2006年11月14日火曜日

草枕

 昨日読んだ『杜子春』というのは、人の世の空しさに気付いた主人公が人の世を捨てようとして、けれど結局は捨てきれなかったというような話であると思うのです。これ、ちょっと漱石の『草枕』の冒頭に似ているなと、そんなことを今日の帰り道に急に思って、ええ、この部分。

人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作つた人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。

杜子春は、仙人の境涯に向かって結局は人の情によって帰ってきたのですが、漱石は向かうまでもなく人でなしの国は住みにくいだろうと推察して、住みにくい世を住みにくいと受け入れて、その住みにくさをどけたところにある美しいものを取り上げるのが芸術だと、そういうことをいっています。ただその芸術をなす際には、ただただ情にほだされていては駄目であるらしく、ここに漱石は非人情という用語を提示しています。

この非人情という用語ですが、ちょっとこれだけではわかりにくい。けど、この非人情というのはこの本のあちこちにとにかく頻出するから、これがわからないではこまる。そこで私は、この非人情というのは、距離感の問題なんじゃないかというような捉えかたをしています。

なにに対しての距離感かというと、それはやはり世間なんじゃないかと思っています。『草枕』冒頭にいう、智に働けば角が立ったり、情に棹させば流されたり、とにかく意地を張るにも窮屈で住みにくい世の中を、実際まったく離れてしまえば住みにくいどころではないから、うまく折り合いをつけながら、けれど距離は置いておきたいという欲求。こういうのが非人情という語にあるんじゃないのかなあと思ったりするんです。

とかく人間は簡単に人情世界に馴染んでしまうものです。実際私にしても同様で、数年前、実にまったく世間に背を向けるようにとんがって生きようとしていた私でしたが、けどそれは今のかりそめの安定の中でずいぶん鈍磨してしまったとそんな風に思うことが増えました。けど、それは結局かりそめで、ちょっとバランスが崩れれば失われるような見せかけの安定に過ぎなくて、そういう現実を以前は諒解していたというのに、今はすっかり目を背けてしまっているなと気付かされて、ああみっともないなあ。俗世に落ちたと感じました。非人情の境涯を求めたいと思っていた昔の思いなんてとうの昔に消えてしまっていたのだなと、情けなくなりました。

気付けばずいぶん日和っているとは思いませんか。丸くなったのかも知れないね。けどそれは結局は鈍磨したことにおんなじで、常識人ぶった物言い、振舞いの影には臆病と打算が透けて見えてげんなりします。私はそんな自分自身の位置が嫌でたまらないから、今からでも非人情を取り戻せるだろうかなんて思った、今日はそんな日だったのです。

この本のいうには、芸術家というのは 四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むような人間のことだそうですよ。いうなら芸術家とは非常識な人間であるということで、別に私は芸術家ぶりたいだなんて思ってやしないけど、けれど常識に取り巻かれて自由を失うのはまっぴらごめんで、だから少しでも自由であるためにも常識の一角を取っ払いたいなあなんていうのですね。

  • 夏目漱石『草枕』青空文庫。
  • 夏目漱石『草枕』(ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,2006年。
  • 夏目漱石『草枕』(漱石雑誌小説復刻全集;第4巻) 東京:ゆまに書房,2001年。
  • 夏目漱石『草枕・二百十日』(角川文庫) 東京:角川書店,2000年。
  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『夢十夜;草枕』(集英社文庫) 東京:集英社,1992年。
  • 夏目漱石『草枕』 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『草枕』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『夏目漱石全集』第3巻 東京:筑摩書房,1987年。
  • 夏目漱石『草枕』(新潮文庫) 東京:新潮社,1968年。

引用

  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 (東京:岩波書店,1994年),3頁。
  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 (東京:岩波書店,1994年),34頁。

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