帯に載せられた栗本薫のあおりラストでは必ず泣きます
に、よくも悪くも興味をそそられて、楽しみにしていたまんだ林檎の『コンプレックス』第3巻を買いました。そして読みました。で、帯の惹句に対する感想をば。このあおりには乗っちゃいけないと思います。いや、個人的な感想ですからどのように書いてあっても文句はいえないとは思うんですが、なにしろ私のこのBlogからしても、なんだよ、そんな感想にはならなかったぜ、いいかげんなこといってんじゃないよ、という意見もあるでしょうしね。だから栗本薫のあおりにしても、そういう感想があってもいいとは思います。でも、私はそうは思わなかった。少なくとも、やけにクローズアップされているラストでは必ず泣きます
は違うと思ったのでした。
なぜなら、私は泣くよりもむしろ自省をともに深く感じ入ってしまったからです。そしてここで再び栗本薫の惹句を引用。
優しくて深い,傷を抱いて生きる人々が素敵です。ヤオイもBLも越えた愛のかたちに,ラストでは必ず泣きます。
このあおりにおいて重要なのは、ヤオイもBLも越えた愛のかたち
という部分であろうかと思います。おそらくこの話がスタートしたときには、こういう展開をするだなんて誰も思っていなかったんじゃないかと思うのです。ですが、こうしてすべての話が揃ってみれば、これは間違いなく本質的な愛のかたちを描こうとした試みであったと、そのように思えてきます。
私が深く感じ入ったというのは、紆余曲折を経てお互いの愛を確認しあった達也と淳一の晩年におけるあり方。静かで穏やかであり、しかしそれはただ凪いでいるだけのものではなく、なお情熱もあらば広がりを見せ強靱で、深みが動揺を寄せ付けず凪いでいるかに見せるというものなのでしょう。まさしく人生の伴侶というにふさわしいあり方を、揺るぎない説得力でもって提示しえた。これは泣くというようなものではない。もっと、もっと、違う、大きななにかなのです。
以前、この漫画で書いたときに触れた、息子の代の恋愛模様。これがあったことで、この物語の深さがより増したのだと思います。愛というものを模索し確認するような手続きが、真摯に丁寧に物語られることで、もうひとつの愛のあり方も掘り下げられ、深みを増したとそのように思うのです。私はこの一連の愛の物語を見て、読んで、自分がそうしたものから隔絶されているという不幸を思いました。愛されない不幸ではなく、愛さない不幸について、愛に歩み寄ろうとしない不幸について思ったのです。私は異性愛者ですが(多分)、そうした表現のあり方の違いを問わず、胸の奥、心の底にまで届く強さのある漫画でありました。涙を浮かべながらも、泣くなどというありきたりの表現ですますことのできない、そうした大きさを持つ漫画であったと思います。
- まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
- まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
- まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
- まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1996年。
- まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1998年。
- まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2000年。
- まんだ林檎『コンプレックス』第4巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2002年。
引用
- まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (東京:朝日ソノラマ,2006年),帯。
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