2008年9月11日木曜日

渚にて — 人類最後の日

 この本を知ったのはいったいいつごろだったっけか。それはおそらく一昨年の初頭あたり。その頃私は某MMOに参加していて、科学、SF方面に強いクラスメイトにいろいろ話を伺うのを楽しみにしていました。ネビル・シュートの『渚にて』、この本が話題に上ったのは、その人にお勧めのSFはありませんかと聞いた時のこと。その時の推薦本はきっとどこかにまとめているはずなんだけど、見付けられない。あるいはまとめていなかったのかなあ。ともあれ、『渚にて』はご存じですか、聞いたのは私からでした。核戦争後の地球、直接の被害をまぬがれたオーストラリアにて、人類は緩慢な滅亡を待つばかりとなった。こうしたプロットを聞かされて興味を持っていたのですね。答えはシンプルでした。名作とのこと。そうか、じゃあいつか読もうと思ったのでした。

本日、読み終えました。もちろん2006年からずっと読んでたわけではないですよ。今年に入って、突然これを読みたくなって、購入。少しずつ、休み休み読んできて、やっと読み終えました。これだけ時間をかけたのは、小さな文字がぎっしりと詰まってちょっとしんどいと思うこともあったから、でも実はそうではなかったのかも知れません。少しでも滅亡の時の近づくことを避けたかったから。ほんとかね? なんかかっこつけてますね。でも、読み終えた時、私はこの人類最後の時をオーストラリアにて過ごそうという人たちに、心の底から同情して、ああ、私はこの人たちが好きだった! そう思って、本当に痛ましい、胸がつぶれそうだ、大変でした。

北半球は核ミサイルの応酬で、とうの昔に壊滅していて、人類は南半球に残るのみ。北半球が壊滅したことで原油の供給が断たれ、石油を使った乗り物は役に立たなくなって、車はもう走らない。人々は街中では電車、郊外では馬車牛車など、めいめい乗り物を調達して、それなりに充実した日常を送っています。それはまるで、滅亡の日の来ることを信じようとしないみたいに、来年を、その先を思って暮らしている。けれど、彼らはいずれ死に絶えます。北半球からじりじりと放射性物質が南下してくる。おおよその目安ももうわかっている。無電によって、北の方の都市が徐々に死んでいく様子を眺めている。けれど、人はそれでも日常を簡単には手放しやしないのだと、自分がこれまで生きてきた、そのスタイルをともに人は最期を迎えようとするのだと、そうした様子がことさらに事態の悲劇性を浮き彫りにしたように思います。

主人公は、オーストラリア海軍の将校、ピーター・ホームズ。もはや数少なくなった航行可能の船、アメリカ海軍の原子力潜水艦スコーピオン号に連絡将校として乗り組み、放射能に汚染される北半球の調査におもむくのですが、しかしこの調査は決してこの物語の中核とはならないのですね。人類の滅亡は回避できないのか、放射能の南下状況はどうなのか、北半球に住む人類は本当に死滅してしまったのか。過度の期待を持つことなく、ピーター、スコーピオン号艦長のドワネル、科学者のジョンらは北半球を巡り、そして帰ってくる。帰ってから、彼らのとった行動。それがこの物語を貫く主軸であるのですね。

陸にはピーターの妻メアリー、メアリーの友人でジョンの従妹であるモイラがあって、彼女らの存在がまた大きかった、特にモイラ、彼女は大きかったです。生きるということを、人類の滅亡するという現実に直面したところから、再び見つめた人。希望のない状況に見出された希望。友情と恋心と、はたされない思いと、そして最期に選んだこと。モイラだけが素晴らしいとはいいません。この物語において語られる人、その一人一人が、自分の生を、いかに死ぬか、どこで、誰と、どのようにして、死ぬか。そして死のぎりぎりの間際まで、どのように過ごすか。自分らしく、悔いのないように、心配は山とあるけれど、それでもいかに生きるか、その行動、選択によって示したと思うのです。放射能がじりじりと迫ってくる、その要した時間が、各人に各人の生とはなにかと問い掛け続けていたのでしょう。

あまりに残酷な物語、けれど実際にこうしたことがあれば、意外に静かに終わっていくのかも知れない。いや、そうだろうか。おそらく死を目前とした不安が、暴動や略奪を呼び起こして、地獄のような状況を生み出すかも知れません。けれど、中にはこうした静けさの中に日常を求めるという人もいるでしょう。そして私は自分もかくありたいと思います。

以前、『終末の過ごし方』というゲームで書いた時、自分ならこうしたいと思ったことをいっていましたね。『終末の過ごし方』では、なぜ人類が滅亡に向かうのか、具体的に説明されることはありませんでした。思い返せば、1999年の終末論がこうした滅亡譚の根っこにはあって、けれどこれらは滅亡をそうしたシチュエーション、ギミックとして扱うばかりであったように思います。ですが、『渚にて』の書かれた時代、1957年当時には、人類滅亡の可能性はある一定のリアリティを持って受け入れられていたのでしょう。そうした重みがこの物語からは感じられて、ゆえにパニックものにもならず、必要以上に悲惨を煽ることも、感傷的になることもなかったのだ、そのように感じています。ある種、具体的に、こうした終わりの時を人類が迎えることになったらばと思って書かれた。そうした実感が、開き直りというか、覚悟を決めたというか、滅亡前夜の雰囲気を決定づけて、そしてあのラストに落ち着かせたのでしょう。

あの教室で出会った懐かしい人。お元気ですか。あなたのおっしゃったとおり、確かに名作でした。私にとってこれは紛れもなく読むべき本であった、そのように感じています。

DVD

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