2006年11月30日木曜日

SONY GPSユニット GPS-CS1K

 企業には大きく分ければ二種類あると思うのです。イノベーションマインドの有無がその評価の分かれ目であると思うのですが、新技術を、あるいは既存の技術を思いもしないかたちで応用することで、これまで思いもしなかったことを現実のものにする。それができる企業あるいは個人はすごいなと私は思います。例えば、AppleなんてのはiPodでもって、音楽を聴くというスタイルを変化させてしまって、けれど忘れちゃならない。この変化の第一歩は日本のSonyが先鞭をつけたのでした。Walkmanですよ。で、そのSonyがなんか面白いものをリリースして、ちょっと興味ありありです。それはなにかというと、携帯GPSユニット。今自分のいる位置情報を取得してくれる、そういうガジェットです。

GPS使って、自分の居場所を緯度経度で記録して、一体なにになるっていうんだろう。そう、これ単体ではそう思うのも無理ないと思います。つまりこれは別のものと連携する目的で作られている。そして連携するものといえば、写真です。

flickrという写真共有サイトがありますが、ここが、夏ごろにGeotagという位置情報タグに対応、写真を地図に重ねて表示できるようになっています。けど、それ以前にアルプスがflickrの写真を地図と連動させるサービスを開始しています。私はこのアルプスのサービスを知ったときに、試みとしては面白いけど、緯度経度を調べるのは正直骨だと思って(占星術の関係で自分の生誕地の緯度経度を調べたことがあるんですが、ありゃ面倒くさいよ)、これが盛り上がるためには緯度経度の取得を簡単にできるような、そんな仕組みがないと駄目だと思ったものでした。

はい、これで私のいわんところが読めたんではないかと思います。そうです。GPS-CS1Kで取得しておいた位置情報をもって写真と地図の連携を図りましょうという話ですよ。私はGPS-CS1Kを『日経パソコン』の記事で知って、面白いのが出てきたなあと感心したのです。それで、これがSonyから出てきたと知って、ちょっと嬉しくなった。だって、私もSonyにはイノベーションでもって勝負して欲しいと思っている一人ですから。知財の囲い込みもいいですが、そういうのじゃなくて、わあ、こんなのできると面白そう、こんなのやりたいと思ってたんだ、なんて思わせてくれるそんな企業であって欲しいじゃないですか。だからGPS-CS1Kには感心しました。これ、まさしくソリューションってやつだと思います。

現状では、まだこうしたアイテムが普及するにはいたらず、よって便利に連携させるためのツール群も整備されていないと、そういう状況ではありますが、いずれ整備されたら面白いんじゃないかなあと思うんです。調べたところによると、GPS-CS1K付属のソフトGPS Image Trackerが写真にExif情報として追加してくれる緯度経度を利用できるのは、同じく付属ソフトであるSuper Mapple Digital Ver.7 for SonyとGoogle Picasaくらいみたいですが、将来的には増えてくるだろうし、もしかしたらflickrにアップロードした写真にGeotagを追加してくれるようなソフトも出てくるかも知れない。そうなったら面白そうだなあ。そんな風に思うのです。

でも、現時点では移動体や地下、屋内での位置情報取得には難があるらしいので、まあでもこのへんは仕方ないのかも知れません。でも理想は、どんな状況でも情報をしっかり取得してくれて、後でがっさりと情報を追加できるという、そんなフロー。いや、さすがに日常の写真全部に位置情報つける必要はないと思うのですが、例えば旅先で撮った写真であるとかに位置情報がついたら、さぞ面白いんじゃないかと思います。もっとこういう機能が発展してくれたら面白いことになりそうだぞ、なんて思っています。

参考

2006年11月29日水曜日

コンプレックス

   帯に載せられた栗本薫のあおりラストでは必ず泣きますに、よくも悪くも興味をそそられて、楽しみにしていたまんだ林檎の『コンプレックス』第3巻を買いました。そして読みました。で、帯の惹句に対する感想をば。このあおりには乗っちゃいけないと思います。いや、個人的な感想ですからどのように書いてあっても文句はいえないとは思うんですが、なにしろ私のこのBlogからしても、なんだよ、そんな感想にはならなかったぜ、いいかげんなこといってんじゃないよ、という意見もあるでしょうしね。だから栗本薫のあおりにしても、そういう感想があってもいいとは思います。でも、私はそうは思わなかった。少なくとも、やけにクローズアップされているラストでは必ず泣きますは違うと思ったのでした。

なぜなら、私は泣くよりもむしろ自省をともに深く感じ入ってしまったからです。そしてここで再び栗本薫の惹句を引用。

優しくて深い,傷を抱いて生きる人々が素敵です。ヤオイもBLも越えた愛のかたちに,ラストでは必ず泣きます。

このあおりにおいて重要なのは、ヤオイもBLも越えた愛のかたちという部分であろうかと思います。おそらくこの話がスタートしたときには、こういう展開をするだなんて誰も思っていなかったんじゃないかと思うのです。ですが、こうしてすべての話が揃ってみれば、これは間違いなく本質的な愛のかたちを描こうとした試みであったと、そのように思えてきます。

私が深く感じ入ったというのは、紆余曲折を経てお互いの愛を確認しあった達也と淳一の晩年におけるあり方。静かで穏やかであり、しかしそれはただ凪いでいるだけのものではなく、なお情熱もあらば広がりを見せ強靱で、深みが動揺を寄せ付けず凪いでいるかに見せるというものなのでしょう。まさしく人生の伴侶というにふさわしいあり方を、揺るぎない説得力でもって提示しえた。これは泣くというようなものではない。もっと、もっと、違う、大きななにかなのです。

以前、この漫画で書いたときに触れた、息子の代の恋愛模様。これがあったことで、この物語の深さがより増したのだと思います。愛というものを模索し確認するような手続きが、真摯に丁寧に物語られることで、もうひとつの愛のあり方も掘り下げられ、深みを増したとそのように思うのです。私はこの一連の愛の物語を見て、読んで、自分がそうしたものから隔絶されているという不幸を思いました。愛されない不幸ではなく、愛さない不幸について、愛に歩み寄ろうとしない不幸について思ったのです。私は異性愛者ですが(多分)、そうした表現のあり方の違いを問わず、胸の奥、心の底にまで届く強さのある漫画でありました。涙を浮かべながらも、泣くなどというありきたりの表現ですますことのできない、そうした大きさを持つ漫画であったと思います。

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1996年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1998年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2000年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第4巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2002年。

引用

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (東京:朝日ソノラマ,2006年),帯。

2006年11月28日火曜日

ダーティペア 謀略の005便

 ダーティペアOVAシリーズでテンションを大いに下げてしまった私にとって、最後の希望といえるもの、それは『謀略の005便』でありました。ジャケット裏を見ればオリジナルスタッフが再結集と謳われており、総決算であるらしい。ううん、ちょっと不安かも。というのは、こういう原点回帰を売りにしようというパターンは、もうそのものが衰退期に入ってしまった時に、爛熟を過ぎ、消え逝こうとしていく時期に現れることが多いような気がする。そういう学習をしてしまっているからです。ですが、私は見て思ったのです。確かにこれはこれまでの『ダーティペア』を総括しうる力を持ったものでした。面白かった。ちっとも終わりなんかじゃない。本当に面白かったと思います。

ストーリーはというと努めてシリアス。絵柄がずいぶんとアニメっぽくなっているため、むしろ戸惑いを感じてしまうくらいにハードな内容で、そのチャレンジぶりは見るものに挑戦するがごとくです。まさしくSF・ミステリーの系譜にあるアニメであると実感しました。無茶はせず、丁寧に、しかし状況の許す限りのダイナミズムを追求していることがわかる。よく視聴者を翻弄し、予想を裏切りつつ期待には応え、最後までぐうっと引っ張っていこうとする意志が感じられます。完全無欠かといわれると、さすがにそこまではいいませんが、けれどエンターテイメントとしては充分以上の出来であったと思います。私はこれを見てすうっと溜飲を下げて、けれどかわりにずいぶんと切なくなりました。これで一連の『ダーティペア』連続視聴、いうならばお祭りともいえるような時間が終わってしまったということに加え、ストーリーのシビアさに揺さぶられてのダブルパンチであります。

『謀略の005便』、アイデアとしては、正直なところをいうと、あまり新鮮とは感じられませんでした。私は事前に読んだ惹句に、そして冒頭の流れからも、ずっと既視感に似たものを感じ続けていて、それは有り体にいえばTVシリーズ「うっそー!消えた463人?」及び「やったね!出てきた463人」です。この話と使われたトリック、それがずっと頭の中にあって、だから少し意地悪な視聴者だったかも知れません。TVシリーズで問題にされた部分がどう扱われるか、また逆にTVシリーズで無理したと思われる部分をどう処理するか、そういうことを考え続けていて、またあのトリックとは違う可能性も考えて、ずいぶんと忙しく頭を働かせながら見ていました。

このモチーフの似通っているのを見て、残念と思う気持ちもあり、けれど逆に、あの話を違うように取り扱って膨らませてみたリベンジなのかも知れないと思うところもあり、見終えてみては後者の印象が強いです。そういうところも含めて、『005便』は総括、総決算なのかも知れないと、そんな風にも思ったのです。

モチーフや着想には新鮮味はなかったですが、その分ドラマ、見せ方には力が入っていたと感じられます。そのせいか爽快感は少なめ、ずいぶん重い話になってしまったようにも思いますが、こうした暗さ重さは嫌いではありません。強い印象を残して、ちょっと忘れ難い話であると、そういう感想を持ちました。

小説

2006年11月27日月曜日

ダーティペア(OVAシリーズ)

  連休を創出して、その持てる時間の大半を『ダーティペア』にて費やしたというのは、この数日の記事を見ていただければおわかりのことであろうかと思います。もちろんアニメだけ見ていたというようなことはなく、他の日課もそれなりにこなしてはいたのですが、でもさすがに体はなまったようです。今日、久々に仕事に出たら、つらいつらい。朝、通勤の車内ですでに疲労が色濃く、仕事はやるにはやりますが、なにぶんふらふら。なので、疲れてしまっているので、今日も『ダーティペア』で書いてしまおうと思います。ただ、今日はOVAシリーズについて。ほら、昨日いっていた、正直これはあんまりだと思ったOVAシリーズについてです。

でも、OVAシリーズについてがっかりだみたいにいっていますが、全部の話が悪いと思っているわけではないのです。OVA第1話なんかは、ちょっとTVシリーズではなかったような雰囲気を出して、この先どうなるんだろうとわくわくさせる出来であったのは確かです。往年の名画007シリーズを彷彿させるような新兵器を開発する博士があって、これまでほとんど描かれてこなかったWWWA内部での人間関係みたいなものも描かれそうな雰囲気もあって(これは第2話が顕著ですね)、ほー、OVAシリーズはこういう和気藹藹としたアットホーム感でいくのかなー、こういうのも面白そうだなあなんて思ったんです。それになにより、第1話の敵地への降下シーンなんかは、素直に面白いと思えたものです。こういう、なんかちょっとしたアイデアというのが毎回出るんだったら楽しそうだなあ、そんな風に思ったんです。

でもさあ、後がいけないよ。正直、ダーティペアがプロレスやってる絵を出したかっただけじゃないのとか、最近の親子関係うんぬんについてコメントするような台詞しゃべらせたかっただけじゃないのとか、そういう着想だけみたいな話が気になったんです。

着想というのは、創作においては種子にあたるような大切な要素であると私は思っています。着想があり、そしてその着想をかたちにする段階で、幹ができ、枝葉が育ち、それらあってこそ花も実もつけようというものです。種子から草木を大きく健やかに育てる、よりよく作品を作るということは、そういう園芸に似た手間や努力が必要であると思っています。

作品がよい花、実をつけるには、種子だけでは不充分です。それがどんなによい種であったとしても、痩せた土地にそのままに放置されているようでは枯死してしまいかねません。よい土壌に植え、手をかけて育てるからこそよい作品になるんじゃないのかね。こんな、今更私がいわなくても誰もが知っているようなことを、私は今更ながらに思ったのです。あまりに荒っぽい筋立て、横着としかいいようのない話の運びに、私はげんなりと退屈して、正直早送りして二倍速三倍速で見たいと思ったのは、『ダーティペア』では初めてでした。

OVAシリーズで気になったのはもう一点あって、それは作り手のバックグラウンドがすでに違っているんじゃないかということでした。TVシリーズなんかは、SFやミステリーを知ったスタッフがその素養でもって作ったという感じがするのですが、OVAシリーズはというとそうした素地が感じられず、いうならば既存のアニメの枠の中で作ったと、そんな風なのです。過去の作り手が試行錯誤の中で作り上げてきた蓄積から生まれた語法やお約束を、そのまんま導入しているみたいっていったら言い過ぎかな? 自分の言葉で語っていない。人の言葉をどこかから持ってきて無理矢理に継いでみました、どっかで見た名シーンを切り取ってきて貼り付けてみましたというような違和感が感じられて、なんにも伝わってこないという話が多かったように思います。だから見てて全然面白くない。私は見ていてすごく悲しくなって、見なきゃよかったと後悔した — 。

これがBOXの一部でよかったと思っています。もし単品で、一枚二枚とDVDを買っていった最後にこの感想にたどり着いたのだとすると、それはより以上に怨嗟に満ちたものとなったことでしょう。重ねていいます。すべてが悪いわけではなかった。ですが、悪すぎる話が良い点を塗りつぶしてなおあまりあるほどにひどかったと、私はそういっています。

小説

引用

2006年11月26日日曜日

ダーティペア【劇場版】

 この連休を利用して、連日『ダーティペア』を見て見て見まくるという、そういう贅沢なんだか自堕落なんだかわからない生活を送ってきました。久しぶりに見た『ダーティペア』はというと、すごく面白くて、やあ張り込んでBOXを買った甲斐があったなあ、そんな感じでありまして、テンションは連日上がるあがる。その勢いでもって、以前値段の高さで見送った『劇場版』まで購入し、さらには小説版も買おうかどうかと迷うなど、まさしくDVD-BOXを呼び水として私の眠っていた部分が活性化されたと、そんな有り様であったのです。ん? あったのです? 過去形ですね。ええ、過去形です。というのは、実は今ちょっとテンションが下がっているものですから……。

なんで下がってるかといいますと、ええと、OVA版見ましてね、正直これはあんまりだと思ったんです。キャラクターとキャラクターを配置するシチュエーションばかりを重視しすぎているからなのか、ストーリーがおざなりで見ていて悲しくなって、正直つらかった。と、このあたりの怨嗟は今度書きます。で、今回は劇場版。思えば、こうしたキャラクター重視、シチュエーション(雰囲気と言い換えてもいいかな)重視の流れは、『劇場版』くらいからはじまっていたんじゃないかなあ、なんて一応一通り見てみて、そんな風に思っているのです。

以前、私は『劇場版』を評して、こんな風にいっていました。

劇場版はワッツマン教授という悪役が、なかなかにいかれてていい味を出していたのでした。

これ、確かにいい味は出していたと思います。けど、この人、ただただいかれていたばかりで、悪役としての深みはないなあ、魅力にも欠けるなあ。改めて全編を見直してみた現在、そのように評価するよりないというのが正直なところです。

さて、さっきいってたキャラクター重視、雰囲気重視というのは、このあんまりにも典型的すぎるいかれた科学者ワッツマン教授の人となりにも現れていると思うのですが、他にもいろいろ。だってね、捜査中にいくら体が汚れた、髪が汚れたからといって、現場でのんきに風呂になんぞ入るもんかね? 安全の確保もされない状況で風呂に入って、結果的に装備一式を失うってどうよ。そいつはプロじゃあねえだろうよ、って突っ込む私はあんまりに風情を解しない朴念仁であるのかも知れませんが、はっきりいってこういう部分、なんじゃこりゃあっていってちゃぶ台をひっくり返されても文句は言えないくらいの甘さなんじゃないかと思います。

『劇場版』は全体的に、物語よりもアニメという表現形式に重みがよっているから、困難な事件に立ち向かってそれを克服するというような、ドラマ的要素を楽しみたい人にははっきりいって向かないと思います。けど、キャラクターがよく動いて、サービスカットもたくさんあって、みたいなのを期待する向きには充分に応えてくれると思います。そうですね、映画館の大きなスクリーンで、ユリとケイがはつらつと暴れ回るというお祭り的要素が前面に出ていて、だから見ていて楽しいのは間違いなく、そういうアニメ的楽しみの追求という点において、いい映画であると思います。

なんか奥歯にものの挟まったような言い方してますね。はっきりいいますと、私の『劇場版』に対する評価は:

  • 結構好き、嫌いじゃない
  • でももうちょっとストーリーどうにかならんかったの?
  • サービスカットだかなんだかでシリアス or シビアさがだいなしにされるのは嫌だ
  • ワイン振り回すなよ、澱が舞ってひどいことになるぜ

以上をもって、八千円は高すぎると思います。5,040円を4,032円で買えていたら、まあこんなもんかなあ、ちょい高いとは思うけど、というような評価であったと思います。図らずも、思い出はいつもキレイだけど、を実感する結果となってしまい残念でした。昔テレビで観ていたときは、もっと面白かったと思ったんだけどなあ。久々に『ダーティペア』を見られるっていう喜びで評価が甘くなっていたのかなあ。

小説

2006年11月25日土曜日

ダーティペアの大勝負 ノーランディアの謎

 ダーティペア』漬けの毎日です。ええと、昨日いっていましたとおり、本日TVシリーズを見終わりまして、流れるように『ノーランディアの謎』に移行。ここで『劇場版』待ち、食事をしたりギター弾いたりサイトのXHTML化したりしていたら、なんと知らぬ間に届いていたのでありました。Amazon.co.jpって、DVD一本だけだと、佐川のポストインになるんですね。早いうちに気付いてよかったです。いや、別に気付かなくってもいいっちゃあいいんですが。そんなわけで、本日は『劇場版』を見終えて、OVAシリーズに突入。うまくすれば明日には『ダーティペア』を見終わりますね(FLASHは別勘定していることにご注意ください)。

はじめて見る『ノーランディアの謎』。聞いた話によりますと、これが原作の設定にもっとも近いものなんだそうです。冒頭、ユリとケイの見る念視が物語の導入になり、そして上司はグーリィ主任ではなく部長(ソラナカ部長?)、ラブリーエンゼルのデザインもムギの色も違っているし、そしてブラッディカードの存在。けど、このへんの違いが積極的に物語に関与しているかといわれると大きく疑問だと思います。なので、このへんはちょっとしたヴァリアントとして処理してしまうのがいいんじゃないかな。むしろ人によっては、大人びた風貌を持つユリとケイの方が問題になるんじゃないかと思います。

私はこれを見て、『ダーティペア』というの作品の取り上げられかた、表現のスタイルの多様さが面白いと思ったのです。なにぶん私はTVシリーズに親しんだものですから、『ダーティペア』といわれるとあのTVでおなじみの二人、『ロ・ロ・ロ・ロシアンルーレット』の二人を思い浮かべるのでありますが、でも『ノーランディア』も決して悪いとは思わなかった。むしろ、こういう表現のヴァリアントがもっとあってもいいんじゃないかとさえ思って、例えばですよ、賛否両論になること間違いないでしょうが、実写版があってもよかったのかも知れない(あくまでも過去形でしゃべっているところに注意)、ハリウッドなんかごめんだけど、海外版とかあってもいいんじゃないかなんて思ったりして、いうならばそういう幅広い表現の揺れを許容しうる基盤となれるくらいに成熟した世界が『ダーティペア』にはあるんではないかと、私をしてそんな気分にさせたのが『ノーランディアの謎』でした。

話としては、シリアスな方面でオーソドックスであったんではないかと思います。ストーリーの多様さ、演出手法の多様さを思えばTVシリーズには比べられないですが、それは単発OVAという媒体ゆえの仕方なさでしょう。でも、ギャグ風味を抑え、誇張も極力抑えながら、けれどそうした抑えの利いた表現の面白さが出ていたと思います。抑えた表現だから生きるシックな描写、抑えた表現でやるからこそ逆に面白く感じられるギャグ。だからやっぱりこのOVAには、このOVAに独特のスタイルによって出ている味というのが間違いなくあって、人によっては地味といって好かないかも知れないけど、私には非常に楽しめたとそんな感想を持っています。

けど、これはちょっと不満かも知れないけど、最後、ええーっ、なんかすごく重要そうな伏線だと思ってたあれが、あんな風に使われるのーっ、みたいなところがあって、私は度肝抜かれたというか、やっぱりこのアニメはこういう風にならんといかんのかと、感心したというかあきれたというか。けどしゃあないんでしょうな。でもあんまりだよな。いろいろ思うところがあって、そういう感傷を寄せ付けないところというのは、もしかしたら原作風なんでしょうか? だとしたら原作手に取るのがちょっと怖くなります。とはいえ、それをもって嫌いになったってことはないので、時にきっとまた見たくなるような感じがしています。

小説

2006年11月24日金曜日

ダーティペア

    今日は一日休みを取って、朝から七時間くらいぶっ通しで『ダーティペア』みたらば、さすがに気持ち悪くなった。なまったなあ。昔は一日十二時間くらいアニメ見ても平気だったんですが、さすがによる年波には勝てないようです。頭くらくらする。目もチカチカする。でも、そのおかげでTVシリーズは明日見終わります。で、多分『ノーランディア』を見終えたころにペリカン便の兄さんがAmazonの箱を届けてくれる。実にみっともないことなんですが、覚えられちゃってるのですよ。またAmazonからですよー、みたいな届き方がして、いや、どんな届き方をしてもいいんです。とにかく明日『劇場版』が届く。それが一番大切なことなのですから。

(画像は『ダーティペア』原作表紙)

さて、ここでちょっとニュースを紹介。といってもオリコンの記事なんですが、「『ダーティペア』一挙リリースで再ブームの予感!?」とのこと。まあ、売れているっていう記事じゃなくて、DVDが一度にどかっと出るから、これはちょっと流行るかもよー。って記事ですね。でも、実際流行るとは思いますよ。だって、この私にしたって、DVD一枚に八千円も払えるか! と思って買い控えていた劇場版を、このBOX効果で借っちゃいましたから。そうしたらですね、昨日注文したときには確かに8,190円だったのに、一夜明けた今日、6,962円に値下がりしてる! ってなんでやねん! 私が買うの待っとったんかいっ、って思ってキャンセルして再注文しようと思ったら、発送処理に入ってたから不可。ちっきしょー。まあいいや、明日届くことの方が重要だ。結構な値下がり具合なので、興味あったけど買い控えていたという人は、ぜひどうぞ買ってみてください(そしたら、後で廉価版が出たりしてな。ははは、笑いごっちゃねえよ)。

さてさて、今日は『ダーティペア』の原作版について調べてみました。といっても、Wikipediaの項目にあったリストをまとめただけなんですが。でも、さすがというかなんというか、Wikipediaの項目、結構充実しておりまして、なかなかの読みごたえ。まずは小説から入り、それからアニメへと展開させていくのですが、違いをわかりやすくあげ、私みたいなアニメ版しか知らない人間にも小説版への興味を抱かせることに成功しています。なお、小説といえば『ダーティペアの大盛況 DVD-BOX』のライナーにも小説が載っていて、まだちっとも読んでいないのですが、きっと私は小説に手を出す前にこれをまず読むことでしょう。それで買うかどうか決める。というか、もうほとんど決まっているようなもんですが、しかしありがたいのはどれも絶版していないということであろうかと思います(Amazon、ジュンク堂等を見れば、まだ在庫があるようです。でもFLASHも本当に買えるのかな? 2巻3巻だけ届いて1巻キャンセルとかになったら暴れますよ)。

そんなわけで、他についてはいざ知らず、少なからず私の周辺(というか私一人)に関しては『ダーティペア』再ブームであるという話でした。というか、正直こんなにはまるとは思わなかった。だって、アニメが面白いんだ。一通り全部見たはずなんですが、さすがに最後に見たのが中学生だったころだから、細かな筋とかまでは覚えていないんですね。だからほとんど初めてみるかのように新鮮で、だから面白くって面白くって、もうどうしようもない。いやもう本当に健康をむしばむくらい面白いのですから、これはもう本物です。

あ、一応断っておきますが、『ダーティペア』見るために休みを取ったわけではありませんから。たまたまです。たまたま。ほんとです。

小説

アニメ関連

引用

2006年11月23日木曜日

ダーティペア

 正直なところ、私はもう駄目だと思う。昨日、『ダーティペア』のDVD-BOXが届いて、ちょいとだけ見ようかと思って休日の半分をこれだけで終わらせてしまいました。本当だったら、こういう同一品目で連日更新するみたいなやり口は嫌いなのです。ですが、インプットがひとつに限られている以上、当然アウトプットにも期待できないというわけで、この状況を打破できるまでこのBlogは『ダーティペア』一色に染まるかも知れない……。いや、できるだけそうならないように心がけます。というか、今現在、精神生活の大半が『ダーティペア』に染まってるものなあ。おそろしい破壊力であります。

(画像は『ダーティペア コンプリートアートワークス』)

自分自身を省みて駄目だと思うところもう一点。ええとですね、買ってしまいました。『劇場版』。ちなみに、Amazon.co.jpからは商品発送のメールをもらっています。『ノーランディアの謎』と『謀略の005便』ですな。けど、まずはTVシリーズを全部見るのが目標です。ええと、計画としてはこんな感じ:

  1. TVシリーズ
  2. OVAシリーズ
  3. ノーランディアの謎
  4. 謀略の005便
  5. 劇場版
  6. (このへんで多分『ドリームハンター麗夢
  7. FLASH

この順番で見たら発表順になるのかな?(違う、OVAシリーズ及び『謀略の005便』は『劇場版』より後)

『ダーティペア』、TV版の半分も見られていない現時点でこういうことをいうのも危険だけれども、この1985年に作られたアニメーションが、今もって通用するような状況を描いているというのは正直驚くところで、例えば「愛こそすべて命賭けます逃避行!!」におけるジョアンカの存在は、数年前から社会的に認知されるようになった性同一性障害を彷彿とさせるものでありますし、エネルギー問題に触れているようなものだってあります。そもそも第1話「コンピューターの殺し方教えます」からしてもコンピュータによる集中管制の脆さといえるような話で(けれどこのモチーフはSFにおいてはポピュラー)、SF者たちの未来予測力というのは実際馬鹿にできないと恐れ入る次第です。

けどその反面、SF者たちの予測も追いつかなかったものがあって、それは以前にもいった情報通信技術についてです。世界中に張り巡らされたネットワークが一般個人に開放されて、メールや動画音声、さまざまなデータがばんばん送受信されているというこの状況は、さすがに誰も思い描けなかったんではないかと思います。また携帯電話の存在。今や社会人大学生どころか、小中学生も普通に携帯電話を持って、しかも通話用端末としてだけではなくメールの送受信、アドレス、スケジュール管理、さらには前述の広域ネットワークに接続したりゲームを楽しめたりと、ちょっとしたハンドヘルドコンピュータです。

SFにはポピュラーな存在であるエアカーや宇宙船などは一向に身近にはなりそうにないけれど、その反面レトロSFに思い描かれた以上の現実を手にしてるのだなあとそんな感慨にふけってみたりしたのでした。

感慨といえば、これ、明日にとっておいたほうがいいのかなと思ったけれど、そういうのはがらじゃないから書いちゃおう。『ダーティペア』のエンドクレジットを見ていたら、逝去された方のお名前を見つけて、ひとりしんみりとしてしまって、こうした少し昔のアニメ、参加されていた方、時間が経って、鬼籍に入られる方がぽつりぽつりと出始めて、切ないですね。思えば、映画の黎明期を知っているファンの方たちは、映画スターがひとりまたひとりと逝かれるのを知っては、私の感じたものに似た思いを抱かれたりしたのかも知れませんね。彼らが感じた思いは、今私たちアニメファンが引き継ぐのでしょう。アニメが盛り上がり、成長し、世界的な広がりを見せるにいたるまでの黎明期、成長期を支えた人たちを思って、そしてこれからを思って、私はより以上にこれら作品をいとおしく思って、それらは私の生きていた時間にとってかかすことのできないものでありますから、万感胸に迫って苦しさにむせぶほどです。

あ、そうそう。今度出るという『ダーティペア コンプリートアートワークス』買いました、つうか予約か。この勢いだと、原作も買っちまうんじゃないかなあ。いやいや、危ないなあ。正直買い物しすぎで危険信号が点灯しているような状況なんですが、でも私のこの勢いは危ない、こうなってしまったらとまらないかも。我ながらおそろしいものがあります。

2006年11月22日水曜日

ダーティペアの大盛況 DVD-BOX

 本日、Amazon.co.jpから荷物が届きまして — 、やりました、Amazonのジンクス、希少品を予約しても一方的にキャンセルされてしまうという呪いを打ち破って、我が家にDVD-BOXが届きました。ええと、『ダーティペアの大盛況 DVD-BOX』と『ドリームハンター麗夢 DVD-BOX』でありますね。来た! なんだかそれだけで満足している私がいるのですが、でも本当のところそれだけで満足するわけないじゃないですか。見た、見ましたよ。とりあえず両方。第1話から。で、やっぱりこの時分のアニメはよいなあと思った。と、そんなわけで『ダーティペア』。いや、やっぱり私、『ダーティペア』が好きなようでありますよ。

そういえば、私、以前こんなこといっていましたね。

好きだった昔のアニメを今見直して、ええーっ、こんなだったっけ! と思う可能性を怖れているんです

正直、今回、この怖れは大きかった。これまでに買ったBOX、『ガンバルガー』にしても『ヤダモン』にしても、実は手もとに本放送時のビデオテープを残しているから、それがどういった内容であるかは、思い出によらずとも簡単に思い出せるのです。ですが『ダーティペア』を最後に見たのはいつであったか、ましてや『ドリームハンター麗夢』は一度ずつしか見ていない……。そんな状況でありますから、記憶の中で実物以上に美化してしまっているという怖れがなくもないではないですか。

ドキドキしながら見ました。そして、勝ったと思いましたね。まさしく来た見た勝ったの心境です。もう、オープニングのアニメから感動の渦じゃないか。ちっとも美化してない、美化なんてしてませんでしたよ。

第1話見て思ったんですが、私この話覚えていますよ。多分、全話余さずに見てますね。実をいうと、私、『ダーティペア』を全話見たことがないと思っていたのです。だってね、テレビの情報誌を見て、再放送状況をチェックしてみたいなことをついぞした記憶がありませんでしたので、だから私のパターンはといえば、朝見る新聞テレビ欄に番組名を偶然発見する、きゃっほう、喜び勇んで見始める、それが常でした。だから、第1話を見られるかどうかは本当に運なのです。そもそも毎日テレビ欄を見るわけでもない、見たとしても気付くかどうかわからない。そんな状況で、よく第1話から見ていたものだ。本当、私は強運だったのだと思いました。

『ダーティペア』を見てみての感想。これ、正直、非常にレベルの高くセンスのいい作りだと思います。今見て、古くささを感じませんもん。確かに画面は懐かしいセルアニメの雰囲気、でも内容はどうだ。面白いよ。たった三十分で、焦るでもなく詰め込むでもなく話をきっちり展開させて、活躍の見せ場も作ってさ、面白いなあ。懐かしさを上回って面白かったのですから、それはよっぽどでしょう。おそらくきっと、これを前情報なしでぽんと見せられても私は好きになったことだろうと思います。

久しぶりに見て思ったくだらないこと。昔私は、ロングヘアーのお姉さんが好きな子供だったのですが、最近はどうもそうではないようで、ボーイッシュで活発な娘さんが好きな模様です(このBlogを蛇足で検索してみよう)。だから今『ダーティペア』見たら、ユリよりもケイの方が好きだったりするのかなと思ったりしていたんですが、ところがどっこいやっぱりユリの方が好きだわ。これ、三つ子の魂百までってやつかね? いや、もちろんケイもいいのよ、魅力的なのよ、でもちょっと癇の強そうで女くささもケイ以上のユリがやっぱりよいようで、ああやっぱり買ってよかった。何度でも見よう。ことあるごとに見よう、そんな気持ちで一杯です。

そんなわけで、今日の私は壊れ気味です。いや、いつもどおりといえばそのとおりなんですが、けど今日はいつも以上だと思います。ああ、明日からどうやって時間を作ろうかな。

2006年11月21日火曜日

アーケードゲーマーふぶき

 ゲーム検定ってのがあるんだそうですね。お友達に教えてもらいました。私、実はこういうの結構嫌いじゃなくってですね、特に設問を答えさせる類いのもの、こういうのを見せられるとがぜんやる気が出てくる、そういうタイプなのです。だからまずはやってみて、問題は全部で百問。懐かしのファミリーコンピュータからNintendo DSPSPまでの実に幅広い出題範囲。わ、わかんないよ……。特に、私はスーパーファミコンからPlayStation初期中期くらいにかけてが苦手で、というのも、その頃、ゲームやってないんですよね。ハードを買わなかった。私はファミコンからPlayStation SCPH-7000までジャンプしたのです。だから、その間はまさしく空白期間であって、おのずと検定は私にとって非常に過酷なものとなったのです。

ちなみに結果はこんな感じ。

+++ ゲーム検定 成績発表 +++

あなたの総合得点は65点  全国平均 56点

全国順位(11月21日 21時現在)
3803位(20333人中)

--ジャンル別得点表------------
            0_________50__________100%
ハードウェア       ■■■■■■■■■■■■■■■■
ゲームシステム&テクニック■■■■■■■■■■■■
キャラクター       ■■■■■■■■■■
ビジネス         ■■■■■■■■■■■■■
雑学           ■■■■■■■■■■■■
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--講評---------------------
あなたは「ゲーム大臣」
これだけの知識があれば、たいていのゲーム好きの人間とは楽しく会話ができるはず。しかし、この先、もっと深く広い知識を得ることで、世界はさらに広がるだろう。
貴方がもっとも詳しいゲームのジャンル:
   ハードウェア
貴方がもっとも詳しいゲームの年代:
   90年代後半から現在にかけての熟成期
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でも、これでもまだ平均を上回っているようで、驚きました。しかし、得意なジャンル、ハードウェアってのもなんか変な感じだなあって思うんですが、けどハードウェアが得意というのは裏返せばゲームそのものに関しては無知ということでありますから、私のゲーム離れしていた時期というのは、思いのほかに豊かであったようですよ。

さて、『アーケードゲーマーふぶき』。私がこの漫画の存在を知ったのは、ファミ通のCDロム付き本に連載されていたから。つまりCDロム付きのファミ通を買っていたわけで、それはなんでかというと、『カルドセプト』の追加マップが収録されていたからでありまして、こうして思いがけぬ出会いをしたというわけです。

この漫画読んだとき、プレステ誌だというのにアーケードゲーマーってのもなんか変だなあと思ったのですが(もちろん本編ではプレステでも遊んでます)、なんか昔懐かしいものを感じさせましてね、それはこの漫画が『ゲームセンターあらし』へのオマージュであり、また私が子供の頃に読んだ『ファミコンロッキー』だとか『ファミコンコンボイ』だとか、そういうのを彷彿とさせたからだと思うのです。

ファミコンロッキー』は『コロコロ』連載で、『ファミコンコンボイ』は『ボンボン』連載でしたっけ(しかし、『ロッキー』、復刊されてたんだ。今となってはちょっと読みたい)。とにかく、ファミコンでもって対決するというその発想は『高橋名人vs毛利名人』のそれですが、しかし、なんか必殺技合戦したりドットチェンジしたりと、まさしく子供だましだったなあ。

『アーケードゲーマーふぶき』もまさしくそういう子供だましだったような必殺の要素を(もちろん意識的に)盛り込んでみて、しかもある程度の年齢層を想定してちょいエロまじりでね、けどそうしたなんだか昔を懐かしませるような要素をサービスするというのは、ゲームに関する時間がそれだけ積み重ねられたということの証拠で、その時間に自分も多少なりとも関わっていたんだろうなと、そんな風に思うとなんか感慨深いものがあります。

2006年11月20日月曜日

センス・オブ・ワンダー

 私がレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』にはじめて触れたのは、意外に遅く、大学に通っていた頃のことでした。当時私は、自分の学校の学祭に寄りつかないという、一種ひねくれた学生であったのですが、ところがなにを思うところがあったのか、よその学校、なんの縁もゆかりもない大学の学祭にいこうと思ったのです。目当ては、学祭執行部の執り行う催しでした。写真とギター、そして『センス・オブ・ワンダー』の朗読をおこないますという、そのいうならば地味な催しになにか引かれるものを感じて、いったこともない土地の、いったこともない大学に足を運んだのでした。

『センス・オブ・ワンダー』はいうまでもなく、科学者レイチェル・カーソンが、子供の自然との出会いに驚きをもって向き合う様を描くことをとおして、驚きを忘れずにいることの大切さを説こうとした本です。驚きの心があれば、世界は常に輝きをもって私たちの目の前に現れるというのに、悲しいかな私も含めて人はそうした心を忘れがちで、慣れに感覚を鈍らせて、出会うもの、ことを日常の些事として流してしまうこともしばしばです。ですが、これから出会うすべてに対し思いを新たにすることができれば、世界には驚きや感動が溢れていると再び気付くこともできるに違いない、そういう思いがしたものでした。

私はこのとき愛用のカメラを下げて、だから終演後に話をしたギター奏者は、私が写真家のファンかなにか、そうした関係で訪れたものと思われたようでした。ですが実際はそうではなく、音楽に、朗読に、もちろん写真に、それぞれ興味を持っていたのです。私は自分の身分を明らかにして、学生手帳にサインをもらい、しばらく話をして、その時間はなにか清浄なものであったと思います。日常の真っ直中、大学の学舎のロビーでのことだというのに、まるでそうした日常とは切り離された、特別な、まさしくワンダーな時間が流れていたと覚えています。

それからしばらくして、私は思ったのです。センスとは感覚でありまた同時に意味そのものであります。すなわち、あらゆるものはセンスをもって存在しており、そのセンスに気付くには、自分自身の内にあるセンスをもって近づくよりなく、いわばそこにセンスの呼応しあう様を感じたように思ったのです。だから、もし誰かが、そんなことには意味がないと簡単にいってしまうとしたら、それは意味に気付くことのできるだけの感覚を持っていないと自ら白状しているに同じなのではないか。なら私は、意味がないとあきらめてしまう前に、そこにある意味をすくい取りたい。これはその後の私のモットーになっています。

2006年11月19日日曜日

日本民謡集

  パブリックドメインは宝の山です。パブリックドメインとは共有地、誰のものでもなくなった著作物は共有地に帰り、誰かに使われる日を待っています。それらは読まれ、語られ、歌われ、出版され、録音され、戯曲になり、映画になり、さまざまに姿を変えながら新たな息吹を持って私たちの前に現れます。そうしたPD作品を、文学を軸に収拾しようとしたのが青空文庫Project Gutenbergプロジェクト杉田玄白で、ギター音楽を軸にしたものがDelcamp.net、そしてパブリックドメイン中のパブリックドメインといえる民謡を対象としたものがRoger McGuinn's Folk Den。このようにたくさんの人たちが、おのおののテーマに従って、パブリックドメイン作品の収集公開にいそしんでいらっしゃいます。

もちろん上にあげたものはごくごく一部に過ぎません。私は詳しくないので見送りましたが、ピアノ作品を収集公開している人たちもいらっしゃると聞き及んでいますし、民謡にしても、個人有志を中心として、ネット上にはもう把握しきれないほどの情報が公開されています。その民謡というのも、各国各地の民謡がいろいろ出ているようで、ただ残念ながら私はそれらを網羅的に知るわけではないのです。たまたま興味のある民謡を調べていたら発見したというものが中心で、ですが悲しいかな、こうした収集はどこかに要となるようなものがあるわけでもないようで、だから分散多発個別的になされているというのが現状であるようです。

私はギターを持って歌を歌おうというものですが、なじかは知らねど心民謡に向かって、それは以前にも紹介しました、Folksongs of Britain and IrelandOne Hundred English Folksongsの購入というかたちで現れをなしているのですが、しかしなんで日本人の私が民謡といってヨーロッパのそれもイギリスの民謡を歌おうとするの? おまえ、それでも日本人? 日本人ならやっぱ日本民謡だろうみたいにいわれそうな有り様。そう。私も実はそう思っています。同じやるなら、日本民謡もやりたいのですね。

でも、日本民謡に手を出そうとしても、実にリソースが少ないのです。以前、私は音楽系の学生で、それ専門の研究機関にも関わっていたこともあったのですが、しかしそれにしても日本民謡のリソースは少ない。いやいや、日本各地の民謡わらべ歌を集成したような本もあって、それこそ各県別に出ているようなでっかいのもあるんです(例えば『日本わらべ歌全集』)が、けどそれでもなにか違うんです。なにが違うんでしょうね。それは、多分楽譜や音源の有無なんじゃないかと思います。

私、以前、京都の民謡伝承歌の音源のデジタル化に関わったことがあるのですが、それはそれはすごかった。各地のお年寄りに聞き取り調査をした記録の集大成といった感じで、各地各地に歌詞や節回しを少しずつ違えた歌が伝わっていて、こんな歌があるのか、こんな歌もあるのか、おいおいこの歌、歌詞がやばいよ、あ、これは知ってるわ、という感じで聞いて聞いて聞きまくって、けれどそうしたリソースって表に出ることは少なくて、けど本来なら私たちが伝承するはずのものだったんかもなあなんて思ったりもして、そのあたり、非常に複雑な気分です。

日本の民謡についてちょっと知ろうと思えば、岩波の『日本民謡集』あたりが手ごろでよかったりするんですが、けどこれは主に歌詞だけ、楽譜のついているのもありますが、けれど実際にどのように歌われているかを知ることは難しいなというのが私の実感です。昔、岩城宏之がいってたんです。追分のフレーズが使われてる邦人作品を海外オケで取り上げたときに、フルートが結構いい感じに吹いたものだから欲が出た。いろいろアドバイスしたんだそうです。そうしたら、アドバイスすればするほど追分から遠ざかっていってしまって、失敗だったというようなエピソード。楽譜だけではこうなる怖れがあるのです。特に私みたいに西洋音楽で学んできているような人間は危険で、ヨーロッパの民謡でさえ同様、なら日本の民謡ならなおさらでしょう。それくらいに私は自分の文化に伝えられてきている音楽について無知なのです。

昔は民謡歌手なんていう人たちがいて、今でもいらっしゃるんだとは思いますが、でもテレビやラジオで聴いたりするようなことはほとんどなくなりました。こうして民謡は忘れられていくんだろうかと思うと、悲しくなります。危機感もつのります。だから、どこか保存に努めているところがあらば、それを誰もがアクセスできる場に公開してはもらえないものだろうかと、そんな風に思います。

じゃあ、あんたがやれよというのはなしね。私は今、別のPD関係に携わっていて、リソースがいっぱいいっぱいなんです。でも、もし日本民謡の蒐集公開に関われるのなら、参加してみたいなあ。そんな思いもあるから、非常に危険です。

  • 町田嘉章,浅野建二編『日本民謡集』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1960年。
  • 町田嘉章,浅野建二編『日本民謡集』(ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,2004年。

2006年11月18日土曜日

azur

 青空文庫の本を読むならば、Webブラウザで読んでももちろんいいのですが、できたら専用のビューアを使いたいところ。なにしろWebブラウザというものは欧文文化において誕生進化してきたものですから、日本文を読む用途にはちょっと万全とはいえないところもあります。え、なにが足りないの? といわれると、そうですね、例えば縦書きとか縦書きとか縦書きです。いや、冗談でなくて、本当に日本文というのは縦書きにマッチするものなのですよ。さて、数ある青空文庫対応ビューアの中で、特に私がお勧めしたものはなにかというと、ボイジャーがリリースするazurです。azur、アジュールとはまさしく空の色、青のことであります。この名前をはじめてみたときには、いい名前を見つけたなあと感心しました。しかもソフトウェアを起動してびっくり、なんとazurとはaozora unique readerの頭字語であるようではないですか。ほんと、うまい名付けだなあとまたここで感心したのでした。

青空文庫を読むに際し、なぜ私がazurを推すかというと、その表示の能力でしょう。実はazurは、これ自体がWeb上にある文書を読みにいくことができるのです。htmlやxhtml文書を読み、表示し、ハイパーリンクをたどりながら目的の本を開くことができる。この機能は、ぱっと見には地味ですが、大きな可能性を持っています。それはなにか。それは、azurをテキストブラウザとして利用できるということに他なりません。

ちょいと、この画像を見ていただきましょう。

この文章は、ほかならぬ私のサイトこととねの序ともいえる文書『こととねのこころね』ですが、azurで開いてみてびっくりしました。なんか、いつも見てるWebブラウザ上の文章とは一味違うように感じられて、うはあ、これが縦書きの威力かあと驚いたのでした。他にもいろいろ読んでみたりしたのですが、特にレイアウトに凝るようなことをしていないこととねの文章を読むに際しては、azurに優るものはなしと痛感しました。もちろん欧文の多いページを読むにはazurは向きませんが、けれど日本文にはazurは使えると、そんな風に思ったのです。

azurのwebをめぐる際のメリットはもうひとつあります。それは栞の機能です。一般にWebブラウザのブックマークは、ページ単位でしか保存することができません。ページの途中をブックマークしようと思えば、そのページにid属性が設定されている必要があって、ということはつまり自分の好きなところを好きなようにブックマークすることはできないということです。

ですが、azurは違います。普通に、文章の途中でブックマークできるのです。まさしくこれは長文を読むことを前提に開発されたソフトウェア故の機能でしょう。そして気の利いていることに、azurを開くと、以前読んでいたページがちゃんと開いてくるところもすごい。もちろん、文書が開くんじゃなくて、読んでいたそのページ、途中が開かれてくるのです。これはいい機能だと思いました。長文はWebには向かないといわれてきたその常識を打ち破る機能であると思いました。ここに、Web上に新たな文学の可能性をうかがうことができる! とそんな風に思ったのです。

そんなわけでこととねを閲覧する際のブラウザはazurで決まりです。もちろん、azurにも向き不向きがあって、できることできないことはあるのですが、けど普通の用途にはWebブラウザ使えばいいじゃんか。けどそうではなく、文章を読みたいという時にはazurがいい。Webブラウザのそばに常にazurを待機させておいて、この文章を読みたいと思ったら、URIをazurにドラッグ&ドロップ。そしてゆっくりと文章を読むというのは、ちょっとした贅沢体験です。文章の贅沢を味わえる、azurとはそんなソフトウェアであると思います。

2006年11月17日金曜日

インターネット図書館 青空文庫

 昨日もちょっと触れました青空文庫。ご存じのないかたもいらっしゃるかも知れませんので、改めてもう一度説明したいと思います。青空文庫というのはインターネット上にある本の集積所です。いろんな本が集まっていて、それは主に古典、私の好きな夏目漱石や宮澤賢治などを読むことができます。でも、なんでこういうことが可能なんでしょう。それは、それら収録されている作品については、著作権が消滅しているからです。現行の著作権法では、著者(著作権者)の死んで五十年がたつと、著作権が消滅します。著作権の切れた作品は共有著作物(パブリックドメイン)となって、私たちが自由に利用することのできる共有財産となるのです。つまり、青空文庫には、自由に利用できるようになったパブリックドメインの著作物が収録されているというわけです。

ですが、ちょっと考えればわかることですが、著作権が切れたとしても、それで自動的に本が電子データになったりはしません。でも青空文庫にはテキストデータ(やXHTML文書)が収録されています。これ、一体どういう仕組みになっているのだろう。そもそも青空文庫ってどういう組織なんだ? っていう疑問もわいてくるかも知れません。そもそも青空文庫の本は自由に利用ができる、お金を取らないわけですから、一体どうやって運営されているんだろうなんて思います。

『インターネット図書館 青空文庫』は、そうした疑問に答えてくれる一冊であると思います。

この本を読めば、いや読まずとも、ちょっと青空文庫に興味を持って、サイトを深く読んでみれば、青空文庫っていうのがボランティアベースで運営されている活動であるということがわかると思います。呼びかけ人があって、呼びかけに呼応してテキストの入力や校正をおこなう人がいて、そうした人たちの地道な活動の積み重ねが、今の五千冊を超える蔵書として結実しています。私はこの活動について知ったときに、これはまさしく中世の図書館と同じなのだと思いました。本が高価で特権階級の持ち物だった時代、図書館は知の集積所であると同時にステータスでありました。当時知の中枢であった教会は図書館を構えて、多くの書写僧たちにより書き写された本が図書館を充実させ、知の発展、文化の発展に寄与してきました。けど、これら中世の図書館には青空文庫とは決定的に違う点があります。それはなにかというと、それら図書館は閉鎖されていたということです。先ほどもいいましたが、本は特権階級の専有品でした。知が独占され、外部に公開されるということはありませんでした。貸し出しなんてもってのほか。自由に読みたい本を読めるという、今の私たちが想像する図書館とは根本から違っていたのです。

青空文庫は万人に開かれています。ボランティア諸氏によって打ち込まれたテキストは厳密なチェックを経て公開され、そしてその仕事は独占されることなく、自由に使ってもよいのです。個人的な読書の楽しみに使う人がいます。読み上げや点字出版の元データにもなります。研究や用例参照に使う人もいます。そして、これを印刷製本して販売する人もいます。おそらくもともとは本当にささやかな試みであったろう青空文庫の活動は、その輪を広げながら、多くの人と関わりを持ちながら、一言では言い表せないほどの大きな価値に育っています。そしてこれからもより広がりを見せることでしょう。この仕事は、決して派手ではありませんが、文化への寄与という点において、無視できないものであると思います。それこそ、中世の教会図書館が古代ギリシャ・ローマの古本を写本として今に伝えたのと同じくらいに、といったらあんまりに大風呂敷を広げすぎかも知れませんが、ですが私は、そうした営為に匹敵するほどの可能性を秘めた活動であると思っています。

私は、青空文庫の本が出たと知って、たまらず買ってしまいました。そのあらましや著作権の保護期間延長問題についてはそこそこ知っていたものの、なにより青空工作員としてこの活動に参加している人たちの思いを知りたくてしょうがなかったんです。買って、読んで、そして感動しました。いや、私は最初から予想していたのです。この人たちを突き動かすものがなにであるか、この人たちを駆り立てたものはなにであるのか。私はただ確かめたかったのです。

思ったとおりでした。いや、思った以上でした。私はこの本を読めば、なんだかどうしようもなく泣けてきて、なんせ苦労もあったろう、いろいろ問題も残っている、けれど私はそうしたものを抱えながらも本に、テクストに向かい合おうとしているこの人たちの姿勢に感動します。

2006年11月16日木曜日

総索引,漱石全集第28巻

 以前、漢文だけは読めないといっていた『漱石全集』。じゃあ、残りは読めるというのか? 総索引なんかあんた読むのか? と問われると正直ちょっと微妙でしょうね。だって、私は研究者じゃありません。特定の語句をめぐって、全集の中をさまよおうなんてことは、よっぽどのことがない限りできるものじゃありませんからね。でも、索引というのはすごいものです。探しているものを必要なときに効率よく見つけるために用意されるもの、それが索引です。よい索引が整備されていれば、研究にも読み解きにも役立つ、これは本当です。これに関しては間違いありません。

以前、私は論文で漱石を引用したことがあるんですよ。論文というのは、グレン・グールドというカナダ人ピアニストについてのものだったのですが、この人が漱石の『草枕』のファンでして、だから彼の考えを読み解く助けとして『草枕』の読み解きみたいなこともしたのでした。

論文ではですね、いいかげんなことは書けないわけです。それこそ推理小説で犯人追いつめるようなものでしてね、どこそこに証拠がある、誰それがそう証言していると、逐一きっちり証拠証言を集めて揃えて突きつける必要があるんです。論文の場合、主にその証拠というのは他の論文や書籍に求めるわけで、ほら、このBlogでもたまにやってるみたいに、引用の出典を作者、書名、出版社、出版年、そしてページを記すという、そういう必要があるんです。だから、私もやりましたよ。証拠探しは現場百回ではありませんが、関連する資料を何度でも読みます。それこそ覚えるくらい読みます。さっきの例でいえば、グールド関連の本は当時出てたものほぼすべて読んだと思います。それで、頭の中にインデックスを作るんです。どの本のどのへんにどういうことが書いてあるということを把握するんです。でも、やっぱり限界ありますから、私はびりびりにちぎった紙を附箋代わりにして、このページ重要と思ったところにはさんでいって、だからもう資料は紙だらけ。でも、これでも書き出してから、あああのエピソードどの本だったっけー、っていうことは何度もあって、運が良ければ見つかりますが、運が悪いとなんべん探しても見つからない。焦って探すのも悪いんでしょうけど、とにかく見つからない。この本かこの本のどっちかなんだよ、このへんのページにありそうなんだよ、なんて思うんですが、なのに見つからない。だから泣く泣く削ったものもあります。だって、証拠を提出できない。確かにそのエピソードは読んだのです。どこかにあるのです。けど、きっちり引用ないし参照元を示さないことには、それはないのと同じなのです。

もしグールドに関する索引があったならば、ずいぶん違ったのかも知れないなんて思いますよ。でも、今はもう昔の話。懐かしく思い出すエピソードになっています。

索引の威力をちょっと示してみましょうか。例えば、こないだ『草枕』について話したときに持ち出した非人情という用語ですが、果たしてこれってどこで扱われてるのかなー、なんて思ったときは索引です。ええと、3巻の11, 12, 15, 16, 34, 111, 112, 113, 114, 154ページに出てきますね。それと14巻の索引、22巻の558, 566, 569, 27巻の131ページにも出てますね。これ、第3巻は『草枕』の収録巻だから出てくるのも当然ですね。14巻は文学論です。22巻は書簡、27巻は別冊です(短評雑感あたりかな?)。こんな風にすると、ひとつの用語をめぐって漱石がどう考えたのかをめぐる足がかりが見えてきそうな感じでしょう? で、それを読んで理解を深める。だから索引は一読者にだって意味のないものではないのです。

実はこういう索引は今やインターネットでも利用できます。例えば青空文庫。Googleで青空文庫を対象に非人情で検索してみるといいのです。すると19件出てきます。夏目漱石に限ってみると『草枕』と『坑夫』に出てくる。でも、『坑夫』のは非人情ではなくて理非人情だからちょっと違いますね。Googleが表示する検索語周辺の文脈をちょいと見てみると宮本百合子の『婦人と文学』が漱石の非人情に言及していることがわかります。宮本百合子はというと『婦人と文学』以外でも非人情を使っていて、それは『パァル・バックの作風その他』、『沈丁花』、『写真に添えて』。後のふたつはあんまり漱石に関係なさそうだけど、『パァル・バックの作風その他』はどうも関係しているっぽい。どれ、読んでみようか — 、なんてことにもなります。

こんな風に、よく整備された索引はさまざまな情報を繋ぎ合わせてくれます。これまで誰にも気付かれなかった関係が、索引によってあらわにされます。万葉集の研究でコンピュータを導入して解析している人がいるのだそうですが、これまで千年以上も気付かれずにあった関係性が見つけ出されたと、そういう例を聞いたことがあります(多分、「古典和歌からの知識発見」に紹介されてる事例だと思います。PDFです)。この万葉集の研究は、単純な索引作成では到達できないものではありますが、それでも索引が使えるようになるということだけでも、大きな効果を得られるのではないかと私は期待しています。

具体的には、Google Book Searchあたりに期待しています(例えば、jabberwockという用語を含む本を調べてみると即座に1450ページという結果が返ってくるのですよ! 信じられない!)。そしてほかならぬ『青空文庫』に期待しています。資料を電子化して、インターネット上に置くだけでも大きなメリットが得られます。検索容易性に加え索引を用いた全文検索、本当に素晴らしいと思います。だから、私は、より多くの作品が電子化されて、広く利用できるようになればいいと思っています。もしすべての本を横断的に検索することができるようになれば、スーパーな読書体験の世界が開けることが単純に想像できて、なんだかわくわくしてくるのです。

  • 夏目漱石『漱石全集』第28巻 東京:岩波書店,1999年。