2005年8月1日月曜日

EVERYDAY AT THE BUS STOP

 先日の眼鏡盗事件の続きです。

なんでも神奈川じゃ眼鏡盗が出たんだってねえ、などと話していたら、なんでか話が眼鏡フェチの方向に進んでしまいました。というのも話をしていた中に眼鏡フェチっぽい言動をしてみせたものがいるからでして、フェチというのが普通の言葉になって久しい昨今、こういうことを軽々しく口にする人は増えたように思います。でもって、その彼はというと、Tommy february6とか好きなんちゃうんとか問われてまして、それに答えていうことにゃあ、好きなんだそうですよ。ええーっ、なんだいそれって私は思った。あんなのどこがいいんだい、私はあんなの好かんですよっていいましたともさ。

嫌いな理由を問われてしばし考えました。そうですね、あんまりに戦略的すぎるところが好きじゃないんです。ええ、あんまりに作り込まれたものって、逆によくないものなんですよ。

でも実をいいますと、私はTommy february6の『EVERYDAY AT THE BUS STOP』をちゃんと持っていたりするんですよ。でも誤解しないでくださいましよ。私はこの曲をFMで聴いて覚えまして、だから歌っているのが誰かなんて、ましてやその風貌なんて知りやしなかったんです。あの、なんだか昔懐かしい感じのオールディーズ・テイストに興味を引かれて、これなかなかいいじゃんとか思っていて、こんな具合に予備知識のまったくない私でしたから、深夜のテレビで映像を見て度肝を抜かれました。なんじゃあこりゃあ、と思って、仕方がないからDVD付きのシングルを買ってしまいました。

でも、きちんと腰落ち着けて見て、聴いて、やっぱりこれは音楽だけの方がいいと結論づけるにいたりました。あのけれん味 — 眼鏡だとか、チアだとかの作り込まれたいろいろはないほうがずっと曲のよさを知ることができるんじゃないかと思って、今でもこれは私のお気に入りになっています。確かにあの作り込みはたいしたもので、よくあそこまでやったよなあと感心しはするのですが、それでもやっぱり私には歌だけで充分で、それはきっとラジオで聴いていたころの印象、歌のよさというものが、頭の奥にしっかり残っていたからなのだと思います。

2005年7月31日日曜日

高木ブーの楽しくウクレレ

 よつばと』の英語版が届いて、うちではにわかに『よつばと』ブームが起こっております(といっても、私一人ですが)。『よつばと』というのは、なんだかのんびりとした時間が流れる実に心穏やかにしてくれる漫画なのですが、特に私は「あさぎのおみやげ」の回にそうしたのんびり感を強く感じまして、こののんびり感というのは作者の沖縄に感じる時間の流れなのでしょうか。あずまきよひこって、どうも沖縄ファンみたいですもんね。

で、あさぎが買ってきた沖縄のCDに沖縄っぽさを感じた風香がウクレレ弾いたりするんですが、これって実際いい感性だと思いますよ。私も、ウクレレ練習するとき沖縄らしさを感じて、沖縄の音階で、それっぽいのをやったりしてますもん。

というわけで、今日は私のウクレレ入門に役立った本を紹介したいと思います。

『高木ブーの楽しくウクレレ』は、ウクレレ入門ではあるのですが、技巧書としての入門書ではなくて、ウクレレの楽しさ、面白さを伝えようとする一般書、読み物ととらえるのがよいのではないかと思います。徹底的にわかりやすさ、親しみやすさを押し出しているから、これからウクレレを学ぼうという人には物足りないのではないかと思います。ええ、私も当初はそう思ったものでした。

けれど、ウクレレというのはそもそもがやさしい楽器で、もちろん高度なこともできるし、高い音楽性のある楽器であるのも確かなのですが、入門しやすさは弦楽器中随一であるといっていいと思います。そうしたウクレレの親しみやすさや、楽しみというのを、まず知りたいという向きにはこの本はとても向いていると思います。ウクレレという楽器の説明があって、どういうふうに楽器が作られるかという記事もあって、そして簡単な奏法の解説。楽譜も掲載されているから、ちょっと心得のある人ならほどなく弾けるようになるでしょう。

こんなふうに、ウクレレという楽器を知って、親しむために必要なものが、いいあんばいに用意されているのがこの本のよさであります。

そして巻末の二章、高木ブーを離れてのコラムがよかったですね。ウクレレのよさを再確認することができ、さらにはフラについてもちょっと知ることができて、ウクレレにまつわる世界が一気に広がったように思えます。

ウクレレ入門、特に速習的なものを求めるなら向かない本であると思いますが、まずはウクレレを好きになって、長くつきあっていきたいなと思う人には良い本なんではないかなと、そんなふうに思います。

2005年7月30日土曜日

甲子園の空に笑え!

高校野球の予選をなんとはなしに見てみたら、なんと我が母校が決勝戦に進出しておりました。在学中のことを思い返すと、とてつもなく弱くて予選第一回戦敗退が基本、部員にしてもあんまり好くやつのないといった、そんなコメントしづらいことばっかり思い出すのですが、知らない間にずいぶんと育ったものだと感心しました。

我が母校の野球部は、残念ながら決勝戦で敗退して、一時はもしやと思う場面もあったのですが、やはり現実の甲子園というのは、厳しくそして遠いのですね。よく、連戦を戦い抜きました。お疲れさまでした。

『甲子園の空に笑え!』は、川原泉の描くスポーツもの。川原でスポーツものというのもなんか意外な感じがしますが、けれど川原はスポーツを扱ってもいい漫画を描くのですよ。

そうした川原スポーツ漫画の特徴といったら、やはりそれは現実離れしたご都合主義と、けれどそのイージーさを越えて豊かな情緒であると思うのです。ですがその簡単さについては読者も作者も、さらには登場人物さえも理解して、けれど川原の漫画の中心はスポ根ドラマにではなく、事象に向かおうという人の心の中にあるのだから、劇的要素はそれほど必要ではないのです。

川原の描いた夢の甲子園はやはり美しくて、苦労や努力を最前面に押し出すような暑苦しさにはちょっと遠慮してもらって、そうした要素が影に隠れた最後に表れるのは、幸運と、その幸運にあぐらをかかないひたむきで素直な心ばかりなのです。その心がけがあんまりにまっすぐだから、たとえ最後に現実の厳しさが理想の美しさを破ったとしても、その夢のはかなさに微笑みでこたえることもできるのです。

私たちの人生は、理想が現実の前に破れるという悲しい体験の連続で、けれどそうした悲しさを、ささやかな物悲しさと微笑みで緩和できれば、きっとまた明日には元気になれることでしょう。

こうしたエッセンスが川原の漫画にはきっと含まれているものだから、私は川原の漫画が好きなのです。誰もが笑顔のかげに努力と悲しさを隠していると思えて、なんだか泣きたくなるのです。

  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1999年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第2巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1999年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1992年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第2巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1994年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第3巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1996年。

2005年7月29日金曜日

屈折リーベ

 なんか、眼鏡盗というのが出たんだそうですね。中学の時に友人から眼鏡を貸してもらい、よく見えるようになったのが快感になり、盗むようになったと、ものとしての眼鏡そのものへの偏愛がうかがえるコメントを残していまして、これこそフェティシズムの極まれるところであると恐れ入りました。しかしこういう非現実的な事件というのも世の中にはおこるのですね。ある種、アメイジングな気持ちに襲われております。

で、このニュースを見て最初に思ったのが西川魯介で、この人は漫画家なのですが、眼鏡好きを公言し、眼鏡着用者への偏向をあからさまにした漫画を書くことでことさら知られています。眼鏡への偏愛をそのままテーマとした漫画もありまして、それが『屈折リーベ』です。

けど、実は私は『屈折リーベ』は一読者としては好きであるといいながら、けれどあまり高くは評価していません。なんというんでしょう。これはフェティシズム的傾向にある少年が、そのフェティシズムゆえに人を好きになって、けれど最後にそのフェティシズムを越えようという物語なのですが、最後の最後、その昇華に向かう動因が少し希薄であったと思うのです。劇というのは、対立する要素が戦い、その果てに止揚してみせる(止揚 = Aufheben:矛盾する諸要素をまとめて乗り越え、より高い位置でそれら矛盾を解決しひとつにしてしまうこと)発展的運動にほかならないのですが、この漫画では、今対立する両要素を乗り越えようというそのときに、いまいち乗り越えるのに必要な勢いが足らず、結局ひとつの要素には遠慮してもらいましたという、そういうちょっと煮え切らなさが感じられたのです。

けど、それでも私はこの漫画が好きです。不器用な少年、不器用な少女の、不器用な恋愛模様が、みていてとても歯がゆく、けれど懐かしかったりほほ笑ましかったりして、胸の奥がくすぐったくなる。こういった感じというのは、もう長い間忘れてしまっていて、けれどこういった漫画を見ればちょっとはよみがえってきて、その移ろう季節を遠くにみるような感覚が好き。『屈折リーベ』にはギャグやらなにやらがちりばめられて、表向きにはなんだか騒々しいところもありますが、そうしたにぎやかしの向こうに見える繊細な情景をとてもいじらしいと感じるのです。

西川魯介の漫画といえば、このところみるのはどうにもエロが過剰だけれど、またたまにはこういうのも描かれたりはしないものでしょうか。私は、これくらいの時期に描かれたものの、ほのかな叙情漂う作風がお気に入りだったのです。

  • 西川魯介『屈折リーベ』(ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2001年。

引用

参考

2005年7月28日木曜日

長い道

 道さんみたいな女に惚れられるのだとしたら、いいじゃありませんか。いや、惚れられてるのかどうかはわからないけれど、けれどひとつ屋根の下に暮らして、寝食を共にして、かいがいしく働く道さんを見て、それであの仕打ちとは荘介どのは人が悪い。例え道さんが自分の理想に描く女性と違っているからといって、あのように粗末にしては罰が当たります。

もし私が荘介どのの立場であったら、道さんのような女性から敏行どの、敏行どのと呼ばれたりしたならば、私はきっとその人のためになんでもしてあげたいと思うだろう。私の心を砕いて、その人のために差し出すこともいとわない。もし道さんの心が私のもとにないと知ったとしても、それでも私はそっと寄り添い続けたいと思う。疑うなどと、ましてや裏切りを働こうなどと、きっと私は露ほども思いはしないでしょう。

すまんの、ぜんぶ嘘じゃ。

人間は、誰しも人生で三度くらいはもてる時期がくるんだとかいいますね。実際私にもそんな頃があって、私は男女比率が異常なところで青春時期を過ごしましたから、それはそれなりに私に思いを寄せようなどという奇特な女性もいたのです。

けどよ、私はそうした娘たちを寄せ付けないで、今から考えるとまったくもってもったいない話であるのですが、けれどその頃の私はちっともそうした状況に甘んじることがありませんでした。

私の得意技は気付かないふりでした。いかに秋波送られようと、思わせぶりをいわれようと、気付かぬ知らぬ存ぜぬを決め込んで、けれど時にはなにも知らない無邪気ゆえの喜ばしなんぞ口にする。いや、ずいぶんとひどい仕打ちじゃないか。わかっていたなら応えてやってもよかろうに — 。いや、わかったからといっておいそれと応えることができないのが男女の仲であろうかと。

……だから私に、道を邪険に扱ってみせた荘介を非難できるわけなど、これっぽっちもありゃせんのです。

けど、自分にはちょっと堪え性がなさ過ぎたかなあと思います。日本においての男女のことは、愛というよりもむしろ情で、三日でも飼えば情が移る、ましてやそれが自分を慕う女なら可愛く思わぬわけがない。それをわかっていながら、いやわかっていたからこそか、危ないと思って最後の距離を見極め続けて、— その先に起こるいろいろを怖れていたんでしょうね。

『長い道』は、愛というよりもやはり情で、これがヨーロッパ人の書いたものなら『存在の耐えられない軽さ』みたいになるのかも知れないけれど、こうの史代はやっぱり日本の女性だから、しっとりとした情の世界が描かれて、私の心はすっかりほだされてしまいました。

私は、道さんのような人は好きだと思います。けど私が荘介であれば、自分の心の最終線を決して道が越えることのないように、距離を、距離を測り続けるだろうと思います。いや、あるいは、今ならどうだろうか。今なら、その最後の距離を詰めようと動くこともあるだろうか、あるいは否か。

と、このようなことを考えさせられた漫画でありました。

  • こうの史代『長い道』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

2005年7月27日水曜日

姉妹の方程式

  私の野々原ちき初遭遇は『もんぺガール小梅』であったのですが、正直なところあまりいい印象は受けなかったのでした。かわいらしいキャラクターが非常識な行動をして人を困らす漫画と思って、最初の数ヶ月はなんかのり切れず読んでいたのですが、楽しみ方をわかってからは、がらりと印象が変わってしまいました。一コマ一コマの絵に、せりふに面白さが盛り込まれているのですね。特に小梅の、友人である動物に対する仕打ちみたいのは毒が効いていて面白かった。こうした小梅的キャラクターは、『姉妹の方程式』では来来軒の悪魔あたりに受け継がれています。

そんなわけで『姉妹の方程式』。まんがタイムきららに連載されている漫画なのですが、四コマ漫画としてのまとまりをきっちりつけながら、一話としての膨らみを持たせることにもよく長けている、実に良質の漫画です。

なにがいいといっても、細部細部にまでよく神経が行き渡っていると感じさせる丁寧な作りです。ぱっと見にはシンプルで、あるいは地味な漫画に見えるかも知れませんが、絵に、せりふに、必要充分の情報がしっかりと盛り込まれているから、食い足りないということがありません。けど、多くの情報をあの小さな一コマに盛り込んで、あれだけすっきりまとまっているというのはすごいことだと思いますよ。手に余る情報を扱って処理しきれず、破綻しそうになっている漫画も多い中、野々原ちきは違います。たくさんの情報を画面上に配置しながら、読みやすく伝わりやすいように整理されていて、このまとまりはセンスや構成力のたまものでもあるのでしょうが、漫画をよりよいものにしようという練り上げ (elaboration) の工夫努力が並ではないのでしょう。

野々原ちきの漫画の洗練を支えているのは、要はその描きぶりであると思うのですが、構図の取り方もうまければ、デフォルメのしかたもうまい。一コマの持つ表現力がかなり高いのです。

例えば、衣装の選択なんかが秀逸で、服装は、わざわざ説明するまでもなく、それを選んだ人間の趣味嗜好、人となりを雄弁に説明するものでありますが、だとしたら野々原ちきがキャラクターに着せる服の選択はよくよくの熟考の末になされているものと思われます。いや、だって、服装をはじめとする小物が、キャラクターたちの個性を本当によく説明するのですよ。仮にそうした工夫に気付かなくとも、その意味は読み手に伝わります。

そしてきわめつけは描線。野々原ちきの漫画表現について考えるなら、描線の持つ色気に触れないわけにはいかないでしょう。野々原ちきの描線は出色です。対象の固さ柔らかさを線のレベルで描き分けていて、布地の厚み風合いみたいなものまでがこちらに伝わってくる。これは正直いってすごい。服地の素材さえわかりそうなくらい。この描線に支えられた画面ですから、そりゃ表現力が違ってくるのも当然だろうと思います。

私は、野々原さんを非常に高く買っています。そして、少し残念に思っています。私は野々原さんは非常に高い能力のある人だと思っているのですが、ですがその能力を完全には発揮できていないんじゃないかと思うところがあって、それどころか、小さくまとまろう、小さくまとまろうとするような傾向も感じてしまうのですね。

もし野々原さんがご自身のできることの広さ、大きさに気付かれたなら、その時にはさらに高次の漫画表現が開かれるんじゃないかと、その将来にひそかに期待しています。

蛇足:

十子ちゃんが好きです。 — 死んだら会いに行けるかな……。

  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2005年7月26日火曜日

作品の哲学

夢落ちってどうにもこうにも嫌われる要素ですが、いったいなんでなんでしょう。実をいうと劇作にもえらく嫌われた技法というのがありまして、それはデウス・エクス・マーキナ(機械仕掛けの神)といわれるやつなのですが、これまで物語られてきた世界の外から突如やってきた唐突な要素が、劇の動因となっていた問題を解決してしまうようなエンディングを特にこういうのです。佐々木健一曰くデウス・エクス・マーキナと言えば、それだけで悪口になるほどである。ですが、本書では「完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ」と題し、機械仕掛けの神による終始が劇になにをもたらしているかが論じられます。私にはこの説明があまりに鮮やかだったので、すっかり気に入ってしまい、デウス・エクス・マーキナによって幕を下ろす作品を弁護する際に、ずいぶん利用させてもらったものです。

けど、「完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ」は、この本のごく一部、全部で九章あるうちの一章にすぎず、他の章においても興味深い議論がなされています。作品の統一性であるとか、作者と作品の関係であるとか、本当に参考になることがいっぱいで、学生時分美学じみたことをやっていた私にとっては、非常にありがたい本でありました。

夢落ちが嫌われるように、ぱくりというのも嫌われますね。ぱくりというのは剽窃とか盗作についてをいうのでしょうが、けれど本当にぱくっているとはどういうことかという議論は意外に浅く、結局は自分が以前に見たなにかに似ている、実際比べてみれば確かに似ている、だからぱくり。こんな感じの、薄弱な根拠にもとづく批判もしばしばあるように思います。

こういうぱくりうんぬんというのは、結局は作品のオリジナリティとか、自立性とかの問題に関わってくるのだと思うのですが、独創性や自立性を論ずるのは簡単ではないのですよ。なぜかというと、料理しかたに独創性が見られるかわりに、素材は借り物というような例があります。逆に、目の付け所はぴか一なんだけれど、その描き方は特に非凡というわけではないという場合もあります。前者、後者どちらにオリジナリティを見いだすかといわれれば、簡単には言い切れないのですよね。

そんなわけで、作品が独り立ちしているかどうかというのは極めて難しいことなのでありまして、こうした厄介な問題を扱おうという際に、この本はきっと力になってくれるのではないかと思います。少なくとも、考えるヒントを与えてくれるのではないかと思います。

さて、冒頭の夢落ちについてですが、実は私は夢落ちはさして悪い技法とは思っていません。夢落ちは、デウス・エクス・マーキナの一種に過ぎませんから、まさにこの本で確認したデウス・エクス・マーキナの三類型を参考にすることができます。つまりはこんなふうにです:

私は夢落ちが、登場人物の一喜一憂する様で読者を楽しませる目的で、作品世界を壊しかねないような出来事を用意した場合に使われる分には、別にかまわんのじゃないかなと思うんです。本来ならあり得ない出来事によって引き起こされるどたばたも見ることができたわけですし、結局のところだしに過ぎなかった事件にいつまでも居座られても困ります。その上で、夢の非日常と日常のコントラストが、次なる状況に進ませる動因となるようなものであったらなおさらよいと思います。

とまあ、こんなふうに考える私ですから、夢落ちだからといって単純に否定するような見方も芸のないことなのではないかと思ったりするんですよ。

  • 佐々木健一『作品の哲学』東京:東京大学出版会,1985年。

引用

  • 佐々木健一『作品の哲学』(東京:東京大学出版会,1985年),141頁。

2005年7月25日月曜日

「教養」とは何か

  「教養」と聞いて、一般的に思い起こされるイメージは、ものをたくさん知っているであるとか、高度な学問を受けていたであるとか、そういうものなんじゃないかと思います。私にしてもそれは同じで、ガキの頃に、ちょっとまわりの子よりもものを知っていたことで、わぁ物識りねと誉めそやされて、私は鼻高々で、けれどものを知っているということがすなわち教養には結びつかないということを知ってからは、ただ知識が多いだけということは恥ずべきことである。みっともないことであると思うようになりました。

『「教養」とは何か』は、阿部謹也の精力的な世間研究に基づいて書かれた本で、『「世間」とは何か』の続きであるといってもよいかと思います。私は、世間を見つめ直そうと試みて、阿部謹也に行き当たりました。そして教養とはなにかという問題を提示されたその時、私は答えも持たず立ち尽くしたのでありました。

教養とはなにか。この、まるで読み物のように編まれた本を読み通して、ひとしきり揺さぶられて、教養というのは自分を取り巻く関係において自分はどのような位置にあるかを知っているということ。そして教養人とは、自分はなにをなせばよいか知り、実践している人のことをいうのではないかと思い当たりました。

自分の位置を知っているというのは、自分がある種の地位にあると任じていることをいいたいわけではありませんよ。例えば、私は会社の部長なのだ。だから偉いのだ、部下には命令するのだ、けれど取締役にはぺこぺこするのだ、とかそういうのんじゃあないんです。私のいいたいのは、家族なら家族を構成する一人としての自分を理解し、家族の中でなにができるかを知り、それをおこなっているということ。例として出したのは家族でありましたが、ほかに地域社会であるとか、友人関係であるとか、そうしたさまざまな関係の中で、独りよがりなんかではなく自分をきちんと評価し、成すべきことを成している人こそ教養人だと思います。もちろん、そういうことのできる人はなかなかいない。けれど、かなりいい線いっている人というのは少なからずいて、私は例えば自分の身の回りにそういう人を見つけたりするとすごく嬉しくなる。そういう人を見習って、その人のようにすることができたら、私も少しは教養ある人間に近づけるんじゃないかと、前向きな気持ちになるのです。

私の知っている人に、それはそれはお偉い方がいらっしゃるのですが(皮肉です)、けれど私は、その人が休日には普通のおじさんの恰好して、面が割れないように野球帽かぶり、地域清掃活動をしているということを聞いて、その人を見損なっていたと恥じました。駅前が見る見るきれいになることの喜びや、一仕事を終え、一緒に働いた子供たちにジュースを買ってやることの嬉しさについて話したその人は、紛れもなく世間的地位から離れて、自分の成すべきことを成そうとしている人だと、正直ちょっと尊敬しました。

ボランティアだから感心したんじゃないですよ。自分の成すことで、人が喜び、自分も喜べるというところが素晴らしいと思ったんです。見習わんといかんと思ったのです。

2005年7月24日日曜日

もしもあなたに会わなければ

 先日のぶしつけきわまりないミュージカル・バトンのパスをこころよく受け取ってくださったtsawada2さん(感謝します!)のミュージカル・バトンに、気になる文言をみつけました。その文言というのはアニソンという言葉でくくってしまいたくないです。ええ、この言葉には私も同感することしきりです。

世の中にはアニメを頭っから馬鹿にしてるような人が少なからずいるのですが、そういう人には見つけられない素晴らしいものがアニメにはたくさんあります。それは物語であり、劇であり、絵であり、そして音楽も然り。アニメには隠れた名曲が多いというのはおそらく多くの人が知っていることで、アニメから離れてもなお輝きを消さないだろう名曲もまれではありません。ですが、これは本当に口惜しいことなのですが、アニメの曲だからという偏見がそれら輝きを隠してしまっていること数多く、人口に膾炙することなく過去へ過去へと送られていってしまう — 。

うう、本当にくやしい。宮崎駿とデーズニーばかりがアニメじゃないぞ、ギャピー、とでも叫びたくなるではありませんか。

『勇者警察ジェイデッカー』は、勇者シリーズの第五作目。続発するロボット犯罪に対抗すべく、警察が変形合体ロボットを導入するというアニメなのですが、ロボットの製造現場に迷い込んだ少年との出会いにより、心を持たないはずのロボットが心を持ってしまった — 。このプロットがそのまま物語のテーマでありました。『ジェイデッカー』は、心とはいったいなんなのかという、決して簡単じゃないテーマに真正面から取り組んで、しっかり描ききった名作中の名作です。

このアニメの挿入歌が『もしもあなたに会わなければ』。男性ボーカルによるスローなバラードで、『ジェイデッカー』のプロットやテーマをしっかりと反映させながら、それだけにとどまらない深さ、豊かさを持つ名曲です。

『ジェイデッカー』を知る人間が聞けば、この歌には警察で働くロボットの心情がそのまま表れているとすぐさま気付くことでしょう。あなたと呼びかけられているのは、それぞれのロボットに深く関わっている人であり、ロボットはそうして人と関わる中で心を深め、その心に戸惑いながら、大切な人のために戦います。この歌にはそうした情感がたっぷりとしています。

ですが、大切なあなたを守りたいという気持ちから困難に立ち向かうのは、彼らロボットだけではなく、それは心を持つもの誰もに共有される感情です。そして、 — こうした感情を扱って、この歌は普遍性を勝ち取ることに成功しています。

『もしもあなたに会わなければ』は、さながらラブソングであり、その愛は実直で紛れもなく純粋です。自分の大切な人の仕合せを思い、その人とともにあることを喜び、そして不幸がその人の心を曇らせないようにと願う思いは清く、けれどあまりにまっすぐなものだから口に出すには照れがあります。

ですが、こういうことが、照れも気後れもなしに歌われているのはいいものですよ。

参考

引用

2005年7月23日土曜日

機動戦士ガンダム戦記

 こととね掲示板に『ジオニックフロント』の話題がでて、これ、2001年のゲームなんですが、面白いんですよね。なんか超がつくくらいストイックで、難易度も高めだもんだから、一見さんにはお勧めできない。ですが、私はこれがガンダムゲームの最高峰だと思っています。といった感じで、『ジオニックフロント』を取り上げようと思ったんですが、なんともう書いてたんですね。オーマイ! なんか追いつめられてる気分がしやがるぜ。

そんなわけで、今日は『機動戦士ガンダム戦記』を取り上げようと思います。

『機動戦士ガンダム戦記』は、ミッションクリアタイプの純粋アクションゲームです。ジオン編と連邦編がそれぞれ用意されていて、各ミッションが微妙にリンクしているところが面白いんですよ。ジオン編だと撃破目標として設定されているビッグトレーが、連邦編では防衛対象になっているといった、こういった裏と表が用意されてるのは、ささいなことですが面白いと思います。

私は先ほど、『ジオニックフロント』が最高だといっていましたが、総プレイ時間で考えれば『ガンダム戦記』のほうがよく遊んでいます。なんでか? それは単純に手軽さでありまして、『ジオニックフロント』よりも手軽にスタートし、手軽にミッションクリアし、手軽にSランクを並べ、手軽にモビルスーツの活躍を満喫することができるというところは、ある種欠点であり、反面長所でもあると思います。

取っつきやすいのですよ。この手のアクションゲームに慣れた人ならば、一日二日でコンプリートできるゲームで、だから『ジオニックフロント』とは違い、普通のガンダムファンにもお勧めできます。実際、私にはこのゲームはちょっと簡単すぎて、けれどそのおかげで、ちょっとガンダムゲームで遊びたいなあという時にはうってつけ。それこそ、なんべんクリアしたかわかりません。

私は「戦いは火力だよ、兄貴」という人間ですので、基本的にはバズーカ、ビーム系兵器を愛用しているんですが、これだとなおさら難度が下がるんですよね。狙う→打つ→当たる→おいしい、てなもので、だからたまにはマシンガンで出ようかとも思うのですが、気付けばバズーカに戻っている。というのもそりゃそうで、バズーカ装備はシャアのとった戦術そのものであります。マシンガンだとなかなか敵を倒せないものですから、結局は格闘に頼ることになってしまい、だったらグフかイフリートを使えばいいじゃん、というようなはめにもなるんですね(もちろん格闘オンリーはやってますよ。ミデアが落ちなくて困るんだ)。

と、こんな感じに、好みやなんかで毎回テーマを決めて遊べるのがいいと思います。

参考

2005年7月22日金曜日

よつばと!

   あんまりにも書くことがなくてうんざりして、サイト巡りをしては、Amazonに立ち戻るということをやっていたら、おすすめ商品にNegima, Vol. 2が出てきてびっくり。『ネギま』なんて、読まねえようと思ったら、すぐその下に Yotsubatoの文字を発見! よつばと! そうか、『よつばと!』の英語版がでてるのですね。これは早速買わねばならんと思いましたよ。

そもそも私は、あずまきよひこの漫画が好きでして、説明するまでもない有名タイトルとなった『あずまんが大王』も当然のごとくに押さえていて、ゆかりちゃんが好きでしたね。ゆかりちゃんは最高でした。

ゆかり賛はそこそこにして『よつばと!』でありますが、漫画としての広がりは『あずまんが大王』以上であると思っています。親一人子一人の漫画は数多くあれど、とーちゃんとよつばの関係は、なかなかほかには見られないものがあると思っていて、なんというんでしょう、日本的なんだけれど、日本的ではないのです。その芯は外国の物語に出てくる親子関係みたいで、表面に現れてくるのは日本的なおとうさんと娘なんですね。この不思議な、からっと乾いていて、けれど乾燥はしていない、西でも東でもない感覚が『よつばと!』の魅力なんではないかと思っています。

お隣さんとジャンボがいい味出してますよね。お隣の三姉妹は、それぞれにいい感じの娘さんたちで、私は以前恵那Loveだなんていってましたが(いや、娘には恵那みたいのがいいだろうなという話だったんですが)、お父さん似の、あんまり飾らない自然体が気持ちいい風香もよいと思います。とかいってますが、最近になりましてね、長女のあさぎがいいなあなどと思うようになって、あの傍若無人なところ、のびのびと奔放なところがいいなあなどと思って、なので私は三姉妹の母が好きです。

そういえば、ちゃんとフローリストやってたジャンボが素敵でした。いつもは馬鹿みたいなことばかりいったりやったりしてる人なんだけど、ナイフ片手にオアシスに花を生けているジャンボは恰好よくて、仕事をしている男性はかっこいいという意見ももっともだと思ったり思わなかったり。いずれにせよ、あの花の回はすごくよかった。読んでるこちらの心が洗われるようで、こうした読むとなんか心が晴れ渡るような感覚が『よつばと!』の持ち味であると思います。

英語版、花火を見にいって迷ったよつばのせりふは、やっぱりI'm Yotsuba Koiwai. Yotsuba Koiwai.なのでしょうか。手もとに届くまで、このせりふはどう訳されるんだろうとか考えるだけでも楽しいですね。ええ、翻訳は面白いものだと思います。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • 以下続刊

2005年7月21日木曜日

星の王子さま

 先達て亡くなられた倉橋由美子の手になる『星の王子さま』が欲しくて、行きつけの書店ならきっと置いているに違いないと思っていったら、案の定置いていたので買ってきました。『星の王子さま』は、もう今更説明する必要もない古典ですが、意外と読んでいる人は少ないかも知れません。挿絵がかわいらしく魅力的で、さっと読める短い話なので簡単な本と思う人もいるかも知れませんが、ところがどっこい、簡単だとか平易だとかちょっといって欲しくありません。ここにはある種の生き方の理想があって、人生を豊かにする秘密が語られています。だから私はこの本こそもっと広く読まれて欲しい。 — けど、通じない人には、まったく意味のない本になるかも知れないなあとも思います。

私が高校生の時ですね。学校まわりの劇団が上演する『星の王子さま』を見たのが、この物語に触れた最初でした。なんだか取っつきやすいようで謎に満ちていて、こりゃ一筋縄ではいかないぞと思ったことを思い出します。けど、最初私は、それは演劇仕立てにしたからだと考えていました。その時すでに、この本が子供向けではないということは知っていましたが、まだ読んだことはなく、だからこの劇をきっかけにして原作を読もうと思ったのでした。

本を読んだ感想は、やはりここには大きな謎があるというものでした。いうまでもなく、物語は平易です。けれど表現がシンプルであることと、内容がわかりやすいということは違うのです。特に、目の中に梁があるような類いの人間にとっては、この物語は謎に満ちたものとしか見えないでしょう。

私は、自分の目から梁を取りのけるのに、ずいぶんと時間をかけてしまいました。私は本当に俗物で、いろいろな欲を捨てただなんて口ではいいながら、最後の最後に名誉欲を残しています。私は結局は、王子さまが出会った王様であるといおうか、あるいは地理学者といおうか、そうした人間につながるもので、けどそうしたことがばかばかしいということはもういやになるほど味わっているのです。

この物語を久しぶりに読んで、私がかつて関わっていた業界には、地理学者がうようよと跋扈していたことを思い出しました。本当に心を向けなければならない対象がすぐそこにあるのに、そっぽ向くように目をそらし続けていた人たちがいて、私はなんてばかげているんだろうとずっと思っていました。私らが目を向けねばならないものは、すぐ目の前にあるのです。なのにみんなはその目の前のことについて話すのに、伝聞に頼っているのです。私はそれがずっとずっと歯がゆくて、結局そんな彼らについてくのがいやんなって抜けてしまいました。あの、抜けると決めた瞬間、私は少し王子さまに近い考えをしていたんじゃないかと思います。

でも、もし本当の地理学者なら、王子さまが箱の中に自分の小さな羊を見つけたように、本の山からだって、伝聞からだって、ほんとうのことを見つけ出せるはずなんです。だから私はもしかしたら見限るのは早すぎたかも知れない。実際素晴らしい成果を挙げている地理学者たちはいて、彼らはまごうことなく本物であるのですから。

私は、今、ほんとうのことに向き合う手段こそは違えてしまいましたが、見つけたいものにはしっかりと目を向けていると思います。見るだけじゃなく、その奥に進みたい。肝心なところにたどり着きたいと思う気持ちは、いつわりなく本物であるとうけがえます。

倉橋訳は、旧訳に比べてもずいぶんと簡素で引き締まった印象があります。子供向けであることは最初から問題ではなく、まっすぐ大人のための本として訳されているのですが、それは文章が難しいということではありません。平易です。ですが、その平易にするすると頭に入ってくる文章には力があって、きっとなにかが揺り動かされる。旧訳とは違った響き方がすると感じられました。

けれど、私はもうすっかり大人の側に足を踏み入れた人間だから、王子さまの言葉にはすべてうなずくことができず、ですがそれも仕方がないと思います。しかし、それでも王子さまとの別れを経験しようという頃には、王子さまのいわんとするほんとうのことはしっかり胸にとおっていました。私はその時、特別になったたくさんのものや人に囲まれていると、しっかり感じることができて、自分のいかに仕合せであるかを思っていたのです。

  • サン=テグジュペリ,アントワーヌ・ド『星の王子さま』倉橋由美子訳,東京:宝島社,2005年。

中国が通貨切り上げを実施

 中国人民銀行は21日、米ドルとの間で事実上の固定相場を続けてきた人民元の水準を切り上げた。新たな為替レートは1ドル=8.11元で、これまでの同8.28元からは約2.1%の切り上げ。また、この措置に合わせ、為替管理方法をドルから主要通貨バスケットに基づく管理フロート制に移行する。

テレビを見ていたらニュース速報がでて、どうやら中国が人民元を切り上げると決めたようです。アメリカが長く切り上げを求めているのは知っていましたが、中国は自国の利益を優先し、アメリカの要求を突っぱねるんじゃないかとか思わないでもなかったので、思ったよりも早く切り上げが実施されるということに驚きました。いや、しかし、これが本来のありようだろうとは思います。今までが不当に低く押さえられていたのだと思います。

しかし、人民元の切り上げが私たちの生活にどのように影響してくるかが心配ですね。日本は生産コストを下げるため中国の安価な人件費に頼ってきたわけでありますが、こうした構造は今後少しずつ変わるだろうと思います。心配することではないかも知れませんが、わからないことはやはり心配です。まあでも、くよくよ悲観的なことをいっててもしかたないので、ここはうまくいってくれることを願うばかりです。

それはそうと、Eastmanは今が買いかも知れない。通貨切り上げがおこなわれた暁には、値上がり必至でしょうし。

引用

参考

2005年7月20日水曜日

ときめきメモリアル

 行きつけのサイトさんの日記にてときめきメモリアルキャラメイクお試し版というのが紹介されていて、そうかあ、ついにときメモではキャラクターの外見も選べるようになるんだと、その進化っぷりにちょっと感慨深くなったりしました。実をいうと私の『ときめきメモリアル』歴は、第一作の時点で終わっていまして、しかもその第一作というのも、スーパーファミコン版という実に謎の入り方。その後、バイトをやめるときに後輩からPCエンジン版『ときメモ』をプレゼントされたりしているので、遊ぼうと思えば遊べるのですが、なんとなくそのままおきっぱなしにしています。そういえば以前「魔法のエンジンで遊ぼう」という文章を書いたことがありましたが、これは実際『ときメモ』を遊べる環境をいかに整えることができるだろうかという、それだけのために書かれたものでありました。

白状します。私は『ときめきメモリアル』をクリアしたことが一度もないのですよ。私はどうも、この手のパラメータを上げるタイプのゲームには向いていないようで、途中で必ず飽きるのです。だいたい一年目は無難に過ごし、すなわち二年目が山となります。ええ、二年目でやめてしまうのです。

私が好きだったキャラクターというのは、如月未緒と見せかけて美樹原愛だったのですが、確か美樹原の出現は一年目のクリスマスが最速で、次がバレンタインデーだったはず。だから美樹原が出て、ぐぐぐーっとときめき度が美樹原よりに傾いた頃にゲームに飽きてしまうのですね。もうわけわからん。ゲージがたまったんなら、そのまま突き進めばいいじゃねえかという気もするんですが、残念ながら私の持続力のなさはかなりのようで、こうしてまたも二年目のジンクスを乗り切れないんですね。

そんな、途中で投げてばかりの私だというのに、『ときメモ』についてはいやに詳しくて、というのは、昔のバイト先にフリークといっていいほどにコアな『ときメモ』ファンがおったのが原因です。そいつは全イベント及びクリア条件を網羅するばかりか、設定やキャラクターのプロフィールにも精通していた。なんといっても、コントローラで電話がかけられるんですからね(意味わかります?)。私はそいつの気合いの入ったプレイを見せられて、駆け出しメモラーくらいにはなれたんじゃないかと思います。ええ、ちょっとかじった程度のメモラー相手なら、私の方がずっと詳しいですよ、きっと。って、それにしてもいびつな話だな。

私は気がついていなかったのですが、冒頭のキャラメイキングというのは、『ときメモ ONLINE』のものみたいですね。私はてっきり、『ときメモ2』で自分の名前を呼ばせることができたような、そういうのだと思っていました(私はこれを、体験版で試しました。シンイチロウという友人がおったのですが、これがシニチロウと発音されちゃうんですよね。発売された版ではどうだったのでしょう?)。

しかし、『ときメモ』がオンラインゲームですか。学園の中で学生としての役割を演ずるわけですから、まさに正統的なRPGといえそうですが、けれどこれはいったいどういうゲームになるのでしょう。なんかイベントが適当な頃合いを見て企画されて、後はクラブ活動に励んだり、勉強にいそしんだり、あるいは知りあった友達とどうこう。うー、私はきっとものすごい勢いで飽きるだろうな。駄目なんですよ。具体的に明確な目的の示されないゲームは、どうも私には向かないみたいなんです。Wizardryなら平気で何年でも遊ぶのに、どういうわけかほかのゲームではうまくいかないのです。

さて、冒頭で申しましたキャラメイク話。一応私も試してみたのですが、どうも輪郭の自由度がまだ少なくて、特に男子。やっぱり輪郭は、あの突き刺さりそうなくらい鋭角なのがいいじゃありませんか(福本伸行みたいなんじゃないっすよ)。それが、どうもあごのしっかりした輪郭しかなくて、うーむ、これじゃ萌えません。

けど、頑張って作ってみましたよ。私の好みを以下に示しましょう。

男子は上から「1,1,メガネ(無しあるいはほくろ1でも可),2,2,1,1,5,1,4,無し,3,2,無し」、女子なら同じく上から「1,1,メガネ,3,1,2,1,6,2,1,無し,1,3,無し」。

男子で眼鏡は邪道だとか思ったのですが、つけてみたら意外とよかった。女子は眼鏡を外すとものすごく地味顔になって、それがおそろしく素敵。しかし、思うのですが、眼鏡とほくろが択一になってるのはどうかと思います。眼鏡とほくろは同時選択したかった(特に女子)。なんというんでしょう、泣きぼくろってなんかいいじゃありませんか(はっ、もしかしてジュリーの影響!?)。

あ、そうだ。私、一度だけ『ときメモ』クリアしたことがありましたよ。ほら、体力をがんがんに上げるとときめき状態に陥ってくれるキャラクターがいたじゃありませんか。いや、清川じゃありません。外井雪之丞ですよ! え、誰かわからない? 外井ですよ、外井。伊集院レイに付き従っている外井。思い出しました?

実は、彼も攻略対象キャラクターだったんですよね。と、そんなわけで私は唯一外井とのエンディングを見て、いや、この表現は微妙に嘘ですね。外井の愛を勝ち取っても、伝説の木の下に女の子が待っていなかったらバッドエンド扱い。しかしそれにしても、ひどい扱いですよね。外井がかわいそうだ。

蛇足:嫌いなキャラクター

それは、こいつだ! 正直、敵だと思っている。

Windows

PS / PS2

PCエンジン

2005年7月19日火曜日

それでも君に言おう

多分、本当だったらこの間のミュージカル・バトン企画で取り上げるべきだった曲。

私がフランスの歌手パトリック・ブリュエルの歌を聴いたのは、NHKラジオのフランス語講座入門編でのことで、昔、ラジオフランス語では毎週木曜にフランスの歌を取り上げて紹介していたのでした。この企画は私にはすごく嬉しくて、このBlogを読んでいくとその証拠を見つけられるのではないかと思いますが、ひとつ言葉を学ぼうと思うごとに私は聴く音楽の範囲を広げていったのです。なかでも中国語とフランス語は私のうちに大きな割合を占めていて、そのどちらもが私にとっての大切なものとなっています。あの時取り上げたのが中国語の歌だったからといって、私の中でフランス語の歌、パトリック・ブリュエルの『それでも君に言おう』の価値が劣っているなんてことは断じてなく、この歌は、今も、昔も、等しく私の愛してやまない歌であることに変わりません。

私がこの歌の収録されたアルバムを探したのは1999年のことだったのですが、この時点ですでにアルバムは廃盤、入手不可能という状況でありました。ですが私はあきらめが悪くできていて、中古レコード店や海外ショップなどあちこちを探してみて、けれどそれでも見つからない。手に入りそうな気配さえもない。正直、一度はあきらめてしまったのでした。

ですが、2001年に再び探してみたところ、なんとか見つけることができて、こうしてやってきたAlors Regarde。あの時は、頭っから見つからないものだと決めつけていましたから嬉しかった。本当に嬉しくて、支払った額は結構なものでしたが、けれどちっとも惜しいとは思いませんでした。

この歌は、本当に静かに、語りかけるように歌われる名曲で、すごく素敵なのです。それでも君を愛していると言おう — 、もう別れようというそのときに声を荒げるでもなく、感情をむき出しにするでもなく、本当に静かに告げられる « Je t'aime » の一言。この言葉が心に沁みるのは、ブリュエルの歌声に感じやすく傷つきやすい心を見てしまうからかも知れません。あるいはフランス語という言葉の力でしょうか。いずれにせよ、私はこの歌に繊細なる青年の像を思うのです。

蛇足

今、Patrick Bruelで調べてみたら、結構アルバムが出ていて驚きました。以前は本当に情報が少なくて、パトリックで調べたらパトリック・ヌュジェばっかり出てきてまいったものです。このときのことを、後にヌュジェ氏に直接文句いったらば、ブリュエルについていろいろ教えてもらえてちょっとラッキー。

パトリック・ブリュエルは一時期調子を悪くしていたのか、メディアに登場しなかったのだそうですが、復帰後は活躍されているようで私も少し嬉しくて、だからちょっとずつでもアルバムを買い集めてみましょうか。そんな気持ちになっています。