2006年1月14日土曜日

行殺♥新選組ふれっしゅ

 NHKでやってた『新選組!』を見ていたときにも思ったことなのですが、ドラマにせよ映画にせよ、あるいは本にせよ、その舞台となった地を知っているかどうかというので面白さは大きく違ってきます。今日読んでいた短編『理心流異聞』もまさにそんな感じで、京都三条大橋についての描写、こんにちでこそ、この家並みの背後には疎水が流れ、土堤には京阪電車が通っているが、沖田がこの現場に立った当時は、そのようなものはなかった。家並みの背後はジカに崖になっている。とびおりれば、鴨川のしらじらとした磧である。今はもうここに京阪電車は通っていないのですが(地下に潜っちゃった)、けれど昔を思い出せば、司馬遼太郎のいう景色が目に浮かぶようで、そうそう、NHKの大河では池田屋事件の件がそうでした。八坂神社を出て三条小橋の池田屋にたどり着くまでの道のりは私の足が覚えています。だから隊士の足取りを自分の足の感覚でもって計ることができたのです。

で、なんでそんなことをこの『行殺♥新選組ふれっしゅ』というゲームに関する記事においていうというのでしょうか。ええ、このゲームにおいても、京都に暮らしているというそのメリットが得られるからなのですよ。このゲーム、新撰組の主要人物を女性に変えてしまったという一種斬新な設定が売りでして、で、好きな隊士と組んで京都の町に出ることができるのです。そこでなにをするかというと、京の町を荒らすキンノー浪士をやっつけて治安回復に努めたり、あるいは組の財政を豊かにするため商店に話をつけてお金を借りる、 — 押し借りってやつなんですが、その話のつけ方というのがクイズなのです。

押し借りクイズはいわゆる三択で、けれどその出題の幅広さったらたまりません。私は人から無駄な知識を満載にしているなんていわれる質の人間なのですが、しかしそれがまったくといっていいほど歯が立たないのです。出題にはジャンルがいろいろあって、得意もあれば不得意もあるのは当然で、けれどそのことごとくが不得意ってどういうことですか。掛け金を決めて、クイズに答えるたびにダブルアップしていくという仕組みなので、はっきりいって二三度答えられても全然実入りにならない。やっぱり規定の五問を連続で正解だ、てなぐあいにやってのけたいのですが、それがままならない。だいたい五問目が山ですね。三問目クリア、四問目もなんとか通って、ぎゃあ、五問目は問題のいっている意味がわかりません! で、隊務金が底を突いて、しかたがないからキンノーを襲って巻き上げて、それでまたチャレンジする。

私、このゲームではクイズばっかりやってますよ。なんか間違ってるような気もしますが。

唯一といっていい私の得意分野は、京都ジャンルなんですね。京都ジャンルは宮古一番堂で出るので、はっきりいってここは私の猟場です。もちろんわからない問題もあるんですが、やっているうちに覚えます。その効率が、他の店舗に比べると段違いなんですね。

だってさ、げんじとりといったらなにか、って、げんじがクワガタのことって知らんよなあ。いや、私は子供の頃にげんじげんじいうて野山かけまわってた口ですからちゃんとわかりますが、でもこういうレベルの問題が出るわけです。

と、こういうゲームでございます。ちなみに、昨年十二月Wiredの記事取り上げられたBlogで問題視されていた『行殺!スピリッツ』はこの『行殺♥新選組ふれっしゅ』をベースにしています。

『行殺!スピリッツ』、私も遊んでみましたが、なかなかよくできて面白いゲームです。特に、あの確定しなければダメージが加えられないというシステムは斬新で、どんなに攻撃を受けても確定されるまでは負けではないから、体力残り数ドットというような苦境に追い込まれても果敢に攻めていけるのです。終盤になってもチキン戦闘が発生しない、撮影を必死で回避しての大逆転も狙えます。

最後まで熱いゲーム。なかなかにお勧めなのですが、なにぶん確定の方式がアレなもんですから、どうも勧めるに勧めにくいのがこまりものです。

蛇足

原田、土方、藤堂。以上。

引用

仕様変更への再度問い合わせ

昨年十二月に突然変更されたBlog[旧お試しBlog]本文中の&の扱いについて、プロバイダに問い合わせしてみたものの一向に返事が得られないので、再度問い合わせてみました。

以下に問い合わせの本文をのせておきます:

昨年十二月にも同じ件で問い合わせましたが、お応えが得られませんでしたので再度問い合わせます。

Blog本文中における実体参照の扱いについてです。昨年十二月に突然本文中の&を&と変換して出力するよう仕様変更されたのはなぜでしょうか。&はHTMLにおいては実体参照に用いられる重要なメタ文字でありますが、それが&と変換されてしまうため、実体参照を用いることが不可能になりました。

実体参照が使えないので、<(&lt;)や>(&gt;)を表現することができず、またHTMLの文書型定義において定義されている多様な記号を使うこともできません。以前にも申し上げたとおり、こうした記号を取り扱うBlogにとっては致命的です。

この仕様変更の理由をお教えいただけませんでしょうか。また、早急に以前の仕様に戻していただけませんでしょうか。

なにとぞよろしくお願いします。

以前問い合わせてからも、コメントスパムについてなどいろいろやり取りしているのですが、そちらではちゃんと返事がもらえているんです。多分問い合わせの量に違いがあるためなんでしょうが(コメントスパムに対しては定型文が用意されているということをいっています)、でも実体参照が使えないのも困りものです。

正直、ほったらかしはつらいものがあります。

2006年1月13日金曜日

だんだら

 私はきらという人の描く絵だけは知っていて、そしてその作風に触れたのは『シンクロオンチ!』がはじめでした。シンプルな描線によく整理されてわかりよいコメディ。この人が描く男は本当に色気があって恰好いい。そんな風に思っていたものですから、『だんだら』を読んだときには驚いてしまいました。わかりにくい。一筋縄ではいかない。題材として新撰組が選ばれているのはわかりましたが、新撰組はただの口実に過ぎないこともわかりました。沖田のうちに去来する、今現在私たちが暮らす時代の精神と、幕末動乱に生きた人斬り沖田のふたつの人格、記憶。いったいどちらが本物なのか、それは読んでみて、追想してはじめてわかるものなのかも知れません。

作者は表紙折り返しのコメントに、描きたかったテーマはひとつですという言葉を残していて、けれど私は思うのですが、そのテーマというのはあくまで作者にとってのテーマであって、解答ではないのだろうなと。おそらくこの漫画には明確なひとつの解というのはなくて、読んだものが、自分の読んで得たものをよすがにして、自分にとっての意味や結末を描くべき開かれた作品としてのかたちをもっているように思います。

題材としては新撰組をとっていますが、描かれるのは徹底的に現代的な意識であって、だから私はこの漫画を新撰組ものとはちっとも感じていませんでした。これを読んで、新撰組に思いをはせることはできない。だから、私は昨日の昨日まですっかり忘れていました。忘れていたではないですね。新撰組というキーワードでは『だんだら』を拾えなかったのです。

新撰組を取り上げて新撰組ものではないという『だんだら』ですが、ではなにであるのかというと、それは結局は私たちの時代の精神の問題が流れているのであると思っています。幕末なんかではなく、今の私たちの時代の物語であると思っています。

  • きら『だんだら』(マーガレットコミックス) 東京:集英社,2002年。

引用

  • きら『だんだら』(東京:集英社,2002年),表紙折り返し。

2006年1月12日木曜日

秘密の新選組

 昨日の記事が『裏事情新選組』だとすれば、今日は『秘密の新選組』。いったいなにが秘密というんだー! 新撰組の秘密とは、ホールモーンに働きかけることで男性を女性化させてしまう薬の存在。いや、違うな、そんなもんじゃない。新撰組がどうしても隠さなければならない秘密とは、その薬によってなんと五人もの隊士が女性化してしまっているということなのです!

って、のっけから腰が砕けそうなとんでも設定が飛び出してきてしまいましたが、だってそういう漫画なんだからしかたがないじゃないですか。近藤勇のいたずら心がきっかけとなって、土方はじめ、沖田、藤堂、原田は、男でありながら女の乳房を持つ身となってしまって……、え? 一人足りない? ああ、それは近藤さんです。どうなる新撰組!? という漫画です。

しかしこの漫画のすごいところは、こんな脱力するようなとんでも設定だというのに、描く内容は至極真っ当なものということです。ホルモンの影響で女性化してしまった隊士は、その身体だけでなく心までもに変調を来して、土方は妙に嫉妬深くヒステリックな性格をあらわにするし、藤堂は藤堂で……、ってあんまりここで書いちゃ面白みがなくなります。続きは漫画で読んでくださいな。

私はこの作者、三宅乱丈という人を知らず、かろうじて『大漁! まちこ船』をちらっと見たことがあるというくらいだったのですが、この漫画で読んでみて、なんと今まで知らなかったのが惜しまれるほどの良作家ですよ。私は日頃から、物語とは題材やなんかが問題なのではなく、大切なのはその物語り方であるのだと思っているのですが、その考えをさらに強めましたね。だって、新撰組の主要人物を女性化させてしまうなんて、いったいどうしたらこんなこと思いつくんだという奇抜な発想であるのに、物語はしっかりと揺るぎなく、堂々と紡がれていくんです。もうそれこそ、本当にこうしたホルモンの影響があったんではないかというほどの説得力を持ってです。これは物語り方の勝利というしかない。私はもう、この表現の強さに参ってしまったんですね。

で、私がこの本を知るきっかけとなったのは、たびたびこのBlogでも紹介している、もの子さんのBlog記事だったのです。しかし、もの子さんの目利きにも恐れ入ります。本当、私の狭い見識が広がるわけで、実にありがたいことであります。

  • 三宅乱丈『秘密の新選組』第1巻 (fx comics) 東京:太田出版,2005年。
  • 以下続刊

2006年1月11日水曜日

隊士は見た! 裏事情新選組

 私の読んだことのある新撰組ものといったら『大夫殿坂』くらいしかないといっていましたが、対象を小説から漫画に向けると状況は多少ましになるかも知れません。例えば、ついこの間も紹介しました松山花子の『診療再開! 小さく弱い人たちへ』には新撰組を描いた読み切りが収録されていて、けどこれをもって新撰組ものを読んだというのもどうかなあ。というのは、やはり松山花子的なカリカチュアライズがされていまして、カテゴリとしてはパロディとかに含まれるんじゃないかと思うからです。だって、タイトルからして『隊士は見た! 裏事情新選組』ですから。いったいその裏事情というのはなんなんだと、そんな突っ込みのひとつも入れたくなるじゃありませんか。

ですが、さすが松山花子と思わせるものでもあるから素敵です。描かれるのは文久二年の浪士募集から翌年九月の芹沢粛正まで。主役は土方歳三。小石川伝通院にて出会った芹沢鴨に武士の理想を見いだした彼のうちで、いったいいかなる変化が起こって、ついに暗殺するまでに至ったのか。土方の胸のうちが描かれるときは結構シリアスでナイーブな、ちょっと読ませるものであるのですが、ところが最終的な判断の動因はもう完全にギャグそのもので、そうした落差も含めて松山花子らしさが満ちています。

でも、やっぱり松山花子らしさは、シニカルなところに見いだしたいものであります。醒めて対象を遠巻きに見るような視点はこの漫画にも健在で、そうした見方はギャグといって片づけてしまうには惜しいものがあるのです。

土方の武士への憧れと自らの出自に対するコンプレックスが結実した法度。自分は本当の武士ではないという思いが、もうすでに過去のものとなっていた武士らしさを声高に叫ばせたのだろうなあと。対して、他の隊士の思いはいかなるものであったのか。松山は近藤以下全員を皆考えの浅いものであるように描いていますが、確かに幕末の行き詰まりの中で、将来に展望を見いだせない若者が、自分の腕を振るえる機会がきたと募集に群がり、後は付和雷同の如し。こういう見方は、新撰組のファンからしたらあんまりにあんまりなものであるのでしょうが、けれど私はそういう考えもあながち間違ってはおらんのではないか。そんな風にも思うのです。

自分が松山花子の描く新撰組像を面白く受け入れられるのは、私自身が新撰組に好意的ではない事情があってのことかも知れません。新撰組への興味は尽きないものの、かといって彼らにシンパシーを感じるわけではないのです。これまでもずっとそうでしたし、これからもきっとそうでしょう。

こんな私ですから、松山の新撰組は非常に楽しめるものでありました。

2006年1月10日火曜日

大夫殿坂

 私は今、猛烈に新撰組に関する本を読みたくてたまらない。という書き出しもなんだか唐突ではありますが、だって本当にそう思うんだからしかたがないじゃない。そもそも私の新撰組に関する知識は極めて浅く、まとめて見たといったら、こないだの大河ドラマが関の山。あとは竜の印は正義の印ってやつと、ほんで士道不覚悟切腹よくらいかね(われながら偏ってるとは思います)。実をいうと、私は新撰組をはじめとする幕末ものはあんまり好きではなかった過去をもっていまして、それは多分父親の趣味を反映していると思うのですが、だって新撰組の小説とかもってないかと聞いたら、幕末ものはどこが面白いかわからないという力強い答えが返ってくるんだもんなあ。『鬼平犯科帳』とか全巻揃えてるくせに! というわけで、私は新撰組ものを自力で渉猟せねばならないはめに陥りそうなのであります。

そんな私が読んだことのある新撰組の小説といえば、ご存知司馬遼太郎の『燃えよ剣』、ではなくて、『大夫殿坂』だけなんですね。この話、新撰組がメインの話ではなく、けれど新撰組はばっちり関わってくるという、いわゆるサイドストーリーなのでありますが、私は実にこういうやつに弱いんです。メインのストーリーを追って、そしてそこに関わってくる多くの人たち。サイドストーリーが多ければ多いほど、メインの話を軸にした膨らみは豊かに広がるもので、その広がりこそが物語の質感になるのだと思います。あたかも、その時代、その場所に立ち会い、その人たちに出会った、あるいは直接伝聞したかのようにしっとりと手に感触が残るような気さえする! だから私は『大夫殿坂』にやられてしまった。これはもうずいぶん前のことで、NHKのドラマよりも前で、局を抜けたら切腹よを知るよりも前でした。

『太夫殿坂』では、いわゆる大坂角力事件に触れられていて、いやでもこれは主題ではありません。公事宿の手代が語る新撰組の行状、そこに件の事件が出てきて、これは初代局長芹沢鴨の仕業であったわけですが、その描写がすさまじい。

一団の首領が抜き打ちに斬りすてたのである。力士は斃れても笑顔のままだったというから、斬り手の腕は凄まじいものとみてよい。

私はこれを始めて読んだときには、ああお相撲さんがかわいそうだと思ったものでしたが、それと同時に、デカダン酔いしれる芹沢鴨のファンにもなった。いや、この物語中では芹沢の名は出てこないんですけどね。でも、この事件の記憶は私の脳裏にかっきりと残って、だからドラマを見たときには、この事件を起こすのは佐藤浩市演ずる芹沢だとわくわくして、いつかいつかと待っていて、その日がきたときにはやったと思った。ええ、ここにきて、かつての幕末音痴は消え去ろうとしていたわけです。

でまあ、私は新撰組に関する本を読みたいわけです。まずは『燃えよ剣』あたりでしょうか。でも全集は高い! だったら文庫で買え文庫で、って話なんですが、なにぶん文庫で買うとサイドストーリーを追い切れない可能性もあって、それは私の性格からすれば非常にまずいわけです。でも全集68冊は買えないなあ。

できればいろいろな本を読みたいと思っています。『大夫殿坂』ではおどけた力士は抜き打ちに斬られたわけですが、力士が暴言を吐いたところへ芹沢が殴りつけたという話もあるではありませんか。こんな風に、いろいろぶれのある物語をたくさん読んで、自分なりの幕末を描いてみたい。ええ、私は新撰組がとりわけ好きというわけじゃあないんですよ。そうじゃなくて、幕末という時代を感じてみたい。あの時代の空気がどうだったかを追想してみたいというのです。その手がかりとしてまずは新撰組。ええ、いい取っ掛かりであるとは思いませんか?

引用

  • 司馬遼太郎「大夫殿坂」,『人斬り以蔵』(東京:新潮社,1969年),316頁。

2006年1月9日月曜日

しあわせは…あったかい子犬 / Happiness Is a Warm Puppy

  犬といったら決して忘れてはならないやつが一匹います。そう、世界で最も知られたビーグル犬、the world famous beagle Snoopy ですよ。スヌーピーは、その登場するカートゥーン『ピーナッツ』を知らない人にもよく知られていて、今やもう説明の必要はないでしょう。愛らしくしかしシニカルな子供たちと犬の繰り広げるちょっとシュールな物語は、なんだかおかしくもあり、けれどそのうちに彼らが自分の身の回りにいる親しい人たちであるかのようにも感じられるようになって、そうなったらもう他人事ではないんですよね。

『しあわせは…あったかい子犬』は、『ピーナッツ』の子供たちが出てくる絵本で、これもまた説明の必要もないくらいに知られたものです。子供たちが一人一人出てくる。そしてしあわせは…という問に、一人一人違った答えがあらわれて、しあわせのかたちというのはどれほどにたくさんであることでしょう! しあわせは誰もの胸にそれぞれ違ったかたちであって、それゆえに世界は豊かであるのだと思います。ともすれば、ものがたくさんあって、お金がたくさんあって、それがしあわせといいかねない時代でありますが、ですが本当のしあわせとはもっとささやかで、もっと根源的なものであるはずだと、この本を手にすれば思うようになるのではないかと思います。

そして、多分、この本を読んで、自分にとってのしあわせのかたちを思い描いてみるのがよいのだと思います。人と同じでなくてもいい。誰にも理解されないかも知れないけれども、それでも自分にとってのしあわせのかたちを描ける人というのは、いつかしあわせを自分の胸に抱くことができる可能性を持った人なのだと思います。

2006年1月8日日曜日

犬を飼う

 戌年の犬特集をするにあたり『犬を飼う』は常に念頭にあった本なのですが、なぜか私が扱っちゃいけないような気がして、今の今まで先送りにしてしまいました。先送りというのも変ですね、同ジャンルが並ばないようにという配慮もあったし。でも、やっぱり私には簡単に書いちゃいけないような気がして、いや、他の漫画や音楽やなんかは簡単だといっているんじゃなくて、なんといったらいいんでしょう。なんか、私のキャラクターにはそぐわないんじゃないかという、そんな感じがするんです。

でも、この漫画を嫌いということは決してないのです。この漫画は、一匹の犬をとおして人の暮らしや町の移ろいを描いて、その果てに生きるということはどういうことなのかも描いて、筆致はあんなに静かなのに深く響いて、私は二の句を継げなくなってしまいます。

『犬を飼う』は「犬を飼う」だけでは終わらずに「そして…猫を飼う」、「庭のながめ」、「三人の日々」と続いて、それぞれは独立した短編で、それぞれに違ったテーマと結尾を持っているのですが、しかしこれらのシリーズを通して表現されるテーマもあるようで、それはやはり生きるということなのかなと思います。生きるということは人間を含んだ生物が生命活動をおこなうということでありますが、人間にとっては決してそれだけではなく、生きている間に関わる人やもの、こと、場所、すなわち暮らしそのものであると思うんです。

その暮らしを、透徹した目で持ってみれば、こうした表現になるのかと思います。よいことはよいように、けれど決してきれい事や上っ面だけじゃなく、煩わしいことや、本当なら恰好つけてなかったことにしてしまいたいような感情も描いて、それは本当に淡々と、声を荒げることもなく、ドラマを盛り上げようと細工をするようでもなく、けれどその淡々とした様が逆に大きな説得力を持って、私の胸に迫ったのですね。だから、私はそれを受け止めるのにうっとなって、その重さを下ろすに下ろせず、今も、そして多分これからもずっと抱えて、けどその重さはこの漫画の重さではなく、この漫画を介してあずけられた人生を描出する目によってようやく見つめられた、自分自身の人生の重さであろうと思います。

私は、自分の人生を一枚の紙っぺらよりも、空気よりも軽いものとして感じたいと思っていて、けれどそれは目をそらしているだけに過ぎない。私の人生にも、暮らしがあり、暮らしは決して軽々しいものではないんだろうなあ。私の自分自身を見つめる目の甘さは、この漫画と対照されることで際立って、本当、駄目だと思います。

  • 谷口ジロー『犬を飼う』(小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 谷口ジロー『犬を飼う』(Big comics special) 東京:小学館,1992年。

2006年1月7日土曜日

ポチの群れ

 犬特集は続きます。

元日紹介の『まりといっしょ』に続き、今回もまた宙出版がお送りするたかの宗美漫画です。Amazonでたかの宗美をキーワードにして調べてみるとわかるのですが、結果におけるエメラルドコミックスの比率はかなりのもので、この人の漫画の人気の高さがうかがわれます。

多分この人気を支えているのは、たかの宗美の、一般向けというにはちょっとマニア好きするところや、かといってマニア向けというほどとんがりすぎてもいないという、絶妙の立ち位置なのではないかと思うんです。マニア向けというのも、漫画やアニメのマニアではなく、鳥のマニアなど、とにかく多様な層に働き掛ける懐の広さがあって、それは『ポチの群れ』に関しても同じではないかと思っています。

『ポチの群れ』をはじめて読んだとき、これは他のたかの漫画とはちょっと違うなと、そういう感想が強かった。主人公は中山家に飼われているポチ。淡々としてマイペースで、そんなポチが人間の暮らしを観察し漏らす感想の面白さ。とにかくマイペースで、ちょっとずれていて、それですごく素直なものだから、なんだか目からうろこ的な気分になることもあって、そういうところがこの漫画の面白さなんでしょう。

実際、このポチの視点が人間のものであれば、人生に達観しているといったような印象を与えるんじゃないかと思います。そういえば昔キュニコス(犬儒派)という哲学の一派がありましたっけ。もちろん、ポチの視点は彼らの視点とは違っているんだけど、たまには人の視点から離れてみれば、また違った世界の見え方があるかも知れないと思ったりして、でもまあそこまでいけば考えすぎというものでしょう。この漫画は、もっと気楽に素直な気持ちで読むほうが、絶対いいと思います。

  • たかの宗美『ポチの群れ』第1巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2004年。
  • たかの宗美『ポチの群れ』第2巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2006年。

2006年1月6日金曜日

犬の生活

 今の若い人はもうそんな言葉知らないかも知れないけど、昔はルンペンなんて言葉があって、浮浪者とか失業者を意味するドイツ語なんですが、私はこの言葉を聞くとどうしてもチャップリンを思い出してしまいます。ぼろは着てても心は錦というか、権力大嫌いでけれどぶったところはなく、人間臭くて、紳士で。喜劇王だなんていわれていましたね。無声映画の時代にたくさんのフィルムを撮って、その後トーキーにも進出して、短編であっても大作であっても、そのどれもに心が通っていて、特に中期から後期にかけての作品は素晴らしい。でも初期の短編にも見るべきものはたくさんあって、『犬の生活』もそんな中のひとつです。

チャップリンがですね、群れからつまはじきにされた一匹の犬をですね助けまして、それから一人と一匹で一緒くたになって暮らすという話。基本はどたばたのコメディです。いかに日々の糧を手にするかとか、そういう試行錯誤、チャレンジの連続が面白いといった短編なんですが、考えてみればそうして暮らしているチャップリン演ずる放浪紳士がすでに人の群れからつまはじきにされた一人であるんですよね。

チャップリンは後に文明批判や反戦といった、現状に果敢にプロテストするような映画を撮りますが、そういった視点はすでにこうした短編時代に見受けられるのかも知れません。

昔、平成がまだ一桁だった頃、NHKのBSでチャップリンが大量に放送されていて、長編もやれば短編もやる。それこそ、十把一絡げにされそうな、ほとんど知られていないような短編も放送されていて、私のうちには当時まだ衛星放送を見られる設備がなかったから、見たくて見たくてたまらなくて、人に頼んでビデオに撮ってもらっていたりしました。そのテープは今もちゃんとしまわれていて、でもこのところは些事に追われてすっかり忘れてしまっていました。

チャップリン、好きでした。高校の図書室にチャップリンの自伝を見つけて、それを読んで、映画を撮っていたときの話やなんかを読んで、貧しい暮らしを表現しようと演ずるマイムで笑いをとるはずが、共演女優に涙を流させてしまった話などいろいろ。チャップリンは、笑いの中に人間が人間として生きる悲しさを込めた人でした。

犬の生活もそういう色を出していて、この映画では、犬と一緒に眠るチャップリンの絵が妙に記憶に残っていて、あの冷たい外界に対し、一人と一匹身を寄せあっている切なさと暖かさが一緒になった素敵でほほ笑ましく、そして一抹の悲しみも感じさせる名シーンであったと思います。

2006年1月5日木曜日

名探偵ホームズ

  いつだったかもさだかでないくらい昔。私は『名探偵ホームズ』のアニメが好きで、ええ、あの犬のホームズです。確かテレビ朝日だったと思う。私のことだからきっと本放送では見逃して、けれど当時は頻繁におこなわれていた再放送で虜になって、ほら夏休みになったら朝の九時半からやるでしょう。ああした時間に、それこそ何遍見たかわからないほど見ました。その後、NHKの衛星放送でもやるようになって、私はビデオにとってまで見て、その頃の私の趣味(というか病気)は全話ビデオ録画でしたから、もちろんこのときもチャレンジしたのですが、私を部屋から追いだした姉がBSチューナーのチャンネルを変えるという暴挙に出たせいで泡となりました。

けど、DVD-BOXが出ていて、それが19,950円か。いける! この値段ならいける!

けど、この先、ちょっと高いDVD-BOX購入の予定があるので、今回はじっと我慢の子です。ええ、この作品は今買い逃したとしても、きっとまたいつか発売される。そんな気がします。だから大丈夫です。

イギリスの小説シャーロック・ホームズのシリーズを、登場人物すべて擬人化した犬に変えるとは思い切った演出でした。私は本放送の時、この犬の擬人化という手法を嫌って見ていなかったのだと思います。ですが、一度でも本編を見れば一瞬で恋に落ちる。それこそ、ハドソン夫人が誰からも愛されるように、私の友達といえる人たちは、みんなこの犬のホームズを愛しているのです。

主題歌もよかった。ダ・カーポが歌っている静かで優しい情感漂う佳曲は今も私の耳に残っています。BGMがよかった。羽田健太郎作曲の、コミカルでとぼけたような、けれどやはりこれも耳に心地よく馴染んで、私は好きでした。そして、広川太一郎のはまり役。主人公ホームズの独特の言い回しの小気味よさもあれば、他の登場人物もまた大変味わい深い人たちで、本当なら極悪人のモリアーティ教授でさえも人懐っこく、あのあたたかで気持ちよくさっぱりとした人たちを嫌いになれる人などいないんじゃないか。私はそう思います。

マスターピースという表現がありますが、このアニメこそはまさにその表現に恥じない大傑作で、だから私はこれを手もとに置いたとしても誰にも恥じることはないでしょう。そういうアニメは昔はたくさんあって、いや、今に傑作が生まれないといっているわけではないのです。ですが、私の好きだったアニメの時代は、これら『ホームズ』みたいなのが毎日毎週放送されていたあの頃でした。

CD

2006年1月4日水曜日

地獄の猟犬がつきまとう / Hell Hound on My Trail

 戌年だから犬特集、……はいいとしても、三が日を終えていきなり地獄の猟犬ときましたよ。犬なんて、それこそいくらでも出てきそうな題材で、なのに正月からHell Hound。もうどうしようもないですね。実際の話、他にも二三候補はあったはずなんですが、なんでか今のこの瞬間に頭に残っていたのがこれだけで、だからしかたがない。まあ、昨日の『アンダルシアの犬』の時点で逸脱していたといえば逸脱していたので、もうどう繕おうと手遅れという気もします。

Hell Hound on My Trailは、近年、伝説的ブルースマンとして妙にもてはやされるようになったロバート・ジョンソンのブルース。ロバート・ジョンソンは今や漫画にもなって、そのタイトルも『俺と悪魔のブルーズ』。Me and the Devil Bluesという歌もあるんですね。もちろんロバート・ジョンソンのブルースです。

Hell Hound on My Trailは二分半そこそこの短い曲で、けどロバート・ジョンソンの時代に録音された曲で何分も延々繰り返されるなんてのもないから、それが普通の長さ。技術的な制約であるといったほうがいいかも知れないですね。その当時のレコードはあんまりたくさん吹き込めなかったんです。

その当時の、モノラルの、音もあんまりよくない録音が、今では普通にCDで買うことができて、私も持ってるんですが、このプリミティブそのものといった感じの歌が多くの人に影響を与えたんだっていいます。こういう話になるといつも引き合いに出されるのがエリック・クラプトンで、この人もHell Hound on My Trailを録音しています。

歌の内容は、ちょっとクリスマスが関わっていたりするのですが、毎日不安でいてもたってもいられないとばかりに切迫した感情が歌われていて、女が必要だなんていうんですが、それはつまり今が孤独なんでしょう。孤独の中で追いつめられた気持ちになっている歌は、妙に淡々として、寂しげで、独特です。多分、ロバート・ジョンソンを知らない人が聴いたら、そのあまりのセンシティブな様に驚くかも知れません。一人で、地獄の猟犬に追われるような不安にさいなまれるという、その神秘性も手伝ってのことかも知れませんが、とにかく独特な雰囲気のある歌であると思います。

Book

2006年1月3日火曜日

アンダルシアの犬 / Un chien andalou

 戌年犬特集三日目です。

本日紹介しますのは『アンダルシアの犬』。オールド映画ファンならご存知であるかと思います。かのシュールリアリズムの巨匠サルバドール・ダリが脚本に関わっていることでも知られるこの作品は、それ以上に、内容のシュールさがものすごく、まさしく強烈なイメージの海。もう、一回見たら忘れられませんから。

内容について触れようと思っても、イメージの断片についてしゃべるのが精いっぱい。だって、ストーリーがあるわけでなく、そもそも各シーン各シーンの連続になんの意味や関連があるかわからない。いや、多分わからなくて正解なんでしょう。それこそ悪夢そのものといった映像世界が広がっています。

私は学生時分にこの映画を何度も何度も見て、それはなんでかといいますと、これはトーキーじゃないんですよ。だからBGMはビデオ制作者次第でありまして、それこそ版によって全然違った音楽がつけられています。音楽によって内容はいかに違って感じられるかというのを知るために、何種類もの『アンダルシアの犬』を見たのでした。けど、どれを見ても内容の強烈さは変わりませんからね。直視しにくい場面もあれば、なんだかシュールさが極まって笑ってしまいそうになるシーンもあって、けど基本的には人間の嫌悪するものがつまってるような映画ですから、見る人は選ぶでしょう。でも、一度でも見たら忘れられない。忘れようとしても忘れられない、まさに名画であると思います。

この映画、たった17分、短い映画です。それに三千円以上を払えるか。私は微妙ですが、でもテレビとかではきっとやらないタイプの映画です(やるとしたらNHK教育とかBSくらいかなあ)。だから、実をいうと欲しいんですよね。たまにはあの強烈なインパクトに触れたいと思うこともあるのです。

あ、そうだ。この映画、タイトルに犬という言葉が含まれてはいますが、本編には犬、出てきませんから。そういうところも含めてのシュールなのでしょう。

DVD

VHS

2006年1月2日月曜日

春の猟犬

 戌年なので、犬にまつわるものを紹介しています。

吹奏楽をやっていた人には懐かしく感じられるかも知れないタイトルに『春の猟犬』というのがあります。作った人はアルフレッド・リード。吹奏楽作品を多数書いている作曲家で、現在のレパートリーには欠くことのできない名前です。その彼の作品の中でも人気の高い『春の猟犬』。ええ、私も何度かやったことがあります。けど、一番しっかりとやったのは、大学に入ってからじゃないかな。そういや、中学高校ではやったことがなかったような気がします。

序曲『春の猟犬』は、聴いた感じにはトリッキーな変拍子の曲に感じられるのですが、実際にやってみると意外にちゃんとした小節線が引かれていて、はじめて楽譜を見たときに私はその整然とした様に驚いてしまいました。しかし、それ以上に驚いたのは演奏の難しさで、拍節感とかをちゃんと意識してやろうとすると、えらい難しいんです。でも、耳で覚えたのをなぞるだけというのはなんか許せないものがありますからね、必死で練習して、で、それでうまく演奏できたかどうかは、どうなんでしょう。あんまり自信はないのですが、なんとかなっていたとしたら嬉しいです。

聴くとやるでは大違いという曲はたくさんありますが、自分にとっては『春の猟犬』がその筆頭といった感じで、はっきりいって舐めていたものですから、すっかりしてやられた。どんな曲もいい加減にやっていいってもんじゃないのだなあと反省しました。

アルフレッド・リードは中高吹奏楽部とかでもよく取り上げられますが、アクセントや強拍の移動が多く、変拍子も頻繁に使われるものだから、ちゃんとやるのは実は難しくて、だから私は長いこと、それっぽくやってただけだったんですね。それを気付かせてくれたのは『春の猟犬』と、この曲をやることになった吹奏楽の時間。いろいろと学ぶところも多かった。今になってみると、あれらは確かに貴重な時間であった、そんな風に思います。

ところで、私ははじめてこの曲のタイトルを聞いたとき、意味がまったくわかりませんで、それで人に聞いたら、犬の猟犬っていわれて面食らいました。原タイトルはThe Hounds of Spring。そのままです。

英語では春の猟犬という言葉にそれなりの含みがあるようで、でも私にはちょっとその背景を見通すことはできないから、残念ですね。本当に残念だと思います。

2006年1月1日日曜日

まりといっしょ

 新年明けましておめでとうございます。今年は戌年。そんなわけで、ちょっと犬に関係したものを取り上げたいと思います。

たかの宗美は、これまでも散々いってきましたが、私の好きな漫画家の一人です。そのたかの宗美がつい先達て『まりといっしょ』という単行本を上梓されて、おや? 奥付を見れば2006年1月10日って書いてある。本では実際の発売日と奥付の日付が違っていることが往々にありますが、これもそうした類いなのでしょう。しかし、戌年正月に犬の漫画が出版とは、なかなか縁起のよい話なのではないでしょうか。『まりといっしょ』、柴犬のまりが主人公の、西洋アンティークショップ四コマです。

まりが主人公といいますが、実際のヒロインは西洋アンティークショップ人形の夢の店主美幸さんですね。基本的な登場人物は美幸さんにまり(本名マリアテーゼ)、そして人形の夢の隣で喫茶店を営むキリタの三人。後は店のお客といったところでしょうか。この最小構成ともいえる人数で、細く長く続けられてきたのがこの漫画であるようです。

で、ここで重要なのは美幸さんの性格なのだろうと思います。美幸さんは西洋骨董なんて扱うから、エレガントで夢見がちな女性、だなんて風貌を与えられてはいるのですが、実体はそうした印象とはまったく違っていて、まさにこれこそがたかの宗美的であると思うのですよ。たかの宗美的とは、乱暴で強引といったらいいのかな。こんな言い方をするとなんだか悪口みたいですが、やり手でさばけているといえば悪くはないでしょ。腹の割って話せる気の置けない友人といった感じが、この美幸さんからもするのですね。

多分、こうした雰囲気というのは、作者の人となりが反映されてこそのことなのだと思います。といっても、私は作者の知人でもなんでもないのですが、でも、単行本カバー折り返しなどに見える著者近況(?)なんかを見ていると、きっとこうした漫画に出てくるちょっと強引でけれどすかっと気持ちのよいヒロインたちに通じるものをお持ちであるように思えてくるんですね。

とはいっても、勝手に人間像まで構築されてしまうのだから、作者というのは大変です。たいへん失礼いたしました。

  • たかの宗美『まりといっしょ』(エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2006年。