2007年12月15日土曜日

トランスフォーマー ムービー MD-21 ワイヤータップV20

 携帯電話を持てといわれています。けどなあ、そもそも私は電話をしないし、メールも頻繁に交わすわけでないし、あんまり必要性を感じないんですね。だから、持ちたいと思わない。それこそ月に何度か、最悪年に何度かの連絡のために、初期費用払って、月額の基本料払ってというのも馬鹿馬鹿しいでしょう。だから、持たないっていってはねつけている最中です。で、昨日、家に帰りましたら携帯電話のモックアップがいくつかあって、ああ、たまに電器店とかが放出してますが、それを買ってきたのだなと思ったら、もらってきたそうで、これ、子供のおもちゃにするっていうんだそうです。子供は大人の持ち物に興味を持つ、のか単純に携帯電話機の形態が子供の心に訴えているのか、そのへんはわかりませんけど、とにかくよいおもちゃになっているんですね。で、思った。私にはこれで充分だ。とりあえず、これで騙してみるっていうのも面白そうだなあなんて思ったんです。

 でも、使えもしないモックアップを持ってるっていうのも変だよなあ、結局は一発ネタだよ、なんて思っている私の前に面白そうなブツが提示されまして、それはなにかといいますと、トランスフォーマー ムービー MD-21 ワイヤータップV20。携帯電話機からトランスフォームする、ディセプティコンのトランスフォーマーです。これなら、なんで使えもしないモックアップ、持ち歩いてるのとあざ笑われる心配はありません。ただ、なんでわざわざそんなおもちゃ持ち歩いてるのといぶかしがられる覚悟は必要でしょうが。

しかし、ワイヤータップV20にせよ、オートボット側のスピードダイアル800にせよ、なかなかの再現性だよなあと思います。色、待ち受け画面の意匠を見れば、スピードダイアルの方が好みかなあ、と思いながら、まあきっと買うことはないと思います。けど、変形するロボット、大好きなんですよね。買わないのは、歯止めがなくなりそうなのが怖いという理由からなのですが、でも変形こそはシンプルなものの、いいフォルムですよね。欲しくなりそうで、実に危険です。

2007年12月14日金曜日

戦後日本は戦争をしてきた

 私は驚くほどに社会科に疎く、なんとなく、おぼろげにしかわからないでいることが多すぎます。そんな私が社会科に、具体的にいうと歴史に興味を持つことになったひとつのきっかけというのは、大学の講義で聞いた戦後日本を取り巻く状況についてでした。戦勝後アメリカは日本を去勢し、経済においても底辺的状況に置き続けようと考えていたところが、中国が共産化したため方針を転換。自衛隊の前身となる警察予備隊が設立され、また朝鮮戦争の特需により日本経済は回復したうんぬんというのをざざっと説明されまして、私はそれまで大きく歴史の流れというものを概観するという経験がなかったものだから、それこそ目からうろこの落ちるように思ったんです。私の悪い癖なのですが、近視眼的に物事を捉える傾向があり、特に若い頃にはそれが強かったものですから、余計そういう風に思ったんですね。

その授業をきっかけに、大きく歴史を見る、地理的広がりも見るということを学んだわけですが、そうしたら今度は大ざっぱにみるのはいいけれど、詳細がわからない。堂々巡りですね。歴史には様々な視座があり、それこそ多面多様な見え方がする。解釈や評価に幅があるためですが、こうなるとまた私には厳しくて、だってどちらがより真実らしいか見極めるだけの判断材料がないんですよ。それこそ世の中というものは極端なもので、証拠物件らしいものは山とあるけれど、ある人はこれを真実といえば、またある人は嘘だ、捏造だという。私は見てきたわけじゃないですからね。評価できないんですよ。それで、自分なりに考えてみて、より穏当と思える位置を探るのですが、それでもやっぱり揺れます。今もなおわからないわからないといってふらふらしています。

けれど知りたい、わかりたいという欲求は消えないんですね。なので時にそういうことを考えるためのヒントになりそうな本を見たら買ってみて、読んでみたりします。今回買ったのは、姜尚中と小森陽一の対談である『戦後日本は戦争をしてきた』。書店で見て、以前教師にいわれたことを思い出しまして、復習するつもりで読みました。そして感想はというと、ちょっとロマンチシズムに傾きすぎの嫌いがある、そして内容が出版された時点ですでに古びはじめているという、おおまかにいうとその二点かと思います。

古びはじめているというのはですね、第一章が2006年11月、第二章が2006年12月、第三章でようやく今年に入って2007年1月、第四章が2007年8月に行われた対談を元にしています。一番新しい対談で夏ですから、どれも安倍晋三首相退陣前の状況であるんですね。確かに突然の辞任であり、さすがにこれを見越してということは不可能だったでしょうけど、出版は2007年11月、この時点で読むにはちょっと新鮮味が足りず、じゃあ今はどうなんだろうと、福田内閣はどうなんだろうとそう思いながら読んでいました。ほんと、タイミングの悪い本だなあと、そう思わないではおられない感じです。

そして、ロマンチック。よくいえば理想主義的で、悪くいうとちょっと風呂敷を広げすぎのような気がします。括弧付きの「社会学」の論調といっていいかも知れません。すなわち、パオロ・マッツァリーノの用語における、ということです。事実としての体験や、研究者曰くどうこうだ、こういう見方がなされているなどというような部分、そのへんはいいんですが、現状、特に日本社会の、を見ようという時にちょっとそれは極端すぎないか、あるいは本当にそういっちゃっていいのか、と立ち止まらせることがあって、また私は自分自身の立ち位置を左、護憲よりと自覚している(なので姜尚中は割と嫌いじゃない)んですが、それでもそれはいいすぎじゃないのんかと思うところも一部あったくらいです。

でも、韓国や北朝鮮を巡る歴史の部分は興味深く、なにしろ日本史でさえ危うい私ですから、朝鮮半島を取り巻く歴史はまあ知らんわけです。とりあえずこの本でざっと流れをみることができたかなと。そして、ついぞ忘れがちになる、朝鮮戦争は終わっておらず、今は休戦中であるということについては何度も繰り返されて、そうした前提から語られる現状。そしてそこに休戦から終戦に向かわせたいという意思があるのだとすれば、姜尚中の眺める未来図が実現するに越したことはなさそうだなあと、そんなことを思ったのでした。だって、どうも私はアナーキズムに分類される考えを持っているようで、さらに血なまぐさくきな臭い、それこそ破滅的な願望を強迫的に抱えていましてね、そんな私の考える将来よか、姜尚中のロマンチシズムの方がはるかに健全です。ほんと、血が流れないならそれにこしたことはない。平和的に解決するのなら、それが一番いいに決まっています。

2007年12月13日木曜日

Logicool TrackMan Wheel

 私はトラックボールユーザーです。愛用のトラックボールはLogicoolのTrackMan Wheel。親指トラックボールと呼ばれるもので、このタイプのメリットは、ボタン及びホイールの配置が一般のマウスに同じであるため、比較的慣れやすいというものであろうかと思います。反面、手を置いた感じがマウスっぽいため、慣れない人はいつまでもトラックボール本体を動かそうとしてしまうようで、まあこのへんは人それぞれ。順応の速い人なら一時間ほどさわっていれば問題なく使えるようになりますし、なかなか慣れない人でも一週間もあればクリアできるでしょう。そして、慣れてしまえばマウス以上に使いやすくなるのがトラックボールであると思います。ポインタの長距離移動に有利であるため大画面に適し、ポインタの移動とボタンクリックがまったくの別操作であるため、クリック、ダブルクリック時にぶれるということもない。もちろん、マウスより劣るところもあります。ですが、よほど細かい作業をするということがないならトラックボールの方がよさそうだぞと、これが今現在における私の結論です。

さて、この時期にまたトラックボールを取り上げたのは、先日iMacを購入したのにあわせて、トラックボールも新調したからなんです。選んだのは、最初のものと同じTrackMan Wheel、ワイヤードモデルです。やっぱり慣れているというのは大きいですよ。ボールを転がし、ポインタの位置を決めクリック。2ボタン1ホイールで、ホイールはボタンとしても機能します。この配置が一般的なマウスに同じというのはもう書きましたが、ボタンの構成が標準的ということはドライバのインストールをすることなく使えるということでありまして、これ、実は私の結構重視するポイントです。変な話、というかほぼ思い込みといってもいいような話なんですが、ドライバをたくさん入れるとシステムが不安定になるんじゃないかって思っていまして、だからできるだけ入れたくない。極力デフォルト状態を維持する。これが私のスタイルなんですが、けどこの安定志向、ちょっとつまらなかったかなって思いはじめています。やっぱりね、ちょっとくらい冒険してもよかったかなって思ってるんです。

二台目のトラックボール購入にあたって、同じものを選んだのは正直つまらなかったといっています。思い切って、まったく違う傾向を持つの買えばよかったかもって思っているんですね。選択肢はふたつ、ひとつは同じLogicoolの上位機種であるTrackMan CT-100、そしてもうひとつはトラックボールの雄KensingtonのExpert Mouse。けれどこれらは高級機だけあってさすがにちょっと高くてですね、Kensingtonとなると軽く一万円を超えます。けどそれだけの評価は得ているんですよね。だから、こいつを試してみればよかったかもなあ、なんて思っているんです。

親指トラックボールの弱点は、それが左右非対称であることです。つまり、右利き用である。まあ、私は右利きだからなんら問題ないんですが、たまには左手でポインタ動かしたくなることもあります(そういう場合は小指使います)。その点、左右対称のトラックボールならより使いよいはずです。また、親指トラックボール以外の世界も知りたいんですね。掌で、あるいは人差し指中指の指先でボールを転がすという感覚を試してみたいと思っています。使いやすいかどうかはわからないけれど、多分あっという間に慣れて普通になるでしょう。その時に、ボールの大きさで有利な左右対称型が、親指トラックボールを上回るのではないかと期待するわけです。

なので、わりとつまらない選択をした自分にがっかり。やっぱり私はどこかに失敗を怖れ、冒険を避けようという気持ちを隠しているんですね。この、標準好きというかアグレッシブに攻めないところ、私のよいところで、また悪いところであると思います。

あ、一応断っておきます。TrackMan Wheel自体は非常に気に入っています。ふたつ目買ったというのも、最初のが壊れたからとかじゃなくて、職場用と自宅用にそれぞれ欲しくなったという、それだけの理由です。初代もまだまだ稼働していますよ。一年を超えて、まだまだ健在です。

2007年12月12日水曜日

Aria / ET-3000 クリップ式チューナー

 先月末に買ったAriaのチューナー、その使い勝手のよさに常用するにいたっているわけですが、さて本日伴奏合わせ、本番を前にこのチューナーの真価というものを試す機会なんではないかと思い、使ってみました。はたして、このチューナーの実力はいかなるものであったのか!? というほどたいした話ではないんですけど、けど楽器やっていて、チューニング、特にステージ上での合わせにくさを知っている人なら、こうしたものに興味というのはあるわけですよ。今日の練習で一緒だった二胡奏者も興味津々で、二胡の棹にこれつけて試してみて、実売にして二千五百円くらいというと、買おう、なんていってました。そういえば、職場のギター弾く人にチューニングするところ見せてあげたら、これ買おう、絶対買おうって、めちゃくちゃ乗り気でした。やっぱり、実際にもの見ると欲しくなりますよ。そんな具合に、微妙に宣伝してまわっています。

さて、今日はピアノもあったので、前の記事にも書いていましたように、まずはピアノのピッチを確認。ピアニストに440? って聞くと、下がってる? って返ってきたので、多分442で合わせてあったんだと思う。けど441でメーターが丁度真ん中にくるようになっていたから、やっぱり下がっていたんでしょうね。とか書きながら、本当ならAだけで見るのではなくて、全体のバランスを判断しないといけないんだよなと気付く。まあ、今日のところは気にしない。

こうしてピッチが決まれば、後はチューナーまかせでばんばんチューニングしていけばいい、たとえピアノや二胡が音出ししてたってまったく問題なしだぜ! というのは反面事実だけど、反面そうでない。というのは、練習時間をあんまり長くとれなかったので、手早くチューニングする必要がありましてね、チューナー見ながらなんてまどろっこしいことやってられなくて、音聞きながらどんどん合わせていって、おーまい、チューナー使ってないから! まあ、こういうの、実際よくある話で、ピアノがあるとあり得ない話だけど、弦同士とかだと、相手に合わせながらどんどん下がっていってみたいなこともないではなく、まあ全体でつじつまが合ってればそれでも問題はないからいいんですが。

そういう、そこそこ適当にやっちゃうようなケースにおいて、あるいは結構きっちりしたいようなケースでもチューナーまかせにはできないという現実を知っていると、おのずとチューナーに期待する役割は決まってくるように思います。チューナーというのは、いざというときの保険に似ています。突然わけわからなくなって、チューニングができなくなってしまうようなこと、私にはたまにあるんですが、そんな時に心をしっかりさせてくれるのがチューナーだと思うのです。とりあえず、合っているということを確認できる。チューナーでは完全に合わせられないのだとしても、少なくとも近似まではもっていける。最悪を回避できるわけです。そして、この最悪を回避できたという安心感が落ち着きを取り戻させて、微調整にこぎ着けることができれば幸い。もしそれが無理としても、立ち往生はないわけで、この最終ラインを割らずにすませられるというだけでも、チューナーは充分その価値があります。

転落を防ぐ、ザイルみたいなものっていってもいいのかも知れませんね。命綱。音楽になるならない以前での転落を防いでくれる。やっぱり持った方がいい道具であると思います。

2007年12月11日火曜日

枯葉

  フランス語やっていると、シャンソンを聴きたまえ、歌いたまえというようなことをいわれることが意外に多いのです。歌を聴く、自らも歌うというのは、発音であるとかフレージングであるとかの感覚を養うのにいいというのは実際そのようで、だから私もフランス語習っている時には、シャンソンを聴くこと、歌うということ、実に頻繁でありました。で、『枯葉』なのですよ。ジャック・プレヴェールが詩を書いて、ジョセフ・コスマが曲をつけた。映画『夜の門』の主題曲らしいんですが、残念ながら私はこの映画見たことがありません。

『枯葉』というとイヴ・モンタンが代表格みたいになっています。ラジオで、テレビで彼の歌っているところを何度も見て、聞いたものでした。実際、私の『枯葉』の印象は、だいぶイヴ・モンタンに引き摺られていると思います。

音楽やっていると、知らないうちに楽譜が溜まっていくものです。私もその例に漏れず、そこそこ楽譜を持っているのですが、面白いことに『枯葉』が結構含まれていたりするんですよ。日本語歌詞の版が一種類。けど、ピアノ伴奏付きのものと歌の譜だけのとそれぞれ別にあります。原語のものが一種類。これはフランス語のテキストに付いていました。ピアノ編曲が一種類、管楽器向け編曲がまた一種類、ギター編曲のものは三種類。とりあえず把握しているのはこれくらいですが、もしかしたらまだあるかも。

音源として持っているものといったら、フランス語のラジオとかテレビの録音、録画です。これはイヴ・モンタンとジュリエット・グレコ。インストゥルメントならミシェル・ルグランといったところで、数えてみると意外と少なく、それに今うちにはカセットもビデオも再生できる機器がないので、持っていても聴けないっていう逆境。いや、ルグランのは大丈夫。でも、歌の参考にはならんわね。

実は、今度『枯葉』を歌うことになったんですよ。わお、参ったな。っていうか、なんでこの時期に『枯葉』!? 微妙に疑問なんですが、頼まれたというか押し切られたというかで、仕方がない。いそいそと楽譜を出してきて、譜割確かめながら練習中で、しかし私はこれまでほとんどこの曲を歌ってきてなかったんですね。いやあ、あんまりにもべたすぎるでしょう。シャンソンといえば『枯葉』か『愛の賛歌』。それをあえて歌うというのも、正直ちょっとどうかと……、嘘です。難しいんですよ。べらぼうに難しいんです。ルフランも難しいんですが、クープレ、語りのような部分ですね、の難しさはもう悶えるほど。無理やって。これ、ほんと無理! けど、なにしろ私に拒否権はないようなので(なんで?)、これをなんとかやっつけなければならない。もう死に物狂いというか、とにかく歌って歌って歌ってみようの世界。うまくいったらお慰みですね。

けれど、歌ってみるとやっぱり極めて美しい歌で、メロディがよいのももちろんあるけれど、歌詞の美しさ、韻、響き、構成、繰り返しが非常に効果的で、そりゃ名曲といわれるだけあるわ。聴いてもいいものですが、歌ってみればよりよくわかります。詩は、読むだけでなく言葉として口にすることで、よりよく味わうことができるんだなと、改めて思った次第。なので、歌って歌って歌って、持ち歌ではないけれど、いつでも歌える愛唱歌にしたいと思います。

Yves Montand

Juliette Gréco

Patachou

コンピレーション

2007年12月10日月曜日

ろりぽ∞

  メイド喫茶が話題になったのはもう何年前のことでしょうか。私も、一度いったことがあります。大阪日本橋の、ソフマップザウルスがあった近く、一階がメイド喫茶、二階が猫喫茶、ビル陰の目立たないところにひっそりとしてあったのですが、さすがに旬のものだからでしょう、入店にはしばらく待たねばなりませんでした。けれど、いくらメイド喫茶がブームだからといって、メイド喫茶の格付け決定戦がテレビ中継されるなんてことはあり得ず、やはりああしたものは特殊な娯楽として一般とは隔絶されたものであると、そのような諒解がなされているように思います、私たちの現実におきましては。

けれど、仏さんじょの『ろりぽ∞』においてはさにあらず、メイド喫茶の格付け戦 — 、メイドコンペは一般に認知されるほどのイベントとして確立しており、そしてその火付け役である総理大臣、彼女は三十代の元声優であるという。このような、現実にはちょっとあり得ない状況で展開する漫画は、当初の微妙にコメントしづらいのりを抜けて、思わぬ方向に舵を切りました。いや、思わぬだなんて、ヒントはもうずいぶん前に示されていました。ただ私が気付いてなかっただけだったのです。

 2巻冒頭において提示された封鎖地区、それが晴海であったこと。そのきっかけとなった事故が起こったのが17年前。けれどさすがにこれではわからん。3巻におけるオタクは危険な犯罪者予備軍発言、そして117号事件。勘のいい人はここでわかったんだろうと思います。けど、私は4巻で決定的な種明かしが行われるまで、そのような仕掛けになっているとは予想だにしていませんでした。しかも、まさか、こんなにもストレートにぶちかましてくるだなんて、正直面食らったといわざるを得ません。

 こうした構造が見えてくれば、件の犯罪予備軍発言をした劇中の記者、大曲という名前にもそれなりの背景が想起されるわけで、やってくれるなあ。現実にあった事件を下敷きにし、それも少なからず驚愕と恐怖と動揺と戸惑いを日本中にまき散らした事件、もうずいぶんと昔のことになって記憶も薄らいではいるんだけど、事件の発覚とその後の報道の異常加熱。忘れないですね。あの時私は高校生で、まあ春夏冬の『アニメ大好き!』を楽しみにしている程度の穏健な少年でしたから、 — 他人事ではないよね。いわれなき非難にさらされることの理不尽。あざけり、嘲笑もあれば、白眼視もあって、まあ私らなんかはまだマイルドなほうだからましでしたけど、けど、本当にあれはひどい出来事でした。その捏造された言説は、ある種のサブカルチャーに決定的な打撃を与えて、当時その矢面に立たされたのは、私らよりみっつよっつほども上の人たちだったろうとは思うのですが、そうした人たち、特に最前線にあった人たちにとっては、一生拭うことのできない記憶であったりするのかもなあと。4巻読むまでドアホ系メイド漫画だと思っていた『ろりぽ∞』に、なんともいえない複雑な気持ちを抱くはめになってしまったのでした。

けど、これも書いておかないとアンフェアだと思うから書きますけど、第1巻読んだ時、引き続き2巻3巻と読んだ時、その時もまた違った意味で複雑な気持ちでありました。積極的に面白くないとはいわないけれど、スイートスポットは無闇に狭い漫画だなと、あたればホームランかも知れないけど、そうでないとつらいなと、そういう嫌いもある漫画です。私に関してはどうかというと、嫌いだったら買ってないと答えるだけで充分かと思いますが、作者がライアーソフトの仏さんじょだからというプラス補正もあるかも知れないので、そのへんは斟酌くださるとありがたいです。

けど、これ推測だから実際のところはわからないですが、仏さんじょにとってはあの事件はやっぱり大きなインパクトを持っていた — 、いやそれはこうした趣味に関わっている人にとっては大同小異同じだとは思うのですが、けどもしかしたら想像を絶する違和感や傷、痛みを残すこともあったのかも知れないなあと思って、それが『ろりぽ∞』を描く動機となったんじゃないかななどと、それゆえに一連の種明かしに多少の息急くような印象を残したんではないだろうかなどと、そんな風に思わせます。

だから、もしかしたら、『ろりぽ∞』の完結は、あの事件にいやおうなく関連付けられた側の人間にとって、ひとつの精算、その記憶を乗り越えさせるきっかけになるんじゃないかと、こういっちゃえば大風呂敷すぎると私自身思いますが、少なくとも作者にとってはそうなのかも。いや、わかりませんよ。なにしろ私のいうことはいい加減です。けど、そういう可能性があるのだとすれば、それはこの漫画にとっての大きな価値になるのではないかと思っています。烙印を押された側の一人として、そう思っています。

  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第1巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第2巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第3巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第4巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第3巻 (東京:一迅社,2007年)129頁。
  • 前掲,150頁。

2007年12月9日日曜日

うたうめ

 安田弘之の漫画は、よほど気を張っていないと見過ごしてしまいそうで、買うたび買うたびにはらはらします。というわけで『うたうめ』、いつもの店、地上三十階書店新刊棚にて発見。見付ければ買うとインプットされているので躊躇なく手に取って、それでこれがバンブー・コミックスであると気付いたのはうちに帰り着いてからでした。なんと、この人は今四コマ誌で描いてらっしゃったのか。そうかあ、『まんがくらぶ』にて連載かあ、それも一年以上も前から。まったくもって気付いてませんでした。このまま気付かないままでいたとしたら、あぶないところでした。

雑誌で追っていない漫画をまとめて読むというのは、また格別のことであると思います。それも好きな作家のものとなればなおさら。表紙を見ても、タイトルを見ても内容は伺い知れないものの、けれどいったん開いて読み出せば、そこにはいつもの安田弘之の味というものが濃密で、ああやっぱり面白いなあと思います。みそっかすだけどどことなく憎めないウタダ、美人だけど変わりもののウメちゃん、そんな二人が主人公だから『うたうめ』であるわけか。しかし、それにしても安田はこうしたキャラクターがよくよく好きと見えて、特にウメちゃんが典型的。蠱惑的な美女、けれど変わりもの。あくまでも優秀で一種孤高であるのだけれど、変に庶民的なところがあって、どこかに隙を残している。そして私もそうした安田的美女が好きでありますから、やっぱりウメちゃんのことは嫌いでなく、そしてウタダにしても嫌いでない。いいコンビだなと思うんですね。

ウタダは確かにみそっかすに描かれていて、なにをやってもうまくないし、なんかウメちゃんのおまけみたいなあんまりな役回りだし、不憫な娘よのう、だなんて思うのですが、それでもそんなウタダがみじめに見えないのは、ウメちゃんがウタダのこと大好きで、まさしくベストフレンドとしてあるからなんでしょう。ウメちゃんにしても人が悪く、ウタダで遊んじゃうところもあって、結構ひどかったりするんですが、けどウタダのことを一番に大切にしたいと思っているのがわかるから、なんかウタダがうらやましいよね。それがウメちゃんだからそういうんじゃないんです。どんな時も自分の裾を離さないでいてくれるような友達がいるっていうこと、それがもうありがたいじゃないですか。私なんかも、ウタダよろしく、なにやってもうまくいかない組であるんですが、そんなでも、もしウメちゃんのような友達があれば人生はきっと違って見えるのだろうなと、そんな風に思うんです。

でも、これは逆にウメちゃんからしても同じなんじゃないかと思って、自分のことをわかっていてくれる友人がいるっていうこと、ちょっと甘えるようにして、自分の地を出せるような友達がいるっていうこと、それはやっぱり仕合せなことであるよのう。二人にしても、ずいぶんとわかりあっているけれど、完全にわかっているわけでもないというのはよくある話で、けどそうしたすれ違いが日頃には口にはしない本心をはっきりとさせるようなことにもなって、やっぱりそれは仕合せなことであると思う。ウメちゃんがある種の傍若無人さを発揮できるのは、その能力の高さと美貌、まわりにあれこれいわせないオーラがためであると思いながらも、けれどやっぱりウタダがいてくれるからなんではなかろうかとも思えて、いやこれはウタダ側の人間の願望がいわせていることかも知れません。

この漫画読んで、上につらつら書いたようなこと思う必要はなんにもないんだと思うんです。変わりもの女子高生二人組の漫画。ちょっとずれて、マイペースで、かたっぽは人が悪く、かたいっぽは要領が悪く、そんな二人のやり取りに生ずるおかしみを楽しめれば充分です。けれどそこにほのかに友達っていいよねと思わせる空気があるから、そのミックスに頬を緩めるのです。愛犬メロンにしても、隣のガキにしても、屋台のオヤジにしても、みんなちょっと変で、ろくでなしといってもよさようなところもあるんだけど、その変さが絡み合って生まれる味は、やっぱり安田のそれ。面白く、人が悪く、そして人間臭い。この人間臭さってのに引かれているんだろうな。そんな風に思います。

余談

どうやら私はスケベであるそうです。うーん、まあ、否定はしない!

  • 安田弘之『うたうめ』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房.2007年。
  • 以下続刊

2007年12月8日土曜日

タマさん

 『タマさん』の主人公は、当然杏であると思っていたんだが、帯によるとタマさんであるらしい。タマさん、関西弁でしゃべるただの猫。でぶ猫、猫又、おやじ趣味。見た目こそは可愛い(か?)が、そもそもいったいいくつであるのかも不明な、謎の存在であります。作者曰く、これは猫漫画じゃない、妖怪漫画なんだ、とのことですが、けどタマさんはただの猫です。ちうことになっている、っていうのが正しいのかな。

『タマさん』は、この妖怪じみた猫タマさんと女子高生の杏、幼稚園児のふるるの身近に起こる不思議な出来事を描いた、ほのぼの日常ものです? ええ、初期にはわりと出ていた不思議ものがだんだんと出てこなくなって、けどそれでもタマさん自体が不思議生物だから、不思議ほのぼのもの。それで杏とふるるの日常を描いてほのぼの日常もの、そういう印象の強い漫画です。

けれど、その日常は私たちの知っている日常とは似て非なるものです。これは同日発売の『ニッポンのワカ奥さま』と併せて読むとよくわかるのですが、『ワカ奥さま』においては、どれほどアグレッシブに、ラジカルにネタの展開がなされようと、あくまで片足は私たちの日常世界に残されている。私たちの世界の法則、常識、そういったものを前提にしている漫画であるというわけですが、『タマさん』はそうではありません。杏やふるるの住む世界は、私たちの世界が備える常識がまるまる通じるわけではない、いわば夢の別世界であります。そこでは猫がしゃべり、不思議な空想的存在も跋扈して、もちろんそれらを認めないものもあるものの、認めるどころか心を通わせるものだって普通にいるという、そういう世界であるのですね。

だとすれば、毎回の冒頭に展開されるお定まりのただの猫やでは、昔話におけるむかしむかしに通じる、私たちの今や此処とは違う、別の世界への扉が開かれますよとの、宣言であるのかも知れません。そして、『タマさん』読者は開かれた扉を抜けて、森ゆきなつ的おとぎの世界に一時を過ごす。その世界を表すキーワードはファンタジーというよりファンシー。可愛さが効果的に配置されたほのぼの世界を表すには、きっとファンシーが一番だと思っています。

私がこの漫画に強烈な印象を受けたのは、忘れもしない「れっつだんしんぐ」の回ですよ。歌い踊る杏、ふるる、タマさんの三人を見て、もっともオーソドックスであろう『まんがタイム』本誌、読者はどう思うのだろうと思ったんです。四コマ漫画は起承転結、なんて価値観を持つ人は、このキュートさで押し切ろうとするかのような漫画にどのような評価を下すのか、ネタよりもキャラクター性やその舞台の持つ雰囲気が重視される漫画の増えていくことに苦々しさを感じたりするんじゃないだろうかと、杏のプリティさに釘付けになりながらもちょっと感慨にふけったんですね。

でも、ネタ寄りといえる『ワカ奥さま』にキャラクターの魅力がないかというと、そんなことはまるでないわけで、だから『タマさん』のキャラクターがいくら可愛かろうと、そこに展開されるネタ、そして話が弱いということはないのです。私らの世界の常識に依拠するネタだって当然あります。ただそれと同じく、『タマさん』世界のネタがあるというだけで、そしてネタというよりも可愛さが前面にくるみたいなのもあるというだけの話。これも一つの多様式なのであろうと思います。そしてそうした多様式をベースに、杏やふるるたちの日常の風景があって、その日常がタマさんの加わることによって広がる — 、そのファンシーを楽しむのがよいのです。

さて、本格的にどうでもいい話の時間です。第1巻の終わりにはきっとふるるの母のエピソードがくると予想していた私は、まさしくそうなりそうな雰囲気に、きたぞきたぞと思っていたら、わお、まだ一本あったよ、ってこれ下ネタ回じゃんか!

ちょっと感動のシリーズで巻を終えることの多い昨今の四コマ単行本ですが、そう見せかけてまさか下ネタで閉じるとは予想外でした。しんみりとした読後感の中に、今彼女の娘が過ごしている仕合せな日常を愛おしく思うつもりでいたというのに、それが、それが下ネタ。ふ、普通逆じゃないか! と思いながら、笑いを抑えるのが大変でしたとさ。

  • 森ゆきなつ『タマさん』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年12月7日金曜日

ニッポンのワカ奥さま

 一郎さんの奥さんは、和歌さんという名の和装美人。風流な人、粋で貞淑、まさしく良妻というにふさわしい。家事は完璧、物静かでその所作振舞いも美しく、けれど実は意外に大胆。家事に、趣味に取り組む様は、ラジカル、アヴァンギャルド、アグレッシブ。手を抜かず、脇目も振らず、常に全力投球かと思えば、たまには失敗もして、それにすねちゃったりするところなんかがこのうえもなく可愛らしく見えまして、ああ一郎さんは仕合せものだなあなんて思うのです。あ、いや、テレビ買うの許してもらえないんだけどさ。でも、そんな些細な不満があったとしても、恋しい妻と寄り添って過ごす時間を持つことができる、日常の些事に紛れて気付かずに過ごしてしまいそうな、季節の、日常の趣きをともに感じ、愛でることのできる、その方がどんなにか幸いであろうかと、そんなことを思う。漫画としては日常もののギャグコメディなんだけれど、どうもそれだけではない情緒 — 、和の情緒がほんのりと匂う、そんな漫画であります。

この漫画の連載が始まった当初、私はすっかりこの作者、木村和昭を新人だと思っていたんです。けれど、もうほんととんでもない、この人は80年代、少年チャンピオンにて活躍していたという、いわばベテラン中のベテランだそうでして、道理でうまいわけですよ。四コマはオーソドックスにして極めてシンプル、絵も構図も整理が行き届いていて、なによりもその安定感が素晴らしい。すごい新人が出てきたもんだ! とか思っていた自分の不見識ですよ。その漫画の土台のしっかりしているのは、重ねてきた年月のたまものというべきなのでしょうね。奇を衒うことなく、日常をよく取材し、丹念に練り上げられた四コマは、懐かしい風景を面白さとともに感じさせてくれて、本当に力強い。読み終えたあとに残る感触の確かさには、巧いというのはこういうことなんだろうなと、ただただうならされてしまいます。

けどその安定しているということは、ただ落ち着いているって意味じゃあないんです。読んでみればわかるのですが、この漫画、すごく新鮮味にあふれています。さすがに若い人とは思わなかった、けれどベテランとも思わなかったのは、そのフレッシュさのためだと今でも思っています。切れがいいんでしょう。ネタ自体はありきたりな、それこそ紋切り型であったりするのも多いんだけれど、それが小気味よくきびきびと展開されるから、お定まりと意識することなく、とんとんとんっと読んでしまう。そして、その運びの中に、強烈に効くものがちょんちょんと含まれているから、思わず釣り込まれて笑ってしまって、たまらん。

安心して読める安定ネタをベースに、つい頬を緩ませる穏やかなほのぼのから、シンプルに飛び込んでくるナンセンス、強烈にくすぐるシニカルまで、緩急自在に投げわけ翻弄してくれます。決して乱高下はしないという信頼感が、くつろいだ雰囲気を作るから、面白さも自然と膨らむのだと思います。気張らず流れに身を委ねさせる、これが身上なのであろうなあと思います。

2007年12月6日木曜日

世界樹の迷宮 II — 諸王の聖杯

 私がNintendo DSを買ったのは、タッチペンでマッピングをさせるという硬派より迷宮探索ものが出たらしいと聞いたのがきっかけでありました。そうです、『世界樹の迷宮』ですね。私が『世界樹』を知ったのは、その発売直後のこと。このゲームは、初回の特典であるミニサントラがあまりに魅力的であったとでもいうのでしょうか、それこそ市場に出た瞬間、溶けたかのようにきれいに消えたといいますね。もちろん私も入手できませんで、仕方がないのでオークションで決着させました。この、いわば私にとってのキラータイトルとなったゲームでありますが、なんか人気があったみたいですね、続編が出るのだそうです。タイトルは『世界樹の迷宮 II — 諸王の聖杯』。世界観を引き継ぎつつ、新たな冒険の夢を見せてくれる — んだったらいいなと思うんですが、実はちょっと買うかどうか迷っています。

なぜ迷うのか? 実は『世界樹の迷宮』、まだクリアしていないんですよ。とはいっても途中で投げたのではなく、おそらくクリアに要求されるだけのレベルには達しているし、それにもう最下層も見えているんです。だから、地図書ききった時点でクリアでしょう。けど、止まっている。まあ、私の悪い癖なんですけどね、終わりが見えてくるとぐずぐずと延命工作を計るんですよ。確実に勝てる状態にしたいというわけでもないし(だって、多分もう勝てるし)、名残惜しいというわけでもないし、なのにセカンドパーティを鍛えてみたり、さらにはサードパーティに入れ込んでみたり。それはシナリオ終わらせてからにしなよ、というか、どう考えてもクリア後のお楽しみとしか思えない敵は後回しにしときなよ。そんなことは私もわかってるんです。けど、実はちょっと不幸なことがありましてな。すまんが、ちょっと聞いてはくれんかね……。

ネタバレ、くらったんだ。それもこのうえなく鮮やかなやつをさ。場所はファンコミュニティの掲示板、あなたにとって『世界樹』はどんなゲームでしたか? っていうような、感想ですね、そういうスレッドがありまして、まあここなら凶悪なネタバレもないだろうと思って油断してたらやられました……。まあ、情報封鎖を徹底しなかった自分が悪いんですけどね。当然ネタバレはあるものという前提で臨むべきだったんですけどね、それにしてもあんまりだ! ってくらいにクリティカルなバレだったんです。

古いゲームだからいいだろう、『ドラゴンクエスト III』にたとえましょう。DQ3はロト三部作の完結編になるタイトルで、前作、前々作との繋がりは実に巧妙でありました。完結編にして時系列でいえばもっとも古い、有り体にいえば勇者ロトその人が主人公であり、そして共通の舞台となるアレフガルドは世界地図の下、地下に広がるもうひとつの世界であったわけです。これ、DQ1, 2をやってる人間になら、地下にアレフガルドがあるよの一言であっさりネタバレです。前作までとの関連も完璧にあらわになる。はあ、そういう世界だったのかと、わかってしまうわけです。

私はそれをやられたのです、『世界樹』で。いや、恨んじゃいないよ。悔やんでるだけ。愕然として、モチベーションがだだだっと下がって、けど気力振りしぼって先に進んだら、翌日自力でそのポイントにたどり着いて、一日、たった一日の差であったかとまたがっかりして、もしこの秘密に予備知識なしにたどり着いていたら、どのように自分は思ったのだろうと、考えてもしかたのないことを考え、まあ、そっからボス戦二戦やって楽勝だったりしたから、まあ本当にクリアは目前なんでしょう。けど、なんでかそこで進める気力が失せて、セカンド、サードパーティ育成にいそしみ、クエスト消化に躍起になって、気がついたらWizardry XTH2をクリアしてしまっていました。あれ、どこで間違えたんだろう。

ネタバレくらっていなかったら『世界樹』はクリアしていたのか、それは今となってはわからぬことです。けれど、ゲームとしてはなんだかちょっと大味で、とりあえず玉砕覚悟で突っ込んじゃえば? ボスもトライ&エラーで倒せばいいじゃん、っていうようなのりがあったのがよくなかったかなと、そんな風に思っています。全滅したら、最後のセーブポイントに戻るだけ。別にペナルティらしいペナルティもないし、というところが私にはぬるかったのだと思います。ロストがあったほうがいいとはいいませんし、もしロストがあったり、パーティが全滅したら二次パーティで回収に向かう必要があるようなゲームだったら、ボスはもっと弱くないとゲームとして成立しないでしょう(どう考えても常勝できるとは思えない!)。けど、必ず勝てる方法はあるから何度でもチャレンジしてね、といわんばかりの戦いはなんかちょっと違うような気がするなあとも思われて、そのへんのわだかまりもクリアに結びつかなかった原因かも知れません。

とはいえ『世界樹 II』、ガンナーのために買っちまいそうな気もする。いや、わかりませんよ。わかりません。けど、気にならないわけでもないんです。

というわけで、まずは『世界樹』を片付けてみようかなと思います。これをやっつけることで見えるものもきっとあるかと思います。けど、一からやり直すには今のパーティが惜しすぎる。というわけで、継続でちゃちゃっとやっちゃおうと思います。ま、最初は勘を取り戻すのが大変でしょうけどね。

CD

Toy

2007年12月5日水曜日

ふたりのヒメゴト

 山田まりおは『ママさん』という漫画を描いているのですが、いつもながらの山田まりおらしさがあり、そして私の知らなかった側面も見られて、読んでよかったなあ、そんなことを思っていました。さて、『ママさん』は血の繋がらない母親に心揺れる高校生が主人公。まさに王道じゃないかなんていっていたら、山田まりおは同シチュエーションの王道漫画を他にも描いていたんです。それは『ふたりのヒメゴト』。血の繋がらない父親に心揺れる高校生が主人公の漫画であります。

けど、心揺れるというのとはちょっと違うと思う。むしろ正しくは欲情するだわな。あ、断っておきますが、義理の父親と娘ではなくて、息子です。男同士なのに、義理とはいえ親子なのに、欲望が止められない男子高校生斎が主人公。非常にナイーブで中性的な父に、ちょっとワイルドで強引な息子が迫る。その時に思い出された真実というのが、ちょっとよかったです。血が繋がっているとかいないとかに関係なく、息子に対しよき父であろうとする柾臣と、そんな父にあらぬ思いを抱き、なし崩しに関係に持ち込む息子。これもまた王道であるんでしょうなあ。父の天然さにいらつきを覚えることもあれど、愛がすべてをうやむやに飲み込んでしまう。この、愛でもってうやむやにして突入というのは、BL(になるの? 成人の方が多いんだけど)における山田まりおの勝利形なのかも知れません。

『ふたりのヒメゴト』に収録されているのは、前述の義理の親子もの(シリーズ)、没落した傲慢な坊ちゃんと社長に上り詰めたクール&タフな苦労人の逆転カップルもの(シリーズ)、そして読み切りがふたつですね。攻めは精悍な黒髪、自信家にして強引に迫るタフな連中ぞろいで、受けは天然であったり優柔不断で弱気であったり、皆どことなく屈折しながらも、結局は強引な愛の高まりを受け入れてしまうというのが基本です。けど、その屈折の原因となるものがそれぞれ違っているから、続けて読んでもワンパターンにはならず、新たな気持ちで臨むことができます。またタッチにしても、『結婚記念日』みたいにギャグコメディ寄りから『蝉時雨が聞こえる』のシリアス一辺倒まで幅があるから、飽きません。実際『結婚記念日』は落ちに笑ってしまったし、『蝉時雨』はその屈折の原因も含めてなんだか染みるものがあり、情緒深く、非常に好みです。多彩な山田まりおの一側面、四コマではついぞ隠れてしまいがちな部分は、こうしたジャンルにおいて開花しているように感じます。

で、ちょっと余談。山田まりおの受け攻めは、四コマにおいても同じ構図が見られて、幕の内攻め(いや、たまにこの人妙に精悍な攻め顔になるのよ)、由未カオル受け、天河攻め、諭吉受け、そして若葉が受けならやっぱり市川さんも受けなのかね? けど、こうして一覧してみると、いかにも駄目そうなのが受けに並んで、もしかしたらヘタレ受けってやつなんでしょうか? え、違う? 残念ながら私はBL方面には明るくないので、今度友人に聞いてみようと思います。

  • 山田まりお『ふたりのヒメゴト』(アクアコミックス) 東京:オークラ出版,2006年。

2007年12月4日火曜日

DSvision

任天堂の『DS文学全集』が火付け役となって、電子本についてなんやらかんやらいってましたら、Amazon.comがKindleなる電子本リーダーをリリース、強烈に期待しつつも、理想は電脳メガネだよね、これが私の電子本に関する発言の流れであったのですが、だとすれば当然言及されるべきものに触れていませんでした。それは大日本印刷がam3と組んで展開するというDSvisionです。名前に含まれているDSの二文字。Nintendo DSをプラットフォームとして展開される、コンテンツ配信。そのコンテンツとはアニメ、コミック、小説などであります。AmazonがKindleをサービス込みで普及させようともくろむなら、こちらはすでに充分普及しているDSで勝負をかける、ということなのでしょう。サービス開始は2008年3月予定とのことですが、これが実際どのような展開をするか、ちょっと興味があります。

けど、実はちょっと心配もありまして、コンテンツの購入にはPCが必要とのことなのですが、もしやするとこのPCにはMacintoshが含まれていないのではないだろうか? という心配なんです。もしそうなら、まさしく過去の電子本リーダーの再来ですよ。いや、端末はとりあえずひとつ確保してるから、ずいぶんましとは思います。けど、実際、Macintoshに対応して欲しいなあ。ってのはやっぱり常用の端末でないと、長続きしないんです。iMac買って、アクセスポイントが常備されるようになったからケーブル引き回す必要なくなったとはいえ、普段使ってないWindowsノートをごちゃごちゃやるってのは面倒だし、そうやって手順が増えると手間を嫌って利用しなくなるってのはやっぱりあることだと思いますから。まあ、私がものぐさなのが一番悪いんですけれど。

Nintendo DSがプラットフォームになることのメリットは、すでに普及している、これはすでにいいましたとおりです。私でも持ってる。なので、四千円程度のアダプタ等々を買ったら利用可能になる。この手軽さはすごいアドバンテージだと思います、売るほうにとっても、買うほうにとってもです。読書端末としてのDSに関してはすでに確認済み、行あたりの文字が少なく、ともないページあたりの文章も短く、頻繁にページを繰らねばならないというのは億劫ですが、けれどわりと悪くないものです。反応はクイック、片手で操作でき、視認性に関しても問題なし。あの小さな画面でちまちま読んでると、むかし角川から出てた200円文庫、角川mini文庫っていいましたっけ、あれを思い出すんですよね。豆本というほど小さくありませんが、かなりコンパクトでしてね、正直いうと読みにくかった。でも、DSなら小さすぎやしないから、持ちにくいってこともないでしょう。

さて、コミックも配信されるという話であります。ですが、DSの画面ってコミックを読むにはちょいと厳しいんじゃないかなあと思っています。あの小さな画面で漫画を読むという、その状況が想像できないんですよ。今携帯コンテンツでやっているように、コマごとにわけるのかも知れませんけど、そんなのだったら私はいらないなあ。実際に読んでみたら違うのかも知れませんけど、ああしたやり方が読みやすいとは私には到底思えなくて、具体的にいえば『まんがタイムきららWeb』にて公開されているWeb漫画、『みちかアクセス!』なんかはまさしくコマごと表示をしていますが、可読性はかなり悪いといわざるを得ません。

漫画がね、ただ前へ前へとコマを進めるだけのものだったらいいんですけど、ちょっと凝った作りや考え落ちみたいなものになると、前のコマに戻って落ちとの繋がりを確認するってのは普通にやっていることで、ところがコマごと表示だとこのテンポが極めて悪くなり、ああ面倒くさい、もうええわい、みたいな気分になっちゃうわけです。この点、4コマが一度に表示される『ジャーノ☆ROADはへヴィ!』は読みやすさが格段に高く、ストレスは感じない。ところが『だめ×スパイラル』、『Webクリ!!』となるとまた駄目で、縦長のページが一度に表示されれば小さすぎて文字の判別が困難になり、ゆえに一段拡大するわけですが、そうしても表示エリアは広がらず(なんで?)、マウスで表示エリアを移動させながら読むしかない。

惜しいよなあ。面白いのに、読みづらさがあだになってるよってずっと思っています。

DSのKindleへの優位は、その普及率と表示がカラーであるということでしょう。反面、その画面の小ささはデメリットとなって、そして上記の私の不安が的中した日には、テキストは購入するも漫画は買わずという、そういう流れになることはもはや必至であり、そしてそのテキストにしても私好みのものがあるかというとそれもまた未知数であるわけで(経験上、マイナー好みの私向けではないと思う)、最悪、興味は持ちつつも傍観ということにもなりかねないと心配しています。

だから、大日本印刷においては、私のちっぽけな予想、不安を力強く吹き飛ばして欲しいものだと思います。わお、こんな感じのサービスが欲しかったんだ! と、そう思わせて欲しいものだと、結構本気で思っています。

余談

ActiBook(『きららWeb』で採用されてる電子ブック形式)の画面があのサイズなのは、きっと私の使っていたノートPCの画面サイズに合わせているからだと思っていた私は、iMacの購入をひそかに楽しみにしていたのでした。24インチの大画面! きっとこれなら、これまで読みにくいと思っていたあれらも一望できるはず — 。

あのわくわくとした気持ちを私はどのようにしたらよいものでしょう。いや、ほんと、結構なショックだったんですよ。

参考

2007年12月3日月曜日

イチロー!

  私は浪人はしたけど予備校とかはいってなかったので、もしかしたらこの漫画のらしいところをつかみきれていないんじゃないかなと思うところがありまして、『イチロー』、タイトルの示すごとく大学落ちて浪人している女の子が主人公の漫画なんですが、言外に要求されているかも知れない予備校ないしは一般大学受けるにおいての予備知識なんてものをですね、私はまったく持っとらんのです。とはいっても、1巻においてはぼちぼち出ていた予備校ないし受験に直結するネタも2巻あたりではずいぶん薄くなりました。むしろ要求されるのはおたく系知識なのかも知れないなんて思ったのはメイド喫茶の頃でしたが、あと携帯電話? いやなに、まったくそのへんの知識なくても、一般的常識があれば充分楽しめる作りにはなっているのでなんら心配はいらないのですが、やっぱり知っていれば違うのかも知れない。知識というものは、それを自信を持って評価するのに必要なものなのかもなあと思ったりしたのでした。

でもね、普通に読んで普通に楽しむに関しては、もう一般常識があればいい。あと、こうしたジャンルの四コマ(きらら系でいいの? 今どき萌え四コマってのもどうかと思うし)に対する受容体さえあればきっと大丈夫かと思います。女の子が絢爛に送る小市民的日常劇。こういうのを見るたび私思うんですが、キャラクターの魅力というのは本当に偉大だなあって。日常によくある出来事を拾い上げるにしても、あるいはちょっと日常には起こりえない特別なシチュエーションを描くにしても、キャラクターがそうしたもろもろをその特質をもってうまくすくい上げ、駆動させるに足る力量を持っているかどうかで決まる部分ってあると思うんです。キャラクターが弱いとどうしても空騒ぎみたいになるし、そのシチュエーションに対する説得力っていうのが違うわけですよ。『イチロー』を読んでると、実際にありそうなネタも、漫画的コミカルなネタも、どちらも自然に入ってきて、違和感なく最後まで読み切れるわけだから、それこそその舞台も含めたキャラクターの強さがあるんだろうなあって、つくづく思います。

『イチロー』、2巻では少し登場人物が増えました。兄貴はどこぞに追放された匂いがしますが、まあそれはどうでもいい。登場人物が増えるにつれて、少しずつ広がるななこたち浪人生の生活の範囲。先ほどもいいましたメイド喫茶もそうなら、押しかけてきた先輩のおかげで明らかになる性格なんてのもあって、でもこうしたの多分、事前に予定して展開するのではなくて、そのつどそのつど、それこそアドリブするように前の展開を受けて広げていったものなんですよね。

1巻を読み返してみても思ったのですが、中心的な人物は最初から予定されていたものの、後に出てくる人、たとえば進藤まい18歳おたくは予備校登校初回にすでに出ているのですが、あれははたして後にレギュラー入りする予定だったのか、それともその時点ではゲストにもならないモブ+程度の扱いだったのか、それがわからんのです。なんでこんなことをいいだすかというと、ななこの浪人仲間である茜が人見知りであることを引きだしたまゆらさん、この人、まいが連れていかれた即売会で売り子やってたうちの一人じゃないのかって、そんな気がしてて、いやさすがに考えすぎじゃないかとは思うのですが、逆にいうとこの漫画にはそういう風に思わせるなにかがあります。前に出たことをうまく拾って、どんどん組み込んでいくといったような感じといったらいいでしょうか。自己生成する作品世界というものを目の当たりにするような、そんな気がするといえば、 — やっぱり言い過ぎなのかも知れません。けど、そもそも茜の人見知りにしたってですよ、それが前回に予定されていた展開なのかどうか、もしそうならその構成に対し、違うのならそのリカバーの巧みさに対し、素直に感心します。いやね、後者ならさ、シャーロキアンと呼ばれる人たちが、コナン・ドイルの書いたことをすべて否定することなく合理的に解釈できる道を探して、結果より広範な作品世界を構築したりするでしょう。まさしく、そんな感じなんかもなあって、思っただけなんです。もちろん、すべての創作物はそうした側面を持ってますけど、特に私は『イチロー』にそれを強く感じます。

けど、そうして膨らみながらも、キャラクターの核になる性質なんかはそのままであるから、あるいは付け加えられたものがベースとなる部分をより補強するように働くものだから、ぶれとしては知覚されない。それが大きいと思います。それに、単体では弱いと思われたような回や唐突と思われる展開にしても、こうして単行本になってまとめて読めば、見えてなかった繋がりのあることに気付かされたりして、いや思い込みかも知れないものもありますけどさ。けれど、いずれにしてもよく作られていることには変わりはないから、こうした面がよりよく見えるという点に関しても、こと『イチロー』は単行本向きかもなあと思った次第でありました。

  • 未影『イチロー!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 未影『イチロー!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年12月2日日曜日

日がな半日ゲーム部暮らし

 今、『電撃PlayStation』誌には『電撃4コマ』なる冊子が付いてきて、ゲーム系四コマ漫画を読めちゃったりするんです。この話をはじめて聞いた時には、正直ちょっと驚きましたね。だって、冊子ってや! 私、てっきり1コーナーだとばっかり思っていて、電撃の奴隷でしたっけ、あの延長で数ページ読めたりする程度の規模だと思っていたら、なんと付録冊子だったのか……。さすが電撃というべきか、昔から我が道をいくゲーム誌だと思っていたけど(付録CD-ROMにテーマ曲がついてくるなど、結構好きだった)、相変わらずであるなあ、ちょっと嬉しくなったですよ。思えば、私の昔買っていたゲーム誌である『ファミコン必勝本』も、晩年はWiz小説、Wiz漫画から、ゲームにどう考えても関係のない小説まで連載されていたものなあ。思い返せば、あれも我が道系の雑誌だったっけ — 。どうも私は、こういうマイペースな雑誌が好きなようでいけません。さすがにゲームもあまりやらなくなった今、『電撃PS』誌を買うということはさすがにしないとは思いますが、けどこうして単行本が出たら買っていくんだろうなあ。ええ、祥人の『日がな半日ゲーム部暮らし』。私、この漫画がめったやたらと好きなんです。

どれくらい好きかというと、ああ、自分もゲーム部みたいな、緩い部活やってればよかった。なんとはなしに集まって、なんか楽しく、意味があろうとなかろうと、みんなで同じ時間を過ごすっていうね、そんな青春を送りたかったなあ、なんて思って、軽く後悔するくらいに好き。いやあ、現実はどうかわからんよ。ちょうど34ページに書かれているように、実際そういう場があっても、意外とドロドロしたりするんかも知れんし。私の所属してた部活は実際そうだったものなあ。吹奏楽部、夏のコンクール、春の定期演奏会が二大イベントでさ、なんだかんだ拘束時間が長くて、うっとうしいのよー。ほんで、やっぱりドロドロした。少なくとも、私にはあんまり過ごしやすい場所じゃなかったよ、って、そんな話をしてもしょうがない。けど、仲のいいやつもあったし、それなりにドラマチックなこともあって、折角立ったフラグを力いっぱいへし折ったこともあったなあ。ああ、苦い。

『ゲーム部暮らし』が心地いいのは、作者もいってるように、こういう苦さが徹底的にぬぐい取られた後の、いわば理想郷ともいえる明るくて前向きなオタクライフであるからかも知れませんね。だから安心して読めて、ノスタルジーに浸ることもできるわけで、もしこれがぬるいと思われるなら、きづきあきらの『ヨイコノミライ』がおすすめです。青春の苦さ、若いということは痛いということなのだと、いやというほど思い知らせてくれますから。だから、もしこの『ゲーム部暮らし』がドロドロで、かーはらがすごいヨゴレを引き受けなければならなかったとしても、私は変わらずかーはらのこと好きだから、っていきなりなにをいいだすんだこの人は。だいたい、なんでだからと続くのかがわからん。ごめんなさい、最近ちょっとおかしくって、いやおかしいのは前からかも。そもそも、まともだった時があったろうか……。

こういう、馬鹿なことをだらだらいいながら過ごせる関係っていうのは、きっと貴重だろうと思うんです。ヒロインのみひろは友人かーはらに、なんだかこんなことばっかりいっているような気がします。「悲しい」と「悔しい」の違いをぶってみたりさ、ゲームと節度について熱弁してみたりして、こうして聞いてもらえるっていうのは嬉しいことだと思うのね。そして、彼女らはゲームという共通の趣味で繋がったわけだけど、いずれはそうした枠をはずれて、普通の友達になっていって、それはすごく仕合せなことだなあ、と思います。そしておそらくはこうしたことも青春なんだろうなって、自分の明日もようとして知れず、漠然とした不安にさいなまれながらも、今を精一杯に楽しく過ごそうじゃないか。ちょっと意志の弱く、ややもすれば低きに流れがちのみひろを見ながら、そんなことを思ってしまうのですね。

ただ、自分の経験上、そうやって問題を先送りにすると、負債が後に重くのしかかったりするわけですが。まあ、後悔は死ぬ間際にすればいいよ。なんていう私は、みひろを自分の内部に見出して、だから自分自身にそういったことをいいたいんだろうなあ。『ゲーム部暮らし』のキャラクターはよくできていて、みんな他人事ではない感じであります。特にみひろの代から下の子ら、あっきーにしても、3巻での新入生雪華にしても、自分の中に彼女らを感じてしまって、だからこそ共感も深く、唐突ともいえるみひろの発言も、あっきーの限度を見失ってまごまごしてしまうところも、そして雪華の妙にストレートすぎる振舞いも、すごくよくわかるように思うのです。

さて、そんな私の目下の(ゲームに関する)悩みはというと、プレイ時間を捻出できないってことにつきるかと思います。Nintendo DSを買って、ソフトもいくつか買って、クリアしていないもの多数。それはPSでもPS2でも同様で、もうクリア目前、後はボスを倒すだけ、という局面で、ストップさせてあるものもいくつかあって、あ、これは違う問題か……。

みひろの思いはよくわかる。これは、ゲームが好きで仕方がない人、好きで仕方がなかった人なら、おそらく同様なんじゃないかと思います。みひろもかーはらも、あっきーも雪華も、ゲームファンの心のうちにはきっと彼女らが住まっている。だから、きっと彼女らの作り出す空間を好きになれるという人は、少なくないと思います。

引用

2007年12月1日土曜日

にこプリトランス

  白雪しおんの『にこプリトランス』の第2巻が出ましてね、もちろん買ってまして、読みましたらばもうたまらん。なんというか、すごい密度でにやにやのシチュエーションが押し寄せてくるのです。ちょっと無愛想な騎士ないとに、せすとりんすの双子アンドロイドが迫り、騎士は騎士で嫌がってるようなそぶり見せるのに、実はまんざらでもなさそうじゃないか。というとなんか騎士があれな人みたいなので補足しますと、すっかりほだされちゃってまあまあ、って感じ。従姉の弥深子やみこと双子と一緒にいると、いいお父さんっぽくてですね、実にいい保護者っぷり。家族がばらばらにいる(あ、父はそうでもないのか)漫画なのに、こうまでもほのぼの家族っぽい雰囲気が強いというのも、なかなかにすごいものがあると思います。そして、この雰囲気があたたかくって優しくって好きなんですよ。けど、この漫画がいいと思うのは、もちろんそれだけが理由じゃありません。

メインのキャラクターである、騎士、せす、りんす、弥深子に加えて、サブキャラクターの魅力というのも馬鹿にできないのです。一言でいえば若林人脈。生徒会長の若様を取り巻く人間関係がこれまたえらく面白くて、恋愛あり、姉弟愛(いや、そっち方面の愛でなくって)あり、そして友情ありといった模様。どんだけ充実してるんですかと突っ込み入れたくなるほどにキャラクターが立っていて、彼らの出る回はちょっと騎士の影も薄くなっているような。いや、騎士が揺らがないでいるから、あの人たちも安心してやんちゃできるわけで、後ろに引っ込んじゃったとしても問題ないか。幼なじみの友人にいじられ、姉にいじられる不遇な弟、若林輝也。いいやつなんだがね、なんだか隙があるみたいで、そこが好き(いや、駄洒落のつもりじゃないよ)。実際、生徒会メンバーやせす、りんすに彼が慕われるのは、その隙のあるところが放っておけないからじゃないかななんて思うですよ。でもって、読者である私もその例外ではないって感じで……、そういえば弥深子やせすもそうなのかも知れないですね。そうかあ、道理で騎士が彼らの保護者みたいになってるわけだ。あ、この彼らには若様も含まれています。

第2巻では、残念ながら若様の姉は一コマだけ、妹さんもでないし、というわけで、楽しみはいずれきっと出る3巻に持ち越しであるわけですが、もちろんこれは2巻が物足りないといいたいわけではなくて、3巻も面白いぞっていっているわけです。過去に出たキャラクター、設定の数々が、さりげなく生かされて、面白さをより深いものに変えていくといったらいいでしょうか。それは第2巻でも実感できることで、さらにいえば1巻においてもそうであったわけで、この少しずつ世界が広がりつつ緻密になっていくという感覚、すごくよいと思います。物語世界が成長していくことで徐々に充足していく。もちろんそれはごりごりの設定主義なんかではなくて、突っ込みどころはあったとしても、そうしたおかしな部分、不思議な部分をも丸ごと愛せるような、そんな緩やかな深まりが楽しいのだと思います。弥深子の赤飯設定なんかはまさしくその代表といってもいいかと思いますが、どう考えてもおかしいんだけど、そのおかしさが面白さの前には問題にならず、むしろ面白さを後押しさえしています。

これは、なんなのだろうなあ。一言でいえば味、作風であるのでしょうが、そうした味がなにに発するのか、私にはつまびらかにはできそうになくて、そしてその言葉にできないところもまた味であるのだと思います。私としては、僕『にこプリトランス』大好きさ! ってことですましてしまってもいいくらいに思ってる。好きとは理屈ではなく、けれど好きになるには理由があるはずと、その言葉にならないところをぐるぐるとまわりながらもっと好きになっていく。白雪しおんの描く漫画には、そういう色があるように思います。

  • 白雪しおん『にこプリトランス』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 白雪しおん『にこプリトランス』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊