2005年5月31日火曜日

Birth of the Cool

 マイルス・デイヴィスの『クールの誕生』はクール・ジャズというスタイルを確立した名盤で、クール・ジャズというのは、アドリブを重視するバップに対し、綿密なアンサンブルを重んじるスタイルといったらいいでしょうか。私は大学で履修したジャズ史の授業でこのアルバムを聞かされて、どうしても続きを聴きたくてしようがなかったもんだから、自分でも買ってしまいました。すごくメロディが美しくてムーディで、そしてモダン。私の経験してきたジャズというのは、吹奏楽出身ということもあってビッグバンド・スタイルだとかが中心だったのですが、けれど私はコンボ・スタイルの方が好きなんだということを、『クールの誕生』を聴いて心から思いましたね。

ジャズのスタイルとしてはかけ離れていますが、アンサンブルを重視するという点においては、クール・ジャズとビッグバンドには共通点がありそうで、けれど私はビッグバンドもどきの一員になりながら、なんだかあんまりのり切れなくてですね、なんというか、私はあんまり自由じゃなかった。指揮者がいて、それに従ってやる音楽も悪くはないのですが、私にはどうにも好かないんです。もしかしたら私がみんなに打ち解けてなかったのが原因だっただけかも知れませんが、けれど私はプレイヤー一人一人と好きにやってる時の方が楽しくて、あの合奏のなかに引き戻されるのはなんだか気分が暗くなるようで、あまりいい思い出じゃありません。

こういう性質があるもんだから、ビッグバンドよりもコンボというのかも知れません。

マイルス・デイヴィスのクール・ジャズは、音楽がしっかりと練り上げられているもんだから、聴いているものを置いたまま、プレイヤーたちがどこかにいってしまうような不安感がなくって、ジャズの中では聴きやすいスタイルといえるでしょう。だからあるいは、次々と飛び出すアドリブのドライブ感に身を任せ、この先どうなるかまったく見えないという緊張感に楽しみを見いだしたい人には、少しおとなしすぎる、乙に澄ましていると聴こえるかも知れません。

ですが、このアルバムを聴いてもですね、ちょっと落ち着きすぎてつまらないとか、そういう風には思えないのですよ。なにしろ、超クールなアルバムです(実際、このクールという形容は、このアルバムタイトルから生まれたらしいですね)。聴いているとほれぼれとして、まるでどこかにつれていかれそうなほど魅力的です。なにがよいといっても、楽曲の構成でしょう。バップとかだと、プレイヤーの個性のメリハリが音楽のコントラストを作り上げて実にホットでありますが、クール・ジャズだと、曲にきっちりとメリハリがつけられています。ユニゾンでの演奏のポジティブに前進する気持ちよさがあるかと思えば、淡く弱音で奏されている音楽の、背景に動く対旋律の美しさ。言葉もでないですね。

でるとしたら、せいぜいうめき声くらいなものでしょう。感極まるほどによいと感じます。

2005年5月30日月曜日

My Favorite Things

 私は昔サクソフォンを吹いていまして、サックスというとジャズの楽器という印象が強いですが、私のやっていたのはクラシックジャンルにおけるサクソフォンだから、ちょっと趣が違います。ですが、クラシカル・サクソフォンといいましてもね、サックス奏者にとってはジャズは避けて通れないものでありまして、だから私もジャズに興味を持って、いろいろ試しては見ました。参考にといろいろ聴いてみたり、またコピーしてみたり。そんな私の一番のお気に入りだったジャズ・サクソフォンはといいますと、ジョン・コルトレーンの演奏する『マイ・フェイヴァリット・シングス』。ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の佳曲を、ソプラノサクソフォンで熱くしかしクールに歌い上げる、ジャズ名盤中の名盤であります。

コルトレーンの『マイ・フェイヴァリット・シングス』は、私にとって、強烈に鮮烈で本当にショッキングな体験でありました。サクソフォンを吹こうという人間は皆おしなべて、ヴィヴラートなるものを練習するのですが、ヴィヴラートというのは音を細かに揺らす技法のことですが、本来は演奏の一要素に過ぎないヴィヴラートを中高生というやつは妙に持ち上げる嫌いがありましてね、一旦できるようになったら、どんな曲でも、頭っから最後までヴィヴラートをかけながら、どんなもんだい僕の演奏はぁ、ってな感じにこれ見よがしにやっている。けれど、あくまでもヴィヴラートなんてものは表面的な装飾みたいなものに過ぎなくて、こんなのなくたって音楽的な演奏というのは充分可能なのであります。そのことを私に思い知らせたのは、まさにジョン・コルトレーンであったのでした。

コルトレーンは、『マイ・フェイヴァリット・シングス』を、徹頭徹尾ノン・ヴィヴラートでやっていて、むしろその音というのは粗野な感じさえあるのですが、しかしそれがどうして細やかでデリケートで、しかしパワフルでホットな演奏なのです。私はこれを聴いて、おいおい、なんだよ、ヴィヴラートなんてなくったっていいじゃんかと思うようになりまして、特にソプラノを吹くときにはコルトレーンのまねして、もっぱらノン・ヴィヴラートでやっていたのですよ。

まあ、だからといってノン・ヴィヴラートが一般に受け入れられるかどうかといえばなかなかうまくなくって、私は高校の時の演奏会でノン・ヴィヴラートでソロをやってみて、しっかりアンケートに、デリカシーのない演奏で最悪です、って書かれましてね、いやあ、結局音楽的演奏をできなければ、ヴィヴラートはよいごまかしになってくれるという話ですかな。ともあれ、私がノン・ヴィヴラートでうまくいけたと思ったのは、大学を卒業した頃だったかな、ちょっとしたイベント先でバッハの『無伴奏チェロ組曲』をやったとき。その日の演奏はきわめて気持ちよく吹けて、この世の憂いなんかどうでもなるような気分で、それに周りの評判もなんだかよくって、ノン・ヴィヴラートでもなんら問題がないんだというのを自分でも確認できた思いでした。

ともあれ、そうしたヴィヴラートがあるのが自然みたいななかに、ノン・ヴィヴラートでてらいもごまかしもなしの熱演を繰り広げたのがコルトレーンで、実際この盤は名盤として広く知られています。力強くそしてデリケート、歌う心にあふれた演奏であることは、多くのジャズファンもうけがうことであるでしょう。

2005年5月29日日曜日

すーぱータムタム

 今日、私の最近読んでるのは四コマ漫画ばっかりでみたいな話をしたときに、最近の四コマはストーリーになってたりするのもあるんだってねみたいにいわれまして、ええ確かにストーリー四コマと呼ばれるようなのもありました。その第一人者は小池田マヤ。まんがタイムラブリーで連載されていた『すーぱータムタム』は怒濤と波乱のストーリーで読者の心をがっちりつかんで、私ももちろん好きで、小池田マヤの漫画は当時ほとんど全部そろえていました。小池田マヤのストーリー四コマというのは『すぎなレボリューション』で一旦の完成を見て、『バーバーハーバー』では比較的穏当な方向 — もちろんストーリー性もあり — に進んでみたという感じ。私は、『バーバーハーバー』くらいの穏当な方が読みやすくっていいなと思っていますが、もちろんこれは、小池田マヤの過去の仕事を否定しようという訳ではありません。

ストーリー四コマというのは、小池田以前にももちろんそういう傾向を持ったのはあって、けれどストーリー性に主眼を置いて恋愛劇を展開したりしたのは、やっぱり小池田であったのではないかなあと思っています。純情をもてあそばれたOLが、奮起し男を見返し、けれどその奥底にはやっぱり最初の純情さが残っていて、 — と言葉に書けばなんだかさっぱりしていますが、読んでみればジェットコースター四コマというか、トレンディドラマってきっとこんなだったんだろうなというような内容で、しかもなぜかどろどろの愛憎劇になっちゃうのはなんなんでしょう。

いや、それでも面白かったのです。けど、やっぱり時代の空気というのがありまして、ついこの間、小池田マヤコレクション(小池田マヤの特集号)を引っ張り出して『すーぱータムタム』を読んだときには、あれれ、こんなに粗っぽい、常識はずれの漫画だったったけかなあ、と、はまりこめなくなっているのに気付いてしまいました。まあ、この感想は、当時学生であった自分と、今(半)社会人の自分の違いのせいであろうとは思いますが、けれど恋愛中心に生きない自分には理解できないものになっていました。いくらいろいろあったからっていって、仕事をさぼっちゃうんはだめだろうだとか、そもそもええ歳して、あいつを落とせるかどうか賭けようぜみたいなのってどうですかとか、自分の堅物であるところ、つまんない性格があれこれに突っ込みを入れるもんだから、素直に楽しめなくなっているのです。まあ、これは自分が悪いんではありますが。

今の四コマを見渡すと、小池田マヤが確立したストーリー四コマのスタイルは、その性質を緩めながら広く浸透して、ひとつひとつの四コマが次の四コマにつながって、まとまったひとつの話を構成するというスタイルで落ち着いたように見えます。たいていは話を次回まで持ち越すことはなく、けれどもちろん次回に続くようなものもあって、こうしたやり方は普通のやり方として定着したんじゃないでしょうか。今はもう、これらをストーリー四コマというくくりで捉えようという動きはあまり感じられず、私が最初にストーリー四コマと呼ばれるものもありましたと過去形で書いたのはこうした理由からです。

けど、こうした今の流れの源流をたどれば、やっぱりそこには『すーぱータムタム』も確かにあって、小池田マヤは良きパイオニアであったなあと思うのです。あの伝統的な四コマスタイルが隆盛だった時分に、ストーリー四コマというスタイルをどんと打ち出して、最後には四コマ漫画の枠をぶち壊してみせた、私はこの人の漫画をリアルタイムで続きを楽しみにしながら読めたのは本当によかったと思います。

  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,1997年。
  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,1997年。
  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,1998年。
  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』完結編 (ワイドKC Kiss) 東京:講談社,2001年。

2005年5月28日土曜日

マッハ!!!

 『マッハ!!!』というタイ映画を見たのは、たまたま券をもらったからだったのですが、本当に見といてよかったと思える映画で、なんというのでしょうか、ジャッキー・チェン若かりし頃の香港映画を思わせるようなわかりやすさが持ち味の、華麗なアクション映画でありました。

華麗なアクションのアジア映画というと『HERO』みたいな、ワイヤーアクションばりばりの派手なものを想像されるかも知れませんが、『マッハ!!!』は違うんです。なにしろ、CG使いません、ワイヤーアクション使いません、スタントマン使いません、早回し使いませんを標榜して、主演のトニー・ジャーの体術を頼りに見せる、見せる、魅せる! 私はこれを見て、人間とは本当にこれだけ動けるものなのかと、ほんとにもうたまげました。

トニー・ジャーの駆使する格闘技とは、タイが世界に誇るムエタイでして、私はショー化したムエタイしか見たことがなかったのですが、この映画を見ると、実に多様な技の広がりを持つ拳法なんだとわかります。この映画の売りはトニー・ジャーのアクションですから、とにかくいたるところで戦わせます。賭けボクシングで、悪漢との小競り合いで、そして決戦で、トニー・ジャーはムエタイをもって戦って、その体術も素晴らしければ、戦いに臨みながらも常にクールであるさまも見事。あの油断のなさ、残心がしっかり描かれているのは、この映画が扱うのがスポーツではなく格闘技であることを表現していて、実にあっぱれであります。

とまあ、この映画はどうしてもトニー・ジャーの常人離れした身体の素晴らしさが表に出てしまうのですが、私にはそうした表向きの派手さではなく、映画の裏にずーっと流れていたタイという国の悲しい現実の方が気になって仕方ありませんでした。

富める都市と貧しき農村の圧倒的な格差もそうなら、都市部では麻薬売買が横行してタイ人の心と体をむしばんでいる。そこには明らかに経済の問題というのが影を落としていて、踏みつけにされる貧困層の上には、富を集める富裕層がある。彼らは海外資本と結託して略奪に余念がなく、そもそもトニー・ジャーが戦わなければならなくなったきっかけというのも、こうした悲しい現実があったためでありました。

この映画がいいたかった本当のことというのは、今タイが抱えている問題だったのではないかと思い、私はトニー・ジャーのアクションに心を奪われながらも、どうしてもその悲しさを払拭できずにいて、だから私はこの映画を、爽快アクション映画と呼ぶことはどうしてもできない。体ひとつを頼みにするしかない、タイの悲しい現実がつらくてたまりませんでした。

私はこの映画が日本でヒットしたように、世界中にタイ伝統の古式ムエタイの素晴らしさを見せつけながら、その現実を伝えてくれればいいと思わないではおられません。それでいつか、タイが悲しみをぬぐうことができたら、そんときには本当に爽快で痛快なアクションを見せてくれればいいなと、そんなふうに思います。

がんばれ、タイ。がんばって、よりよい明日を手にして欲しいです。

2005年5月27日金曜日

きつねさんに化かされたい!

 この漫画の帯には、メガネ&メイド好きなアナタには特にオススメ!だなんて書かれてありまして、けれど私は別にメイドが好きというわけでないし、メガネについてもどうということもないしで、さらに加えていえば猫耳だとかというのも興味の外。これでもかと畳みかけてくる萌え要素をことごとく退けてしまって、なのに私はこの漫画のこと無視できないんです。まんがタイムきららを読むようになって、最初はなんだか味気ないというか灰汁が強いというか、そんな感想を持っていたというのにも関わらず、気付けば今やすべての漫画を通して読むようになって、単行本だって(全部じゃないけど)買ってるぞ!

そうした変化が起ころうという前から、私は『きつねさんに化かされたい!』は読んでいました。どうしようもないなあ、けれどこのラインナップ中では普通の漫画だなあなんて思っているうちに、目が離せなくなってしまって、まあ有り体にいいますと好きになってしまったんですね。いや、正確を期すなら、もともとこういう感じの漫画は好きだった、というべきでしょう。

人間に化けてるきつねのこくりさんが、いい子なんですよ。なんというか、本当にけなげでいたいけで、すごく素直ないい子なんですよ。こくりさんの寄食先である保険医をはじめとする変わり者、ひねくれ者に囲まれて、そんな中こくりさんはまるで、私たちの世界に残された最後の希望のようでありませんか!

馬鹿なこといってるというのはわかってます。けれど、私は、この漫画を読みながら、こくりさんが自分のそばにいたらどんなに仕合せだらうかなあとか思ってしまうそんな駄目なやつなんです。もし自分が保険医の立場だったら、こくりさんには変なことを教えず、健やかなよい子のままでいさせるぞ。お菓子でもなんでも買ってあげて、いっぱいいっぱい喜んでもらうんだ! いや、馬鹿なこといってるのは重々承知してますから、そうっとしといてくださいってば。

昔、ヨーロッパでルネサンスという運動がありました。人文主義が花開き、それまでの神様を中心とした世界観から、人間中心の世界観へとシフトするという一大転機でありまして、思想や芸術の変化もさることながら、科学的な視点に基づいて物事を捉えようという動きが出てきたということこそが一番に重要な変化でありました。

ルネサンス絵画では遠近法が巧みに用いられるようになって、中世絵画とはまた違う、外部から事象を捉えようという意思はここにもまざまざと感じられます。この精緻な遠近法というもの自体が、まさに科学的視点のたまものでありまして、透視図法に見られる比率の美というものは、ルネサンス人が復興したいと願った古典的美学の粋であったのかも知れません。

ただここでいう遠近法というのは、あくまでも透視図法のことであって、実をいうと遠近法には空気遠近法というのもあります。遠くにある山を見ると、近くのものよりもぼやけて見えるというあれです。山と私たちの間にある空気が、山の姿を微妙にぼやかしてしまうという、そういう遠近感もあるのです。

もちろん、ルネサンスの芸術家たちは空気遠近に気付いていました。そして、透視図法に取り組んだように、空気遠近法を体系化しようという努力を惜しみませんでした。しかし、空気遠近法が理論として体系づけられることはなかったのですね。

なぜか? それは、空気遠近は計量できないからです。ルネサンス人が重んじた数と比率の美 — これこそは古典的美の神髄です — の世界に、空気遠近法の居場所はなかったのです。

なんでこんなことを唐突に説明しだしたのかといいますと、今の私の『きつねさん』に対する思いというのが、まさにルネサンス人における空気遠近に似ているからです。

曰く、萌えは計量できない!

私は今、自分のBlogにこくりさんの表紙を載せられたということで満足しています。ただこれだけのことで、こんなにも嬉しいなんて!

もうすっかり、駄目人間ですな!

蛇足

上の方で、変わり者だとかひねくれ者だとかいってるけど、この漫画はそうした人たちこそが優しくて、すごくいいと思います。特に、あの文化祭の日における、保険医と登校拒否児童田中さんの関係はすごく暖かいと思いました。

なんとなく失礼で、なんとなくひどいことばっかりいっている人たちですが、実はそんな人たちがすごく暖かいというのはすごくいいことだと思います。

蛇足2

えっと、私が好きなのはこくりさんだけじゃありませんで……、甘ロリ服もいいけど和服もねってやつでして、見た目キツ目の子供で中身は年増って、実は最高なんじゃありませんか!?

蛇足3

えっと、実はみんな好き。

引用

2005年5月26日木曜日

スネークキューブ

  最近、なんだか懐かしおもちゃみたいなのをまたちょくちょく見かけるようになってきましたが、ブームなんでしょうか。昔よりもゴージャスな超合金が出ているかと思えば、はたまたこちらは昔どおりのルービックキューブなんてのもあって、はやりましたね、ルービックキューブ。あの時分、どこのお家にいってもキューブがありましたもん。大人も子供もみんながちゃがちゃやっていて、どこそこのお兄さんが六面そろえるのに成功したとかいうニュースでどっと沸きましてね、けれど私はルービックキューブには才能がなかったようで、よくて三面、たいていは一二面で挫折するというのが常でした。

まあそんな私でもルービックキューブをきっちり六面そろえることはできるのですが、とそんなうさんくさい話は置いておいて(いつかルービックキューブで書くことがあったら、そんときに話しましょう)、私が愛したのはキューブはキューブでもスネークキューブでありました。

スネークキューブというのは、直角二等辺三角形のブロックが二十四個ずらっとつながったよくわからないオブジェクトでして、この直角二等辺三角形をくねくねかちゃかちゃとどうこうしてやることで、いろんなかたちを作り出すことができるという、そういうおもちゃであったのでした。

基本形は球です。ちょうど画像にあるように、サッカーボールなのかアポロ月着陸船の人間が乗る部分なのか、かくかくした頂点数の少ないポリゴンっぽい球を基本として、例えばコブラであるとか、あるいは亀であるとか、さらには宇宙船(潜水艦だったか?)だとか、いろいろなかたちにキューブを変形させては、やんちゃ坊主同士で遊び回っていました。

私が持ってたスネークキューブは白と黒のツートンで、けれどこれを買ってもらうまでは長い道のりでした。当時がちゃがちゃ(今ではガチャポンといいますな)はまだ二十円でできて、ああいう子供だましのものはすぐに流行を追うから、もちろんスネークキューブもあったのです。当たりが出れば本物がもらえて、けれど普通にはゴムでできた直角二等辺三角形のブロックがひとつ出てくるだけです。雄と雌のほぞがついていて、これを二十四個集めたらスネークキューブが完成する。

残念ながら、私は完成できませんでした。直角二等辺三角形が出るとかどうか以前に、怪獣が出たりスーパーカーが出たりと、とにかく前途多難なのですよ。なので、私のスネークキューブ入手は遅れて、思えばまだ時代は貧しかった。今みたいにものがあふれてなくて、ちょっとしたこんなおもちゃでも、買ってもらうのにえらいこと待たされて、けれどその待たされた分、手にしたときは嬉しかった。もう消費すら快楽じゃない今では得られないような喜びがあったように思います。

さて、私はさっきからスネークキューブ、スネークキューブといっていますが、どうやらこれの正式名称はマジックスネークみたいですね。けど、私が子供の頃は、スネークキューブっていってたんですよ。いったいどこがキューブだかわからんこいつをキューブといって売っていたのは、ひとえにルービックキューブ人気のためでしょう。なんでもキューブといって、ブームに一乗りしちゃう。いや、マジックスネークもルービック教授の考案品だから、あながちブームに便乗したとはいえないかも知れません。

とはいっても、スネークキューブって名前のつけ方はやっぱり便乗だよなあ。

私は、いったいどれくらいスネークキューブで遊んだものやら。もうとにかく遊びに遊びました。一年とか二年とか、そういう年単位で遊んだと思いますよ。誕生会の集まりで壊されて大泣きして、父親に直してもらって、それからまた何年も遊んで、宇宙船にしたり、潜水艦にしたり、鍵にしたり、とにかく子供の遊びの道具としてはすごくよくできていました。だって、なんにでもかたちを変えて、それで遊べるんですから。

こういうおもちゃのことを考えると、今のおもちゃというのは意外に寿命が短いのかも知れないと思います。ひとつ、単体のシンプルなおもちゃだけで、何年も遊んだりとか、今の子供もしてるのかなあ。

2005年5月25日水曜日

中国茶図鑑

 私は、なにもこれだけにかぎったことではないのですが、食べ物飲み物に関してどうも節操なく、たいていのものは喜んでいただきます。飲み物ならば、コーヒーも飲みますし紅茶も飲む。お茶だけにかぎっても、紅茶、中国茶、日本茶、抹茶、なんでもいただきますよ。とそんな節操のない私は、中国茶を入れる専用の道具もちゃんと持っていて、中国では茶壺と呼ぶのですが、中国茶を入れる用の急須から茶盤問香杯といったものまで持っている。これでもって中国茶を入れますとなんか独特の非日常感が得られましてね、ただのお茶でもなんだかすごいご馳走に思えてくるという、ちょっとした贅沢気分が味わえるのですよ。

  さて、そんな私が中国茶を楽しもうというときに頼りにするのは、文春新書に収録されている『中国茶図鑑』という本でして、ちょっと中国茶に興味を持ってるんだー、というような人、ちょうど私みたいな人、にはうってつけの教材となるでしょう。新書ですからそんなに大きくなくサイズも手ごろ、けれど内容は結構充実していて、私が以前香港に行ったときに買い込んできたお茶の説明も収録されていました。有名どころのお茶なら多分ちゃんとサポートされているので、これから中国茶の世界に分け入ろうという人には、きっと頼もしい道案内役になってくれるかと思います。

この本のありがたいのは、中国茶がただただ紹介されているだけじゃなくて、お茶の入れ方とか楽しみ方、それに買うためのアドバイスなんてのも載っているところかと思います。私が中国茶の入れ方、楽しみ方を最初に習ったのは、NHKの語学の番組『中国語会話』の文化コーナーでの特集でだったのですが、記憶というのはどうにも薄れがちです。なので、実際にお茶を入れて楽しむ用意のできてからは、この本を頼りにしています。お茶を入れて、飲んで、このお茶はどうだこうだとわからないなりに話したりして、それで次はどんなお茶のみたいかなあと、この本に戻っていく。

お茶の楽しみの循環の中に、この本はすっかり入り込んでしまっていたのでした。

けど、最近はどうも余裕がないようで、茶壺を使ってお茶を入れてみたいなことはしなくなってしまって、せっかくの道具がもったいない。たまには余裕をつくって、こうした楽しみを復活させたいなんて思います。けど、自分が飲むためだけのお茶に、これだけの手間をかけるというのも難しいんですね。同好の人でもあれば別なんでしょうけれど。

  • 工藤佳治,兪向紅『中国茶図鑑』丸山洋平写真 (文春新書) 東京:文芸春秋,2000年。

2005年5月24日火曜日

Paris-Zénith

 私は一時フランスの音楽を買い集めていまして、その時の選別基準はもう目茶苦茶。洋盤のワゴンセールを見かけたら仏盤らしいものを根こそぎ買うという、そういう手当たり次第といっていいようなやり方だったのですね。けれど、意外やこのやり方は悪くなくってですね、どんな人かは知らないけれど超クール! というアルバムがうちには結構あるんです。

そんなわけで、今日紹介しますアルバム『Paris-Zénith』もそんなうちの一枚です(いや、二枚組だから二枚か)。演奏する人はHubert-Félix Thiéfaine。フランスロックバンドの、強烈に恰好いいライブアルバムです。

なにがそんなに恰好いいのか。ロックといっても実に標準的なもので、さして尖っているわけでもない、どちらかといえばおとなしい感じの演奏です。ただその歌う声がすごく魅力的。歌っているのは、さっきもいったHubert-Félix Thiéfaine。太く甘く少しぶっきらぼうでエネルギッシュな声を持つ、それこそ聴くものの心をとらえちまうような歌い手です。バンドに参加するミュージシャンそれぞれの演奏もそれぞれに魅惑的で、こうしたオーソドックスながら実力を持った音が、対立するわけでもなく、かといって馴れ合うわけでもなく、自分のやるべきことをきっちりとこなして、だからそれがクールなのです。

バンドとしてはすごくオーソドックス、けれどさまざまな要素、バックグラウンドが飛び出してきて意欲的です。ロックに、民俗曲の要素も混ざり込んで、けれどそれは古き良きものみたいな懐古調でなく、よそから借りてきたよそよそしさでもなくて、— 生きています。ガットギターのはじけるように鳴らされた音の切れと強さ、ラッパの哀愁を帯びてなお洒落っ気を見せつける粋。メキシコスタイルのマリアッチも出れば中国の楽器二胡まで出てきて、しかしこうしたいろいろがひとつの音楽的土壌にしっかりと配置されて絢爛。すごく贅沢なステージじゃないかと思います。

こうしたいろいろな要素をひとつの文脈の中で扱ってしまうというのは、ある種多様式が身近であるということか、あるいはよほどのセンスがあるか。おそらくはその両方であると思います。ロックというスタイルを基調にして、ロックらしからぬ要素までロックにしてしまうというのは、どれものスタイルを知りながら、そのどれもを特別にしてしまっていないからなのでしょう。こうした多様式から生まれる面白さというのは、ひとつところにとどまらない音楽の可能性みたいなものまで感じさせて、私はすごく興奮させられてしまいます。ああ私は、こんな風な音楽の場に臨みたいものだなあと、心から思わずにはおられませんからね。

しかしだ、こんなうだうだ抜きにして、めっちゃくちゃかっこいいんですよ。腰が抜けそう — 、ほんま、しびれますもんね。

二枚目の『Alligator 427』くらいまできたら、もう完全にこの人らの空気に取り込まれてしまっていて、なんというか、こっちの世界にいながらにしていないというか、とにかくもうあきませんわ。めっちゃくちゃかっこいいですから。

おお、そうじゃ。今度友人の二胡奏者に会うときに、このアルバムを持っていってみよう。それで、聴いてもらいましょう。

2005年5月23日月曜日

日本の弓術

 西洋人から見れば日本というのはいかにも神秘に満ちた国だったようで、そもそもベースになる考え方が違います。西洋は合理主義に基づいて事物を弁別せんとしましたが、そもそも東洋においては一見非合理としか思えないやり方で物事の真実に向かおうとして、そしてそれはある種の成功を見ているわけです。計測可能であることに重きを置いた西洋からすれば、さぞや日本のやり口は奇妙で神秘的に見えたことでしょう。西洋人がそれまで絶対的ととらえてきた理屈を、真っ向から否定するかのような態度でもってことにあたる。なにしろ、力学やなにかといったメカニズムを否定した上、言語で説明するということさえはなからあきらめているとしか思えないのですから。しかしこの不確実で非合理にしか思えない方法をとりながらも、振舞いといい芸術といい、そのなされることは一流国のそれだと、幕末の日本を見た西洋人は口を揃えていったといいます。西洋とは全く違ったやり方でもって築き上げられた文化に接し、あたかも奇跡のように感じたとかいう話を聴けば、驕れる西洋に一撃を与えた当時の日本の程度がわかろうというものです。

さて、西洋人にとって、日本の神秘が最も現れた部分というのは思想であったようで、あの禅というものの非合理にしてしかし深遠なることに、一時はヨーロッパもアメリカもえらく驚嘆したようで、禅のブームというのは何度もあったようです。言葉によらず、分析的な知からおそらく最もかけ離れた場において果たされるの体験。いろいろな人がさまざまなやり方でに迫ろうとしましたが、弓術を通してに肉薄した西洋人がいました。オイゲン・ヘリゲルその人であります。

禅の神秘主義に触れようとしたヘリゲルは、武術という行為を通してその神髄に近づこうとしたのでした。瞑想によって得られる悟りは長いが会得するまでに時間がかかる、ために無の境地に遊ぶ時間こそ短いものの達するのはたやすいという、行為を通した禅を行うと決めたのです。数ある手段の中からヘリゲルが選んだのは弓術でした。

『日本の弓術』には、ヘリゲルが弓の修業を通して体験した事々が、つぶさに記録されていて、西洋的視点から東洋的感性に分け入ろうというその感覚が新鮮です。そんななかでなにが面白いといっても、最初は日本的なことごとになじめなくて、ずるをしたり反発したりしてたヘリゲルが、次第にだんだん感化されてくるという、その変化が見て取れるところなのではないかと思います。メカニズムを重視し、理屈でもって的に対していたヘリゲルが、徐々に師のいうところに近づいていくに従って、東洋的なるものに深くはまりこんでいく。そして、感動的な師の暗闇に矢を二度射るという場面。私ははじめてこの本を読んだとき、このまさに神秘的なる描写に、自分も弓術をしようと思ったものでした。結局身近に弓術を教えるところがなかったので果たせぬ思いに終わりましたが、もし近場にそうした場所があったらば、私はいま書をするのではなく、弓を引いていたのではないかと思えるのです。

以前私がコンメディア・デラルテを体験したときのことです。講師としてイタリアからはるばる日本までやってきたアレッサンドロ・マルケッティ氏がおっしゃるのですよ。杖を向かいの相手に投げ渡すという時は、頭で考えるのではなく、身体の動作でもって身体で考え、意識のコントロールを離れたところで投げなさい — 投げられた杖が私であり、杖の投げられた相手もまた私であるというような感覚でなければならない。そしてこの後に、氏は日本の弓術に関する本に、こうした話があったとおっしゃったのです! ああ、それはまさにヘリゲルの本なのではないか。私は思い掛けないところで思い掛けない本の関わりを得て、驚くとともに嬉しくなったのでした。

ところでこのヘリゲルくんですが、その後いろいろ研究が進んだことからわかってきたのですが、どうも山師みたいなところがあったという話で、ちょっと自分の体験に色をつけて紹介する癖があったのだそうです。だから実際の話、彼の弓と禅に関する話は、話半分くらいに聞いておいたほうがいいとか、そんならしいのです。

けれど、書かれたすべてが本当でないとしても、読めば感動を得られることは間違いないことでありましょう。それは確かに脚色を加えられた事実なのかも知れませんが、その脚色があることで、弓術を通した神秘体験の彩りはより鮮烈になったのかも知れません。だから、決してすべてが否定されるべきものとは私は考えません。もちろん全肯定すべきとも思いませんけどね。

  • ヘリゲル,オイゲン『日本の弓術』柴田治三郎訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1982年。
  • ヘリゲル,オイゲン『弓と禅』稲富栄次郎,上田武訳 東京:福村出版,1981年。

2005年5月22日日曜日

Robert Johnson : The Complete Recordings

 この間、音楽をやっている友人連中(といっても、私の場合は音楽に関わらない友人の方が少ないんだけど)集まって、アンサンブルの下準備みたいなことをやったのですが、その合間にとりあえず今現在私に歌える歌を披露したりしたわけです。例えばそれは『22才の別れ』とか『なごり雪』とか、あとさだまさしも歌いましたっけ、『僕にまかせてください』と『精霊流し』。暗いね。とりあえず別れとか死別とかが出てくる曲ばっかり歌って笑いをとりまして、そんな中唯一そうした湿っぽさのないのが、ロバート・ジョンソンの『スウィート・ホーム・シカゴ』でした。

そして、結構評判のよかったというのも『スウィート・ホーム・シカゴ』だったのでした。

『スウィート・ホーム・シカゴ』は、私が練習用に探して買ったNHK趣味百科のテキストに収録されておりまして、私は自分の音楽の幅を広げられるといいなってなもんで、とりあえず弾けそうなものから手を出して見ているんですよ。と、そんなわけでブルース。ロバート・ジョンソンのブルースは初期のものなので技巧的には難しくなくて、ブルースの習いはじめには恰好の曲であると思います(受け売りですけどね)。

さてそれでですよ、『スウィート・ホーム・シカゴ』の練習をはじめてみて、けれどその時点で私はロバート・ジョンソンを聴いたことがなかったんですね。それで、楽譜を見ながら、なんかうまく伴奏と譜と歌詞が合わないなあと悩んでいて、いやそれ以前にブルース臭さというのが出ないのですよ。なので一旦ブルースを撤退してみて、また思いついたように再開して、これを何度か繰り返した頃にエリック・クラプトンがアルバム『Me and Mr. Johnson』を発表、世間にちょっとしたロバート・ジョンソンブームの風が吹いたのでした。

ロバート・ジョンソンは新聞にも取り上げられたんですよね。コンプリート・レコーディングスが新しくリリースされてうんぬん。その記事を見て、私はレコード店に走りましたね。それで『コンプリート・レコーディングス』を購入、聴いてみてびっくりしました。こんなの自分には到底無理! なんといったらいいのか、なんともいえず無理です。あんな雰囲気、自分には出せないぜ。

けど、それでも練習はして、とりあえずちょっとは歌えるようにしたのでした。

ロバート・ジョンソンを初めて聴いたときは、どの曲もおんなじに聴こえたもんですが、けれどさすがに今はそんなことありません。独特の揺れに闊達な歌い回しは、すごく恰好よくって、ああこれはちょっと他にないなあと、そんな感じもします。ロバート・ジョンソンを聴いてからクラプトンのブルースとか聴きますとね、やっぱりすごく洗練されているなと思うんですが、その反面人間の臭さというのは弱くなってるように思います。この、ロバート・ジョンソンのブルースに感じる独特の感じというのは、やっぱりロバート・ジョンソンその人の個性なんだろうなと思ったものでした。

ブルースは多分、その人となりというのが味なのだと思います。だからロバート・ジョンソンにはロバート・ジョンソンの、クラプトンにはクラプトンのブルースがあって、他のブルースマンにしても同様でしょう。けれど自分の場合はどうなんだろう。自分が歌うと、ブルースもブルースじゃなくなるんですよね。けど、歌ってるとすごく楽しいんだ。なんか病みつきにさせる面白さというのがあるんですよね。

とりあえず私は、歌詞がちゃんとフレーズにはまるようにせんといけません。びしっとはまらないことには、歌うどころじゃありませんから。

2005年5月21日土曜日

うちの大家族

 私は芳文社のまんがタイムだけではなく、双葉社のまんがタウンも買っているのですが、昨日発売のまんがタウンオリジナル(2005年7月号)掲載の『うちの大家族』にはやられました。なんというんでしょうかね。私はこの人の漫画を読むときは、力を抜いているんですよ。身近によくあるナンセンスを拾い出してきたようなネタといい感じに脱力した作風が重野なおきの味だと私は思っているもんだから、自然そうしたギャグの雰囲気に読む側もあわせるわけです。

そうしたら、やられました。油断しているところにダイレクトにがつーんと、シンプルにまっすぐに打ち込まれたもんだから、真っ向から受けてしまって、いやあどうしようもなく泣いちゃいました、通勤の車内で

面白み、おかしみだけではなくて、人情もののよさも持ち合わせているのが重野なおきの味だと思います。

私はこの人の漫画は好きで、多分それはどことなく昭和のにおいがするからなんじゃないかと思うんですが、作者は私より若いんですよね(一大事だ)。ともあれ、シンプルでわかりやすく、言葉少なでありながら、状況をよく伝えてくれるこの人の作風は、万人向きでとてもよいと思っています。

ただ、ギャグのセンスは高いと思う。ぱっと見ればナンセンスさがおかしみを誘って、けれどその向こうっ側にはちょっとした皮肉やなんかも隠されていて、そして人情味。この人は人間の臭さを、とてもよく知っている人なのだと思います。

その人間臭さ、人情味が一番にあふれているのが『うちの大家族』。母親に先立たれた、父一人子八人(三男五女)犬一匹の家族の暮らしをよく描いて、こないだいってた『ひまじん』みたいに極端に人の少ない漫画も描けば、人がわんさか出てくるのも描いて、そのどちらも面白いというのはたいしたものだと思います。けれど、おそらくはこの人の得意は、個性的なたくさんのキャラクターがぶつかりあうよな漫画なんだと思います。大家族は、兄妹一人一人の個性の際立ちもさることながら、それぞれが家族ならではの本音でぶつかりあうという、その一人一人の近さが気持ちいい。

私がこの若者に昭和臭さを感じるのは、こうした人の体温の感じられるような、親密な距離感であるのかと思います。そうした絶妙の距離感に安心できるから、私はこの人の漫画を好きになったのだと思います。

さてさて、『うちの大家族』第1巻は2002年12月から2004年5月の一年と六ヶ月分が収録されています。2004年6月から数えれば今月は一年と一ヶ月目でありまして、ということは、今月私に打撃を加えた話は第2巻に収録される!?

第1巻も笑いあり涙あり、最後に収録されたものなどはどうしようもなく泣かされて、ええっと、まあ今月の話は2巻の最後に収録されるんじゃないかなあ。

変な小細工なしに、真っ向からの直球勝負は重野なおきのいいところだと思います。まじめな人柄が伝わってくるようで、非常に高感度が高いのです。

蛇足

私はキリカ・智佐ペアが大好きだ。

  • 重野なおき『うちの大家族』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。
  • 以下続刊

7月12日発売

  • 重野なおき『うちの大家族』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

2005年5月20日金曜日

論語

  もうずうっと前のこと。学生時分、私は少しでも自分の知識やら見識やらを広めたくて、いろいろ古典の類いに手を出してはわからないなりに咀嚼しようと懸命でした。ヘーゲルの『哲学入門』を読んだり、デカルトの『方法序説』もかじってみたり、論語もそんなうちの一冊でした。はっきりいいますと、こうした読書は読んだという事実だけが重要でした。有り体にいえば自己満足みたいなもので、なにしろ読んで内容を理解し、自らのものとし得たかといえば、そんなわけはないのです。けれど今となってはこうしたお堅い本を読む気力や体力、集中力なんかが持続しないものだから、やはりあの若くて血気盛んで、浅はかだった時分に読んでおいてよかったなと思っています。

論語を読んでいたとき、一緒に仕事をしていた若いのが、日ごろの勤務態度のまずさをもって馘にされるという事件があったのでした。その時のことは、はっきり覚えています。制服に着替え仕事場に出たところをおまえちょっとこいやと捕まえられて、私はその時ひやっとその意味がわかったから、仕事の間中気が気ではなかった。結局そいつが出てくることはなくって、仕事が終わって更衣に戻ろうという道すがら、我々を待つ彼の姿を見つけてしまって、自分の予感が正しかったことを理解しました。

すぐに出てくるといって私は早々に着替えると、けれど心中は穏やかでなく、けれど理性ではそいつが馘になる理由もわからないではないので、荒ぶる感情のもって行き場がなく、仕方なしにロッカーを蹴りつけて、けれどその馘を切られた本人が意外に落ち着いていたので、私も直に落ち着きを取り戻しました。

帰りの電車、がらがらにすいたロングシートの真ん中に並んで座って、今まで楽しかったばかりを話して、そこで働いていた私たちはみんなこの男を好きだったのです。ちょっとずるいところもありましたが、根はいいやつで、人の心をつかむのがとにかくうまく、だけれど職場の副責任者には目の敵にされていて、私はこいつを守れなかったというのが悔しくて、けれど私になんらの権力があったわけでもないんだから、守れるわけもないんですね。仕方がないんだなあと、けれどそうしたことを口にすれば湿っぽくなるから、楽しいことだけを努めて話していたのでした。

その時私のポケットには論語が入っていて、はっと気がついて、これやるよと手渡したらば、論語ですかと苦笑いしながらも、読んでためになる本ですなと喜んでくれたのでした。そして、もうそいつのうちの最寄りの駅につくというときに、本に一言書いてくれと、今日の日付と名前、それから俺に贈ると書いてくれと、急にまじめになっていうものだから、私は本には書き込みをしないというポリシーを破って、表紙の裏に請われるままに一筆したためました。本を受け取ったそいつは慌てて列車を降り、そのプラットホームを見送るときが、列車が速度を上げて、どんどんそいつが遠くに追いやられていくときが、一番悲しかった。私は泣きはしなかったけれども、悔しいなあと、なんとかしてやれたんじゃないかなあと、ひとしきりどうにもならないことを返す返す考えては、明日からはあいつと一緒に働けないのだなということを思っていたのでした。

その後すぐ、私は自分のために本を買い直して、けれどあいつはまだあの時の本を手元に残してるだろうか。今、どうしてるだろうか。

  • 論語』金谷治訳注 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1999年。
  • 論語』上 吉川幸次郎訳 (朝日選書;中国古典選) 東京:朝日新聞社,1996年。
  • 論語』下 吉川幸次郎訳 (朝日選書;中国古典選) 東京:朝日新聞社,1996年。
  • 宮崎市定『現代語訳論語』(岩波現代文庫) 東京:岩波書店,2000年。
  • 宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫) 東京:岩波書店,2000年。

2005年5月19日木曜日

ドリーム・シフト

 誰にも素直になれない思いというのがあると思うのですが、私にとっては『絶対無敵ライジンオー』がそうなのではないかと思うのです。平成三年(1991年)に放送されたこのアニメに、私も私の友人たちもかなりはまっていて、実際その小学校の一クラス全員が正義のヒーローという思いきった設定に打たれた人は、当時ものすごく多かった。設定にはおたくっぽさよりもむしろ伝統的な雰囲気が漂っていて、その雰囲気というのも、子供向けロボットアニメの熱さと子供コミュニティにおける友情ものが持つしっとりした感じがうまく混ざっていて、やっぱり『ライジンオー』は名作だったなあと改めて思います。

じゃあ、なんでこの名作が私にとっての屈折した思いであるのかといいますと、なんというのでしょう、若干の失望があったからでした。

(画像は『絶対無敵ライジンオー』DVD-BOX)

失望 — 失望というのは、シリーズ後半におけるぬるさだったのです。前半の、こんなアニメこれまで見たことがないよという意外性、地球人にとっての迷惑が具現化された敵という設定が持つメッセージ性、そして登場キャラクターたちと、おそらくは制作者たちの一生懸命さは、まさに見るものの心を虜にしてしまうような熱さでした。けれど後半、特にバクリュウオーが出てからの数回にわたっては、実にぬるい展開が続きました。

ライジンオーを追いつめながらも、もったいぶってなかなかとどめを刺さない敵幹部。まさにライジンオーのピンチという場面に飛び込んでくるバクリュウオー。助かったぜマリア! のせりふも何度も聞けばさすがに心は動きません。

いや、これだけで私は『ライジンオー』を嫌いになったわけではありません。それが証拠に、プレーヤーもなかったというのに私は『ライジンオー』OVAをLDですべて揃えました。じゃあ、なにがために嫌いになったのかというと、その引き際の悪さであったかも知れません。

OVAまではよかったんです。主要キャラクターのテーマソングをシングルでリリースするというのもまだよかった(ちなみに防衛組の生徒は18人。シングルは全部で六枚でました)。けれど、そうして発売したものを再編集してアルバムにして売る、カラオケコレクションてのまで売る。ドラマも何枚でたっけかなあ。とにかく、人気のあるアニメで、関連商品を出せば売れるというのがわかっていたから、次から次へと出すんですね。私はこうした商売を決して否定はしませんが、足下を見られる側からすればあんまり気持ちのいいものではない。それに、勢いがあるうちにこれをやるならともかく、明らかにマニアも疲弊して、火勢も落ちつつある時期にまでだらだらとやられた日にはたまりません。こうして、引き際をすっかり誤った『ライジンオー』を、私はむしろ嫌うような気持ちにさえなっていたのでした。なにか、思い出をけがされたみたいな、そんな気持ちといったほうが正しいかも知れません。

ですが、ですが、どうして本当に嫌いになることなどできましょうか。あれだけ熱く、あれだけ愛したものをどうして嫌いになれるでしょう。私は、今も主題歌『ドリーム・シフト』を聴くたび、その胸を熱くするのです。

独特のリズムで始まるイントロを聴けば、目にはあの印象深い絶対無敵の四文字が流れていくようです。軽くディストーションのかかったギターの絶妙なリフには胸が締めつけられるようで、そしてSILKののびのある歌声には涙が出そうになります。まるで、本当にあの子らが自分たちのそばにいたかのように、思い出がうずいて仕方がないのです。

私の『ライジンオー』に対する愛は、『ドリーム・シフト』に凝縮されています。そして、おそらくは誰もが仁とマリアの不器用な関係を重ね合わせた『明日 Fall in Love』。私は、今もこの二曲を、そらで歌うことができます。それほどまでに心に焼き付いてしまっているのに私は素直になれず、目を逸らしてしまって、 — これではまるで『明日 Fall in Love』に歌われる情景のようではないかと苦笑します。

2005年5月18日水曜日

ギター・テクニック・ノート

以前、『ギター演奏法の原理』についてちょっと触れたことがありましたが、この本はギターの技術技法に関してを詳述した本で、なので今日紹介する『ギター・テクニック・ノート』とはずいぶんと違います。『ギター・テクニック・ノート』は、ギタリスト、ホセ・ルイス・ゴンサレスが著した、ギターのための基礎練習帳であります。1984年に出版され、その後も刷を重ねているようで、やはりこの本に価値を見いだす人は多いのだと嬉しくなってきます。

この本は、大学の食堂でウクレレを弾いていたときに、ギターを練習されるならこの本がいいですよと、ギター科の学生から教えてもらったのでした。いや、これだとちょっと話が見えませんね。

食堂でウクレレを弾いている私に興味を持ったギター科の学生と話をする機会があったのです。その時、本当は私はギターをやってて、少しでも弦に触れる時間を増やしたいからウクレレを持ち歩いてるんだといって、それで私は初心者だから指がよく動かなくて、ギターは大変だとかいったんだと思います。そうしたら、そうした基礎的な技術をあげるには、『ギター・テクニック・ノート』がうってつけだと教えてもらえたと、こういうことですね。

図書館にもありますよといわれて、蔵書をあさってみれば確かにあって、見れば非常にすっきりとまとめられた、技術のための練習帳とわかりました。ピアノとかでいえば、ハノンみたいなのに相当するのかな。音階とか分散和音とか、さらには各指を独立して動かせるようにするための練習とか、指がより開くようにするための練習とか、確かにこの一冊をやっつければかなりの技術が身に付きそうだというような内容で、だから私はその日のうちに購入して、それ以来ちょっとずつちょっとずつこの本でもって練習しています。

けれど私は初学者だから、まだアルペジオくらいのところで止まっていて、実はこの本は結構難しいんですよ。オクターブで音階を弾くような練習もあって、これができればウェス・モンゴメリーみたいにオクターブ奏法も夢じゃないぞと思ったり、また、ずっと先にあるセーハの特訓なんてのもかなり期待ができます。というのも、私はセーハが苦手だからなんですね。どうにもきれいに響かせられなくて、セーハしないといけないようなコードがあると、どうしてもコードチェンジでもたついてしまうもんだから、そうした苦手意識も含めて克服できるんじゃないかとすごく期待しています。

この本で扱うのは、テクニックはテクニックでもメカニックに分類されるたぐいのテクニックです。だからこの本に書いてあることを全部やったとしても、音楽的にうまくなるというものではないでしょう。けど、自分の頭の中にある音楽が、技術不足のせいで表現しきれないという不幸な経験は、この本の内容をマスターすることでずいぶん減るのではないかと思います。

実をいうと、私はこうした基礎技術をことさら重視する人間です。管楽器をやっていたときも、ロングトーン、スケール、アルペジオは日課でした。ギターではロングトーンの必要がありませんから、つまりスケール、アルペジオを日課としています。もちろん日々の友は『ギター・テクニック・ノート』!

いい本です。ものすごく気に入っています。

2005年5月17日火曜日

一日一書

   今日は、というか、今日も職場で字に関するごたごたがあって、それはつまりコンピュータの扱える文字、扱えない文字の問題です。

今更説明する必要もないようなことではありますが、一般に使われているコンピュータにはすべての漢字が収録されているわけではありません。戦後略字に対する正字、あるいは俗字や誤字のたぐいなんかには、コンピュータで扱えない字が多く含まれています。ですが、そもそもが人の手によってなり、長年にわたって変化しつつバリエーションが生み出されてきた書字を、すべて電算機上に再現することは不可能であると私は思うのです。

私は、石川九楊の『二重言語国家・日本』に触発されて字を書くようになったのですが、この書き始める以前と以後で、文字に関する考え方が全くといっていいほど違ってしまったのです。

実はかつて私は、コンピュータにはすべての文字が収録されるべきであると考えていました。つまり異体字をすべて収録せよといっていたわけで、渡辺のであるとか、山崎のの異体字は、すべて電算機上で表現可能にされるべきであると考えていたのですね。けど、実際に手ずから書くようになって、この考えがいかにばかばかしいものであるかに気付きました。ええ、そもそもすべての文字というのは、私たちが容易に集めて扱えるようなものではないのですから。

漢字というのは、複数のエレメントが組み合わされて表現されるものであり、それは偏や旁、冠、構えといったものに分類されていることは、わざわざ説明することもなく皆さんご存知でしょう。さて、この部首に表れる木や人といったエレメントの配置は、結構ダイナミックに行われていまして、木偏に公と書く松は、木を冠にして書かれることもあれば、逆に公が冠になることもあり得ます。これは崎という字の山偏が、冠にくることがあることからも容易に想像でしょう。

また手偏ですが、私たちは普段この手偏を三画で書いているかと思います。横画、縦画、最後に右上に向かってはねあげるようにして手偏は完成しますが、けれど私はのかたちそのまんまが偏になってる字を見たことがあるんですよ。けど、これは間違いじゃありません。示偏がみたいにじゃなくてで書かれるのに同じことです。

漢字というのは、元来このようなダイナミズムによって生み出されるものであるのですが、残念ながら電算機はこのダイナミズムを内包するには力が足りません。第一、コンピュータというのは合理性の権化みたいなものですから、こうしたグロテスクな — 我々の身体そのものの写しといってもいい — 漢字を扱うには向かないものなのです。

『一日一書』は、京都新聞に連載されていたコラムで、一日に一文字(一語というのが正しいかも知れない)を紹介し、書字にまつわる解説や石川九楊の思うところがつづられるという形式で、結構人気のあるコーナーでありました。ちょうどこの連載がされていたとき、私は新聞の記事をチェックするような仕事もしてて、その合間にこの記事を読むのがすごく楽しみだったのです。

なにしろ、紹介される文字というのは古今の能筆の手になる書字です。たった一文字が置かれて、ですがその文字の持つ広がりというのは電算機上に浮かぶものとは比べ物にならないほどで、楷書があり行書があり、草書、隷書、篆、金文、碑文、篆刻、そしてかなとバリエーションも豊富で、なによりダイナミック! こうした豊かな書字の世界を見て私は、手で以て字を書かなくなった時代というのは、合理的でありながらも貧しいと思ったのでした。

この文字の豊かさは電算機上にはあり得ないものです。だから私は、手でもって字を書きたいと思う。つたないながらも、手でもって、筆先と紙面の出会う場に書字を行いたい。こうして出現する文字は、単なるコードや符号にとどまらない、自らの身体の写しであります。それは、いつかたどり着きたいと願う、書字の宇宙への一歩足跡であります。