2005年7月25日月曜日

「教養」とは何か

  「教養」と聞いて、一般的に思い起こされるイメージは、ものをたくさん知っているであるとか、高度な学問を受けていたであるとか、そういうものなんじゃないかと思います。私にしてもそれは同じで、ガキの頃に、ちょっとまわりの子よりもものを知っていたことで、わぁ物識りねと誉めそやされて、私は鼻高々で、けれどものを知っているということがすなわち教養には結びつかないということを知ってからは、ただ知識が多いだけということは恥ずべきことである。みっともないことであると思うようになりました。

『「教養」とは何か』は、阿部謹也の精力的な世間研究に基づいて書かれた本で、『「世間」とは何か』の続きであるといってもよいかと思います。私は、世間を見つめ直そうと試みて、阿部謹也に行き当たりました。そして教養とはなにかという問題を提示されたその時、私は答えも持たず立ち尽くしたのでありました。

教養とはなにか。この、まるで読み物のように編まれた本を読み通して、ひとしきり揺さぶられて、教養というのは自分を取り巻く関係において自分はどのような位置にあるかを知っているということ。そして教養人とは、自分はなにをなせばよいか知り、実践している人のことをいうのではないかと思い当たりました。

自分の位置を知っているというのは、自分がある種の地位にあると任じていることをいいたいわけではありませんよ。例えば、私は会社の部長なのだ。だから偉いのだ、部下には命令するのだ、けれど取締役にはぺこぺこするのだ、とかそういうのんじゃあないんです。私のいいたいのは、家族なら家族を構成する一人としての自分を理解し、家族の中でなにができるかを知り、それをおこなっているということ。例として出したのは家族でありましたが、ほかに地域社会であるとか、友人関係であるとか、そうしたさまざまな関係の中で、独りよがりなんかではなく自分をきちんと評価し、成すべきことを成している人こそ教養人だと思います。もちろん、そういうことのできる人はなかなかいない。けれど、かなりいい線いっている人というのは少なからずいて、私は例えば自分の身の回りにそういう人を見つけたりするとすごく嬉しくなる。そういう人を見習って、その人のようにすることができたら、私も少しは教養ある人間に近づけるんじゃないかと、前向きな気持ちになるのです。

私の知っている人に、それはそれはお偉い方がいらっしゃるのですが(皮肉です)、けれど私は、その人が休日には普通のおじさんの恰好して、面が割れないように野球帽かぶり、地域清掃活動をしているということを聞いて、その人を見損なっていたと恥じました。駅前が見る見るきれいになることの喜びや、一仕事を終え、一緒に働いた子供たちにジュースを買ってやることの嬉しさについて話したその人は、紛れもなく世間的地位から離れて、自分の成すべきことを成そうとしている人だと、正直ちょっと尊敬しました。

ボランティアだから感心したんじゃないですよ。自分の成すことで、人が喜び、自分も喜べるというところが素晴らしいと思ったんです。見習わんといかんと思ったのです。

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