2006年11月15日水曜日

単行本書誌,漱石全集第27巻別冊下

 もらった図書券が溜まってきたので、買い漏らしていた『漱石全集』を買ってきました。本当だったら三冊だけのつもりだけだったのですが、岩波のサイトで確認すると第24巻書簡下と別巻漱石言行録が在庫僅少。これは危ない、急がないと買いもらしが出るかも知れないと思って、残りを一気に購入すると決定。二万四千円なりです。あいたたた、としか言い様のない価格ですが、でも全集が欠けることを思えばこれくらいどうってことないでしょう。そんなわけで、本日『漱石全集』をコンプリート。2002年に第二次刊行が開始されたわけですから、足掛け四年かかったというわけですね。

購入した書店はジュンク堂大阪本店。私は以前の職場で『漱石全集』をジュンク堂外商に注文しておきながら、刊行完了を待つことなく転職を余儀なくされて、だから私の『漱石全集』は未完のままにされて、でもいつか揃えるんだという話は以前したとおり。けど、ジュンク堂に頼んでおいて、途中からよそで買ったりなんぞしたら、そりゃ仁義にもとるってものですよ。だから、『漱石全集』買うときはジュンク堂でと決めていたのです。

二万円の買い物をしたら、コーヒーチケットを二枚もらえました。なので、三階喫茶コーナーにて紅茶をいただきながら読書。ちなみにこんな感じ。

Tearoom

紅茶もおいしかったです。

Tea

さて、全集などという分不相応なものをもってどうしようというんでしょう。読むのか? といわれると、いやこれが結構読めるのですよ。そもそも私が漱石を全集で買おうと思ったのは、この人の小文雑文も含めたいろいろを、とにかく余さず読みたいと思ったからでして、文庫なんかにも収録されているものはありますけれど、余さずっていうのはちょっと難しいですよね。こういうときに役立つのが全集なのです。全集なら、とにかく細大漏らさず文章が収録されて、学生時代のレポートから書簡から、とにかくそういう驚くようなものまで入っていて、実にうはうは気分。そして、今日斜め読みしながら、これは面白いと思ったのが意外や意外、漱石の「単行本書誌」であったのです。

この書誌は、漱石の著書・全集・合著集等についての書誌であり、明治・大正期に刊行されたもの(漱石作品の翻訳書等は除く)を対象とし、一部昭和期のものを参考として取り上げたものです。これ見ればですね、本当にいろんな形態で出版されていたということがわかります。初刊があり、その後縮刷版が出たりもしているのですが、そうしたさまざまの本の表紙印影を見ているだけでも楽しいのですが、けれどさすが全集というべきか、それぞれの本への言及が細かくて、それがまた面白いのです。印刷日発行日発行所なんてのは当たり前の情報として、体裁があれば構成もあって、ルビの有無まで言及されます。また重版についても記載されて、そして解説。書名の記法の揺れや、重刷にともなう字句修正などの本を取り巻く情報が盛り込まれて、本当に読んでいて面白いのです。漱石に関する情報としても貴重でありましょうが、明治大正期の出版を取り巻く状況がどんなもんであったかも知ることのできる、本好きならわかる面白さのある資料であると思います。

さてさて、漱石のデビュー作『吾輩は猫である』ですが、これ当時ベストセラーだったといいますね。その状況はこの書誌からもうかがえます。『吾輩ハ猫デアル』上編を見ますとね、1905(明治38)年10月6日に初版初刷が出て、翌月11月20日には第3版(刷?)が出ているのですから、結構な売れかたをしているようじゃありませんか。中編はもっとすごくて、1906(明治39)年11月4日に初版発行、同月25日に第3版。まあ、刷り数とかわからないから一概にはいえないとは思うのですが、いずれにせよ人気作家だったのだろうなというのがうかがえるように思います。

こんなデータを読んで面白いと思えるかは本当に人それぞれですが、私には本当に面白く、これだけでも全集買ってる意味があったなと思えるほどでした。けど、人には勧めません。

  • 夏目漱石『漱石全集』第27巻 東京:岩波書店,1997年。

引用

  • 清水康次「単行本書誌」,『漱石全集』第27巻 (東京:岩波書店,1997年),440頁。

2006年11月14日火曜日

草枕

 昨日読んだ『杜子春』というのは、人の世の空しさに気付いた主人公が人の世を捨てようとして、けれど結局は捨てきれなかったというような話であると思うのです。これ、ちょっと漱石の『草枕』の冒頭に似ているなと、そんなことを今日の帰り道に急に思って、ええ、この部分。

人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作つた人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。

杜子春は、仙人の境涯に向かって結局は人の情によって帰ってきたのですが、漱石は向かうまでもなく人でなしの国は住みにくいだろうと推察して、住みにくい世を住みにくいと受け入れて、その住みにくさをどけたところにある美しいものを取り上げるのが芸術だと、そういうことをいっています。ただその芸術をなす際には、ただただ情にほだされていては駄目であるらしく、ここに漱石は非人情という用語を提示しています。

この非人情という用語ですが、ちょっとこれだけではわかりにくい。けど、この非人情というのはこの本のあちこちにとにかく頻出するから、これがわからないではこまる。そこで私は、この非人情というのは、距離感の問題なんじゃないかというような捉えかたをしています。

なにに対しての距離感かというと、それはやはり世間なんじゃないかと思っています。『草枕』冒頭にいう、智に働けば角が立ったり、情に棹させば流されたり、とにかく意地を張るにも窮屈で住みにくい世の中を、実際まったく離れてしまえば住みにくいどころではないから、うまく折り合いをつけながら、けれど距離は置いておきたいという欲求。こういうのが非人情という語にあるんじゃないのかなあと思ったりするんです。

とかく人間は簡単に人情世界に馴染んでしまうものです。実際私にしても同様で、数年前、実にまったく世間に背を向けるようにとんがって生きようとしていた私でしたが、けどそれは今のかりそめの安定の中でずいぶん鈍磨してしまったとそんな風に思うことが増えました。けど、それは結局かりそめで、ちょっとバランスが崩れれば失われるような見せかけの安定に過ぎなくて、そういう現実を以前は諒解していたというのに、今はすっかり目を背けてしまっているなと気付かされて、ああみっともないなあ。俗世に落ちたと感じました。非人情の境涯を求めたいと思っていた昔の思いなんてとうの昔に消えてしまっていたのだなと、情けなくなりました。

気付けばずいぶん日和っているとは思いませんか。丸くなったのかも知れないね。けどそれは結局は鈍磨したことにおんなじで、常識人ぶった物言い、振舞いの影には臆病と打算が透けて見えてげんなりします。私はそんな自分自身の位置が嫌でたまらないから、今からでも非人情を取り戻せるだろうかなんて思った、今日はそんな日だったのです。

この本のいうには、芸術家というのは 四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むような人間のことだそうですよ。いうなら芸術家とは非常識な人間であるということで、別に私は芸術家ぶりたいだなんて思ってやしないけど、けれど常識に取り巻かれて自由を失うのはまっぴらごめんで、だから少しでも自由であるためにも常識の一角を取っ払いたいなあなんていうのですね。

  • 夏目漱石『草枕』青空文庫。
  • 夏目漱石『草枕』(ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,2006年。
  • 夏目漱石『草枕』(漱石雑誌小説復刻全集;第4巻) 東京:ゆまに書房,2001年。
  • 夏目漱石『草枕・二百十日』(角川文庫) 東京:角川書店,2000年。
  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『夢十夜;草枕』(集英社文庫) 東京:集英社,1992年。
  • 夏目漱石『草枕』 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『草枕』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『夏目漱石全集』第3巻 東京:筑摩書房,1987年。
  • 夏目漱石『草枕』(新潮文庫) 東京:新潮社,1968年。

引用

  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 (東京:岩波書店,1994年),3頁。
  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 (東京:岩波書店,1994年),34頁。

2006年11月13日月曜日

杜子春

 なんだか自分で自分を見失っているなと思うところがあったので、『杜子春』をちょっと読んでみたいと思ったのです。『杜子春』は芥川龍之介の短編で、『蜘蛛の糸』に並んでよく知られている話です。この話を有名にしているのは、国語の教科書なんかに収録されていることが多かったからなのではないかと思うのですが、唐の洛陽を舞台に、青年杜子春の身に起こった不可思議なできごとを追体験することで、人間の生の空しさに思い至り、そして空しい人生において大切なことというのは一体なんなんだろうかということを立ち止まって考えるきっかけになるのではないかと思います。

正直なところをいいますと、少年時代、思春期、青年期、そして今と、何度となく私はこの話を読んできて、年を取るごとにその感慨は深まっているとそんな風に感じるのです。子供の頃は子供の頃で、杜子春の冒険にも似た人生の紆余曲折にわくわくしたりはらはらしたりしたし、思春期青年期には、人生の空しさを悟った杜子春の荒野の試練にも似た苦境にて見せる精神性の高さに崇高さを感じ、しかしどのような精神の強さがあったとしても克服できない人の情の深さに感じるところがあり、でも今読めば、そういう理屈やなにかでない、悲しみのようないとおしさのような気持ちが湧き上がってきて、胸を突かれるような思いに締めつけられます。

感想が読むたびごとに印象を違えるのは当然ではありますが、私にとって『杜子春』がより深みを増していくように感じられるのは、おそらくは私と私のまわりの人たちの関係が変化している、そのためであると思います。昔は、父も母も若く元気でありましたが、年月を経て老い、私自身もいつまでも若いわけでなく、また、物語冒頭の杜子春ほどではないですが、貧しさ、暮らしにくさを感じることもないではない、そういう微妙な立場に立たされて、けれど私は割合この位置を楽観的に受け入れています。金が欲しいわけでなく、地位が欲しいわけでもなく、けどそれでもどこかに欲はよどんで残っていて、その欲はよく見てみれば屈折した名誉欲、承認への欲求であると、そんなようなのです。

でも、そんな自分の身の丈にあわない虚像を求めてどうしようというんでしょう、私は。そんなことよりも、私はもっと身近にあるものを、人を、ことを大切に考えなければならないのではないかと反省して、だからこういうときに『杜子春』を読みたくなります。何度目かはわかりませんが、こうして『杜子春』を読んで、私は大切なものを取り戻すことができたのか。今はまだわかりません。すぐにぶれて、簡単に揺れる、そういう薄弱であるのが私です。けれど薄弱ながらも、変わらぬ大切なものへの視線は持ち続けたいとそのように思っています。

2006年11月12日日曜日

暴れん坊本屋さん

   暴れん坊本屋さん』の第3巻がでています。といっても『ふたりめの事情』と一緒に出たのですから、今ごろそんなこといっても今更感が漂うってなものですが — 。ええと、実をいいますと、本日地上三十階の書店で『暴れん坊本屋さん』の作者、久世番子さんのサイン会があったのでした。ええ、私ももちろんいったのですよ。並びました。時間にして二時間。待ってる間、なにか気の利いたことをいおうと思っていろいろ考えていたんですが、なにしろ私は不調法ものときておりますから、気の利いたことどころか真っ当な挨拶さえできたかどうか自信がない……。ああ、なんて気の小さいことでしょう。でもいいんだ、サインもらえて嬉しかったから……。

『暴れん坊本屋さん』3巻も出て、サイン会もあって、いやあますます大繁盛、いよいよこれからが楽しみだ、というような盛り上がりを見せている状況に見えますが、実をいいますと『暴れん坊本屋さん』は3巻で完結です。このことを知ったときは、ちょっと寂しかった。けど、こういう実体験をベースにしたものというのは、長く続くほど内容に無理が出てくるところがありますから、3巻で区切りをつけたというのは、よい見極めだったのかも知れません。これまで私もいろいろな本を読んで、もちろんこういう実録系のものも読んで、後になるほどネタ出しに無理しているなという感じが濃厚になって、なんだかいたたまれない感じになったりします。最初は自然だったテンションも、最後の方はもう空元気が息切れ起こしてるみたいな感じだったりして、それが好きな本なら好きであった分だけ余計につらい。『暴れん坊本屋さん』は乗りのいい頃合いに、人気をつかんだまま終わることができて、本当にいい引き際だったと思います。

『暴れん坊本屋さん』は新聞や雑誌でも紹介されて、実際話題書といったような感じがありましたが、これだけ話題になったのは、本好きに訴える要素が多かったからだろうと思っています。本好きなら、なんとなくでも近しく感じている本屋さんという職業の花の部分とその裏側に広がる影の部分が面白おかしく表現されていて、へーっ、そうなんだー、って思えるところがきっとよかったのでしょう。でも、多分この本は本の愛好家よりも書店員にこそ受けていたんだろうと思います。昔、私の職場の同僚に書店員だったのがいたのですが、その人の語ってくれる本屋の苦労話裏話が面白かったりショックだったりで、でも面白かった。で、私とその元書店員がこの漫画を読んだとしたらどうでしょう。この二人が受ける印象は大きく違ってくるはずです。私は親しみを持ちながらも詳しくは知らない世界をかいま見るのが関の山、たいして元書店員は、あんなこともあった、私の場合はこうだったと、共感を持ちながら、あたかも対話するようにして読めるはずで、その共感の分だけ私よりも深く面白さを感じられることでしょう。

実際、この漫画の愛読者には本に携わる人が多かったようです。第3巻の一番最後、増補版に、本の愛好者だけでなく書店員や図書館員からも応援の声があったらしいことをうかがわせるコマがあります。そういえば私も図書館員でした(私が排架した棚は、本が抜けないといってすこぶる悪評だったさ! だって狭いんだもん。ぎゅうぎゅうに差さないと本が出せないんだってば)。だからそれゆえに、この本を読んでいると昔のことを思い出したりして、懐かしかったり、思い出し怒りしてみたり、でも書店員も図書館員も、結構ハードで報われない仕事にも関わらずその職場に愛着を感じてしまうのは、やはりそれだけ本が好きだということなんだと思います。だから、すべての本に携わる人、作家、出版、印刷、取次、書店、図書館、そして読者はみな本を仲立ちにして繋がる、戦友みたいなもんなのかもなあ(時には角突き合わせたりもするけどね)。だから、それゆえに共感しあい、ともに面白がることのできるというわけで、そうした体験の結晶のひとつがこの『暴れん坊本屋さん』だとしたら、それ自体がすごく素敵なことなんじゃないかという気もするのです。

蛇足

私は新世界の本屋となる!!というフレーズを見たときに、通天間近くの書店!? と思ったのは多分私だけではないと思います。

引用

2006年11月11日土曜日

メイド諸君!

 きづきあきらの新刊が出ていたので買って参りました。その名も『メイド諸君!』。タイトルからもわかるように、ここ数年流行のメイドを題材にした漫画です。けど作者がきづきあきらだからなあ(どうも警戒しないではおられないらしい)。おそるおそる読みはじめてみれば、舞台がメイド喫茶。一種おとぎの世界にふと迷い込んできた、これまでおたく業界とはまったくといっていいほどに関係なかった女の子がヒロインです。で、私は最初面食らってしまったんでした。この漫画はどのように読んだらいいんだろう。つうか、いったいなに? 出てくる人たちの大半はおたくで、しかもきづきあきらフィルタを通ったおたくで、どちらにしても受け入れがたさが先に感じられて、なんなんだろうこの違和感は……。と、初読の感想はこんな具合であったのです。

あまりに受け入れられない場合は、ちょっと間を置いてみるというのが私の常です。で、間を置いてみての感想は、この漫画はもしかしたらいわゆるお約束をテーマにしているのだろうか、というものでした。舞台となっているメイド喫茶というものがそもそもある一定のお約束をベースにして成立している空間であるわけで、ここで提供されるサービスというのは、喫茶などではなく、お約束どおりにロール(役割)を演じるということに他なりません。そうした、求められるロールを果たすということの重要性は実際この漫画においても語られています。

と、そこへお約束を諒解していない人間(ヒロイン)が投げ込まれることによって、ここに劇的要素が生じるのかなと思いまして、ヒロインが反定立(アンチテーゼ)とすれば、定立(テーゼ)はお約束をなによりも大切に考える人、あるいはこれは領域の問題と考えてもいいかも知れない。決められた領域の中で、決められた型どおりに振る舞うということは、ある一定の範囲にとどまるならば有用で、規範からの逸脱は問題となるケースもあります。ですが逆に、あまりに行き過ぎたお約束は、その下にある個別の事例をすりつぶす肉挽き機のようなものでしかないのかも知れない。こうした、お約束をめぐる境界線の問題がテーマなんじゃないかなどと思ったわけです。

いや、わかりませんよ。私がそんな風に思ったというだけの話で、実際のテーマがどうかは2巻以降をまつ必要があるでしょう。

けれど、やはり私はこの漫画をお約束をめぐる物語として捉えようとしています。お約束は普通と捉え直してもいいかも知れない。普通にとどまること普通から逸脱すること。逸脱したものに対し、普通の冷たくあたること世の常の習わしといってよいくらいに頻繁で、すなわちここに普通は見事個別の事例をすりつぶす肉挽き機として機能します。普通とはその成員に対し同質であることを求めるプレッシャーで、そのプレッシャーがあるがゆえに、外れものは迫害される。ここまで書けば言い過ぎかも知れませんが、あまりに普通であるものたちは、自分たちの残酷さに気付いていない、私にはそんな風に思えてならないんです。

『メイド諸君!』がどのような漫画であるかは、この先を待ちましょう。私のこの記事は、迷惑な先入観にもなりかねません。だから私自身もこうした見方を、心のどこかにとどめたまま、読むたびごとに新たな気持ちで向き合いたいと思います。しかし、この先は一体どうなるんだろう。この先が、私の想像だにしない世界だとしたら面白いとそんな風に思っています。

  • きづきあきら,サトウナンキ『メイド諸君!』第1巻 (ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2006年。
  • 以下続刊

2006年11月10日金曜日

眠れる惑星

  なんだか妙に気になるんだけど、なぜか集めようという気持ちにブレーキのかかってしまうのが陽気婢という人なのです。繊細そうな絵柄で、ちょっとファンタジー、ちょっとサイエンスフィクションをやる人というような印象が私にはあって、そしてもう一点はずせない印象はというと、ちょっとエロまじりってところでしょうか。絵柄からも話からも思うんですけど、多分この人は生真面目な人で、その感触は決して悪くないと思うんですが、買おうかどうかかなり迷ってしまいます。なんでなんだろう。はまる人はきっと容易に抜け出せないくらいにはまってしまうというようなタイプの漫画家だと思います。だから、私はそういうのを怖れてるのかも知れません。あるいは、なんか見透かされたような気持ちがするから、ちょっと距離を置きたいと思っているのかも知れません。

けど、偶然本屋で見つけた『眠れる惑星』の第2巻、なんだかひかれるものがあって、数日迷ったんですが、結局買ってしまいました。これ、どういう話かというと、ある朝突然、主人公淳平少年以外のみなが眠りから覚めなくなった、とそういうお話。このへん、実にSFチックであると思います。こうした異常事態下における人間の行動うんぬんというのは、結構SF古典で見られるテーマだと思うのですが、私はSFに詳しいわけでもないのでぼろが出ないうちに黙っておきます。して、この主人公以外が目覚めないという状況を打破する方法はなにかというと、これがさっきエロまじりだといった陽気婢の面目躍如だと思うのですが、淳平が関係を持つことで相手を覚醒させることができる、とそういう話になっているのです。

なんて都合のいい! っていったらまあそのとおりで、まさしくハーレム状態なのですが、けれどこうしたハーレム状況を成立させながら、話を純愛系に向かわせようというところが、やっぱり最初にお話したように、この人の繊細で生真面目であるという所以であると思います。

これ、主人公を楽天的な性格に置いているからそれほど悲壮感もなくて、ちょっとコメディっぽかったりもするんですが、もしこういうシチュエーションに自分が置かれたらどうなんだろうなあなんて思うと、私は基本的にネガティブな方向に引っ張られている人間ですから、きっとものすごい破滅的なことになっちゃうんじゃないだろうかなんて思ったりなんぞして、けど、そういう不安をまったく描いていないというわけでもないから、読んでいて非現実感にくらくらするというようなことはありませんでした。特に、なぜ人は覚めない眠りに落ちてしまったのかということがまったく解明もされず、謎のままに置かれている(第2巻時点)ため、目覚めた登場人物の一部にはやみくもに不安が募ったりと、こういうところの描写は結構好みです。不安の中、それぞれがそれぞれの思うあり方を探し、選ぼうとしているというのでしょうか。確かに鍵こそは淳平少年でしょうが、淳平少年という軸を離れたところで触れられる個々人のエピソードに妙に実感のこもるところを感じて、むしろ私の興味は周辺にこそあるという感じです。

けど、やっぱりこの漫画の軸には淳平少年があって、そして彼には常にセックスがつきまとうわけで、だから私はこの漫画を読んで、なんのかんのいっても人間はとどのつまりセックスなんだろうかと思って、悲しくなってしまったのでした。別に私は性的営為を否定したりはしないのですが、けれどそればっかりというのはどうなんだろうと、なんだかぼんやりとした空しさが残ります。

一体どの口でいうてんの? って感じでしょうが、本当にそう思ったんだからしょうがありません。けど一体なんでこんなことを思うんだろうと考えれば、それはこの人の漫画になんだか無常観みたいなのを感じるところがあるからかも知れません。と、最後まで人のせいにしておこうと思います。

  • 陽気婢『眠れる惑星』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

2006年11月9日木曜日

リトルウィッチファンディスク — ちいさな魔女の贈りもの

 ずいぶん前に、一体なにがきっかけで知ったんだったか、Littlewitchがファンディスクを出しますよということを聞きまして、あ、ちょっと欲しいかもと思ったのでした。Littlewitchというのはこないだ、そして昨日もお話した『Quartett!』の開発元でありまして、つまりそのファンディスクには『Quartett!』関連のおまけシナリオも含まれています。だから、欲しいと思ったんですね。でもさ、発売日がいつかというのをついチェックし忘れてて、その後大阪日本橋にいったとき、また偶然にも店頭にリトルウィッチファンディスク発売というポスターを見て、あ、買わなくちゃと思いながらまた忘れて、買ったのいつかといいますとPS2版『Quartett!』を買ったその同日ですよ。このファンディスク、もう生産完了していましてね、だから店頭在庫がなくなる前に買わないと入手が困難になるというわけで、だからちょっと奮起してみたとそういうわけです。ええ、私の消費はいつもこんな感じでなされます。

インストール後、最初に開いたのはもちろん『Quartett!』の後日談でありました。シニーナさんを主役としたエピソードです。正直私は、この話だけでもとはとれたと思ったほどです。内容はといえば、進路に悩む学生がよく突き当たるような話でありまして、だからよくある話ともいえるし、また私自身にも同じく起こったことでもありました。自分の望む道が困難であるため、より平易な方向へと流れたことはありませんか? 自分は駄目だと決めつけて、本当の気持ちを押さえつけてしまったことはありませんか? 私はあるんです。私は学生時分、実技系の学科に学んでいたのですが、その先、卒業後の進路を決めるにあたり、より平易な道を選んだのでした。もう夢なんて見ない。普通に就職して、ただただ日々を送ろう、なにも望まず、ただ平穏に暮らそうと決めたのでした。けどこれが悔いになったんですね。自暴自棄とまではいわないけど、無為に暮らして、空しさに気付かないようにしていたのですが、それでもどうしてもあきらめきれなかったのか、最初の道に戻ってきてしまいました。長い寄り道。十年弱ですか? 失われた時間は大きかったと思います。ですが、私にはこの時間が必要だったのかも知れないなと思います。無為だったかも知れないけど、無駄ではなかったと思います。

『Quartett!』の後日談は、まさしく私が突き当たったことをなぞるようで、だから感情移入も並大抵ではありませんでした。昔のことを思い出して、自分は現実的な選択をしたんだと思い込ませながら打ちひしがれたことを思い出して、けど本心は納得なんてしてなかったからその思いは悔いに変わった。ヒロインシニーナのコンプレックスや心の揺れ動きを追想することで、私は再び思いを新たにすることができたと思います。もっともっとがんばろう、まだまだがんばれるという気持ちにもなって、だから私にはこのゲームは本当によい買い物であったと思います。

このエピソード、もしかしたら開発元のどなたかのエピソードなのかも知れませんね。それくらいよくある話で、けどそれゆえに共感できる話であると思います。

湿っぽい話終わり。

ファンディスクに収録されているのはこうしたサブエピソードだけではなくて、他にミニゲームもあるのですが、ミニゲームというには結構しっかりしている「魔女っ娘クライシス2006」、これが結構面白かったです。さいころを振って、出た目の分だけすごろく上のフィールドを移動し、対戦相手を見つけてカードバトルをするというゲームなのですが、相手を打ち負かしますとボーナスグラフィックGetだぜ! というそういうわけなので、自然むきになってカードバトルに精を出します。……ごめん、ちょっと嘘。実はこのゲームにはバグがあって、キャラクターを捕まえてもカードバトルに突入せず、主人公が勝ったことになってしまうという、そういうバグなのですが、まさに私の環境ではこれが発現して、一度も戦うことなく全員蹴散らして、もちろんボスもですよ、楽勝で蹴散らして、あっという間にクリアしてしまったのでした。ひどいユーザーもいたもんだよ。

最初、なんでカードバトルが始まらないんだろうと焦って、あ、そういえばパッチが出てたなあと思い出しながらも、そんなのダウンロードしてません。どうしようかと迷った揚げ句、とりあえず全要素をオープンしてからパッチあてようと決定。なので、クリア後、改めてやり直している次第です。

真面目にやってみた感想、カードバトルって結構面白いですね。火水植物の三属性が三すくみになっていて、攻撃点を防御点で相殺、相殺しきれなかったポイントがプレイヤーのダメージになるというそういう仕組みなのですが、相手のスタックを破壊したり、相手を眠らせて一回休みにしたりなどの特殊カードもあって、結構奥が深いです。多分、こういうのが普通のトレーディングカードなんでしょうね。私、カードバトルといえば『カルドセプト』しかやったことがありませんでしたから、このシステムが新鮮で、流行ったのもわかるような気がします。面白かった。自分でも類似システム作れないかなあなんて思ったりなんかするくらいに面白くて、これはちょっとしばらく遊んでみたいと思うようなものでした。

さて、そんな私の目下の問題は、ファンディスク買ったおかげで『白詰草話』、『リトルウィッチロマネスク』に興味が出てきてしまっているというところだろうと思います。『魔女っ娘クライシス』でのやり取りいろいろ見てるとなんだか面白そうに思えてきて、いかん、すっかり相手の策にはまってるじゃないか、とそんな具合なのです。なお『白詰草話』は先日ロットアップしましたので、店頭在庫がはけると入手困難になりかねません。 — まずいですね。私の決断の条件が揃っているような気がしてなりません。

参考

2006年11月8日水曜日

Quartett!

  先日お話しました『Quartett!』のPlayStation 2版が発売されていたという話題の続きです。えっと、結局買ってしまいました。わはは。買おうかどうか迷って、迷って、迷ったのですが(前回の記事の書かれた10月4日から今日までの時間でもってはかってくださるとありがたいです)、後で入手困難になってから探すのも嫌だし、入手にしくじって後悔するのも嫌だしで、買っとくかあ、とそんな具合に決断しました。私の決断はいつもこんな感じでなされます。

買ったのは限定版です。限定版は箱入りで、イラストカードがついてくるんですが、正直ちょっと得した気分(いや、その分の代金はちゃんと支払ってるのですが)。いろんな作家さんが参加されていて — 、だからひいきの作家さんがイラストかいてらっしゃるとか、このゲームのマニアとかでなければ通常版でいいかな? っていう感じです。限定版と通常版はパッケージイラストが違いますが、イラストカードに通常版のイラストも収録されていますので、相当のマニアでない限り限定、通常双方を購入する必要はないかと思われます。

PlayStation 2版を遊んでみた感想。フローティング・フレーム・ディレクター(略称FFD)は相変わらずいい感じに仕上がっているなあという感じです。PS2とPC版の最大の違いは、PS2版が全年齢向け、そして全員に声が入っている、というその二点であろうかと思うのですが、その声の入るタイミングも含めて、うまく仕上がっていると感じさせます。

私のこのゲームの遊びかたは、徹頭徹尾オートモードで、という完全観賞スタイルなのですが、PS2版はよりこのスタイルに向いていると思います。声がついているおかげで、テキストの読み落としというのが基本的にありませんからね。なのでより一層観賞している感は強まっています。

表示に関しては、やっぱりそりゃPC版の方がいいんですが、ほらPCは800×600ピクセルのフルカラーまでいけるでしょう。たいしてテレビは640×480のインターレースだから、ちょっと文字が読みにくかったりするんですね。だから、なおさら声がついてくるというのはありがたい、というかないと困るかも。肝心の絵はというと、思ったよりも問題なくて、これは水彩風の塗りのおかげなのかも。ともあれ、PS2版があるならPC版は特に遊ばなくてもいいかも知れないよ、といっていいんじゃないかなあと思います(PC版はついこないだロットアップしたので、どんどん入手困難になっていくことでしょうし)。

けど、PS2版が最高とはいわないですよ。問題というかなんというかもないわけではありませんから。例えばひとつは文字が読みにくい。フォントがわりに細いから、よりちらつきやすいといえるかも(けど、ボールド気味のフォントなら雰囲気壊しちゃうでしょうけどね)。もうひとつは、ディスクのシークがすごいんです。これはもうFFSの宿命としかいえないでしょう。普通一般の、背景がありキャラクターの立ち絵があり、そしてテキストウィンドウが……、というスタイルのゲームとは一線を画していて、話の流れに沿って画面にコマが現れ、台詞は吹き出しがそれを話している人物のそばにひとつひとつ配置され、そして吹き出しが出るのと同時にPS2版は声が出ます。この、それぞれのデータを読むのがよほど大変とみえますね。ひっきりなしにディスクシークが発生して、正直うるさい。ずっとがたがたいっていて、私の初期型PS2は壊れたりしないだろうかと心配になるくらい。ハードディスクの威力は偉大であると実感しますよ。ほんと、なんでPS2には標準でハードディスクがついてなかったんだろう。もしPS2にハードディスクがついていたら、先行してデータを読んでキャッシュしてみたいなことも可能なわけで、ほんとこのゲームがハードディスクに対応していないということが残念です(私はPS2用HDDを持ってるのですよ)。

あともう一点。先にもいいましたように、私はこのゲームをオートモードでプレイしているのですが、オートモードであることを示す表示が結構でかくて目立って邪魔。もうちょっと小さく、目立たないようにして欲しかったなというのが正直な感想です。あ、それとできたら、選択肢でオートモードが停まるのはいいんですが(停まらないと困る)、選択後にオートモードがOFFになってるのは嫌かもなあ。まあ、そのつどL1を押したらいいだけの話だし、このゲームに選択肢はそれほど多くないので、問題は少ないと思います。

そうだ。PC版で触れていたインターフェイスについても書いとこう。画面には基本的に無駄な要素が表示されません。だからセーブやロード、設定変更といった各種操作はコントローラーの対応するボタンを押すことでなされます。私はこういうのきちんと覚えられないのですが、まあ頻繁に操作を要するようなゲームではないから大丈夫。オートモードとキャンセルとオプションが使えればそれでいいや。

というわけで、ファーストプレイは、メインキャラクターのシャルロットルートでいくつもりが途中ユニに寄り道してしまって、分岐はばっちり覚えているつもりだったのですが結構忘れてしまっています。しかし、風邪のシーンのユニの独白は何度聞いてもしんみりしますな。彼女の問題は、私が学生時代に失敗した問題に嫌になるほど重なっているから、その分感情移入が激しくて参ります。いや、そのつまり、ここはユニに参っていると解釈してくださって間違いないと思います。

そんなわけで『Quartett!』はPC版、PS2版にそれぞれ長所があるというお話です。だから、PS2版がPCに逆移植されたりしたらきっと私は買っちゃうだろうなと、そんな風に思いますですよ。あ、その際には全年齢版でかまいません。

P. S.

内容についてちっとも書けなかったので、また書くかも知れません。

PC

書籍

CD

2006年11月7日火曜日

女クラのおきて

   『女クラのおきて』がはじめてラブリーに掲載されたときの印象は最悪で、なんじゃこの勢いばっかりの設定漫画は、だなんて思っていたのですが、気付いたら好きになっていたというのですから、人間の好みというものはいいかげんなものです。そうなんですね。私ははじめ、『女クラのおきて』が嫌いでした。なんか雑な漫画だなあと思っていて、いずれ消えるさなんて意地悪なことさえ考えていたのですが、どこがどう人気があったというのか連載は続いて、そしていつしか私はこの漫画を読むのを楽しみにするようになっていたのです。もう完敗といっていいと思う。その、私にとって師走冬子という漫画家を好きにならしめるきっかけとなった『女クラのおきて』の最終巻が本日発売されました。そうですか。終わってしまったのですね。振り返ってみれば連載の期間こそは長かったですが、なんだかあっという間だったようにも思えます。

この漫画、はたして時間の流れはどうなっていたものか。これだけ長い期間連載されて、季節恒例のイベントも繰り返されて、けれど彼女らヒロインが卒業するとか、この漫画が終わるとか、そんなことは一度も考えたことがありませんでした。味わいを違えながら、面白さの質も変化させながら、その勢いが衰えているようにはまったく感じられず、なのに終わった。人気のあるうちに終わった。いい時機だったのかも知れませんね。新キャラは何人も出ましたが、彼らが漫画の面白さを損なったことはなく、最終巻にも新キャラがひとり。いいキャラクターでした。話に広がりが出たと思います。そしてその広がりを持続させたまま終結。なんだかしんみりしてしまいました。またそれが、しんみりさせるようないい終わりかただったと思うんです。

この人の漫画は、基本的に非常識な人たちが繰り広げる騒動によって引っ張られるタイプに属します。それは特に『女クラ』に顕著で、元気者、マッドサイエンティスト、金持ち高飛車のヒロイン三人が、クラス担任を振り回して、ああもう散々だという感じで終わるというのが基本形としてあったのですが、だんだんとどたばた以外の要素も増えてきて、気持ちがあたたかになるというか、ちょっとなんかいい話聞いちゃったんだというか、そういう気分になれるようなことも珍しくなくなってきて、だからあのラストは集大成だったのかも知れませんね。これまでの時間、変わりながら、膨らみながら、積み上げられてきたものがいざ閉じられようとしたときに、ああいうかたちを欲したのかも知れません。変わりつつ、変わらないもの。変わらずに変わっていくこと。もしこれが、これまでの数年を経ずして出会ったラストであればきっと私はなんとも思わずに流したことだろうと思うのです。けれど、これまでの時間がこのラストをただ見過ごしにすることを許さなかった。私の胸中に生まれた感傷は、彼女らの日常が決してもう物語られることがないだろうということを知っているからで、そして同時に彼女らの日常は変化をともにこれからも続いてゆくだろうということを思ったからなのだろうと思います。

ところで、変わったといえば螢のブラコン設定っていつごろ出てきたんだろう。初期には確かになかったと思うんですが……。なお、私の一番好きだったのはほかならぬ螢です。

  • 師走冬子『女クラのおきて』第1巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 師走冬子『女クラのおきて』第2巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 師走冬子『女クラのおきて』第3巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 師走冬子『女クラのおきて』第4巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。

引用

2006年11月6日月曜日

Hazy moon, taken with GR DIGITAL

Hazy moon今日家に帰ると、株式会社リコー GRブログ事務局から封筒が届いておりまして、なんだろう、あ、手拭いか! そう、手拭いでした。早速封を切って、けど透明の中袋を開けるにはいたらず、まだ未開封のまま、中身の確認さえしていません。だって、なんだかもったいないんだもの。といっても、手拭いは使わず置いておいたら黄ばんでしまってだいなしなので、いずれ封を切りたいと思います。ただ、なにに使うかは未定。浴衣着るわけでなし、だからといって手拭いを手拭いとして使うようなこともなし。けど、いずれは袋から出したいと思います。ともあれ、この度は結構なものをいただきまして、ありがとうございました。

さて、本日の記事は手拭いへのお礼がメインではありません。じゃあなにが目的かといいますと、それはGR Blogにて定期的におこなわれます、トラックバック企画への参加です。なお、トラックバック企画は今回で14回目。お題はモノクロであります。

今日、家に帰る途中、雨上がりの薄く煙った空に月が出ていましてね、そしたらそこにうってつけの看板が! よし、この看板を三脚がわりに撮影しようと思って撮影したのが冒頭の月の写真です。で、その後、歩きながら考えたのは、今の絵なら特に色がなくってもいいんじゃないか。そうだ、今回のトラックバック企画はモノクロだった。よし、戻ってモノクロで撮り直して、トラックバック企画モノクロに参加しよう。

わざわざ引き返して撮影したのがこの写真です。

Hazy moon

思ったよりよくなかったなあ。素直な感想をいえばこんな感じです。もっと露光時間を長くしたらよかったのかな? それ以前の問題のような気もしますが、とりあえずこれが私のGR DIGITAL初モノクロ。モノクロというのは研究しがいのありそうなテーマだなと思いました。

2006年11月5日日曜日

ときめきメモリアルONLINE

 以前私は『ときめきメモリアルONLINE』を評してやってみたらめちゃくちゃ面白いんですよなどといっていました。ですがここに状況の変化を告白し、前言を修正します。『ときめきメモリアルONLINE』、正式サービスが始まってみればなんだか微妙な雰囲気です。面白くないとはいわない。ログインすれば一時間二時間はすぐに経ってしまうくらいに面白いのですが、しかしその面白さというのが『ときめきメモリアルONLINE』というゲームに発するものかというと極めて疑問なのです。私はあそこにログインすれば、なにしろ第一期生であったわけで、また今や希有といえるログイン人口の多いクラスに属していることもあって、ひとりやふたり話のできる人がいる。話す、面白い、長居する、けどそれだけかも。私はあの場にログインしてなにをしているのかといえば、結局はチャットでしかなく、だからTMOとは私にとってキャラクター付きのチャットでしかありません。

ゲーム内でなすべきことというのが曖昧なのが問題なのかなあ、なんて思うんですね。授業に出る、すなわちクイズをするということですが、クイズを答えた先になにがあるかというとそれがさだかじゃないんです。部活に出る、すなわち戦闘訓練をするということなんですが、キャラクターのレベルを上げて強化したところでそれがなにに繋がるかわからない。アイテムが出る、といっても、アイテムはキャラクターの見た目を変化させるものが主だから、別に必需品というわけでもないし、一通り話題になったら集束して終わり。なんか、クイズしても戦闘しても、なんなんだろうなー、っていう空しさがどこかに漂っている、そんな感じがします。

その空しさを埋めるのがチャットなのですが、ゲーム内でできることがあんまりに少なすぎるから、その足りない部分をよそに求める人が多く、それが問題視されていたこともありました。伝言機能がないためSNSが大はやり、肝心のチャットも使い勝手が悪いとのことでメッセンジャーに逃げるユーザーが多く、知りあって気の合った数人とメッセンジャーで会話しながら部活動なんて人もあったそうです。それをされると、新規参入者がなにをどうしていいかわからない。ただでさえメンバーに流動性の少ないゲームです。編入されたクラスに馴染めないとなれば、それはもう楽しみようがないというわけで、クラスに馴染めない人たちが多目的教室に集まって、行き場のない空しさを埋めようとしていた、なんてことさえありました。

以上が夏に入る前の状況です。現在はどういう状況にあるかというと、より過疎が進んで、チャットをするとかしないとか以前に、まったく人がいないというようなクラスも散見される(むしろこちらの方が多い?)とか。学校(サーバ)レベルで過疎というような話も聞いているのですが、こうした状況を受けて、学校が統廃合される運びとなりました。つまり複数のサーバを集約して、過疎を改善しようという訳です。

統廃合は来週の水曜日におこなわれるとのことで、この土日が統廃合前の最後の週末となりました。また、クラス単位で記念撮影をしようという話も出ていて(もちろん有志による自主イベント)、今日明日明後日はちょっとした盛り上がりがありそうな予感がします。

おそらくこの統廃合が、よくも悪くもこのゲームの分水嶺となるかと思います。人が集められて、体育祭という公式イベントが大々的におこなわれて、けれどどちらに転ぶかはすでに参加していない私にはわかりません。キャラクターこそは温存しながら、もうずいぶんログインしていないものですから。ただ、そんな私にも多少の感傷はあるようで、この最後の時間を見届けるために課金するか、再構成された学校で新しい人間関係を見いだすべく再びアクティブになるか、少し迷いながら、けれどもうがっかりするのはいややからなあと突き放した気持ちでもいます。

余談

統合後の学校名が振るっていまして、はるかぜ高校ひだまり高校。は、春風高校って!!

学校上げてサバゲーするなら、私は絶対参加します。前線に躍り出て、見事散って見せますよ! (もちろん死亡は自己申告です)

引用

2006年11月4日土曜日

0からはじめましょう!

 『まんがタイムきらら』にて『ねこきっさ』に出会って以来、ととねみぎをひいきにしております。かっちりちんまりとしてかわいらしい絵に、若干ブラックなギャグが妙にマッチしているととねみぎの漫画は、一体どうして私の好みにあったというのか、それがどうもうまく言葉にならないものだから、これまで避けてきた模様です。当然書いていると思っていた『ねこきっさ』で検索してみたところ、なんと検索結果が0。あれー? もしかしてなんかの間違いで記事が消えたのかと思って、各巻の発売日前後を目視で探してみたのですがそれでも見つからず、本当に一度も書いていなかったようですね。なんてこったい。こりゃ本当に0からはじめましょう! ではないですか! ……いや、ごめんなさい、つまんなかったですね……。反省してます……。

ととねみぎでなにか書こうとして結局書けずに終わるのは、多分私がこの人の漫画から突出したなにかを感じとることができずにいるからなんだと思います。キャラクターはかわいいですし、個性化もうまくできています。ギャグもいい感じに小ネタからブラックジョークまで多様に繰り広げますし、全体を緩く繋ぐストーリーにも面白みをうまく加えているしで、世界観をそつなくまとめて、その範囲でうまく読ませると、そういう感じがするのです。けど、これが! というようなポイントを私にはうまく見つけることができず、だからうまく表現することもできずにいると、そういう状況にあるのです。

だってね、確かに面白いのですが、読んでみろ、読めばわかるからっ、みたいなこといわれても困るでしょう。それに、ルーシアちゃんがかわいいんだよー、みたいな話になれば、読者様の中にお医者様はいらっしゃいませんか? って聞いてまわらないといかん気にもなろうというものです。

素直なところを素直にいうと、漫画に出てくる一人一人の嗜好であったり目標であったりがうまく整理されて表現されているところがよいんだと思うんです。これをもってキャラクター付けがわかりやすいといってもいいかと思うのですが、このおかげか、漫画全体がすかっとして風通しよく、さっぱりとした明るさが読後に残るのです。私は多分、この感覚が好きなのです。さっきいってた、ルーシアちゃんうんぬんにしても、彼女のキャラクターがさっぱりさばさばとしたものだから私は好きといってるのでありまして、だから私がととねみぎの漫画に感じるよさというのは、まさしくこの爽やかな風合いによるのだと思います。

読んでいるあいだは、面白く、笑って、読み終わればさらっと離れることができる。これをあっさりしていると取るか、すっきりしていると見るかは人次第だと思います。少なくとも私は、このべたつかない感じが好きで、そしてこの感触は『0からはじめましょう!』からも同じく感じ取れます。

幽霊や死というネガティブなネタを扱いながら、むやみに暗さを追求するのではなく、あくまでも明るいままでいるという、この感覚は悪くない。じめじめとした湿っぽさや陰鬱さはすっかり払拭されていて、こんな幽霊なら友達に何人か欲しいもんだよと、そう思うくらいのすがすがしさなのです。

蛇足

日下部神無がよいですね。クールなところが魅力的です。次点はトイレの花子さん。

2006年11月3日金曜日

がんばれ! メメ子ちゃん

 らいか・デイズ』でブレイクしたむんこの竹書房における連載が『がんばれ! メメ子ちゃん』でありまして、けれど私は名前は知れど中身は知らず、だから今回の単行本を読んではじめてどういう漫画であるか諒解したのです。OLものだったんですね……。私はてっきり子供を中心としたファミリーものと思っていて、けどファミリーものにしてはカバーデザインが解せません。なんでトンボがついているんだろう? それにCMYKの段だらはなんなんだ? 読んでみて疑問は氷解しました。そうかあ、DTP部門につとめる新人OLの話だったんか。名前にしても、手書きで××子だったのが、写植で間違えられてメメ子にされたわけでもないようです。で、さて、感想はといわれると、いやちょっと微妙かも知れません。

面白いか面白くないかと言われたら、はっきり面白かったと答えるところなのですが、なんか一味足りないかなあという感じがしたものですから、感想は微妙だなんて煮え切らないことをいっています。子供に間違えられるほどに小柄だけれど、才能があって努力家でもあってというメメ子と、メメ子を取り巻く人たちの織りなす日常ドラマと諒解したらいいのだと思うのですが、まんまメメ子が子供じみてるというのはどうしたもんかと……。それに、まわりの対応もまんま子供に対するのに似ていたりというのもどうかなあと。ほら、猫かわいがりしたりとかさ、なんかゆうべきこともゆえへんとかさ、いや別にええんやけどさ、けどなんか職場ものという感じの漫画じゃなくて、みんな大人になりきれてないというような、そういう釈然としなさが残ったんです。

だから、これは私の読み方が間違えているとしか言い様がないのだと思います。これがもし、メメ子というキャラクターに対する私の印象がもっと違ったものであれば、きっともっと素直に楽しめたのだろうなと。クールさよりも甘さ、シビアさよりも穏健さ、そういうほんわかムードを無条件で楽しめるコンディションであったらば、きっともっと私はこの漫画を好きになれたと思います。けど、今はちょっとそういう気分じゃなかった — 、そういうことだと思います。

もしかしたら、私はむんこに初期らいかにあったシビアさを期待したいと思っているのかも知れません。けど今の流行はその逆であるようだから、その穏やかで和気藹藹とした雰囲気を楽しんでしまえというのが多分正しくて、けれど、これほどまでにハッピーな印象の漫画が求められている背景に、現実の生活のシビアさあるのだとしたら — 。もしそれが本当なら、やっぱりメメ子はこうでなければならないのかも知れないな、そんな風にも思います。

2006年11月2日木曜日

Nintendo Wii

 まだそいつがRevolutionと呼ばれていた頃から、私はひそかに興味津々でした。そいつとは任天堂の新ゲームハードNintendo Wii。先行するX-BOX 360やゲーム機の枠を越えようとしている(らしい)PLAYSTATION 3を差し置いて、私はWiiを高く評価しています。それはいったいなぜなのか。それは、ゲーム、アミューズメントという経験を、簡素に、わかりやすく、より身体に近しく表現できるハードはWiiなんじゃないだろうかという予感がするからなのです、けどもうひとつ理由があります。それは、ファミコンやPCエンジン、メガドライブといったハードにおいて発売されたオールドゲームを遊べるようになりますよというアナウンスです。そう、私は、新しいゲームももちろん嫌いではないのですが、古いゲームもやっぱり嫌いではないのです。たまに遊びたくなったりしますよね。それを、正当な方法で、おそらくは簡単なやり方で提供してくれるに違いない。そうした期待が、私の目をWiiに向けさせたのです。

さて、今日は11月の2日。Nintendo Wiiの発売まで後ひと月ですね。このタイミングで、任天堂はWiiで遊べるオールドゲームの初期ラインナップをアナウンスしてきて、いやあ、実にいいタイミングだと思います。というわけで、まずは以下の記事を読んでいただきましょうかね:

【Wii】バーチャルコンソールのタイトルラインナップを発表 - CNET Japan

で、第一期ラインナップにこれというようなのはあったの? と聞かれると、ちょい微妙かなというのが私の答えです。ひとつ選べといわれたら、間違いなく『ゼルダの伝説』ですよ。他は? と聞かれたら『アイスホッケー』ですかね。もっとないの? うーん、『邪聖剣ネクロマンサー』か『ダンジョンエクスプローラー』? でも、アクションならともかく、この頃のRPGをあえて遊びたいかといわれると微妙かも知れません。

大一揆に、もとい第一期に有名どころを出してくるのはある意味正しいと思うんですが、ひねくれものの私にはちょっと訴えない。例えばですよ、あの頃、興味はあったんだけど裕福じゃなかったから買えなかったのよ、というような二線級があると嬉しいんですよ。ほら、『ゼルダの伝説』の影に隠れて不遇に泣いた『謎の村雨城』とか、ええとね、『夢工場ドキドキパニック』も欲しいな(でもこれは多分無理。出るなら『スーパーマリオUSA』でしょうね)。リンク(ゼルダ)ものなら、『リンクの冒険』の方が好き。サードパーティなら『悪魔城ドラキュラ II 呪いの封印』とか、欲しかったけど手に入らなかった『東海道五十三次』、しっかり遊び込んでみたい『つっぱり大相撲』、そこにトンキンハウスの『ソフトボール天国』あたりが加わったらうはうはかなあ。『ブリーダー』は友達と集まれない今やるには多分ちょっと厳しいですが、やってみたいかも。『19(ヌーイーゼン)』は評判よかったからいっぺん遊んでみたいし、いっぺん動かしてみたいといえば『アップルタウン物語』もそうですね。あと、動くパズル『キネコ』もやりたい。あの人もだまされたという『水晶の龍』もやってみたいかなあ。あとは、なんだろう、なんだろう、『カリーンの剣』とかどうでしょう。最終面までいきながら音符を見つけきれなかった『オトッキー』にもリベンジしたく思うし、地下に街が広がっていて驚きの『ディープダンジョン』もシリーズ通して遊んでみたい — 、とこんな風に夢が広がるディスクシステム、なのですよ。

『迷宮寺院ダババ』とか『エスパードリーム』は出るかなあ。この頃のコナミはよかったよー。好きだった。『エスパードリーム』は、途中、列車の話が好きでした。なんか、全体に哀愁が漂っていたような気がして、あれはゲームをディスクで残してたかなあ。2までは名作だった『SDガンダム ガシャポン戦記』も出るなら出て欲しいし(ディスク版と書き換え版、マップコレクションに2、3まで持っています)、掘り起こしていけばまだまだ出てきそうな勢いですが、とにかくあのオールドゲームの群れは本当に大きな遺産であると思うのです。

ファミコンが出てもうじき二十年ってとこでしょうか? だから後三十年ほどすれば、だんだんとゲームがパブリックドメインの領域に入ってくるはずで、けど私は正直それまでは待てない(だって六十のじじいだぜ)。できる限りのオールドゲームを楽しみたい、それも正当な手段で、となれば、当時随一のプラットフォームホルダーである任天堂に期待したいというのは当たり前ではありませんか。

なかには権利者である会社が消滅してしまっているゲームもあるだろうから、どうにも出せないケースもあると思いますが、それでもできるだけ多くのゲームをすくい上げて欲しいと思います。

2006年11月1日水曜日

家族ゲーム

 看板娘はさしおさえ』の鈴城芹が『電撃PlayStation』にて四コマを描いているというのを聞いて、うわあ、もう電プレは買ってないよ。過去の事例をかんがみると、電プレの漫画は単行本にはならないみたいから、きっとこれを読むことはかなわないんだろうなあ、なんて思っていたんです。そうしたら、書店にて発見! わお、こいつは買わなくちゃ、一も二もなく買ってきて、買ったのは例の地上三十階書店だったのですが、残っていたのはたったの一冊。一冊!? あの規模の書店で? その残りかたの異常さから、なにがなんでも買っておかないとという思いで確保したのですが、確かにその後よそでは一度もこの本にお目にかかっていません。買っておいてよかったなと本当に思います。

過去に何度もいっていますが、私は作家につくタイプのマニアです。ひとつの漫画が面白いと思ったら、次々と既刊から新刊から、同じ作家のものを買ってかって買いまくるタイプの漫画読みで、だからすなわち私は鈴城芹にそれだけはまっているのだと思っていただいていいと思います。それだけ『看板娘はさしおさえ』が面白かったんです。私の好きなタイプの漫画の条件にもばっちり該当していて、女性が生き生きとしていて、男性に対して容赦がないというタイプの漫画。そうなんですね。『家族ゲーム』もそうしたくくりで捉えられる漫画だと思います。女の子中心で、たまに出てくる男性はというと、ちょっと影が薄く、結構ひどい仕打ちを受けている。一番ひどい仕打ちを受けているのはお父さんで、この辺も『看板娘はさしおさえ』に同じであると思います。

けど、『さしおさえ』とはやっぱり違う味わいがあるのがいいですね。『さしおさえ』は質屋縛りで、マニア向けネタを絡めながらも一般的ネタを軸に展開していますが、たいして『家族ゲーム』は掲載誌がゲーム専門誌で、すなわちゲーム縛り。ゲームに関するネタが軸になって、実に突っ込んだ面白さがあると思います。プレイ時に暴れてしまう人。遊びきれないくらいゲームを買ってしまったり、迷宮に潜って気付いたら新聞屋のバイクの音が聞こえてきたりだとか、そうした人ならきっと面白い。現に新聞屋の話は私のことですが、読んでて笑える人ほど駄目人間だと思う。きっと駄目人間であればあるほどに面白いんじゃないかと思います。

ゲームが暇つぶしとかじゃないんですよね、こういう人って。あくまでゲームは主目的で、面白さを知ってる、楽しみかたを知ってるから、ずぶずぶとはまってしまって、しかも悪いことに引き際を間違ってるから、興味のあるのは全部押さえてしまう。積みゲーとかいいますね。うちにもありますよ。開封さえしてないゲーム、開封したけど一度もプレイしたことのないゲーム、オープニングのムービーだけ見たっていうのもあるなあ。いや、けど、遊んだゲームの方が断然多いのですよ。それに、遊びはじめたらよほど面白くない限りクリアしますから。それで面白ければ、クリア後も何度も繰り返し遊びますから。

こういう、ずぶずぶだけど、ゲームのコアな楽しみかたを経験したことのあるという人は、この漫画に出てくる人の感覚を体感的に追想することができると思うから、きっと面白いと思います。ゲームで駄目になってる人を、遠巻きに、珍獣見るみたいにじゃなくて、そうそう、それ私もやっちゃうよー、みたいな感じで、苦笑しながら、共感しながら、またゲームもやりたいなあ(今もやってますが)っていう気持ちにもなって、嬉しかったり懐かしかったり、そんな感じの面白さにちょっと参ってしまっています。もっと続きを読みたいです。

蛇足

中学生おかん……、じゃなくて、真言、ってやっぱり中学生じゃないか。

蛇足に余談だけど、父娘で同じ話題で盛り上がれるって素敵なことだと思います。たとえそれがBLであっても……、というわけで、もし私に娘があったら、ともにBLで盛り上がれるようがんばりたいと思います。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。