見ました、『セッション』。動画のサブスクリプションサービス、Huluにはいってまして、この映画についてはまるで知らなかったのですけど、なるほど『ラ・ラ・ランド』の監督の、いわば前作。つまりこのタイミングでHuluに『セッション』がはいったのは『ラ・ラ・ランド』のプロモーションの一環というわけで、ありがとう『ラ・ラ・ランド』! さて、この『セッション』という映画、確かに面白い映画でした。ただ面白いといっても、たのしー! といったものではなく、スリリング、ひたすら冷や冷やはらはらさせられて、そして最後には、いやこれ以上はここでは書かないですよ。ネタバレになっちゃう。ほんと、なにがこの映画の興を削ぐかわかったもんじゃないから、少しでも興味があるという人は、ここで読むのをやめてまずは通しで見てください。話はそれからだ。
映画の舞台は音楽学校。ポピュラーミュージックの学校ですね。ジャズドラムを学んでいる青年アンドリューが、教師フレッチャーのバンドで苛烈な指導を受けるというのですが、ほんと、これ、『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍装を彷彿とさせるものがありました。いやあ、唖然ですね。いや、こういう指導を行う教師はまあいたわけですよ。とりわけ昔はこうした教師は多くって、ですが教育の手法についても研究されて、進歩してきて、厳しいのはよいとしても、暴言や暴力についてはさすがに否定的というのが今の主流になっている。ところが教師フレッチャーは、その古いスタイルの暴言、暴力をともなうスパルタ式でやっていて、いやあ、バンドが萎縮しちゃってるじゃんよ。けれど、こうした苛烈さによって生み出されるものもあるのだろう。しかし同時に、こうした苛烈さがゆえに失ってしまうものも多くあるはずで、そういう意味ではこの映画は難しい。
スパルタ式が今の社会では受け入れがたいということはしっかり描かれていました。フレッチャーの教育がフレッチャーの真に望む成功をもたらしたことはなく、むしろ駄目にしてしまったものがあまりに多かったとも示唆されて、けれどかつての偉大なプレイヤーを生み出した逸話、苛烈さによって生み出されるものについても触れられていた。
この映画ではどうだったんでしょうね。アンドリューを育てたもの、それはなんだったのか。素直にすんなりと飲み込めないものがある。ラストのアンドリューなどは、それこそすかっとさせられて、それまでの鬱屈が晴らされる、そんな素敵な展開であったわけですが、それはフレッチャーを否定するものであったのだろうか。いやむしろ、フレッチャー的なものを受け止め乗り越えるものであったというべきではないか。劇的な構図としては、フレッチャーとアンドリューの対立、それがぶつかり火花を散らしながらも、最後にはその状況を乗り越え、新たなステージに到達する。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼってやつですが、そうした構図がきれいにできあがっていたなあと思うんです。しかし、アンドリューはフレッチャーのやり方を認めたといえるのか。それはないよね。フレッチャーもアンドリューの痛打を受けて、そのあり方を変えるに至ったのだろうか。いや、それもなさそうだよね。ただ、ふたりのあの関係がなければ生まれなかったものがあったというのは確かで、ふたりのありようは変わらないまま、劇としては完成してる。ただどこかすっきりしない、割り切れないものは胸の奥に残って、なあ、君はあれ、どう思ったよ、そんな具合に感想を聞いてみたくなる。いろいろと話したくなる、そうした映画でありました。
しかし、フレッチャー、底意地悪いわ。ほんと、あれはびっくりしたもの。それだけに、アンドリューのカウンターが決まるラストは爽快で、そしてそのカウンター、映像によって見せつけるアンドリューの世界が実にスリリング。実にしびれるものがありました。
ここからは余談です。ただネタバレに繋がるので、まあ上でもう随分内容に触れてしまってるので今さらですけど、まあご注意を。
昔、カラヤンがウィーンフィルを振った時のエピソードでこんなのがあるんだそうです。ウィーンがこれまで守ってきたテンポをカラヤンが変更したところ、それを伝統として大切にしてきたオケが反発して、リハまではカラヤンのテンポでやっていたのに、本番では自分たちのテンポで演奏したという話。カラヤンはそんなことになるなんて思ってないから、振りはじめた棒と実際の演奏とで矛盾が生じたわけだけれど、そこをカラヤンはしれっと合わせて、どうです、僕の斬新な演出は、みたいな顔してアピールしたみたいな話なんですが、この映画を見てて、そんなことを思い出した。けどラストのフレッチャー、あれはそうした、客の手前、アンドリューに合わせてみせた、みたいな感じじゃなかったよなあ。だとしたら、あの時フレッチャーは、そしてアンドリューはなにを思っていたのだろう。演奏を通じてふたりは仲良くなりました! わかりあえましたー! なんてもんじゃあないよなあ。
サックス奏者の渡辺貞夫さんだったと思うんですが、こんなことおっしゃってたそうです。ロックはプレイヤー同士が仲良くないとバンドは成立しないけれどジャズはそうじゃない、みたいな話。ジャズは、プレイヤーの仲が悪くて、それこそ口も利かない、目も合わせない、それくらいに険悪な関係であってもセッションは成立するんだって。
この映画のラストなどは、まさしくその渡辺貞夫のいうジャズのセッションそのものだったりしたのじゃないかなあ。ふたりが和解しなくとも、隙あらば寝首を掻いてやる、そう思いあってる仇同士であったとしても、それでもジャズは成立する。そのスリリングな関係をも糧として音楽の美は高みへと昇っていく。そういうものだってことなのかなあ。
などなど、いろいろ思わされる映画でした。自分には自分に対する苛烈さが少々足りなかったかな、みたいなことも思わされた映画でありました。
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