先日、NHKでドラマになったのを、遅ればせながら見ました。『弟の夫』。漫画が原作で、その冒頭は読んでいたのですが、いやあ駄目ですね、いつでも読めると思ってしまうと、ついつい後回し、積んでしまうのは悪い癖です。結末はドラマで知ることとなってしまったわけですが、どうなるんだろうと思っていたドラマ、丁寧に作られていて大変よかった。把瑠都の演技も、自然で、人情味溢れていて、相撲取りとは仮の姿だったのか……!? マイクの雰囲気、よくよく体現なさっていたなあと、あらゆる方面に感心しきりのドラマでした。
このドラマ、BSだけでやっていたんですけど、なんでなんだろう。総合でやってくれたらいいのに。もっと多くの人に見てほしい、そう思えるドラマだったんですね。
タイトルに違和感を感じる人もいるんじゃないかと思います。弟の夫。普通 — 、弟には夫はいない、そう思ってしまいがちですよね。つまり、これは弟がゲイであるということ。かつてそのカムアウトを受けて、以降どう弟と接していいかわからなくなってしまった兄が、カナダからやってきた弟の夫と交流を深めることで、自分自身に向きあっていく、そうしたストーリーといえばいいのでしょうか。言葉にすれば簡単なのだけど、それをこうまで真摯に描いてみせたことがとてつもない。知らず共感を覚えて、弟の夫マイクが、兄弥一が、そして弥一の娘夏菜が、親しい友人であるかのように感じられる。だから、それだけに、マイクに向けられる偏見が描かれた時には、なんて酷いんだと憤慨する気持ちがふつふつと沸いておさまらない。けれど、そうした偏見に、劇中でこっぴどくやり返して溜飲さげたりすることはないんですね。ただただ、自分自身の心情を、思うところを語るばかり。声高にはならない。それだけに、胸に静かに言葉も感情も通ってくるのかも知れません。
この物語でなにが悲しいかといえば、もう弟が亡くなっているってことでしょう。この物語は、弟が亡くならなければ始まらなかった。あるいは、こうした展開もなかったのだろうと思われて、だからなおさら兄の気持ちが思うほどにつらい。
死者との対話は、つねに後悔がともにあるのだろうか。ああすればよかった、こうもすればよかった、あるいは、なぜあんなことしてしまったのだろう。今、あの時の失敗を悔いたとしても、もう取り返しはつかなくって、弥一よう、やっと弟のことを理解できたというのになあ。弟も兄との関係がギクシャクしてしまっていたこと、悔いていた。もっとこうしておけばよかったのかもと弟も思っていた。けれどそれを今知ったとしても、もうどうにもならんのです。時間さえ許せばきっとわかりあえただろう兄と弟が、その機会を持たないままに別れねばならなかったというのは大きな大きな不幸で、ずっと凍っていた感情が溶けたかのように涙を流す弥一の姿に、もう胸をしめつけられる思いがした。たまらんドラマでした。
それだけに弥一とマイク、夏菜がたどりついたところ。離れていても家族だという、その言葉に救われる思いがしたのでした。ええ、弥一にとって弟もそうだというのが、彼の気持ちの整理がついたように思えて、かたく蓋のとじられていた弥一の心も開かれたのだろうなと思わされて、人はこうして悲しみに折り合いをつけながら、その心に大切なものを同居させていくのかも知れない。また私にも、いつかそういう日がくるのかも知れない。なんてことを思いながら、なら私は後悔する前にわかりあう努力をしなければいけないのだろうな、などと考えたりもしたのでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿