2006年6月30日金曜日

安部窪教授の理不尽な講義

 いやはや、世の中にはいくらでも私の知らない、面白いもの、ことがあるのだと思います。私は『安部窪教授の理不尽な講義』なる漫画の存在を知らなかったし、その作者である滝沢聖峰という人についてもまったく知らなかった。けれど、帰りに寄った書店にてこの漫画を見つけて、その背表紙、おそらくはタイトルに興味を引かれて立ち止まって、そうしたら立ち読み防止用の透明の帯が付けられていなかったのです。私は引き寄せられるままに本を手に取り、ざっと一話を荒く読んでみて、買おうと決めた。そうですね。それはなんでかといえば、この安部窪教授とやらのスタンスにやられたのでしょう。そう。私は幽霊をはじめとする怪奇があってかまわないと思っています。ただそれを怪奇として放っておきたくないとも思っています。知りたい。明らかにしたい。懐疑心を常に抱きながら、現象を明らかに見ようというスタンス。ああ、格好いいじゃないの。と、私はこの教授のキャラクターにこそ惚れてしまったのでしょう。

しかし、つくづく漫画にせよなんにせよ、大切なのはそのアプローチであるなと思うのです。『安部窪教授の理不尽な講義』はスタイルとしては非常にありきたりであるのですが、というのは、変わり者で趣味人の教授が、よくできた女子学生と軽い男子学生をともに、奇妙な現象の謎を解くというパターンが基本形としてあって、男子学生が狂言回しを演じているという点でもよくあるケースであろうかと思います。

けど面白い。おそらくこの作者は、よくあるスタイル、形式などなどを持ち寄って、アサンブラージュするみたいにしてこの漫画を作ろうとしているのでしょう。でもこのやり方は、過去に積み上げられた様式美を利用できるというメリットのある反面、ありきたりという印象を与えかねない危険もあって、けれどこの漫画に関してはうまくそのあたりを処理して、オリジナルの風合いを出していると思います。そしてそのオリジナリティは、作者の手跡そして工夫に発しているのだと思います。

工夫は、教授に持ち込まれる事象の見せかたと、その事象に対する教授のアプローチにあるのであろうと考えています。いやそうかな。それらも結局は突き詰めればなんらかの類型の中に解消されそうなものであろうかというもので、しかしそうした類型の集積になりかねないところがよい塩梅でもってオリジナルとして成立している。やはりこれは、作者の手跡が少しずつこの作者のらしさを作り上げているとしか言い様のない世界であると思います。

けれど、この漫画の一番の楽しみといったら、好奇心旺盛で深い洞察と多彩な特技を持ったタフなおっさんが、どんな風にかっこうよく描かれるのだろうかという、そこにこそあるのではないかと思います。うん、これはあれだね。おっさん萌えの漫画だと思う。教授の活躍を楽しむのが一番面白い漫画であると思います。

ところで思ったんだけど、教授とよくできた女子、できの悪い男子の構図って、昔の学習漫画を彷彿させますね。させませんか? そう思うのって私だけ?

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