2021年8月18日水曜日

最後の日々: 生存者が語るホロコースト

日本における終戦の日、見ていたのが第二次大戦期にドイツに存在したホロコーストを扱ったドキュメンタリー、『最後の日々: 生存者が語るホロコースト』でした。Netflixのドキュメンタリーカテゴリーをぼーっと見ていた時に、これはいずれ見てみたい、そう思ったのがこのタイトル。けれど1時間27分という時間は日常にぽいっと見るには少し長くて、なので余裕のある今日こそ、そういう思いで見たのでした。この映画、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞しているのだそうですが、なるほどと納得する重さと内実を持っていて、痛ましさに胸の奥がずーんとくる、そんな感覚が残ります。製作総指揮はスティーブン・スピルバーグ。そうかあ、『シンドラーのリスト』もそうでしたが、自身のルーツにも関わりうるホロコーストをテーマとした活動、ずっと続けていらしたんですね。

強制収容所に収容されながらも生き残ることのできたハンガリー系ユダヤ人、5人の証言を中心にして構成されたドキュメンタリーです。自身のアイデンティティはハンガリー人であった彼ら、非ユダヤの人たちとも交流があり親しくしていた彼らの生活は、ナチスの台頭を受けてすべてが変わってしまう。

ユダヤ人排斥の気運が徐々に高まっていき、胸にダビデの星をつけるよう強制される。続きゲットーに、そして絶滅収容所に送られてしまった彼らの体験したことは聞くだにつらいことの連続で、これまでにも聞いて知ってきたこと、そのひとつの類型であるというのにここまで痛切と感じられたのは、彼らの語る体験、その生々しさ、その重さがゆえであるのでしょう。強制移住させられる時、身につけたのは楽しかった、美しかった日々を思い出させる水着。ホロコーストでの暮らしの中、必死の思いで守り抜いたのは母が持たせてくれたダイヤモンド。そうした個人のエピソードが、ただの知識や情報としてのホロコーストではなく、個別の人の身にふりかかった災厄としてのホロコーストを描き出して、想像を絶するその辛苦、それがこの地上にあったということを思い知らされるのです。

このドキュメンタリーは、ただ当時を回想し、ホロコーストの存在を語り継ごうとするだけではありません。この地獄を生き抜いた彼らが、子や孫とともに災厄の地を訪れ、再び出会うことのなかった家族のその後を辿り、かつてしあわせな日々を過ごした故郷を訪ねる。そこで語られること、出会う人々、自身深く自問してきたことと見出される答。想像もし得ない深い苦悩の果てに見出された結論なのでしょう。言葉もなく聞き入るばかりでした。

そんなつもりでこのドキュメンタリーを見たわけではなかったのですが、絶滅収容所でおこなわれたことを笑いの一要素としてコントに持ち込んだことが問題とされた件を思い出しました。ホロコーストを揶揄はしていない、その酷さを理解しているから成立するコメディだった、そういう意見もあったことは知っていますが、こうしたドキュメンタリーに触れると、その理解というものは通り一遍の知識としての理解に過ぎなかったのではないか、その擁護もまたそうした知識としての理解に過ぎないのではないのか、そうした思いを強めることとなりました。

ドキュメンタリーに差し挟まれる実際の映像が語りにさらなる重さを与えて、その圧倒的なまでの悲愴感に、これを簡単なものとして扱うことは到底できない、とりわけ当事者にとっては許しがたいものであろうということを思いました。そしてまたここまで資料が残り、関係者があって、証言も残っているのに、これを否定するものが後を絶たないのかと絶望的な思いにかられ、それだけにこうした証言を映画のかたちで残していくことの重要性を改めて思ったのでした。

おそらくは、欧米は今もなお流血しているのだと思う。ナチスという異端がおこなったこととして切断するにはあまりに重すぎる事実に、今もなお戸惑いや苦しみを覚え、癒えない傷としてその社会のうちにホロコーストとその記憶を抱き続けているのだと思う。ともすればこれを忘れさろうとする諸力に抗い続けるのは、これを傷として我が身に引き受ける彼らにとってはなお終わらない事実であり続けているからだと思う。

ゆえになおざりに扱ってはならない、そんなテーマのひとつがホロコーストなのだ。そうした思いを持ちました。

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