2022年6月13日月曜日

犬王

 このあいだ映画を見にいきまして、『犬王』と『シン・ウルトラマン』と『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』の3本。結構ネタバレも食らっていたのが『シン・マン』。ネタバレもへったくれもない『ククルス・ドアンの島』。そして、アニメ『平家物語』の後の時代を描いたことしか知らない『犬王』。期待していたのは『犬王』でした。そして見届けた今いえるのは……、『犬王』、もう一度見たい……。それこそ薬物依存の悪循環のイラストみたく、『犬王』のことしか考えられなくなります→早く『犬王』を! 苦しい! みたいな状況になってしまっています。

正直、あんなアニメだなんて思っていませんでした。湯浅政明監督作品だから、きっと面白いに違いない。少なくとも、なにかしら残るものがあるという信頼感でもって見にいったわけですが、ええーっ!? 話が違う。こんなにも、こんなにも引き込んでくる映画だなんて思ってなかった。しかも、犬王すなわち道阿弥を主役にした映画だというのに、奏で歌われる音楽は……、ロック!? な、なんじゃこりゃあ! で、でも、心が捕われてしまってしかたがないんです。もう、前のめりになって食い入るように見た映画とかどれくらいぶりだろう。座席に身を委ねて、なんて気持ちでなんていられなかった。

いやもう、ものすごい体験でした。

しかし時は室町、猿楽の名手犬王のパフォーマンス、芸でもっての成り上がりを描いて見せるにあたって、ロックをその表現の手段とするとは! たまげました。ええーっ、こんなのあり!? って気持ちもあり、その楽器でその音は出ないだろう! って思いもあり。でもどうしても気持ちは浮き立たずにはおられなかった。細かい平仄よりも、考証にもとづく正確な描写よりも、当時、室町に暮らした人たちが熱狂した犬王を今この時代に物語るには、この思い切りがきっと必要だった。

たとえ、当時の猿楽をリアルに取り上げ、それに夢中になる室町人を説得力持って描いたとしても、その熱狂の渦に今の時代の私たちを巻き込み、飲み込んでいくことはできなかったのではないか。彼らと一緒に犬王、そして友有のパフォーマンスに魅入られていく、そうした体験をこそさせるという点において、本当の本当に大正解といえる演出だったと今でも思っています。

あまりにも鮮烈に、あまりにも華々しく燃え盛ったふたりとともに室町の世を駆け抜けた時間。その思いこそがリアルを超えて本物そのものだったから、今なお心のうちにくすぶる熱は消えずにいるのです。

犬王の造形も印象的でした。そういや、誰かが明るい『どろろ』だみたいなこといってました。

ええと、ちょっとネタバレ気にする人はここで読むのやめて映画館にいってきてください。

異形として生まれた犬王。彼が猿楽にのめり込み、成果をあげるごとに体の部分を取り戻していくという筋立ては、芸能が、歌や踊りといった表現が、人を不自由から解き放ち、本来の自分を取り戻させる、そうしたことを思わせてくれたのでした。この解釈が作者の意図どおりかどうかはわかりません。ですが人とは異なる姿を持ち、社会から省みられることのなかった幼少の犬王。彼にとって芸能とは、他ならぬ自分になるための営為であって、成り上がりはむしろその副産物だったのだろうなあ。

そして犬王の相棒であった友有。権力者の思惑に巻き込まれ視力を失った友魚が、琵琶でもって成り上がっていく過程で名を友魚から友一、友有へと変えていくのは、彼の境遇の変化をこそ物語るのかも知れないけれど、また再び彼の大切なものが権力者の思惑により奪われてしまうとなった時に、彼は琵琶を、音楽を手放そうとはしなかった。友有という名を、またその命をも捨てることとなっても音楽に殉じた彼は、友魚という本来の彼自身へと立ち返ることを、また犬王とともにあった時間、ふたりで育んできたものを選んだのかなあと。

そして、ものの見事にあっさりと自身の歌を捨てた犬王。それは権力におもねったのではなく、芸能を通して取り戻した美丈夫としての自分に対するこだわりのなさ。友魚とともに歩みはじめたあの時の自分の姿を決して卑下することのない、そんな視線が感じられ、彼もまた得たものよりも、本来のスタート地点、音楽に、芸能により結びつけられた、あの頃の自分と友魚の関係こそあればいいと思っていたのだろうか、などと思わされたのでした。

11日から日本語字幕版が上映されているそうです。機会があれば、また見られればよいなあと思っています。何度でも、あの映画に触れるその度に、犬王は、友魚は蘇り、その生を高らかに歌い上げる! そう思わせる力に溢れた映画です。

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