みに直面したことのあるという人は、きっと少なからずあると思います。

そうした悲しみを共有できる人には、きっとこの漫画は優しく、懐かしく、そして暖かく感じられるのではないかと思います。傷つきやすい心がそっと、けれどそのままにまっすぐ描かれていて、ああここには私のもうひとつの心があると、そのように思えるのではないか。そんな風に感じることもあるのではないかと思います。

あまりにナイーブすぎるこの漫画に触れて、西原理恵子という人の過激さとのギャップに戸惑う人もあるのではないかと思いますが、けれどこのナイーブさは過激さと表裏一体にあるのだろうと私は思います。ナイーブであるがゆえに、あたりさわりのよい適当を選ぶことができなかった。表現するに際して、開き直りともいえるめちゃくちゃさを選択してしまわざるを得なかった。そうした過激さ、アグレッシブな表現に傷つきやすさを隠しているのだと思うのです。そしてその過激さは再びナイーブでデリケートな心象に返っていくのだろうと思います。

誰しもの心に訪れる傷つきやすい季節。私はその季節から未だ抜けきれずにあって、そうした顔を隠すべくさまざまな手練手管を身に付けて、そうした人はきっとたくさんいるでしょう。けれど、ときに深く色濃く立ちこめる悲しさに胸がいっぱいになっているときには、たくさんいるはずの思いを同じくする人のことを忘れてしまいがちです。自分以外の皆はなんの問題もなく普通にいられるのに、自分ばかりがこんなに悲しいなんて……。そんな風に思うときには、この本を手にするのがよいのではないかと思います。私は、そしてあなたはひとりではないと、その悲しい思いを言葉にせずとも共有している、顔も名前も知らない友人がきっといることを思い出させてくれる。『はれた日は学校をやすんで』とは、そうした本であると思います。

2006年6月24日土曜日

武術の創造力

  私は甲野善紀という人が好きで、テレビやなんかで見ると、すごく得した気分になれるのです。なにが得かというと、動いている甲野善紀が見られるということ。古武術を通して身体を再発見、再構築していった甲野善紀が、その所作をあからさまに見せてくれるのですよ。現在、私たちが当然のように思って、疑問をさしはさむこともしない動きの常識を真っ向から崩してくれて、すごい!

私の、人やなにかを好きになる条件のうち最大のものはなにかというと、私の知や思いが届かない世界を垣間見せてくれるということなのです。自分はこんなにも知っていなかった、まったく考えがいたらなかったということを思い知らせてくれる人。甲野善紀はまさしくそうした私の敬愛して已まない人物のひとりであります。

で、『武術の創造力』を取り上げてみたわけですが、それはなんでかというと、たまたま手に取ってしまったからというのが最大の理由です。実は、テレビで甲野善紀がいろいろやっているのを見てしまって、もう嬉しくてたまらなくなってしまって、甲野本でなんでも書いてみたいと思ったのでした。実は以前『ちちんぷいぷい』で古武術を介護に応用するというのを見たときにも同じように思ったんだけど、この人の本に書いて、テレビやなにかで話して、そして実践していることについて、わかったわかっているとは到底思われないものだから躊躇してしまって書けなかった。だから、今日はなにも気張ることなく、手に取って読んでしまった本『武術の創造力』でいいやと、そんないい加減な理由で決めました。

『武術の創造力』は時代劇、時代小説なんかが好きで、はまってしまっている人にはきっと面白いのではないかと思うのです。甲野本では身体の使いかたがメインになることが多く、そしてそれは『武術の創造力』においても同様なのですが、けれどこの本はそれだけでなく、日本の刀剣についての知識、常識、そして逸話やなんかがちりばめられていて、面白い。私は高校に通っていた時分に日本刀に興味を持って、図書館でいろいろ読んでみたりして、だから当時は刃文の種類とか沸、匂がどうたらこうたらとか、結構覚えたりしていたんですが、なにしろ読んで覚えただけの知識だからすぐに抜け落ちまして、いまでは村正茎やら三本杉やら、そうした特徴的なところしか覚えていません。日本刀を振ったこともなければ持ったことさえないのですからそうしたこともしかたがないとあきらめてしまっていますが、けどそうした半端知識の私にさまざまな実際の感覚も含めて教えてくれるこの本はすごくありがたく面白いのです。

この本は甲野善紀ひとりで書かれた本ではなく、多田容子との対談になっています。多田容子は柳生十兵衛を主人公とした『双眼』でデビューした作家ですが、このデビュー当時の印象があんまりに独特だったから、普段ハードカバーを買うことの少ない私が珍しく買ってしまっているんですね。で、今回の本も多分多田容子だったから買ったんじゃないかと思います。書店の店頭で多田容子と甲野善紀の名前がそろったこの本を見て、なにしろ多田容子は自身手裏剣を打つという人ですから、こりゃ面白いに違いないと思って、この直感は間違っていなかったと思っています。

多田容子の興味や個性、やっていることがうまく加わって、他の甲野善紀本にはない味が出ている本であると思います。甲野善紀をまだ知らないという人には向かないかも知れないけれど、甲野善紀を知っていて、時代劇にも興味があって、より深く広くを求めたいという人にはよい本なのではないかと思います。

そうそう。昨日取り上げていた『燃えよ剣』についても少し触れられています。このことについてもちょっと嬉しくなったので、余談ながら。

2006年6月23日金曜日

燃えよ剣

   新撰組について興味が出たら、まあこの本から読んでみるとよいよといわれるスタンダード中のスタンダードというと、やっぱり司馬遼太郎の『燃えよ剣』なんだろうと思います。実際、新撰組に関するブックガイドなんてのを見てみるとまず間違いなく『燃えよ剣』は入っているし、そもそも新撰組に関する記述を追えば、そこかしこに『燃えよ剣』の影を見つけることができます。その語り口であったり人物像だったりに、司馬遼太郎の影が見える。『燃えよ剣』の影響力は絶大であったのだと驚くほかないですね。

でも、読んでみればわかるんです。なんでこれだけの影響力を持つにいたったか。面白い。人物が生き生きしている。そして土方が格好いいんですよ。新撰組という組織をただただ強くすることを目的に生き、そして新撰組をもろとも抱いて転戦転戦、ついに箱館の地に斃れる男土方歳三義豊の姿のまぶしさよ。この本を読むと、まあ土方ファンになるでしょうよ。それくらい魅力的に書かれていて、実際あれだけ隊士を率いていた隊の副長であったのですから、カリスマも並々ならぬものがあったのだろうと思います。

実をいうと、私は最初、それほど新撰組は好きではなかったのですよ。というか、アンチだった。瓦解寸前までに古びてしまった旧体制を守らんとする彼らの姿に、私は多少のロマンを感じつつも、時代に取り残された、変化についていけなかった者たちの固陋さを思ったのです。けれど、この本を読んでみると、多少なりとも見方が変わる。むしろ土方たちに同情的かも知れない。特に後半分のくだり。主に捨てられるようにして行く先を見失おうとする隊は解体の憂き目に遭い、しかしその逆風に敢然と突っ立ち自らの進退を明らかにしてゆく土方歳三はかっこうよくて、生き方としては不器用なのかも知れないけれど、その意固地なまでに自分の生き方を貫こうとする姿には憧れさせるものがあります。浮き草のように目的もあやふやにあちらこちらふらふらとする私のような人間には、まぶしすぎるくらいにぎらぎらと輝いていて、やっぱりこの本を読むと土方歳三にとりつかれるのだと、そう思わないではおられません。

  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』上 (新潮文庫) 東京:新潮社,1972年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』下 (新潮文庫) 東京:新潮社,1972年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』東京:文藝春秋,1998年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』上 東京:文藝春秋,1973年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』下 東京:文藝春秋,1973年。
  • 司馬遼太郎『新潮現代文学』第46巻 東京:新潮社,1979年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第1巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第2巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第3巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第4巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第5巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。

2006年6月22日木曜日

Bedtime Puzzler

 私はナムコのゲーム『もじぴったん』が大好きです。PS2版はずいぶん以前に買ったというのに、時間がなくてほとんど遊べていないのが残念で、しかも途中でどうしてもクリアできなくなった状態で頓挫しているというのも心残りで、余裕ができたらまた遊びたいなあ。ちょっとずつでいいからクリアしていって、いずれは全ステージを終了させるのが私のささやかな夢となっています。

さて、その『もじぴったん』。音楽が素晴らしいと繰り返すようにいってきました。そしてBedtime Puzzler。以前私が聴いていて、涙がこぼれそうになるといったこの曲、当然のように胎教のためにとセレクトした音楽の中に収められて、重要な位置を占めています。

なんだ、なんだ、胎教ミュージックだとかいってるの、アニメやゲームばっかりかよといえば、そういうわけでもないんですよ。Jazz, Folk, Classicalとできるだけまんべんなく、偏りないように選んだのですが、そうした中にどうしても載せたいと思ったのが『この愛を未来へ』でありRaspberry HeavenでありBedtime Puzzlerであったのです。これはもしかしたら、胎教=リラクゼーション音楽=クラシカルといったような風潮への反抗なのかも知れません。でも、たとえ反抗なのだとしても、私はこれらの曲が、数百年を淘汰されて残ったクラシックの名曲に劣るものだとは決して思いません。富士に月見草どころの話ではなく、どれも違ってどれもよいでもなく、負けていない。音楽の優劣、価値は勝負ではないのだけれども、だとしたら、これら小品は小品なれどマスターピースに匹敵する実質を持っているのだと、そんな風に思うのです。

こんな小難しい小理屈は抜きにしても、Bedtime Puzzlerは美しい。さいわいなることに、ナムコ『もじぴったんうぇぶ』はおまけコーナーダウンロードページにてMP3のダウンロードが可能です。もし試聴して、よいと思ったら、サントラを購入するのもよいかも知れません。本当によい曲が次から次へと飛び出してくる、素敵なアルバムに仕上がっているのです。

参考リンク

引用

2006年6月21日水曜日

Raspberry Heaven

 胎教ミュージック、だいにだーん。今日はRaspberry Heavenの紹介です。もうこの曲についてはあれこれ説明する必要もないんじゃないかと思いますが、かの有名な漫画『あずまんが大王』がアニメ化されたときにEDテーマとして使われたのがRaspberry Heavenでありました。OPテーマの『空耳ケーキ』も素晴らしかったとは思うのですが、こちらは少々元気すぎるかも知れない。というわけで、穏やかでロマンティックで、なんだか聴いているうちに涙がこぼれそうになってしまうRaspberry Heavenを選んだのでした。

Raspberry Heavenは本当に美しい本当によい曲であると思うのですよ。『空耳ケーキ』だっていいですよ。けど、私にはRaspberry Heavenがすごく耳に残り、あのアニメを見て、なにはなくともこの曲だけは手にしなければと思った。そしてマキシシングルを入手して、聴いて、そうしたらやっぱり素晴らしい。詞もよい、メロディもよい、アレンジもよければ、その歌声もよくて、ここ数年における大ヒットであると思ったものでした。

変拍子といえば『空耳ケーキ』にこそ顕著ですが、ところがRaspberry Heavenにおいても拍子の工夫がされていて、それはリフレインにおけるヘミオラ。ヘミオラとは3拍子の曲を2拍子で取ること、またはその逆Raspberry Heavenのリフレインでは2拍子系と3拍子系の異なるリズムが、一小節ごとに交代してあらわれ、独特の推進感を生みだすことに成功しています。メロディはポップに跳ね、そうかと思うとしっかりと拍を刻み、この緩急の妙! 音楽の魅力はリズムにこそ生まれる。音楽の根源であるリズムを実によくつかんで膨らませることに長けた人たちであると感心しました。そして、そうした理屈でははかれない、大変な魅力を持ったこの曲を知ることができてよかったと、本当にそんな風に思ったものでした。

引用

2006年6月20日火曜日

この愛を未来へ

妊娠している人が、胎教にいい音楽を見繕ってよこせというのです。といわれてもなあ。胎教なんていうけど、結局は母親がその音楽についてどう感じるかが大切なわけだから、そんなに簡単単純なもんじゃないんです。本人が好きなもの、趣味指向、好みによって全然変わってくるわけで、じゃあそこでなにを選んだものかと考えれば考えるほど、無難な線に落ち着こう落ち着こうとするのが人情というもの。ほら最近モーツァルトがむやみに流行っていますが、そういう定番どころでお茶を濁そうだなんて考えも浮かんでこようというものです。

でも、同じモーツァルトでも、ちょっと一ひねりしたいよね。と、そういう向きには『この愛を未来へ』がうってつけであると思われます。

岩崎宏美が益田宏美だったころ、あるいはまだバブルの残照が残っていたころ、日本テレビ系で『ママは小学4年生』というアニメが放送されていて、このエンディングテーマが『この愛を未来へ』でありました。モーツァルトのピアノソナタ K. 545を(ほぼ)そのまま伴奏として採用し、そこへとうとうと流れる益田の歌声はあたたかで叙情的で、そしてまたドラマティックで、私の好きで好きでしかたがない歌のひとつです。だから、胎教だなんていったとき、最初に思い浮かばれるべきはこの歌で、きっと間違いなく私はこの歌を選曲の重要なポジションに配置することでしょう。この歌こそが核になるのです。

音楽として清浄で美しく、そして歌として親が子に向ける愛のひとつのかたちを真摯に写し取ろうとする思いに溢れるようで、内容実質としても母になる人が聴くにはふさわしいと感じます。

2006年6月19日月曜日

つかぬことをうかがいますが…

  この間、表紙のイラストのために本を買う、というようなことをいっていました。いわゆるジャケ買いみたいなもの? といえば似ているようでちょっと違って、というのもですね、ジャケ買いっていうのはジャケットでもって中身をはかり購入するということでしょう。ところが私の場合は、ジャケのみで買ってるといった有り様なのです。

まさしく表紙のイラストが目的で買った本。そういうものは過去にもやっぱり数冊あって、その中でももっとも表紙依存率が高かった本といえば、『つかぬことをうかがいますが…』であろうかと思います。

表紙の、表紙の女の子がかわいかった。眼鏡、ロングヘア、白衣、完璧だ……。いや、別にそういうフェティシストというわけではないんです。ただどうしてもこの表紙にはあらがえず買ってしまった。

表紙依存性が高いといいましたが、それでも内容に興味があまりにもないような場合、購入にいたらないのが私の中途半端といわれるゆえんです。だから、この本を購入した私にとって、書かれた内容は少なからず興味があったということに他なりません。内容は、身近にあるような疑問とそれについての回答。なのですが、答えている側というのはどういう人なんでしょう? それは一般有志なんです。イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』のコーナーで読者からの質問を掲載し、そしてその回答も読者からつのるというものがあるのだそうで、その成果がこの本なんですね。

読んでたら、思いがけない質問があって、また驚くような答えが返ってきます。この本の一番最初に掲載された質問、体が冷えることと風邪をひくことって、関係あるんですか? ないのなら、上掛けなしで寝たり、隙間風の吹きこむところで寝ると風邪をひく、とよくいうのはどうして? このまさしくのっけから驚きでした。だって冷やすと風邪を引くのは当たり前じゃんと思ってたら、その回答がまったく関係ありません。ええーっ! 私はてっきり後の回答者が否定してくれるものと思い込んでいたんですが、とんでもない。皆同じように答えるのです。そうかあ、身体を冷やすことと風邪を引くことは関係ないんだ……。まあ、身体を冷やすと体調を崩すというのは別のメカニズムだからのけるとして、確かに風邪に関しては冷えとは関係ない。納得したのでした。

こうした衝撃の質問と回答の連続で、わくわくしながら読み進めてしまう、そういう類いの本です。素朴な質問に親しみやすい回答。回答者によって見解が異なり、異論反論が提出されるのも面白く、こういう皆で和気藹藹としているその雰囲気からが楽しくてまた釣り込まれてしまいます。

私は気付いていなかったのですが、この本の続編が出ていたのですね。幸い同じイラストレーター(水玉螢之丞)、そしてまだ絶版にはなっていない模様。これは買わなくっちゃだわ。

引用

2006年6月18日日曜日

ハリー・ポッターと賢者の石

 今日はちょっと恥ずかしい話。

昔、新聞のテレビ欄に『ふしぎの海のナディア』の新番組予告を見て、添えられた白黒の小さなワンカット。こ、これは萌えだ! と思ったね(もちろん、当時にはこういう表現はなかった)。いそいそと第一話を録画すべくビデオをセットし、楽しみに見てみたら、それはジャンという少年! ああ、やられたっ。

それと同じことを後にも経験したのです。人気児童文学の映画化、話題作ですからテレビもがんがん押していまして、宣伝番組にちらりと見かけたかわい子ちゃんの姿(もちろん、この時点ですでに死語でした)。そしたら、それがハリーでした。ああっ、またかよ!

私はハリー・ポッターの原作を読まず、映画もテレビで第一作目だけを観たという、実に不熱心な人間なのですが、宣伝やらなんやらを見てみて思うのは、ハリーは第一作目のあのちんまいころが一番よかったよねえ、というもの。そしてこれはハーマイオニーにおいても同様で、テレビにてハーマイオニーを見たとき、こ、これだっ、と思った。ぼさぼさの髪、ちょっと意固地でへんこな性格。素晴らしい、完璧じゃないか。けど、ハーマイオニーもどんどん育って、なんか普通にきれいな娘に育って、つまんないなあ。こんなの私の愛したハーマイオニーじゃないっ、といわれてもハーマイオニーも迷惑だよな……。

ハリー・ポッター人気も一定のペースで落ち着いて、一時の非常な盛り上がりこそ見なくなりましたが、それでも人気は人気なんですよね。残念ながら私はまったく目を向けてこなかったので、それこそこの映画を一本見ただけというだけなんですが、あの映画だけでも面白かったと思ったのは事実です。イギリスの伝統の児童文学典型というのが見えるところも、ああそれっぽいなあと嬉しくなったし、基本的に健全で前向きである物語も好ましいと思った。いつか読んでみたい本ではあります。

ハリー・ポッター映画の旧作は今や千円で買えるまでになっていて、こうなればそろえてみてもいいかななんて思います。ちょっと文庫を買うような感覚で、かわいかった頃のハリーやハーマイオニーをいつでも見られるようにしたい、というとなんだかお稚児趣味でもあるんじゃないかといわれたりしそうですが、けどあの頃が一番かわいかったというのは誰もが口をそろえていうところであります。メインストリームに背を向けているつもりの私にしても、気付けば本流にあるのだなと気付く。幅広く訴えるいい子役である、そしていい配役を得たよい映画であると、そんな風に思います。

2006年6月17日土曜日

ニュースおじさん

その頃はテレビで『世にも奇妙な物語』というのが放送されていて、ちょっとした怪奇ものとか、ホラー、スリラー、ミステリーが人気を博していた時代でした。とはいっても、怪奇ものというのは古今東西常に人気のある題材ですから、この時代が特別だったというわけでもないんですけど。テレビで観る怖い話といえば、古典的色合いの強かった『あなたの知らない世界』が優勢だった時代が先にあって、ここに比較的ドライでおしゃれ色の追加された『世にも奇妙な物語』が登場してきたのですから、実に新鮮で、本当に大人気でした。私も見ました。当時は高校生だったか、とにかく毎週のように見ていたものでした。

さて、『ニュースおじさん』というのはなにかというと、『世にも奇妙な物語』においてドラマ化された怪奇短編でありまして、発端は妻がテレビのニュースにいつも出ているおじさんを見つけたというものでした。ニュースの関係者じゃないのか? などの夫の疑惑は、偶然でないとそこに居合わせないような現場であっても出ているなどなどの反証により次々クリアされていって、そしてその夫婦がドライブの途中、ニュースおじさんを見つけてしまったところからドラマは急転直下。きゃーっ、どうなるのーっ。

ごめん、この先はネタバレになるからちょっと書けない。

実をいうと、私、この原作になった短編をすでに読んでいたのでした。それは『奇妙劇場』というオムニバスに収録されていて、タイトルも同じ『ニュースおじさん』。しっかり覚えています。

で、それがドラマになるということで楽しみに見たんですね。それでその翌日、仲のよかった図書館司書さんとぶーぶー文句をいった。ラストは原作の方が断然よかった! 『世にも奇妙な』はなんでわざわざああいったいらん演出を加えるのか! ドラマの評判は散々でした。

ニュースおじさんというちょっと不思議な存在を登場させ、そしてそのおじさんに出会った夫婦の感じた心理的圧迫の描写、そしてあのぱっと世界が転倒するかのような見事なラスト。あれは面白かったです。全部通して読んだはずの『奇妙劇場』ですが、中身を思い出せるものは今や『ニュースおじさん』くらいしかなく、それくらい印象的であったと思っていただければありがたい。面白かったですね。また読んでみたい好短編であると思います。

2006年6月16日金曜日

グレン・グールド著作集

今日撮った花の写真が青くて青くて困ってしまったのでした。現実にはむしろ紫だというのに、写真にすれば鮮やかに青く写ってしまって、これはカメラの癖なんでしょうか。しかし、この色の違いというのは私の目にしか残っておらず、だから後から写真を見た人はこういう色なんだと思ってしまうことでしょう。そして現実の花の色はわからなくなってしまって、結局は残ったものが現実のすべてみたいになってしまうのかも知れません。

と、そんなことを思いながら、ふとグレン・グールドについて思い出して、彼はもしかしたらそれを狙っていたのかも知れないなと思ったんです。かの矛盾に満ちた天才的ピアニストは、演奏以外にもたくさんの著述、言説を残していて、まさにメディアというものを意識した活動を繰り広げていた。そしてそこにはいくつものグールドの像が、ときには食い違い齟齬を来しながら群れている。本当に不思議な人であったと思います。

多分グールドは、他人に対していい格好をしたかったというわけではないのだと思います。ただ彼は、違う自分でありたいという願望をどこかに隠していて、それがわかりやすいかたちをとったものが一人二役ならぬ一人多役の録音、映像、インタビューなのでしょう。しかし、グールドにはそうしたあからさまな変身願望以外にも別の自分を装いたいという思いがあると見えて、それは例えば彼がいっていたことと現実の彼の行動の矛盾なんかにうかがえると思っているのですが、いうならば彼は文章をはじめとするメディアの上に、理想的な自己像を築きたいと思っていたのではないか。それが意図的であるかどうかはわからないけれども、彼は現実の自分を強烈に意識しながらも、こうありたい自分というものを遠くに眺めていた。そのように思うのです。

グールドは幸い現在の人でありましたから、周囲の人の証言も得ることができ、また映像、録音というリッチメディアが捉えた彼の姿を目にすることも可能です。もしこれが百年二百年前の人物であれば、伝説の中にその姿をくらませてしまったかも知れない。けれど私たちは、グールドと彼を取り巻くメディアが共謀して作り上げた伝説の向こうにかすむ彼の横顔を窺うこともできる。それもかなりの距離にまで近づけそうに思えるほどで、それは私の写真が捉えた花の青を眺めながら、その向こうに真実の紫を見ることのできるという可能性があり続けているということに同じであると思います。

けど、そうはいっても、私の目が見た紫が間違いなのかも知れないという可能性もあり、人の目には紫に見えるけれど、その光線をまっすぐに捉えることさえできれば真実の青があらわれてくるという、そういうこともあるかも知れません。だとすれば、グールドの真実の姿というのはどこにあるんだろう。多分それは、私も、皆も、そしてグールド自身さえも、つかめそうに思いながら決定的な確信は持つことができない、そういう彼岸にこそ見いだされるものなのではないかと思います。