2006年11月20日月曜日

センス・オブ・ワンダー

 私がレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』にはじめて触れたのは、意外に遅く、大学に通っていた頃のことでした。当時私は、自分の学校の学祭に寄りつかないという、一種ひねくれた学生であったのですが、ところがなにを思うところがあったのか、よその学校、なんの縁もゆかりもない大学の学祭にいこうと思ったのです。目当ては、学祭執行部の執り行う催しでした。写真とギター、そして『センス・オブ・ワンダー』の朗読をおこないますという、そのいうならば地味な催しになにか引かれるものを感じて、いったこともない土地の、いったこともない大学に足を運んだのでした。

『センス・オブ・ワンダー』はいうまでもなく、科学者レイチェル・カーソンが、子供の自然との出会いに驚きをもって向き合う様を描くことをとおして、驚きを忘れずにいることの大切さを説こうとした本です。驚きの心があれば、世界は常に輝きをもって私たちの目の前に現れるというのに、悲しいかな私も含めて人はそうした心を忘れがちで、慣れに感覚を鈍らせて、出会うもの、ことを日常の些事として流してしまうこともしばしばです。ですが、これから出会うすべてに対し思いを新たにすることができれば、世界には驚きや感動が溢れていると再び気付くこともできるに違いない、そういう思いがしたものでした。

私はこのとき愛用のカメラを下げて、だから終演後に話をしたギター奏者は、私が写真家のファンかなにか、そうした関係で訪れたものと思われたようでした。ですが実際はそうではなく、音楽に、朗読に、もちろん写真に、それぞれ興味を持っていたのです。私は自分の身分を明らかにして、学生手帳にサインをもらい、しばらく話をして、その時間はなにか清浄なものであったと思います。日常の真っ直中、大学の学舎のロビーでのことだというのに、まるでそうした日常とは切り離された、特別な、まさしくワンダーな時間が流れていたと覚えています。

それからしばらくして、私は思ったのです。センスとは感覚でありまた同時に意味そのものであります。すなわち、あらゆるものはセンスをもって存在しており、そのセンスに気付くには、自分自身の内にあるセンスをもって近づくよりなく、いわばそこにセンスの呼応しあう様を感じたように思ったのです。だから、もし誰かが、そんなことには意味がないと簡単にいってしまうとしたら、それは意味に気付くことのできるだけの感覚を持っていないと自ら白状しているに同じなのではないか。なら私は、意味がないとあきらめてしまう前に、そこにある意味をすくい取りたい。これはその後の私のモットーになっています。

0 件のコメント: