2005年11月30日水曜日

迷宮書架

 病床で、『星のズンダコタ』を読んで、そのまま『迷宮書架』に移行。『迷宮書架』は雑草社の雑誌『活字倶楽部』に掲載されている四コマ漫画で、けどちょっと掲載の仕方は異色かも。というのはですね、ジャンルごとに分けて掲載されるBOOK REVIEWの各ジャンル扉に載っているのですよ。『かつくら』は季刊で、各号に漫画は六本。「SF・ファンタジー」,「ミステリー・ホラー・サスペンス」,「現代文学・純文学・歴史・時代小説」.「エッセイ・ノンフィクション・ガイドブック」,「少女小説・ボーイズラブ」,「海外翻訳小説」のカテゴリーにまつわる四コマは小気味よく、レビューを読む前のわくわく感をうまく盛り上げてくれてます。

私は以前図書館で働いていたことがあるのですが、そこで一緒に働いていた人が『かつくら』の購読者で、私はそれを見せていただいていたのでした。知らないだけでいろんな雑誌があるのだなあと感心して読んだのですが、まさかひらのあゆが漫画書いているだなんて思いもしなかったもんですから、はじめて借りたときは驚きましたね。

各カテゴリーをうまくあしらった四コマは面白く、本好きなら共感するだろう、いやただの本好きじゃないな、書狂といったほうがしっくりくるんじゃないかと思うんですが、そうした人なら絶対面白い。で、私はそうしたマニアの口だから、やっぱり面白かったんですね。

こうした扉を飾る漫画ですから、きっと単行本なんて出ないと思っていました。だから、なんとか確保したいなあと思うのはおたくの性で、でも人の雑誌だから切るわけにもいかんし、そもそも自分の雑誌でもはさみ刃物を入れるのは抵抗あるしで、スクラップ作戦は不可。コピーあるいはスキャンする? けど、雑誌が開いちゃうもんなあ。

ある種、本に関しては異常者の域に踏み込みつつある私には、この漫画を確保するのは至難で、だからすっぱりあきらめるという選択をしたのでした。あきらめるという選択肢がない人生は、苦痛ですじょ。

で、そうしてあきらめていた漫画が単行本になった! 嬉しい! 必ず手に入れたいもんだからジュンク堂に注文して、そしたら発売日に現物を書店で見つけてしまって、どうしても我慢できないもんだから買ってしまったら、当たり前だけどジュンク堂から届いてしまった。

今、うちにはこの本が二冊あって、一冊は読みやすいように本の山の中に(うそ、全然読みやすくなんてない。行方不明本は山ほどありますから)、一冊は日の当たらないように戸棚の中に封印。いやあ、マニアっていやですね。いや、本当にいやなもんです。こんな性格に生まれたことを呪わないではおられませんから……。

各号六本、季刊だからかける四、一年で二十四本しか書かれない漫画です。そんなわけで、『迷宮書架』が出るまでに九年かかって、だから、次は、多分2012年。ああ、すごい未来みたいに思えますね!

  • ひらのあゆ『迷宮書架』東京:雑草社,2003年。

2005年11月29日火曜日

たるとミックス!

  物語からキャラへと漫画の比重が移ってきたという話に以前ちょっと触れたことがありましたが、『まんがタイムきらら』誌はまさにこうしたキャラへの重点移動を仕組んだのであろうなと、そんな風に思います。今、四コマ漫画は、四コマ一本で完結するスタイルもあれば、一回分を使って軽ストーリーを展開するものもあり、そして複数回に渡り重厚にストーリーを見せるものもありと、まさに多様なスタイルにあふれていますが、本来的には四コマ完結を基本スタイルとしており、そういう意味では四コマ漫画においてはキャラよりも起承転結で表現されるネタが重視されてきたわけです。

ですが、今はもう起承転結だけの時代ではない。よりキャラ性が前面に押し出され、むしろキャラ性の希薄なようではいけないと、そういう傾向を強めているのが今の四コマ漫画であると思います。

キャラというのは、視覚的なデザインと、それに付随する記号(属性だなんていったほうがわかりよいですかね)の総和であると思うのですが、一定の諒解のもとで組み合わされた属性によってできあがるキャラの有効性は、馬鹿にできないものであると思います。そもそもこうしたキャラ性に引きつけられるというのは人間の性みたいなもんであるわけで、昔はそうした傾向に歯止めをかけよう、そんなものはしょせんまやかしに過ぎないのじゃ、というそういう考え方があった。けど、今はそうしたものから自由になって、キャラ性への傾倒をおおっぴらにしてはばからない。そういう変化があったのだと思います。

『たるとミックス!』は悪魔退治をなりわいとする双子の兄妹の魂が入れ替わって、というそういう非現実的な前提を持った四コマで、ですがこういうのはもはやお約束といえる範疇であるかと思います。その他たくさん出てくる非常識的な登場人物にしても、そうしたお約束をうまく踏襲していて、こうした漫画を面白いと感じるのは、私と漫画が同一のお約束の範囲にいるという、共感や帰属感が生まれるからではないかと思います。

こうした面白さというのは、一種楽屋落ちに近いものがあるのかも知れません。私にはわかる、というそういう近さがさまざまなネタから感じられ、それら感覚が登場人物に振り向けられることで、登場人物への共感や愛着を引き起こすのかも知れないと、『たるとミックス!』を読んできた感想はそのようなものでした。

実をいうと、私、最初はこの漫画、あんまり好きではなかったのです。読む分には読んでいましたが、あまり面白いと思えなかった。ですがいつしか面白いと思いはじめて、おそらくこれは私がこの漫画の読み方を覚えたということもあるのだと思うのですが、でも多分それだけじゃない。私が、きらら誌や他の媒体をとおして、こうした漫画のスタイルにそぐう感性を身に付けたためであろうと、そんな風に思っています。

四コマ漫画にはいろいろなスタイルがあってといっていましたが、最初に上げたスタイルでいえば、『たるとミックス!』は一回分を使って軽ストーリーを展開するものにあたります。ですが、私はこれら萌え系と呼ばれた四コマに関しては、そうした表面的な分類ではくくれないものがあると思っています。

おそらくは、これこそが物語(四コマならば起承転結)からキャラ性への転向ではないのかと、これが現時点での私の理解です。思えば四コマという形式は、もともとストーリーが希薄でも問題がないのでありますから、キャラの魅力を最大限に生かしうるフォーマットではないかと、そしてそうしたやり方を最初に発揮させてみたのが『あずまんが大王』だったのではないかと。

思い起こせば、『あずまんが大王』を萌え漫画といって罵倒する人がいて(かつて萌え系という表現はあざけりの文脈で使われていました)、『あずまんが大王』ファンはそうじゃないよと、決して接近することのない平行線のような論争めいたものがかつてありました(もちろん、私は後者側)。『あずまんが大王』で萌え漫画であれば、『たるとミックス!』は完全にアンチあずまんがには受け入れられない漫画でしょう。

ですが、私には『たるとミックス!』は面白くて、特に兄貴たるとと妹りぼんの入れ替わりに伴う男性女性性の混乱は面白く、そこへもともと混乱している桐生まことや栗原飛鳥が絡んでくれば、もうどうしようもないくらいでした。神供子とりぼんの確執も好きなテーマで、これらがうまく回転して脂も乗ってきたと思った矢先に終了したのは、かなりのショックでした。

でも、一番いい時期に終わって、惜しまれて、漫画にとってはよかったのかも知れません。その後はじまった『ぷら☆みすらんど』も好感触ですし、私にとって神崎りゅう子はちょっと目を離せない感じになっています。

蛇足

栗原飛鳥はもうとんでもなく大好きでした。なんというか、あのたるとりぼん、桐生まこととの三役揃い踏みの回、最高でしたよ。とりわけまことにしがみついた時の背中のラインの艶めかしさといったら……。私、とならつきあえると思います。

あと、神供子は可愛いですね。ああいうタイプの娘は、あんまり好きじゃないはずなんですが、でも神供子は可愛かった。当然、りぼんも好きです。たるとりぼんやりぼんたるとのほうが好きかも知れませんが。

反省

もっと、『たるとミックス!』のよさを前面に押し出したかったのですが、力及ばず、二転三転支離滅裂、書こうと思ってたことには結局たどり着けず、大変申し訳ないことになってしまいました。

いつか、もっぺん書こう。

余談

テヅカ・イズ・デッド』は、近々にでも読んでみようと思っています。

  • 神崎りゅう子『たるとミックス!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 神崎りゅう子『たるとミックス!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。

2005年11月28日月曜日

てんちょおのワタナベさん

  『てんちょおのワタナベさん』は、記念すべき『まんがタイムきららコミックス』(現在は『まんがタイムKRコミックス』)の第一冊目であり、今から考えれば、この出版こそが偉大なる第一歩、ジャイアント・ステップであったのだと、しみじみ胸に兆すものがあります。『まんがタイムきらら』誌は、当時まだ充分に発見されていなかった萌え四コマを開拓すべく発刊され、それまでの、マニアやおたくのなかでもさらにコアな連中にしか見いだされていなかった四コマを、おたく的領域における重要なジャンルとして確立させるにいたりました。表面的にはマニアやおたく向けチューンを施すことで、しかしその底層では四コマの語法を拡大させることに寄与しました。発足した当時は萌え四コマといわれたこれらジャンルは、そのエッセンスをオールドスタイルに逆流入させるまでに成長し、そしてこの記念碑的第一号コミックスとなった『てんちょおのワタナベさん』は、本日発売された第三巻をもってめでたく完結です。

思い出します。『てんちょおのワタナベさん』が出版された当時、私はこの漫画を購入するかどうかで煩悶し、購入すればきらら系の支持、見送ればきらら系の不支持を表明するに同じであると、内心そんな風に思っていました。とはいっても、実際にはそこまで悩んだり深く考えたりすることはなくて、せっかくきらら系のコミックスが出るのであるからと、ご祝儀包むつもりで買いました。そして、これがきっかけとなったのか、その後私の四コマ系コミックスの購入には歯止めがなくなり、どれくらい買っているかは、このBlogでの記事をご覧になれば推測も可能なのではないかと思います。

『てんちょおのワタナベさん』が出た当初のきらら誌と、今のきらら三誌を比べれば、驚くほどの違いがあって、知らぬ間にこれだけの時間が経ったのだと、不思議な気持ちにとらわれます。『てんちょおのワタナベさん』のころには萌え四コマと呼ばれたこれら四コマですが、今では萌え四コマという表現はしなくなり、当時は新ジャンル開拓の最先鋒であったように感じた『てんちょおのワタナベさん』も、穏当なオールドスタイルの空気を感じるさせる少し古風な漫画と感じられます。

ここで勘違いして欲しくないのですが、古びたといってるわけではないのです。知らぬ間に、ずいぶんと遠くにきたのだなとそうした感慨がいっぱいで、移行期を担ったこれら四コマ漫画たちはその仕事を実によくはたしましたと、お疲れさまと、ねぎらいたい気持ちでいっぱいです。

2005年11月27日日曜日

But Two Came By

 Jack Orionをいろいろ聴き比べてみようという企画。最後の盤が届きました。マーティン・カーシーというシンガーでギタリストが、デイブ・スウォーブリックというフィドル弾きと一緒にやっているアルバムBut Two Came Byに収録されたJack Orionです。

私はマーティン・カーシーについてはよく知らなかったのですが、どうやらサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンの師匠ともいえる人であるらしく、有名なS & Gの『スカボロー・フェア』は、カーシーの演奏にルーツを見ることができるらしいです。と、マーティン・カーシーはそういう人だという情報を得て私は、ならきっとよい歌手だろうと、知らないままにアルバムを買ってみようという気になったのでした。

マーティン・カーシーの歌うJack Orionは、English and Scottish Folk Balladsに収録されたJack Orionと同じメロディを持っていて、歌詞にしても、そもそも外国語の聴き取りに関してはことさら自信のない私ですからなんともいえないのですが、ほぼ同じである模様です。

Jack Orionではギターは弾かず、フィドルによる伴奏が軽快で、面白みを出しています。このフィドル伴奏というのはEnglish and Scottish Folk Ballads収録の版でも同様で、これはJack Orionの主人公Jack Orionがフィドラーであったからなのでしょう。あの伴奏の響きこそが、フィドル一梃を頼りに諸国を遍歴するジャックを彷彿とさせるのでしょう。

マーティン・カーシーは、民謡の風合いをわずかに残しながらもすっきりと整理された歌い口が聴きやすく、これを派手さがないと見るか、あるいは安定していると見るか、それは人それぞれであるかと思います。

私は、ほら、地味なのが好きですから、この人の歌はいいなと、そんな風に思いました。朗々と歌うでもなく、けれど朴訥としているでもなく、歌うべきところはしっかり歌って聴かせる、ちゃんとした歌手であります。こいつはちょっと過去アルバムをさかのぼってみるのがよさそうだぞと、しかしえらくさかのぼりたいシンガー、ギタリストが増えてしまって、私はちょっと大変です。

2005年11月26日土曜日

星のズンダコタ

  ひらのあゆといえば、『ラディカル・ホスピタル』で知られた人で、他にも『ルリカ発進』とか『迷宮書架』で知られた人で、って、おおい、『迷宮書架』はもう手に入らないのかあ。名作だというのに、あの、本を楽しむ人にはたまらなく面白い漫画なのに、入手困難になっているというのはもったいないことです。

私がひらのあゆを知ったときには、すでに『星のズンダコタ』は入手困難になっていました。確か、大阪旭屋書店のコミックフロアで、二巻だけはなんとか買えたんですよ。けど、一巻はもう注文出しても通らない状態。ジュンク堂に泣きついても駄目で、しかたがないからネットで探して中古で押さえました。

その非常に入手困難だった『星のズンダコタ』が復刊されました! ああ、嬉しい。これで、ズンダコタ文明を知ろうとしてかなわなかった夢の探し手たちもうかばれることでありましょう。

クールな態度、しかし胸には情熱を秘めた考古学者、香神壮一郎が我らの主人公。行方の知れない森本博士を探しだし、そして彼はあの幻のズンダコタ文明にたどりつくことができるのでありましょうか! というのが、漫画のあらすじ、というか基本設定といったほうがいいのかな? こうした状況の中、一癖も二癖もある人物に右往左往して、時には迷い、時には奮起奮闘する香神を愛でようという漫画です。

基本的にはどたばたのコメディ。一見すれば自分勝手で迷惑そのものだけど、本質的にはチャーミングで仲間思いの登場人物がわんさと出てきて、その関係というのがすごく魅力的だもんだから、私はうらやましい。みんながみんな変わり者であることを自覚していて、だからお互いを許し合えるというか、認めあえるというか。ある種、おたく的理想の関係が成立しているのだといっていいんじゃないかと思います。

この、表面的にはぐだぐだなんだけど、基本線はびしっと通っている人間関係を描かせたら、ひらのあゆはうまいなあと思うんです。『ラディカル・ホスピタル』もそうだし『ルリカ発進』もそうだったし、で、その人間関係が暖かいのは本当に素晴らしいことだと思います。お互いを尊重しあい、慈しみあえる。けれどそれは私を犠牲にするとか、そういうのとは全然違っていて、個が立って、非常に自由で自然な状態なのです。

だから、私はひらのあゆの漫画が好き。『星のズンダコタ』は、普通の漫画読みには勧めたくない漫画ですが、私がこれぞと思う人なら、面白いよー、と勧めたい。とっておきの漫画であります。

  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第1巻 (ZERO-SUMコミックス) 東京:一迅社,2005年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第2巻 (ZERO-SUMコミックス) 東京:一迅社,2005年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第1巻 (ぱふコミックス) 東京:雑草社,1998年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第2巻 (ぱふコミックス) 東京:雑草社,1998年。

2005年11月25日金曜日

はらったま きよったま

  買おうかな、どうしようかなとずうっと迷っていて、けどこういうときは買ってしまった方がいいのです。大和証券のCMでもいってるように、人間は行動した後悔より行動しなかった後悔の方が深く残るもんですから。

というわけで買ってしまいました。『はらったま きよったま』は、なんでか知らないうちにタイトルを知っていた漫画で、この度文庫化されたのがきっかけ、どうしても所有したいという誘惑にあらがえず買っていまいました。

『はらったま きよったま』は、生まれついての霊感少女、麦子が大活躍する活劇漫画で、もうちょっとジャンルを絞るとなればホラーになるのかな? やっぱり幽霊とか妖怪とか怪奇現象があっての霊感少女という気もしないではないですし。

この漫画ですが、なんか不思議なポジションについているといいますか、どうもうまく表現できないような感じがします。ホラーテイストがあるけど怖いかといわれれば全然そんなことはないし、展開はなんというかどたばたで、熟慮とか推理とかじゃなくて勢いとか力技とか、そういうののほうが重要そうな気がします。でも、私はこの漫画がどうにも気になってしかたがなくって、というのは基本的にギャグ・コメディをやりながら、最後には正論をばばーんとたたきつけるその啖呵の切りようが気持ちいいからだと思うんですね。

まあ、そもそもが私が綺麗なもの、可愛いもの好きというのもあるんでしょうが、その可愛い主人公が、居丈高に乱暴に活躍するという、そのたくましさがたまらなくよいと、そういう理解でよろしいかと思います。

ところで、男性向け少年向けのサービスカットとなると、女の子に水着着せたりとかそういう方向に向かいがちですが、少女向けのサービスカットは、綺麗なキャラクターに綺麗な服を着せて、その上これでもかと花を散らせて!

私は、そっちのほうがずっといい。それで、その綺麗なキャラクターが[略]。

2005年11月24日木曜日

ご臨終メディア — 質問しないマスコミと一人で考えない日本人

 ヨハネによる福音書は次のようなエピソードを伝えています。罪を犯した女をモーセの律法に従い石で打ち殺すべきであるかと問われたイエス答えて曰く、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。かくして女は助かったのですが、しかしこうした出来事から二千年ほど経った今の日本では、我もわれもと先を争うようにして石を手にする輩がいっぱいで、しかしなあ、あんたらも一枚かんでた口じゃないのかね、と私はいいたい。ことが起これば、私は関係ありませんといわんばかりに聖人君子面しやがって、やってることといえば数に頼んだリンチじゃないか。

いやな国だよ。私は昔からこの国はマイノリティに冷たいと、そんな風に思っていたのですが、このところはその上冷たい風が吹く。いやな国だよ、いやな国だよ。

私はこうしたこの国の状況を理解するよすがとして、阿部謹也のいう世間を頼りにしています。この本を見つけたときには本当に嬉しかった。私の日本における居心地の悪さの実体がついに言葉になったと思った。といっても、今回は阿部謹也を扱うのではないから、これはこの辺でストップ。

森達也と森巣博対談本が出ているのを書店で見つけて、その瞬間に確保。森達也といえば私にとっては『放送禁止歌』の著者であり、森巣博は『ナショナリズムの克服』のあの人です。これだけ役者が揃って、買わないという選択肢はありませんでした。

この本が扱うのは、日本のメディアのていたらくぶりと、そのメディアとともに低きへ流れていく世相です。メディアは批判をおそれるナイーブさゆえに当たり障りのないことを書いてお茶を濁し、そのメディアの受け手はというと、口当たりのよく明快な答えを欲して、答えらしきものが提示されればそれでよし。自分で考えようとしない、飼いならされた大衆に成り下がっている。

耳が痛い。私は実際その通り、なにしろ素直なものですから、人のいうことはすぐ信じちゃいます。疑うなんてことは露とも思わず、テレビがいってるんだから間違いないんだ、そうなんだ! — こういう人間が、あの女に石を投げろというコマンドが発された瞬間に石を取り、ためらいもなく投げるのでしょう。へどが出ます。

私は、願わくば道を誤らず、そう、昨日いっていたように、善きマイノリティの友でありたいと思います。私は自分の多数派に与しないことを知っていて、ことがあらば追われる側の人間であることを自覚していて、だから私はいかなる場にも属すことなく、塀の上を歩く人間でありたい。そういう私にとって頼みは自分の実感ひとつで、だから森と森巣の対談は、ともすれば考えるのをさぼろうとする私にとって、大いなる励ましであり叱咤でありました。

そういえば、以前ロシアの作家ソローキンがいっていたことを思い出しました。彼は人生に埋もれることがなにより最悪なのだといっていて、それを例えて巨大な肉挽き機の一部になることと表現しました。私はこの肉挽き機を世間であると諒解して、ソローキンがいうように、この肉挽き機を外側から眺めていたいと思います。

肉挽き機を外から眺める方法とは、世間に取り巻かれるのではなく、距離をおいて見ること、 — 思考することをあきらめないことであろうと思います。

2005年11月23日水曜日

Chanson pour l'Auvergnat

  Chanson pour l'Auvergnat、『オーベルニュの人にささげる歌』は私の好きなシャンソンのひとつで、今、突然なにか歌ってくれといわれて、空で通しで歌えるシャンソンといったら多分これだけでしょう。出会いは例によって例のごとく、NHKの語学講座で、この歌を作ったのはジョルジュ・ブラッサンス。シャンソンを語るうえでは欠かすことのできない名前であると思います。

とはいっても、私が生まれたのはそもそも日本におけるシャンソンブームが過ぎ去った後で、テレビでそうした残照を見たことは幾度かあれど、けれどやっぱり私はシャンソンに関しては浅いのです。昔、図書館で働いていたこともあって、シャンソン関連の本も何冊か借りて読んで、けれどそれでも深く分け入ることはできず。私におけるシャンソンは表層的に過ぎるなと、そのように思っています。

私が、昼、職場の駐車場の片隅でこの歌を歌っていたとき、シャンソンも歌うんだねとおばさんが話しかけてくれたのを思い出します。日本におけるシャンソンのブームは越路吹雪がおそらく牽引役で、けれど越路吹雪が『オーベルニュの人にささげる歌』を歌っていたとはついぞ聞きません。あるいは、他の誰にしてもこの歌を歌っていたかは知らなくて、一時私のサイトを見てくれたフランス人に頼まれて調べたことがあったのですが、日本でこの歌が歌われていたという形跡を見つけることはできませんでした(誰かご存知なら教えてください)。

だもんだから、あの時の言葉は嬉しかったです。知っていてくれたことが嬉しかった。

『オーベルニュの人にささげる歌』は、苦境にあったときに手を差し伸べてくれた人が仕合せになってくれればよいと願う歌で(もっとはっきりいえば、あなたがもし死んだら天国に行けますようにという祈りです)、私にはこの歌の主人公が善良なるマイノリティの代表のように思えてなりません。

私は、善良であるかどうかは自信がありませんが、自分自身が少数派であることを自覚しているから、この歌の主人公が他人事のようには思えなくて、だからもし私が彼に会ったときには、きっと手を指し伸ばせればよいなと、そのように思います。また、私が苦境にあったときに助けてくれた人を思いだしては、あの人たちの仕合せを、魂の仕合せを祈りたいなと思います。

Georges Brassens

Juliette Greco

Timna Brauer & Elias Meiri

2005年11月22日火曜日

白衣の男子

私の記憶が確かなら、岸香里は漫画家になるまでは看護職にあったはずで、その職歴からか、看護師や医療の現場を題材とした漫画を数多く出していらっしゃいます。私は看護師や医師、病院を扱った漫画が好きで、それは私の病弱だった子供時分を反映してのことだと思いますが、いずれにせよいつかは岸香里の漫画にたどり着くと、これは決まっていたようなものだったのだと思います。

『白衣の男子』は『まんがタイムスペシャル』にて連載されているショートストーリーの漫画で、スペシャルの購読を始める前に、書店で単行本を見つけて買った。確かそんな風に覚えています。なぜこれを買うにいたったかというと、私の友人にまさしく『白衣の男子』をやっているのが一人あるからです。

単行本第1巻の時点では主人公たちはまだ看護学生で、数々の失敗をとおして大切なことを学んで、 — 残念ながらこのあたりの描写は紋切り型に過ぎて、一般のストーリー漫画を読み慣れている人には面白みであるとかを感じるのは難しいかと思います。四コマ誌におけるストーリー漫画ってちょっと微妙な線にあると思っているのですが、王道であるかマンネリであるかの線引きが難しいくらいの位置にあって、ある種作者もこうした微妙な位置を理解しているのだと思います。だから、そういうキャラクターを出して、そういう話の作りをする。

けれど、『白衣の男子』は、たまにぐぐっとくる力を発揮するから侮れなくて、それはこれまでにも何度もあったのですが、今日発売の『まんがタイムスペシャル』。2006年1月号を見て、通勤の車内、すんでのことで涙をこらえることができませんでした。

駄目かも知れないと思いながらも応援を続けるということ。同じく理解しながら、その応援に応えたいという気持ちを発揮して — 。これを見てきれい事だという人もいるかも知れないけれど、私にはそれでもこたえました。人間の無力を思い、けれど無力だということを逃げ道にしない。そういう態度が胸を打ったのだと思います。

『白衣の男子』、私は好きな漫画なので、続刊を待ち続けています。いつか出てくれれば、きっとどんなにか嬉しいことだろうと思います。

  • 岸香里『白衣の男子』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2001年。
  • 以下続刊

2005年11月21日月曜日

Camino

 サン・ヴィクトールのフーゴーは全世界が流謫の地であると思う人は完全な人であるといい、山下和美は『天才柳沢教授の生活』にて、たとえ遠くに離れて暮らしていても、この大地を心に抱くことが出来れば必ずこの結婚は成立すると登場人物にいわせました。この、大地に根ざすという感覚。遊牧の感覚といってもよいのでしょうか、nomadeのそれに、私は憧れてやまないのです。

そんな私が好きだというジプシー・キングスが歌うCamino。カミーノとはスペイン語でという意味です。道、俺の道と歌われるカミーノを聴くたびに、私は今私を取り巻いている状況を背景に押しやってしまって、太陽の下、大地を貫いてまっすぐ伸びる一本の道に立つ自分を夢想してしまいます。

私がジプシー・キングスを聴きはじめたころは、いちいち歌詞を確認したりはせず、ただ流れる歌を流れるままに聴くばかりでした。スペイン語もわからないし、そもそも聴き取りは苦手だし、で、わからないままに聴いていた曲の中に、気になってしかたがない歌があったのです。 — カミーノでした。

カミーノの意味するところは、当時の私でもわかりました。道、俺の道という歌詞になにか感じるところがあったのでしょう。歌詞を確認して、はっと思うところがありました。

自分の道を探し続けていた男の歌なのですね。街の中を、一人でさまよって、そして大地に自分の道を見つけた。道、俺の道! 手にはギター、同胞(hermano = 兄弟,同胞)とともに歌い、放浪者(vagabundo)として道の上にある彼はとても自由だ — 。

しかし、それにしても私が驚いたのは、この歌にうたわれている風景が、私の、言葉もわからないままに聴いていたときに感じたものにほぼ重なっていたことで、ジプシー・キングスはすごい。そう思ったものでした。

引用

  • サン=ヴィクトルのフーゴー「ディダスカリコン(学習論)」,上智大学中世思想研究所編訳『中世思想原典集成』第9巻 (東京:平凡社,1996年)所収【,104頁】。
  • 山下和美『天才柳沢教授の生活』第15巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2000年。

2005年11月20日日曜日

Jack Orion

 ギターをはじめたのは、歌の伴奏をできるようになりたかったからで、けれどはじめに考えていた歌というのは、フランス語の歌 — シャンソンとかあるいは日本のフォークとか。けどフォークはフォークでも、まさかフォークの源流といえる民謡 — フォークソングにたどり着こうとは思ってもいませんでした。

伝承曲といっても私はさほど馴染みがなく、だからCDやなんかで仕入れるばかり。いったい自分の育ってきた地域に伝わる歌ではなく、なんでイギリスなんだといわれればそれは実に謎なのですが、私の聴くフォークソングといえばペンタングルとかになるんですよね。

このアルバム、Jack Orionは、トラッド・ソングのJack Orion聴き比べてみたくて買ったのでした。

歌っているのはバート・ヤンシュ。ペンタングルに参加していたギタリスト/シンガーです。ペンタングルによるJack OrionはアルバムCruel Sisterにも収録されていて、けれどこのふたつのバージョンは、本当に全然違っていて驚かされます。

まず気付かされるのはそのテンポの違いで、ゆったり伸びやかにうたわれるペンタングルのものとは違い、アルバムJack Orionの版は軽やかにずんずんと進んでいく、まさに対照的な表現です。けど、こんなに違っているのに、どちらを聴いてもしっくりと曲にアレンジがあっているんですね。最初はずいぶん違うなあと思ったものでしたが、今となっては、どちらを聴いても違和感なんて感じません。

曲を自分のものにしているからなんでしょう。

バート・ヤンシュによるJack Orionは、ビートも効いたモダンなもので、土俗的な匂いは払拭されています。ペンタングルのものとトラディショナル色の強いもの、そしてこのアルバムでJack Orionを聴いてみて、多分一般に受け入れられやすいのは、これなんじゃないかと思いました。

けど、どれもがそれぞれの魅力を持っているから、一概にこれがいいとはいえなくて、こういう豊かな土壌があるというのはよいことだと思います。

2005年11月19日土曜日

imp! 〈インプ!〉

 疑似家族とか疑似親子とかそういうジャンルはかなり昔からあって、いったいなにがこんなにも引きつけるんでしょうね。私の好きなWeb漫画サイトに蛸壺堂というサイトさんがあるのですが、ここではその名もずばり『擬似親子四コマ』という漫画が公開されています。『疑似親子四コマ』第一話における著者のコメントはなるほどと思わせるものがあって、ちょっと引用してみたいと思います。

擬似親子というものが好きです。

血縁ではなく愛情で繋がっているけれど、本当の親子とは違って、どこか危ういものをはらんでいるのが。

この危うさにこそ魅力があるのでしょう。外部からの働きかけによって壊されてしまうかも知れない。あるいはうちに抱かれた波乱がすべてをひっくり返してしまうかも知れない。ですが、こうした脆さを意識しつつ、それでも関係が壊れてしまわないようにと願うところに、人間の本性が見えるのだと思うのです。

だから私も、いうまでもなく、疑似親子もの、疑似家族ものは好きで、『蛸壺堂』に公開されている漫画(特に私は『強制同居人』が好き)もしかり、そして久世番子の『imp!』にしてもしかり、でありました。

『imp!』は、二人の大学生のもとにやってきた、人間の子供そっくりの生き物メロウを軸に繰り広げられる疑似親子もので、メロウの子エバをめぐるストーリーをしっかりと組み上げながら、二人の学生の問題をあぶり出すことに成功していいます。彼らの問題は、ともすれば私たちにも通じるものでありまして、だから彼らに訪れる変化は、読者にとってのカタルシスでもあり得ようかと思います。実際私にとってはザークのテーマは切実で、欲しくてたまらないと思いながら、手にすることのできないものがこうして描かれて、私の魂はいくらかなぐさめられたように思ったのでした。

しかし、こうした疑似家族、疑似親子というモチーフは、少女漫画の系列にはよく見ますが、少年漫画のラインではあまり覚えがありません。少年漫画だと、親子や家族というよりも、押し掛け女房型になることが多いように思います。

ですが、私は押し掛け女房よりも疑似親子ものの方がはるかに好きです。疑似親子といわれて筆頭に浮かぶのは『ぼくの地球を守って』におけるラズロとシオン。最近では『サクラ町さいず』、そして『よつばと!』あたりにも疑似親子っぽい雰囲気は漂っていて、こういう関係がはらむ微妙で難しい距離と、でもこの関係を壊したくないという思いが私には心地よいのです。

引用

  • 擬似親子四コマ」第1話,『蛸壺堂

2005年11月18日金曜日

少年愛の世界

 暴れん坊本屋さん』で好感触を得、続いて遭遇した『甘口少年辛口少女』ではまってみようかという気になって、そして今日、久世番子既刊を揃えてみました。まずは『少年愛の世界』。もちろん『imp!』も買ってます。

『少年愛の世界』は、ちょっとあり得ないような状況を設定して、けれどそのあり得なさというのが面白いなあと思います。思えば、『甘口少年辛口少女』もちょっと不思議を日常に投げ込んで、その不思議をもって心の揺れ動きを浮かび上がらせていたのですから、『少年愛の世界』に関してもきっと同様なのでしょう。主人公愛の心の揺れ動きをそうっと見守って、私は非常に満足げでありました。

けど『少年愛の世界』はギャグの要素が強くて、そのギャグというのもパロディ色の強いものだから、大本のモチーフを知らないとちょっと楽しみ方に迷うかも知れません。でも、今や少年愛は国境を越えて羽ばたく世界語でありますし(本当)、その分野における最先端を走る日本で、こうした文化を知らないというのもなんです。触れてみれば、実によいものであるとわかるはず。いやなに、抵抗があるのは最初だけですよ。

って、なんの話してるんだ。

久世番子の漫画は少年愛とタイトルにはあるものの、掲載誌(ウィングス)の性質を反映させて、いわゆるBLものではありません。美しく心優しい少女と、その娘に憧れる少年を描いた、恋愛のときめきも嬉しこそばゆい、王道的ラブコメであります。

で、ラブコメにギャグ(パロディ)の要素が付加されていて、その持ち味というのが私には実によくマッチしているから、読んでいてすごく楽しかった。筋は基本的に王道系だから、読みながらでもその先に用意されている展開はすっかりわかってしまって、けれどそれでも面白さが減らないというのは、その展開というのが読者である私の期待そのものであるからでしょう。こうなるんじゃないかな、きっと落ちはこうだろう、と思いながら読んで、よしよし、いい感じに進んでる、その調子、そして、最後の最後にはやったーっ! そんな感じに読める。ほら、プロレスなんかでもいうじゃないですか。いかに技を受けるかが見どころって。まさに『少年愛の世界』に関しても、そうした受けの美学が花開いていて、なんかいいもの見せてもらったなあ、ってそんな感じ。駄目押しの書き下ろしも最高で、カバーをはいでもまた素敵。ヒットです。なにをどうしたらこっちが喜ぶか知ったはると思いましたね。実によいです。

『少年愛の世界』は久世番子の初単行本なのだそうですが、著者の多面的な魅力が一冊にぎっしりとつまって実に良質です。ギャグばかりでない、シリアスばかりでもない。けどそうした引き合う両要素の間には、この著者のらしさがぴしっと張っていて、ひとりの人のうちに広がる世界の豊かさを感じます。

  • 久世番子『少年愛の世界』(Wings comics) 東京:新書館,2003年。

2005年11月17日木曜日

G. F. Handel : Water Music, performed by The English Concert

  iPodは持ち出した全曲にわたるシャッフル再生が楽しくて、私はもっぱらこういう聴き方をしています。次に飛び出してくる曲がわからないという、そこが楽しいのですよ。その日一日の最初、いったいなにがかかるのか、それは結構重要で、今朝なんかはトレヴァー・ピノック率いるイングリッシュ・コンソートの演奏する『水上の音楽』だったから、気分は朝のバロックといった風情でした。ですが時には、朝の裕次郎だったりもするし、朝のマニアックなCDドラマだったりすることもあって油断ができない。ラジオドラマだったときは、容赦なくスキップするなあ。だったら、最初っから入れなきゃいいのに、って話ですよね。

朝のバロックだった日には、結構ご機嫌なスタートでありまして、やっぱり朝の一曲目がハードなロック(といっても、私の聴くのはおとなしいもんですが)や重厚なオーケストラだったりすると少々きついものがあります。もちろんすべてのロックが駄目なわけでも、オケものがよくないわけでもなく、ああいい感じじゃん、というのもあるんですが、バロックとかフォークだとやっぱりどことなく爽やかでしょ? って、これ、ただの偏見なんですけどね。

イングリッシュ・コンソートによるヘンデルの『水上の音楽』は、私の買った二枚目のアルバムにあたります。一番最初のアルバムが『動物の謝肉祭』、二枚目は『水上の音楽』。この頃買っていた曲は、私が吹奏楽出身ということもありまして、オケものが中心です。ですが、それでもあんまりオケの王道みたいなのは聴いておらず、そもそもイングリッシュ・コンソートというのは古楽のグループです。ヘンデルが生きていた時代の楽器を復元し、演奏慣習についても忠実に、バロックの当時の音楽を再現しようという試みがはやったことがあったのでした。私がCDを買いはじめた頃というのは、ちょうどそうした試みが一般の層にまで降りてきた時期でありましたから、私はもう自然にピリオド楽器による演奏に親しんでいって、逆に、モダン楽器でのバロックに馴染みがないという逆転現象を起こしています。

私は、当初これだけは絶対に購入しようという曲目リストを作っていて、なにしろ小遣いに余裕がなくて、その少ない予算から選ぼうというんです。名曲解説全集みたいの首っ引きで、この曲は面白そうだ、こちらもなかなかよさそうだと、そんな具合にして文章から聴きたい曲を探して、リストにまとめて、そのリストに記した曲を全部買うことはかないませんでしたが、けれどあの時は音楽に対して夢があったなあ。

『青少年のための音楽入門』を購入して、その次が『水上の音楽』というのですから、私がどれほどヘンデルのこの組曲を聴きたがっていたかがわかろうかと思います。一般に流布しているのは、F Dur、D Dur、G Durの組曲から、六曲を抜粋したようなものであったりするのですが、イングリッシュ・コンソートの版は見事全曲を網羅していて、こういうところは私好みですよね。

私が『水上の音楽』を聴きたがったのには理由がありまして、それはちょっと面白いエピソード付きの曲だからです。

どんなエピソードかというと、イギリス、アン王女の死去に伴いドイツはハノーファーからジョージ一世がくるんですが、この人はもともとのヘンデルの雇い主だったんですね。ドイツにいた頃のジョージ(ゲオルグ)は、ずうっとヘンデルに帰ってこい帰ってこいといっていたのに、当のヘンデルはイギリスが気に入ったのか住み着いてしまっていて、一向に帰る気配がなかった。ところが、ひょんなことからそのジョージがイギリスにやってきて、王様になってしまった。ヘンデルは弱って、どうにも顔向けができない。だから、王様の船遊びの際に、この曲を仕立ててご機嫌を取ったのでありました。めでたし、めでたし。

このエピソードが本当かどうかは知りません。伝説という説も濃厚みたいですね。ですが、こういうエピソードがある方が興味が出るというのもまた事実で、少なくともこのエピソードは十八世紀社会における音楽家の位置づけをよく表していますよね。

2005年11月16日水曜日

モスラ対ゴジラ

 本日、恐竜博にいってきまして、やはりこの手の博覧会というのは心躍らせる要素に満ちていますね。圧巻はティラノサウルスの全身骨格標本ですが、見どころは他にもたくさんあって、数々の小型恐竜と彼らの進化過程を追うことで、恐竜が鳥へと進化した可能性がわかるようになっているという、その企画こそが中心でしょう。しかし、恐竜への理解は私の子供時分から見ればずいぶんと進んで、新種の恐竜の発見、しかも続々と見つかっているみたいですね。研究はもっと進んで、来年には来年の、十年後には十年後の恐竜観が提出されているはずで、こうして一歩一歩歩んでいくということの素晴らしさを思った博覧会でした。

で、今日は『モスラ対ゴジラ』。私の最初に見た映画『のび太の恐竜』について書いたとき、併映が『モスゴジ』だといっていましたね。私は、併映があったということを知って、てっきり二番館でドラえもんを見たのだと思っていたのですが、これがどうも勘違いのようなのです。はじめての映画ドラえもんは、初回から『モスゴジ』併映だったと最近知って、近ごろ見ない上映形態に昔ののどかさを少し感じたのでした。

で、『モスラ対ゴジラ』。私は映画として最も評価しているゴジラは、その名も『ゴジラ』、第一作であるのですが、好きなものはといわれれば『モスラ対ゴジラ』なのであります。

インファント島からやってきたモスラの卵。続いて上陸するゴジラ。二大怪獣の決戦は実に手に汗握らせる迫力で、なんといってもモスラは正義の味方として描かれているから、そのモスラが……、ってこれ以上はいいますまい。

高校への通学途中にボークスの本社がありまして、ロボット大好き、特撮(東宝怪獣系)大好き、プラモデル大好きの私は、友人連中を連れて連日入り浸ったもんでありまして、こんときにガレージキットの存在を知って、欲しかったなあ、モスゴジ。思えばこのときに海洋堂の名を覚えたのですが、海洋堂も今や食玩で人気、広く知られた会社になってしまいました。昔から知るものは、嬉しいやらちょっと寂しいやらでしょう。

今日の恐竜博では、海洋堂原形のスーフィギュアを買ってきました。ゴジラのガレキは高くて手が出ませんでしたが、ティラノサウルスは手ごろな値段で、大人気のようです。骨格モデルが売り切れでしてね……。