2006年11月13日月曜日

杜子春

 なんだか自分で自分を見失っているなと思うところがあったので、『杜子春』をちょっと読んでみたいと思ったのです。『杜子春』は芥川龍之介の短編で、『蜘蛛の糸』に並んでよく知られている話です。この話を有名にしているのは、国語の教科書なんかに収録されていることが多かったからなのではないかと思うのですが、唐の洛陽を舞台に、青年杜子春の身に起こった不可思議なできごとを追体験することで、人間の生の空しさに思い至り、そして空しい人生において大切なことというのは一体なんなんだろうかということを立ち止まって考えるきっかけになるのではないかと思います。

正直なところをいいますと、少年時代、思春期、青年期、そして今と、何度となく私はこの話を読んできて、年を取るごとにその感慨は深まっているとそんな風に感じるのです。子供の頃は子供の頃で、杜子春の冒険にも似た人生の紆余曲折にわくわくしたりはらはらしたりしたし、思春期青年期には、人生の空しさを悟った杜子春の荒野の試練にも似た苦境にて見せる精神性の高さに崇高さを感じ、しかしどのような精神の強さがあったとしても克服できない人の情の深さに感じるところがあり、でも今読めば、そういう理屈やなにかでない、悲しみのようないとおしさのような気持ちが湧き上がってきて、胸を突かれるような思いに締めつけられます。

感想が読むたびごとに印象を違えるのは当然ではありますが、私にとって『杜子春』がより深みを増していくように感じられるのは、おそらくは私と私のまわりの人たちの関係が変化している、そのためであると思います。昔は、父も母も若く元気でありましたが、年月を経て老い、私自身もいつまでも若いわけでなく、また、物語冒頭の杜子春ほどではないですが、貧しさ、暮らしにくさを感じることもないではない、そういう微妙な立場に立たされて、けれど私は割合この位置を楽観的に受け入れています。金が欲しいわけでなく、地位が欲しいわけでもなく、けどそれでもどこかに欲はよどんで残っていて、その欲はよく見てみれば屈折した名誉欲、承認への欲求であると、そんなようなのです。

でも、そんな自分の身の丈にあわない虚像を求めてどうしようというんでしょう、私は。そんなことよりも、私はもっと身近にあるものを、人を、ことを大切に考えなければならないのではないかと反省して、だからこういうときに『杜子春』を読みたくなります。何度目かはわかりませんが、こうして『杜子春』を読んで、私は大切なものを取り戻すことができたのか。今はまだわかりません。すぐにぶれて、簡単に揺れる、そういう薄弱であるのが私です。けれど薄弱ながらも、変わらぬ大切なものへの視線は持ち続けたいとそのように思っています。

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