2007年12月31日月曜日

無印良品BGM

今年の夏、無印良品の店にちょくちょくいってはいろいろ商品棚見て回ったりしていたのです。あの店、普段はちょろっと眺めるだけでそのまま通り過ぎるのがせいぜいのところであったのですが、今年に限ってはちょっと生活雑貨をまとめて賄う必要があったので、いつも以上に入り浸って、そうしたらなかなかに気の利いた商品というのが多いんですよ。手帳サイズの万年筆があったり、またゲルインキボールペンのバリエーションもあったりして、使えりゃなんでもいいって人ならここのを選ぶこともないかも知れませんが、シンプル、シックなデザインで統一したいみたいな人には、なかなかに訴えるものが揃っているんです。いやあ、これは危ないわ。あんまり出入りすると、うちが無印良品屋敷になりそうな気配を見せたから、今はちょっと距離を置いているんですけど、でもそれでもこれだけは揃えておきたいなというものがありました。なにかといいますと、無印良品で流されているBGMのCDです。

無印良品BGM、段ボールに数字が押されただけのシンプルパッケージが魅力のアルバムであるのですが、これがなかなかに魅力的なCDであるんです。アルバムそれぞれにテーマが決まっていて、私が買ったものでいえば、BGM2がパリのメトロで演奏するミュージシャン(メトロでの演奏は認可制です)、BGM7がスコットランドのトラディショナルソング集。アルバムごとに、世界の、地域色あふれる曲がセレクトされていて、メジャー風ではない、素朴でけれどフレッシュな印象を待った、チャーミングな音楽にあふれています。これ、無印良品のキャラクターを演出するひとつの戦略であるのだと思いますが、コマーシャリズムからちょっと離れて、素朴でシンプルな暮しのスタイルを選択したいという、そういう顧客に向けたメッセージになっているんだと、聴いてみてつくづく思います。

そんなこといっても、無印良品がすでにブランドじゃないか、結局は表面的なまやかしに過ぎないよという意見は、昔から何度も聞かされてきたことです。だとしても、こうしたシンプルでかつ一貫性を持ったソリューションもそんなにないわけで、ならそのまやかしかも知れないコンセプトに乗ってみるのもよいかと、ちぐはぐの継ぎ接ぎに取り囲まれるくらいなら、決して重厚でもトラディショナルでもない、機能性がデザインの主要素になっているといった風の無印良品ブランドにのってみるのもいいかなと思われたのです。とりわけ、一貫性をもって室内を統一する術に乏しい私には、こういうのがあると助かるのですね。

もし使い切れないほど金持ってたら、躊躇なく家屋レベルであつらえるところですがね。

無印良品BGMは、開けてみれば実はワーナーミュージックだったりしましてね、企画は無印計画、製造はワーナーだそうです。だから、思った以上にしっかりしたアルバムに仕上がっていて、むしろこの一枚千円という値付けはリーズナブル、安いかもななんて思ったものです。ブックレットにしても、歌詞とかは入ってませんけど、きれいな写真があしらわれていて、悪くない感じです。もちろん、各アルバムに収録される音楽、それぞれのジャンルのマニアというような人には物足りなさも残るかも知れない、けど私の感じでは、むしろその自然体といった雰囲気が好ましく、少しずつ買い集めていきたいアルバムとして記憶されたのでした。

というわけで、調べてみたらなんとBGM2から11がボックスでセット売りされてるんですね。こりゃいいや。というわけで買ってみました。3と7は重複しちゃうけど、誰かにプレゼントしてもよさそうだな。まあ、そのへんはこれからの話。まずは、その音楽に触れてみたい。ちょっと楽しみだな、到着を今から待ち遠しく思います。

2007年12月30日日曜日

はなまるべんと!

 漫画に限らずあらゆるものでそういえるかと思うのですが、そのジャンルなりを形成するもののうち中堅にあたる層が、結果的にそのジャンル全体の質を決定すると私は思っています。トップに位置するいくつかだけが抜きんでていて、それに続く中堅が弱いジャンルはトップの失速とともに早晩衰退しそうですし、逆に中堅層が分厚いと、次にトップを担うものも現れやすく、またトップだけではなく中堅にもファンが付く、すなわちそのジャンルを支える読者ないし視聴者ないしもそれなりの層をなすことが期待できるわけで、こう考えてみた時に、はて私の読んでいる四コマ漫画というジャンルはどうなんだろうなんて思ったりしちゃうんですね。中堅層、確かにあると思います。四コマ漫画は、漫画ジャンルの中でも多品種少量生産の傾向が強いと感じていますが、そのため中堅層も広く裾を引いているように思われて、けれどそれらを支えるだけの市場はまだ形成されていないようにも思われて、つまりはそれら中堅層の単行本が出にくいっていってるんですが、ところがここ数ヶ月の芳文社の動向を見ていますと、そうした中堅にあたると思われるものが次々単行本化されて、はたしてこれはいい結果を生むのだろうか? 私は久々にわくわくというかどきどきというか、あるいははらはら? ちょっと興奮気味に眺めているところです。

そして、大宮祝詞『はなまるべんと!』、これなんかも中堅を担う層にあたると思うんですけど、それがこうして思いがけず単行本化されて、よしきた! 私はというと、もちろん買っちゃうんですね。

内容はというと、ヒロインの所属する購買部に果敢なチャレンジを繰り返す調理実習部員あやめの、語るも涙聞くも涙の細腕繁盛記的展開の楽しいどたばたもの(ちょっと嘘)。強烈に料理の下手なキャラクターがいる、これもまたひとつの様式美でありますが、それがほかならぬあやめでして、購買部(これも部活だ!)の売り上げシェアを奪おうと画策、手作り弁当を手に乗り出してくるも、これがなかなかの殺傷力ときたもんだ。かくして購買部の一員にしてヒロイン、おそらくこの漫画でも一二を争う常識人であるちかが手を貸して、だってほっとけないものだから……、そういう具合にだんだんと友情を醸成していく。表立っては語られないけれど、ほのかに見える友達の情、そこを楽しむのがきっといい、そういう漫画であるのですね。

基本的にストーリーはあってなきがごとし、いかにどたばたと右往左往しながら楽しく騒げるか、というショートレンジの楽しみが中心にあります。まさしくコメディらしいコメディといってよく、始まった当初は顧問入れて四人だった登場人物も、徐々にその人数、そしてバリエーションを広げて、ともないどたばたの舞台も広がり、今は購買部だなんだという枠にとどまらない、学校もののコメディとして成立しています。それに、調理実習部の枠は……、げふんげふん、ともあれこれもまたキャラクター主導型のコメディの一形態で、そこには多分にナンセンスの味わいが加えられている、その味わいが好みならばきっといけると思います。ちょっとずつ常識外れのキャラクターを愛で、そうした人たちが主導するわけですから、当然騒動はだんだん常識から遠ざかっていって、けれどそこに打ち込まれる常識の杭、しかしそれは結局は彼女らの暴走を止めることができず、ナンセンスへとナンセンスへと滑り落ちてゆく! 

楽しい。そしてこの楽しさというのはキャラクターというベースが整備され、認知されるほどに増すのですから、単行本で過去の整理がつけばなお連載が面白くなるという、そういう相乗効果を期待できます。それになにより初期の楽しみにもまたこうして触れることができるわけで、そしてこれが中期へと続いてくれたら嬉しいなあ、そんな風に思っています。

ところで、カバー折り返しにある調理実習部式たこやき、あの写真見るかぎりでは、そんなに悪くなさそうです。でも食べるなら、普通のたこ焼きがいいなあ。ああ、たこ焼き食べたいなあ。なんて具合に、ちょっと小腹が空くというオプションもついてます。

  • 大宮祝詞『はなまるべんと!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年12月29日土曜日

ソーダ屋のソーダさん。

 なにがあろうと、淡々と更新し続けることを目標としているこのBlogですが、それでも節目となるような日には、これというものを取り上げたいと思っているんです、信じられないかも知れませんけど。12月ならたとえばクリスマス、そして大晦日あたりがそうした日にあたるかと思われますが、クリスマスには諸般の事情からそれほど特別でもないものを取り上げてしまったので、残るは大晦日。一年の最後を飾る更新です、これをというもの、一押しのものを取り上げたいじゃありませんか。そして私は湖西晶の『ソーダ屋のソーダさん。』を本年最後の更新における題材とするつもりであったのでした。しかし、それを前倒しして本日取り上げます。なぜか? それは単純なこと、私が待ちきれなかったんです。早くこれについて書きたいと、心がはやって仕方なかった。これほどまでに後押しされる気持ちは久しぶり、それくらいにがつんときた一冊であったのです。

 『ソーダ屋のソーダさん。』は、一迅社の『まんが4コマKINGSぱれっと』で連載されていた漫画で、第一号から同誌を牽引する役割を担っていたと認識しています。さてその『ぱれっと』ですが、創刊の当初、第一号は手に入ったのにその後がまったく続かなかったという恐ろしい巡りの悪さ、買う買わないを選択できる状況でさえなく、泣く泣くというべきか、湖西晶の投げ掛けた謎を追うこともかなわないまま、遠巻きに評判を伝え聞くばかり、私は隔絶された状況に追いやられていました。

その後しばらくして、私の行動圏内に『ぱれっと』の供給されていることを確認、しかし残念ながら中抜きとなったのはまずかった、こうなると私はよほどのことがないかぎり買いません。かくして私は、『ソーダ屋のソーダさん。』に関しては、完全にすれ違い続けたまま、単行本の発刊まで再び出会う機会を得ず、そしてこの単行本に出会ってすぐの頃、私は見送ろうかと思っていたのです。

危ないところでした。手にして読んだ今、私ははっきりとそういいきれます。もし見送っていたら、いやなにたかが漫画です、そんなにたいしたことがあるわけではありません。それはわかっているんですが、けれど私にとっては痛い損失となったことでしょう。そして私はその損失に気付かないまま過ごすんです。知らないあいだは仕合せですね。けれど、気付けばきっと歯がみしたろうと思います。ああ、なんと馬鹿な判断をしていたんだろうと、そう思ったに違いない。それくらいに思わせる内容を持った、力強い漫画であります。

そもそもからが謎で始まります。瀬戸内海に浮かぶ島、清涼島にて起こった怪事件。島唯一の商店、若く美しい女店主が死んだ……。しかし、彼女早田沙和はまるで生きているかのように振る舞い続けて、その秘密を知るものはただひとり、斎田青年だけ。この奇怪な出来事を発端に動き出した物語は、斎田青年の思惑を飲み込み、そして隠された事実を引きだしながら、駆動し続けるのですが、その下部に広がる苦渋や迷い、混乱、そしてあきらめがただただ苦いのです。表向きには可愛らしくきれいな絵柄で、またギャグや恋愛を絡めてのどたばたなど、見てほのぼのとさせる要素が支配的だから、なおさらつらさはいや増して、表面に浮かぶ甘さが心底残酷でした。そうした構造の故か、真実のむごさがあらわにされた先に、きっと悲劇的な終幕を迎えるに違いない、最後の最後まで私はそうした予感を捨てきれず、登場人物の一挙一動、感情の揺れに触れては、大いに心を乱し、まさしくその事件、現場において右往左往するひとりであるかのように動揺を来して、そして私は湖西晶の物語る強さ、強靱にして健全であろうとする思いの確かさに圧倒されて、声もなく、涙流すでもなく、けれど心の奥底にまで光が射したかのような深い感動がただそこに大きくある、そのような瞬間に立ち会うこととなったのです。

この人はすごい。百遍いっても足りません。この人はすごい。この人はすごい。絵が自ら物語り、言葉が生き生きとその先を探している。この人はすごい。この湖西晶という人は、すごい。この人を見誤ってはならない。この人はすごい。この人はすごい人です。

2007年12月28日金曜日

CIRCLEさーくる

 人は変化を求めるようで、しかしどこか変わらぬことを期待しているのかも知れない。なんていったりなんかしちゃったりするのは、この漫画、『CIRCLEさーくる』が、どことなく八九十年代の漫画の空気を持っていると感じられるものだから。なんだか懐かしく感じたり、ちょっと切なく思ったり、万感の思いが胸中に渦巻くようではありませんか。八十年代当時、私はまだ中学生で、なんか自由そうでのびのびとした高校の部活動に憧れめいたものを持っていたなあ、って具体的には『究極超人あ〜る』あたりを思い出しているんですが、けれど『あ〜る』にかぎらず、時代の空気といったらいいのか、この漫画からはそうした匂いがするんです。部活動もの、わけのわからぬクラブが、群雄割拠できるというリベラルな校風に支えられたなんでもありな世界。そしてそれは当時の世相、漫画を愛するものたちが心待ちにしていたものにほかならなかったわけで、結果群雄割拠しましたよね、そうした漫画が。特に目的があるわけでない、最終到達点が示されることもないままに、自由な雰囲気に彩られた日常がつづられた漫画たち。そうした漫画は、その表現の仕方を違えながら分化、拡大していって、そして『CIRCLEさーくる』にまで繋がっているのかも知れませんね。繋がってたらいいなあ。

けれど、そうはいっても『CIRCLEさーくる』はそこまでなんでもありな漫画ではありません。大学の漫画研究会を舞台とするこの漫画は、非常に常識的な範疇にとどまっていて、アンドロイドも出ませんし、部室をかけて闘争するようなこともなく、穏当な、非常に穏当な学園もの、部活ものの空気を維持し続けます。そしてその穏当のかげに揺れる思いがある — 。気になる彼、気になる彼女。お互いに意識しながらも、それを素直に表すことのできないという不器用な心の行方。できれば踏み出したいという思いを飲み込んで平静を装う彼彼女らを見ていると、なんだ、ほら、青春よの。

こういうことって本当にあるのよ。私は彼のことが好き、彼も私の思いに気付いているようなんだけど、それを表に出そうとしないのはなぜなのかしらという話がかつてあって、それは迷惑がられているか、あるいは俺、もしかして自意識過剰だったりする? なんて具合に確証持てず踏み出すに踏み出せないでいるかの二者択一ではないだろうか。結果は後者だったわけで、ふたりはその後めでたくつきあうことになりました。そうした模様を第三者として眺めながら、青春よのう。そんなこと思っていたあの冬の日。

『CIRCLEさーくる』には、そうした光景が、人生のある一時期に訪れをみせる季節の風景が広がっていて、それもまた懐かしく、切ない気持ちをかき立てるんですね。きっぱりといえば、ボーイ・ミーツ・ガールもの。サークル内での和気あいあいとした空気に、ちょっと恋めいた風が吹き込むくすぐったさ。このまま恋愛一直線になったりしたら今の空気はなくなっちゃったりするのかも知れないけど、だからふたりの恋が進む景色を見せながらも、このまま変わらないでいてくれたら嬉しいと、ここでもまた変化を望みつつ変わらないで欲しいと思う、矛盾した感情にとらわれるのです。

しかし、この漫画に出てくる男性陣はいいね。女の子にも興味ないわけじゃないけど、それを表立たせない彼らの心情というのはぐっときます。もしかしたら彼らこそが、変化と現状の両方を希求する私の思いそのものであるのかも知れず、楽しい今がいつまでも続けばいいと願いながらも、刻一刻と時は過ぎ、いやおうなく変わっていかなければならない現実に気付かないほど子供ではない。そうした季節をとうに置き去りにしてきた私には懐かしいと思えるその現実は、その季節に今まさに立ち会う彼らには切ないと感じられるものであるのかも知れませんね。そして私は、そんな彼らに心を映すことで切なさを追体験している。ええ、私はこの漫画に懐かしさを感じ、切なさにふける、すなわち最高の心地よさを感じているんです。

  • 榊『CIRCLEさーくる』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

2007年12月27日木曜日

Parker Sonnet Laque Ruby Red GT Fountain Pen M

 大学に入学したお祝いに、伯父がペンを贈ってくれました。パーカーの万年筆。フランス製、75と呼ばれるモデルで、ああ、それはそれは嬉しかったです。つや消しの黒軸、マットブラックですね。トリムやクリップは金メッキで、ペン先は18KのB(太字)でした。Bはちょっと私には太すぎるかなとも思われましたが、使っているうちに馴染むだろうと、システム手帳にセットして、いく先々で使っていました。けど、なくしちゃうんですね。忘れもしませんよ。吹奏楽の演奏会、アンケートを書くのに使って、そのままなくしてしまった。盗られたのかも知れないとも思ったけれど、でも結局は目を離した自分が悪いんですよね。ショックでした。なにより伯父にすまないと思って、いつか自分で万年筆を買えるようになったら買い戻そうと、そんな風に思ったものでした。

 Parker 75は残念ながらほどなく製造中止になり、結局買い戻す夢は果てました。調べたんですけどね、カタログからも落ちていまして、なので買うならちょっと上位機種になるSonnetあたりになろうかと、けどどうせなら最高機種なんて思うのは私の悪いところで、ということはDuofold、ええっと、五万円くらいからそれ以上するんですが、いくらなんでも高すぎらあという気持ちと、でも五六万なら払えなくもないよねという気持ちが戦って、しかしそれでも手を出さないのは、結局大切にしていた万年筆をなくしてしまった私が持つには明らかに不相応なペンであり、身に合わないものは持つべきではないという信条がためでした。

結局、学生時代に使っていたペンは、父のお下がりである、Parker 45、これは使って使って使い倒しました。75を失ったことがそれだけ悔しかったのか、代わりにということでもないんでしょうが、日用に使っていました。学生ですからね、講義のノートもこれですべて取っていて、院を出るまで使って、院を出てからも使って、ペン先がくたびれて、私以外のものが使っても線が引けない、それくらいになるまで使いました。

ブルーブラックのインクがお気に入りでした。かばんには常に替えのカートリッジが用意されていて、いつインクが切れても困らないようにしていました。それこそ筆記具といえばそれしか持ってなかったのですから、インクが切れたら終わりだったんです。人から借りるしかなかった。それは避けたかった。だから、インクの予備があるかどうかは常に気にしていた覚えがあります。それと、生活圏内のParkerインク置いてる文具屋の把握ですね。これ、重要でした。

私の通っていた大学だけかも知れませんが、教育実習の実習簿に記入する際にはボールペン不可、万年筆で黒インクに限るという当局からのおふれがあって、学生の不満の声に、あなた方も大人なんですから、万年筆の一本くらいは買いなさいと、そういうことがいわれていました。今だったら、使い切りタイプの万年筆型筆記具も売ってますが(使い切りを万年筆と呼ぶのには抵抗がある)、当時はそんな気の利いたものなくてですね、みんなどうしたんでしょうね。さて、他の人のことはどうでもいいとして、問題は私のペンです。万年筆は使っています。けど、インクがブルーブラック。これを黒に変えるのは簡単ですが、その場合万年筆をばらして、クリーニングしてと、大変です。いや、クリーニングはたまにやってましたけどね。でも、なんとかしてブルーブラックを使いたかった。大学当局に掛けあいまして、ブルーブラックは公文書や調印式でも使われているじゃないか、だから許可してくれと。その年の特例で、ブルーブラックは許可されるようになりました。翌年からは、黒あるいは青インクを使用することと決まりがあらためられて、次の実習では堂々とブルーブラックを使うことができました。なんでもいってみるもんだと思います。

 大学生ともなれば、万年筆を使うのがステータスだというような風潮は、残念ながら私の世代でもすでに廃れきって、見る影もありませんでした。大学の教員もボールペンを使う時代です。ましてや学生が万年筆でノートを取っているだなんて、本当に時代錯誤というか、アナクロな青春を送ったものです。大学を出てからは、すっかりコンピュータエイジ、私はコンピュータを使い、普段の用にはボールペンを使うようになりまして、もう万年筆の時代ではないと、そう自分に言い聞かせました。ええ、できれば万年筆を使いたい。でも、いったいどこでそれを使うんだ。手紙書くでなし、文書はほぼコンピュータで作成している現在、そもそも筆記具の出番がない。いらないだろう、万年筆なんて。ただ手にしたいだけじゃないか。使われない道具こそ不幸であるとわかっている癖にと、それでも折りに万年筆をと考えるのは、ただのコンプレックス、懐古趣味じゃないのかと、自問自答して、あきらめてあきらめてあきらめて、けれどあきらめきれずに思いは今まで残って、そしてそれが今日決壊したのです。

最初はLatitudeにしようかとも思いました。モダンなデザインの万年筆。ペン先はステンレスで、けれどこれがコンプレックスなんでしょう。いずれ買い戻すといった75のペン先は18Kでした。それ以下のものは選べない。だから私は最低ラインをSonnetに定めて、それにSonnetこそは75の後継ですからね。一万五千円。高いか安いかといわれれば高いでしょう。けれど、よいものは高いのです。よいものを手にするのに、値をうんぬんするのは無粋です。値引きなし正札、百貨店にいって、ペン先をXF、F、Mで試して、また色もラックブラック、ルビーレッド、オーシャンブルーを出してもらって、さすがにシズレとかチーゼル・タータンはないっすよ。エレガントすぎます。ルビーレッドを選びました。黒はシックで美しく、けれど少々遊びにかけると思われて、青は青で青すぎた。深いルビーの赤、落ち着いて上品で美しく、私が持つには美しすぎるかも知れないとは思ったものの、けれど美に対する憧れは拭えず、赤にしたのです。

長く、どうしようかと迷い、バイト先で気の合った奴と、パーカーの一番安い万年筆、Frontierを贈りあわないかといって、結局はたせなかったことも懐かしい、そして今ようやく万年筆を手にして、嬉しいかといったら嬉しい。けれどそれは高揚するような嬉しさではなく、しみじみと、ようやくと、そういう静かな思いであります。

気負う必要はないですけど、来年、2008年は、こうしたものを持つにふさわしい、値打ちのある、価値を創出できる、そういう人間にステップアップする年にしたいと、そういう思いがしています。負けませんように、くじけませんように、低きに流れず、おもねることのありませんように。時に、このペンを手にしては、気持ちを新たにしたいものだと思っています。

2007年12月26日水曜日

ぐーぱん!

 単行本で確認して驚いたのですが、未理は148センチ。そうか、『とらぶるクリック』の柚の方が小さかったんだ……。それはさておき、榛名まおの『ぐーぱん!』が見事単行本にまとまりまして、やれ嬉しや、祝着至極にございます。やっぱりね、自分の好きな漫画がこうしてまとめて読めるっていうのは嬉しいものですよ。もちろん雑誌は買っているし、今のところ処分する予定はないから、読む気になれば遡って、一から読むこともできますけれど、そうして読む楽しみと、単行本という別媒体で読む楽しみは、やはりちょっと違うと思います。毎月を楽しみに読む楽しみ、後から遡って読む楽しみ、そして単行本の楽しみ。それぞれに違った味わいがあって、そして今日その単行本の楽しみにふけることができたわけです。ちょっと仕合せ気分でしたね。

そうして楽しみに待っていた『ぐーぱん!』の単行本、仕合せ気分は置いておくとしても、やっぱり面白いなあと、そんな感想です。背の低いヒロイン、緊張すると目つきが鋭くなり、そしてバイオレンス。組長の娘、熊を撃退した等々、あらぬ噂が彼女を苦しめるも、けなげに未理は生きていきます! っていうお話。いや、ちょっと違うか。どのへんが違うかは、単行本にて確認くださると幸いです。

ヒロインの未理に、友人の唄子、菜摘が加わっての、和気あいあいと楽しげな学生生活。みんなには誤解されがちな未理だけど、ふたりは未理の本当をよくわかっているから、彼女の素直さをよく引きだしましてね、それが実に可愛い。ですが、もちろん未理の可愛さだけがこの漫画のすべてではないのはいうまでもないことです。

面白さの大本には、少なからずキャラクターの力というものがある、それは確かなことであろうと思います。あるいは属性といってもいいのかも知れませんが、唄子は委員長キャラとして確立した個性が与えられているし、菜摘にしてもちょっとおばかな空気読めないキャラとでもいったらいいんでしょうか、そういう役割がわかりやすく与えられており、しかしこれが悪いとは私は思いません。こうしたある種パターン、テンプレートになっている役割、キャラクターというものは、読者を速やかに漫画の世界に導き、馴染ませるためのレファレンスとして役立ちます。特に一回あたりのページ数も少なく、キャラクターの説明に紙数を割けない四コマにおいては有用な面も多く、最初の数回で読者に面白い、この漫画は読めると思わせなければならない短期決戦的状況においてはなおさらであると思うのです。

おそらくはこうした状況が、きらら系の四コマ誌を読みつけない人にとっては、どの漫画を見ても同じ、読んでもノレないという感想を持たせることに繋がっているのだろうけど、しかしそれでもそれぞれの漫画にはそれぞれの個性というものがあり、面白いと思われるもの、人気のあるものとなれば、他のものとは違うありようを見せてくれます。『ぐーぱん!』にしても、パターンを踏襲するように見せながらも、少なからず他とは違う個性的な顔を見せている。それも初期の段階からそうであったと、というのもあの入れ替わりの激しい雑誌で、ちゃんと第一話を覚えていますからね。目を引かせる、おっと思わせるなにかを間違いなく持った漫画なのです。

榛名まおはパターンの裏をかきます。思いがけない組み合わせを提示する、あからさまな否定をするなど、縁ぎりぎりを出たり入ったりしてみせて、ただのお約束にとどまろうとしません。お約束を理解し、それをかいくぐる。漫画という枠組みを意識させる面白さを提示して、しかもそれが嫌みや内輪受けの感じを持っていないから、すらりと読んでいける。

そして、キャラクターがだんだんに肉付けされていきます。お約束を残しつつ、お約束から脱していくといってもよいものか。登場人物が各自の個性を押し広げていくとともに、ただのお約束にはとどまらない面白さの可能性が増していくのですね。キャラクターが育つといえばそれまでなのかも知れませんが、既存のお約束から、『ぐーぱん!』のお約束にシフトし、そしてお約束にとどまらないダイナミックな展開、逸脱が現れて、それらをまとめるのはほかならぬ、肉付けされ、よりその存在の確かさを強めた未理であり、唄子であり、菜摘です。

そしてここまでたどり着けば、もう独自の世界になっている。他のなにでもない『ぐーぱん!』という漫画の、ユニークな面白さ、楽しさがそこにある。あとは、その世界に触れ、感じ、ともに遊ぶ読者が加われば、もう充分。ええ、私にはすごく充実した漫画であるといっています。

蛇足

もういうまでもないことだと思いますが、鷲頭未理です。彼女は素晴らしいです。

  • 榛名まお『ぐーぱん!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年12月25日火曜日

Aria / ET-3000 クリップ式チューナー

 この日のために買ったといっても過言ではないAria / ET-3000 クリップ式チューナーでありますが、実際に舞台上で使用してみた結果どうだったか、それを書いてみたいと思います。

結論からいいますと、これは使えるなというものでした。ギターヘッドにクリップでとめておけるので、邪魔になるということがない。音をとるのはマイクではなく、ヘッドに繋がっているクリップ経由なので、まわりの音の影響を受けることもなく、また小さな音でも充分反応してくれるから、MC中のチューニングでも大活躍です。特に今回は調律師が入っていたので、ピアノのピッチを確認しておけたのは大きくて、ステージに入る前、ピアノの音を期待できない状況でも合わせられる、ってこれは通常のチューナーでも一緒か。ということは、MC中にこっそりチューニングしやすい、これが最大の利点であるかと思われます。

こっそりチューニングなら、手は他にもあるかとは思います。特にピックアップを搭載しているギターなら、ラインインできるチューナー使ってもいいし、またプリアンプにチューナーが付いているものもあるから、その中で一番使い勝手のよいものを選ぶということになるんでしょう。けど、私のギターにはピックアップがない。なら、やっぱりこうしたクリップ式が浮上しそうです。

マイクを使って音を拾うタイプのチューナーは、環境によっては悲しいほど反応してくれないんですね。だから、サウンドホール付近にチューナーを固定しつつ、ピエゾで振動を拾い、ラインでチューナーに信号を送るようなアイテムもあったりして、けどそれは大げさだし、第一表板の振動を止めそうだから使いたくないよ。それに、これにしてもやっぱりピエゾを使っているわけで、小さなマイクでは音を拾いにくい環境、また周囲で音が鳴っている可能性のある場所ではピエゾを使うというのが最適であるという判断があったためかと思いますが、ならあえてこういう大きなものではなくて、コンパクトで目立ちにくい、かつ音に影響の少なそうなものを選ぶほうがよいだろう、ここにまたクリップ式の優位が見えるように思います。

最初にいいましたが、チューナーの活躍したのはMC中のチューニングで、今までならピアノに頼んでA音をもらっていたのですが、レッド・ツェッペリンだったかの昔の映像で、Give Me A, Give Me A ! って叫んでたのが印象的だったものだから、練習中はGive Me Aっていってたんですけど、本番中にはさすがにそれは無理。なので、チューナーのスイッチを入れて、孤独に合わせていくんです。この時に、本当に小さな音で反応が得られるのがありがたかったですね。とりあえず、おおまかに合えばバックライトが緑に変わるという機能が便利。隣の弦を頼りに、ぱっぱっぱと6弦全部を緑にしていって、最悪時間がなければこれで、余裕があればできるだけちゃんと合うように微調整もして、なにせ弦を前日に交換したところだからばりばり下がる、それをちょっとの時間で巻き上げてやる、ええ、実に重宝しました。

2007年12月24日月曜日

Small hand, taken with GR DIGITAL

My right hand今日は、毎月末恒例のGR BLOGトラックバック企画、今月は12月ということで、2007年最後のトラックバック企画ともなるわけですが、そのお題はといいますとありがとうであります。ありがとう、いったいなにに感謝をするのか。ともあれ、トラックバック企画『ありがとう』に参加します。

この企画、「ありがとう」というのを見た時に、ああ多分私はこれを選ぶのだろうなという写真を思いついていたのです。時折我が家にやってくるちびすけの手なのですが、昨年末に生まれて、もう一年が経つのか、恐ろしく時間の経つのってはやいな。その慌ただしかった一年間、父に母に、そしてそのちびの両親において、この子の存在がどれほどの喜びをふりまき、生きることへの希望であるや励みであるかを与えたかは、もう言葉にて語れる領域を超えているんではないかと思うんですね。

というわけで、月並みですが、そのちびすけの手を写真に撮ってみました。赤ん坊の握っている手は、そのうちに仕合せをつかんでいるのだよなどといいますが、実際それが本当ならどんなにかよいだろうと思います。あ、この記事冒頭の写真は私の手ですが、思いっきり開いていますね。なにか大切なものを落っことしてなければいいのだがなあ、などと台無しなことをいいながらごきげんよう。皆様方におきましては、よいクリスマス、そして新年をお過ごしください。

Hand

2007年12月23日日曜日

ブラッドハーレーの馬車

 さすがは沙村といわざるを得ないんでしょうね。内容も知らないままに買ってきた『ブラッドハーレーの馬車』。理由は、それが沙村の作だから以外のなにものでもなく、ということは私は事前に覚悟を決めておく必要があったということです。帯に見える惹句、残酷であるとか戦慄衝撃もろもろを、それこそ字句のとおり受け取って、どんな状況が描かれようと受け止めるという心積もりをしておかないとならなかったというのに、それを私は怠っていたのでした。初読の衝撃といったら! 私は、きっとすごく変な顔してたに違いない。やられた、しくじった、言い方はどうだっていいのですが、描かれる状況のあまりのむごさに、いったんは瞑目して本を閉じました。そして、覚悟を決めた私は、続きを読むべく再び本を開き、やりきれない、どーんと落ち込んだ気持ちとともにすべてを読み終えたのでした。

出口の見えない鬱屈とした日々に差し込んだ希望の光。しかしそれがまったくの偽りだとしたら。希望が一転して絶望に変わる瞬間。そして絶望の底にあってさえ、希望を見出そうとしてしまう人の悲しさ。見せかけの希望のために犯される罪もあらば、自らの犯した罪に流される涙もあり、そして、過酷な状況に投げ込まれさいなまれ続けた魂が見せるひとひらの美しさというものもある。しかし、それでもこんなにやりきれなさばかりが残るのはなぜなのだろうと思います。結局は、この漫画に描かれた罪悪が、人の善なる行いにより打破されることがなく、正義によって裁かれるわけでもなく、ただ時局という偶然によって終わりがもたらされたに過ぎないという、あまりにあまりの展開。この、人の手によって地上に生み出された地獄は、その一時を盛りと咲き誇った花こそは時勢を失い散ったがものの、その種は芽は、いつか育ち咲こうという時をうかがって、静かにひそんでいる。そうしたことを思わせるからだと思うのです。

そしてそれはあながち嘘ではなく、この漫画に関してはフィクションであったといえど、同じような地獄はこの地上のあちこちに、昔といわず今といわず、生まれては消え、生まれては消え、それを止めようというものもあれど、人の力はあまりに弱く、それは本当に空しいことで、目を覆いたくなるばかりであって、けれどそうして気付かないように目を背けてみないふりをしている状況こそが、本当の残酷というものなのかも知れないなどと思います。

真実を知りなさい コーデリア

コーデリアに投げ掛けられるその言葉は、コーデリアという登場人物越しに、読者である私にこそ向けられたものではなかったか。世の残酷に目を背けがちな私に、お前の知るべき真実を知れと、そのように促す言葉ではなかったろうか。そのように思えてならない私は、確かに見るべき真実から目を背け、狭い視野のうちのみをきれいに彩って、平和を思っている。それではいけないのかも知れない。わかっていながらそれを行動に移そうとしない、私の弱さを叱咤するかのような一冊であった、そう思います。

引用

2007年12月22日土曜日

デイドリームネイション

 私にかぎらず多くの人は、どこか高校時代というものを懐かしむ、それも自分の高校生時分というよりも、こうあって欲しかったなという夢の高校生活を求めて、ゲームに、漫画に、あるいはアニメにさすらうのではないかと思うことが私にはあります。だとしたら、どんな高校生活がよかったんだろう。さすがに私はもうたいがいな歳ですから、今から高校なんてわけにもいきません。だったらせめて大学生に戻りたいなあ、それでパソコン部というか電脳部というか、そういうのに入ってみたいっていったら、もとそういう関係の部活に入っていた人が、正直おすすめしないとアドバイスくださいました。また別所でのこと、今やりたいことはなにかないのかねと聞かれたものだから、学生に戻りたいと答えてみたら、職業訓練校を紹介されたりしましてね。いや、そうじゃないんです、そういうこといっているんじゃないんです。

『デイドリームネイション』は、『○本の住人』そして『百合星人ナオコサン』のkashmirの送る夢の高校生活漫画。漫研に所属する女子ふたり、荻野と小岩井を軸に展開される、普通のようで普通ではない、いうならば現実と非現実の狭間に放り込まれたような感覚が心地いい、日常ものであります。

最初私は、表紙の印象から無軌道な若者たちによって紡がれる日常ものかと思っていたのですが、やっぱりkashmir作だからなのか、そこはかとなく普通でない感じが漂っていて、それはなにも尋常でない存在が鎮座ましましているからとか、そういうレベルの話ではないのです。むしろそうした存在の非日常性は日常に侵食され、まるで普通のものであるかのようなそんな扱いになっているというのに、普通の領域にあるべきもののほうがおかしさの源泉となっています。発想から言動から常軌を逸していて、こんなですから、自然漫画の雰囲気もどことなくおかしく、けれどそこには私の憧れの日常が見え隠れしているようで、そうか、ラ■ュタは本当にあったんだ、こんな学生生活送りたかったなー。本当の意味での駄目さを露呈させてしまうのであります。

意味不明なことを口走り、実行するハイテンション気味ののりが間欠的に吹き出しながら、全体的にはローテンションに落ち着いて感じられるというのもまた味であると思うのです。その味わいをベースとして、趣味性の高いネタがそこここに顔を出し、それが通じればきっと面白さも増すのでしょうが、けれどわからなくっても、そのわからないという状況をも楽しめてしまう、そこがkashmirの世界であるのだと思います。そして『デイドリームネイション』、この漫画は、他のタイトルに比べてもまだ一般的なスタイルに根ざす部分が多いから、ええと言い換えればマイルド目、他のものがいきすぎててついてけないっていう人でもおそらくは安心で、けれどこの人の作風に参っちゃってる人にしても物足りないっていうこともないだろう、いいバランスの上に成り立っていると感じます。

しかしだ、この人の絵は、なんだ、ほら、悩ましいね。特に荻野、彼女のすくすくとした肢体に現れる色気には心かき乱すなにかが確実にあって、けれどそれ以上のエロには決して発展しないという、そのおあずけ感にくらくらしそうです。けど、一番きたというのが第一話のショタ風味、あの一連の流れで、そうかあるんだ — 、どうも私は知らないあいだにずいぶん駄目な方向に流されてしまっているようです。自分の意思で泳いでたどり着いた岸じゃないの、なんて声も聞こえてきそうな気もしますが、いいんです。こんな駄目な私には、このうえもなく心地よい『デイドリームネイション』の世界が、なによりの慰め、癒しなのです。

  • kashmir『デイドリームネイション』第1巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2007年。
  • 以下続刊

2007年12月21日金曜日

『Colors』白詰草話サウンドトラック

 今年の9月末にLittlewitch Vocal Collection vol. 1手に入れてから、いまだにヘビーローテーション状態は続いて、ええ、まだ飽きていませんね。もちろんすべての歌が好きとはいわない。けど、ほとんどの歌は好きなもんだから、寝る前の小一時間に、ちょっと気分よくなろうという目的には実に効果的に働いてくれるのであります。さて、そのLittlewitch Vocal Collectionについて以前書いた時に、サントラを少しずつ買っていくつもりなのだといっていましたね。そして、本日届いたのが『白詰草話』のサントラColors。『ピリオド』も一緒に届いたんだけど、『ロンド・リーフレット』をまだクリアしていない私には、さらにいうとインストールさえしていない『リトルウィッチロマネスク』を抱えている私には、なんだかちょっとしたプレッシャーになって、どうすりゃいいんだ、もう破綻しそうなんですが、などといいながら買ってしまう。だって、Littlewitchというレーベルが好きなんだもの。とりあえず買えるあいだは買い続ける所存です。

『白詰草話』、サウンドトラック。三枚組、ぶっ続けで聞くと三時間超えるという力作で、素晴らしすぎ。けれど、枚数多いから嬉しいんでなくて、収録時間数多いから嬉しいのでもなくて、バージョン違いも含めて、可能なかぎり音楽を詰め込んでみましたっていう、その心意気が嬉しいんだと思います。加えて、2003年にリリースされたこのサントラがいまだに普通に買えるということも驚きで、多分プレスし続けているっていうことなんでしょうけど、私みたいに遅れてファンになったような人間にとってはこういうのはすごくありがたくって、ああもうずっとついていきますって気分になってしまいます。これってすっかり相手のペースに巻き込まれてるってことなのかも知れませんが、私の側から見れば、関連商品を際限なく手に入れたいと思うマニアの心情を理解してくれているとそんな風にも思えるわけで、時間かけてでもサントラ全部揃えて、それで余裕があれば画集、ファンブックあたりも揃えようかと、そんな気になろうってものです。

けど、いくら好きでも、出来があんまりだったりしたら買おうとは思いません。それはもともとのゲームについてもいえるし、サントラでももちろん同様で、やっぱり欲しいなと、音楽なら音楽だけで聴きたいなと思えるよさがあったから、こうして買っていこうという気になるんだと思っています。ゲームを攻略する中で、あるいは攻略なんて抜きにしてあの雰囲気に浸りたい、そんなこと思った時なんかに、繰り返し耳にするのがこうしたゲーム音楽でありますが、その何度も何度も聴いてきたものを飽きることなくまた聴きたいと思う。耳に、印象に残った曲があって、それを好きな時に、好きなシチュエーションで聴きたいと思う。それはそれだけその音楽に引かれているということなのだろうなと思うのです。

『白詰草話』なら『白詰草話』というゲームを通じて知ったから好きになっただけで、そうしたバックグラウンド抜きに音楽だけに出会ったのだとしたら、気にも留めなかったかも知れない。確かに、すべての付随音楽にはそうした嫌いがあります。それら音楽は、劇中で場面を盛り上げ、深め、情感を揺り動かしてきたものでありましたが、それが今は逆に、ゲームをプレイすることで得られた感慨に彩られ、輝きを増している。ですが実際にこうして聴いていると、そんな仮定が馬鹿馬鹿しくなってきます。単純に音楽としてよいと思うものがある。美しいと思えるものがある。そして、愛おしいと思えるものもある。それが答えのすべてなのではないかと思うのです。

確かに、音楽に呼び起こされる感慨というのはあり、それがより一層にこのサントラの価値を高めているという側面は否定しません。けど、これは『白詰草話』という物語に触れた人、それを好きになった人だけが持てる特権なんじゃないかと思います。そして『白詰草話』の音楽は、ゲームというバックグラウンドを背負いながらサウンドトラックとして独立したことによって、私の実生活をも含めた、より広い地平を獲得する可能性を持ちました。つまり私は、この音楽をなおも繰り返し聴くことにより、きっともっと好きになるだろうといっています。今その音楽に触れながら、そういう予感にあふれていると感じています。

PC

Dreamcast

Book

Toy

腐女子はそんなに甘かないよ

「よかったら今度、僕のホワイトベースに遊びにきてみる?」 - ARTIFACT@ハテナ系

経由で知った、

「ブログ女王なオタク女子を落とすメールテク」モテるメール術 - 男の恋愛応援サイト【恋タメ】

なお最初の記事は、大きな掲示板のスレッドで紹介されてました。

これ読んで思ったんだけど、腐女子を含めおたくってのはどんだけ侮られてるんだろう。それこそ腐女子と呼ばれるような人は割合シビアなところがあるから、いきなり「ホワイトベースって何?」とか聞いたりしたら、「はあ?」とか思われて、仲間内で回覧くらいされかねない。うかつなこと口にすれば、「これだからわかってないやつは」なんて反応を、あからさまにされたりするもんなんだ。その人が優しい、ないしはこっちに好感を持ってくれている場合には、「まあ、この人はわかってない人だから、仕方ないよね」くらいでとどめてくれるかも。どっちにせよ、相手の領域に飛び込むのは危険きわまりない。

上記記事は、それがわかってない。

腐女子というかおたくというかと効果的に仲よくなるには、「この人、わかってるじゃん!」というこだわりポイントをつくのが一番で、それも単に仲間内で共有されているようなメジャーな部分ではなく、実は私はそうだと思ってたんだけど表には出してなかったというような、個人の体験に根ざすような、マイナーというかパーソナルというか、そういう微妙なところをつけないといけないんだけど、これ、まず狙っては無理だと思う。

16色しか使えないところを、パレットを工夫し、ドット手打ちで調整して作り上げられたグラデの職人技、あれは本当に素晴らしかったとしみじみいってみるとか、って、これエロゲーマーしか釣れないような気がする。

じゃあ、こんなのはどうだろう。

エスパー魔美』で、廃屋に張り込んだ魔美がトイレを我慢できなくなり、部分テレポート使って高畑の膀胱に尿を送り込むシーンについて(原作、アニメともにあります)、なんだって高畑の膀胱に送るだなんてまどろっこしいことをするんだ。尿だけ捨てればいいじゃないか。そうすれば高畑がいなくなってピンチにおちいることもなかったし、それに狙いがずれたら高畑の体の中、尿まみれだぜ。それこそ、ラブレターがあなたのロッカー奪ってるどころの話じゃない。百歩譲って、あれは女子中学生の尿だから我慢できるんであって、もし送り込まれたのが高畑の尿だったりした日にはたまったもんじゃないよ。

かくとうとうと語る。いや、これ実際に、両方とも、この人はわかってるっていって、いたく感心された話なんですが、こんなので感心されても仕方がないなあ。あ、もちろん腐女子に感心されたわけではありません。

多分、「ホワイトベースって何?」って聞いた時点で、この人は私のテリトリー外の人間だって判断されて、そもそもなんで私にガンダムネタを振る? などといぶかしがられて、「昔のアニメでそんなんがあったんよ」など、説明としては正しいけど、どっちかというといなされているというか、そんな反応が返ってくるんではないかと思います。

2007年12月20日木曜日

CrossOver Mac

 私には心残りになるアプリケーションがあって、それは一本のゲームなんだけれど、それまで見向きもしなかったWindowsに目を向けさせることとなった、まさにキラーアプリといえるソフトでありました。けれど、時の流れというものは残酷であります。Windows 9x系向けにデザインされていたそのソフトは、NT系OS上では動作しないというのです。だから私は、そのソフトを失いたくないばっかりに、Windows 9x系の走る環境をひとつ保持していて、しかしそれはいずれ壊れてしまうでしょう。こうなったら仮想環境しかないのか — 。仮想環境なら、プラットフォームが今後どれほど変わっていったとしても、旧い環境を残すことができる。私のように、レガシーなものに心を残し続ける人間にとって、仮想環境というものは極めて魅力的に映る、そんな風に思います。

そして、ここにもうひとつ問題があって、私は正規のWindows 9x系を持っていないのです。Win 95のCompanionは持っています。Win 98のレストアCDも持っています。もし今後Windows 9x系の環境を持つというなら、Companion版の出番でしょう。けれど、それをするとライセンス違反になりますわな。そうした理由から私はWindows 9x系の環境構築には乗り気でなく、MicrosoftはWindows 95を売ってくれたらいいのに。それこそ、ネットワーク機能をオミットしたものでもいいから売ってくれたらいいのになんて思い続けています。

しかし、こんな状況を打破できる可能性が示されたのですよ。仮想環境は仮想環境でも、互換レイヤーといわれる類いのアプリケーション。CrossOverです。Mac OS X上で、Windows APIを模倣するアプリケーションなんですが、もともとはUNIX向けに開発されていたWineというWin32互換レイヤーが、Mac OS X向けにDarwineとして分派、それが商用アプリとして整備されたという流れです。しかしなにが大きかったといっても、MacintoshのCPUがPPCからIntelに変わったということでしょう。PPC時代にはCPUのエミュレートが必要だったところが、今やネイティブコードが通用します。ああ、これはもしかしたらいけるかも知らんね。そう思った私は、CrossOverを試してみるべく、体験版をダウンロードしてみたのでした。

CrossOver Mac、バージョンは6.2.1です。インストールはバンドルをアプリケーションフォルダにコピーするだけと極めて簡単。ボトルと呼ばれる単位で環境を管理できるのですが、その環境というのがWindows 98、2000、XPでありまして、実に期待させてくれるではありませんか。私は矢も盾もたまらず、Windows 98ボトルを作成、インストールCD-ROMをマウントしインストーラを叩けば、おお、セットアップ画面が出るではないですか! やったか!? インストールするフォルダを選択し、次へ、次へと進んでいって、そして、そして、DDE Timeoutの発生とともに私の野望は潰えたのでした。おーまい、なんてこったい!

残念でした。正直、私はこれにかけていましたからね。けど、私はへこたれませんでした。まだ試してみたいことがあったのです。『らぶデス』のDVDを準備、マウント、そしてインストールすれば、時間こそはべらぼうにかかったものの、無事インストールが完了するではありませんか。おお、これはいったか。この、強烈に重い3Dソフトははたして動くのか!? 起動してみれば、お、音しか出ないよ! 画面は真っ白なままBGMだけが再生されて、ああ、これはさすがに駄目だよな。

次に試したのが、『白詰草話』。さすがにこれは大丈夫だろうと期待しつつインストールを終え、そして起動。やった、画面が出た。音も絵も出ている。動作もちゃんとするようです。なのでゲームをスタート。とりあえず状況を確認しようと、32倍速でぶっ飛ばしたら、途中で音もなく終了してしまいました。あれー? 再度起動して、ちょうどストールしたあたりでスキップを等倍にしたところ、やっぱり終了。ああ、これはあれだ。ムービーの再生で落ちるんだね。試しにムービーを再生しない設定で実行すれば、やっぱりそうです、問題なく先へ先へと進むことができて、吹き出しまわりの表示にこそ不備はありますが、ゲームを進めることに関しては問題なく、セーブもできればロードもできる。

というわけで、動作したところの証拠です。

CrossOverは完璧というにはまだまだ足りないところもあるけれど、ソフトによっては充分に使い物になりそうだと思わせる可能性を秘めていて、実に面白そうです。けど、私にはちょっと残念でした。なので、まだこの先も理想の環境を求めてさまよう旅は続きそうです。

引用

2007年12月19日水曜日

Opera

 昨日のアップデートが原因で、WebKitフレームワークに問題が発生。特定のサイトで検索するとブラウザが異常終了するようになってしまいました。それらサイトを使わない私にはそれほどのダメージはなかったのですが、日常的にそうしたサイト、サービスを利用していたユーザーにはきっと不都合、不便きわまりない事態が生じているはずで、こうなるととれる対処はバージョンのダウングレードか代替ブラウザのインストールといったところだと思うのですが、そもそもMac OS Xってダウングレードできましたっけ? もしかしたらできるのかも知れませんが、私はこれまで過去を振り返ってこなかったために、そうしたことができるかどうかわかりません。そんな理由で選択肢が絞られて、つまりは代替ブラウザを入れるということになるんじゃないかといってるのですが、ならどんなブラウザがいいのだろう。そうさなあ、折角だから、Operaなんてどうでしょうなんて思ったりしています。

SafariやInternet ExplorerなどといったOSにバンドルされているブラウザ以外を使いたいという人に支持されているブラウザというと、Firefoxが思い出されます。実際、私もWindowsにおいてはFirefoxを使っていて、だからMacintoshにおいても慣れているFirefoxがベターなんではないか。あるいはGeckoエンジンを用いたCocoaブラウザ、Caminoなんて選択肢もあります。これもまたなんか懐かしいですね。以前の職場でMac OS X使っていた時、私はiCabとCaminoを併用していました。けど、結局はできることの多さからMozillaがメインになっていたんですが、なんてこった、もうMozillaという名前のブラウザはなくなってるのか。これ、Link要素に対応する数少ないブラウザであったことから好きだったんですが、派生ブラウザであるFirefoxに飲み込まれたのかあ。まあ、それも仕方がないことなのかも知れません。

しかし、Mozillaがなくなっていたとなると、ただでさえ等閑視されているLink要素によるナビゲーション、いよいよその影は薄くなってしまうなあ。なんて思って、ちょっと残念です。といっても、OS X 10.3の頃にはかたくなにiCab(Link要素に対応)を使っていた私も、いつしかSafariユーザーになっているわけで、Link要素は自分のサイトにこそ用意しているけれど、人様のサイトにおいてはほとんど気にしないようになってしまって、ああ、もったいないねえ。Link要素には革新的なナビゲーションを可能にするようなポテンシャルがあったのに、結局はソフトウェアが対応しないことで、陰のものとなってしまいました。惜しいなあ、心からそう思います。

私の知るかぎりのLink要素対応ブラウザは、Mozilla、Linx、iCab、そしてOpera、これだけです。もしかしたら他にもあるのかも知れませんけれど、残念ながら私はこれくらいしか知らなくて、そしてこの中でもっとも優れた対応を見せているのがOperaです。他のブラウザと同様にprev、nextなどに対応するボタンナビゲーションを提供するだけでなく、キーバインドによる移動まで実現していて、こうした革新的なインターフェイスを数多く取りそろえているという点で、Operaに勝るものはちょっとないように思います。もちろん、個々の機能において他ブラウザにはあるがOperaにはないというものも存在します。けれど総合力、ブラウザとしての可能性を追求しようというかのようなアグレッシブな実装は、Operaが一番のように感じます。

なので、もしWebKitの不具合が長く修正されず、そしてその不具合に見舞われるようなことがあれば、私はOperaをダウンロードして試すことであろうと思います。あるいは、第三のブラウザとして、常に待機させてもいいくらいかも知れません。

2007年12月18日火曜日

イン・ザ・スカート

 ギタレレを買いに訪れた楽器店、その向かいには大きな書店がありましてね、しかも漫画専門店。楽器店の店員が皆応対に忙しそうだったから、ちょっと待ち時間と思って書店をぶらぶらしたのはいいんですが、それで本買っちゃってるっていうのはどうでしょう。買わないつもりだったんですけどね。なのに買った。いつもなら目当ての漫画があるから、手持ちの予算やら感知力やらの関係できっと見落としただろうなあと、そんな風に思った漫画。タイトルは『イン・ザ・スカート』。スカートをたくしあげる女学生が表紙(スカートの中は見えません)、それがあんまりに繊細で儚げで美しかったものだからさ、どうする? 買うか! 二つ返事ではないけれど、それくらいの勢いで購入を決定してしまったのでした。

そして、読んでみて、あらかた覚悟はしていたけれど、やっぱり性描写が無視できないくらいに表立つ漫画で、最初はやっぱり! と思って、回避が正解だったか? などと迷いを見せて — 、いや、別にエロ漫画が嫌いなわけじゃないですよ。むしろ女性が華奢に描かれるものは好きで、だからこの漫画は危険領域に踏み込みそうで、そこが心配だったんです。変な話ですが、雰囲気が好みだったりすると、なんかエロに抵抗を感じたりするっていうことはありませんか? ああ、もう、そこまでで勘弁してください、みたいな感じというか。そうしたら割合寸止めシチュエーションが多くて(8本中3本)、ほっと安心したというかなんというか。純粋性とか、プラトニックへの憧れみたいなものがそんなことを思わせるのかなあ。よくわかりませんが、少なくとも私という人間が身勝手ということだけははっきりしたように思います。

そして、そのプラトニックへの傾きというものは、本の終わりに向かうにつれて強まっていったと思われて、それはおそらく「塔の魔女」の印象の強さなのではないかと思います。類いまれな魔女の少女が最上位の魔道書と契約を結ぼうという話は、残酷なシチュエーションを下敷きにしながら、その表に平和を願う気持ちと自己犠牲、そして純愛的な展開を見せて、ちょっと同人誌くさいといえばその通りなんですが、私にはめっぽう効く、そんな話であったと思います。そして、あのラスト。ちょっとコメディのりも含んで、面白く、ああいいねと思える、優しく甘い終わり方もちょっと好みでありました。

気に入ったといえば、「塔の魔女」もだけど、「ちいさな恋のメロディ」もいい感じで、ああそうか、わかった、私は一途な少年が好きなんだ。自分の好きになった相手に対して、真摯に、真面目に、あるいは愚直に、思いを貫きたい。そうした風が見えるほどによいと思うようにできているみたいです。この本に含まれる短編はどれもそれなりに好みではあったものの、それら特に好みと思えるものが数本あったことで、印象はより一層よいものに変わって、だからもしこの傾向が既作にもあるなら、ぜひ手にしたいものだ。そんなことを思っています。