2004年11月13日土曜日

下弦の月

   書店で愛蔵版がでてるのを見て、懐かしくなりまでした。私はこの漫画が好きで、どういう風に話が展開していくのか、毎月毎月楽しみに読んでいたのです。小学生四人組の、いじらしくも前向きな姿やほのかに揺れる恋心がすごく美しくて、もう大切な大切な、宝物みたいな話だと思っています。

映画になったのだそうですね。ですが、おそらく私は見ないでしょう。

キャストを見ると、小学生四人組が中学生二人組に変えられていて、年齢が上がったのはわかります。あまりに大人びた感情の動きを実写で表現するには、やはり中学生であるほうが自然という判断だったのでしょう。けれど四人が二人になったのはやっぱり寂しい。映像であの込み入ったストーリーを追う関係上、人を減らして見通しのよさを得る以外になかったのだとは思いますが、この物語は白石蛍と香山沙絵のさざめく恋心も大切な軸であったと考える私にとっては、やっぱり寂しく思えるのです。子供たちが蛍を思いやり、その思いやりに蛍が応えたいと願う気持ちが描かれることと対照されることで、美月サイドの裏切りと逃避の物語が際立つように思えるのです。

けれども、美月サイドの視点から物語を追ってみたいという気持ちもあるんですね。裏切って傷つけてしまった人が昏睡状態であるという状況下で繰り広げられる心理劇、そこへ飛び込んでくる不思議な小学生たち! ヒューッ、なんかわくわくさせるじゃないですか。漫画が詳細にサスペンスを追いそこに仄かな恋愛劇を描いたのなら、どろどろの愛憎劇に吹き込んでくるミステリアスな子供たちというのもいけると思うのです。

映画は美月サイドを主人公にしているみたいなので、もしかしたら私の見たいと思っているものに近いのかも知れません。だから見れば結構いいと思いそうな気もするんですね(でも私は多分見ない)。

ところで、原作に見るアダムのギターは、多分オベーションがモデル(カスタムレジェンドあたりですね)。他にも、20th Anniversary Macintosh Spartacusが出て来るところもいかす!

そういった方面をご存じの方にも充分訴える、名作ですよ。

  • 矢沢あい『下弦の月』第1巻 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1998年。
  • 矢沢あい『下弦の月』第2巻 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1999年。
  • 矢沢あい『下弦の月』第3巻 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1999年。
  • 矢沢あい『下弦の月 — Last quarter』上 (愛蔵版コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 矢沢あい『下弦の月 — Last quarter』下 (愛蔵版コミックス) 東京:集英社,2004年。

2004年11月12日金曜日

彼岸過迄

 貴方はを学問のない、理屈の解らない、取るに足らない女だと思つて、腹の中で馬鹿にし切つているんです

「須永の話」の最後で千代子から告げられるこの科白に、私はずぶりと胸を一突きされたのでした。過去に同じことをいわれたことがあったからです。私をいつも馬鹿にしていると突然責められて、私は狼狽しました。逃げ場を失ったように感じ、実際追いつめられていたのです。その時の私の応対もはっきり覚えています。まるで須永の応えにおんなじでした。だから、初めてこの本を読んだときには、なんとおそろしい話だろうと身震いしたのでした。

(画像はちくま文庫版『夏目漱石全集』)

須永には学問をする人間特有の不遜があって、それを千代子は感じ取ったんだろうなと思うのです。つぶさに物事を見てよく理解し、一家言を持ってしかし自分をわきまえていると思う。ときには自分を卑下して見せさえもする。こうした態度の傲慢は、学問をかじった人間どころか、ちょっと小賢くなっただけの人間にも往々に見られるものです。私はそうした人たちを軽蔑していて、多分須永も私のこの意見に同意してくれると思うのですが、けれどその肝心の私が軽蔑されて仕方ないような人間であった。こうした現実を突きつけるのが、最初にご紹介しました千代子の言葉であるわけです。

結局は自分が見えていないということなんでしょうね。もうちょっとくどくいえば、自分の思っているところと自分が諒解しているところにずれがあるのです。漱石はこの問題を『それから』で扱って、胸と頭の乖離であると解きほぐしています。そうなんですね。私たちは頭と心にずれを持っているんです。頭でせせこましく考えることで、本当の思うところを塗りつぶしてしまっているんです。私にはその傾向が特に強くて、あたかも自己の欲求に気づかないので、自己の欲求を満たすことはできないとされる神経症の様相を呈し、自分を矮小化したり肥大化させて揺れ動きながら千代子を傷つけること、須永に同じであったというのですね。

  • 夏目漱石『漱石全集』第7巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『彼岸過迄』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『夏目漱石全集』第6巻 (ちくま文庫) 東京:筑摩書店,1988年。
  • 夏目漱石『彼岸過迄』(新潮文庫) 東京:新潮社,1952年。

引用

2004年11月11日木曜日

グラン・ブルー

 私はこの映画でジャン・レノを知って、だからこの人がどんな役をやったとしても、どこかにエンゾを見ようとしてしまうんですね。しかし本来脇役であるはずのエンゾの魅力的なことったら、主役のジャン・マルク・バール演ずるジャックを押しのけてしまっているようではないですか。いや、ジャックももちろん魅力では負けていません。ですが、確かに魅力的ではあるのですが、私には、人懐こさや悲しいまでのひた向きさが一堂に会したみたいなエンゾが主役以上に魅力的に映ったのです。

多分、こういう人ってたくさんいますよね。

さて、エンゾ好きという点では多数派に属する(のかな?)私ですが、実はこの映画でもう一点好きなところがありまして、そちらに関してはおそらく少数派です。

どんなシーン? といいますと、潜水の大会にやってきた日本人集団が、なんだか身内だけで変な盛り上がりを見せて、結局選手がプレッシャーで駄目になっちゃうというところ。私、このシーンがすごく好きです。

なんで日本人がこんなけったいな描かれ方してるのに好きなのか、それはこのシーンに日本人像がうまくでている、日本の中にいるとそれほど異質には思わない身内だけで固まる閉鎖性、変に馴れ合っている気持ち悪さが表現されていると思うからなんですね。私、この身内で凝り固まるの、大嫌いなんですよ。ほら集団が個人を包摂している感覚、そこには個人の意識よりも集団の論理が優先されていて、みんな息苦しさを感じながらけれどあえてその集団制を維持しようと努めている奇妙さ。大っ嫌いです。なので、初めてこの映画を見たのは小学生だったか中学に入っていたか、それくらいの頃だったと思いますが、よくやってくれた! と心中喝采しました。自分の中にあった日常の違和感が、見事にかたちになった瞬間だったのです。

対してジャックとエンゾはどこまでも個人で、自分の信念やプライドが大きすぎるために、他者よりもロマンを優先してしまうのですね。家族も恋人も顧みることなく、一途に自分の目標に邁進する。これ、周りの人間にすればたまらん話ですよ。けれど私は、こうした生き方に非常に共鳴してしまってしびれたのです。ああ、こんな風に生きられたらなんて素晴らしいだろうかと思ったのです。

だから、チャンスがあればエンゾやジャックみたいにしようと思ってる私です。周りには迷惑をかけるか知らないけれど、留まることで澱んでしまうのなら、私は一生流れる水でありたい。理想にまっすぐ目を向けて逸らさない意志を持ちたいと願うのです。

2004年11月10日水曜日

Nights In White Satin

 遅れてきたロックファンである私は、数年前に発見した『Nights In White Satin』に夢中になって、もう実際驚いたというかあぜんとしたというか、オーケストラと共演するロックの美しさ、深遠さにすっかりまいってしまったのでした。

1967年にリリースされて大ヒットしたアルバム『Days of Future Passed』のラストナンバーを飾ったのがこの曲でした。アルバムの邦題は『サテンの夜』だったそうで、それだけこの曲のイメージが強かったこと、人気のあったことがうかがえます。

しかし、こうしてあらためて確認してみると私の生まれる前のことなんですね。

私は数年前から六十年代七十年代のロックを聴くようになって、ジャンルとしてはプログレッシブロックまで含まれるくらいの時代ですね、その土壌の豊かなことにおののくほど驚いたのでした。ロックに導入されるクラシックや民俗音楽的な要素の数々。あくまでも当時最先端であることを目指したロックは、多様な様式を飲み込んで、しっかりと自分のものとして消化したのですね。思えばこういうことは、いつの時代でもあり得たことで、例えば古典派の作曲家はトルコ軍楽の要素をこぞって取り入れましたし、ドビュッシーもガムランの響きを意識していました。1960年代70年代には、ロックにおいてその動きが目立ったのですね。自身のフィールドを拡大して彼らの音楽は絢爛豪華に花開いたのだと、過ぎた昔と思いながらもその当時の潮流の激しさが目に浮かぶようです。

この時代にロックに取り組んでいた知人に、彼らによって大抵のことは試されてしまっていると話したことがありました。そして『Nights In White Satin』が好きだ、あのオーケストラの広がりが非常に素晴らしいというと、あれはデッカのスタジオで録音されたもので云々、いろいろ教えてもらうことができたのでした。

オーケストラが使われ、そして語りが効果的に使われているせいもあるのでしょうが、この曲からは強い物語性を感じで、あたかも映画みたいに感じられます。そして、アルバム全体を見渡してみれば、その印象は間違っていなかったということがわかるんですね。いわば、アルバムという全体が収録曲という部分にまでしっかりと反映しているという証拠なのでしょう。この時代、特にプログレ系のアルバムは、アルバムとしての完成度を追求していたといわれますが、こうしたことをよくよく理解できるアルバムです。

Moody Blues & London Festival Orchestra

2004年11月9日火曜日

Wizardry

 なんだかクラシックゲームが密かな人気のようなので、クラシック中のクラシックといえるゲーム、Wizardryを取り上げるのでした。なにしろ、私が小学生だったころ、初めてドラゴンクエストに触れた時点ですでに古典になっていたほどのゲームでして、なのに今なお愛好者がいるというのですから、その偉大さは私が重ねて説明することもないのかも知れません。

けどいいたい。WizardryはコンピュータRPGの始祖にして完成形であります。私が最も長く、深く遊んだゲームはまぎれもなくWizardryで、RPGというジャンルを思うとき常に思い出すのがWizardryで、あたかもその世界が存在するかのように夢想したのもWizardry — どのようなときでも頭の片隅に大切にしまわれている、かけがえのない思い出みたいなゲームなのです。

人によって一番いいという版が違っているのもWizardryの面白いところで、大抵その人が最初に触れたものを最上というケースが多いようです。というのは、つまり私にとってはファミコン版こそが最上であるといいたいわけです。

ファミコン版。ROMカセットで供給されるため、ディスクアクセスといった時間的ロスは発生せず、バッテリーバックアップによって随時セーブされるタイミングも絶妙。もちろんセーブに時間がかかるということもありませんでした。末弥純によるシックで存在感あるモンスター原画も素晴らしく、そして羽田健太郎のBGMの実によく練り上げられていること。素晴らしかった。ファミコン版Wizこそ最上という人は、おおむね私のいうところに賛同してくださるものと思います。

今Wizを遊ぶというのなら、プレステ版が一番入手しやすく、手ごろなんじゃないかと思います。『リルガミンサーガ』が第一作から第三作までを、『ニューエイジ・オブ・リルガミン』が第四作と第五作を収録していまして、『リルガミンサーガ』からプレイするのがいいでしょう。

プレステ版のいいところは、オリジナルに比較的忠実に移植されているところです。ファミコン版ではデータの移行の問題からキャラクターのレベルがリセットされた第二作ですが、プレステ版はオリジナル版と同様、第一作で育てたレベルや所持アイテムをそのままに送り込むことができます。また謎解きについても、タロットの知識を要求するなどの理由でファミコン版では削られていたのがちゃんと収録されています。なので、Wizardryをプレイするという観点からみれば、ファミコン版よりプレステ版のほうがいいかも知れませんね。

ただ、ファミコン版ユーザとしてはプレステ版には文句があって、ファミコン版同様末弥純のモンスターグラフィックを採用するなら、なんで呪文名やアイテム名もファミコン版同等のものを選べるようにしてくれなかったんだと思うんですよね。

とはいえ、文章を英語オリジナルに変更したり、画像もPC-98のを選んだりできるのは(ファミコン版でも言語選択できたんだからこれくらい当然という気もしますが)ありがたいかぎりで、またこんな風にちゃんと作ってくれるからこそ、アイテム名に文句をいいたくなったりもするんですね(よっぽど同様の文句が多かったのか、『ニューエイジ・オブ・リルガミン』ではファミコン版と同じアイテム名を選べるようになっています)。

ともあれ、今Wizardryを楽しむならプレステ版がベターというのは間違いありませんので、興味のある方はぜひプレイしていただきたいものです。

ファミコン

スーパーファミコン

プレステ

セガ・サターン

PC

2004年11月8日月曜日

旗色悪い古舘

報道ステーションに石原慎太郎がでていて、古舘伊知郎は果敢に食い下がるも敗色濃厚、石原の揺るぎないことまさしく石の如しです。

例えば教育にしても、強制だなんだと問題にするのが問題で、だって近代教育の生まれた根拠を振り返れば一目瞭然です。国民国家を成立させるためには国民を作り出さねばならず、教育に期待されるのはまさにその一点だったのでありますから。ゆえにアメリカを問わず中国を問わずどこの国でも愛国心教育をして、子供のうちから国家への忠誠をたたき込んでいくのであります。石原の前提はそこにあるのですから、君が代日の丸の強制は問題じゃないのかと問うても、ちっとも問題なんかあるものかという答えが返ってくるのは当たり前なのです。

古舘は負けて当然、相手の土俵で戦いすぎです。石原の得意分野で、理論武装もすんでいるところへ飛び込んで、なにしろ石原は正義は我にあり、文化伝統が自分の味方と思ってるような人ですから、持論を曲げるなんてことあろうはずがない。

しかし文化や伝統なんて、時流についていけないことを体よく言い換えただけのものですよ。あるとき、なんかの都合で作り上げられるのが文化や伝統で、常に変化し続ける動きのなかには生まれないのが文化伝統です。文化伝統と呼ばれたとき、すでにそのものは死に体なのです。じゃあ死に体にすがるのはなんでなのか? 古びた時代にノスタルジーを見て、昔はよかったと思う人間がいるからです。ことわざにいいます、喉元過ぎれば熱さを忘れる。文化伝統が大好きなんていってはばからない人は、過ぎた熱さを忘れてしまうような人です。

名探偵活躍する場所

今日、名探偵コナンの終わり数分をちょっと見て、コナンに限らず現在の名探偵ものは、警察の能力を不当に限定することで成り立っているのだと思ったのでした。名探偵が偶然に見付けるなんやかやで崩れてしまうようなせせこましいトリックなど、警察の捜査力や組織力をもってして解決できないわけがないではありませんか。

なんてったって警察は、私らがやると法に触れるような、それこそ憲法に保障されている権利を侵害してしまうくらいの捜査をしても罪に問われないんですから。

警察国家に名探偵の出る幕なんてないのですよ。

道具術

Yahoo! に入れても出てこない、どうしたらいいのかと母親がいうのです。いったいなんのことかと思ったら、新聞の広告に出ていたURIをそのままYahoo! で検索したらしく、つまりコンピュータに親しみのない一般の人の知識はこの程度であるということなのでしょう。

私たち、比較的若い世代はこうしたコンピュータに疎い先の世代を見て、なんでそんなこともわからないのかといぶかしがったり馬鹿にしたり、インターネットを適当にぐるり見渡してみればそうした言説は簡単に、しかも多量に見付けることができるはずです。けれどコンピュータをひとつの道具として見れば、この新しい道具を使おうとする人が使い方をわからないというのは当たり前のことで、なんら馬鹿にされたりする必要などないのです。私たちは、先の世代が普通に使ってきた道具をもはや普通には扱えなくなっている世代に属しているのであり、道具とともに蓄積されてきた技術や知識を備えないことを省みれば、先の世代がコンピュータに疎いこととちっとも違わないのですから。

そんなわけで『道具術』という、以前読んだことのある本を思い出したのでした。

この本の扱う道具というのは、私たちが日常に使う道具ではなくて、斧やナイフなどアウトドア指向の強いものです。しかも出来合いの道具をそのまま使うのではなく、自動車のサスペンションに使われる板ばねからナイフを作るなど、自給自足的色合いの濃い、いうならば昨今忘れられ欠けている本来的な道具とのつきあい方を再確認できるような内容です。

道具に関する説明は図解入りでわかりやすく、しかも作り方、使い方を説明するだけではありません。なぜこの道具を使うのか、作ったのかを含めて、生活と密着した道具観が語られています。本来的に道具というのは、人間が外界のなにかに働きかけようとするときに媒介となるものでして、道具から外世界を見るという視点があるといえば言い過ぎかも知れませんが、単なるハウトゥーを脱してライフタイルを含めた人生観を感じさせる一冊になっているんですね。

今、この本を思い返せば、コンピュータを理解できないのは手に返ってくるフィードバック感に乏しいからかも知れません。ある種の人たちはコンピュータに関しても間違いなくそのフィードバックを得ていますが、そうしたものを得られない人にとっては永遠にわからない機械であり続けるんでしょう。

しかし、手で使う道具にしても、そのフィードバックを感じない人がいる(!)のですから、結局は人の力というか感受性の問題というかにつきますね。繊細な感性を失いつつある近代人は、そのことをもっと真摯に反省しなければならないなあと思うのでした。もちろん、自分も含めてですよ。

2004年11月7日日曜日

BAD HOT SHOW

 私は長く音楽に関わってたというのに、いわゆるミュージックビデオというものの存在意義を理解しなかったのです。ミュージックビデオというのはPVとかミュージッククリップとかそういうのではなくて、ライブの録画をパッケージにしたものといえばいいと思います。別にレコードがあれば充分だし、映像なんてあっても見ないよ、使い回しも悪くなるじゃんなんて思っていたのですね。

けど、3弦ベンチャーズ見てみたさにこのDVDを買ったことで、今までの思い込みががらりと変わってしまったのでした。ミュージックビデオがこんなに面白いものだなんて、まったく自分の不明を恥じますよ。

さてさて3弦ベンチャーズというのはなんかと申しますと、BAHOのふたり — 竹中尚人 Char と石田長生がそれぞれ3弦だけ弦の張られたギターを使って、ベンチャーズメドレーをやるというものであります。偶数をChar、奇数を石田長生が担当、合わせるとギター一本分になりますね。正直すごい出し物だと思って、見ないと駄目だと思ったのでした。

けれど、こういうちょっと色物っぽい部分も面白いのですが、それ以外も非常に素晴らしかった。懐かしの名曲を集めたGSメドレーは、懐かしさよりもかっこよさが前面に出ているし、オリジナルの曲も渋かったり楽しかったり胸に染みたりのりのりの大盛り上がりだったり、ああこりゃすごいと感じ入ったのでした。

持ち味の違ったギタリストふたりのステージは、やっぱりギタープレイに興味津々になってしまうのですが、けれど歌もすごくいいんですよね。「誰のためでもない舟」とか「酸素」とか、「アミーゴ」もいい。どれがいい、どれが好きと指し示すこともできますが、そんなことを抜きに、ステージ全体がいい。沸くんですよね。なんかうきうきするんです。こんなの、ほんとにはじめてでしたよ。

DVDでこれだけ面白いんだったら、ライブだとどんなになるんだろうと思いますね。機会があれば見に行きたいと思っていますが、残念、いまだその機会には巡り合えていません。だから、仕方ないから過去のDVDをチェックするみたいになって、結局ミュージックビデオにはまってしまったんですね。

そんなこんなで、『BAD HOT SHOW』は私にとっての一大転機となったのでした。

ところで、二人がこのステージで使っていた楽器、Ovation Elite 1868Tを欲しいなと思ったことがあるというのは内緒です。おんなじ楽器を使ったからといって、あんな風に弾けるなんてありえないのにね。

2004年11月6日土曜日

川端康成・三島由紀夫往復書簡

 私がこの本を読んだきっかけというのは、フランスの友人が川端と三島の往復書簡集を読んでいるといっていたからでありまして、欧米におけるこの二人の知名度はすごいのだなと感心しました。いうまでもなく川端はノーベル賞作家でありますし、三島も、ノーベル賞こそはとっていませんがかなり知られています。作品も数多く翻訳され広く読まれているのは周知の通り、さらには金閣寺などはオペラにもなりました。こうした背景があるからこそ、往復書簡が翻訳出版されることにもなったのでしょう。

往復書簡を読んで、私は三島が意外に身近な人なのかも知れないと思ったのでした。三島由紀夫といえば、どうしても楯の会や自衛隊駐屯地での事件を思ってしまい、どうにも近寄りがたい雰囲気を感じていたのですが、書簡に見る若い三島は、なんかいろいろ悩んでみたり迷ってみたり、さらには愚痴めいた弱気もみせたりする。また自分の著作に対する自信や謙遜や喜びやいろいろの感情がないまぜになって、生き生きと表現されている。上気して一生懸命敬愛する川端先生に話す姿が目に浮かぶような文章の数々です。

手紙はもちろん若いときだけでなく晩年のものも所収されており、そこに見る三島は、変わらず情熱的でありながら、どこか切迫しているようです。いや、これはこの人のその後を知っているから、そのように感じるというだけかも知れません。けどおそらくそうではなく、三島は実際追いつめられていたのでしょう。意志や意識を先鋭化しようと努め、ついではその自ら築き上げた精神に追いつけなくあえいだのではないかと感じたのです。いや、もちろんこんなものは私の感想で、実際のところはわかりません。ですが、少なくとも私はこうした三島の側面を知ったつもりになったことで、今までより以上に三島を近しく読めるようになったと思います。

2004年11月5日金曜日

もっけ

   ちょっと昔を思い出させるような懐かしさが漫画全体から漂ってきて、それだけで私は嬉しくなるのですよ。私の育ったところは、ちょっと田舎でけれど実際には田舎ではない — 核家族化の進みつつある住宅地 — という中途半端なところでして、けれど昭和という時代には、道端の神様や彼岸と私らの世界を往き来するなにかが確かにいたようなのです。夜には暗がりがあって、町内にはちゃんと地蔵が祭られていて、それにそうしたものたちの名前が大人の口にのぼることも珍しくありませんでした。

身の回りのあらゆる事物、一木一草までに魂や神性が宿っているというのを子供はおぼろげながらでも感じていました。こうした実感が日本的な宗教観の基調をなしていて、ある種のモラルを支える力にもなっていたと思うのですね。少なくとも私にとってはそうでして、偏在する人でないものたちへの意識が、時々の判断や自制に少なからず関わってきたのです。

けれど今ではこうした素朴な宗教観というのはなくなってしまったんでしょうか。まったく顧みられなくなるか、あるいは巨大組織化した宗教ヒエラルキーに取り込まれてしまうか、そういう極端なあり方ばかりが目に付いて私は疑問ばかりです。内面の精神世界というのは、本来その世界を胸中に抱く私たちひとりひとりが真摯に受け止め育むものであるはずなのに。そのように考える私は、昨今の精神世界を取り巻く状況にどうしても馴染めないのです。

この漫画には、神様を含めた人外の住人への温かな眼差しと同時にシビアな感覚があふれていて、おそらくかつて私たちの祖先はこうした感受性を持って自然森羅万象に対していたのでしょう。実際にどうであったかはわかりません。『もっけ』の世界そのものが一種の理想像である可能性もあって、けれど私はそうは思いません。口伝伝承のなかに豊かに広がりをもって存在する、人の踏み入れることの許されない世界。このような異質な世界が意識されることで、私たち人は奢ることなく、自分の分をわきまえた生をまっとうすることができるんじゃないかと思うのです。

『もっけ』の世界は、ノスタルジーをもって振り返られるみたいに懐かしく、けれどこれは現在の話でもあります。物神崇拝が嫌というほど進行してしまった私たちの世界は、この漫画の主人公たちのように豊かな精神世界を再び手にすることで、忘れられたバランス感覚を取り戻すことができるんじゃないかと、私はただただ彼女らの世界を思慕するものなのです。

  • 熊倉隆敏『もっけ』第1巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2002年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第2巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2003年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第3巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2004年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第4巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2005年。
  • 以下続刊

2004年11月4日木曜日

マーゴス・エレーラ

 マーゴス・エレーラはメキシコ出身の歌い手でして、歌ってる歌のほとんどは自作であるという、そういう意味では非常にオーソドックスな人であります。シックな雰囲気漂うジャズっぽい作風は、アメリカはニューヨークそしてボストンにてジャズを学んだという経歴から考えれば普通ですが、単なるジャズという感じもしないんですよね。ジャズの雰囲気もよく消化して、シンプルで力のある音楽に仕上げてられているのですから、どっしりとした音楽の土台というのがあるんだろうなと想像させるのです。

本当によい音楽ってどんななんでしょうね。と、こういう問いへの答えのひとつがマーゴス・エレーラであるのだと思うのです。

例えば私なんかが音楽を作ろうとするとどうしても理屈くさくなって、ごちゃごちゃ複雑にしてしまいます。そして悪いことにこの手の音楽は巷に溢れていて、しかも決まって音楽としての力に欠けているんですね。

それに比べてマーゴス・エレーラのシンプルにして揺るぎないこと。もちろん技巧や技術はそこかしこに見られて、音楽を洗練させていること間違いありません。ですがそういった技巧技術の前に音楽のボディがある。ボディがしっかりしているから、周りをいろいろさわったとしてもちっともへこたれることなく、受け止めて更なる魅力を発揮できるのです。詩にしても同じことで、簡潔に美しいイメージを捉えている。これがセンスといえばそれだけのことですが、このセンスを育む音楽的土壌があったのだと思います。それはきっとメキシコの古くからの音楽で、普段巷で聴かれ歌われている音楽で、それらが血に溶け込むほどに深められているのでしょう。

先達ての九月、東京と大阪にて開催されたFiesta Mexicanaでこの人のステージがあったそうでして、私はNHKのスペイン語会話でそのことを知りました。ああもっと早く知っていたら絶対聴きにいったのに、と私はいつも情報が遅くてあとから残念がるんです。

2004年11月3日水曜日

マツケンサンバ

 もう、いわずと知れたという感じがしますが、そう、松平健の大ヒットタイトル、その名もマツケンサンバです。

なんでこの時期にマツケンサンバを話題にするかと申しますと、先達て知人と今年の紅白はどうだろうという話をしたときに、このタイトルがでたんですね。だってですよ、はっきりいいまして今年話題になった曲といえば、私、マツケンサンバしか知りません。去年はなんだかいろいろちょこちょこヒットだなんだというのがあって、それなりに話題にもなったのもありましたけど、今年はそういったヒット曲ってあったのでしょうか。もう本当に全然思い浮かびませんということで、マツケンサンバ、これで決まりと相成ったのでした。

紅白でマツケンサンバ、考えただけでもなんだかわくわくしますよ。イタリア製のラメ生地でこさえた着物をお召しの健さまが、NHKホール狭しとサンバのリズムで大暴れです。子供から大人まで巻き込んで、老若男女大興奮のステージになること請け合い。この曲をはずすわけあるまいと思ったんですね。

さて、この曲が話題になって妙に受けた背景には、音楽が変にアートぶったものになってしまったという状況があるためなんじゃないかと思っています。この数年の傾向だと思うのですが、テレビなんかに出て来る新曲って、シリアスな顔をしてお芸術でございといった風があって、昔の歌謡曲が持っていたエネルギーみたいなものに欠けていたと思うのです。

そこへいくと、マツケンサンバは最初っから変な気取りは捨ててしまって、エンターテイメント一直線、娯楽を追求しお客をいかに楽しませようかという気概に満ちあふれています。こうした割り切りが逆に新鮮さを感じさせたんじゃないかなあと思ったんです。

俗っぽそうにみえて斬新。芸術ぶるわりにどこか手垢のついたような音楽がはびこる中、マツケンサンバは音楽の本来持っていた力をフルに動員して、目立ちまくって格好良かったですよ。いや、本当によかった。私なんぞは、もう骨抜きにされてしまっているのですよ。

2004年11月2日火曜日

ソーサリー

 昔、コンピューターゲームが今よりももっと一般的でなかった時代、ゲームブックというのが子供たちの間で人気で、もう猫も杓子もゲームブック。いたるところでステータスシートに書き込みしながら、さいころを振りページをめくったものでした。

今の人は知らないかなあ。番号を付けられた短文がたくさん用意されていて、その番号をたぐりながら読み進めていくことで、物語を楽しむことができるという寸法です。そう、ちょうどこんな具合!

318君の目の前には古びたテーブルが置かれていて、その上には小箱と錆びたナイフが無造作に投げ出されている。小箱にはいかにも頑丈そうな金属の留め具がつけられていて、とても開けられそうにない!

テーブルをもっとよく見てみるなら243、小箱を調べるなら69、ナイフを手に取るなら102へ進みたまえ。

ゲームブックが流行したのは私が小学校の高学年から中学校を卒業するくらいまでの時期でした。ドラゴンクエストが発売されRPGの認知度が高まりつつあった頃でもあり、剣と魔法の世界というのが日本の子供にもぐっと親しみを持って感じられるような時代が到来していたんですね。子供が買うには高いコンピュータゲームとは違い、ゲームブックは文庫本価格というのもまた嬉しいところでした。お小遣いを貰ったらゲームブックを買って、友達と回し読み(回しプレイ?)をしたものです。いや、本当に懐かしいです。

私が最初に買ったゲームブックというのが、まさにこのソーサリーを構成する一冊『七匹の大蛇』でありました。いや、もう遊びましたね。遊びまくったおかげで、なんの危険を冒すこともなくすべての蛇を始末することができるようにまでなりまして、いや本当に遊び過ぎるくらい遊んだものです。

ゲームブックは普通、一冊でひとつの冒険が終わるのですが、ソーサリーは四部作の大作でした。一巻目の『魔法使いの丘』が終われば『城塞都市カーレ』へと進み、『七匹の大蛇』を経て『王たちの冠』で物語が完結します。それぞれの巻での達成度によって、次巻でのスタート地点が変わるんですよ。より目標を達成して終われば終わるほど、次の物語が有利になるようにできていて、どうすればよりよく次に持ち越せるかを考えて、ほんと熱中しました。本のへりがすり切れるくらい遊びましたよ。

この興奮のゲームブック『ソーサリー』シリーズが、なんと現在新訳にて刊行中ということをついふとしたことで知りまして、旧訳を引っ張り出してきて遊んでみるか、あるいは新訳にチャレンジしてみるかなんて、そんなことを思いかけてるんですね。いざはじめればやめられなくなるのは火を見るよりも明らかで、でもそうせずには居られないだけの魔力を持った本なのです。

文体、挿し絵、物語世界、すべてがきらきらと輝いて思い出されるがようですよ。思い返せば、私の魔術師への憧れというのはこの本から始まったのかもしれない。戦士よりもはるかに強力で魅力的な魔術師像は、まさにこの本によって育まれたものと堂々いうことができます。巻末の魔術書がどれほど子供だった私を甘くくすぐったことか! ああ、本当に遊びたくなってきちゃいましたよ。

  • ジャクソン,スティーブ『魔法使いの丘』安藤由紀子訳 『ソーサリー』1 (創元推理文庫) 東京:東京創元社,1985年。
  • ジャクソン,スティーブ『城砦都市カーレ』中川法江訳 『ソーサリー』2 (創元推理文庫) 東京:東京創元社,1985年。
  • ジャクソン,スティーブ『七匹の大蛇』成川裕子訳 『ソーサリー』3 (創元推理文庫) 東京:東京創元社,1985年。
  • ジャクソン,スティーブ『王たちの冠』高田恵子訳 『ソーサリー』4 (創元推理文庫) 東京:東京創元社,1985年。
  • ジャクソン,スティーブ『シャムタンティの丘を越えて』浅羽莢子訳 『ソーサリー』1 東京:東京創元社,2003年。
  • ジャクソン,スティーブ『魔の罠の都』浅羽莢子訳 『ソーサリー』2 東京:東京創元社,2003年。
  • ジャクソン,スティーブ『七匹の大蛇』浅羽莢子訳 『ソーサリー』3 東京:東京創元社,2004年。
  • ジャクソン,スティーブ『諸王の冠』浅羽莢子訳 『ソーサリー』4 東京:東京創元社,2005年。

2004年11月1日月曜日

アストル・ピアソラの音楽

  ウィスキーのCMで力感たっぷりにリベルタンゴが奏されたもんだから日本でもピアソラブームが巻き起こりまして、実はこれは世界的なムーブメントであったりしました。当時、十年くらい前のことになりますが、タンゴの異端者であったアストル・ピアソラがクラシック界においてまさに発見されまして、その鮮烈さは世を席捲しましたね。美しくそれでいて骨太の力強さがある生命力の躍如するピアソラの音楽は、遥かなる叙情性を湛えて聴くものの魂の奥底に灯をともします。

もしこの音楽を知らないという人がいたら、人生を無駄にしているといってかまわないくらいに価値あるものであると私は思っています。タンゴという音楽におけるピアソラの功罪 — 様々な批判があることは知ってはいますが、それでもあえてこれは聴かれるべき音楽だと思うのです。

日本でピアソラがブームになったきっかけは、ヨーヨー・マがウィスキーのCMで弾いたからだという話で、実際私も最初に手にしたピアソラはこのヨーヨー・マ(チェリスト)のアルバムだったのです。これは確かに素晴らしいもので、堂々たる大木の幹のような強さが感じれられます。

けれど私はむしろギドン・クレーメル(ヴァイオリニスト)のピアソラを好みます。繊細で少し神経質の気も見せるヴァイオリンが、滔滔と叙情的に歌い時に濁流のように押し寄せるその千変万化の妙。いやあ、抗いきれるものではありませんよ。もう身も心も任せてしまって、流され揺さぶられ翻弄されるがままです。実に美しい音楽が目前に結実するかのようです。

ピアソラの音楽はCMやBGMでもよく使われていますし、映画『12モンキーズ』では全編がピアソラの音楽で装われていました。なのでまったく聴いたことがないという人はいないと思います。

けど、ちゃんと聴いたことがない。そういう人も多いと思います。最初にもいいましたが、それは人生の損です。なので、まずは試聴でもいいから聴いてご覧になられるとよいかと。感じるところがわずかでもあれば、後はもう情感に身を任せるばかりですから。