2005年2月15日火曜日

紅丸ぼたん

たかの宗美の鳥漫画第二段は、ボタンインコのつがい、紅丸とぼたんのいる暮らしを描いた『紅丸ぼたん』。この漫画を見るかぎり、ボタンインコはしゃべらないみたいですね。けれど盛んに鳴き交わし、謎の行動をするところなんかは、とても可愛いのだそうです。作者いわく、ハムスターに似ているところがあるとか。けど、大きな声でなくことのないハムスターとは違って、ボタンインコの鳴き声はそれはそれは大きいみたいですね。アフリカのジャングルで意思を疎通するには、大きな声が必要だったんでしょう。

たかのさんの鳥漫画は、基本的に脚色なし、絵もリアルというよりは漫画記号的でシンプルなものでして、なのに読みはじめるととまらない面白さがあるんですね。これは多分、作者の鳥に対する好きという気持ちに、ただならないものがあるからだと思います。鳥は鳥の都合で、好き勝手に暮らしているばかりですが、その好き勝手なやつらの行動をうまく拾い上げて、面白いストーリーに作り替えてしまうんですね。けど、作為とかが透けてみることはなく、すごく自然。そうそう、鳥ってそんな感じやんねとうなずくこともあれば、ほー、そうなんなことしよるんやと思うこともあって、共感できたり新鮮だったりで、もうすごく楽しい。多分、私は鳥を自分の目で観察するよりも、鳥好きの他人の目で見るほうがいいのかも知れません。だって、私はたかのさんやこうのさんみたいに、鳥のいろいろを見付けられませんから。

でも、鳥を淡々と観察し続けるという楽しさは、よくわかりますよ。鳥を飼わなくなってずいぶんになりますが、それでも庭に遊びにくるメジロやヒヨドリを見ていて飽きません。蜜柑や林檎を切って餌台にさしておけば、鳥たちが集まってくるんですね。メジロは二羽三羽と連れ立って、ヒヨドリはたいてい一羽で、果物をつついて、その様は見ているだけで本当に楽しい。時間を忘れます。

死なせてしまうのがあまりにつらいから、動物は飼わないといいました。だから野鳥を愛で、漫画に描かれた鳥を楽しむのでありますが、悲しいことに、漫画の鳥であっても、やっぱりその向こうには生きた鳥がいるのでありまして、だから亡くなったということを知ったときは悲しかったです。まるで自分の飼っている鳥を亡くしたみたいな、そんな気持ちさえありました。それまでの漫画が、楽しいところ、可愛いところを切り取った、本当に仕合せなものだったから、その気持ちはなおさらでした。

けれど、悲しくともつらくとも、すべての生き物には死がつきものであることを忘れてはいけない。死があるから、すべての生が価値あるのだと、そのことは忘れたくないなと思いました。ええ、鳥の死であっても、その重さは決して軽んじていいものじゃありません。

  • たかの宗美『紅丸ぼたん』(ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2004年。
  • たかの宗美『紅丸ぼたん』第2巻 (ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2004年。

2005年2月14日月曜日

ぴっぴら帳

  私はしゃべる鳥は飼ったことないんですが、子供の頃、近所に九官鳥飼っているお家があって、天気のいい休みの日には、鳥と遊びにいったりしてました。まあ、子供ですからろくな言葉教えないんですけどね。さすがに得意な言葉はクソババア!!ってことはありませんでしたが、確かに名前はキューちゃんだったような気がします。

と、こんな風に書けば『ぴっぴら帳』は九官鳥の漫画みたいに思えますが、さにあらず、ある日キミちゃんの生活に迷い込んできたセキセイインコのお話です。

作者は『こっこさん』のこうの史代で、『こっこさん』はストーリー漫画でしたが、『ぴっぴら帳』は四コマ漫画です。作者独特のおかしみは四コマにおいても健在で、安定したテンポでネタ振りと落ちが交替する四コマの味わいをしっかり堪能できるんではないかと思います。やっぱりストーリーの形式とはちょっと違った感じがあって、大ゴマもないしページをめくる前の溜めもないしで、より穏やかな感触があります。でも、基本的なところは共通しているから、この二タイトルを手にしてみれば、様式を問わない作者の個性というものがよく見えてくるのではないかと思います。

『ぴっぴら帳』のおかしいのは、インコのぴっぴらさんやジャンボ、カナリアのかな子さんらの仕種もろもろももちろんそうで、いやあ鳥のやることなすことというのはどれほど面白いんでしょうか。けれどこの漫画の面白さはそれだけじゃありません。そうした鳥たちも含めた、登場人物の思い掛けない個性が面白いんですね。

小さくておとなしくて可愛らしいキミ子ちゃんの趣味好み、飲むと出る癖の意外さ、ダイナミックさ。キミちゃんの働くいのうえ食堂のおかみさんの特技、おやじさんの技術(渾身のイチゴショートを見よ!)。

素朴な絵柄にありきたりの中身を期待したりしてると、足下をすくわれるおかしさがあります。まず発想が面白いし、そのアイディアを余すことなく絵に写している、そのこともすごい。もう私は、すっかりファンになってしまいました。そうなんです、ここ数年むやみに嘘臭い広島弁を使いはじめたのは、こうのさんのせいなんです。

しかし、それにしても各扉にあらわれるキミちゃんは可愛いです。飾らない素朴な美しさに、ときには色気も感じさせて、ああこんなお嬢さんが身近にいたら放っときゃしないのになあ。

  • こうの史代『ぴっぴら帳』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2000年。
  • こうの史代『ぴっぴら帳』完結編 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。

引用

2005年2月13日日曜日

文鳥

 夏目漱石も文鳥を飼っていました。うちのと同じ白文鳥だったようです。うちに文鳥がやってきたいきさつは、迷子になっていたのを保護したというものでしたが、漱石の場合は、鈴木三重吉が鳥をお飼いなさいと勧めたのがきっかけでした。そのへんのことは、漱石が書いて残した小文『文鳥』に書かれていて、本当に短い文章ではありますが、鳥のことをよく見て、詳細に書かれた描写が美しいです。漱石も、勧められるままに飼いはじめたみたいな風ではありますが、本当はこの鳥のことを気に入っていたのだと思います。そういう気分が伝わってくるんですね。

(画像は新潮文庫『文鳥・夢十夜』)

明治四十年から四十一年にかけての話ですから、漱石が四十の頃の話です。文鳥を飼って、その姿、声を楽しみにした日々が書かれて、細々世話をしてみたり、いろいろと知らないことがわかったり、また鳥が懐くのを心待ちにするかのような記述も面白く、なにか、その一コマ一コマが目に浮かぶようで、ほほ笑ましくなります。そうなんです。鳥は、その姿を見ているだけで楽しくさせるよさを持っています。美しい姿、美しい声。それに文鳥は、慣れれば手にも乗りますから。ですが、漱石の鳥は手乗りではなかったようです。

ただ、こうした美しいものも、暮らしの中に入ってしまえば、いつしか当たり前のものになってしまって、忘れがちになるんですね。うちの場合も、最後の最期は毛布のかけ忘れという、世話をないがしろにしたのが原因でした。その頃、鳥の世話は母の役目になっていましたが、だからといって私も小さい頃は鳥のことが好きで仕方なかったのですから、世話をしなかったのは私にしても同じ。母を責めませんでした。可哀相なことをしたと言い合いながら、母は母で、私はまた私で、自分の不注意を責めたことであろうと思います。

この小文に見られる漱石の態度というのは、遣る方ない怒りを人に向けることで紛らわせたのではありますが、結局三重吉に宛てた言葉のすべては、自分自身への責めであったのだろうと思うんです。漱石は、自分の不調法なことを悔いたのだと思います。鳥を手に取って、その様を最も悲しんだのは漱石自身であったのだと思います。

2005年2月12日土曜日

それは十姉妹

私は動物の中では鳥が一番好きで、野鳥も好き、愛玩用の鳥も好き、カラスでさえ好き、当然水炊きも好き。子供の頃は、白文鳥を飼っていたんですよ。私が幼稚園から帰ると、母がなんかばたばた騒いでて、鳥を部屋に閉じこめたというから網をもって捕獲したのが最初でした。それがわが家に鳥がやってきたはじめてのことで、ペットショップから雌を飼ってきて、卵から帰ったひなをまた育ててという、小鳥を飼ったことのある人ならわかる、お定まりのコースをたどったのでした。

天気のいい日は、鳥カゴの前で鳥に話しかけたり歌ってあげたり、懐かしい思い出です。

十姉妹は、いとこが飼っていました。十姉妹も可愛いですよね。なんかぴーちくぱーちくしてるばっかりの鳥ですが、鳥カゴの中にいっぱいいるのを見てると、無性に嬉しくなってきます。鳥好きならわかるはず。鳥は見てるだけで楽しいんです。

さて、その鳥の生態を観察して漫画にしたのが『それは十姉妹』。著者が、自分の飼う十姉妹を見たまま淡々と描写したものでして、脚色というものは基本的に存在しません。けれど、こうした鳥っていうのは、それ自体がドラマなので、脚色なんていらんですよね。鳥の、なに考えてるかわからない毎日が、ただただ続くだけの仕合せ。そして、鳥の儚い命もまた深く印象に残って、寿命は仕方ないと思いますが、それでもその日特に寒かったとかそういうことがあれば、可哀相なことをしたという後悔が募る。ええ、私のうちで一番長生きした文鳥というのは、私が幼稚園のころに捕まえたというまさにそいつであったのですが、最期の夜は冬の冷えた夜で、しかも毛布を掛け忘れた。もう充分長生きではあったのですが、可哀相なことをしたという気持ちは長く残りました。

私にはそういう鳥の思い出があるからか、『それは十姉妹』はすごく面白く読めました。しかも、作者の観察も精緻で、よくよく鳥を愛していることがわかる。だから、本当に面白いんですね。私は中途半端な愛し方しかしてなかったんだなあと思いました。

私は、死なせてしまうのがいやなので動物を飼おうとは思わないのですが、基本的には好きなんです。本当は飼いたいけど、動物を不幸にはしたくないから飼わない。だから、飼いたい気持ちをこうした漫画で慰めているのだと思います。

  • たかの宗美『それは十姉妹』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2003年。

2005年2月11日金曜日

鳥のカタログ

   『鳥のカタログ』という曲名の美しさ。鳥を愛したフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンが、採譜し分析した鳥の歌を、ピアノの鍵盤の上に写し取ったのがこの曲集です。それぞれの曲名は、テーマとなった鳥の名前がそのまま用いられていて、十三の曲中に七十七種の鳥の声が収録されています。まさにカタログというにふさわしい充実ではないですか。

鳥の歌をそのまま、あたかもスケッチするようにピアノに写し取ったとはいいますが、けれどこの曲を聴いてすぐさま鳥を思い浮かべられる人というのもいないんじゃないかと思います。というのもですね、鳥の歌はあまりに高い音域で、素早くちちちちと歌われるものだから、人間の楽器であるピアノに表すには困難すぎるのですね。だから音域は下げられて、速度も随分とゆっくりになっています。

じゃあ、これを早回しにするともとどおりになるのかと、実際にこれを実験した人がいらっしゃいましてね、以前偶然インターネット上でその成果を耳にすることがあったのですが、見事に鳥のさえずりに聴こえて感動しました。今回、『鳥のカタログ』を取り上げるにあたって、もう一度探してみたのですが、見付けられませんでした。もしご存じの方がいらっしゃったら、教えてください。

以前、鳥を飼っている人に、『鳥のカタログ』のCDを差し上げたことがあったのでした:人間には非常にわかりづらく、[中略]ですが名曲です。人にはわからずとも鳥にはわかるらしく、どうぞ鳥たちにきかせてあげてください。

確かに、鳥達の反応は上々との返事をいただくことができ、私もちょっと嬉しかった。差し上げてよかったと思いました。

手紙では、人にはわかりにくい曲だみたいに書きましたが、私はそもそもどんな音楽にしても人にわかるものではないと思っていますから、『鳥のカタログ』にしてもおんなじで、だからか、普通の音楽と同じように聴くことができるのです。日頃耳慣れた音楽とは確かに違う種類の曲ですが、ですが、この曲が素晴らしく美しいことは鳥ならずともわかります。

この曲を自然の中で流すと、鳥たちが集まると聞いたことがあります。この曲をもって野山に入れば、鳥たちも集まるのではないか。そんなことを考えては、なんだかわくわくします。

2005年2月10日木曜日

こっこさん

 私の母なんかが子供の頃は、庭に鶏を飼っていて、それはそれはひどく追い掛け回されたんだそうですよ。家の中まで追いかけてきたという話で、そのせいで今でも雄鶏は怖いんだそうです。けれど、私は鶏に関してはそういう記憶はないんですね。小学校や近所の友達のうちに鶏はいたけれど(友達ん家にいたというのもすごいな。さすが昭和だ)、そんなに凶暴じゃなかった。自分の世界に生きているようなやつらばっかりで、子供がそばでなにをしてようと、我関せずといったそぶり。全然あぶないことなんてありませんでした。

だから私は、鶏の真実をいまだ知らぬままなのかも知れません。いや、あえて知ろうとは思わないですが。

こうの史代さんは、以前にもいいましたように、私の好きな作家のひとりで、なにが好きといっても、朴訥とした画風にうら悲しさとほの明るさの同居した穏やかな作風が優しくて、けれども物語ることは静かにしみとおってくるところがいいんですね。けど、むやみに名作風味を加えてるようなのとは一味も二味も違いますよ。面白みがあります、おかしみがあります。細やかな画風、やはらかな時間、暖かく澄みきった空気、そして、しっとりとした愛おしく世界へ向ける眼差しの確かさ—。

この人の漫画は、間違いなく今を舞台に選びながら、けれどどことなく昭和の匂いがします。昭和に生まれ育って、ゆえに平成へはようついていかれへん私には、こうの史代の描く世界はひたすらに心地いい、子供の頃に確かに自分も感じていた空の広さ、風の匂いが感じられる、懐かしい世界なのです。だから、私はこの人の漫画を読むたびに、嬉しいような悲しいような気持ちがまぜこぜになって、なんだか笑みとともに涙がにじんでしまうんです。

『こっこさん』は、鶏のいる生活のどたばたを軸にして展開する漫画ですが、けれどそれだけには留まらずに、人間ひとりのうちには、豊かな世界が広がっているのだということをあらためて気付かせてくれる。普段は見過ごしにしている瞬間瞬間にも、凝縮された永遠があるのだということを教えてくれる。言葉ではなく、漫画の一コマに込められた意識の強さが語るのです。絵が、その向こうに確かにある広がりを、つぶさに伝えるのです。

みずみずしくけれど落ち着いた表現の力。しっとりと、けれど湿っぽくはない。諧謔が湿っぽさを払います。やっぱり指先でそっと触れるような優しさが嬉しくなって、— 私にはもうあんなゆったりとした時間は過ごせない — やっぱりちょっと切なくなるんです。

引用

2005年2月9日水曜日

元気爆発ガンバルガー

 中学高校時分の友人から来た年賀状に、『ライジンオー』のDVD-BOXが出ていて昔を思い出しましたと書いてあって、ああ、そうでした。あの頃はその友人と一緒に、勇者シリーズだとかエルドランのシリーズとかを追っていて、楽しかったなあ。と、昔をしばし思い出したのでした。

友人はDVD-BOXを思わず買おうかと思ったけど買えないみたいなことをいっていまして、私はといいますと、『ライジンオー』系列の二作目『ガンバルガー』のDVDを欲しい。そんな風に答えて、そうなんです、制作者をして平成のカルトアニメといわしめた『ガンバルガー』を、私は欲しくてしょうがないんです。今も迷っている最中なんですよ。

『ガンバルガー』は、私にはすごく面白い番組で、過去から綿々と蓄積されてきたヒーロー系ロボットアニメの語法をうまく取り回しましてね、お約束の中に意外性ある展開を見せようという意欲がひしひし伝わってくるところがよかったんですね。普通、合体だとか必殺技の使い回されるカット — バンクシーンを、その回のためだけにいじるということはありませんが、『ガンバルガー』ではそれがあったんですね。思えば、バンクシーンに変更が加えられる(コスチュームが毎回変わるとかですね)ようになったのはこの頃くらいからだったと思うのですが、私にとってはその変更が非常に効果的に使われたのが『ガンバルガー』だったのです。

合体の阻止もありました。合体できないために、普段は合体後にしか使われない武器を、合体前の小ロボット二体で使ったこともありました。こうした、なかなか他では見られないような工夫が、一年間を飽きさせることなく、気持ちいいテンションを持続させていたのですね。

なのに、あんまし人気がなかったってのはなんでだ?

意外性はストーリーにも見られて、けれど私の期待に応えるかのような展開も用意されていて、まさに私好みの作品であったと思います。そもそも、正体を明かしてはいけないヒーローというのは私の大好物でありますし、どたばたご町内ウォーズというのもポイントが高い。敵であるヤミノリウスIII世のキャラクターもいい味を出してて、記憶を失った彼が亜衣子先生への愛に目覚める後半のシーケンスなどは最高でした。

最終話前後の二転三転も素晴らしかった。そして、最終回をもってきっちり物語にけりをつけた潔さもすがすがしかった。あの一年はあの一年で完結して、たるみのない立派な作品になったと私は思っています。

さて、実はこのアニメは音楽もよくて、しかもサントラにしか収録されてないような歌が非常に面白かったんですよ。主人公三人それぞれのテーマソングというのがありまして、歌詞を入れ替えても歌えるようになっているんですね。まあ、説明するのが難しいのでしませんが、大変面白い試みでした。そして、最後のディスクである『歌は綴るよ!』に収録された『風になるとき』は名曲です。脚本家金巻兼一によって作詞作曲されたこの歌は、ひとつの経験を超えてさらに広いフィールドに旅立っていこうとする少年たちを送るのに、ふさわしい歌であったと思います。歌詞、曲ともによく、もしこのアニメが広く知られていたら、今ごろ卒業式の定番曲になっていたんじゃないかという、それくらいの力のある歌なのに、残念ながら知られていません。

くそう、悔しいなあ。

2005年2月8日火曜日

ガンバルシカナイジャナイ?!

私は、それほど聴いているわけじゃないんですが、大黒摩季が結構好きでありまして、安定した歌唱にまっすぐの歌詞、聴いていて気持ちのいい歌手の筆頭格です。そもそもからして私は女性ボーカルが好きなのですが、それでも別格といえるような人はいます。いや、たくさんいるのであんまり説得力はないんですけどね、けれど大黒摩季はよい歌い手であると思います。

しかし、この『あぁ』に収録されてる歌は面白いですよ。基本的に同じことを歌っているのですが、『あぁ』では前向きに夢に向かおうと、後悔しないように先に進んでみようと呼びかけるようで、ところが『ガンバルシカナイジャナイ?!』ではもっと下世話に、ぐちゃぐちゃ考えてるくらいだったら、やりたいことやったらいいじゃん! っていうんですね。

この、八方破れかぶれな感じはいいですよ。まさに、今の私がこんなんですからね。どっちみち大変ならやりたいことしようって、本当に私はこの歌にうたわれてるようなことを信念にして、無謀な道をまっしぐらです。

私、いつも思うんですけど、無理をできるのって若いうちだけみたいにいうのって、言い訳じゃんかと思うんですね。人並みであることをあきらめるなら、いつだってやりたいことに真っ向取り組めるはずなんじゃないかと思うんですね。いや、もちろん人それぞれに事情がある、どうしても無理なこともあるだろうとは諒解しますが、けれどそれでも、そうした無理を押さないことには、開く扉も開かんのだと思うんです。

私は、昔は小賢く、公務員にでもなって適当に定年まで働いてなんて思っていたのですが、なんでか大学にいこうと決めたときに重大な方針転換があったようでして、やりたいことをやらんでどうするって、そんな気持ちになったんです。きっと成功なんてするはずがないから、辞めるなら早いうちだ。もう何年もそういう声を聴きながら、それでもなんでかあきらめようとしない。いや、一回あきらめたというのにさ、また戻ってきてしまったんだわ。

いやあ、馬鹿です、馬鹿ですが、どうせ一度しかない人生で、ドイツのことわざにいわく一度は数のうちに入らない。人間の一生なんて、そもそもはじめっからないのと一緒なんですよ。じゃあ、そのないものをなくしてしまうんじゃないかと怖れて、びくびく小さくなって生きることこそ馬鹿馬鹿しいじゃんか!

とまあ、こんな感じにやけっぱちです。やけっぱちの私に、このシングルは大変気持良く響くんですね。ええ、やってやるぞ、まけるもんかぁって思いますからね。

2005年2月7日月曜日

ネクストキング

思えばこれが私らの間で流行していたのは、四年ほど前の話になるんですね。ついこの間のことのように思っていましたが、時間が経つのは驚くほど速い、矢の如しですね。

このゲームがリリースされたのは1997年だから、私が手に入れた当時でもすでに入手困難な状況でした。でもまあそれでも持ってるということは、つまりはあの手この手を使ったということでありまして、まあ、私にも狂った季節があったということであります。やっぱりインターネットは頼りになるなあと、オークションやら中古ソフト取り扱いサイトやらを駆使して、けれど今オークションを覗いてみたら、結構出物がありますね。しかも初回版で新品なんてのまで出てて、あぶねー、入札しちゃうところでした。

思ったよりレアじゃないみたいで、ちょっとショックですね。いや、レアだから欲しがったわけじゃないので、別にかまわないんですけどね。

このゲームはどういうゲームかといいますと、ボードゲームタイプのギャルゲーという理解で正しいと思います。ライバルがあって、女の子が十二人出てきて、好かれるためにあの手この手の策を弄する。ただ作者が、あの『俺の屍を越えてゆけ』の桝田省治だから、結構二転三転させられて、ひとりプレイでも面白い。けど、多分一番楽しいのは対人戦だと思います。普段は笑った顔の向こうに隠している攻撃性を、思わず露呈させてしまったりしましてね、そんな人だと思わなかったなんていわれるんですね。いや、そんな人です。江戸の敵を長崎で討つ。目の前に弱ってる敵がいたら、とりあえずそいつも討つ。そんなタイプの人間なんですね。

このゲームのいいところは、女の子のキャラクターが一筋縄ではいかないというか、結構ずるくていいかげんというか、桝田省治の女性観がそのまま出ているところかと思います。とかいっても、彼女らもただのパラメータに過ぎない人たちですから、それなりの対処でもって遇していたらそれなりに好いてくれる、— 現実の女性たちほど剣呑ではない — のですが、それでもいわゆるギャルゲーに出て来るような自動的な感じはなかった。人の悪さはその人の魅力であると常々思っている私ですが、そうした人の悪さが感じられるところは、さすが桝田製であります。

いや、あれは桝田省治の人の悪さかも知れんとも思います。

このゲームの雰囲気は、主題歌にうまく表されていて、こういうところもやっぱり桝田省治のうまさです。女の子がね、私をものにしたかったらせいぜいがんばってね、ってそそのかして、貢がせて、男の尻を叩いて、って歌なんですね。いや、違うわ。聴き直してみたら、そんな歌詞、みじんもなかった。けど、そんな風に思い込んでたのは、ゲームの内容のせいなんでしょうね。ええ、ゲームの内容っていうのは、基本的にそういう感じなのです。

ああ、たまには私もそんな風に高慢ちきな態度でもって、尻を叩かれたいもんですわ。って、これが現実の話なら、多分五分と持たないと思いますけどね。

プレステ

セガ・サターン

以下CD

2005年2月6日日曜日

頑張らない派宣言

 私はがんばるのが嫌いです。ひねくれてるんです。がんばること自体が嫌いなのではなくて、がんばっているということを見せるのが嫌い。どんなにしんどかったり苦しかったりする状況でも、しれっとした顔をし続けたい。なんでもないように見せたいのです。けれどこういうのは損な性分で、世間一般というやつはがんばった顔をしている人間を評価することが多いもんだから、私はどうも評価されにくい — といえば、あまりに自分を買いかぶりすぎてますね。けれど、私はがんばっていますというアピールを好む人がいることも事実。けれど私にはそういうのはどうにも理解できないんです。

だって、わざわざがんばっていますって喧伝するやつって、どこかうさんくさいじゃないですか。だまされてるんですよ。あんた、だまされてるんですってば。

木野評論の第31号は「頑張らない派宣言」を題目に、がんばることが求められた時代から、そういう価値が薄れた現在への移行を特集していまして、面白いタイトルですよ。がんばらないということを最初にいってしまうことで、本当ならあかんことを正当化しようとしているわけです。しかも正当化の理由がちっとも見えてこないから、これはもうモットーの押し付けですね。

けど、がんばらないということは、つまりどこかにがんばることを意識していることであるとは思いませんか。がんばらないという価値に対して、がんばるという価値があることを前提にしている。だから、これは結局は、求められるがんばりに応えることができないといっているだけかと思うのです。わざわざいうわけですから、がんばらないといけないような気持ちがどこかに隠されている。そういう、ちょっとややこしさがあって、がんばることが嫌いな私はやっぱりがんばらないことも嫌いです。

私にはもっとシンプルなほうがいいです。人は、自分の好きなことをしているうちは誤らないっていったのは森巣博だったかなあ。例えば、自分の読んで面白いと思う本は、ずっと集中して読みふけっても、それは楽しいからそうしているわけで、がんばってるわけじゃないんです。ギターを弾くのも、それが楽しくて、上達すると嬉しいからやってるんです。傍から見たら、何時間も同じことをやり続けて、なにが面白いのかと思う。だから、がんばってるなあと思うかも知れないけど、本人は別にがんばってるつもりなんかない。だって、苦痛じゃないもの。確かに疲れるししんどいかも知れないけれど、それがいやじゃないんだもの。

がんばっているという意識があるうちは、どこかに無理があるんだと思う。そういううちは駄目なんじゃないかと思います。

すべての人に、こうやって楽しんでできるなにかがあれば、きっと世の中はもうちょっと生きやすいんじゃないかと思ったんです。生きることはしんどいかも知れないけど、しんどさの反面、同じくらい楽しいことがあればそれでとんとんです。空しさを埋めるための空虚な快楽じゃなくて、自分の手にずしりと感じられる楽しみや喜びがあったら、がんばる気などなくても、乗り越えられることは増えると思います。

生きることに取り組まないといけないだなんて思っている人は、そうした喜びやなにかを見付けられなかった人なんじゃないかと思います。だからがんばって生きようとして、そんでもってがんばりすぎるから、ぽきりと折れてしまうんじゃないでしょうか。

がんばらなくったっていいのに、そんな必要どこにもないのに、なんて思うのは、私がただ恵まれているからなんでしょうか。

  • 『木野評論』第31号 京都:京都精華大学情報館,2000年。

ちょっと蛇足

「頑張らない派宣言」といってるこの本を読むのにがんばらんといかんのは、なんか問題かと思う。それにしても、たった五年で状況は驚くほど様変わりしたんだなと、時間の経つ早さ、ものごとの古びる早さには恐れ入りました。

蛇足その二

木野評論というのは京都精華大の出している雑誌で、どちらかといえば学術系に属するようなものだと思うんですが、そういう感じはあんまりしません。なんだかサブカル系学芸誌といった感じ。けれど開いてみると、やっぱりちょっと臭いね。ぐちぐちと物事をこねまわしたがるような匂いがするから、あわない人にはあわない本かと思います。

2005年2月5日土曜日

五人少女天国行

『五人少女天国行』とはいったいなんぞやといいますと、嫁入り前に死ぬと天国に行けるというお告げを信じて、女の子五人組が実際に首を吊っちゃうという映画なんですね。なんてひどい映画! と思うかも知れませんが、この娘たちにとっては、生きている世界のほうがずっとひどかったんですね。昔の中国農村が舞台となっておりまして、この因習的社会では嫁いだ女はまるで奴隷やなんかのように扱われて、そんなだから娘たちには我慢がならなかったんでしょう。

邦題は『五人少女天国行』と、死ぬことが主題みたいになっていますが、原題は『出嫁女』、嫁いでゆく女たちが主題であるとわかります。ちなみに英題も『Five Girls to be Married』と、結婚にウェイトが置かれていることがわかりますね。

しかし私は邦題で知ったので、ここは『五人少女天国行』で話を進めていきましょう。

ここ数日の話ですが、なんだか日本では自殺がはやっているみたいですね。閉めきった場所 — 室内や車内に練炭を持ち込んで、一酸化炭素中毒を狙うというのが流行の手のようで、今日も、私の知っただけでも、二件ほど集団自殺が見つかっています。

けれど世の中が苦しかったり生きにくかったりしたとしても、なんでそこで慌てて死のうとするんだろうと、ニュースを見て私は暗鬱としました。断っておきますが、私はどちらかといえば自殺する側に近い人間であると自ら思っています。ですが、そうした立場を自覚する私でも、わざわざ死に急ぐことはないではないかと思うのです。

生きていれば、今よりもよい状況を見つけ出せる可能性があります。今はなにも希望を見いだせないとしても、いつか自分にとって大切ななにかを見付けられるかも知れません。いずれにしても、生きるのに疲れたと結論を出すには皆若すぎて、それは命をないがしろにしている、死を冒涜していると私は思ったのです。

私は、ひとつの命は地球より重いだなんて、さらさら思っちゃいませんが、ですがひとり死ぬということは、ひとつ可能性が失われるということです。その可能性がよい方向に向かうか悪くなるかはわかりませんが、少なくとも人ひとりの内に広がる世界がひとつ消えて、それだけ世界は貧しくなると思うのです。

それにしても皮肉なことだと思うのですが、生きたいと思う人が生きられない現実がある一方、過不足なく生きられる人間がわざわざ死のうというのです。いや、死んだ人には死ぬだけの理由があったのでしょう。だから、それについてはとやかくいいません。ですが、いらないといって捨てられる命があるなら、もっと生きたいという人にその命が与えられたらよかった。死に急ぐ人には短い命でよいのです。世界をわずかずつでも豊かにできる人にこそ、長く続く命はふさわしかった。少なくともそうした人は、命を粗末にするのではなく、ひとつの意味あるなにかを目指して、充分に生きようとしたことでしょう。

だからこそ、私は悔やむのです。受容に供給が合わない現実をまざまざ見せられて、私はこの世の不公平を嘆きます。

2005年2月4日金曜日

べたーふれんず

 『べたーふれんず』がついに出版されました。これは『まんがタイムナチュラル』という、実験的かつ短命な隔月誌に連載されていた漫画でして、ですが私、最初のほうは読んでなかったんですね。姉妹誌である『まんがタイムポップ』を買ってましてね、ナチュラルには手を出していなかったんです。いや『まんがタイム』って系列誌が馬鹿みたいに多くって、全部買ってたらあっという間に部屋が雑誌で埋まります。当時は私にもまだ良識というか自制というかがあったので、全誌は買っていなかったんですね。

けれど、今となってはナチュラルも買っておけばよかったって思います。ナチュラルレターという、作家さんが絵端書書くみたいにして近況報告をするページというのがありましてね、その雰囲気がすごくよかったんです。悔やんでも遅いのですが、あの独特の親密さやしっとりした感じを見過ごしたのは失敗であったと思います。

けど、失敗はそれだけじゃなかったんですね。というのはですね、四コマ漫画というのは連載されてるのが全部単行本になるわけじゃなくて、一冊に満たないような量で終わる場合も間々ありまして、だからナチュラルに連載されていた漫画の大半は、単行本になる気配もなくそのまんまにされているのですね。面白いと思った漫画もやっぱりたくさんあったんです。けれどそれを単行本として手に取ることはできず、四コマ漫画というのはそういうもんなのだと諒解しているつもりではあっても、やはり納得いかないというか、切ないというか、そういう感情は拭えないものなのです。

だから『べたーふれんず』が出版される日がこようとは夢にも思っていませんでした。まずは一冊分の量があったことに驚き、初出一覧でナチュラル刊行期間がが四年もあったというのに驚き、こんな風に私にとってこの漫画は、驚きと意外性のタイトルでした。ですがまずは出版されたことが嬉しい。途中からしかナチュラルを読んでいない私には、これが『べたーふれんず』の全貌を知ることができるはじめての機会であるのですから。

この漫画に関しては、以前『ただいま勤務中』で書いたときにも触れましたが、自由な気風が気持ちいいOL二人組が主人公の漫画でして、でも自由な気風はこの二人だけじゃないですね。連載時には把握しきれていなかった二人のOL、そして姐さんも実にさっぱりとすがすがしくって気持ちいいこと。この人の漫画は、陰鬱さがないのがいいです。空がすかーんと開けているみたいな解放感、吹きつける風のすがすがしさがあります。女性たちの闊達さが、マイペースなこずるさや傍若無人をチャームポイントに変えてしまっていて、ええ、あんな女性になら私も振り回されたいですよ。いや、マジで。

辻灯子の持ち味は、関係性にこそあると思います。自然で素朴に見えて、すごく繊細な人間関係のバランスを描いています。その関係におかしみを盛り込んでくるのですから、きっと並の観察力ではないのでしょう。きっと普通の人なら見過ごすような出来事でも、しっかりと捉えて、それを四コマに表現する。華やかな絵に必要最低限の説明、はまる人にはとことんはまるタイプの漫画であると思います。

そしてだ、『べたーふれんず』最終回は、繊細さにダイナミックが加わった伝説の着ぐるみコント! 私はこれを初めて見たときは、朝の通勤の車内で、笑いが止まりませんでした。何度も何度も読んで、笑いをかみ殺すのに必死でしたね!

どこがどう伝説であるかは、ご自身の目で確かめていただきたい。もう、あの一連のシークエンスは、漫画史に残るといっても過言ではないと思いますよ。

  • 辻灯子『べたーふれんず』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。

2005年2月3日木曜日

スーパーメイドちるみさん

 師走冬子はサービス精神が旺盛で、漫画のカバーをはいでみると、その片鱗を見ることができると思います。『スーパーメイドちるみさん』では、作中の小説『火星人と今日子と醤油』の漫画が掲載されているのですが、すごいのはそのゲスト陣。作者の友人知人関係が駆使されて、思い掛けない人の思い掛けない漫画を見ることができるんですよ。一粒で二度おいしいといいますか、ちょっと得した気分というか。いや、それよりも、楽しんで漫画を描いてるんだということが伝わるようで、それがなんだかむやみにうれしかったりします。私は、あんまりにやり過ぎのいちびりは嫌いですが、こういうカバー裏の楽しみは大好きです。

『ちるみさん』第4巻のゲストは倉田ジュリさんでした。私、この人の『おサケの星座』が大好きだったんですね。お酒が好きで、ずっと飲んでる女の子二人組の漫画なんですが、まったくの駄目な人たちで、けれど憎めない味があって、そこがすごい魅力なのです。

鶏のめぐみを愛しちゃってるとりや(なのに焼鳥屋)も、酒が入ると人が変わって温厚になる竹島も、みんなそれぞれに駄目な人たちなんだけど、その駄目さをお互いに理解し合って受け入れているというか、駄目は駄目として、けれどよい部分をきちんとわかっているというか、そういう関係がすごく暖かくてよかった。ギャグの勘所を心得ているというか、漫画も面白くてすごくよかった。

だから、私、この人の漫画、大好きだったんですね。だから、『ちるみさん』の中表紙ゲストとしてこの人の名前を見付けて、すごく嬉しかった。嬉しかったんです。

私は知らなかったのですが、倉田さんは長く患ってらっしゃったのだそうです。『おサケの星座』が隔月連載なのを見ては、こんなに面白い漫画がなんで隔月のゲスト扱いなんだと、ずっと雑誌社の不明を疑っていました。ですが、そうではなく、体調を心配していたための隔月だったのだそうです。

その倉田さんが、先達て旅立たれたとのことです。私にとっては、思い掛けないところでお目にかかり喜んだ矢先の報で、あまりにショックな知らせで、一時は知らないままのほうが良かったとさえ思いましたが、ですが今では知ることができて良かったと思っています。あまりに悲しい事実でありますが、知ることができたおかげで、私は悲しみを感じ、思いを巡らすこともできたのですから。

私はこのことを知らせてくれた人に感謝し、そして先にゆかれた方のご冥福をお祈りしたいと思います。ひとつの才能が失われたことと、才能にあふれた人の旅立たれたことに、哀惜の意を表します。

2005年2月2日水曜日

SHAMROCK

平成を代表する大声優林原めぐみのアルバムです。平成がまだ一桁だった頃、この人の人気は本当にすごくて、アニメを趣味にしている人で林原を知らないという人はいなかったと言い切って不都合ないくらいに人気でした。

人気があるから出演数もすごくて、本当、この人の声はやたらいろいろなアニメ、ゲームで耳にしました。いや、耳にしたというよりも、自分の耳がこの人を追っていたのかも知れない。というのはですね、私は、藤子不二雄の『チンプイ』でこの人はいいなと思うようになりまして、ついにはアルバムまで買うようになっていたんですね。

さて、なんで『SHAMROCK』を取り上げたかといいますと、このアルバムの一曲目が『がんばって!』。そう、一昨日の『がんばれがんばれ』以来、なんでかがんばれソング特集をやっていると、そういうわけなのであります。

さて、この『がんばって!』という曲は、昨日よりもっとがんばってという歌詞が私を打ちのめしたということもありまして、聴かなくなってもうずいぶんになります。多分その頃というのは私が論文書こうとしていたような時期だったと思うんですが、今から思えばその頃の私っていうのはいっぱいいっぱいで余裕がなかったんでしょうね。学者になろうって思っていました。そのためには、たゆまず努力しなければならないって思っていました。そういう思い込みというのが多分負担だったんでしょう。それで、この曲の歌詞に追いつめられたようになって遠ざかってしまったのでした。

けど、本当は好きな歌だったんですよ。がんばろう、がんばりたいという時にこの曲をかけて、気持ちをブーストするんです。いや、本当に効いたんです、効くんですから。ポップな曲調でのりもよくって、気持ちを高めるには本当にいい歌で、大好きでした。

さて、私がこの曲を再び聴くようになったのはなんでかといいますと、いつかiPodを買う日のための準備と思って、手持ちのCDをiTunesに読み込ませたのがきっかけなんですね。林原も入れるかどうか迷ったんですが、というのもこの数年アニメとか声優とかから遠ざかってしまって、もう全然聴かなくなってしまっていたからでして、けれどとにかく入れてみようと思った。そしてそれが正しかったのだと思います。

久しぶりに聴くと、すごくいいんですよ。『がんばって!』もそうですが、このアルバムには結構いい歌が収録されてるんですよ。『がんばって!』から始まって、半分くらいまで好きな曲が続きます。

その性質上、なかなか人には薦めにくいアルバムではありますが、私にとっては間違いなくあたりのアルバムでした。

ところで、このアルバムの初回盤は写真集つき紙ジャケット入りという、なかなかにゴージャスな仕様だったのですが(もちろん、私のは初回盤だ)、なんとその仕様が復刻されるみたいですね。

売れるんでしょうか。けど今あえてこの仕様で出そうということは、欲しいという人がいるということなんでしょうから、やっぱり人気のある人なんですね。この息の長さは、本当にすごいと思います。

引用

  • 有森聡美『がんばって!』 スターチャイルド KICS-345,CD【Shamrock】

2005年2月1日火曜日

関白失脚

 昨日が『がんばれがんばれ』だったので、気を良くして今日も「がんばれがんばれ」で書いてみようと思います。といっても、今日のはタイトルではなくて、歌詞に「がんばれがんばれ」が含まれているもの。そう、さだまさしの名曲『関白失脚』です。

その前に、『関白宣言』はご存じでしょうか? これから結婚しようという女性に、俺は亭主関白でいくからなといってきかせるような歌なんですが、まあ歌ってるのがさだまさしなので、タイトルや歌詞(特に冒頭の)内容から感じられるような、男尊女卑の歌ではありません。むしろ、さみしがり屋なところを強がってみせている、惚れた男の弱みみたいな歌だったりするんですね。

ほいで『関白失脚』です。タイトルをみてもらえばわかると思いますが、これは『関白宣言』に関係していまして、結婚する前は俺についてこいなんてえらそばってみせたけど、今ではすっかり尻に敷かれてしまいましたという、そういうお父さんの哀愁が歌われています。さだ一流のセルフパロディですね。シリアスな風に見せて、あとでそれをコミックにしてしまう。そういえば、もともとはコミカルだったのをあとでシリアスに描きなおしてみせた『雨やどり』というのもありました(私はシリアス版『もうひとつの雨やどり』の方が好みです)。

けれど、やっぱりさだまさしなんですよ。コミカルにみせる歌にこそ、実は深い意味合いを込めようとするような人がさだです。『関白失脚』もまさにそんな感じで、だからこれをただ単にコミックソングみたいに思っていてはいけないんです。哀愁や悲しさ、情けなさを描いてみせて、けれどそうした弱気な態度の向こうに、家族への愛情があふれています。家族の仕合せに自分の幸福をみて、奮起してみせるお父さんの姿があります。そして最後のがんばれの大合唱。この言葉はすべての家族を愛するお父さんに向けられて、そしてその言葉を発するものも共にがんばろうと誓うような、そういう暖かさにあふれています。がんばれ、私もがんばるからという、そういう通い合う心が見えるような歌なのです。

大学の四年の夏前に教育実習に行きまして、私には二度目の実習だったから、なんだかむやみに気楽で、けれどやけっぱちな気持ちもあって、その時たまたまさだにはまっていたんでしょう。放課後の実習生控室で、生徒らが帰ったあとに、この歌を歌っていたんです。そうしたら他の実習生も一緒になりましてね、がんばれがんばれの合唱になって、あの時は本当に面白かった。楽しいなと思いました。

毎日、日誌を書いたり授業計画を立てたり準備しながら、がんばれがんばれ。あれは、そう歌いながら、銘々自分を鼓舞していたんだと思います。そんなわけで、妙に思い出深い歌になってしまいましたとさ。