2019年11月17日日曜日

JOKER

 『JOKER』、見てきました。話題の映画。なんかアメリカでは公開に際し軍が待機したとかなんとかかんとか、スキャンダラス、センセーショナルな情報が飛び交ったりして、また日本で封切られれば、鑑賞した人が自分こそがジョーカーと、映画のキャラクターを自身にぐいっと引き付けて他人事でないほどの共感を示してみる。はたしてどんな映画なんだろうかって思いましたよ。ネタバレというほどでもない情報だけからでも、おおよその内容は想像できそうな映画。なら、その描かれようが真に迫っているということだろうか。なんて具合に興味そそられたものですから、ちょいと駆け込みぎみに見にいったのでした。

ここからはネタバレありでいきますので、未見の方、気になさる方はお気をつけください。

なんでこんなことに。

映画に描かれたフィクションを自身にひきつけての感想は、この一言に尽きます。

神経、精神に疾患を持ち、いかにも人づきあいの苦手そうな青年、アーサーが、社会の理不尽に追い詰められた果てにジョーカーとして覚醒するまでが描かれている。この映画を端的に表現すればこうなるのでしょうが、それにしてもおこること、またそのタイミングがアーサーにとって間が悪すぎた。ほんの少しタイミングがズレてたら結果は違ったんじゃないか。ほんのわずかでいいから、悪意や不幸のかわりに優しさ、幸運が彼の身におとずれていたら、あんなことにはならなかったんじゃないか。みたいなことを思わないではいられませんでした。

そもそも、冒頭の事件からしてもわかるように、元来アーサーは暴力に訴えてどうこうするというタイプではなく、むしろ腕っぷしに自信がない、暴力でもっていいようにされてしまうような青年だったわけじゃないですか。なのに、望んでもいなかったのに銃がもたらされ、かと思ったらその銃のせいで職を失うことになり、しまいには発作のために巻き込まれたトラブルに銃が組み合わさることで、にっちもさっちもいかない状況に陥ってしまう。ドミノ倒しみたいに、ひとつの出来事が次の出来事を引き起こすのだけど、そのたびにアーサーを取り巻く状況は悪くなって、ほんと、なんでこんなことにの連続です。さらに悪いことに、市が財政難を理由に社会福祉削ったり、また自身の身の上にかかる喜ばしくない真実を知ってしまったりと、そうした気の滅入るようなことがどしどし押し寄せる。そりゃアーサーも歪むよなあ、知らず同情心などわいてこようというものです。

でもまあ、アーサーも悪いんだけどさ。なんでピエロの仕事に銃なんて持っていったの? とかさ。でも、彼の心情思うとね、ピエロの仕事してたらガラの悪いのに襲われた。その恐怖あらば、場違いな場所であっても護身用にとなっちゃうよなあ。そら悪手やでとは思いしも、そうせざるをえなかったろう彼の気持ちもわからんでもない。でも、もうちょいこの人が要領よかったり、うまいこと立ち回れるような器用さあればなあ、みたいに思わされるところもあって、でもそんなんだったら、そもそもこの映画、成立しない。

だからもう、ストーリーとしてはこうなるほかないよな、感情としては、なんでこんなことに。そもそもゴッサムがガラ悪すぎるちゅうねん。彼が暮らしていたのがこの都市でなかったら、いやでも不況下にある社会、しかも格差が広がる社会においては、あれこそが当たり前の情景だったりするのかも知らんなあ、ゴッサムであろうとなかろうと。みたいな具合に八方塞がり。あまりのどうしようもなさに、しまいにはなんだかおかしく、愉快な気持ちにもなっていく。

いやだってね、アーサーのことナメてぞんざいに扱ったり、粗暴に振る舞ったりした連中がアーサーにガツンとやられる場面見て、ざまあ見ろとか思いませんでした? 私は思いました。やっちゃいかんことでも、まあそれがフィクションであればこそでしょうけれど、理不尽、鬱屈が晴らされる、そんな描写が気分を高揚させるのは間違いないなって。これを否定したら、さすがに嘘になってしまいます。

この映画が、アーサーがジョーカーになるように仕向けるところ、的確に彼の行動を規定していくところ。それが最も顕著に描かれていたのはテレビ収録の場面だったと思っています。テレビから出演のオファーがきたアーサーがやったのは、テレビカメラの前で自殺してみせる練習だったじゃないですか。ノックノック、そういって、おもむろに取り出した銃で自分の頭を撃つ。公開自殺のリハーサルを入念にしていたというのに、そのタイミングを司会者につぶされてしまった。もし司会者がアーサーをダシにして笑いをとろうとしなければ、彼の笑いのとりかたが哀れなアーサーを観衆の前でからかってみせるようなものでなかったら、彼は公衆の面前で射殺されるようなことはなく、もちろんその瞬間がテレビ放送されることもなく、なればこそアーサーがジョーカーとして暴動の象徴的存在になることもなかった。もっと曖昧でかたちを持たない、ピエロの仮面というシンボルが繋いでいた暴動が、より一層の悪意をともなうものに膨れ上がる引き金は、直接にはアーサーが引きはしたものの、同時に社会がその状況を作り上げてしまったんじゃない? いやそれはあまりに社会、周辺に責任をおっかぶせすぎじゃない? いやいや、けれど貧困や格差を解消しえなかった社会が育てたのは確かだよね? などなど、心情的なもの、理性的なもの、いろいろがせめぎあう、そんな感想を持ったのですね。

用意周到にアーサーをカタにハメていく、そのプロセスが見事としかいいようのないシナリオでした。多分に気の毒。ちょっと爽快。ある程度他人事にして見るのがいい映画だと思います。

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