2008年3月15日土曜日

ただいま寄生中

 なんかここ数日、児童ポルノ規制法絡みの話題がにわかに盛り上がりつつあると感じられるのは、今月11日に日本ユニセフ協会他が「なくそう!子どもポルノキャンペーン」と銘打って、ある種強硬な呼びかけをしたことに関係してのことでしょう。それまでの児童ポルノ規制法改正においては、単純所持を罰することに対する疑問、そして実際の児童を被写体としたもの以外まで規制すべきかどうかの是非など、そうしたところが問題の焦点であったところが、急転直下とでも申しましょうか、より広範で強硬な規制を求めるキャンペーンが大々的におこなわれて、これまで静観していた層、あるいは自分には関係ないと思っていた層にまで問題意識が広がったというところであろうかと思います。

強硬な呼びかけというのは、日本ユニセフのいう準児童ポルノであるのですが、実際に存在する児童をではなく、実写であれば児童(=18歳未満のもの)とみなしうる役柄を、アニメ、漫画、ゲームであれば、児童(=18歳未満のもの)とみなしうるキャラクターをも規制対象としようではないかという、そういう呼びかけが子どもポルノという非常にキャッチーな言葉とともになされているのでありますね。

もしこのような法が成立した暁には、いったいどれくらい広範に摘発、処罰の網を広げることができるんだろう。幸いというべきか、私はいわゆる実写ものは持っていないので、そちらで摘発される心配はないんですが、漫画やゲームが対象になれば、摘発、処罰の対象になりうるところが危険です。現在合法に出回っているもののなかには、間違いなく未成年であるキャラクターの性描写を扱ったものが多数あるわけですが、それらが準児童ポルノとみなされ、そしてそのみなされたものが私の所持しているものの中にあれば、当然摘発の対象になりますわね。さらにいえば、私が仮にそうしたものを所持していなかったとしても、所持しているのではないかという疑いで捜索令状を請求、出されてしまったとしたら、家宅捜索されるのも夢じゃない。もちろんそれで疑わしいものが出れば起訴、あるいは準児童ポルノには該当しないものの、他の犯罪にかかる物件が出てきたら、そちらで起訴。おお、別件捜索、別件逮捕続出じゃないか? 狙っている罪状ではあげられそうにないから、こっちでちょいとやってみようぜ。

あさりよしとおの『ただいま寄生中』をピックアップしたのは、この漫画が1991年からはじまるエロ大規制の最中に描かれたものだからです。1991年のエロ大規制というのはいったいなんなのかといいますと、私の記憶が確かであれば、『セーラームーン』のアンソロジーが引き金を引いたキャンペーンであります。当時、同人誌やコミケの存在は本当に一般には知られておらず、本当に細々とその趣味の人たちのあいだだけでのみやり取りされていた、そういうものだったんですが、『セーラームーン』人気をうけ、同人誌をまとめ商業出版する動きがあったんですね。そしてそれがエロであったことが不幸で、さらに人気が出てシリーズ化されたこともまた不幸で、未成年、それこそ『セーラームーン』の本来の受け手であった少女たちの手に渡ってしまった、そしてこれがもっとも不幸なことであったんですね。

今まで一般の目に触れることのなかったエロパロが、そうした少女たちを通して一番知られてはならない人たちに知られちゃったのでした(笑いたいが、笑いごとじゃないですね)。記憶に基づくもので申し訳ないですが、当時の新聞投書欄には「娘の買ってきた漫画を見て愕然とした。少女漫画風の表紙なのに、露骨な性行為が描写されている。いったいこういうものを売るとはなにごとだ」というようなお怒りの意見が寄せられて、けしからん、こういったものは規制されるべきだという声が日増しに大きくなっていった。とまあ、こういった経緯で漫画におけるエロ表現に規制がなされることとなったのでした。

『ただいま寄生中』は、こういった状況下で、こういった状況に対抗する意図をもって連載された漫画であると、作者自らが後書きにのべているのですが、悲しいかな有効なカウンターにはなりえないまま、特定のマニア、あさりよしとおのファンですね、のあいだでのみ知られる漫画となってしまいました。中を見てみれば、規制派に対する反感がかなり露骨な言葉でつづられて、正直なところのべますと拙速。作者の心意気は買いますし、世にも珍しい改造寄生虫の力を借りて変身する戦闘ヒロインものであるところとか、あるいはヒロインのキャラ造形など、気になるところ、好きなところはたくさんあるわけで、だけど一般に受けなかったというのもわかるから、気持ちとしては微妙ですね。でも、漫画の表現規制について語られることがあれば、私が最初に思い浮かべるものというのはこれなんです。

1991年の規制は、表現の緩和修正及び成年コミックマークの表示、すなわちゾーニングをするというところに落ち着いて、けどこれはあくまでもそうした勧告と自主規制にとどまったわけです。ですが今回はレベルが違います。なんてったって罪に問えるというわけで、しかもその基準がよくわからないうえに広範。ロリータマニアが集まる掲示板では、普通の子供の画像が貼られただけで、子供ポルノの公然陳列と見なすことも考えているという意見のある状況では、ロリコンとみなされた人の所持品に明らかにポルノではなくとも疑わしいものがあれば、準子供ポルノの所持に準ずるとみなされうるのでしょうか。だとすると私の友人や愛好している漫画の作者の中には、非常に危ない領域に踏み込んでいる人が何人もいるから、しかも男女問わずいるから、逃げてー! というほかないんですが……。だって男だろうと女だろうと、その本人がペドファイルでなくとも、みなされれば終わりなんでしょう? みなされた人がそれらしいものを所持していたら終わり。所持品がそうしたものとみなされても終わり。電磁的記録でも一緒でしょ? じゃあ、サイトにそれ気な絵を公開している人たちは大変だ。

お前、他人事みたいにいってんじゃないよっていわれそうですね。私は、考えるまでもなくアウトですよ。このBlog見てもわかるように、将来準児童ポルノとみなされることになりそうなタイトルいくつも所持していますから、いちころだろうねえ。お前考えすぎだよという人もあるでしょうが、法が整備されるということは、罪に問えるようになるということは、そういうことなんですよ。私みたく、現実に未成年者と関係を持とうなどと考えない人間でも、それどころか援助交際や性風俗産業は社会全体でおこなう性的搾取でしかないと言い出すような、規制側に近いメンタリティを持っている人間であっても、準未成年者ポルノを所持しているということは、そういう性的嗜好を持って、現実に行使しようとしているのだとみなされるんですよ。そうした芽は早急に摘まねばならないと考えている人がいるのですよ。現実に、世界を完全に浄化したいという欲望は存在して、そしてもし彼らの欲望に歯止めがかからなくなれば、明日の我が身は火刑にかけられるのを待つばかりとなってもおかしくないんです。こういう健全社会を描いたものは、それこそ昔のSFにたくさんたくさんあったわけだけど、まさか自分の生きているあいだに現実のものとなるかも知れないだなんて思いもしませんでした。ああ、世界はどれほどにワンダーであるのだろう。

皆さん、完全クリーンな社会が到来した時には、私はシャバから消えます。あらかじめいっておきます。さようなら。

  • あさりよしとお『ただいま寄生中』(ジェッツコミックス) 東京:白泉社,1999年。

引用

参考

2008年3月14日金曜日

家族ゲーム

 今日は世間ではホワイトデーというものらしいので、恋愛に関する漫画を取り上げてみたいと思います。で、『家族ゲーム』。どっからどう見てもゲーム大好き家族の漫画だったはずが、ふと気がつくとすっかり恋愛漫画になってしまっていたという変わり種です。お父さんもお母さんも二人の娘も皆ゲームが好きで、そのそれぞれにゲーム好きの友人があって、また友人の周囲にも人間関係が広がって、しかしただ漫然と広がるのではなく思い掛けないとこれで繋がっていたりする。そうした人間関係の結構入り組んで絡み合っているところが面白く、またそのあちこちに恋愛の展開、芽生えが用意されているという、不思議に豪華な漫画となっていて、当初の面白さとはずいぶん変わってしまったけれど、これはこれで面白いなあ、そんなことを思っています。

思い掛けない繋がり。同じ人間を軸に展開される恋愛、いわゆる三角関係の、本来なら取り合い、対立する位置にある二人が、それと知らないうちに知り合い、友人になっているどころか、その恋愛について相談し、はげましたり後押ししたりしているというおかしさ。そしてこの舞台というのがMMORPGのログイン先であるのですね。お互い相手の素性も知らないままに、出会い、そして仲よくなったわけだけれど、たまたま出会った遠くの誰かと思っているのが、実はすごく近い位置にいるという仕掛け、私はこういうのにとことん弱いんですね。見えないところで繋がっているという感覚。その隠された部分が、実は、と明かされる時のことを思うと、わくわくして仕方がない。仮想世界における演じられた人格と、現実の世界における人格がまさしく出会い、伏せられていたバックグラウンドは一気に立ち上がって、これまで気付かないでいた繋がりとその意味が理解されるのです。

これって、私の好きだという、秘密のヒーローものに似た構造なのかも知れません。みんな知ってる、けどその正体は知らない。そして知らないうちに、知り合い、つきあいを深めている。さあ、これがばれたらどうなる! どうなるんでしょうね。『家族ゲーム』のあの人とあの人の場合、明かされる時にはありうる問題はすべて綺麗に払拭されたあとのような気がします。だから、心から祝福できる、そんな気持ちをもって新たな関係にステップアップできる、そんな予感がするから、なおさらわくわくとした気持ちになるんだと思うんですね。

といった具合に、いくつもある恋愛の芽生えが、だんだんと育っていって、あちこちで花を咲かせ、実を結びそうになっているのです。お互いに意識しあいながら、それをはっきりかたちにできないカップルがあれば、思いもあらば先に踏み出せばいいところを、怖れに打ち勝てないという人もあって、その逃避っぷりもすがすがしい。いうならばギャルゲ脳の恐怖。けど、恋愛っていうのは難しいねえ。踏み出したいが、踏み出すことによって今の関係が壊れてしまうかも知れない。そんな時に人は、自分の感情を曖昧に誤魔化してみたり、そしてより傷つかないほうに逃避してみたり。でも、その逃避もあれっくらい堂に入れば、それはそれでいいような気もする。とはいえ、痛々しくて物悲しい彼にも、ちゃんとルートを用意している作者は、なんだか優しい人だなあ。そんな風に思ったりして。いや、この人は切なくとも仕合せな関係が好きなのかも知れないなあと、そんな風に感じることが多いです。そして私、そういう雰囲気、嫌いじゃないです。つうか、好き。

恋愛ものを読む楽しみは、恋愛を追体験するという気持ちの楽しみに加え、一部状況が伏せられたなかで思いに悩み迷う彼らを、鳥瞰するような視点で眺めることができるという、そういう優越性、あるいは見守る楽しみもあるように思われて、『家族ゲーム』にはもちろん気持ちの楽しみも豊かにあふれているのだけれども、より一層に見守ることの面白さが感じられます。そしてその思いの変化し整理されるまでのプロセスもお見通しという特権を得るからこそ、気持ちの喜びも深まるのかもなあ。人と人のつながり、気持ちの変遷が丁寧に描かれる、それがふたつの楽しみをより確かにするものだから、この漫画を読んでいるあいだ、私は恋に思い、悩み迷う彼ら彼女らを見守り寄り添う、そんな気分になるのでしょう。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月13日木曜日

Linus and Lucy

 アメリカのスペースシャトル、エンデバーが打ちあげられて、今日で二日目。日本人飛行士土井隆雄氏が搭乗されていることから、日本のメディアでも盛んに取り上げられて、新聞、テレビ、なんだかわくわくしますね(NHKのフランス語ニュースでもとりあげられてます!)。さて、今日のスペースシャトル関連ニュースは音楽についてでありました。スペースシャトルでは目覚ましに音楽をかけてくれるのだそうですね。その音楽は、搭乗員やその家族のリクエストで決められるというのだそうですが、二日目の今日は土井さんの奥さんひとみさんの選曲、『ゴジラVSスペースゴジラ』であったのだそうでして、確かに聞けば覚えのある伊福部メロディーです。しかしヒューストンとのやり取り含めて、楽しそうだなあ。飛行士になりたいなとは思わないし、それになれるとも思わないけど、ああいう楽しいやり取りには憧れてしまうなあ、なんて思えるよいニュースでありました。

エンデバー、二日目の目覚めの音楽が『ゴジラ』だったという話でありますが、じゃあ初日はなんだったのかといいますと、Linus and Lucyでした。ライナス&ルーシー。誰かなんて聞かないでくださいましよ。我らがチャーリー・ブラウンの良き友達であるライナス・ヴァン・ペルトと、シビアさが持ち味、ライナスの姉ルーシー・ヴァン・ペルトですよ。チャーリー・ブラウンというのは、いわずと知れた、世界で最も有名なビーグル犬スヌーピーの飼い主です。そう、アニメ『ピーナッツ』のサウンドトラックからLinus and Lucyがリクエストされたのですね。

なんで知ってるのかというと、ニュースで見たからです。昨日の朝のNHKニュース。いや、おとついか? とにかくテレビで観て、あのわれ鐘のようなスピーカーから響き渡る、特徴的なピアノのフレーズ。あー、ライナス&ルーシーじゃんか! 粋な起こし方するなあ、と思って、『ピーナッツ』はかくもアメリカにおいて愛されているのか、再認識する思いであったのでした。

ところで、『ライナス&ルーシー』にはバージョン違いがいっぱいありまして、作曲はヴィンス・ガラルディ。彼のトリオの演奏した、まさしくジャズですね、その曲が、ガラルディ自身により、また他の多くのミュージシャンによりカバーされることで、本当に多様で豊かなバリエーションを持つにいたりました。もともとはピアノ、ベース、ドラムによる演奏なんですけど、ポップなのもあり、もちろんオーソドックスなジャズもあり。ジャズの、既存の曲をテーマにとって、奏者それぞれの個性をもって変奏していくという面白さが、ここにも現れているなあと思えること請け合いです。

エンデバーで流されたものは、割合スローで、ああこれはA Boy Named Charlie Brownに収録されているやつかなと思いました。もちろんごくごく一部しか聞いていないので、違っているかも知れません。でも、多分これだと思うんだけどなあ。『チャーリー・ブラウンという男の子』。これ、ラストがものすごく感動的でね、チャーリーが、ライナスが、そしてもちろんルーシー、他のおなじみの面々も、すごくチャーミングで、生き生きとして、見ると頑張ろうって思えるんですね。特に、失意のチャーリーにライナスがかける言葉の温かさ。思い出すだけで、じんときます。泣けてきます。ああ、人はこうも優しくなれるものなのかってね、思うんです。

そんなこんなで、私はチャーリーをはじめとする『ピーナッツ』の面々が好きでして、ライナスとルーシーの姉弟ももちろんそうです。本当、最高の漫画、アニメ、チャーミングな音楽でありますよ。

2008年3月12日水曜日

マルビプリンセス園華サマ

 シンプルなパターンの繰り返し、そこに面白さがあるというのなら、『マルビプリンセス園華サマ』については一体どう思っているんだい。そういう疑問をお持ちの方もいらっしゃるかも知れないので、ここではっきりと答えておきたいと思います。好きですよ。単行本だって買ってます。特に初期のころの、もうほんと単純に、見た目雰囲気からセレブ扱いされてる園華様ですが、実は貧乏で……、みたいなネタの連発が好きだったんですね。まったくワンパターンといえばワンパターンだけど、くるぞくるぞと待ちかまえているところに、予想通りくるという面白さはありますから。いわゆる定番ギャグ、定番ジョークなどはえてして皆そうしたものですし、民話なんかにもそうした構造は見え隠れしています。

どうも人間には繰り返しに面白さを感じてしまうという回路が備わっているみたいなんです。ほら、子供とか気に入ったこと何度でもするし、何度でもいいますでしょう。そうした傾向は当然大人になっても消えずに残りまして、ということは、とりわけそうした性質を色濃く残した人間が四コマにはまりやすいってことでもあるのかな。いやね、四コマ漫画っていうのは、そうした繰り返しの定番落ちに高い親和性を持っているジャンルだと思いまして、実際、現在連載されている漫画を見回しても、定番落ちを持っているものは少なくないわけです。でも中でもその定番落ちというものに注力しているものがあって、例えばといわれれば、『マルビプリンセス園華サマ』なんかはその最たるものであろうかと思うのです。

なんといっても、タイトルがすべてを物語っているわけです。『マルビプリンセス園華サマ』。ちょっと懐かしい響きだけど、マルビ(表記は丸内にカタカナでビ)すなわち貧乏に対照的なプリンセスという言葉を持ってきてタイトルにしている。漫画で語られる構造が、すべて語られているといっても過言ではないわけです。実際、初期は設定に忠実に、このギャップネタを中心に展開されていました。単純なんだけれど、というか、単純であったがためにというべきか、面白かった。セレブっていうのが流行真っ直中って感じのころでしたから、なおさらだったかも知れません。

繰り返しネタははまれば確かに面白いんですが、いつか飽きられてしまうという危険もあります。それに、人間は同じことの繰り返しを求めつつも、同じことの繰り返しには耐えられない。停滞した状況を見ると、進行させたくなる。さらには解決して安定させたいと思う。そして『園華サマ』と『花の湯』に感じられる違い、それは安定と進行のバランスというところにも現れているんではないかなと思います。どちらも話を重ねるにしたがって、マンネリの打破を打ち出そうとしたものか、安定から進行にかじを切ったように見えるのですが、その進行の度合いは『園華サマ』の方がずっと強いと感じられて、例えば正太様、そして美学生。両者ともに意識しあっている。明示的な三角関係が生じていて、ただ園華様だけがそれほどでもない……。

今はまだ前進的ではないけれど、恋愛がからんでしまったから、いつか進行を余儀なくされるんだろうな。そうした感触は、同じく恋愛の予感を感じさせている『花の湯』よりも『園華様』の方が強く感じられるのですね。恋愛的状況が成立して、そしてその踏み込み方が大きかった。そんな風に感じるものだから、これはきっと動く、いずれ決着しないことにはおさまらない、そういう気分であるのかと思います。

とはいえ、まだもうしばらく、今の状況が続くのだと思います。見た目と実際のギャップを主ネタに、貧乏同志の美学生とお気楽正太様のネタを絡めながら、今しばらくはこの状況を楽しめそうだと思っています。そして動いた暁には、エレガのお姉さんにもしあわせがくるといいなあって、ちょっとそんなこと思っています。

それはそうと、なぜか正太様お付の秘書さんが、微妙にキャラクター変わりつつあるというか。実は私は、もし恋愛状況が発展するなら秘書さん本命ではないかと思っていたものですから、思いっきりの空振りでした。

引用

2008年3月11日火曜日

花の湯へようこそ

   順調に巻を重ねていく『花の湯へようこそ』、ついに第3巻の刊行ですよ。嬉しいなあ。確実に単行本の売れる作家として認識されているということでしょうか。それこそ3巻なんて、発売が2008年3月7日であるのに対して、収録話はというと『まんがタイムスペシャル』2008年2月号収録分までという超接近ぶり。これはもう、ページの溜まるのを待ってましたとしかいいようのない、そんな状況であるとしか思えません。

私は、渡辺志保梨の描く漫画の面白さは、シンプルなパターンの繰り返しにあるのではないかと思っているのですが、例えば『ごちゃまぜMy Sister』なら36番や純の健啖あたりがそれにあたるだろうし、『大人ですよ?』だと小夜子の見た目中学生ネタやぶてぃっく雅の店長の占いなどがそうでしょう。もちろん『花の湯』も同様に、よっちゃんの家庭風呂への憧れや園生君の銭湯に寄せる偏愛、娘がいつか一緒に風呂に入ってくれなくなることを怖れるお父さん、胸の小さいことを娘に無邪気に指摘されるお母さんなど、基本となるシンプルなネタが多種用意され、そしてそれらはパターンとして繰り返されます。

この繰り返しをどう評価するかで、渡辺志保梨の表現の受け止めようも違ってくるかと思うのです。人によっては、毎回同じネタばっかりと思うかも知れないし、ひいては飽きた、退屈という、そういう感情を生みだすことにも繋がりかねません。ですが、よくよく見れば、その繰り返しは繰り返しでありながら、同じではないのですね。前提を違え、シチュエーションを変えて、ともないその味わいも変化する。それはあたかも音楽においてテーマが変奏、展開されるのにも似て、あるいは同じような日々の繰り返しの中に過ぎる私たちの人生にも似ていると、そんな風にも思われるのです。見出されなければ退屈な日々の些事として流されてしまうようなものも、ワンダーとともに掬い上げられれば、魅力的なものとなる可能性を秘めている。同じに思える毎日ですが、同じであったことなど一度たりともないのですね。とはいえ、片思いちゃんや………?さんのパターンみたく、バリエーションをもちそのつど展開を違えながらも、望み薄の結末に落ち着いてしまうというところなど見てますと、人生のシビアさを思い知らされるようではありませんか。

いや、ちょっと大げさにいいすぎました。『花の湯』はなんといってもシンプルな楽しみ、おかしみのあふれる漫画ですから、これを見て人生やらを思うのは、どう考えてもやりすぎです。

第3巻に入って、新たな登場人物が出現して、繰り返されるパターンも増えました。しかし今度のパターンはちょっと異色といいますか、もしかしたら動かない状況を動かす動因になるかも知れない、そんな可能性を秘めているように感じます。よっちゃんに片思いする男。彼の介入が三角関係的状況を生み出すことによって、これまで成立しなかった劇的展開に突入するのか否か? いや、多分そういうことはないのだろうな。そう思いながら、けどまれに、園生君とよっちゃんのあいだに、恋愛とまでとはいわないけれど、なんだかそうしたものに似た感情の萌芽が見られるようなところもあって、ほほ笑ましく、なんだか嬉しく、けどきっとこれが大きく盛り上がるようなことはないんだろうなあ、安心しているといいますか、ええ、今のこの穏やかで楽しい関係が持続して欲しいなあと思っているみたいなんですね。

今のこの仕合せを少しでも長く — 、そんなことを思ったことのある人には、渡辺志保梨の漫画は向きかも知れません。代わり映えのしない毎日かも知れないけれど、だからこそきっと愛おしく思えるものなんですよ。家族、友達があって、おなじみさんがいて、そしてつつがなく過ごせるということの意味。とりわけ『花の湯』からは、そんなことを思っちゃうんですよね。いや、もちろん過剰な反応であることは当の自分が一番よくわかってます。けど、それでも、そう思ってしまうというのは、もしかしたら私自身が今の暮しという仕合せを、変えることなく、壊すことなく、一日でも長く維持したいと、そんな風に感じているからかも知れません。

あ、最後にちょっと驚いた話。

巻頭の人物紹介なんですが、この漫画で固有名を持っているのって、もしかして三人だけ? いや、ほんと、徹底してます。けど、名前やなにかがさだかでなくとも成立している関係っていうのも、なんだかちょっと素敵であると思います。

  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月10日月曜日

こぐまちゃんいたいいたい

 Amazonからおすすめされて、あ、これはよさそうだ、買わないとと思った絵本があったのです。それは『こぐまちゃんいたいいたい』。今日、『コミックエール!』を買いにいったついでに、一緒に買ってきたのでした。そこは結構絵本を置いている書店でして、『いたいいたい』をおすすめされるきっかけとなった『しろくまちゃんのほっとけーき』を買ったのも、実にこの書店でありました。棚にたくさん絵本の用意されているそのたたずまいが、なんか温かみがあっていいのですね。日中などは子供連れの親御さんも見えて、愛されているんだろうなあ、そんな書店なんですね。

さて、『こぐまちゃんいたいいたい』。なぜこの本がよさそうと思ったかといいますと、ほら、姪です。もうじき一歳半になりますかね、うちのなか危なっかしく歩き回っているちびすけを見て、なんかおそろしいなあ、そんな風に思うんです。もちろん気をつけてはいるんですよ。でも、それでも子供はなにかしら危ないことをするようにできてますから、怪我したりすることもありましょう。だから、先手を打って、危ないことをしないようにしましょうと、こういうことをするといたいいたいですよと、教えられたらよさそうね。そんな風に思っていた矢先に『こぐまちゃんいたいいたい』が紹介されたから、よしきた、まかせとけ、受けてしまったというわけなのです。

しかし、このこぐまちゃんのシリーズはすごいです。決して愛想笑いするようなことのないこぐまちゃん。目は点だし、口はヘの字です。なのになんでこんなに可愛いんだろう。単純な線、豊かな色彩が、こんなにも生き生きしているというのですから、本当、名作だなあと思わないではおられません。内容は至極単純です。こぐまちゃんが機嫌よく遊んでいる、そうしたなかで遭遇するちょっとした事故。あ いたい。おやつをたべてて、いたたた た。そのいちいちが可愛くて、泣いちゃったりして可愛そうで、もちろんそんなにひどい目に遭うわけじゃないです。でもそれでも、ああ、ああ、いたいのいたいのとんでけって具合にですね、駆け寄って助けてあげたくなるような、そんな感じがあって、いやほんとすごい近しさです。これは子供引きつけるでしょう。それとともに、大人でさえも引きつけられて、それはそれだけの魅力があるということなんでしょう。

しかし、階段から落ちるシーン。あっ すべった。って、そんな悠長なこといってていいの! って焦るくらいにショッキングな絵を見せられて、でもひっくり返って泣いてるこぐまちゃん見たら、ああ、ああ、大事がなくてよかった、よしよし、可愛くってほほ笑ましい、思わず笑みがこぼれるってこういうことなんですね。

姪よ、おじさんはおまえに前もって謝っておかないといけません。おじさんはおまえを、こぐまちゃんえほん買うだしにしています。それともうひとつ。おじさんにはこぐまちゃんが可愛くて仕方ありません。なので、もしこの先、本屋にいくことがあって、こぐまちゃんえほん見かけることがあったら、お母さんにいってそれを買ってもらいなさい。そして、おじさんに見せてください。できれば貸してください。

絵本には絵本のマニアがいるわけですが、その理由はいやというほどわかりますね。子供の本の世界は、困ってしまうほどに豊かです。ロングセラーにはそれだけの理由があると、一読するまでもなくわかってしまうほどに豊かな世界が一冊に込められていて、そしてこぐまちゃんえほんは間違いなくそうした絵本であるのですね。素晴らしいです。

2008年3月9日日曜日

恋愛ラボ

 みそララ』が出たその日から、この時の来ることを半ば確信して待っていたのでありました。『恋愛ラボ』の単行本が発売です。名門女学の生徒会室にて日々研究される恋の手練手管。はじめは生徒会長真木夏緒ひとりで開始されたこの活動は、倉橋莉子(後に会長補佐に任命)、そして棚橋鈴音(書記)を加え、より一層の深まりを見せることとなったのでした。とはいっても、彼女らは中学生。そんなにすごいことができるわけでもなく — 、いや、そうでもないな。ある意味、彼女らはすごいと思う。いやね、恋愛研究っていうやつは、頭の中でこっそりやっているならともかく、具体的に行動にしてみせるとこんなにもものすごいことになるのかって、そんなこと思ったものですから。というわけで『恋愛ラボ』、人によっては少年少女の日々思い出して悶えることにもなりかねない。ちょっぴり危険な漫画であります。

なぜ悶えるのか? それはマキ、リコのやっている研究というのが、見ていて小っ恥ずかしくなるようなのばかりだからなんです。ほら、少女漫画とかであるでしょう、恋愛の芽生え定番展開っていうやつが。登校途中、曲がり角でぶつかる。髪がボタンに絡まる、などなど。これらは定番といわれるだけあって、バリエーションをもって幾度も繰り返されてきたわけでありますが、その繰り返す出会いの風景に、自分の場合想像妄想したことのあるという人もおそらくあるかと思われます。あるいは、恋愛漫画に定番の告白シーンでもいい。漫画のヒーロー、ヒロインに自分、そして気になるあいつを重ね合わせて妄想したことのある、そのような人も少なくないかと思われます。

『恋愛ラボ』というのは、マキがそれを逐一試してみるという、そんな漫画なんであります。しかもかなり台無しな方向で。いや、試みが台無しな結果に終わるのは、すべて作者の思惑がためといわざるを得ないのでしょうが、けど、実際問題として漫画に出てくるようなシーン、現実にやろうとしたらああなるわなあ。ある意味、夢も希望もない漫画。けどそれでも夢を見ようとしているマキと、仕方がないと思いつつ彼女につきあうリコのペアが本当にいい感じで、密室でおこなわれるおばかな特訓、すごく楽しそうで、それにかわいらしい。途中からスズが参加しますが、おばかな傾向が助長されることはあっても、その逆はありませんでした。時にこのしあわせな流れが阻害されてしまうんじゃないかと心配しても、きっとうまくおばかなのりに復帰してくれる。そういう点でも安心して読める、肩の凝らないコメディであると思います。

けど、一言いわせていただきたい。あの眼鏡、ああ、スズじゃないほう、サヨね、いつか目にもの見せてくれようぞ。いやね、宮原るりの漫画にはどうもそういう傾向があるように思うんですが、あまりに強すぎるキャラクターが出てくるといいますか、例えば『となりのネネコさん』におけるネネコさんというか、他のキャラクターをことごとくへこましてまわる役割にありながら、あまりにも弱点なさすぎるという、そういうところ。ああ、サヨはそうなんだなあと思って、現在連載追っている時点でも実にそんな感じで、いつかリコが、あるいはマキがやつを力いっぱいへこませてはくれんものかのう、そう思うくらいに強キャラなのであります。

まあ、でも、みんな悪い子ではないのね。サヨにしても、人おちょくって楽しむ傾向が強く現れてるだけで、人が悪いわけではない。それはどの娘にしても同じ。一生懸命なんだろうねえ、自己表現がちょっとずつ下手なだけで。そうしたところがわかったら、きっと好きになれるんではないかと思って、ええ、サヨも決して嫌いじゃありません。あんなに萌えない眼鏡は久しぶりだけど。それこそ、以前がいつの誰だったか思い出せないくらいに久しぶりだけど。ともあれ、登場人物、おのおののよい性質がまっすぐに発揮されるシーンなんかは、ちょっと感動的だったりするくらいで、そしてそうした時にはサヨも、違う意味で憎いあんちくしょうだったりするのですね。

そんなわけで、『恋愛ラボ』第1巻にて序章は終了。連載ではまさしく本編が動き出したところ、先が実に楽しみといえる漫画です。

  • 宮原るり『恋愛ラボ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月8日土曜日

気分は上々

 『気分は上々』が単行本にまとまると知って、おや意外だと思った、もうそれこそ申し訳が立たないくらいに失礼な感想ですが、だってまさかと思ったんだもの。建築の現場事務所にて働く女性事務員ジョーがヒロイン。職業ものといったらいいでしょうか。業種も部署も明確でない汎用OLものも多い中、はっきり建築と打ち出したこの漫画。大工、鉄筋工、親方といった男所帯に花を添えつつ、しっかり切り盛りするジョーさんの手腕にほれぼれしつつ読んでおります。しかし、なんで私は単行本化されないだなんて思ったんだろう。好きで読んできた、それは間違いなし。だとすれば、思い込みってやつなのでしょうね。

しかし嬉しい流れであると思いました。ほら、四コマって単行本にならないものも多いですし。派手でないけれども、いい仕事をしているものっていうのはいくつもあるのにさ、本にならない。それこそ絶望的にといっていいくらいにならない。これが単行本になったら買うのになあって思ってるのに、ならないから買えない。連載終了後、同人誌でまとめようと思ったら、ページ数が半端でなかったため断念なんてのもありましたっけ。と、四コマというジャンルは長くこのような状況であったのですが、最近はちょっと変わってきたみたいですね。単行本化されるものが増えてきた。ああ、この好調が続いてくれればいいなあと心の底から思います。と、愚痴というかなんというかはここまでだ。『気分は上々』について書かねばなりません。

先ほどもいいました、『気分は上々』は建築現場事務所にて働くお姉さんが主人公。さばさばとして気っ風のいいジョーが、大工、鉄筋工といった働くお兄さんたち取りまとめ、さらには寺西監督や藤木設計士といった一癖も二癖もあるお兄さんもなんなく捌いて、その様がかっこいいねえ。それに楽しそうだ、っていうのは、現場で働いている皆がそろいも揃って元気で、明るくて、実にのびのびとやっているわけですよ。大工っていう仕事のイメージもあるのかも知れませんね。ビル建ててる、大所帯、さっぱりとして気持ちのいい男たちが、仕事にも頑張り、そして遊びにも。みんなでバーベキューやったり鍋やったりする、その様が実に面白そう。仕事がこんなにも楽しいものなら、きっと毎日は素晴らしいものになるに違いあるまい。そんな雰囲気が素敵な漫画です。

そして現場漫画以外の要素、恋愛ものといいますか、ジョーに言い寄る藤木設計士を筆頭に、ちょこちょこと恋愛絡みが出てくるのだけど、いや筆頭じゃねえか、ほとんど藤木設計士絡みですね。でもこれが悲しいほどに相手にされていないというおかしさ。文字通り一蹴されることさえあって、それくらいに報われないのだけど、その報われなさがいい味出していますよ。めげない、しょげない、あきらめない。きざでかっこつけで、ほんとにこんなのいたらきっと鼻持ちならない嫌なやつだろうなあって思うのだけど、それが嫌なやつにならず、それどころか憎めない男に感じられてしまうのは、この作者の持ち味なのでしょう。あるいは、見目麗しい男前女性鉄筋工優さんに圧倒的に負けてるからか? いずれにせよ、恋愛要素多少持ち込んでのどたばたがあっても、そればかりに偏らず、本筋のよさ、面白さを離れません。

こんな風に恋愛の要素や、さらにいえば家族ものの要素なんかもある漫画なんだけれど、欲張りって感じはまったくありません。あくまでも軸となるのはジョーであり、ジョーの仕事の現場であるのです。それ以外の要素は彩りにして潤い。ちょっと彩り多めのような感じもするけど、面白いから問題なし。そう思えるのは、ジョーを取り巻く面々、もろもろ、職人たちや彼らの醸し出す雰囲気がしっかりと描かれている、すなわち軸がしっかりしているからかと思います。楽しく仕事、そんな感じが伝わってきて、いやあいい漫画だ。気分よく読み終えて、さあ自分も頑張るかあ、気分一新できる、そんな感じがいいのです。

ところで、これってセレクションですよね。正月にジョーの妹である絵里と絵美が振り袖きてる回があったように思うんですよ、確か。もっと家族クローズアップといったような話もあったはずだし……。仕事以外は彩り、潤いといっておいてなんですが、続刊では、そのあたり、家族の風景もたくさん収録されたらいいのにな、なんて思っています。

  • 奈々緒舞流『気分は上々』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月7日金曜日

つくしまっすぐライフ!

 『つくしまっすぐライフ!』、ヒロインなずなはのびのびとして、その健やかさが魅力であるなと思うのです。作者後書きにて曰く、女の子に見えなくなることが多い娘です。背は低め? 飾らないショートカットが少年らしさを感じさせながらも、髪留めや眼鏡といった小物、そしてしぐさの端々に女性の華やかさが感じられます。爽やかだなあ、まるで野に咲いた花のような美しさじゃないか。そんなヒロインが通う女学校。山の上にあるちょっと人里下界と隔絶した世界において繰り広げられる、ちょっと不思議で楽しげな生活。時に恋に似た感情が彩りを添えて、素敵だなあって思う。ええ、いい漫画です。

作者は松田円。『サクラ町さいず』の人でありますね。わりと落ち着いた絵柄。びかびかするような派手さの対極にあるような画風で、なのになぜか目を引いてしまうのは、しっとりとしたはなやぎがあるからじゃないかなと思っています。それこそ表情に、しぐさに、のどかさやほがらかさがあふれるようなところがある。そして憂いや感傷も美しく、いい絵だなあ、いい漫画だなあと思わせられることが度々なのです。

とはいえ、『つくしまっすぐライフ!』は後者の感情や、切ない恋物語といった様子とは縁遠く、そういった要素を楽しみたければ『それだけでうれしい』の刊行を心待ちにするしかなさそうです。なので『つくしまっすぐライフ!』では、前者の要素、快活にして楽しげな様を味わうのがよいのでしょう。なにしろ山の上の女子校、お嬢様学校というような風は皆無で、ちっぽけな人を圧倒する自然の世界、登校下校はサバイバルだ! ってどんな秘境なんだろう。その秘境の学校には個性的な人が集まって、いや人の範疇に含まれないような人もいるのだけど、いずれにせよちょっとずつ普通さからはずれた人たちが、ものすごく普通に学校生活を送っているという、そういうところがおかしくて好きなんですね。

普通さからはずれてるっていえば、自然の景観を壊さないよう着ぐるみ着せられているエージェントとか、もう意味ちっともわからないんだけど、面白いよなあって思って、加えて中に入っている人たちですよ。これが無闇にいい人で、ああいう素朴というか純情っていうか、読んでいてほっこりします。ほらさ、手袋の話とかさ。ベタといえばベタかも知れないんだけど、それでも染みとおってくるような情感があって、ああ綺麗だな、透明だなって思うんです。そして松田円という人は、こういうささやかな気持ちの行き交うところに、ぽつりぽつりと明かり灯すようにして、人の心のいじらしさ、可愛さを照らし出してくれるものだから、私もつい嬉しくなってしまうんです。

引用

2008年3月6日木曜日

ももパン

 私の嶺本八美との出会いは『まーくり・まにっしゅ』にまで遡るのですが、成年指定されていなかったのに実はアダルト向けというこの漫画、出会いの場は昨日紹介の『パソコンのパはぱんつのぱ』を見付けた書店であります。昔の店舗でのことですね。階段上がったところの平積みになんだか明るく元気な表紙を見付けて、どうしようかなと迷って、翌日購入。そうしたら思い掛けないエロ漫画で驚きました、といったような話なのであります。けどそれで嶺本八美という名前を決定的に覚えてしまったのだから、それはつまり気に入ったということなのでしょう。そんなわけで、積極的にではないけれど出くわせば買う、そんな買い方をしている中から、『ももパン』を取り上げようと思います。

一応、ここ数日続いている、ぱんつ絡みでの更新の一環です。けど、そんなにぱんつ比率が高いわけではないかも知れません。いや、どうなんだろう。

この漫画には表題作といえるものはなく、収録作から少しずつ言葉をいただいて書名にしています。つまり、ももとパンにわけられるのですが、これがあまりぱんつ比率の高い漫画であると思われないのは、前者のもも、「ももくらべ」というシリーズは重度の尻フェチが主人公で、だから副次的にぱんつは出てくるけれど、中心にくるものではちょっとない。じゃあ後者のパンはどうかというと、どうなんでしょうね。一応「シーキング・ザ・ぱんつ」という短編も収録されていて、それはタイトルにもあるようにぱんつ漫画なんだろうけど、あんまりそういう感じはない。むしろ馬鹿漫画? 新兵器の設計図を暗号化しパンツの柄に隠した、という微妙におかしな前提からはじまる漫画で、仮面ライダー系というか、昔ヒーローもののパロディという形態であるから、絶対シリアスにはならない。間違いなくエロ漫画であり、そういうシーンもかなり書き込まれているのだけれども、ネタ度が高いから、エロ漫画としての機能はかなり後退してしまっている、そういう趣のある漫画です。

この漫画は読みきりを数編はさんで、前半に「ももくらべ」、後半に「ブルマー校長」のシリーズを配して、けど後半にいくほどネタ度は上がっていって、エロ漫画なんだけれど、エロ漫画という風は薄い。むしろ馬鹿漫画、馬鹿なギャグの光るエロ含みコメディって感じで、エロを期待して買うとがっかり度は高いかも知れません。なにしろ、「ブルマー校長対ももくらべ」だものな。っていうような感じで、嶺本八美のエロ漫画以外の持ち味も見られて、私としてはちょっと嬉しかった。というか、四コマが面白くてよかったなと、そんな風に思っています。「えーっと、まだできてないです…」と「たたかえ! 格闘少女北野海」ですね。前者はエロ漫画を描く女性漫画家が主役、後者は相撲強者である女の子が主人公で、それぞれに程々にエロまじりで、けれどネタとしても面白い。続いてくれたらきっと追って読みたいと思ったろう、そういう確かな感触がありました。

以上、エロ漫画だけど巻末に向かうにしたがってネタがエロを押さえてしまうという、不思議な漫画についてでありました。なおエロの傾向としましては、私には下着やブルマに対する傾きがなく、尻に対する執着もないため、非常に嗜好からはずれた漫画であったというほかありません。それでも折りに読んでしまうのは、これを描いたのが嶺本八美だからだろうなあ、実際そうだろうと思います。

  • 嶺本八美『ももパン』(マンサンコミックス) 東京:実業之日本社,2005年。

2008年3月5日水曜日

パソコンのパはぱんつのぱ

 ぱんつ特集というわけでもありませんが、今日は『パソコンのパはぱんつのぱ』を取り上げてみようかと思います。行き付けの書店に用意された試し読みの一冊、凝った表紙、カバーに興味を引かれて手にして、読んで、あら割りといい感じ、買ってしまった。私には実によくあるパターンであります。表題作、『パソコンのパはぱんつのぱ』は、高校生の男子二人の、ちょっとドキドキのストーリーなのですが、いやあ、なんといいますか、あの髪留めのシーンなんて、最高じゃないかと思ったりして。って、私は一体なにをいっているのでしょう。男同士の恋愛ものにこうもエキサイトしてしまうとは! でも、まあ、わきまえたうえで楽しんでいるから大丈夫。大丈夫なんだと思いますよ。

恋愛ものにもいろいろあれど、中でもBLものに特異な要素があるといえば、それはやはり恋愛感情を認めるまでの、あるいはさらにその先の、感情を行為に移そうとする時のハードル、その高さにあるのではないかと思っています。

同性愛は認められつつもあるとはいえ、いまだマイノリティにとどまっています。異性愛をさしてノーマルと表現されるような社会において、いつの間にか男を好きになっている自分に気付いた時に、ちょっと待て、俺! そう思うのはある意味当たり前であろうかと思います。それに、自分が男を愛してしまったという事実を受け入れたとしてもですよ、相手がそんな自分を受け入れてくれるかどうかはわからない。いや、ほば100パーセントあり得ないんじゃないか、そう思ってしまうわけですよ。ただでさえ切ない片思いがなおさら切なさを増しますわな。そこで、俺、気持ち悪かったよな、ごめんな、なんて引き下がられてしまったら、もうどうしたらいいかわからんようになってしまいますわな。

『パソコンのパはぱんつのぱ』は、そうした切なさが全開になってしまうタイプの漫画でありまして、なので私はもうどうしたらいいかわかりません。今まで隠し続けていた気持ちを相手にぶつけてしまって、しかしそれがために距離を置かれてしまった。拒絶ですよ、拒絶! けど、拒絶された側にも、拒絶するかたちになってしまった側にも、言い知れないわだかまり、心のうずきが残ってしまって……。よかったというのは、それからのくだりでありました。

小道具としての髪留め、そしてパソコン。直接的に愛を語ることは極力避けて、けどこれはふたりともハードルを越えちまったなあ、それがわかるようになっているのです。

友情と愛情のあいだでとまどっている二人の思い。お互い、得難い友人を失いたくないと思っているから、気持ちを抑え退こうとした、これは友情なんだと思い込もうとした。そうした感情が切々とうったえましてね、だって、好きという気持ちを抑える、なかったことにしたいだなんて、やっぱり悲しいじゃないですか。君らは本当にそれでいいのかと思う、ふたりの思いはこのまますれ違い続けるのか、やきもきしながら読んでいるから、本心ではそれ以上を期待してしまっているのかも知れない自分に気付く描写が胸を締めつけるのです。ああ、踏み出せよ、いや踏み出そうにももうそのチャンスがないのか……、そう思ったところに届けられる、たどたどしくつづられたお礼の言葉 — 。

ああ、なんだろう、泣きそうじゃないか。あそこでたどたどしさ持ってくるのはずるいと思いました。けど、ずるくても綺麗だなあって思う。真摯な言葉、そこには感謝と愛情と、そしてなによりその言葉を受けとるものへの思いやりがあって、特に一番最後の一文。あれが効きました、効きましたね。そして、その言葉を受け取った側、彼の表情が、そして返信の強気装った言葉がすべてを物語って、というか、お前ら可愛すぎだ!

高いハードルを乗り越えようという時には大きなエネルギーが要求される、だからこそBL/MLものにはヘテロの恋愛を描こうとするよりも大きな感情の波立ちが生まれるのではないかなと、少なくとも読む側の感情に、やった、越えた! という感情が生まれるのではないかと思っています。もちろん、流れるようなスムーズさで男性同士で好意を持って行為に及ぶというようなのもあるから、一概にいえないことはわかっています。でも、私がこの話はいい、好きだと感じる場合、どこかに抵抗がある、そしてその抵抗を越える瞬間があると感じています。仮に男性同士の恋愛がタブーであるというのなら、俺のお前への愛は、タブーなんかに屈しないほど強いんだというような、まさに突破としか表現しようのないような感触です。

BL/MLを読む女性が、こうした愛の強さの証明される様にカタルシスを感じているかどうかはわかりませんが、私にとってはその感触を得たいからBL/MLを読んでいるといっていいと思います。それはあるいは、そういう愛し愛され方をしたいっていうことかも知れませんね。あ、いや、男同士っていうわけではなくて、男女のあいだにおいても、そうした強い愛の確証が欲しいと思っているということだと思います。

2008年3月4日火曜日

まいっちんぐマチコ先生

 今から考えても、奇跡のような番組だと思うのです。『まいっちんぐマチコ先生』。私がこれを見たのは、おそらくは再放送であったかと思うのですが、KBS京都かあるいはテレビ大阪か、最低でも三度は見てるから、多分どちらでもやってたんだと思います。いやしかし、子供のころ異様に厳格だった私が、なぜ例外的に『まいっちんぐマチコ先生』だけは許可していたんだろうと、そちらの方が不思議です。学研だからか? 『まいっちんぐマチコ先生』、製作は学習研究社でした。一体なにを研究してるんだ、っていうのは今やどうでもいいことで、むしろこうした番組が成立していた事実、その方がずっと重要です。

時代がおおらかだったんでしょうね、としかいいようがないと思うのですが、今のテレビアニメって、特にテレビ東京ですか? 自主規制が結構厳しいとかいう話を聞きますが、たとえばパンツが見えると駄目なんでしたっけ。だからあえてパンツを描かなかったアニメがあって、そのやり方の鮮やかさというか、脱法的手法がために大いに評価されたとか聞き及んでいます。

それはさて、そのテレビ東京は八十年代当初には『マチコ先生』を製作放送していましたとさという話。その頃には規制らしい規制はなかったのか、パンチラは普通、ボインタッチと称する痴漢行為頻発、ありとあらゆる手段を講じ、男子はマチコ先生にセクハラ行為をおこなって、さらには教師も加担する始末。そんな男子に対抗し、女子は徒党組んでマチコ先生を守ろうとするも、返り討ちにあって一緒にセクハラ行為の餌食となってしまうのでありました。だいたいこういう話が毎週繰り返されていたわけです。

あらためて文章にしてみると、本当ありえないな!

しかし、これが普通に放送されて、セクハラ行為もスカートめくりだとかボインタッチにとどまらず、服を脱がすだとかそういうレベルにまでエスカレートして、まあキャラクターがあのコメディタッチですから、そんなには生々しくはないんですが、 — いや、そうだったかな。なにしろ今よりもずっと裸を目にするためのハードルが高かった時代だから、いや、そうかな? ごめん正直よくわからない。もちろん今よりもそういう事物へのアクセス性は低かったんだろうけど、でも普通に地上波で裸の出てくる番組はあったはずだし、猥雑というか、エログロナンセンスというか、そういうテイストに関しては、この頃の方が今よりもずっと過激だったような気がします。ゾーニングによって、地上波という子供にもアクセス可能な媒体からそういうものは消えていったわけです。そしてそうしたゾーニングがおこなわれるきっかけのひとつとして、『まいっちんぐマチコ先生』は間違いなく数えることのできるタイトルであろうかと思います。

けれどそれは、それだけマチコ先生の影響力が大きかったという証拠でもあると思うのですね。だって私だって見ていた。知っていた。自分の仲間内にも見ているというものはたくさんあって、なかには親に禁止されているからこっそり隠れて見ているのだというものまであった始末で、そう考えるとうちは奔放だったな。親も一緒になって見ていたからなあ。そんな具合だったものだから、ああした行為はいけないことなのだと、変な偏見を持つことなく大きくなることができて、 — いや、おかしなこと書いてるな。ああした行為はいけないことですよ?

けど、私はスカートめくりとかまったくしたことのない、そういう少年だったわけで、いや、これが当たり前といわれたら実にその通りなんですが、人によってはスカートめくりは普通にあったとかいいますから、一体なにが普通であるかなんてわからないんですが、まあスカートめくりを男子はするのが普通とここではしといてください。そうした行為に及ばなかった私にとって、マチコ先生のアニメは、普通の小学生がたどる道を仮想的に歩ませてくれる、そんな教育的側面を持っていたと思うのですね。ああ、教育っていいきっちゃったよ。今日はもう駄目だな。

でも、楽しいアニメでした。もちろん大嫌い、こんなの許せないっていう人もいるだろうけど、これを楽しみに見ていたという人にとって、あっけらかんとして明け透けで、すべての(性的)いたずらがまいっちんぐ!の一言で許されてしまうあの漫画は、自分たちの暮らしている世界とは違う、ワンダーランドとしての魅力があったのだと思います。だって、少なくとも私のまわりには、あれを真に受けてボインタッチだとかに及ぶの皆無でしたから。子供だって、フィクションはフィクションとして楽しんでいたんだっていう、そんな話なのかも知れません。わきまえたうえで楽しむ、そうした良識が支えていたアニメなのかも知れないって話です。

2008年3月3日月曜日

魔法の呪文を唱えたら

 さすが学研、ぱんつに関してはオーソリティだぜ。なんだかいきなり意味わからんこと言い出していますが、私らの世代で学研というと、第一に学習科学が思い出されて、じゃあ次はとなりますと『まいっちんぐマチコ先生』なんじゃないのかなあと思いまして。マチコ先生は漫画もアニメも学研だったんですが、今でいえば学級崩壊というか、まさにセクハラオンパレードの展開でありました(アニメの歌は今でも歌えます)。さて、なんでこんなこと話してるのかといいますと、今日書店にて見付けた『魔法の呪文を唱えたら』の惹句がめちゃくちゃで、オビの下はぱんつ。わお、オビの下はぱんつか! いや、これに引かれて買ったわけじゃないですよ。買ったのは作者が鬼八頭かかしだったからです。

オビの下は本当にぱんつでした。

じゃなくて。タイトルに『魔法の呪文を唱えたら』とあるとおり、魔法もの漫画であるのですが、鬼八頭かかしらしいちょっとエロ絡み、具体的にはぱんつとかぱんつとかぱんつなんですが、けれど本格的に変態的な展開にはならないコメディが楽しい漫画です。けれどこれ、ナンセンスなコメディタッチの裏側に、世界やら魔法やらに関する設定がびっちり詰め込まれていて、いやはやすごい。きっとこういうの、やらないでは気が済まないタイプの人なんだろうなあ、だなんて思うのは、どう見てもコメディ一直線に見える『雅さんちの戦闘事情』もそんな感じだからなんですね。

方や人類の存亡を賭けた戦い、方や魔道学園において魔道を学ぼうとする女学生たちの日常を描いて、どちらもなんだかほのぼのです? いやね、これもこの人の特性だと思うのですが、シリアスよりもコミカル、あまり深刻に物事を描くのではなくて、とにかく楽しくやりましょうとでもいいたげな雰囲気が支配的で、そうした風が肌に合うならきっとこの漫画も買いなんだと思うのです。実際この漫画も、魔法やら各種設定についてはびしばし欄外に註釈いれながらも、基本はかわいい女の子たちのちょっとずれた日常ですし、それこそ設定やら追うのはやめて、ちょいセクハラ交じりコメディ楽しむだけでもいける、そんな漫画であろうかと思います。

ただ、そのずれ方というのが鬼八頭かかしらしさにあふれているから、人によってはちょっとと思うこともあるかも知れません。実際私も最初の頃は、この人ののりについていきにくいなと感じることがあったのですが、でもなれればなんということもなく普通に楽しめる、むしろこののりだから楽しいと思えるところがあるのだと思うのですね。

つまるところ、人を選ぶ漫画かも知れないなということは、選ばれた人にとってはきっとはずれのない漫画であるということなのでしょう。ええ、私はもう大丈夫、というか、知らず知らずしっかり選ばれてしまっていた口であるようで、だから『魔法の呪文を唱えたら』も面白かったです。

引用

2008年3月2日日曜日

トリコロ MW-1056

 もし青野が看病にきてくれるというのなら、風邪をひくのも悪くないかも知れませんが、現実にそんな夢のような話なんてあるわけないのですから、今晩から明日にかけて、私はひとりで闘病です。いやね、インフルエンザにかかっていまして、まだ熱は出ていないのですが、そろそろ頭がくらくらしてきまして、こりゃもう確定だなあって、そんなちょい絶望気分なんです。けどそんな絶望の明日が確実であったとしても、潦が看病にきてくれるというのなら耐えられる。いや、だからそんなことはあり得ないのであって……、すいません、ちょっとくじけそうです。

メディアワークスから『トリコロ』特装版が出て、買って、読んで、久しぶりに『トリコロ』に触れたという感じがします。『トリコロ』が『きらら』を去って、『電撃大王』に電撃移籍。それからはまったく関わりを失ってきた私であったのですが、去る者は日日に疎しなんて故事成語などなんのその、こうして久しぶりに触れれば、過ぎた時は一瞬に縮まって、ああこの感じが好きなのだ、今という時間にぴたりと繋がって動き出した『トリコロ』の世界に、やっぱりよいなあと思ってしまうのであります。

『トリコロ MW-1056』、メディアワークス版『トリコロ』1巻には芳文社時代のものとそして移籍後の『トリコロ』が収録されていて、正直読むまでは不安もないではなかったのです。たとえば表紙の雰囲気とかね、あんまりに以前のものと違うと感じたものですから。ところが読めばそうした不安なんてものはきれいに払拭されて、やっぱり面白いものは面白い。物語られるものは日常と、事件とはいえないくらいのプラスアルファ。それがこんなにも面白くアレンジされてしまうというのは、やはり細部への着目と、それを全体に広げようとする練り上げのためであろうと思うのです。細かな部分への執着だけでは、きっとこれほどに読ませるものにはならないでしょう。また大きな流れを追わせるだけでは、キャラクターの個性に頼った大味なものになったかも知れません。

しかし海藍の手はその両者に伸ばされているのですね。細部は、全体そしてキャラクターを説得力持って支える力となっているし、大きな流れは、細部に支えられることによってより力を増して、あの長織という街のある世界に現実味を与え、ならばそこに暮らす八重たちにしても同じこと、ああ私の暮らしているこの世界の延長に彼女らの世界もあるのかも知れないと思わせてくれるのですね。それこそ手紙でも出せば届くのではないかと思えるほどに — 。

細部への耽溺、時に入り組んで組み立てられた筋立ては、わかりにくさにも繋がり、実際何度読んでもわからない、自信を持って解釈を確定させられずもやもやすることもしばしばですが、けれどそうした分を差し引いても面白さの方がはるかに大きく、そして時に物語られる情感の大きさに引き込まれるようにして、ほらたとえばあの飛行船の話、物語らないことによって物語るという妙、白眉でしたね。描かれんとする情感の大きさ、それがいいなと思うのです。そこには彼女らの喜び、驚き、感動などなど、さざめく心の動きがあって、そしてそれがたまらないのですね。

  • 海藍『トリコロ MW-1056』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2008年;特装版,2008年。
  • 海藍『トリコロ』第1巻 (まんがタイムきららコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 海藍『トリコロ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 海藍『トリコロプレミアム』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。

CD

2008年3月1日土曜日

コミックスイメージアルバム「トリコロ」

 よくできたアルバムであるとは聞いていたのです。でも正直ここまでとは思いませんでした。漫画『トリコロ』のイメージアルバム。『全作業“海藍”』がひとつの売りでもあったこのアルバムですが、海藍の手によらない部分、音楽、歌までもがこぞって、『トリコロ』という世界を作り上げることに貢献していると感じられます。一曲目『あじさい』の引き込む力、これからして実に半端ではなく、雨の季節、陰鬱として薄暗く、立ちこめる雨の匂いの濃厚さ。これから物語が繰り広げられようとする舞台が、目の前なんてレベルでなく、今この身の回りを取り囲もうというかのようにさっと広がるのですね。そして、場面が切り替わる時、私たちは現実の地平を離れて長織の街にある — 。物語が始まります。

もっと早く買っててもよかったかな、というのは私はこのアルバムを特装版入手が確定してから発注したのですね。2004年当時、ファンブックどころか英語版まで買おうとした私なのに、CDに手を出すのを躊躇したのは、正直きりがないと思ったからで、『トリコロ』の広がり、そしてKRレーベルのマルチメディア展開を考えると、どこかで一線を引いておきたかったのです。作者の手によるもの以外は手を出さない、そう決めて、だから絵や漫画は買っても、CDやアニメ、ノベライズの類いは黙殺しようと。けど、このアルバムに関してはミスジャッジだったな、今心の底からそう思っています。

つまりはそれくらいに作者の手の跡が感じられる出来であったというのですね。ドラマ部分に関してもそう。確か、これってミリセコンド単位で作者がキューを出しただかどうだかしたという伝説があったように記憶していますが、声優的マニアック世界に突入することなく、漫画の雰囲気を維持し、かつ広げることに成功していると思えるのですね。はじめて聞いた時には多少の違和感を感じたりはありました。ですが、三度目にはまったくそうした違和感は払拭されていて、きれいに重なり合った、あるいは私が完全に引き込まれてしまったというのでしょう。それまで違う質感で読まれていた八重たちの台詞は、まるっきりドラマの印象に上書きされてしまって、それまで私はどのように彼女らの声を読んでいたのだろう。思い出せないくらいに、アルバムの印象が支配的となったのです。

語られるストーリー、これもさすがに原作者の脚本というべきなのでしょう。見事に『トリコロ』の世界であって、聞いていて実に自然であるのです。BGMのない、会話により進行していく世界。短いスパンで落ちがあるのは四コマというスタイル由来なのか、しかし普段の四コマでは語られないストーリーがありました。やはりこれはオーディオドラマという形式があってのものだと思います。そしてその形式の違いが物語の可能性を広げて、いつもとは違った切り取られ方で語られる『トリコロ』の世界が実現したのでしょう。

これを大変に素晴らしいものだったと思うのは、私がファンだからなのかも知れませんね。確かに、これは海藍の『トリコロ』を知っている人、そして好きだという人のためのアルバムであると思います。ですが、そうした狭い世界に押し込んでしまうには惜しいものがある。そういう魅力があると思うのは、はたしてファンの欲目であるのでしょうか。

ところで、指三本でも持てる骨がアルミの折り畳み傘など、こうした小物への傾き、さすがですね。きっと現実に存在する商品なんだろう、それこそ型番指定して買えるくらいのレベルで、詳細に決められてるのだろうと思います。そしてその異常ともいえる緻密さ綿密さ、それが海藍のドラマ — 、四コマ、オーディオドラマといった形式を問わず、 — の雰囲気を決定する一要因になっているのだろうと思うのですね。

  • 海藍『トリコロMW-1056』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2008年;特装版,2008年。
  • 海藍『トリコロ』第1巻 (まんがタイムきららコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 海藍『トリコロ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 海藍『トリコロプレミアム』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。